どぶろく製造と人権

甲斐素直

問題

 酒税は、明治時代には国家税収の3~4割に達し、財政を担う重要な租税であった。今日においても所得税、法人税と共に国税3税と呼ばれ、地方交付税の基礎とされているのはそのためである。このように重要な租税であったため、酒税徴収の確実を期するため、課税は製造元から出荷する際に行う(蔵出し税という)とともに、製造元を確実に把握するために、酒類の製造にはすべて税務署による許可を必要とされている。その違反には刑罰が科される。かつては自己消費目的の場合にもまったく例外が認められなかったが、1962年に法改正が行われ、家庭で梅酒などリキュールを作る事が許されるようになった。ただしその場合にも漬け込むアルコールの度数は20度以上とするなど条件は厳しく、著しく例外規定的なものとなっている。

 

Xは、酒税法が、無免許で酒類を製造することを刑罰を以て禁止していることを知りつつ、どぶろく作りはわが国の重要な食文化のひとつであり、それを作ることは、単なる趣味や嗜好ではなく、現代管理社会において人間の復権を求める「私事に関する自己決定権」の一態様であり、根本的な幸福追求の行動であるため、酒税法が徴税の便宜を理由にどぶろく作りを規制することは、立法府の裁量権を逸脱するものであり、憲法に違反しているという信念の下に、自己消費目的のために、あえてどぶろくの製造免許を申請することなく、37リットル製造した。このため酒税法54条1項に違反するとして、起訴された。

 この事例における憲法上の問題点について述べよ。

参照条文 酒税法

1条 酒類には、この法律により、酒税を課する。

3条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

23 雑酒 第七号から前号までに掲げる酒類以外の酒類をいう。

6条 酒類の製造者は、その製造場から移出した酒類につき、酒税を納める義務がある。

7条 酒類を製造しようとする者は、政令で定める手続により、製造しようとする酒類の品目(第三条第七号から第二十三号までに掲げる酒類の区分をいう。以下同じ。)別に、製造場ごとに、その製造場の所在地の所轄税務署長の免許(以下「製造免許」という。)を受けなければならない。ただし、酒類の製造免許を受けた者(以下「酒類製造者」という。)が、その製造免許を受けた製造場において当該酒類の原料とするため製造する酒類については、この限りでない。

43条 酒類に水以外の物品(当該酒類と同一の品目の酒類を除く。)を混和した場合において、混和後のものが酒類であるときは、新たに酒類を製造したものとみなす。ただし、次に掲げる場合については、この限りでない。

11 前各項の規定は、政令で定めるところにより、酒類の消費者が自ら消費するため酒類と他の物品(酒類を除く。)との混和をする場合(前項の規定に該当する場合を除く。)については、適用しない。

54  第七条第一項又は第八条の規定による製造免許を受けないで、酒類、酒母又はもろみを製造した者は、五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

酒税法施行令

5014項 法第四十三条第十一項 に該当する混和は、次の各号に掲げる事項に該当して行われるものとする。

 当該混和前の酒類は、アルコール分が二十度以上のもの(酒類の製造場から移出されたことにより酒税が納付された、若しくは納付されるべき又は保税地域から引き取られたことにより酒税が納付された、若しくは納付されるべき若しくは徴収された、若しくは徴収されるべきものに限る。)であること。

 酒類と混和をする物品は、糖類、梅その他財務省令で定めるものであること。

 混和後新たにアルコール分が一度以上の発酵がないものであること。



[はじめに]

(一) 清酒とどぶろくの異同について

 日本の酒税法は、清酒について基本的に「米、米こうじ及び水を原料として発酵させて、こしたもの」(37号イ)という定義を与えている。この粗雑な定義による限り、現実に清酒として製造・販売されているものと、いわゆるどぶろくの、いずれも清酒に該当する。しかし、本物の清酒は世界の酒でも他に例をあまり見ない複雑な工程を経て製造されるものであり、時間的にも、まるまる冬季1シーズンを要するものである。素人が短期・単純に少量の製造をすることができるものではない。これに対し、どぶろくは、単純な工程で、ほんの数日で製造できる。使用する器具も単純なので、家庭で簡単に製造できる。

 このように全く違う作り方をするどぶろくを、政府があえて清酒の定義の中に含めたのは、酒税の歴史と密接な繋がりがある。すなわち、明治初期には米の消費抑制の狙いから、酒税は比較的少額だったし、自家消費用を課税対象としたりはしなかった。しかし、日露戦争で発生した膨大な軍事費により財政破綻を起こしたわが国は、その対応策の一環として、酒税を大幅に増徴した。それに耐えかねた清酒製造業者をなだめる手段として、家庭でのどぶろく製造を禁止し、酒を飲みたければ、市場から購入するしかない状況を作り出したのである。つまり、酒類製造業者保護の目的で、酒税法はわざと清酒の定義を曖昧にしている。早い話、清酒という言葉は、澄んだ酒でなければ字義に合わないのに、この定義はその要素さえも取り入れていないから、濁酒も清酒に属することになる。

 こういう点は、憲法31条にいう明確性基準(曖昧性故に無効法理)に違反するのではないかということが問題になる。しかし、何が清酒なのか、などという問題は、諸君の一般教養を遙かに上回るやっかいな問題で、とうていまともに議論することは不可能であろう。この論点を回避するために、本問では、単純にどぶろくというものの家庭製造を禁止することの憲法的妥当性だけを検討するよう、問題文を複雑なものとしている。

(二) 幸福追求権

 問題文を読めば、ここで論じられているのが、憲法13条にいう幸福追求権の問題であることは自明であろう。したがって、必然的に人権論の基礎が問題になる。

 この問題は、有名などぶろく裁判(最高裁判所第一小法廷平成元年1214日判決及びその下級審判決)に依拠したものである。しかし、本件判例そのものは、実はこの問題を検討するのにあまりふさわしいものではない。なぜなら、被告の主張を完全に無視し、単純に租税問題における裁判所の司法判断権の問題として捉えているからである。そこで、諸君にしっかりとこの幸福追求権の問題として捕らえてほしいと考え、敢えて詳しく被告の主張を問題文中に書き込んでみたものである。

一 幸福追求権の歴史

 本問の基本的な論点になるのは、幸福追求権である。幸福追求権を巡っては、重大な学説対立がある。すなわち、幸福追求権は包括的基本権であるから、幸福追求権がどういう条件がある場合に認められるかは、人権がいかなる場合に認められるかとイコールである。したがって、人権の基礎として、人格的利益説を採用するか、それとも一般的行為自由説を採用するべきか、というところから、本問の議論はスタートさせねばならない。ここでは、その議論の道筋を簡略に説明する。

(一) 外在的一元論

 現行憲法の初期における人権理論は、明治期の「法律の留保」概念の下に、人権に議会の立法裁量に基づく制約があるのは当然とする思考に親しんできた憲法学者達によって構築された。彼らは、近代資本主義を築いてきた所有権の絶対などの概念と、その限界に関する議論を知っていたから、すべての人権が留保なしに保障されるという状況に非常な恐怖感を覚えたのである。そこで、人権も法律により制約することが当然に可能であるべきだ、という前提から出発して、憲法典中で手頃な文言を探した。そこで目を付けられたのが、本節の主題である「公共の福祉」という文言だったのである。

 すなわち、美濃部達吉に代表される初期の通説は、旧憲法における法律の留保に代わるものとして公共の福祉概念をとらえた。

「自由であるからといって自分の欲するままにいかなることでもなしうるというのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことはもちろん、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利はただこれらの制限の下においてのみ認められるのである。」

美濃部『新憲法逐条解説』増補版、日本評論新社昭和31年刊60頁=初版昭和22

 すなわち、公共の福祉の意味を公益ないし公共の安寧秩序と理解し、その判断権者として国会を擬した。ここでの公共の福祉は、人権の内容とは関係なく、公的必要性として外から来るものとして把握されている。

 昭和23312日の死刑違憲訴訟に関する最高裁判決が、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。」と大上段に構えながら、その直後に無造作に「公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制約乃至剥奪されることを当然に予想しているものと言わねばならぬ」と切って捨てているのは、この立場の典型的な現れである(百選262頁参照)。

(二) 内在・外在二元論

 このような戦前の残滓ともいうべき説に対して、現代人権思想に則った解釈を示そうという努力が直ちに現れてきた。代表的には、伊藤正己、鵜飼信成、高柳信一、田中二郎等によって組織された法学協会の総意として主張されることになる。

「本条は、強力な保障を持つ権利と自由とを与えられた国民の側に、一定の倫理的な指針を示したものであり、『自由または権利に伴う、いわば個人の心構えとしての、内在的限界』を明らかにしているにすぎないのである。」

法学協会『註解日本国憲法』有斐閣昭和28年刊、335

 この説は、公共の福祉という文言が、12条、13条という総論規定のほかに、22条及び29条という個別規定にも現れている点に目を付けて、公共の福祉を二種類に分類するという立場を打ち出した。基本的に上記外在的制約説を旧憲法の亡霊として排斥する一方で、公共の福祉概念を、自由国家的な公共の福祉と社会国家的な公共の福祉とに分類した。22条や29条の公共の福祉は社会国家的な制約に服するもので、美濃部説と同様に外在的制約に服するが、12条や13条は、単なる倫理的な制約を説くものに過ぎず、実質的に人権を制約する場合の根拠とすることは出来ない、と説いたのである。これは美濃部説等に対する鋭い批判で、まさに戦後の人権学説の第一歩と言えるものである。

 だが、いくつかの根本的な欠陥をはらんでいた。第一に、社会権ならばなぜ外在的制約が許されるのか、という理由がはっきりしないことである。よりはっきり言うならば、現行憲法のよって立つ個人主義原理の下で、すなわち全体の利益に反してでも、必要とあらば個人の権利を守るという原理の下で、なぜ公益ということが人権の制約原理になるのかが判らないのである。第二に、自由権についても実は無限に人権の享有が許されるのではなく、権利に内在する制約はある、と説くのだが、その内在的制約という概念の内容もまたはっきりしなかったことである。そして、第三に、その後のわが国社会の変化に応じていわゆる登場してきた新しい人権のために、13条が、その積極的な根拠として活用される必要が増大してきたが、そのことと、この説の前提としている単なる訓示規定だという考えとが融和しにくいことである。

(三) 内在的一元論

 こうした膠着状況を解明したのが、宮沢俊義の説かれた内在的一元説である。まず、内在的制約とは実質的公平の原理、すなわち人権と人権の衝突の場面における調整原理である、と内在的制約の概念を確立する。その上で、上記自由権的制約と社会権的制約との差を、内在的制約の、個々の権利における差異として説明する。

「これを交通信号にたとえていえば、自由国家的公共の福祉は、すべての人を平等に進行させるために、あるいは青、あるいは赤の信号で整理する原理であるに対して、社会国家的公共の福祉は、特に婦人・子供・老人または病人を優先的に進ませるために、他の人間や車をストップさせる原理であるとも言えようか。」

宮沢『憲法Ⅱ[新版]』有斐閣法律学全集4、昭和46年刊236頁=初版昭和34

 伊藤正己は、この人権相互の調整に加えて、自由国家にとっての最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止があるということも、内在的制約として捉え得ると説く(伊藤『憲法』第3220頁)。一見もっともな気がするが、何をもって最小限の社会秩序の維持と捉えるか、という点を通じて最初の公益説が復活しそうな気がして、私はあまり賛成できない。仮にその最小限基準が他の人権ということになれば、結局人権相互の調整説に帰着するわけだから、この第2の基準は不要なものだと考える。

 このように、個別の人権ごとに、それぞれの内在的制約の内容を検討して初めて、人権についての制約原理が明らかになるということは、公共の福祉論概念というものが、総論レベルでの統一概念としては、この説によりとどめを刺され、終止符を打ったということを意味する。すなわち、この宮沢説を受け入れる限り、公共の福祉というのは、単なる内在的制約という言葉と同義のテクニカルタームであるに過ぎない。諸君の多くが、具体的人権を論ずるに際し、予備校答案の影響から来る悪い癖で、いとも無造作に「人権は公共の福祉による制約に服する」と書く。しかし、それは、美濃部的な古い発想で、今日では誤った記述であることを認識して欲しい。

 この宮沢俊義の理解を一言で片付ければ、人権とは他者加害の禁止である。

二 今日における幸福追求権

 宮沢俊義は、人権というものを所与の概念としており、その根拠を特段掘り下げて検討しなかった。今日の人権論はその点から出発する。

(一) 一般的行為自由説

 一般的行為自由説とは、次の様な説である。

「幸福追求権は個別の人権規定で保護されると解釈できない行為・状態・法的地位を広く保護対象としていると考える説である。」

(赤坂正浩『憲法講義(人権)』信山社刊、269頁より引用)。

 もう少し正確に紹介すると次の様に言うのが妥当であろう。

「国家権力を制限して個人の権利・自由を擁護することを目的とする近代立憲主義の理念に照らせば、個人の自由は広く保障されなければならないと解される。散歩、登山、海水浴、自動車の運転など、たとえ個人の行為に人格的価値が認められない行為であっても、国家は正当な理由無く制限してはならないのであって、その意味で、憲法上の保護は個人の自由な行為に広く及ぶと解するのが妥当である。」

戸波江二『憲法(新版)』ぎょうせい刊、176

 あるいは人格的利益説との対比から説明する論者もある。

「『人格』は、客観的な倫理規範として認められた概念であるのに対して、『幸福』は主観的利益に拘わる別の概念である。倫理的・客観的価値を有する行為だけを保障せんとする理論は、自由にとって最も脅威となる。したがって、『幸福追求権』は『非人格的な』利益であっても、保障の対象とするものでなければならない」

(阪本『憲法理論Ⅱ』成文堂刊、239頁)。

 一般的行為自由説は、ドイツにおける人権の本質に関する通説的な見解である。わが国においては、学説的には後述する人格的自律説とほぼ二分する勢力となっている。しかし、人格的自律説の主唱者である芦部信喜が司法研修所の教官を長く務めたことや、佐藤幸治が司法試験委員を長く務めたことから、判例はほぼ完全に人格的自律説にたっている。

 この一般的行為自由説を純粋に採れば、殺人の自由とか窃盗の自由なども認めることになる。これは、上述した宮沢俊義の内在的一元説そのものである。今日においても内野正幸の様な強力な論者が存在する。

 しかし、宮沢俊義のように殺人の自由を肯定するのは躊躇われるので、普通はこれをある程度限定して論じようとする。どのように限定して論じるかによっていくつかの説に分かれているが、それらをまとめて限定的一般的行為自由説と呼ぶ。

 第一の説は、他者加害のうち、特定の種類のものは人権にはならないと主張する。

「一般的自由があらゆる自由を取り込むとすれば、殺人の自由、自殺の自由、強盗の自由なども憲法上の権利行使隣、常識に反するという批判があり、これには理由がある。そこで、一般的自由にも限界があり、それを『他人の権利を侵害しない』ということに求めるのが妥当であると解される。他者加害の禁止は、本来は人権制限の正当化の局面で働くが、きわめて明瞭な他者への侵襲はそもそも一般的自由の保護領域から除かれるべきであろう。ただし、他者加害の態様や程度はさまざまであり、憲法上の保護を受けない他者加害は、刑法犯のうちでも重大で自然半的なものに限定するべきである。」
(戸波江二『幸福追求権の構造』公法研究5818頁=有斐閣)

 この見解に対しては、人格的自律説から次の様な批判があることは念頭に置いておくべきであろう。

 この説のように、一般的行為自由の外延を憲法上画そうとすれば、「結局『公共の福祉に反しない限り』とか『他者を害しない限り』での一般的行為ということにならざるを得ないのではないか、そうした『権利』の捉え方はそもそも『基本的人権』という観念と両立するであろうか」(佐藤第三版447頁)。

 戸波江二の考え方では、刑法犯のうちで他者の権利を侵害することのない犯罪(例えば自殺関与罪や猥褻物陳列罪)が罰せられる理由を説明することができない。そこで、阪本昌成は

「加害原理」(他者加害の禁止)と「感情侵害原理」(①通常人の感受性からみて、②明らかに耐え難いほどの精神的深い・苦痛の念を生じさせ、しかも③本人がその種の刺激を回避する余地のない状況にある場合に適用される)及び「直接的功利主義」(不特定多数者が享受し、しかも、いずれは自分も享受するであろう利益を、誰かの基本権と引換にすることについてのルール)の場合には、人権制約を肯定すると説く(阪本『憲法理論Ⅱ』167頁以下参照)。

 ただし、同じ一般的行為自由説を採用していても、戸波江二などは、概念の中核として、人格的利益説を採り、周辺部分で一般的行為自由説を採るという折衷説をとる。したがって、この説を採る場合には、単純に上記のように一般的行為自由説を採用する理由だけでは、理由付けにならない。まず人格的利益説の正しさを論証し、かつ、その周辺における一般的行為自由説の正しさを論証しないと、この説を採用する理由にはならないのである。その上で、そのいずれであるかにより、審査基準論による基準が、異なると論じて、始めてその説を完全に説明したことになる。戸波江二はいう。

「国家権力に対して個人の自由な領域を確保するという自由権の本来の意義に照らして、個人の自由な行動が広く保障されるとし、①人権保障の範囲を限定すると、実質的に人権保障を弱めることになる、②人格的価値にかかわらない行為については、相対的に弱い保障を認め、緩やかな審査基準を使用すればよい」(新版76頁より引用)

 このように、そのいずれであるかにより、審査基準論で採用される基準が、異なると論じて、始めてその説を完全に説明したことになる。戸波江二は、芦部信喜の弟子として、人格的利益説の正しいことは自明のこととして、教科書では特に議論していないが、諸君の論文では、そのような、ある説を自明のこととする書き方は許されないのである。

 このように戸波江二説などでは、中核に人格的利益説が残っているから、以下に人格的利益説を論ずる場合のかなりの理由は、この説においても使用可能となると考えて良い。実際、「生命に関する自己決定は、人間の生にとってもっとも根元的なものである」(同186頁)と述べて、このことを裏付けている。長谷部恭男の記述は今ひとつはっきりしないが、このあたりでは同じ考え方と思われる。

(二) 人格的利益説から

 人格的利益説がドイツにおいて唱えられた原点は、基本的に一般的行為自由説に対する批判説である。そこで、同説が非常に幅広く人権概念を肯定することに対する批判が出発点となる。そこで、この説を採る場合、次の指摘が必要となる。

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。
 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容をいかに限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、「人格的利益」という概念を使用する。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることが判るであろう。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それから派生する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。

 この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。

 第一点については、可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由、判例上問題になった髪型の自由やバイクに乗る自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記348頁より)、と説明することになる。

 第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良い。

 この説の場合、人格的生存に不可欠か否かは、自然法思想の場合であれば、自然権という概念に求めることになる。しかし、わが国では基本的に実証法思想に立つから、その様なラフな論理はとれない。そこで、次の様に説かれることになる。

「自然法論に立ちえないとすると、個人と社会・国家との関係のあり方に関する理論(moral theory)を想定し、日本国憲法が『基本的人権』というとき依拠していると考えられるmoral theory(道徳理論)とは何かを問わなければならないことになる。」(佐藤幸治『日本国憲法』111頁)「したがって、憲法が導入の前提とする『基本的人権』とは、このような道徳理論上の権利、端的にいえば『道徳的権利(moral rights)』であることを意味する。」(同121頁)

 この結果、窃盗や殺人のような社会道徳的に許されない行為は、そもそも人権となる事はできない。また、人の悪口を言うことや、人の陰口をきくことも社会道徳的には是認されないから、当然その様な行動が「人格的生存に不可欠な」基本的人権として評価されることはない。すなわち、名誉毀損やプライバシーの権利の侵害行為は、そもそも表現の自由には属さない。一般的行為自由説の場合に、その様な行為に表現の自由の成立を認め、プライバシーの権利との比較衡量を論じるのと端的な相違を示すことになる。

 今ひとつの重要な点が先に自殺関与罪などで言及した他者加害とならない犯罪についてどう考えるか、という点である。このような自己加害も一定の場合には社会道徳的に禁止されると考えれば、その様な行為自由が人権として考えられることはあり得ないという答になる。

(三) 補充性

 もう一つ大事な論点が残っている。それは補充性である。幸福追求権を、包括的基本権として論じた場合、それは15条以下の有名基本権と競合しうるのか、という問題である。包括的基本権を、普通の法学の言葉で議論すると、一般法ということになる。それに対して、有名基本権は特別法である。だから、特別法が成立する場合には、一般法の適用はない。つまり、幸福追求権は、有名基本権が成立しない場合にのみその概念を考える実益がでることになる。結果として、無名基本権の保障規定となる。

 注記して置くが、この説明は、諸君に直感的に理解して貰うためのものである。すなわち、なぜこれが一般法と考えられるのか、という点についてはきちんとした別の説明が必要である。その点については、諸君の基本書と相談して、説明を確立しておいて欲しい。

三 自己決定権について

 問題文中で、被告は自らの行動について「自己決定権」という表現を使用している。

 この言葉の意味は、幸福追求権をどのように把握するかにより、大きく異なる。細かな違いを無視して分類しても、三通りの理解が知られている。

 第一に、自己決定権を緩やかに把握する立場がある。現代パターナリズム(Paternalism)の出現前に把握されていた、すべての自由権の基礎となっていた自己決定権の意味で捉える、と考えれば良いであろう。その場合には、内心の自由や信教の自由など「憲法が例示する諸自由の前提ないし上位概念と考える」(山田卓生「私事と自己決定」法学セミナー30958頁)のが、その典型である。

 第二に、一般的行為自由説の立場からの自己決定権に対する把握がある。この立場では自己決定権とは人権そのものの別の呼称に過ぎない。すなわち、「他人に危害が及ばない限り、公権力から干渉されることなく、自らのことは自らが自由に決定しうる権利」と理解する(阪本昌成『憲法理論』Ⅱ 256頁以下参照)。

 第三に、人格的利益説に立つ場合には、「一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく、自ら決定することができる権利」と佐藤幸治は定義する(注釈憲法302頁)。単に「一定の重要な」という制約が加わっている点が異なるだけで、後は一緒である。なお、同じ佐藤幸治が、教科書の方の定義には、「重要な」という一句をはずしている。

 被告の主張は、このうちで、人権の基礎に関する一般的行為自由説に依拠したものである。人格的利益説に立った場合にも、どぶろくを飲む権利は「一定の重要な私的事柄」に該当しないのか、という疑問が出る。

 以下、少し掘り下げて説明する。

 自らの行動については、本人自らが決定しうるという権利は、個人主義を根本原理とする憲法体系の下にあっては、それが肯定されることは自明の理と思われる。にもかかわらず、人格的利益説の下で、それがあえて独立の人権として議論の対象となるのは、現代福祉国家が生んだ逆説的状況のためである。

 近代社会は、個人の自由を絶対的に重視し、そこへの国家の干渉を排除するところから出発する。近代社会にあっては個人が自らの行動を決定する自由はまさに自明のものであり、そこで論じられたあらゆる自由権は、今日の目から見れば、仮にそれを自己決定権と呼べば、それを総論とする際の各論ともいうべき位置づけの中で考えることができる。そこでは、文字どおりあらゆる自己決定が、権利として尊重されていた。シェークスピアの名作「ベニスの商人」に示されるように、自己の生命や身体を破壊する、という内容の契約でさえも、自己決定の尊重から、その遵守が裁判所によっても強制されるという状況にあった。生命を左右する契約でさえその有効性が認められるならば、自己の肉体の自由を制限するにとどまる程度のことを内容とする契約(例えば債務奴隷、芸娼妓契約)が許容されたのは、当然といえるであろう。

 こうした契約の自由を中核とする近代社会は、しかし、やがて大きな壁に衝突することになる。機械的な自由の尊重は、むしろ個人の尊厳を傷つける結果を招くことが、広く認識されるようになったのである。ここで、素朴な形の自己決定を権利視することには大きな限界が課せられるようになった。

 この限界を、英米法のように、パターナリズム一辺倒で説明しても良い。しかし、わが国は、個人の自由に対する国家の干渉を、社会権という概念と、パターナリズムという概念の両者をともに使用して、説明するという憲法理念を採用している。このように人権擁護者として国家が登場することにより、結果として、私権は、大きく二つの概念に分裂することとなった。財産権と人格権である。

 財産権とは一般に「権利者が自由に使用、収益、処分することのできる権利」と定義される。要するに、近代市民社会の理念がそのまま通用する権利のことである。

 これに対して、人格権とは、「個人の基本的な属性である人格そのものを内容とする権利」と定義される。人格権においては、権利者は、その権利を自由に使用、収益、処分することが禁じられる。それが具体的な権利であることが認められるのは、唯一、その権利に対して違法な侵害があった場合に、それが不法行為を構成し、損害賠償の請求をなし得る点においてである(民法709条)。

 人格権には、具体的には生命権、貞操権等があるとされる。人格権に関しては、国家は、権利者自身が行使することを制限し、あるいは禁止する立法を行うことができる。換言すれば、権利者が自ら人格権を処分する行為を、刑事処罰の対象とすることができる。現行法令における実例を挙げれば、生命については、自殺関与罪(刑法202条)が、貞操権については、売春防止法がある。

 この様な理解により、いったん権利関係の理解は安定状態を得たように見えた。しかし、現代社会の激しい流動性は、従来になかった新しい問題を生みだし、国家の人権擁護者としての地位の無条件の承認は、再び大きな問題意識を持ってみられるようになった。

 生命権に関する問題は、近代医療技術の発達により、生命の人工的な延伸が可能になった点から発生してきている。以前であれば、当然に死亡していた者が植物人間となって生存を続けたり、あるいは到底生き続けられないような激しい苦痛の中で、なお生き続けることが可能になったりする、という現象が起きてきたのである。そのため、前者に関する尊厳死、後者に関する安楽死が議論の対象となるようになってきた。しかし、これらは本人の請託がなければ殺人行為に、本人の請託に基づく場合には自殺関与行為に、それぞれ該当し、刑事処罰の対象となる。このため、服役する覚悟がない限り、医師や近親者としては容易に実行し得ないのである。

 また、男女同権の確立による女性の社会進出は、社会地位を守るための不断の闘争という、従来の男性中心社会であれば男性についてだけ起きた問題に、女性も巻き込まれる状況を生みだした。その場合、妊娠・出産という女性特有の生の営みは長期にわたる活動能力の低下を意味するから、女性を社会的闘争の場面で著しく不利な立場に置くことを意味する。この結果、母性という、従来の価値観の下においては国家の擁護の対象となる概念を、女性の選択の対象として把握する必要が発生してきた。これをリプロダクションの権利と呼ぶことになる。

 すなわち、これらの場合には、人格権概念がかえって個人の尊厳を破壊するという逆説的な状況が再び発生してきたのである。なお、欧米の場合には、わが国よりはるかに問題は深刻である。キリスト教的倫理観の下に、同性愛や妊娠中絶など、わが国では当然に個人の自由の問題と認識されている行為が、今も国家のパターナリスティックな干渉の下にあるからである。

 そこで、人格権概念に一定の限界を与え、一定の場合に権利者本人に権利行使を認める手法として、自己決定権なるものがいわれるに至ったと考えることができる。こうした紆余曲折を経て論じられるようになったものであるだけに、今日のそれは、近代市民社会誕生当時のそれのように、無限定に主張することは考えられない。どのような手法で、その限界を画するかが、自己決定権を論ずる場合には、もっとも重要な問題となって現れざるを得ないのである。

 自己決定権とは、その程度に重い概念であり、本問における、自分の造った酒を自由に飲む権利という軽いレベルにおいては、本質的に妥当することのない深刻な問題なのだ、ということを理解してほしい。例えば、自己決定権は生命権に関しては一般に承認されない。例えば、自殺を図った者に対する延命治療は、本人の意に反することは明らかであるが、是認されている。それは、自己の生命に関する自己決定権は承認されないことが明らかだからである。その場合、自殺を図った理由が宗教上のもの(例えば殉教)であったとしても問題にはならない。そうであるならば、常識的に言って、同じく宗教上の理由によるものである以上、輸血拒否だけが例外となるわけがない、といえる。例えば、エホバの証人輸血拒否事件における最高裁判例を読む際に、注意して欲しい点である。

 自己決定権は、後述する人格的利益説と密接に結びついた形で論じられるので、人格的自己決定という言葉で呼ばれたりする。例えば、髪型や服装を自由に決定する権利は、よく間違えて、自己決定権と言われたりするが、人格的自律説からは間違っても自己決定権に含まれない。逆に、一般的行為自由説からすれば、一般的自由の典型である。

四 自分の造った酒を飲む権利

 本問で被告が主張している自由を「自分の造った酒を自由に飲む権利」という概念として捉えた場合、これは、仮にあらゆる権利を精神的自由権と経済的自由権に分類する場合には、精神的自由権に入る権利と考えて良いであろう。経済的利潤を追求する自由ではなく、やりたいことをやれるかどうかが問題になっているからである。

 かつては、味は二の次で安く飲めさえすればよいという発想からどぶろくが造られた時代があった。その当時は、どぶろくを飲む自由は、単純に経済的自由権の一環として把握できたであろう。しかし、現代という時点で考えた場合、どぶろくは、たいていの場合、それを造るのに必要な手間暇や施設まで含めて考えれば、市販の清酒の最廉価のものと比べれば、より高くつく。それでも、自分の手で造った酒を飲みたいと主張する場合が、本問の基本的設問といえる。その時に、それを禁圧する権利が国にあるか、ということが、ここでの問題である。

 まず、これが有名基本権に属する類型かどうかである。有力説は、それは経済的自由権であるという結論を下す(例えば土井真一『憲法判例百選』第552頁)。しかし、「主として財産権補償の問題と解するのが妥当である」と述べるのみで、何故そう考えるのかは、はっきりしない。先に言及したように、どぶろくの方が安く作れるはずだと考え、それのみがどぶろくを造る理由と捉えているのであろうか。

 これに対し、上述のように、自分の造った酒が飲みたい、という精神的自由と把握していく場合には、有名基本権に該当するものはない、という結論になる。そこで、今度は無名基本権としての成立要件を備えているかどうかが問題になるわけである。

 一般的行為自由説からアプローチしてみよう。この説は、一定の私的事柄について、まさにこのような自由を認めるために考えられた説であるから、当然に肯定される。もっとも限定的に考える阪本の一般的行為自由説に立った場合にも、感情侵害原理に触れる事項とは考えられないから、同様に肯定される。

 これに対し、人格的利益説からアプローチした場合には、そのような酒を造ることが、「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利」といえるかどうかが問題となる。一般的には否定するであろう。だから、この説を採った場合には、それは幸福追求権ではない、という結論を下すことができる。

 

五 判例の立場

 どぶろく事件最高裁判所判決は、上記のいずれとも異なる独自の基準を立てる。すなわち、租税目的の場合には、その専門技術性に対する尊重から、狭義の合理性基準を採るとするのである。例えば次のように言う。

「租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって,租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである」(酒類販売免許制違憲訴訟=平成41215日最高裁判所第3小法廷判決)

 本件どぶろく事件の最高裁判例は、これと同様の考え方から、きわめて単純にその論理を適用し、合憲とした。つまり、ここでは、狭義の合理性基準を採用する根拠は、租税の持つ極めて高い専門性に求められる。

 しかし、租税一般にこのことを認められても、酒税についてもそれが言いうるかどうかは極めて疑問である。確かに、かつては酒税は、国の総税収の3分の1に達するほどの比重を持ち(例えば明治30年)、国税3税の一つといわれた。しかし、近年は精々1兆円程度で推移しているから、やっと1~2%程度の比重しか持っておらず、租税統計を見ても、「その他」の中に埋没している状況である。この程度の税収を確保するために、上記のような議論が必要なのか、という基本的な疑問が存在せざるを得ない。事実、最高裁判所自身がその後に、酒類免許に関して、酒税法自体の合憲性は上記の論理を維持して肯定しながらも、免許行政の運用については次のように述べている。

「酒税法1011号の規定は、前記のとおり、立法目的を達成するための手段として合理性を認め得るとはいえ、申請者の人的、物的、資金的要素に欠陥があって経営の基礎が薄弱と認められる場合にその参入を排除しようとする同条10号の規定と比べれば,手段として間接的なものであることは否定し難いところであるから、酒類販売業の免許制が職業選択の自由に対する重大な制約であることにかんがみると、同条11号の規定を拡大的に運用することは許されるべきではない。したがって、平成元年取扱要領についても、その原則的規定を機械的に適用さえすれば足りるものではなく、事案に応じて、各種例外的取扱いの採用をも積極的に考慮し、弾力的にこれを運用するよう努めるべきである。」(最高裁判所第一小法廷平成10716日判決)

 このように、酒税法を取り巻く環境は急速に変化しつつあり、その中で、自己消費目的の酒作りを、依然として明治時代の発想のままに規制する根拠が存在するのかは、大いに疑問とされるようになってきている。審査基準として明白性基準を採用した状況下においても、純然たる自己消費目的の酒造りが、国の税収を大きく左右するような可能性は全く失われた今日、明白に違憲とみなすことは十分に可能と言うべきであろう。