ゲッティンゲンの鵞鳥娘

甲斐素直

 ゲッティンゲン市は、北ドイツのニーダーザクセン州にあり、人口12万人ですから、日本の感覚から言ったら、間違っても大都市ではありません。実際、ほとんどの市の機能は旧市街地にあり、これはゆっくり歩いても20分くらいで横断できる程度の大きさです。ゲッティンゲン大学は、学生数28000人、教授陣2500人で、ドイツの大学としては決して大きくはありません(私のドイツにおける本拠地ミュンヘン大学の場合だと、学生数だけで63000人です)。しかし、その他の従業員や教授等の家族などを加えると、おそらく大学関係の人口は5万人程度にはなるでしょう。つまり、市の総人口の半分程度は大学関係者という計算になります。残り半分は、そうした人々を支える活動をしていると考えて良いでしょう。例えば、市内の一流レストランは、かつてゲッティンゲン大学にいた優れた学者から名前をとって「ガウス」と言います。こうしたところから見ると、ゲッティンゲン市は間違いなく、大学町です。

 ゲッティンゲン市役所前の市場広場に立っている鵞鳥娘のリーゼルは、ゲッティンゲン市のシンボルです(写真@参照)。

同市が観光用に発行している日本語パンフレットから引用してみましょう。

「大学町ゲッティンゲンのシンボルは、旧市庁舎前の広場の噴水台に立つ“ガチョウ番の娘リーゼル(Gaenseliesel)”。このユーゲント・シュティールのブロンズ像は、もう長いことホヤホヤ博士みんなのアイドルになっています。試験合格後、像の頬にキスをする、というのが恒例の行事。彼女は“世界でもっとも多くの人からキスをされている女の子”です。」

 この文中、「ユーゲント・シュティール」というカタカナ書きは、最初、私には意味が判らなかったのですが、1900年前後に欧州に巻き起こったアール・ヌーヴォー様式の、ドイツでの呼称でした。

 このクローズアップだけを見れば、キスをするのは簡単と思うかもしれません。しかし、写真Aを見てください。彼女の周りには、このように満々と水をたたえた水盤があり、さらに、その上の高い台の上の格子の中に彼女は鎮座しているのです。だから、普通なら、その頬に唇を寄せることなど、とてもできそうもありません。実際、私の日本人の知人は、ゲッティンゲンに留学していた時、世話になっていた教授付きの助手が博士号を取って、ほろ酔い機嫌で伝統に従おうとしたのはよいが、登り損なって水盤に転落する所を目撃したそうです。

 上記の通り、大学町ですから、我々日本人研究者がはるばると大挙して押しかけて開催された今回の国際シンポジウムは、市にとっても大事なことです。そこで、シンポジウム初日の夜、我々参加者一同うち揃って、ゲッティンゲン市長を表敬訪問をしました。折悪しく市長は急な所用で他出して不在でしたが、助役さんが相手を務めて、サービスにこれ努めてくれました。市長がいない代わりに、それに代わる我が市のシンボルを紹介します、と本物の鵞鳥娘リーゼルが登場したものですから、一同やんやの喝采(写真B)。

この学会のドイツ側の主催者の一人である、ゲッティンゲン大学のシュタルク先生もこれは初めて見た、と大喜びだったので、彼女と一緒に記念写真を撮りました(写真C)。もっとも、このリーゼルは、聞いてみたところ、本名をリーサといい(ちょっとリーゼルに似ていますね)、チューリンゲン、つまり、旧東ドイツに新たにできた州の一つの出身で、現在はゲッティンゲン大学の学生でした。鵞鳥娘はアルバイトの一つということでした。

 それにしても、この像のモデルとなった鵞鳥娘リーゼルとは何ものなのだろうか、と私は首をひねりました。先に言及した知人に聞いてみたのですが、知らない、といいます。シュタルク先生に聞いてみても、やはり知らないといいます。リーゼルに扮して登場したリーサに聞いたところ、グリム童話の中にある話だそうよ、と教えてくれましたが、彼女も、その物語が具体的にどんな話かは知らない、ということでした。

 ゲッティンゲンに、グリム童話から題材をとった像があること自体は、よく理解できる話です。なぜなら、ゲッティンゲン大学は、かの有名な「ゲッティンゲンの7人(Gottinger Sieben)」の舞台となった大学でもあるからです。もっとも、「かの有名な」などといわれてピンと来るのは、ドイツ憲法史に興味をもっている人だけでしょうから補足すると、こんな話です。ゲッティンゲンは、かつてハノーファ王家の領土でした。ナポレオン没落後、ドイツでは封建諸侯で組織したドイツ同盟の鉄の締め付けの下、民主化運動は厳しく抑圧されていたのです。しかし、ハノーファでは1830年の7月革命で、王に民主制や人権を認めた憲法を受諾させるのに成功し、1833年に施行されました。ところが、1837年に即位した新国王のアウグスト(Ernst August)は、この憲法の承認を拒否したのです。これに対して、ゲッティンゲン大学の7人の教授が抗議したところ、国王は、この7人全員を解雇して民主化運動を弾圧した、という事件です。簡単にいってしまえば、ドイツ版の滝川事件(京大事件)というところでしょうか。ゲッティンゲン大学の歴史にとっては最大の大事件ですから、ゲッティンゲン大学法学部の住所は、ずばりGottinger Siebenです。

 この7人の教授の中に、グリム兄弟(Jacob Grimm Wilhelm Grimm )も含まれています。そのため、グリム兄弟は、単にグリム童話の編纂者という以上にゲッティンゲンにとっては大事な人になります。我々がシンポジウムの会場は、古い伝統ある建物です(写真D参照)。

その会場に使った部屋の中にも、兄の方のグリムの像が飾られていたほどです(写真E参照)。

 しかし、誰も肝心の話の中身を知らないというのも妙な話です。私はグリム童話は好きで、結構読んでいるのですが、なんとしても、思い出せません。このように誰も知らない、ということがあると、しゃにむに調べたくなるのは、元調査官としての本能というべきものですね。いったいリーゼルとは何者なのだろう、と好奇心がうずき出したわけです。

 まず、何はともあれグリム童話を引っ張り出して読んでみたところ、それらしい題の話は二つあります。一つはずばり「鵞鳥娘(Die Gansemagd KHM89)」で、もう一つは「泉の傍の鵞鳥番の女(Die Gansehirtin am Brunnen KHM179)」です(KHMというのは、グリム童話のたくさんの版を統一的に論ずるための整理番号です)。しかし、目を通した限りでは、どうもこのゲッティンゲンのシンボルとは話の内容が一致しません。

 物語の内容を簡単に紹介すると、まず「鵞鳥娘」の方では、ある国のお姫様が、よその国の王子様の所に、侍女一人をお供にお嫁入りの旅に出ます。ところが、旅の途中で侍女が性悪の本性をむき出しにして、嫁入り道具を横取りし、自分が姫だと称してその国に乗り込み、見事王子と結婚してしまうのです。本物のお姫様は、その王宮で鵞鳥の番人のさらにその助手にされてこき使われることになってしまいます。しかし、この逆境がお姫様を鍛え、最後は王様に直訴することにより逆転勝利を収め、侍女は悲惨な最期を遂げます。それを、メルヘンらしく、ものを言う馬とか、そよ風を操る魔法とかを交えて描いているわけです。

 「泉の傍の鵞鳥番の女」の方は、シンドバットの冒険に出てくる海の老人と、リア王を足してメルヘン風の味付けをしたという感じの、かなり複雑な物語です。物語の最初には、気の良い若い伯爵が出てきて、重荷にあえてでいる老婆を助けようと、代わりに荷物を担いでやったら、その老婆にさんざんにこき使われてしまうというエピソードが現れます。明らかに老婆は魔女なのです。それで、伯爵がそのまま魔法の奴隷になってしまうかというと、なかなかよく働いた、といって、魔女から緑の小箱をご褒美に貰って釈放されます。そこで、伯爵がある王国に行って、王様とお后様にその小箱を献上し、お后が開けてみると、中には大粒の真珠が入っていました。その真珠が、娘の流した涙にそっくりだ、とお后様が言い出し、うち揃って魔女の所に引き返します。実はその数年前に、王様は3人の娘に、自分がどのように大切か、何かにたとえろ、と要求したのです。上の二人は甘いことを言って気に入られたのですが、一番下の娘は父王は、塩のように大切だと答えたため、王は激怒して王宮から追放してしまい、そのまま娘は行方不明になっていたというわけです。実は魔女の所にいた鵞鳥番の娘がそれで、魔女はそれまで彼女をかくまっていたのだ、ということが明らかになり、伯爵と姫の二人は結婚して幸せに暮らした、という結末になります。

 メルヘンの筋の要約というのは誠に無理な話なので、これを読んで、原作が思い浮かべるのは難しいかと思いますが、私が強調したい話の要点は、どちらの話でも、お姫様は文字通り鵞鳥番をしていた、ということです。

 それに対して、このブロンズ製の像は、裸足で、シンプルな服装をしていますが、1羽の鵞鳥を駕籠に入れていることからも明らかなとおり、鵞鳥の番をしていると言うよりは、農家の娘が鵞鳥を市場で売るために運んでいる姿を捉えたものというべきです。つまり、この像が、グリム童話中の物語に基づいて造られている、というためには、最低限、その物語の中に、ジャックと豆の木のジャックよろしく、鵞鳥を市場に売りに行く場面がハイライトになっていないとおかしいのです。

 グリム童話は、全部で200話もありますから、おいそれと全部に目を通すというわけにはいきませんが、ゲッティンゲンのシンボルに選ばれたほどの話であれば、それなりの知名度があるはずです。そのことから考えると、どうもグリム童話に基づくというのは違っているのではないか、と考えざるをえなくなりました。

 そこで、鵞鳥娘(Ganzeliesel)という言葉で、ドイツのインターネットを検索したところ、かなり試行錯誤しましたが、ようやく答えらしきものを見つけ出しました。

 昔、18世紀の頃には、この広場にはライオンの像が、泉の上に立っていたそうです。これは、おそらくハインリッヒ獅子王が、ゲッティンゲンに都市としての権利を与えたことに由来しているものと思われます。しかし、この像が腐朽してしまったため、1801年に撤去されました。その結果、その後百年もの間、泉の上には像がなく、台座だけが存在していたのです。

 1894年に設立されたゲッティンゲン市美化同盟が、1898年に台座だけ放置されていることに対して苦情申立てを行いました。そこで当時の市長が、そこに建てる像について、公開コンペを行ったところ、全ドイツから合計46点もの応募がありました。審査の結果、第1席を勝ち取ったのは「古代の精神」と題するフランクフルトの彫刻家の作品でした。これは、泉を一時代前のゴシックスタイルの像と盾で飾ろうというものでした。ベルリン出身の彫刻家によって作られた「鵞鳥娘リーゼル」は、この時点では第2席だったのです。審査員たちが、リーゼルを泉の像としてふさわしくないと考えたのは、二つの理由に基づいていました。第一に、このかわいい少女は、その背後に立つ「量感があり、いかめしい」市役所の建物に調和しないと考えられたことです(写真Aの背後の建物が、市役所です)。第二に、リーゼルがその下の立つことになる、すでに王が用意していた天蓋にも、この少女は似合わないと考えられたことです。

 しかし、候補作を一般公開したところ、市民の意見は圧倒的に鵞鳥娘リーゼルを支持しました。おそらく世紀末の時代に、アールヌーボースタイルの像は、一番市民の感性にぴったり来るものだったからに違いありません。その結果、19003月に、市議会は、第2席の鵞鳥娘の方を、泉の像として採用することと正式に決定したのです。像が実際に設置されたのは19016月のことですから、もう100年以上前のことになります。

 像のこのような建設経緯から見ると、この像とグリム童話は関係がない、と考えたほうがよさそうです。芸術家が、その感性の導くままに造形し、命名したと見るべきでしょう。

 なお、この像が設置されるとすぐに、大学の新入生が泉によじ登り、リーゼルの頬にキスをするという風習が生まれました。この慣わしは、いわば大学の男子学生結社への入門儀式のようなものでした。ついでに言えば、当時ゲッティンゲンはプロイセンの版図にあったのですが、女性は1908年までプロイセンでは公式に大学に入学することは認められていませんでした。したがって、ゲッティンゲン大学にも、当時は女子学生はいませんでした。当然ながら、この鵞鳥娘へのキスは、コンパなどで大酒を飲んだ後の大騒ぎの中で行われました。

 学生数は、ワイマール共和国の時代に確実に増加し、そのすべてがリーゼルにキスをしようとしたために、警察では1926年に、平穏と秩序を害するという理由で、キスを禁止する規則を制定しました。学生の一人であるヘンケル・フォン・ドネルスマーク伯爵は、規則にあえて違反した結果、事件はベルリンの王室裁判所にまで持ち込まれました。しかし、訴訟は敗れ、規則はそのまま残りました。しかし、警察も、その後は派手に騒がない限り、学生たちが像にキスするのを黙認するようになりました。

 今日では、冒頭に紹介したように、この風習は少し形が変わりました。新入生が、その新学期にキスをする代わりに、博士に成りたての学生だけがキスをするようになったのです。多分、そのほうが圧倒的に人数が少ないから、確実に平穏と秩序が守られる、ということで、誰か知恵者が新しい伝説を作り出したのでしょうね。