ガラス張りの国政

甲斐素直

 今回の旅の最後はベルリンでした。私にとって、ベルリンは三度目の訪問です。

 最初の訪問は、まだ東西ドイツに分裂していた時代であった1980年です。ドイツ人自身は、原則として東西間を行き来できなかった時代に、外国人としての特権を生かして東ベルリンに入り、両者の経済力の格差を目の当たりにして感銘を受けたものです。東独入りに際して、東独として外貨獲得のため、西独マルクと交換することを義務づけられていた少額の東独マルクで、レストランで楽々と食事ができておつりが来たことは驚きでした。それにもまして驚いたのが、その東独マルクを使い果たしたので、喫茶店で苦し紛れに西独の10ペーニヒ硬貨(当時のレートで13円くらい)をチップに渡したら、ひどく喜ばれたことです。子供へのお駄賃ならともかく、10円玉をチップに渡すなんてことは、普通ならまず許されることではないし、間違っても喜ばれることではないでしょう?

 二度目の訪問は、1998年に、ポツダム(ポツダム宣言で有名なあのポツダムです)で開催されたドイツ公法学会に参加した折りでした。ベルリンとポツダムの位置関係は、東京23区と三鷹市くらいの至近距離なので、気楽に何度か足を伸ばしたのです。しかし、その時の印象は「ベルリンの光と陰」と題する随筆に述べてありますから、ここでは触れません(興味のある方はhttp://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/deutsch/deutschframe.htmをご覧下さい)。

 今回、ベルリンには夕方に到着しました。この日は、よく晴れていて、旧東ベルリンのシンボルというべきアレキサンダー広場のテレビ塔が、青空にくっきりと見えていました。ホイン教授が、その塔にまつわるエピソードを聞かせてくれました。塔に西日が当たると、展望室になっている球体の部分に十字架が現れるというのです。共産主義と宗教は不倶戴天の敵であるだけに、旧東独政権では、その十字架を消せないかとずいぶん研究したのだそうですが、結局駄目で今に至っている、というのです。実際、バスが東ベルリン側にはいると、十字架型の反射光が我々の目にもはっきり見えてびっくりしました。写真@がそれです。撮影時間が少しずれていることもあり、今ひとつ明確ではありませんが、雰囲気は判ると思います。

 今回の宿は、ホテル・ウンター・デン・リンデンでした。ベルリンの象徴というべきものが、ブランデンブルク門です。ベルリンマラソンでも、この門をくぐった直後にゴールが設定されています。東西に分裂していた時代にはぎりぎりですが東側に属し、西側からはバリケード越しに遠望することしかできない門でした。この門からまっすぐに東側に伸びているベルリンのメインストリートが、ウンター・デン・リンデン通りです。この通りは菩提樹の並木道です。リンデンというのは菩提樹のことで、ウンターが下という意味ですから、この通りの名は直訳すれば「菩提樹の木の下で」ということになり、そのまま歌の題にしても良さそうな、詩的な響きがあります。だからホテルの名も、訳せば「菩提樹の木陰ホテル」ということで、我々はなんとなく感激していました。もっとも、関西から来た人が、「これは要するに所在する通りの名が付いたホテルということやから、心斎橋ホテルとか道頓堀ホテルというのと同じこっちゃ、何も特別なことはあらへん」と、せっかくの感興にせっせと水を掛けてくれましたが。

 三つ星のホテルですから、それほど格の高いホテルではありません。イプセン教授が、旧東独のホテルだから、あまり設備は良いとはいえないが、とにかく地の利が良いから、と説明してくれました。入口あたりは立派で、旧東独的な質の悪さは感じませんでしたが、部屋に入って痛感しました。シャワー部分と洗面部分がきちんと分かれておらず、シャワーを浴びると洗面部分の床までがびしょぬれになります。そして、シャワーのノズルの構造が悪いらしく、噴出する湯が肌にあたるとひどく痛いのです。旅先で一日の疲れを癒してくれるべきシャワーが、浴びると痛いので、できるだけ短めに切り上げる、なんていうのはこれが初めての体験でした。しかし、地の利が良いのは確かで、連邦の官庁のほとんどは、歩いていける距離に全部揃っています。

 今回のベルリン訪問は、そうした連邦機関の訪問にあったのです。具体的に並べると、連邦司法省、連邦首相官邸、連邦議会及、連邦参議院を一日で訪ねて回る、という少々ハードなスケジュールでした。

 朝一番に、まず連邦司法省に司法大臣を訪ねました。当初は、9.30分に訪問する予定だったのですが、司法大臣の都合で、面会が30分繰り上がったので、我々は、8時半にホテルのロビーに集合し、ぞろぞろとベルリンの町を突っ切って行きました。連邦司法省は、戦前の国家司法省の建物をそのまま使っているので、凝った作りのなかなか趣のある建物でした(写真A参照)。もちろん、これは外壁だけで、中は現代的に改装されています。

 司法大臣はツィプリース(Frau Brigitte Zypries)という女性でした。どういう人か興味があって、その日の朝にインターネットで経歴を調べてみました。195311月にカッセルの実業家の娘として生まれたといいますから、会った時点ではちょうど50歳ということになります。ドイツの司法試験は、日本と違って1次試験と2次試験の間が数年の開きがあるシステムなのですが、彼女は1978年に1次試験、80年に2次試験にそれぞれ合格し、大学の助手などを務めた後、1988年からは連邦憲法裁判所の調査官になっています。当時ニーダーザクセン州の首相であったシュレーダーは、裁判所調査官時代に彼女を知り、その能力を買って1991年にニーダーザクセン州の内閣府に彼女を引き抜きました。当初は課長職を勤めていたのですが、95年に局長職に昇格し、さらに97年に同州の女性・労働・社会省の事務次官になりました。そして、翌98年に、シュレーダーが連邦首相になるとともに、彼女もベルリンに移動し、連邦内務省の事務次官に抜擢されました。さらに200210月にシュレーダーが内閣改造を行った際に、司法大臣に抜擢された訳です。48歳の時です。シュレーダーという理解者を得たことが、彼女の飛躍につながったことがよく判る履歴です。

 この抜擢人事は、その前任者が有能な女性司法相であっただけに、かなりの驚きで迎えられたそうです。しかし、それは彼女の能力に疑問があったからではありません。彼女は司法相就任以前から、「シュレーダーの特別任務のスペシャリスト」として知られていました。日本流にいえば、懐刀というところですね。例えば、司法相就任直前期にあたる20028月に、東ドイツを流れるエルベ河が氾濫して世界的なニュースになりましたが、彼女はこの災害の対策委員長として辣腕ぶりを示したのです。司法相に就任した現在は、数十年ぶりの司法改革を推進中といいます。わが国の女性法相が、あまりに無能だということで、解任要求がでる騒ぎになったこととは対称的な話です。

 ちなみにこの第二次シュレーダー内閣は、首相を除く閣僚は全部で12人。うち女性は6人ですから、ちょうど半数です。現在の小泉首相は、日本的な感覚で言えばかなり積極的に女性の登用を行っていると言えますが、絶対的な人数でも、比率でも、シュレーダー内閣には及ばないということです。

 ツィプリース司法相は、年齢的には、閣僚中、下から3番目です。すなわち、環境相が彼女と同い年であり、文化相と消費者保護・食料・農業相の二人が、ともに彼女より2歳若いのです。だから、飛び抜けて若いというわけではありません。閣僚の若さという点でも、シュレーダー内閣が、小泉内閣に勝っているようです。

 司法省の中の会議室が我々との会見場だったのですが、そこには、先の連邦憲法裁判所長官であるリンバッハ女史も顔を見せてくれました。写真Bの右側がツィプリース司法相、中央がシュタルク教授、左側がリンバッハ女史です。

 1時間ほど、ツィプリース司法相と質疑討論を行いました。司法省の方で、我々の訪問に対して、プロの日本人通訳を用意して待っていたので、素人の我々が通訳するのと違い、訳は実にこなれた見事なものでした。質疑内容のほとんどは、専門的なものなので割愛しますが、法律案の事前審査に関する議論だけは、皆さんも関心を持たれると思うので紹介します。

 ご存じのとおり、日本では、内閣提出の法律案については、内閣法制局が中心となって事前審査を行います。わが国最高裁判所では、ドイツなどに比べると違憲判決の数が少ないのですが、法案の事前審査について研究した人の意見では、これには内閣法制局による厳しい事前審査がかなりの程度寄与しているということです。つまり、最高裁判所で違憲判決が出た法律は、議員立法などで、内閣法制局があまり関与していない、というのです。

 それに対して、ドイツでは、内閣提出法案については、司法省が中心となって事前審査を行っています。少なくとも、司法相の自己評価ではきわめて厳しい審査だ、ということでした。そこで、同じように法案の事前審査を行いながら、なぜドイツでは違憲判決の数が多いのか、という質問がでたのです。

 さすがに司法相も苦笑していましたが、その答弁によると、最大の原因は、議会で大幅な修正が行われるのが通例で、一所懸命事前審査してまとめた法案とは、似ても似つかぬものになってしまうのだと、具体的な法案名をいくつかあげながら説明してくれました。それに連邦憲法裁判所が何を違憲と考えるのかは、もちろん内閣のまったく予測しうるところではないと、リンバッハ女史の顔を見ながら付け加えたものです。第二の点は幾分ジョークのところがありますが、第一の政府提出法案が、常に議会で大幅な修正を受けるというのは、日本ではおよそ考えられず、我々として予想もしていなかった話でした。同じ議院内閣制といっても、現実の活動にはずいぶんと違いがあるものだ、と改めて痛感したものでした。

 このレセプションの際、我々は、司法省のマーク入りの用箋やボールペンを貰いました。これはあきらかに見学者用の品で、司法省レベルでさえ、ちゃんと見学者用の準備をしているということに感心しました。ついでにいえば、その後に訪問した首相官邸や連邦議会でもマーク入りのボールペンやタイピンをくれました。このように、どこの官庁でも、見学者が大量にある、という予定でいろいろなシステムができているところが、日本との大きな相違として痛感しました。

 次に首相官邸(Bundeskanzleramt)に向かいました。官邸の入り口には、見学者用のゲートがあり、空港と同様の機械設備による実に厳しい所持品検査がありました。首相官邸に関しては、特定の公務員との会見がセットされていない通常の見学でした。見学者は我々の他にも結構多く、いくつものパーティが内部の見学に歩いていました。最終的には、閣議室まで見せて貰えたのには驚きました。少々細長い形ながら、円卓を使って閣議をしているのは、やはり閣僚の間の序列を目立たせないためなのでしょう。

 連邦司法省が戦前の国家司法省の建物をそのまま使っていたのとは違い、この建物は、今回、首都がベルリンに移転するのに伴って新たに建設されたものです。なぜ戦前の首相官邸を使わなかったのか、と聞いたら、それはヒトラーの最後の戦いで廃墟になっている、という返事でした。

 現在の建物は、最初から大量の見学者がくることを想定して建物を設計したので、通常の職員は、我々見学者が歩き回る広々としたフロアではなく、各執務室をつなぐ細い執務用の廊下が別に作ってあるのだそうです。フロアの一画に、連邦首相が記者会見を行うスペースも作られていました。写真Cは、首相のお立ち台にたって、ちょっと首相気分を味わっている私です。

 首相官邸と、次の訪問先である連邦議会は隣り合って作られています。しかし、外国からの公賓が来られた際、儀仗兵の閲兵などが問題なくできるように作られた、恐ろしく幅広い庭で隔てられているので、普通の感覚の隣というものではありません。

 ドイツの国会は、連邦議会(Bundestag)と連邦参議院(Bundesrat)から構成される二院制です。それなのに連邦議会という、まるで一院制の議会のような名称を採用しているのは、国民代表で構成されているのは連邦議会だけだからです。これに対して、連邦参議院は、各州を代表する機関なのです。しかし、そういう点を除けば、連邦議会は、日本の衆議院に相当する機関と思っていただけば、ある程度イメージはつかめると思います。

 連邦議会では、本来は、事務総長のツェー教授(Professor Dr. Wolfgang Zeh)と会見する予定になっていました。その肩書きに教授とあるとおり、事務総長は公法学者としても著名な方なので、いわば我々の同業者というわけです。しかし、何か知り合いに不幸があってその葬儀に出席したということで、会談はキャンセルになってしまいました。首相官邸から見たときに、連邦議会の屋根に半旗が揚がっていたので、かなりの要職にあった方が亡くなったのだと思うのですが、後で新聞を見ても特に記事はなく、どなただったのかは未だに知りません。

 その結果、事務総長補佐の方から、最近の連邦議会を巡る法的状況について簡単に話を伺い、昼食をとった後、構内の見学をさせていただくことになりました。昼食は見学者用の食堂でとりました。お盆を押していって、好きなものをとるというセルフサービス型のかなり大きな食堂なのです。職員用の食堂とは別に、見学者専用に、これだけの規模の食堂があるということ自体、日本の国会を基準にすれば驚きです。

 構内見学にあたっては、ツェー事務総長のお客だから、ということで、我々の案内に立ってくれたのは、連邦議会に三十人もいるという案内人中、只一人の常勤の女性でした(後の案内人は身分的には非常勤職員なのだそうです)。彼女は、本来なら見学者は入れない職員用の部分にも顔パスで入れてくれ、職場に対する誇りの感じられる、実に熱のこもった案内をしてくれました。

 連邦議会は、戦前の帝国議事堂(Reichstag)の建物を、基本的にはそのまま利用し、それにかなり大幅な増築、あるいは改修を加えたものです。

 新たに建設されたのは、連邦議会の事務棟とでもいうべき部分です。その最大の特徴は、ベルリンを横切って流れているシュプレー川の両岸にまたがる形で作られていることです。まだ東西ドイツに分裂していた時代、東独政府が東西ベルリンをわけるベルリンの壁を造ったことはご存じの通りです。シュプレー川は、一部では東西ベルリンを分断するように流れていましたから、東独政府では、そういう箇所では川そのものを壁の代用品として利用していました。東独から脱出しようとシュプレー川に飛び込んだものの、狙撃されて死んだ人々の慰霊碑があるのは、連邦議会からそう遠い位置ではありません(写真D中央の河畔に立っている白い人型がそれです。写真右端の白いビルが連邦議会の一部で、そこに見える2階部分が、見学者用の食堂です。)。その両岸に跨る形で連邦議会を建てることにより、この建物自体に東西統合の象徴としての意味が持たされているのです。

 もっとも、二つの建物を結ぶのは、地上6階の高さに掛けられた橋が一つあるだけです。河の西ベルリン側の建物は、完成すれば国会図書館になる予定だそうですが、少なくとも訪問した時点では、まだ内装工事の真っ最中で、見ることはできませんでした。二つの建物を結ぶ橋はー案内人の言葉を借りれば、財政担当者にとっては誠に幸いなことにー鳥類保護の観点から、辛うじて屋根と手すりがあるだけで、側面にガラスを付けることは禁じられたために、完全に吹きっさらしの橋です。人が二人すれ違うのがやっとのような実に細い橋ですから、高所恐怖症の人はとても渡れるものではない代物でした。写真Eに写っている二段に重なったもののうち、上段の橋がその連絡橋です。なお、下段の橋は、川岸の通行人用の歩道橋で、建物内部を結んでいるものではありません。

 この橋があるところまで上っていくエレベータの壁も完全にガラス張り。建物の壁もガラス張り。建物内部も、可能な限りあらゆるところがガラス張りか、あるいは吹き抜けになっていて、よく見通しが利くようになっています(写真F参照)。これは、ガラス張りの国政という、これも旧東ドイツの秘密主義に対するもう一つのアンチテーゼを象徴したものなのだそうです。おかげで、高所恐怖症の人は、橋に出られないばかりでなく、エレベータに乗るのにもかなりおびえていました。

 連邦議会の本会議場等として使用される帝国議事堂は、連邦議会の事務棟とは、通路を隔てて、別棟になっています。この建物は、ナチスが政権を握った直後に、政敵を弾圧する口実にする目的で放火して全焼させたために、第二次大戦前から廃墟になっていました。今回、東西統合後の連邦議会本会議場として使用するに当たり、これを徹底的に修復したのですが、その修復のやり方にも驚きました。内装に関しては、旧東独時代に、一応の修復をしていたのですが、それを取り壊して、文字通りの復元を目指したのです。残っていた壁の破片をジグソーパズルのように組み合わせ、どうしても元の破片がないところだけを新しい資材で補完するという、まるで古代の遺跡の復元を思わせるやり方を採用しています。

 さらに驚いたのは、戦争直後の占領時代に、ロシア兵が入り込んで内壁に一面に残した落書きまでも、貴重な歴史的資産(?)の一つであるとして、そのまま保存していることです。その時、私が撮影した映像は不鮮明だったので、写真Gはインターネットからダウンロードしたものです。案内人の説明してくれたところだと、これらの文字はいずれもロシア兵の名と「自分はここに来た」という意味のロシア語だそうです。落書きした者の一人は、その後、国賓としてドイツを訪問してきて、自分の落書きを見つけて喜んでいたそうです。なんと歴史を専攻する教授で、エルミタージュ美術館の館員でした。案内人は、そうやって知り合った縁で、彼に後にサンクトペテルブルクに招待されました。しかし、エルミタージュの素晴らしい美術品を見ながら、ドイツの誇りというべき議事堂を汚し、しかもそれ自体には何の反省もないままに、自分の落書きを見つけて無邪気に喜んでいた行動を思って、実に複雑な気分になったそうです。

 落書きの拝観?を終えたところで、では舞台(Buhne)の方に行きましょうといわれ、意味がわからないままについて行ったら、空中回廊のようなところに出ました。実は、これが普通の外来者であれば歩く、本来の見学コースだったのです。前述の通り、首相官邸の場合には、初めから見学者の受け入れを予定して、建物自体が、見学用のスペースと、執務用のスペースとがふれあわないように二重構造に作られていました。しかし、国会議事堂のように戦前からの建物の場合には、従来の執務用のフロアの上に、空中回廊を新たに設置し、そこから議員たちが働いている状況が、見学者の目に見えるように工夫したのです。そして、この空中回廊部分を、下のフロアから一段高いところという意味で、舞台と呼んでいたのです。

 舞台を歩いてあちこち見ていくと、最終的には屋上に出ました。屋上は、戦前は帝国の権威を見せるべく、わが国の国会議事堂に少し似た重厚な石造りのドームがあり、その先端には塔を少しでも高くして権威を示すべく長い針が取り付けてあったのだそうです。例のしつこいまでの復元方針は、このドームでは完全に捨てられて、再びガラス張りの国政をシンボライズしたガラスのドームが、本会議場の真上に作られていました。写真Hはインターネットからダウンロードした全体の構図です。今日のガラスのドームが、ずんぐりした感じのものであることが判ると思います。

 そのドームから建物の中を見れば、すべての議席がはっきり見えます。写真Iは、ドーム部分から見た本会議場の一部です。議場内部にも広い傍聴席があるのですが、このように、さらに議席の真上からも国民の目が届くように設計してあります。これでは、議員さん達も、本会議の審議がつまらないからと、居眠りしたり、携帯電話でゲームをしたりする訳にはいきませんね。

 驚いたのは、このガラスのドームの内側に、らせん状に道が造られていて、ぐるぐると登っていくとドームの頂点に立つこともできるようになっていたことです(写真J参照)。

この道は、DNAよろしくの二重らせん構造になっていて、登り道と下り道が別にあります。この日も、非常に多くの人が、ドーム登りを楽しんでいました。帝国議事堂の外に出ると、そこには大変な長蛇ができて、入り口の身体検査機の通過する順番を待っていました。この、開かれた国政のシンボルとして建設されたガラスのドームは、いまや、ベルリンでも最高の観光スポットになっているようでした。

 最後の訪問先は連邦参議院でした。それはライプツィヒ通り3番地というところにあり、連邦議会からは歩いて15分程度かかりました。東西を隔てていた壁が撤去された跡に、ポツダム広場といって、ソニービルを中心とする新しい商業の中心地が作られていますが、そのそばです。

 この建物は、元々は貴族の館でしたが、最初はプロイセン議会、ついで北ドイツ同盟議会、ドイツ帝国成立後はプロイセン州議会、というように、その役割を転々と変え、ナチス時代や旧東ドイツ時代は官庁の庁舎になっていたこともあるという実に複雑な歴史を持つ建物です。首都のベルリン移転が決まるとともに、ここが徹底的に改装されて、連邦参議院とされたわけです(写真K参照)。

 連邦参議院では、その事務総長のブロワー氏(Dirk Brouer)を訪ねて会談しました(写真Lの中央がブロワー氏。左がシュタルク教授、右がイプセン教授)。いろいろと質疑をしたのですが、これも少し内容が専門的になりますから、大半は省略します。しかし、一昨年の連邦憲法裁判所の判決が話題になったということだけは、紹介しましょう。

 この判決を理解するには、ドイツの連邦参議院という制度について判っていただく必要があります。ドイツは二院制という点では日本と一緒です。しかし、日本の参議院のように、あらゆる法律について決議権を持っているのではなく、憲法上、連邦参議院の同意を必要とすると明記されている種類の法律案(抽象的にいえば各州の利害に関係する内容のもの)だけに限定されます。もっとも、日本の法律でも、その実施を地方公共団体にゆだねるものは結構ありますが、ドイツの場合にも、各州に実施をゆだねるものはやはり多いので、連邦参議院の同意を要する法案の数は、けっして少なくありません。

 また、参議院といいますが、これを構成しているのは、州政府です。ドイツの場合、州レベルでもわが国の国会と同じように、住民は州議会議員を選出し、州議会が首相を選出し、首相を中心に州政府が組閣されます。したがって、固定的な連邦参議院議員というものはいないのです。そのため、各州は、基本的には人口に応じて行使できる票数が決まっていますが、これは憲法51条の定めるところにより、必ず統一して行使しなければならないとされています。

 現在、連邦レベルにおいてはSPDと緑の党の連立政権ですが、各州の政権には、様々な組み合わせが存在しています。事件は、2002年に起こりました。ある法律案が政府与党によって連邦議会に提案され、これに野党のCDUなどは反対していました。連邦参議院にも提案されたのですが、地域の利害が絡む問題だったので、州政府の判断が、連邦レベルにおける政党の判断と一致するとは限りません。例えば、CDUが単独で政権を握っている州でも、この法案に賛成したところもありました。

 問題になったのは、ブランデンブルク州でした。この、ベルリンをドーナツのように取り巻いている州では、その時点においては、SPDCDUの二大政党による、いわゆる大連立政権が成立していたのですが、この法案に関しては、SPDは賛成、CDUは反対と、政権内部で意見が対立したのです。普通、このような意見の対立が生じても、連邦参議院での評決時点までには何らかの妥協が成立して、統一行使できるのが普通でしたが、このときは、実際に議場で評決されるときまで、決着がついていませんでした。他の州の賛否は事前に明らかになっていた結果、皮肉なことに、この法律案の命運は、ブランデンブルク州の投票によって決まることになっていました。つまり、同州が賛成すれば、同州の握る4票が加わる結果、全体としても賛成多数で成立、反対するか棄権すれば賛成が過半数を割って不成立というわけです。

 評決時に、議長がブランデンブルク州に尋ねたところ、SPDから出ている州首相は賛成と答えましたが、同席していたCDUから出ていた閣僚が「議長、私の意見はご存じですね」と叫んだのです。そこで、改めて議長が州首相にどちらですか、と聞いたところ、州首相は「州首相として、この法案に賛成します」と答えたので、議長はブランデンブルク州を賛成と数え、法案を成立させました。

 これに対して、法案に反対した州から、当然に違憲訴訟が憲法裁判所に提起されました。20021218日に、憲法裁判所は、議決手続きに違憲の点があり、法案は成立していないと判決しました。判決理由の細かい理論はここでも省きますが、要するに議決権を統一的に行使できないと決まった段階で、議長は、その州を棄権として扱うべきだった、というのです。具体的に言えば、ブランデンブルク州の意見を2回も聞いた点に違憲性があるとされました。

 実際問題として、この法律案における対立は大した問題ではなかったようです。判決を受けて、SPDCDUとの間で協議した結果、妥協案が成立し、それに基づいて連邦議会ばかりでなく、連邦参議院でも問題なく法律として可決・成立しているからです。

 連邦参議院も、議場に大きな傍聴席が用意されているなど、ガラス張りの国政の一環を担う施設や人員の配置をしていました。しかし、連邦議会や連邦首相官邸が、いつも見学者が行列を作るほどであるのに対して、これまでは閑古鳥が鳴いていたのだそうです。ところが、この判決で一躍社会の関心を集めたものですから、それ以来、見学者が急増したとブロワー氏は笑っていました。

 この判決のような問題が起こるのは、今の連邦参議院が州政府で構成されているため、議決権の不統一行使ができないためです。そこで、連邦参議院事務局では、今後は、連邦参議院議員については、州民によって直接選挙され、従って、不統一行使も可能な形に改革すべきではないか、と考え、現在、事務局にプロジェクトチームを作って研究しているところだそうです。

 憲法改正を必要な事項について、当の国家機関が真っ正面から研究する、というのも、日本ではあまり考えられないことです。しかし、ドイツの場合、現行憲法が1949年に制定されて以来、毎年のように改正が行われてきている国だから、といえるでしょう。

 こんなところが、今回のベルリン訪問でした。読まれて判るとおり、どこでも開かれた国政というのは、国民が建物内部にまで入って見られることだ、という意識が徹底している点に感銘を受けました。

 我が憲法は、国会の本会議を公開すると定めていますが、ご存じの通り、現実問題として、随時見学できる状態にはありません。ごく最近造られた首相官邸でさえも、このような大量の見学者を想定した設計にはなっていません。ガラス張りの民主主義というのは、単なる理念ではなく、このように大量の見学者を想定した建物の設計を行うところから始まらなければいけないということを痛感したものでした。

 もっとも、上記の通り、ガラス張りの施設は、開かれた国政のシンボルだったはずです。しかし現実には、そのおかげで、見学者の挙動などがよく見えて、それが警備上も非常に好都合だという説明に、歴史の皮肉を感じました。