裁判官の独立
甲斐素直
○○年、農林水産大臣Aは、航空自衛隊の地対空ミサイル基地建設のため、B県C町にある国有保安林の指定を解除した。
これに対して、一部の地域住民が自衛隊の存在は違憲であるということと、保安林を解除されると洪水の危険があることを理由に、保安林解除は違法だとして、解除処分の取消しを求める訴訟を、A県を管轄するD地方裁判所に提起した。D地方裁判所判事Xが事件を担当したが、Xの日頃の言動から見て、自衛隊の憲法適合性に関して積極的に判断を下すのではないか、との見方がD地方裁判所内部でされていた。
これを聞いたD地方裁判所所長Yは、Xに命じて、予定されていた執行停止期日を延期させた上で、その間を利用して「一先輩のアドバイス」と題する詳細な書簡を作成した。その書簡には問題点の指摘や一般論にとどまらず、具体的詳細な理由をつけて訴訟判断の問題点について申立てを却下するよう示唆する内容が記述されていた。Yは、これをXの自宅に届けさせた。
この書簡の憲法上の問題点について論ぜよ。
[はじめに]
これは、わが国戦後の司法の歴史に大激震を走らせることになる平賀書簡事件をほぼそのまま事例問題化したものである。その後の経緯等も含めて、この事件の内容を紹介すると次のとおりである。
(一) 平賀書簡事件
北海道長沼町の自衛隊ナイキ基地問題で、札幌地方裁判所の平賀健太が、問題に述べた書簡を福島重雄判事に送った。これに対し、福島は、昭和44(1969)年9月13日に、札幌地方裁判所に臨時の裁判官会議の開催を求め、この書簡を提出した。会議はこの書簡が「裁判権の行使に不当な影響を与えるおそれがある」として、平賀に対し厳重注意という処分を下した。
また、日本弁護士連合会が昭和44年9月20日に次の談話を発表した。
「平賀札幌地方裁判所長が事件担当裁判官に対し、書簡を交附した今回の事件は、裁判官が良心に従い独立してその職務を行うことに対する不当な介入というべきであり、ひいては司法権独立に対する国民の信頼をおびやかすものとして重大且つ深刻な問題である。
よって、最高裁判所はこの際国民の危惧を一掃するため厳正な態度をもって対処すべきである。」最高裁判所は同じ9月20日に開催された裁判官会議でこの事件を審理し、「節度を超えるもので、裁判の独立と公正について国民の疑惑を招く」として、平賀を注意処分にすると共に、平賀を東京高裁判事に異動させる処置を執った(高裁判事と地裁所長では、地裁所長の方がはるかに上の地位であるから、これは明白な左遷である。)。
(二) 反動勢力の反撃
事件の2週間後に鹿児島地裁・飯守重任所長が、平賀書簡を擁護する立場から、福島裁判長が青年法律家協会(青法協)の会員であることを問題視する所信を発表した。これをきっかけに、与党・自由民主党では、私信の公開こそが問題であるとして、福島を追求しはじめ、青法協は「反体制の左傾団体」であると、一部の保守系政治家やジャーナリストが騒ぎ始めた。
これを受けて、被告・国は翌昭和45(1970)年4月18日、福島重雄を青法協に所属していることを理由に忌避申立てをした。しかし札幌高裁は同年7月10日、「青法協加入は裁判の公正を妨げない」とし、忌避申立てを却下する決定を下した。
また、平賀、福島双方に対する罷免訴追要求が出された。訴追委員会は、10月9日、平賀に関しては、先輩としての助言であり、裁判官弾劾法に言う訴追事由に該当しないとして不訴追の決定をした。他方、福島については私信を公表したことは、弾劾法に言う「職務上の義務に著しく違反」した場合に該当するとしながらも、「裁判干渉の書簡と一応考えるのも無理ではない」として、訴追猶予とした。これを受けて、札幌高裁裁判官会議は、平賀書簡の公表に対し、10月28日、注意処分を下し、最高裁判所もこれを支持した。
他方、鹿児島地方裁判所所長の飯守重任は、45年、平賀書簡を擁護する立場から、所内の裁判官の思想調査を行おうとして、所長を解任されている(飯守裁判官事件)。
(三) 青法協狩り
この事態の中で、裁判所の中では、青法協に所属する200名ほどの裁判官に対して一斉に退会勧告が出された。昭和45年4月8日には、最高裁判所の岸事務総長が「裁判官は政治的色彩を帯びた団体に加入することを慎むべきである」という談話を発表し、4月13日に最高裁判所は、青法協所属の裁判官・宮本康昭判事補を理由告知なしに再任を拒否し、このことは青法協に対する見せしめではないかと疑われた(宮本判事補再任拒否問題)。それ以降に同じような再任拒否事件はおこらなかった。例えば、来週取り上げる寺西判事補は、再任拒否になるのではないかと危惧されたが、無事に判事に任官出来た。ただ、最高裁判所による裁判官の統制は、再任拒否という露骨な方法がなくなっただけで、実質的な統制が強まることになった。任地や給与といった人事を通して青法協に所属していた裁判官を差別した。差別された裁判官たちの間で“しぶしぶと支部から支部へと支部まわり、四分の虫にも五分の魂”という戯れ歌が読まれたりした。
福島重雄に対する人事はその象徴とも言うべきものであった。彼は、昭和48年9月7日に、福島判決の名で知られる自衛隊違憲判決を言い渡す(百選第5版376頁参照)と、その翌年、東京地裁の手形事件担当に異動する。その後、福島家庭裁判所へと転勤になり、平成元年に福井家庭裁判所を定年前に退官した。裁判長として判決を書くことは二度となかった。
以下、司法権の独立という広い視点から裁判官の独立を説明することとしたい。
一 問題の所在
司法権の独立は、二つの視点からとらえる必要がある。
第一のそれは、個々の裁判官がその職務の執行に当たり、他のいかなる権力・勢力からも干渉を受けることなく、独立してその職務の執行に当たるという視点から論じられるものである。これが、本問の中心論点である「裁判官の独立」である。およそ権力の行使は基本的にその担い手である個人に帰着するものであるから、3権のいずれにおいても同質の問題が発生する。立法府の場合には、担い手個人に対する保障は、国会議員の特権という形で議論されることは承知のとおりである。
第二のそれは、統治の機構における権力分立システムの中における位置づけとしてのそれである。すなわち、司法府を立法府及び行政府と並ぶものと位置づけ、司法権の行使に対する他の2権力府からの干渉を排除する、という視点から論じられるものである。これもまた、基本的には他の2権それぞれについて言われる独立性と同質のものである。立法府の場合には議院の自律権という形で議論されることは承知のとおりである。このような権力機構の対外的独立が承認されなければならないのは、その権力の実際の担い手である個人を真に守るには、単に身分保障等だけでは不十分であるため、さらにその個人の属する組織に、自律制を与え、その組織の力によって守るという二重構造を採用していることを意味する。
このような意味においては、司法権の独立は、権力分立制を採用する場合に必然的に随伴する現象であって、決して司法権に特有の問題ではない。ただ、司法府が今日において置かれている特殊な立場、すなわち、第1に、日本国憲法の下に置ける裁判所は、主権者たる国民の基本的人権を擁護するための最後の砦として、違憲審査も含めた権限を持つものとして位置づけられていること、第2に、その重要性にも関わらず、民主的基盤を有していない為、相対的に他の2権に比べて弱い立場にあること、第3に法原理機関として、政治的判断を排除した純粋の法原理の追求を使命としているため、その判断に政治的立場からの批判が生じ易いこと、等の要素があるため、特に論ずる必要が発生するのである。
二 裁判官の独立
裁判官の独立は、職権の独立と身分保障という二つの要素から成立している。職権の独立こそが保障の中核であり、身分保障はそれを制度的に保障するための派生原理と考えられる。
(一) 裁判官の良心
憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定して、職権の独立原則を明らかにしている。ここで問題となるのが「良心」という言葉の意味である。すなわち、現行憲法には今1ヶ所、19条に「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」と言う規定がある。この19条の良心が、各人の主観的良心を意味することには争いがない。
通説は、76条に言う良心は、19条のそれとは異なり、「裁判官が適用する法のうちに客観的に存在する心意・精神、いわゆる『裁判官としての良心』を意味する」ものと解する(清宮『憲法I』[第3版]357頁より引用。以下、「客観的良心説」という。)。これに対して、憲法というものを統一的に理解する立場から、裁判官に、そのような個々人ごとに異なる主観的良心の自由を、裁判の場で保障したと解する有力な異説がある(平野竜一「裁判官の客観的良心」ジュリスト480号等。田中耕太郎最高裁長官も同旨のことを述べている。以下「主観的良心説」という。)。
この説に対して通説は、それを認めるときは、「裁判がまちまちになり、しかも、法を離れて行われる恐れがあるので妥当ではない」(清宮上掲参照)と非難するのが一般的である。しかし、これは異説をきちんと理解しないままにをあえて曲解するものである。すなわち、主観的良心説は、本条に従い、憲法及び法律に拘束されることを前提としての良心を説いているので、この説の場合にも、憲法や法律を無視して自己の良心にしたがうことは当然許されないからである。
換言すれば、両説の相違は、成文法の解釈の基準として主観的良心によることができるか、という問題と、成文法の存在しない領域の問題を解決するに当たって、主観的良心というものを法源とできるかという問題の二つの領域で具体的に現れる。この二つは基本的には同質の問題であり、法学の分野ではふつう「条理の法源性」という形で議論されている。条理とは「歴史的、社会的秩序から導き出される道理ないし筋道(高梨公之『民法総則』7頁)」である。近代国家が成立して中央集権が確立され、自然法思想の強かった時代にあっては、法規範の源泉を国家が独占しようとする傾向が強かった。その結果、当時は慣習法や条理に対する反感が強く、そのようなものは認めないとする法制が一般であった。しかし法の社会規範性が認識されるようになるにつれて、慣習法等が復権し、本文に例示したスイス債務法やわが国の法例のように、慣習法に補完的地位を認めるようになってきた。しかし、近時の思想はさらにいっそう慣習法の地位を重要視し、成文法と対等の効力を認めるようになってきている(我妻栄『新訂民法総則』
18頁を参照。)。そうした思想の現れと本条を読む場合には、この文言はあるべきではない、どころか、法学上まさに積極的な意義を持つものとなるのである。後者に関する成文法としては、わが国では、裁判事務心得(明治8年太政官布告)103条において「民事の裁判に成文の法律なきものは習慣により、習慣なきものは条理を推考して裁判すべし」と定めている。また、有名なスイス債務法第1条は「法律に規定がないときは、裁判官は慣習法に従い、慣習法もないときには、自分が立法者ならば法規として規定したであろうと考えるところに従って裁判するべきである。」と述べている*。すなわち、法規範がない場合に、裁判官は自己の主観的良心に従って裁判してはならないのであって、あるべき客観的法規範と推考されるものに従って裁判しなければならないものとされている。
このように、近代司法にあっては裁判官の主観的良心はいかなる場合にも法源とはならず、法律がない場合には、いくつかの判断可能性の中から、可及的に法の客観的意味ないし社会が法として支えているであろうところのものを探究し、それに従って裁判すべき職責を担っていると言うべきである。成文法の解釈に当たっていくつかの解釈可能性がある場合にも、また同様に解するべきである。
このようなことから、結論的には通説をもって妥当とするべきであろう。しかしこの理解が、通説の解釈と決定的に違うところは、通説が、裁判官は「憲法及び法律にのみ拘束され」るのであって、「『良心に従い』と言う文言に特別の意味はなくなる(清宮上掲参照)」と解するのに対して、この解釈による場合には、本条は条理の法源性を認めた規定として重要な意味を持つことになる点である。
ちなみに、平成5年9月21日の最高裁第3小法廷判決(園部逸夫裁判長)で、大野正夫裁判官は、「死刑を合憲とした昭和23年の最高裁大法廷判決からの45年間に、死刑廃止国の増加や再審無罪など重大な変化が生じ、死刑が違憲と評価される余地は著しく増大した。」として、死刑廃止に向かう国際動向と、世論調査では存続論が多数を占める国民意識が大きく隔たっていることを「好ましくない」として漸進的な死刑廃止方法を提案しつつ、そうした世論の存在に加え、死刑判決に慎重な裁判所の姿勢を上げ、「今日の時点において死刑を違憲と断ずるにはいたらない。制度の存廃や改善は立法府にゆだね、裁判所としては厳格な基準の下に、限定的に死刑を適用するのが適当」とする補足意見を付した。これは憲法解釈における、裁判官の主観的良心と客観的良心の差異を端的に示しつつ、後者を優越させた意見ということができる。
今一つ、通説は看過しているが、本文言が持つ今ひとつの重要な機能として、事実認定に関する制度的保障機能があるものと言わねばならない。すなわち、裁判作用は、事実の認定と認定した事実に対する法律の適用という二つの段階に区分することが出来る。上記の条理の法源性の問題は第2段階の法の適用の問題である。これに対して、第1の段階の事実認定においても本条は機能している。すなわち自由心証主義は現行訴訟法の基本理念とされているが、それはこの良心のみに拘束されるという文言にその根拠が求められる。自由心証主義に対しては、例えば自白については補強証拠がない限り証拠として取り上げることが出来ないなど、憲法や法律によって、最小限度の拘束を制定することは可能である。しかし、全面的に法定証拠主義を導入するなど、この自由心証を否定するような立法は、裁判官がその良心に従うことを実質的に否定するものであって、許されないものというべきである。
このように良心を理解する結果、「独立して職権を行ひ」とは、その職権行使に当たって、精神的内面的独立を心構えとすべきことを示すものであると解することとなる。
なお、裁判所法4条は、上級審判決の下級審に対する拘束力を認めているが、これは審級制度の存在する以上、当然のことで違憲とはならない。また、独占禁止法80条は公正取引委員会の認定した事実が裁判所を拘束することを定めている。これは、明文の規定こそないが、行政事件一般に肯定されることで、素人による事実認定能力の限界を定めたにすぎず、特に違憲と見る必要はない。
(二) 裁判官に対する身分保障
以上のような「裁判官の良心」の不可侵性を守るため、憲法はさまざまな身分保障を定めている。すなわち、以下の規定は何れも裁判官の職権の独立性を守るためのものと理解しなければならない。
1 罷免
裁判官の罷免は、心身の故障により職務不能と裁判で決定された場合、公の弾劾による場合、及び最高裁判所判事の国民審査による場合の三つの場合の他は許されない。
2 報酬
裁判官の経済的側面からの保障として、憲法は報酬受領権と、この報酬が減額されることのないことを保障している。
3 転官等の禁止
憲法には規定がないが、裁判所法48条は裁判官が意に反して転官、転所、または職務の執行の停止を受けることのないことを保障している。
三 司法府の独立
冒頭にも述べたとおり、各権力の行使の独立性を確保するためには、単にその権力を行使する個人を保障するのみでは十分ではないため、個人に対する保障と同時に、その個人の属する組織体に対する独立性の保障という2重の構造を有している。これは個人に対するだけの保障では、最終的にその個人を保護することが困難であると言う歴史的な経験に鑑み、その属する組織に対する保障を通じて、個人に対する保障を確保しようとする目的によるものである。独立性ある組織といえるためには、自主立法権、自主行政権、自主懲戒権及び自主財政権が保障されなければならない。
(一) 自主立法権
司法府における自主立法権は裁判所規則制定権と呼ばれる。司法権の独立の要請から、内部規則の分野に関する限り、憲法が特に法律の権限として除外した分野をのぞき、裁判所規則が法律に優越するものと解される。これについては、前回、詳しく説明したので、ここでは説明を割愛する。
(二) 自主行政権
現在の憲法は裁判所の自主行政権を正面からは承認していない。しかし、下級裁判所判事の任命は最高裁の指名したものの名簿に基づかなければならないこと、裁判官の懲戒は行政機関が行うことはできないとしていることなどから、その権限を推認することができる。裁判所法はこの趣旨を徹底させて、裁判官以外の裁判所職員についても、その任免も含めて(同法64条)、人事はすべて裁判所が行うこととし、人事院の管理に属させない(国家公務員法2条3項13号)。
人事権は、戦前の官僚制度においては官と職に分けて論じられた。すなわち、すべての官僚は勅任官、奏任官等の官に任命され、これを特定の職に付けるという二重の任用方法が取られた。この職に付ける行為を任命と区別して「補職」と言った。しかし、これには何かと弊害があったため、現在の国家公務員においては職階制が導入され(国家公務員法第三章参照。特に第二節。)、官職制は否定された。
裁判官はこの珍しい例外で、現在も官と職の区別がある(裁判所法47条)。これは、前節で述べたとおり、裁判官個人に対して身分保障がある結果、その保障の及ぶ範囲を官とし、裁判所による人事権の及ぶ範囲を職として区別する必要があったためである。この結果、司法行政に属する職(たとえば地方裁判所長、高裁事務局長等)は、裁判所は自由に任免することができる。冒頭に説明したように、平賀地裁所長を東京高裁に左遷したり、飯盛鹿児島地裁所長を解職したりしたのは、この補職権限の発動である。しかし、その場合でも裁判官としての身分を奪うことはできない。
(三) 自主司法権
自主司法権は、懲戒権の発動という形式をとる。裁判官の懲戒は行政機関が行うことはできない。ここにいう行政機関というのは、権力分立における行政府を意味するものと解されるが、司法行政機関も含まれると解する余地があることから、問題になる可能性を避けたのであろう、現行裁判所法
49条は懲戒も裁判によることを要求している。しかし、裁判形式を取ろうとも、それが実質的に司法行政に属する活動であることに代わりはない。また、先に述べたとおり、裁判官の罷免自由がわずか3つに憲法上限定され、そこには懲戒免職という処分が含まれていないことから、法律によってそのような制度を新設することもまた許されないものと考えられる。 詳しくは、来週の寺西判事補事件で説明する。
(四) 自主財政権
憲法83条の定める国会中心財政主義により、個々の権力機構に対して完全な自主財政権は与えられない。しかし、83条は国会に対して財政権の一元的行使を保障したにとどまり、内閣に予算編成権力を与えたものではないので、国会がその法律により憲法上の機関に関して内閣の予算編成機能を制限することは可能である。財政法は、19条以下において、裁判所に関するいわゆる二重予算制度を認めて、内閣に対する裁判所の自主財政権を保障している。
四 司法権の独立の濫用とその防止制度
裁判所は、上記のとおり、強力な独立性が保障されているが、その結果、裁判所が暴走し、国民の利益に反する行動をとるようになる危険を無視することはできない。例えば、米国において、大恐慌により危機的状況にある一般国民を救済するためにルーズベルトが採用したニューディール政策に対して、当時の米国連邦最高裁判所が次々と違憲判決を下して、それを崩壊の危機に追い込んだことはその端的な例である。
議院の場合には、そうした危険性は、それが比較的短い任期を持ち、特に衆議院の場合には解散制度が存在することにより、常に強力な民主的コントロールに服することにより解消されているので、制度そのものの中に限界を組み込んでおく必要はない。これに対して、裁判所の場合の問題は、それに対する民主的コントロールを明確に制度の中に組み込んでおかない限り、職業としての裁判官が定年まで在職することになり、一切の歯止めがないことにある。
そこで、現行制度は次のような民主的コントロール制度を用意している。
(一) 最高裁判所に関する民主的統制
1 任命
最高裁判所の判事については、長官は内閣の指名により天皇が、その他の判事は内閣がそれぞれ任命する。その場合、少なくとも憲法的制度のレベルにおいては、裁判所はその名簿その他により、候補者を特定することが出来ない。すなわち、誰を最高裁判事にし、誰を長官にするかについては、完全に内閣の裁量に属する。これにより、個々の裁判活動については、内閣は干渉することを許されないが、長期的にみれば、内閣と思想傾向を同じくする判事を最高裁に送り込むことにより、その判決傾向を民主的なコントロールの下におくことが可能になるのである。
わが国の場合、
55年体制*1の下、長期にわたって政権交代が起こらなかった。このため、最高裁判事は自民党政権が送り込み続けたため、最高裁判所がその党派色に大きく染まってしまうという問題が発生した。2 国民審査
最高裁判事に関する今一つの強力な民主的統制手段は、最高裁判事に関する国民審査である。公務員を選定し罷免することは日本国民の基本的な権利であり、裁判官もその例外となるものではない。しかし、個々の判事のレベルにおける罷免権の行使は身分の保障が存在しているため、法律のレベルで導入することは出来ない。国民審査は、まさにこの身分保障の例外として憲法自身が定めた一種のリコール制度である。これにより、国民はそれと思想傾向を異にする判事を排除することが可能となり、長期的にみれば判決傾向を民主的コントロールにおくことが出来るのである。
3 定年
憲法は最高裁判所判事に対しても定年を予定している。これはわが国通念としては異とするに足らないが、わが国最高裁制度の母法というべきアメリカの連邦最高裁判所判事が終身官である点と比べると明らかに身分保障性が低いものとなっている。すなわち定年の存在することにより、最高裁判事の新陳代謝が強制的に確保され、内閣の指名権行使の機会が増加する効果をもたらすこととなる。
(二) 下級裁判所に関する民主的統制
憲法は下級裁判所についても二つの民主的統制手段を用意している。すなわち、
1 任命
下級裁判所判事の任命もまた、最高裁判事の場合と同様に内閣が行うこととされている。ただし、この場合には最高裁に名簿作成権が憲法上保障されることにより、司法府としての一体性を確保する権限が認められている。制度の趣旨に照らし、内閣には実体的な任命権が存在するものと考えられる。すなわち、内閣は何等特段の理由をあげることなく、名簿掲載の判事の任命を拒否し、新たな名簿の提出を要求することが出来る。ただし、憲法自身が最高裁に名簿作成権を保障した趣旨に鑑み、内閣には、最高裁の名簿を可能な限り尊重する責務が存在している。過去においては、最高裁側は内閣の任命権を尊重して、名簿に任命を予定している者に加えて1名の補欠を登載することとし、他方、内閣は最高裁の名簿作成権を尊重して、本来の候補者をそのまま任命する慣行となっているという。
冒頭に述べた青法協狩りが起きた背景には、青法協会員を要職に配した名簿を内閣に提出した場合には、内閣が任命拒否をするおそれがあり、それによって最高裁判所の指名権が侵害されると、司法権の独立が脅かされるという危惧を最高裁幹部が持ったことがあるといわれる。
2 任期
下級裁判所判事の任期は10年とし、再任されることが出来る。先に述べたとおり、議院の場合には、4年ないし6年という比較的短い任期の存在が強力な議院の独立性の根拠であった。裁判所の場合も、それに準じて10年という、裁判官の任期としては比較的短い期間を定めて、その都度上記内閣の新たな任命行為を経ることを必要とすることにより、民主的統制の徹底を計ったのである。
しかし、制度設立の際に予定されていた法曹一元的な運営は行われず、裁判所法は職業裁判官制度を導入した。こうした現実の法制及び運営を前提とする限り、制度の当初に想定されていた名簿登載ないし任命行為の自由裁量を承認することは、裁判官の身分保障を空洞化し、独立性の侵害につながることとなる。したがって、今日の制度の下においては、再任は所定の排除事由に該当しない限り、内閣として行う義務があるとする羈束裁量説を採用せざるを得ないであろう。その場合、免官、罷免、欠格事由が存在する場合に再任拒否できるのは当然であり、それ以外に、著しく成績が悪いものや弾劾事由に該当すると考えられる場合も含まれるであろう。なお、身分継続説は、定期に民主的統制に含ませるという制度の趣旨に余りにも反し、妥当なものとはいえないと考える。
(三) 裁判官一般に対する民主的統制
最高裁であると下級裁判所であるとを問わず用意されている民主的統制手段としては、公の弾劾制度がある。我が憲法はそれを国民の代表者により組織される国会の権限とすることにより、民主的統制の意義を明らかにしている。福島、平賀両裁判官に対する訴追は、その発動である。
五 司法権独立の侵害可能性
上記のように、様々な民主的統制の必要を肯定する場合、それら民主的統制手段が即、司法権の独立の侵害につながる可能性を無視することはできない。それは最終的には個々の場合における世論の認識に係ってくることになる。ここが本問の中心論点となる。
(一) 行政府
行政府からの独立という観点から見た場合、現行制度にある一番大きな手段は、行政裁判権の存在である。このために、裁判所は法律問題である限り自由な判断を下すことが可能となっている。
(二) 立法府
立法府との関係でもっとも重大なのは、浦和充子事件にみられる国政調査権の行使と、吹田黙祷事件に見られるような裁判官訴追委員会の活動である。いずれも国会の本来の活動の限界ないしは裁判に対する民主的コントロールの限界と密接にかかわる問題である。
(三) 司法行政機関
司法府外部勢力からの独立を確保するために、古くは大津事件に見られるように、司法行政そのものが裁判官の独立を侵害する危険を往々にして秘めている。平賀書簡事件は、まさにその危険の具体化であった。
しかし、本問にある通り、司法権の独立とは、個々の裁判官の独立を意味することは憲法的に明記されている。その故に、福島裁判官も書簡を受け取ると、完全としてそれに抗議することができたのである。
また、現行裁判所法は、司法行政の主体を個々の裁判所内部における裁判官会議とすることにより、最高裁主導の一元行政による危険を可及的に減少させていることは、注目されるべきである。
平賀書簡事件の場合にも、裁判所所長を議長とする札幌地裁裁判官会議で、平賀所長に対する厳重注意という処分が決まったことは、この裁判官会議制度が健全に機能していることを示している。
(四) 社会勢力
社会的関心を呼んだすべての裁判において、それに関わりを持つ各種社会勢力が、裁判に一定の影響を与えることを目指して、言論、出版、集会等の諸方法により、自らの主張を表明することが行われる。これらは、自由主義の健全な表明と人民裁判、新聞裁判などによる人権の侵害の境界線上にある現象であり、司法権の民主的統制とも関連して、もっとも解決の困難な問題である。
中国では、マスコミの激しい批判にさらされると、裁判所がそれに迎合し、法律を無視した厳しい処罰が下されたりして問題となっている(魏暁陽・伝媒大学副教授の報告)。