法律と条例

―徳島市公安条例事件―

甲斐素直

問題

A市において、住民運動を展開していたXは、その運動の一環として、市の繁華街を縦貫する道路においてデモ行進を行うことを計画した。A市には公安条例が存在し、それに依ればデモ行進をするためには事前にA市公安委員会にデモ行進の届出をする必要があったので、所定の届出を行った。Xのデモ行進に対してA市公安委員会は、A市公安条例33号の「交通秩序を維持すること」に基づき、『蛇行進をするなど交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと』の条件を付して届出を受理した。

しかし、Xは、A市繁華街を通行中に集団行進者に蛇行進をするよう指示し、かつ自ら先頭列外付近に位置して所携の笛を吹きあるいは両手を上げて前後に振り、集団行進者に蛇行進をさせるよう刺激を与え、もって集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするよう扇動し、交通に大混乱を引き起こしたため、A市公安条例33号に違反したとして起訴された。

これに対し、Xは、道路交通法77条は、表現の自由として憲法21条に保障されている集団行進等の集団行動をも含めて規制の対象としていると解され、集団行動についても道路交通法771項四号に該当するものとして都道府県公安委員会が定めた場合には、同条三項により所轄警察署長が道路使用許可条件を付しうるものとされている。憲法94条によれば、条例は「法令に違反しない限りにおいて」、すなわち国の法令と競合しない限度で制定しうるものであつて、もし条例が法令に違反するときは、その形式的効力がないのであるから、本条例は道路交通法773項の道路使用許可条件の対象とされるものを除く行為を対象とするものでなければならないところ、同条例の定めは明白に同法と重複しているので無効であり、したがって、公安条例違反の点については無実であると主張した。

Xの主張の憲法上の当否について論ぜよ。

参照条文

道路交通法77条

1 次の各号のいずれかに該当する者は、それぞれ当該各号に掲げる行為について当該行為に係る場所を管轄する警察署長(以下この節において「所轄警察署長」という。)の許可(当該行為に係る場所が同一の公安委員会の管理に属する二以上の警察署長の管轄にわたるときは、そのいずれかの所轄警察署長の許可。以下この節において同じ。)を受けなければならない。

一  道路において工事若しくは作業をしようとする者又は当該工事若しくは作業の請負人

二  道路に石碑、銅像、広告板、アーチその他これらに類する工作物を設けようとする者

三  場所を移動しないで、道路に露店、屋台店その他これらに類する店を出そうとする者

四  前各号に掲げるもののほか、道路において祭礼行事をし、又はロケーシヨンをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法により道路を使用する行為又は道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしようとする者

2  前項の許可の申請があつた場合において、当該申請に係る行為が次の各号のいずれかに該当するときは、所轄警察署長は、許可をしなければならない。

一  当該申請に係る行為が現に交通の妨害となるおそれがないと認められるとき。

二  当該申請に係る行為が許可に付された条件に従つて行なわれることにより交通の妨害となるおそれがなくなると認められるとき。

三  当該申請に係る行為が現に交通の妨害となるおそれはあるが公益上又は社会の慣習上やむを得ないものであると認められるとき。

3  第一項の規定による許可をする場合において、必要があると認めるときは、所轄警察署長は、当該許可に係る行為が前項第一号に該当する場合を除き、当該許可に道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要な条件を付することができる。(以下略)

A市集団行進及び集団示威運動に関する条例

(届出の事由)

第1条 道路その他公共の場所で,集団行進を行うとするとき,又場所の如何を問わず集団示威運動を行うとするときは,A市公安委員会(以下「公安委員会」という。)に届出でなければならない。但し,次の各号に該当する場合はこの限りでない。

(1) 学生,生徒その他の遠足,修学旅行,体育競技

(2) 通常の冠婚葬祭等の慣例による行事

(届出の手続)

第2条 前条の規定による届出は,主催する個人又は団体の代表者(以下「主催者」という。)から,集団行進又は集団示威運動を行う日時の,24時間前までに次の事項を記載した届出書2通をA市警察署長を経由して公安委員会宛提出しなければならない。

(1) 主催者の住所,氏名,年令但し主催者が団体であるときは,その名称及び事務所々在地ならびに代表者の住所,氏名,年齢

(2) 前号の主催者が市外に居住するときは,市内の連絡責任者の住所,氏名,年齢

(3) 集団行進又は集団示威運動の日時

(4) 集団行進又は集団示威運動の進路,場所及びその略図

(5) 集団予定団体名及びその代表者の住所,氏名,年齢

(6) 参加予定人員(団体参加の場合はその内訳)

(7) 集団行進又は集団示威運動の目的及び名称

(遵守事項)

第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は,集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち,公共の安寧を保持するため,次の事項を守らなければならない。

(1) 官公署の事務の妨害とならないこと。

(2) 刃物棍棒その他人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと。

(3) 交通秩序を維持すること。

(4) 夜間の静穏を害しないこと。

(違反に対する措置)

第4条 A市警察長は,第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定により届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の参加者に対して,公共の秩序を保持するため,警告を発しその行為を制止し,その他違反行為を是正するにつき必要な限度において,所要の措置をとることができる。

(罰則)

第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者,指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。



[問題の所在]

 本問は、徳島市公安条例事件をベースにしたものである。

 本問とよく似た問題として、裁判所事務官試験で、平成18年に次の問題が出された。

  地方公共団体の条例制定権とその範囲及び限界について論ぜよ

 もしかすると、諸君には、本問よりもこの試験問題の方が易しそうに見えるかもしれない。しかし、事実は逆で本問の方が桁違いに易しい。仮に私自身が裁判所事務官試験の受験者だった場合を想定すると、おそらく時間内に正答を書くのは不可能である。より正確に言えば、この問題に対する論点を指摘するだけで、与えられた回答時間と紙幅は使い果たしてしまうであろう。この問題に対する解答をまじめに書くと、最低限でも2030頁、悪くすると100頁くらいになりかねない。これは、それほどに論点の多い問題である。受験者にはあまり論点を知らないだろうという想定と考えて、始めて成り立つ問題である。

 本問は、それに対し、大幅に論点を絞り込み、かつ何が論点かを可能な限り易しくした問題である。その論点を絞り込む手段として、いろいろなことを書いているので、問題が長くなっているだけである。

 さて、地方自治に関する論文は、基本的な書き方さえ知っていれば常に易しい。なぜなら、論文全体の半分くらいは、どんな問題の場合でも全く同じことを書けばよいからである。残り半分だけが、論文によって異なってくるが、前半で路線が確立しているから、その路線の上を走っていけばよい、ということになる。逆に言うと、必ず書かねばならない前半をきちんと書かなければ、地方自治に関する問題は自動的に落第答案になる。その意味で、地方自治は、その基礎となる前半の正確な理解が全てである。このことは、前にも強調したことがあるのだが、意外に守りにくいらしく、今回も提出された論文は、前半の段階で全滅状態となった。

 その、どれでも同じ前半とは、憲法92条にいう「地方自治の本旨」に関する議論である。それを書き終えた後で、初めて個別の問題特有の論点が現れてくるのである。

 何故そうなるかを簡単に説明しよう。

 地方自治というのは簡単にイメージすると、地方団体が国家に類する独立した主権を持っているということである。しかし、主権という概念が存在する前提をとる(憲法1条参照)限り、主権の「唯一、絶対、不可分」という性質もまた肯定せざるを得ない。その結果、地方団体が、その固有の権能として地方自治権(地方自治体の主権)を持っているという事はできない。したがって、地方自治権は、国家主権から伝来したと考える外はない。ここまでは、わが国憲法学界における地方自治権に関する学説は全て同一である。

 しかし、地方自治保障の憲法的性質をどのように構築するか、という段階になると、大別するならば、①狭義の伝来説、②制度的保障説及び③新固有権説(伝来説の枠内で可能限り、固有権説設的な結論を導こうと努力する学説の総称)という激しい対立が存在する。この対立は極めて根本的なもので、どの説を採るかにより、地方自治に関するあらゆる問題において、答えに至るまでの論理の流れが違ってくるし、多くの場合に結論も異なってくる。そこで、最初の論点は、どうしても地方自治に関してどの説を採るか、という議論にならざるを得ないのである。

 しかも、これは学説的対立に留まらず、実務における対立でもある。初期の地方自治法は、狭義の伝来説に従って制定されていた。当然、初期の最高裁判例も、すべて完全な狭義の伝来説であった。しかし、制度的保障説が昭和30年代になって生まれ、学説の主流が制度的保障説に転換するに従って、最高裁判例も変遷を起こす。本問のベースとなった徳島市公安条例事件の最高裁大法廷判決は昭和50910日のもので、まさにそうした依拠学説の変換点に位置している。そして、地方自治法も平成11年の大改正で、明確に制度的保障説に基づくものに変わった。憲法判例百選に載っている判例は、全てが現時点で有効なものではなく、その歴史的意義の重要性から載っているものも多いのだが、地方自治に関する判例は、このような根拠学説の激しい変動から、特にそういう傾向がある。今回提出された答案に、昭和2030年代の最高裁判所判例に依拠したのではないかと思われる記述があったが、それと制度的保障説をつなげて議論すれば、自動的に落第答案となるのは当然である。

 以下の説明では、新固有権説については除外し、狭義の伝来説との対比において、制度的保障説を説明していくこととする。新固有権説は多岐にわたるので、一々対比して説明すると、レジュメが膨大なものとなるし、制度的保障説をきちんと論証していけば、自動的に新固有権説との差別化にもなるからである。



一 狭義の伝来説と制度的保障説の違い

(一) 問題の所在

 条例制定権に関する全ての議論の根底は、形式面では、地方公共団体が条例制定権を有する根拠を憲法92条で読むか、あるいは94条で読むか、にある。すなわち、狭義の伝来説をとる場合には、地方公共団体の条例制定権は94条に基づいて生ずると考える。これに対して、制度的保障説をとる場合には、92条の「地方自治の本旨」の中に条例制定権は含まれており、94条の条例云々という規定は、それに制限を課しているだと考えることになる。このように、どちらをとるかで、法律と条例の関係がまったく別のものと理解されることになる。本問の第一の論点が必ず地方自治の本旨だ、というのはそれが理由である。本問のXは、94条説(条例制定権の根拠は94条にあると解する説)に立って、自らの無罪を主張したのである。

 しかし、諸君は、かなり勉強している人でも、本問のような問題を見ると(何しろ問題文に明確にXの主張として、条例が94条違反と書いてあるものだから)、つい条例制定権の根拠は憲法94条である、と無造作に書いてしまう。しかし、その瞬間に諸君は、地方自治に関し狭義の伝来説を採ったことになる。したがって、それ以降に(諸君の基本書に従って制度的保障説的に)書いている記述と論理的矛盾が生じ、落第答案と評価されることになる。

 このことが諸君にわかりにくい理由は、おそらく94条説をとったときには、どのような結論になるのかを諸君がよく知らないためであろう。そこで、以下では、教科書に書かれている92条説に先行して、94条説の展開を見た上で、それとの対比において92条説を説明する。もちろん、諸君の実際の論文は、これから行うような総花式の書き方ではなく、自分の基本書のとる地方自治の本旨に対応して書かれなければならない。


(二) 狭義の伝来説における条例制定権

  そもそも狭義の伝来説に立つ場合には、何が自治権を保障されている地方公共団体かということも、法律で自由に決められる。その典型的な主張を、東京都特別区長公選制廃止問題判決に見てみよう。

「右の地方公共団体といい得るためには、単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもつているという社会的基盤が存在し、沿革的にみても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を附与された地域団体であることを必要とするものというべきである。」(最高裁判所大法廷昭和38327日判決=百選第5458頁参照)

 東京都特別区の場合、法律が明確に特別地方公共団体になるとしているから、それを絞り込む手段として、いろいろ余計なことをいっているが、基本的には、第1行目で述べているとおり、法律が地方公共団体と定めているかどうかで決まると述べていることが判ると思う。したがって、ある地方団体を法律で地方公共団体ではないとすることも自由にできるという理屈になる。

 何が地方公共団体かを法律で決められるくらいだから、その権限も法律で自由に決められる。その一環として条例制定権を持っているかどうかも、92条の段階では、判らない。

 憲法41条は実質的意味の立法を国会が独占すると宣言している。他方、94条は条例制定権は法律の範囲内でしか認められないと宣言している。だから、地方公共団体に条例制定権を与える憲法上の義務は存在するが、どの限度の条例制定権を与えるかは、この説の場合には、国会の採用する立法政策によって決まると考えることになる。

 

94条説の代表的な主張は次の様に述べる。
「法律が一定の団体に対して自治権を付与すれば、当該団体は、その自治権の範囲内で存立を維持し活動をするために必要な組織・運営に関する内部的な規律を一般的な規範の形式で定めることは出来るであろうが、その構成員である一般人民に新たな義務を課し、その権利・自由を制限する実質的な意味での法規を定立するには、そのための特別の授権を必要とするものと解すべきであろう

(成田頼明「法律と条例」有斐閣『憲法講座4199頁)

 例えば、憲法736号は、内閣に政令制定権を認めているが、それは決して内閣の政令制定権が41条の国会中心立法主義の例外となるという意味を持つものではない。したがって、政令制定権は、法律の委任又は執行目的に限定されている。それとまったく同じように、地方自治体の条例制定権も、法律で自由にその範囲を決められると言うことは、決して41条の例外を定めたものではないと理解すべきことになる。その結果、地方自治体は、条例を制定するにあたり、根拠となる法律に個別に委任規定があるか、ないしは法律執行の目的を有する必要がある、という結論が導かれる。上記引用文の「特別の授権を必要」とはその事を言っている。

 これは、今日でも、住民自治理念の母国イギリスでは学説・実務を支配する考え方であって、限界法理(the principle of ultra vires)と呼ばれている。あるいは、わが国現行憲法制定時に強い影響を与えたアメリカの多数の州で採用されている考え方で、ディロン・ルール(Dillon's Rule)という(このことを判決中で明言したディロン判事の名に由来する)。だからこそ、わが国でも現行憲法の初期においては、狭義の伝来説が疑う余地無き通説であり、実務だったのである。

 この立場による典型的な主張を最高裁判所大阪売春防止条例判決にみることができる。

「(上告)論旨は、右地方自治法141項、5項が法令に特別の定があるものを除く外、その条例中に条例違反者に対し前示の如き刑を科する旨の規定を設けることができるとしたのはその授権の範囲が不特定かつ抽象的で具体的に特定されていない結果一般に条例でいかなる事項についても罰則を付することが可能となり罪刑法定主義を定めた憲法31条に違反する、と主張する。
 しかし、憲法31条はかならずしも刑罰がすべて法律そのもので定められなければならないとするものでなく、法律の授権によつてそれ以下の法令によつて定めることもできると解すべきで、このことは憲法736号但書によつても明らかである。ただ、法律の授権が不特定な一般的の白紙委任的なものであつてはならないことは、いうまでもない。ところで、地方自治法2条に規定された事項のうちで、本件に関係のあるのは37号及び1号に挙げられた事項であるが、これらの事項は相当に具体的な内容のものであるし、同法145項による罰則の範囲も限定されている。しかも、条例は、法律以下の法令といつても、上述のように、公選の議員をもつて組織する地方公共団体の議会の議決を経て制定される自治立法であつて、行政府の制定する命令等とは性質を異にし、むしろ国民の公選した議員をもつて組織する国会の議決を経て制定される法律に類するものであるから、条例によつて刑罰を定める場合には、法律の授権が相当な程度に具体的であり、限定されておればたりると解するのが正当である。そうしてみれば、地方自治法237号及び1号のように相当に具体的な内容の事項につき、同法145項のように限定された刑罰の範囲内において、条例をもつて罰則を定めることができるとしたのは、憲法31条の意味において法律の定める手続によつて刑罰を科するものということができるのであつて、所論のように同条に違反するとはいえない。従つて地方自治法145項に基づく本件条例の右条項も憲法同条に違反するものということができない。」

最高裁大法廷判決昭和37530日=百選[第5版]488

 補足して説明すると、ここで言っている地方自治法23項というのは、現行のものではなく、平成11年の大改正よりも前のものである。当時は、22項に地方公共団体の事務の概念的な規定があり、それを受けてこの3項では「前項の事務を例示すると概ね次の通りである。」とあって、1号~22号まで、詳細に自治体事務が列挙されていたのである。しかし、この各号の規定が非常に多数である上、少々漠然としていることは認めざるを得ない。いくら個々的に書かれていても、このようにきわめて多数が書かれた結果、考えられるあらゆる場合が網羅されていれば、それは白紙委任に等しいといわざるを得ない。そこを補うために条例の自主法であることを述べているのである。いわば合わせ技とでもいおうか。しかし、この判決のポイントが「法律の授権によつてそれ以下の法令によつて定めることもできると解すべき」であるとし、じょうれいがその下位法に属するとしている点にあることは疑う余地がない。

 なお、現行地方自治法では、地域事務と法定受託事務という包括的かつ抽象的な表現が採られ、かつての詳細な列挙は全文削除された。したがって、この説は、今日では実定法上の基礎を失ってしまった、ということができる。

 諸君の論文を読むと、基本的に制度的保障説を採用していながら、条例制定権の説明になると、この判決の文章の一部を無造作に引用し、あるいは「判例同旨」としている人がよくいる。しかし、この判決は、このように狭義の伝来説、さらにその中でも個別委任必要説を前提にしているものなので、うっかり引用すると、論旨が逆転しかねないことに注意する必要がある。つまり、今、諸君がこの判決にしたがって論文を書くと、現行地方自治法には委任規定が欠落しており、違憲である、と書かねばならない。

(三) 制度的保障説

 これに対して、制度的保障説を採った場合には、どのような論理の流れから、どのような結論が導かれるかを、以下で見てみよう。

 制度的保障説は、特に憲法編入した以上、実質的に憲法編入した意義を失わせるような内容の法律の改正は、禁ずる効果が憲法にあると考えるべきである、というところから議論をスタートさせる。すなわち、国会に地方自治を実効性あらしめるような制度を作る義務を課したと考えないと、憲法編入した意義が失われてしまうことになる。それを、法律で定めるという条文と整合させるために、人権論における法律の留保で主張されていた「制度的保障」という概念を利用する。人権論においては、法律の留保文言がある場合、その人権規定は人権そのものを保障したのではなく、人権を保障するような制度を保障した、と理解する。そして、制度の中核となる概念を憲法が保障し、その中核を侵害するような法律は違憲・無効になると考える。それと同じように、わが憲法が地方自治を保障した以上、地方自治という制度の中核になる概念を侵害するような立法は許されない、とかが得るのである。

 このように理解する場合には、狭義の伝来説による場合には無視されていた「地方自治の本旨」という言葉が重要性を持つ。制度的保障説の特徴である、法律によっても侵害することのできない制度の中核概念を、この言葉が示していると考えるわけである。

 しかし、この言葉自体は、それ以上の情報はもっていない。そこで、この言葉の概念内容は、現行憲法は、なぜ地方自治を憲法編入したのか、という理由に求めなければならない。そして、憲法編入した中心的な理由は、どの教科書にも書いてあるとおり、中央集権体制が本質的に有している全体主義からの攻撃に対するもろさである。したがって、地方に対する中央政府からの干渉の禁止あるいは制限が、この中核概念を構成するはずである。今述べたことを、地方の側から表現すると、地域団体は、中央政府の干渉を受けることなく、自らの意思を決定し、活動できることを意味する。これを「団体自治」という。

 また、団体内部の意思決定にあたっては、わが国憲法の採用する民主主義原理に従い、団体構成員(これを憲法は「住民」と呼んでいる)の意思によって決せられるべきである。これを「住民自治」という。

 従来の憲法教科書には、この二つだけが地方自治の中核概念として論じられていた。しかし、平成11年の地方自治法の大改正時に、補完(補充)性原理(Subsidiaritätsprinzip)が正式に地方自治制度に導入された。

 地方自治法では、昔も今も普通地方公共団体を、市町村と都道府県の二層構造を持つものとしてしている。ただ、昔の地方自治法は、両者の権限関係について明確ではなかった。これに対し、現行法は次のように定めている。

 第一に、市町村は、「基礎的な地方公共団体」なので、自ら処理するのが適当なものは、原則として、何でも行うことができる(地方自治法23項)。

 第二に、都道府県は「市町村を包括する広域的な地方公共団体」なので、その権限は、「広域にわたるもの」とか、「市町村の連絡調整にあたるもの」に代表される、規模や性質から市町村が処理するのに適当ではないものだけが権限内容となる。このように、都道府県の活動は、市町村を補う性格を持っている(だから補完性原理という。)。

 この結果、都道府県が条例で定めた事項は、同じ都道府県の中で、統一的に取り扱う方が妥当な事項、換言すれば各市町村がバラバラに条例で定めるのには適さない事項に限られる。したがって、都道府県の条例と、市町村の条例が抵触すれば、都道府県の条例の方が優越し、その限度で市町村の条例は無効になる(同216項なお書き参照)。

 これらの規定の基礎にある補完性原理が、近時は憲法レベルでの地方自治の本旨に関する第3の中核概念として近時、考えられるようになっている。いま、仮に上記団体自治及び住民自治だけが中核概念だとすると、国会は法律で、団体自治及び住民自治を侵害することなく、地方自治体の権限を限りなくゼロに近づけることにより、実質的に地方公共団体から自治権を奪うことが可能になる。どう考えてもこれはおかしいので、権限に関する第3の中核概念が必要なことは明らかである。

 実を言うと、この補完性原理は、新固有権説に属する学説の一つで基本権説と呼ばれる学説(例えば手島孝)の主張内容だった。ごくかいつまんで説明すると、こうなる。

 わが憲法の根本原理である個人主義を、行政という領域に投影すると、我々個々人は、国家に対し、よりよい行政を行うことを要求する権利があるといえる。そして、より身近な自治体ほど、個々人のニーヅに適合した、よりきめ細かい行政を行うことが期待できるから、我々国民は、身近な行政(つまり地域に関する事務)は原則として、すべてもっとも身近な自治体である市町村によって行うことを要求できる。例えば、家の前の排水溝が溢れて困る、というときには、市町村役場に文句を言って補修させるのがもっとも迅速、確実である。こうした問題を一々東京まで行って、霞ヶ関の中央官庁に文句を言うのでは、いつ排水溝を修理してもらえるか、見当も付かないことになる。

 もし、市町村では対応しきれない広域的な事務等は、より広域の地方公共団体である都道府県に任せる方がよい。例えば家の前の排水溝が溢れる原因が、その排水溝事態にあるのではなく、都道府県を貫流する河川に問題があるためだったら、その市町村内だけの河川工事では対応できるわけがない。そこでより広域団体である都道府県にその問題の解決を委ねるのが合理的である。

 このように、現行地方自治法では、明確に補完性原理を採用している。補完性原理を考えない場合には、市町村と都道府県という二層型地方自治における業務分担をきちんと説明できないのである。

 この補完性原理を、単に市町村と都道府県相互間だけでなく、国と地方公共団体の関係について認める場合には、国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている、という結論を引き出すことができる。

 このように、補完性原理は本来新固有権説の主張内容であるが、しかし、近時、地方自治を強化する方向から、これを制度的保障説に取り込む方向に地方自治法学の学説・実務が動いたわけである。その結果、団体自治、住民自治に続く第三の基本原理として捉えるべきことになる。

 本問では、住民自治は議論の対象にならないので、触れなくとも構わない。論文の前半は、団体自治から導かれる条例制定権と、94条の制限の関係が中心論点である。後半では、この補完性原理が中心論点になる。すなわち、法律と条令の関係については、最高裁の徳島公安条例判決が、その権限の限界を明言したのであるが、困ったことに、この判決には理由が書いてない。単にそれを写しただけでは、何時も言う神のお告げ論文にしかならない。その理由こそが、この補完性原理なのである。これについては少々難しい概念なので、概念の根拠についても、後に改めて説明する。



二 法律と条例の関係

(一) 総説

 憲法92条は、地方自治制度を法律で制定することを予定している。つまり、92条の段階で地方自治体が条例制定権を有することは明らかになっているのだから、94条が「法律の範囲内」でしか条例制定権を認めない、と宣言している点は、むしろ条例制定権に92条からは引き出せない新たな制限を課していると読むべき事になる。

 論理的に考えて、その制限は次の二つが考えることができる。

 第一に、地方自治体は権限内のことであれば、何でも自由に立法しうるのではなく、法律の与えた一定の枠内にその権限が制限されるということである。そのような立法のことを枠立法(Rahmen Gesetz)という。

 第二に、その枠内の事項であったとしても、法律と条例が抵触した場合には法律が優越する、と言うことである。これが正確には何を意味するのか、という事が本問の中心論点であることは判っていると思う。

 注:これ以外にも少なくとも二つの場面で、この制限が問題となる。その第一は、罪刑法定主義、租税法律主義及び財産権の制限で、この三つに関しては憲法が特に法律と述べている。もう一つの場面は、地方自治法の定める三種類の法規範(条例、長の定める規則、独立行政委員会規則)のどれが憲法94条にいう「条例」に該当するか、という問題である。しかし、これらについては本問とは関係がないので本稿では論じない。


(二) 枠立法

 枠立法として、地方自治体の権限の外延を決定しているのが地方自治法である。すなわち、地方自治体は、地方自治法という「枠立法」の範囲内で、自主的にその権限を行使しうる。

 枠立法については、本問では論理的前提になっているので、理解しておいて貰う必要があるが、簡単に説明するが、本問の論点になっていないので、諸君の論文に書く必要はない。それに対し、例えば、住民投票条例の拘束力に関する問題であれば、これが中心論点となる。住民投票条例に長に対する拘束力を認めてしまうと、地方自治法の定める枠に抵触することとなり、論点になるのである。

 本問の条例制定権については、地方自治法141項において次の様に定めている。

「普通地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて第2条第2項の事務に関し、条例を制定することができる」

 したがって、条例が制定しうる事項は地方自治法22項に定めている範囲に限られる。これが、憲法94条に言う「法律の範囲内」という言葉の第一の意味である。

 現行地方自治法22項は、自治事務と法定受託事務という二大分類を導入した。この二つの事務は、ともに地方公共団体の事務であることにかわりはないが、その事務の性格の違いにより、処理の仕方や国の関与等のあり方における法的取り扱いに差違がある。法定受託事務とは、地方公共団体の事務のうち、国が本来果たすべき役割に係るものであって、国においてその適正な処理を特に確保すべき必要があるものとして、法律又はこれに基づく法令により特に定めるものである。これ以外の地方公共団体の事務を自治事務という(28項)。

 自治事務について、条例を制定できることについては、問題はない。法的受託事務も、「国が本来果たすべき役割に関する事務」ではあるが、2項で地方公共団体の事務と明確に定められているから、地方公共団体は条例を制定できる。ただ、現実にその事務については、法律や命令が存在しているから、次に述べる法理から、それと抵触するような条例を制定しても、憲法94条により無効になる、ということになる。結果として委任命令、執行命令的な条例だけが作りうることになる。


(三) 法律と条例の抵触

 憲法141項は、法の下の平等を定める。地方自治体の条例により人権の制約を認めるときは、各地方ごとに人権の享有範囲が区々となる。その結果、平等原則が破綻してしまった場合には、当然平等原則違反といわさるを得ない。そこで、どの範囲まで人権制約規定を条例で定めることも許容されるのかを論じる必要がある。そういう主張に対して、最高裁判所は大阪売春防止条例事件において次のように述べた。

「社会生活の法的規律は通常、全国にわたり画一的な効力をもつ法律によってなされているけれども、中には各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なものもあり、またときにはいずれの方法によって規律しても差し支えないものもある。これすなわち憲法第94条が地方公共団体は『法律の範囲内で条例を制定できる』と定めている所以である。」

(最高裁大法廷昭和331015日判決=百選第572頁参照)

 この判決は判決年月日で判るとおり、狭義の伝来説をベースとする古い時代のものであるが、ここで言われていることに関しては、今日においてもなお先例としての効力を有し、条例制定権の限界を述べていると考えて良い。これが、94条の「法律の範囲内」という言葉の第二の意味である。

 もっとも、これは狭義の伝来説の常として国の側を中心に見ている。今日のような地方の時代においては、同じことを説明する場合にも、視点を地方自治体の方において説明し直す必要がある。そうすると、これが先に地方自治の本旨の第3の概念として紹介した補完性原理を不器用に表現していることに気がつくと思う。

 つまり、法律が地方公共団体の範囲を超えた広域的な内容を定めていたり、地方公共団体相互の連絡調整などの機能を果たしている場合には、それは法律の専管領域であるから国の法律と地方公共団体の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。こうして、憲法94条は、92条の団体自治の理念に従う限り広く制定権が承認されるべき条例について、「法律の範囲内」という枠を課したと理解することができる。


(四) 法律と条例の個別の抵触

 それでは、補完性原理の下における第二の意味に従った法律と条例の関係を整理してみよう。

 当該事項を規律する国の法令がない場合、それが地方公共団体の権限内に属する事項である場合には、条例は自由に制定できる。具体的な有名例としては寄付金等取締条例、自転車の盗難防止条例、青少年保護育成条例等がある。

 これに対して、現実に、同一対象の法律が存在している場合、あるいは従来は条例が規律していた領域に、新たに法律が制定された場合には問題となる。狭義の伝来説に従う場合には、同一の対象を規律する法律が存在すれば、それに抵触する条例は、無効になる。条例は法律による委任があって初めて可能なのに、委任どころか、それとは逆の立法があるからである。これを法律先占領域説といい、かつては通説・判例であった。

 しかし、制度的保障説を採り、さらにその中核概念として補完性原理を考える場合には、それが自治事務に関するものである場合にはむしろ条例が国の法律に優越すると考えるべきである。但し、国の法律が広域にわたるもの、あるいは地方公共団体相互間の連絡調整に当たるものである場合には、国の法律が優越し、条例は無効になることになる。

 しかし、具体的にどういう場合に、条例が優越し、どういう場合に法律が優越するのかは、これだけでは明確ではない。それをきちんと分類整理した点に、最高裁判所徳島市公安条例昭和50910日判決の意義があり、これが今日の通説的見解となる理由がある。同判決は言う。

「条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するのみでなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾抵触があるかどうかによってこれを決しなければならない。」

 なぜこのように言えるのかは、この判決そのものは説明していない。だから、諸君は自分でその理由をつけなければならない。そこで書くべきが、ここまで憲法14条と関連づけつつ、補完性原理について説明したことである。

 これをこの判決はさらに二つの場合に分けて、それぞれについて細かく要件を明らかにしている。すなわち、

「例えば、ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がない場合でも、当該法令全体全体からみて、右規定の欠如が特に当該事項についていかなる規制をも施すことなく放置すべきものとする趣旨であると解されるときは、これについて規律を設ける条例の規定は国の法令に違反することとなりうるし、逆に、特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目的に基づく規律を意図するものであり、その適用によって前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないときや、両者が同一の目的にでたものであっても、国の法令が必ずしもその規定によって全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、それぞれの普通地方公共団体において、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、国の法令と条例の間にはなんらの矛盾抵触はなく、条例が国の法令に違反する問題は生じ得ないのである。」

 少々長文であるが、非常に要領よく、上乗せ条例や横出し条例の論理を説明しているので、この論理をよく覚えて、自分の考えとして論文に書けるようにしよう。問題は、この判決が、先に述べたとおり、判例が狭義の伝来説から決別して制度的保障説に転換する時期に下されたものであり、その時期にはまだ補完性原理という中核概念の存在は意識されていなかったために、少々説明足らずになっている、ということである。

 理解を助けるため、以下では、判決に従って場合分けした上で、補完性原理にそって再構成して説明しよう。

  1 国の法令が規制している目的と同一の目的の下に、国の法令が規制の範囲外においている事項・対象を規制する場合

 先に述べたとおり、地方公共団体毎に立法がばらばらになるのは、憲法14条違反の恐れがある。ここで、国が広域的な立法をした目的として、二つの類型があり得る。一つは、全国的な最低限度(National Minimum)を定める狙いの立法である。その時には、その最低限を下回らない限りで「各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的」である。その様な場合には、地域に関する事務として、各自治体に独自の条例を作らせて、その効力を認めた方がよい。例えば、全国的な最低限度の規制として大気汚染防止法が存在する場合、より深刻な大気汚染に苦しむ東京などが、独自にこれより厳しい大気汚染防止条例を制定することは許される。これを上乗せ条例という。同様に、国の最低限度規制立法に欠落している地域の特殊性を規制する条例(横出し条例)も許される。

 これに対し、国が、全国的に画一の行政を行う必要がある(最大限の規制も同一にする必要がある)、と判断して作られた立法の場合には、それに抵触する条例は、憲法14条に違反するから、基本的に許されない。もちろん、それは地域の特殊性に根ざす場合には、逆に法律が違憲と判断されて、独自条例が許される可能性はある。

  2 国の法令が規制している事項・対象と同一の事項・対象について、当該法令と異なる目的で規制する場合

 有名な例としては飼い犬取締条例がある。これは家庭に飼われている犬を対象にしている点では狂犬病予防法と同一の対象の条例だが、狂犬病予防法がその特定の疾病の流行を防止するだけの目的であるのに対して、それ以外の、例えば犬による咬傷事故の防止などを目的としているため、結局重複がないと判断されるというものである。

 本問が問題としている公安条例が、道路上のデモ行進の取り締まりという点では道路交通法と同一の対象を取り扱っているのも、この例といえる。すなわち、この判決の表現に従うなら、

「特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目的に基づく規律を意図するものであり、その適用によって前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないとき」

ということに相当する。

 すなわち、道交法は、道路交通秩序の確保という目的の立法であり、公安条例は、その名の通り、公共の安全を確保することを目的とする立法であり、両者の目的は明らかに違う。ただ、それが本問に現れた繁華街におけるデモ行進というような場合には、どちらも適用可能になる、というだけの話なのである。例えば、仮に山間の高速道路でデモをしたい、という希望があった場合、道交法の問題にはなり得ても、公共の安全という問題は生じないことが判るであろう。