ヴェストファーレンの平和
甲斐素直
今回のシンポジウムのもう一つの中心都市、オスナブリュック市は、ゲッティンゲン市と同じく、ニーダーザクセン州にありますが、ゲッティンゲン市が、ザクセン=アンハルト州との州境に近いあたりにあったのとは反対側の、ノルトライン=ヴェストファレン州との州境に近いところにあります。だから、同じ州内とはいえ、バスで半日がかりの移動距離でした。
オスナブリュック市は人口が
16万4000人といいますから、ゲッティンゲン市より若干大きいとはいえ、似たり寄ったりの地方都市といえます。オスナブリュック市は、大学町であると同時に、主教座のあった都市として古い伝統を持っています。今日では、大学は、主教の宮殿の中に鎮座しているのです(写真@参照)。
オスナブリュック市近郊には、ドイツ人の心の故郷と言うべきトイトブルクの森が広がっています。トイトブルガーヴァルト(Teutburger Wald)の戦いといっても、日本人にはピンと来ない人が多いと思いますが、西暦7年にここでゲルマン民族が、強大なローマの約3万人の軍団を完膚無きまでに撃破したのです。この敗戦により、ローマの膨張は止まります。それによって自然に生まれたローマ帝国の境界線が、今日のドイツとフランスの国境線の原型を作り出したのです。
そのため、この戦いにおけるゲルマン民族の指導者ヘルマンは、19世紀になるとドイツ民族統合の象徴として使われ、1875年には、有志から募られた莫大な資金で造られたヘルマン記念像(Hermannsdenkmal)が建てられました。私はそこには行きませんでしたが、実に巨大なものなので、アウトバーンを走るバスの中からでもはっきりと見えました。実際にどんなものなのかは、判らなかったので、インターネットの中を探し回って見つけたのが、写真Aです。なるほど、いかにも大きそうです。
実をいうと、記念像が造られた時点では、どこで実際に戦いが行われたか判らなかったのです。それというのも、あまりにゲルマン民族側が完全な勝利をあげたために、ローマ側に戦いの詳細に関する詳しい記録が残らなかったためです。そこで、タキトゥスの「ゲルマニア」にあった簡略な記述から推定して、オスナブリュックの南のデトモルト(Detmold)というあたりではないかとされて、そこに造られたのです。
しかし、1987年になって、イギリスのアマチュア考古学者の調査により、オスナブリュックの北のカルクリーゼ(Kalkriese)というところがその戦場であることが明らかになりました。それ以来、今日まですっと発掘調査が行われているのですが、なにしろ3万人もの軍団が壊滅した跡ですから、実に広大な面積(既に調査が終了したのが幅2km、長さ17kmの地域)で、いつになったら、発掘調査が終わるか判らない状態だそうです。とにかく、そう言う訳で、ヘルマン記念像は、本来立つべき場所から50kmも離れた場所に造られていたことが、いまや明らかになっています。
中世にいたり、オスナブリュックは、再び歴史の檜舞台に登場します。ドイツ三〇年戦争を終結させたウェストファリア条約の締結地としてです。ニーダーザクセン州の隣に、ノルトライン=ヴェストファーレン州がありますが、その名称の後半、ヴェストファーレンという部分は、州の半分が昔のヴェストファーレン王国の版図であったことを示しています。ウェストファリアというのは、このヴェストファーレンの英語読みです。ヴェストファーレン王国内の二つの都市、オスナブリュック市とミュンスター市に拠点を置いた新教及び旧教の代表者達によって終戦条約が締結されたところから、ウェストファリア条約の名があるのです、
このことは、オスナブリュックに行く前から、我々の念頭にもありました。オスナブリュックにつくと、例によって一同うち揃って市長に表敬訪問するため、ぞろぞろと風格ある市庁舎(写真B参照)に入っていったのですが、その際にも是非、条約締結の会場に入ってみたいものだ、などと言いながら、歩いていったものです。それだけに、市庁舎の平和の間(Freedenssaal)という名のレセプションホールにとおされて、あっと思いました。部屋そのものが、いかにも重厚な古い作りのもので、その壁一面に、古い肖像画がぎっしりと掛けてあったからです。
しばらくして、ドイツの古い都市に共通する市長の地位を示す金鎖の正装に身を固めて登場した市長の挨拶で、そのことは明らかになりました。その時、我々がいた部屋こそが、まさにウェストファリア条約の調印が行われた部屋だったのです(写真C参照)。部屋の肖像画は、ウェストファリア条約に調印した代表者達でした。
市長が、その挨拶中で、我々がウェストファリア条約(Treaty of Westphalia)と呼ぶ条約のことを、「ヴェストファーレンの平和(Westfalische Frieden)」と述べていることに気がつき、改めて感動を覚えました。ドイツ人にとり、悲惨な三〇年戦争を終結させた条約は、単なる条約ではなく、平和そのものだったのです。我々日本人が、昭和6年の満州事変から始まって20年の終戦にいたる約15年間の戦争経験により平和のありがたみを実感し、それが現在の平和憲法につながったことを考えれば、その倍の期間、戦場となり続けてあらゆる辛苦をなめたドイツ人にとり、この条約のもたらした平和は、どれほどありがたいものだったでしょうか。だからこそ、単に条約と呼ぶことができないのでしょう。
三〇年戦争は、建前的には新教と旧教の戦いですから、宗教戦争でした。宗教戦争は、往々にしてきわめて残虐なものとなります。三〇年戦争は、その上に近隣の各国が勝手に参戦してその規模を拡大させたために、なおさら悲惨なものとなりました。
総ての悲劇のきっかけは、1617年にハプスブルク家のフェルディナントという愚物が、ボヘミア王に選出されたことでした。古いゲルマンの等族会議の伝統は、神聖ローマ帝国版図には近世まで色濃く残っていましたから、王はもちろん皇帝も等族会議により選出されたのです。フェルディナントは、イエズス会の教育を受けた熱狂的なカトリック教徒だったので、ボヘミア王になると、後先を考えずに、新教派を弾圧し、住民にカトリック教の信仰を強制し始めました。それに憤激した新教派の人々が、1618年5月23日にプラハの王宮に乗り込み、新教徒弾圧の急先鋒であった二人の顧問官を、王宮の窓から20m余り下の壕に突き落としました。窓外転落事件と呼ばれます。
二人は奇跡的に助かりましたが、これをきっかけとして、新教徒諸侯は会議を開いてフェルディナンドを国王から廃し、代わってカルヴァン派で新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア国王と定めました。このような等族会議による国王のすげ替えは、中世ではそう珍しい話ではありません。これで終われば、単なる中世におけるボヘミアの単なるエピソードに過ぎなかったはずです。
問題は、この廃絶されたフェルディナンドが、その直後に、なんと神聖ローマ帝国皇帝に選出されたことにあります。皇帝としての権力を握ったフェルディナンドは、直ちに、軍をボヘミアに送ります。これに対してドイツ全土の新教徒諸侯が立ち上がり、抵抗した結果、戦争は期せずしてハプスブルク家の皇帝対諸侯の戦いという様相を呈するようになりました。しかし、皇帝軍の名将ティリ辺境伯はフリードリヒ5世をヴァイセンベルクの戦い(1620年)に破った結果、皇帝はボヘミアにおける実権を掌握したのです。この第一段階で終わっていれば、歴史に残る事件であったにせよ、やはり大した戦争ではなかったはずです。
ところが、この段階で、戦争は突如国際化します。デンマーク王クリスチャン4世は、北ドイツへの領土拡大の機会をうかがっていました。そして神聖ローマ帝国全域がカトリックの支配することになりそうな形勢を見た新教国であるイギリス・オランダ両国が、軍資金援助の約束を彼に与えたものですから、1625年に、ドイツの新教徒援助を口実に6万の軍を率いてドイツに侵入したのです。しかし、1626年、体勢を立て直したティリ辺境伯は、国境を越えてユトレヒト半島深くまで攻め込むという戦果を挙げ、1629年に和約が結ばれて、この第二段階は終結するに至ります。ここで終わっても、それほど深刻な問題ではなかったはずです。
ドイツの不幸は、すぐ隣国に、フランスという、常に病的なほどドイツの存在そのものを恐れる国があることです。第1次大戦や第2次大戦も含めて、今日までの仏独間の戦争はすべて、このフランスの恐独病が基本的には原因と言えます。フランスの宰相をこの三十年戦争の時点で務めていたのは、枢機卿というカトリック教徒の中でも法王に次ぐ高僧であるリシュリューです(デュマの「三銃士」に登場する敵役といった方がわかりがよいでしょうか?)。リシュリューは、その宗教上の地位にもかかわらず、隣国ドイツが皇帝の下に強大化することを恐れ、新教徒を助けて戦争に介入することを決意します。
この時、新教国であるスウェーデンの王グスタフ=アドルフは、17歳という若年で即位しながら、デンマーク・ロシア・ポーランドと戦ってこれらを撃破して、バルト海に一大勢力を築いた名君で、「北方の獅子」とあだ名がありました。リシュリューは、彼に資金援助をする約束を与えたのです。
1630年6月、グスタフ=アドルフは1万3000の軍を率いてポメルンへ上陸し、ザクセン・ワイマール公ベルンハルトなど、有力な新教諸侯と同盟して破竹の進撃を続け、フランクフルトやマインツを占領したばかりでなく、迎え撃った旧教軍の名将ティリをも撃破し、1632年にはミュンヘンを占領したのです。追い込まれた皇帝フェルディナンドは、彼個人としては嫌いな名将ヴァレンシュタインを起用しました。ヴァレンシュタインは、リュツェンの戦いで、グスタフ=アドルフを戦死させるのに成功します。しかし、王の死はかえってスウェーデン軍を奮い立たせ、戦いそのものは新教軍の勝利に終わります。そして、この後、ベルンハルトが新教軍の中心となって戦った結果、戦線は膠着状態に陥ります。そこでヴァレンシュタインは密かに和平交渉を始めますが、これに怒った皇帝により、1934年、ヴァレンシュタインは暗殺されます。このあたりの経緯は、ドイツを代表する劇作家、シラーの戯曲「ヴァレンシュタイン」により有名です。
その後、皇帝フェルディナント2世は同じハプスブルク家が支配するスペインの援助を得て、ついに新教軍を撃破し、1935年にプラハの講和を結びました。これがこの戦争の第3段階です。
ここまでの、3段階の戦争では、最後は常に皇帝フェルディナンド2世が勝利していた訳です。近隣諸国、特にフランスとしては、この神聖ローマ帝国皇帝の勝利とそれによるその権力の増大ないしはドイツの事実上の統一という結果がどうしても困る訳です。
黒幕にとどまるだけではどうにもならないと判ったリシュリューは、1635年にスウェーデンと同盟を結んだ上で、スペインに宣戦を布告し、ついに直々にドイツに攻め込むことにします。枢機卿という旧教の高僧が、新教徒の味方になって、旧教徒に対して戦いを挑む、という宗教戦争という観点からは珍無類の事態が引き起こされたのです。
このフランス・スウェーデン連合軍は、皇帝軍を押しまくります。しかし、双方とも優れた将軍を持たないため決定打を欠き、戦争は長期化しました。この間に、戦争を引き起こした張本人であり、頑強に和平を拒んできた皇帝フェルディナント2世が1637年に亡くなりました。これにより、ようやく和平への機運が高まってきました。
まず1641年12月25日にハンブルク準備条約が締結され、ミュンスターとオスナブリュックという二つの市が、講和条約の拠点と決まります。同じ新教軍でも、スウェーデンやドイツのプロテスタント諸侯の使節は新教の司教都市オスナブリュックに滞在し,フランスの使節は旧教の司教都市ミュンスターに滞在する、というように、味方同士でさえも分裂した形で交渉が行なわれることに決まったのです。これを受けて、1643年に、オスナブリュック市の中立宣言が出されます。
この当時は、ミュンスターばかりでなく、オスナブリュックも、ヴェストファーレン王国に属していました。だから、この二つの都市を拠点として交渉され、成立した一連の条約をまとめて、ウェストファリア条約と呼ぶ訳です。オスナブリュック市長の話によると、オスナブリュック市は、その後、ハノーファー王国の版図に組み込まれ、それがそのまま第2次大戦後にイギリス占領地区となり、今日のニーダーザクセン州となったのです。これに対して、ミュンスターは、一貫してヴェストファーレン王国に属し、第二次大戦後はノルトライン=ヴェストファーレンに属していますから、今では州が違っています。
戦死したスウェーデン王グスタフ=アドルフの跡を継いで、この時点でスウェーデンに女王として君臨していたのは、その愛娘で、男装の麗人として有名なクリスティナ(Christina)です。デカルトに心酔するあまり、寒いスウェーデンにデカルトを招致し、暖房もない部屋で、朝の5時から講義をさせて彼を死に至らしめた人としても有名です。
あるいは、グレタ=ガルボの代表作ともいえる映画「クィン・クリスティナ」の、あのクリスティナです。ガルボ扮する女王が、スペイン大使と恋に落ちることが大問題になる理由は、上記のような理由から、スペインはこの時点のスウェーデンにとり、不倶戴天の敵だったからです。
もちろん、実際のクリスティナ女王は、映画のような甘ちゃんではありません。ウェストファリア講和交渉で、彼女は、フランスのリシュリューを相手にその辣腕ぶりを見せ、この条約により、スウェーデンは一躍欧州の大国にのし上がります。オスナブリュックが和平交渉の拠点都市と決まったのも、クリスティナの強い意向によるものだそうです。
こうして、講和会議は、ようやく1644年12月4日に開始されます。準備条約から既に3年が過ぎています。この二つの町の間は約50kmあります。50kmは今日では大した距離ではありません。現に、この二つの町に空路で行くには、両者の中間にあるミュンスター=オスナブリュック空港を利用することになります。しかし、当時は、徒歩か、馬しか交通手段がなかった訳ですし、国道が整備されていた訳でもなく、戦時下ですから、きわめて危険な道です。仮に、朝、新しい提案をしても、相手方の市に、それが届くのは、早くとも翌朝だったことでしょう。和平交渉の相手との間にこれほどの距離を置かねばならない、という事実が、新旧両教徒間に存在する根深い相互不信をよく示しています。必然的に交渉は長引き、話し合いがまとまったのは、それからさらに4年もたった1648年になってからのことでした。
まず1648年1月に、スペインとオランダの講和(ミュンスター条約)によりオランダの独立が正式に認められました。そして1648年10月に神聖ローマ帝国とフランス(ミュンスター条約)、神聖ローマ帝国とスウェーデン(オスナブリュック条約)の間の講和がそれぞれ成立しました。しかし、フランスとスペインの講和は、この時には実現せず,両国の講和は1659年のピレネー条約を待つことになります。
三〇年戦争が、いかに巨大な国際戦争だったかは、その条約交渉に参加した国の数に端的に表れています。なんと66カ国が参加したのです。必然的に、条約の内容は単にドイツ三〇年戦争を終結させるにとどまるものではありません。その後の欧州の国境線の原型が、この条約によって確定されることになります。それまで、欧州の中央の要衝の地にあって繁栄していたドイツは、一気に後進地域に転落することになります。リシュリューの狙いは成功したのです。
三〇年戦争の悲惨な点は、これは20年戦争であり得た、という点です。上述のとおり、1637年のフェルジナンドの死により、和平は可能になっていたのです。それから、現実に和平が成立するまでの10年間は、これぞという大きな戦闘もなく、関係各国が、いかに大きな利権を得るか、という駆け引きに費やされた訳です。中世ヨーロッパの戦争では、激しく戦いが展開されている時期よりも、休戦状態にある時期の方が、人々にはるかに甚大な被害をもたらします。なぜなら、当時の戦争の主役は傭兵だったからです。休戦状態に陥ると、傭兵は失業します。武器を持った失業者の群れが、戦場周辺の地域の町や村を襲い、略奪や放火をほしいままにするのです。
この結果、あるデータによると、戦争開始前には1800万人あったドイツの人口は、戦争終結時には700万人にまで減っていた、ということです。ペスト並みの被害をもたらした訳です。
それだけの辛苦をなめていれば、ドイツ人が、この条約を「ヴェストファーレンの平和」と呼ぶ気持ちはよく判るというものです。