ヴェルニガローデの夜警

甲斐素直

 ヴェルニガローデ(Wernigerode)は、人口36000人という小さな町で、前回も説明したとおり、ブロッケン山の麓にあり、ハルツ山地への入口というべき場所を占めています。州としては、旧東独に属するザクセン=アンハルト(Sachsen-Anhalt)州にあります。旧東独は徹底した中央集権国家でしたから、東独政権が存在していた時代には、州も地方公共団体もありませんでした。1990年の東西ドイツの統合に際し、連邦制をとる西ドイツに合わせる目的で、大あわてで造られた州の一つがザクセン=アンハルトです。当然、ヴェルニガローデの町も、今の体制ができたのは、その時からです。

 しかし、その町としての歴史は古く、9世紀にこの地に造られた僧院の周囲に発達した商人町にまでさかのぼるといいます。9世紀といえば、日本では平安時代が始まった頃ですから、実に古い歴史を有していることが判ります。ハルツ山地の入口という交通の要衝にあることから、その後、順調に発展し、ハンブルクやブレーメンという都市州の形で、その栄華を今に伝えるハンザ同盟に属して繁栄していました。その繁栄は145世紀、つまり日本でいえば、戦国末期から江戸時代の初期に掛けてが頂点であったということです。しかし、欧州の人口を一気に3分の1に減らしたといわれるペストにおそわれ、ついでドイツの人口を半減、あるいは3分の1に減少させたといわれる30年戦争でさらなる打撃を受けました。その結果、栄えていたハンザ都市が、ただの農民都市に転落してしまったのです。

 このことは、今日の時点において、観光という視点から見ると、素晴らしい遺産を残してくれたのです。町のほとんどの建物が、その後にいじくられることなく、中世そのままの、世界文化遺産級の美しさを残しているからです。

 私が訪れた8月は、ドイツの観光シーズンですから、町は観光客で溢れていました。町では、せっかくの観光客を楽しませようと、様々な企画を毎日立てていました。日中にある企画には、ブロッケン山に登っている関係から加われませんでしが、ふとパンフレットを見ると、その夜の8時半から、「夜警(Nachtwacher)と歩こう」という企画があります。宿のすぐ前にある市場広場(Marktplatz)の中央の噴水が集合場所だったので、いったいどのような企画内容なのか、全く見当がつかないままに早速行ってみました。

 行ってみると、昔ながらの矛槍を片手に持ち、もう一方の手にランタンを持って、夜警が待っていました。この時の夜警の写真は、残念ながらうまく撮れず、お目に掛けられません。写真@に掲げてあるのは、その後に訪問したニーダーザクセン州の古都オスナブリュックの町の夜警です。しかし、手に持つ矛槍、腰の角笛、鍔広のフェルトの帽子、黒いマントとあらゆるものが、同じスタイルでした。直線でも数百kmも離れた町の間で、なぜ夜警が全く同じ格好で活動しているのか、今も不思議に思っています。

 私は単純に、夜の町を夜警と共に歩き、昼間には見えない町の素顔を見せるというような企画だろうと想像して参加したのですが、実際は、予想とは全く違っていました。この夜警、本業は多分町役場の重要人物なのだと思うのですが、これが大変なおしゃべり男で、1000歩程度の短い距離を1時間半かけて歩いたのですが、その間、実に様々なことを、実物を示しながらうんちくを傾けてくれたのです。もっとも、マシンガンのように話す、なまりの強いドイツ語でしたから、正直なところ半分くらいしかわかりませんでした。しかし、判った限りでも、なかなかおもしろい話が聞けました。一緒に歩いていたドイツ人達にとってさえ、初めて聞くような珍しい話でしたから、おそらく日本の皆さんにも興味深い点があるだろうと思い、ここに紹介する次第です。

 ドイツの中世の都市は、どこでも町の中央に市場広場(Marktplatz)、つまり朝市などがたつ広場があり、町役場(Rathaus)も、そして私の泊まるホテルもそこに面してたっています。私が暮らしたことのあるかつてのドイツの首都、ボンの町などは、いまだにそこで毎朝きちんと朝市がたっており、そういう意味では古いドイツの面影を残す町です。ヴェルニガローデの場合、その辺がどうなっているのか判りません。少なくとも私が泊まっていた日曜及び月曜には朝市はありませんでした。しかし、町役場の建物自体は、かつてのハンザ都市の繁栄を偲ばせる立派なものです。

 中世都市はどこでも、広場の中央には、必ず泉があります。写真Aを見てください。ヴェルニガローデの町役場を背景に写した泉の写真です。泉そのものは、背景の町役場と紛れて見難いかも知れませんが、一番上に、教会の塔をミニチュアにしたような塔が立ち、その下に小さな円筒形があり、その下にもう少し大きな円筒形があり、さらに一番下がもっと大きな円筒形になっている、というように、まるでデコレーションケーキのようなピラミッド構造になっていることが判ると思います。

 夜警によると、この泉のピラミッド構造は、中世のヴェルニガローデの社会構造をシンボライズしたものなのだそうです。つまり一番上の塔は、総ての人の上に君臨する神と教会を示しています。次の円筒部分には、小さな盾型の飾りが付いているのが判るでしょうか。実際に傍でこれを見ると、この盾には人名が書かれているのですが、夜警によると、これは、この地方を治めていた諸侯の個人名なのだそうです。次の円筒部分にも同じような盾型の飾りがありますが、ここに書かれているのが大商人の名前です。一番下の円筒部分には、さらに大きな盾型の飾りがありますが、そこにはもはや個人名は書かれておらず、様々な職人等のギルド名が書かれています。

 ここまでは、ヴェルニガローデの市場広場の泉という特別なものについての説明でした。このあたりで、夜警は泉から離れて少し歩き始めたのですが、次の問いかけが意表をついたものでした。どうして、中世都市の市場広場には、必ず泉があるのか?というのです。私はもちろん知りませんでしたし、他のドイツ人からも答えは出ませんでした。

 答えは、汚物処理だ、というのです。中世の都市には、日本でも欧州でも、今日の言葉でいう清掃局はありませんでした。日本だと、日々の生活で発生するゴミや屎尿などの汚物は、肥料にしようと近郊の農家が収集していたものです。だから、江戸時代の日本の都市は、非常に衛生状態が良かったことで知られています。

 しかし、欧州では、日本のような人力集約型の農業は発達しませんでした。だから、そうした汚物を収集するものがいません。そこで、中世の欧州人は、そすた汚物をいきなり家の前の道路に投げ捨てました。中世都市の住宅というものには便所というものがなく、人々はオマルで用を足していました。だから、朝一番に、そのオマルの中身を二階の窓から外の道路に空ける、というのが、ごく普通の行動だったそうです。つまり、今日の我々のように、朝のすがすがしい空気の中で町中を散歩する、なんてことを中世にしたら、頭から屎尿を浴びる危険が非常に高かったことになります。絵のように美しい中世都市などといいますが、もしも実際にタイムマシンでその時代に行ったら、その不潔さに耐え難かったことでしょうね。

 そのままでは悪臭紛々たることになりますから、いかに無神経な中世欧州人も堪りません。そこで、町の中央の一番小高いところに市場広場を造り、その中央に泉を造り、そこから水をくみ出して、路上の汚物を押し流したわけです。だから、旧市街地の、広場に近い小高いところは金持ちが住んでいて、低いところほど貧乏人がすむことになるのだ、と実際の家々を示しながら、夜警は説明してくれました。水で汚物が押し流されるため、少しでも低いところに、どんどんゴミが集まっていくからです。いわれるまで全く気がつかなかったのですが、旧市街地は実は平らではなく、確かにわずかですが、広場が少し小高く、広場から四方に伸びている道路は、よく見ないと気が付かないほどですが、下り坂になっています。

 もちろん、あらゆる方向に下っているわけではありません。ヴェルニガローデの場合、わずか1m程度の差ですが、一番大きな教会が、市内で一番高いところにたっています。だから、教会の前には別の泉がありました。つまり、教会から支配者の住む地域へ、そして富裕な商人の住む地域、そして貧乏人の住む地域へと、先に市場広場の泉で説明したピラミッド構造の順に、汚物を載せた水も流れ下る、というわけです。実際問題として、一つの泉からくみ出す水では、水量が不足するので、要所要所に別の泉が設けられていて、汚物が確実に最貧地区へと流れていくように努力した、ということになります。

 欧州の中世都市の旧市街地は、外敵から都市を守るため、必ず城壁で完全に囲まれていました。ヴェルニガローデの場合、ロマンチック街道にある町のように、完全な形で城壁が残っている訳ではありませんが、ごく一部だけは今も保存されています(写真B参照)。だから、こうして最貧民地区まで、道路の上を流れ下ってきた汚水は、そのままだと城壁に沿って溜まってしまいます。それを、自然に城壁の外に出るように、城壁の下を潜る暗渠が作ってありました。ヴェルニガローデの町の場合、城壁そのものはかなり昔にほとんど撤去されているのですが、暗渠の方は、夜警に教えられて見ると、ちゃんと昔のままに残っていました。現代の下水道のような大きなものではありません。そのような大きなものを造ると、それが防衛上の弱点になってしまうからでしょう。幅は1mほどもありますが、高さは20cm足らず、しかもその口にはしっかりと鉄格子が付けられていました。だから、最終的には市を取り巻く堀や野原に屎尿が流されていたことになります。

 まだ、東独政府が健在だった頃、西ベルリン側の下水処理場が、人口の急増に追いつけず、パンク状態に陥りました。そこで、東独政府は西ベルリンから、高額の処理料を徴収して、西ベルリンの処理能力を超える分の屎尿を引き取っていました。東独政府が崩壊して初めて判ったことは、東独では、それを特に処理することもせず、いきなり原野にぶちまけていた、ということです。統一後の政府は、その屎尿が廃棄されて荒廃していた原野の復旧に大変な苦労をしたという話です。どうやら、その東独政府の行動は、中世都市の行動様式へ先祖返りしていただけのようですね。

 ついで、夜警の話は、貧民街の住宅構造の特殊性に及びました。昔の人は、社会階級により、極端に背の高さが違ったのだそうです。貴族や裕福な大商人は、うまい肉をしっかりと食べていたので、現代人と同じ程度の背丈であったのに対して、まともな食生活を送ることのできない貧民は、貴族階級などから比べると、何十cmも背が低かったのだ、というのです。そこで、貧民街の建物では、天井の高さもその住人の背丈に併せて非常に低いものでした。

 しかし、そのままでは身長が一様に伸びている現代人は住めません。そこで、大事な文化財である家の正面の外壁(Fassardといいます)には手を付けないけれど、建物の中はすっかり取り壊して、1階あたりの天井を高いものに直す、というやり方をヴェルニガローデではとっているのだそうです。イメージとしては、昔の三階建てを二階建てに直すくらいの感じになるでしょうか。しかし、正面外壁に手を付けないといっても、玄関だけは例外にせざるをえません。そうでないと、頭がぶつかってしまい、出入りができないからです。

 夜警に指さされてみると、なるほど家の玄関の上の縁が、昔は今よりずっと低い位置にあったことを示す跡が、私でさえ頭をぶつけそうな低い位置、上背のある夜警の場合には胸くらいの位置の木組み構造(Fachrahmen)にはっきり残っています。

 それを見て、昔、初めてドイツに来た頃に、ボンのベートーベンハウスを訪れた時のことを想い出しました。表側の部屋は普通の天井の高さだったのですが、たった一つ、昔のままに保存されていたベートーベンの生まれた部屋というのが、僕の頭がぶつかるほどの低い天井の部屋だったのに驚いたことがあったのです。その時、管理者にこの部屋はなぜこんなに天井が低いのだと聞いたら、ベートーベンは小さな人だったのだ、と返事をされ、もう一度面食らいました。ベートーベン自身の背が低かったことと、その生家の生まれた部屋の天井が低かったこととどうつながるのか判らなかったからです。

 当時は私のドイツ語力が低かったので、それ以上掘り下げて聞くことができなかったのですが、その時抱いた疑問が、この夜警の説明で四半世紀ぶりに解けた、というわけです。要するに、ベートーベンは貧民階級出身であったために、生まれた部屋も低い天井であったし、成人後の本人もまたチビだった、ということを、ベートーベンハウスの管理人は説明してくれたつもりだったわけです。

 ここから話は窓のことになりました。中世都市における課税の一つの基準は採光量でした。つまり、窓が多く、大きいほど税金が高かったのです。そこで、第一に窓の数は少なく、一つ一つも小さなものが多かったわけです。中世の絵画で屋内を描いたものが、例外なくヤニ色と呼ばれる茶色っぽい絵となっているのは、それが大きな原因です。

 現代人が住むのに、それでは困るので、今では、ここでも大事な外壁に新たに穴を開けて、ほとんどの家が、昔に比べて窓を付け足しています。また、昔の家では、大きなガラスが高価であったために、窓ガラスとしては小さいのを6枚使うのが普通だったのです。しかし、ドイツでは、窓ガラスは常にぴかぴかでなければなりません。ある日本人の友人から聞いた話だと、見知らぬ人が突然玄関をノックして「通りすがりのものだが、あなたの家の窓ガラスはもう少し磨くべきです」といわれたとか。

 したがって、普通のドイツ人の主婦は、かなりの時間を費やして窓ガラスをいつも磨いています。しかし、小さな6枚のガラスでは、磨く手間が、大きなガラス1枚に比べてかなり多くなります。そこで、最近では、大きなガラス1枚に変えてしまっているとか、一歩譲って3枚に変えている例が増えている、とか言う話でした。なるほど、夜警に指さされるまで気が付かなかったのですが、よく見ると、一見すると6枚ガラスにみえる家でも実はそれは別にガラスを6枚に見せるような枠をつけてあるだけで、それを開ければ、実は1枚ガラスの窓になっていたのです。まさに伝統的外観と日々の生活の便宜の妥協点とでもいうべきものでしょうか。

 最近では、ヴェルニガローデの町でも過疎化が進み、人口構成が逆ピラミッド型になって、このようにある程度表面外壁に手を加えることを認めても、住む人がいなくなりつつあって、町当局として頭痛の種だと、夜警は嘆いていました。聞いていたドイツ人の間から、そういう場合には博物館として保存したらいいのではないか、という反問がでました。それに対しては、家というものは、人が住んでいて、初めて意義のあるもので、博物館化しては何の意味もなくなる、と噛み付かんばかりの調子で夜警は反論していました。

 前回紹介したハルツ狭軌鉄道会社が、日本であれば、間違いなく博物館に飾っている蒸気機関車を、現役の交通手段として、毎日十数往復も走らせていることと合わせ考えると、ハルツの人々の文化遺産の保存ということに対する考え方が窺えて、非常に興味深く感じました。

 ヴェルニガローデの町の近く(といっても数十kmはなれていますが)に、クヴェトリンブルクという人口2万人ほどの小さな町があります。こちらは、歴史的にはヴェルニガローデと同じくらいに古く、今も昔のままの古い建物が多いということで、町ぐるみ世界文化遺産に指定されています(写真C参照)。しかし、人口が少ない分、クヴェトリンブルクの過疎化はいっそう激しいようで、文化遺産のマークが外壁に刻印された建物が、ほとんど廃墟という感じのものが多数目立ちました。町当局も手をつかねているわけではなく、例えば、15世紀に建てられたという家を改造して観光客用のアパート(Ferien Wohnung)にしたりしていましたが、手が回りかねているという感じでした。そちらに比べると、積極的に外壁に手を加えることを認めているヴェルニガローデは、その結果として世界遺産の指定は受けられなかったにせよ、建物はどれもきれいに保存され、クヴェトリンブルクよりもよほど後世に住宅を伝えられそうな感じでした。

 こういう調子で、延々と続く話は、どれも面白かったのですが、時がたつとともに、いやその寒いこと。日中の気温は28度くらいあり、集合した8時半の時点では涼しくて気持ちよい、という程度だったものが、時とともに、急速に気温が下がっていきます。後から天気予報を聞いたら、その晩の最低気温は10度といっていましたが、私の体感的にもその位の感じでした。ドイツ人たちはさすがに判っていて、ほとんどが暖かい冬物のコートを着ており、人によってはマフラーまでして集まってきていたのですが、その厚着のドイツ人達でさえ、だんだんと寒そうな顔をするようになってきていました。それなのに、私は、ただの長袖のジーンズシャツに、薄手のベストを着ているだけ。だから、後半は、ドイツ語がまともに耳に入らないほどに歯が鳴り出し、終わると、ホテルに飛んでかえって風呂に入ったものです。

 こういう訳で、ヴェルニガローデの夜警の話で、まともに紹介できるのは、その前半だけです。もしどなたか読者の方が、ヴェルニガローデに行かれることがあったら、夏でもしっかり防寒対策をしてでかけて、是非、夜警の話の後半の内容を私に教えてください。