公務員の政治的基本権における審査基準

甲斐素直

問題

Xは、A省に勤務する国家公務員である。Xは、平成○○年の衆議院議員総選挙にあたり、B党から立候補したCを支援する目的で、Cから選挙ポスター10枚を預かり、勤務時間開始前にそのうち5枚を公営掲示板に貼付した。残ったポスター5枚を持って出勤したXは、その5枚をA省内の自分のロッカー内で保管し、通常通り執務した。そして、勤務時間が終了した後にその5枚を公営掲示板に貼付した。

 そこで、Xは、国の庁舎内にある国の備品であるロッカー内で選挙ポスターを保管した行為は、国家公務員法1021項に基づく人事院規則14-75項1号、同612号の「公職の選挙において、特定の候補者を支持する」ことを目的とする文書を保管するために「国又は特定独立行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用する」行為に該当し、政治的行為にあたるものであるから、国家公務員法110119号の罰則が適用されるべきであるとして、起訴された。

 これに対しXは、政治活動は憲法21条の保障する表現の自由の一環であり、表現の自由を制限する立法には厳格な審査基準を適用してその合憲性を判断するべきであり、厳格な審査基準に従う場合には国家公務員法102条は過度に広範な規定であって違憲・無効であるから無罪であると主張した。

 

Xの主張に含まれる憲法上の論点について論ぜよ。

参照条文

 国家公務員法

102条 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

110条 次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

十九  第百二条第一項に規定する政治的行為の制限に違反した者

 人事院規則14-7

 法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。
 規則一四―五に定める公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること。
 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
十二  政治的目的を有する文書又は図画を国又は特定独立行政法人の庁舎(特定独立行政法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国又は特定独立行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。




[はじめに]

 公務員の政治的基本権は大変論点が多く、難しい問題で、何の留保も付けずに出題されたら、普通の国家試験のレベルでは絶対に合格者は出ない。

 ごく簡単に主要論点を紹介すると次の様になる。

 第一に、憲法41条の問題がある。すなわち、国公法102条が白紙委任に該当するのではないかという問題である。これに答えるには完全に一つの論文が必要なことは、我がゼミの諸君は十分承知しているはずである。

 第二に、憲法734号の問題がある。憲法15条は公務員という言葉を使っているが、そこにいう公務員の典型例は国会議員であることは、15条が選挙についてくどく規定していることに明らかである。国会議員は当然政治活動の自由を有している。本問で問題となっている公務員とは、734号にいう官吏のことである。しかし、アメリカなどでは官吏にも政治活動の自由がある。なぜ日本では制限されるのだろうか。そこに猟官制と能力制という公務員制度の根底に関わる議論が必要となる。

 そして、第三に、本問で聞かれている審査基準論がある。

 どれもかなりの難問である。だから、政治的基本権の問題が出たら、その問題で、どのように限定を加えているかを素早く見て取り、それに集中して回答していかないと必然的に落第答案となる。

 本問の場合、審査基準論テーマとしていることは問題文に明白で、その素材として政治的基本権を選択したという作問の順序となっている。

 本問における議論の順序は、二重の基準論、厳格な審査、そして過度に広範な規定という順序となる。

 以下、順次説明したい。



一 違憲審査に関する判断基準について

 二重の基準論に入る前に、違憲審査に関する判断基準について説明しておきたい。この言葉には、厳密に言うと、二種類の概念が存在しているので、その差異をしっかりと理解することが大切である。すなわち、

 ① 実体的判断基準standard of constitutionality

    基本的人権に関する条文解釈等によって導き出される法令の解釈基準

 ② 審査基準standard of proof of constitutionality

 裁判の過程で、当該法令、あるいは当該事件における適用が実体的解釈基準に達しているかどうかを審査するための基準

の二つである。このように定義だけを示してもわかり難いと思うので、一つのたとえを引いてみたい。今ここに、酸性の液体とアルカリ性の液体があるとする。これは本質的にどう違うか、という面でいうと、酸とは水素原子と塩基の化合物であり、アルカリとは金属原子と水酸基の化合物である、ということができる。しかし、このような知識は、目の前にある液体のどちらが酸で、どちらがアルカリであるかを決定するには、何の役にも立たない。酸かアルカリかの判定手段は、リトマス試験紙を入れて、青いのが赤くなるか(酸)、赤いのが青くなるか(アルカリ)を見るのが一番確実である。

 それと同様に、ある問題についての違憲性を裁判所が審査するに当たり、司法積極主義によるべきか、それとも司法消極主義によるべきかを決定する必要があるとする。前に、自制論でこの問題を検討し、原則的には司法消極主義によるのが正しい、という結論を導いた。しかし、その上で、自由権のあらゆる種類について、すべてこの原則通りに取り扱っていいのか、それとも特別の理由があれば、積極主義に立つことも許されるのか、という問題である。

 それを振り分けるときに使う基準が、実体的判断基準(standard of constitutionality)である。自由権に関する実体的判断基準としては、これから説明しようとする二重の基準論が知られている。先のたとえでいうところの、酸とアルカリの化学的な違いを説明する理論に相当する。

 しかし、ある自由権については司法積極主義を採り、他の自由権では消極主義をとる、と決まっても、それだけでは具体的事件において適用されている国の立法等が、合憲か違憲かを決定することはできない。そのためには、先のたとえでいうリトマス試験紙に相当する物差し、すなわち一定の条件を満たせば違憲、満たさなければ合憲、という答えを出すことのできる基準が必要である。その物差し役の基準が、第二に紹介した審査基準(standard of proof of constitutionality)である。リトマス試験紙を、使う対象が酸かアルカリかによって赤いものと青いものを使い分けるように、審査基準も対象となる自由権が司法積極主義を採るべきものであるときと、消極主義を採るべきものであるときとで種類を使い分ける。それが、実体的審査基準である二重の基準論に対応する審査基準が合理性基準である。二重の基準なのだから、対応して審査基準も2種類あれば良さそうだが、化学と違っていろいろな説があり得るところが、法律学における問題の複雑なところである。



二 二重の基準(
dubble standard

 二重の基準論は、理論的に導かれたというより、アメリカにおける歴史的偶然の中から自然発生したというべきものである。簡単な歴史の紹介から入りたい。

(一) ニューディール政策と連邦最高裁

 アメリカ連邦最高裁判所は、初期においては明確に司法積極主義を採用していた。マディソン対マーベリ事件、ドレッド・スコット事件などを経て、19世紀末になると、南北戦争を契機に制定された修正条項を利用して、いわゆる実体的デュープロセス・オブ・ロウ判断を行い、連邦法ばかりか州法まで積極的に違憲判定を行うようになっていく。

 この連邦最高裁判所の司法積極主義が、ニューディール政策を巡って、アメリカ連邦大統領と衝突を起こし、それが二重の基準論を生み出すことになる。簡単に時系列にまとめると次のようになる。

1929年 大恐慌始まる
193211月 ルーズベルトが大統領に当選する。翌1月に就任。ニューディール政策が開始される。
19351月 連邦最高裁判所が全国産業復興法を違憲と判断する。これを皮切りに翌年5月までの17ヶ月間に11のニューディール関連立法が違憲と連邦最高裁判所によって判断される。
193611月 ルーズベルト、連邦最高裁判所を改革することを叫んで大統領選で地滑り的大勝利をあげる。
19372月 ルーズベルト大統領、司法部改革案を議会に提案したが、否決される。しかし、連邦最高裁判所は大統領にあゆみより、以後、ルーズベルトコートといわれるようになる(憲法革命)。
1938年   キャロリーヌ判決

ということになる。

 二重の基準論(キャロリーヌドクトリン)は、その元となっているキャロリーヌ判決脚注4に書かれている内容はかなり複雑なものだが、日本では一般に次のように説明される。

「二重の基準の理論は、元々アメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論ですが、その内容、中身を簡単に言えば、
①精神活動の自由の規制:厳しい基準によって合憲性を審査する。
②経済活動の自由の規制:立法府の裁量を尊重し緩やかな基準で合憲性を審査する。
こういう考え方であります。」

(芦部『憲法判例を読む』岩波セミナーブックス98頁)

 換言すれば、自由権のうち、精神的自由権については司法積極主義を認め、経済的自由権については司法消極主義を妥当とする考え方のことである。

 その根拠は、司法と民主政の関わりの中で、司法審査の外延を決定するべきだという考え方に求めることができる。すなわち、

「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』有斐閣218頁)

 近時わが国では、精神的自由権が経済的自由権に比べて優越的な権利なのだという理解も増加してきている。しかし、少なくともこのオーソドックスな理由による限り、いずれが優越的な存在かという問題は生じない。単に民主主義原理から、精神的自由権については司法積極主義が要請される、というにつきる。これに対して、経済的自由権の場合には、そのような特別の事情は見あたらないから、原則通り司法消極主義を採用することになる。

 なお、経済的自由権の場合に、技術性を追加的理由としてあげる場合もある。たとえば、小売り市場判決(最大昭和471122日=百選第5204頁)における次の表現は、その典型的な例であるといわれている。

「社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。」

 もっとも私は、この判決をこのように読む見解には批判的である。この引用文中に明らかなとおり、この技術性を最高裁はもっぱら立法裁量権との関係で使っているので、それを二重の基準に関する言及の読み替えるのは無理があると考えるからである(要するに、そのような解釈をとる人は、立法裁量論という考え方自体をとらず、すべての問題について審査基準論で処理するのである)。



三 合理性基準

 先に述べたとおり、二重の基準は実体的判断基準であり、これ自体から直ちに具体的事件について、合憲・違憲の判定をすることはできない。そのため、この判断基準に対応した審査基準が必要となる。これに対応して、アメリカ連邦最高裁が開発した審査基準が一連の合理性基準である。すなわち、合理性基準には理論的根拠があるわけではない。連邦最高裁が開発して、様々な事件に適用した結果が妥当なので支持するという考え方である。個々の審査基準の内容について、順次見ていこう。


(一)  狭義の合理性基準(
rationality testrational basis standard of review

 1 概念の内容

 原則的な場合である司法消極主義を採用しているときにとられる審査基準で、別名明白性の原則と呼ばれる。司法権の自制説の結論として、フランクファータ判事が次のように述べたが、これがこの基準の端的な表明である。

「裁判所は議会が単に誤りを犯しただけでなく、極めて明白な、合理的な疑いの余地のないほど明白な誤りを犯したときだけ法律を無視できる」

 問題は、ここにいう「合理的な疑い」のとは、何を基準に言われるのか、という点である。19世紀末の時点では、アメリカ連邦最高裁は、その事件を審査する裁判官を基準にして、合理的か否かを判断するとしていた(つまり主観的基準)が、やがて裁判官個人ではなく、客観的な「合理的人間」の持つであろう疑いというように変化していったといわれる。我が国の場合、憲法763項にいう「裁判官の良心」を客観的良心と解する点、今日においてはほとんど異論はなく、したがって当然に客観的な合理的人間を基準にすると考えて良い。この狭義の合理性基準に関する最大の特徴は、立法事実論に踏み込まないという点である。それ以前の段階で明白か否かは決せられるからである。


 2 わが国判例における適用例

 本問が問題としている営業の自由について、もっとも有名な事件が、先にも言及した「小売市場事件判決(最大昭和471122日=百選第5版204頁)」である。この判決では、

「当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」

とする。

 なお、社会権における適用例としては、「堀木訴訟(最大昭和5777日=百選第5版300頁)」が、また、平等権における適用例としては「サラリーマン税金訴訟(最大昭和60327日=百選第5版70頁)」が有名である。


(二)
厳格な審査基準(strict scrutiny test

 1 概念の内容

 これに対して、司法積極主義を採用する精神的自由権の領域における審査基準としてアメリカ連邦最高裁が開発した審査基準が、この厳格な審査基準である。(この文章の表現は大事である。繰り返し強調するが、諸君の論文ではややもすると、厳格な審査が要求されるということから理論的に下記の二つの用件が導かれるようにかかれることが多い。しかし、厳格な審査ということと、それを具体化した場合に、「厳格な審査基準」になるということとの間には理論的関連性はない。あくまでも、その具体化としてアメリカ連邦最高裁が開発したにすぎないのである。だから理由としてはそう書くしかない。)

 この領域では原則として立法の違憲性を推定し、この推定を覆すために、次の二点の立証を国側に要求する。

a 立法目的が正当であること、

b 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益 compelling interest)」を促進するのに必要不可欠であること、

アメリカでは、精神的自由権に限らず、米国憲法修正1条~修正10条までの規定が保障する個人の自由、すなわち、具体的には、表現の自由、投票権、信教の自由、旅行の自由、刑事手続上の権利等に対する侵害立法である場合にこの審査基準が使用される。

 
2 わが国判例における適用例

 わが国の場合には、現実問題としてこの審査基準を精神的自由権に関する立法に使用した例はない。しかし、精神的自由権に関係した事実関係の判断に使用した判例は存在する。すなわち、前科照会回答事件(最3小昭和56414日=百選第544頁)は、プライバシーの権利に関してこれを使用したと見ることができる。

「前科等の有無が訴訟等の重要な争点となっていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。」

 この「格別の慎重さ」という点に、やむにやまれぬ利益という姿勢が見える。

 同様に、信教の自由に関するオウム真理教解散命令事件(最決平成8130日=百選第586頁)にいう「必要やむを得ない法規制」という表現にも、同様にこの基準によったものということができるであろう。

「本件解散命令は、宗教団体であるオウム真理教やその信者らの精神的・宗教的側面に及ぼす影響を考慮しても、抗告人の行為に対処するのに必要でやむを得ない法的規制であるということができる。また、本件解散命令は、法81条の規定に基づき、裁判所の司法審査によって発せられたものであるから、その手続の適正も担保されている。」

 立法の合憲性に関して、この基準を採用した判例としては、郵便法違憲判決(最大平成14911日=百選第5292頁)がおそらく唯一のものである。同判決では、目的の正当性について

「上記目的の下に運営される郵便制度が極めて重要な社会基盤の一つであることを考慮すると,法68条,73 条が郵便物に関する損害賠償の対象及び範囲に限定を加えた目的は,正当なものであるということができる。」

と述べて正当性の基準を採用し、

「上記のような記録をすることが定められている書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づき損害が生ずるようなことは,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,ごく例外的な場合にとどまるはずであって,このような事態は,書留の制度に対する信頼を著しく損なうものといわなければならない。そうすると,このような例外的な場合にまで国の損害賠償責任を免除し,又は制限しなければ法1条に定める目的を達成することができないとは到底考えられず,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為についてまで免責又は責任制限を認める規定に合理性があるとは認め難い。」

と述べて、目的と手段の関係について、やむにやまれぬ利益があるか否かの判断を行っているからである。この場合、憲法17条の定めの例外という点が、このように厳しい審査基準を採用した理由と見られる。


(三) 厳格な合理性基準(
strict rationality test

 1 概念の内容

 これは、上述した厳格な審査基準と狭義の合理性基準の中間的な性格を持つ審査基準であるため、中間審査基準 intermediate standard)とも呼ばれる。しかし、司法積極主義を背景に違憲性推定原則を採用している点では、厳格な審査基準と同質の厳格度を増した基準であって、その意味では決して中間的なものではない。

 この基準と厳格な審査基準の相違は、違憲性推定を覆すための基準の違いにある。

a 立法目的が重要な国家利益(important government interest)に仕えるものであり、
b 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性(substantial relationship in facts)」が存在することを要求する。

 すなわち、立法目的が、それを達成するために法によって用意された手段によって合理的に促進されるものであることを、国の側は事実に基づいて証明しなければならないとともに、それで足りるとした点で厳格な審査基準を軽減しているのである。狭義の合理性基準を基本的に適用しながらも、事実上の実質的関連性の審査に当たって、問題の性質上、立法目的の合理性そのものの合理性に関しても審査できること、及びそれに当たって国家利益に適合するか否かを審査可能である点で、合理性基準よりも司法介入を強く認める点に特徴がある。

 2 わが国判例における適用例

 この基準を表現の自由の規制に対し、わが国で明確に使用した例として、本問のベースとなった猿払事件判決(最大昭和49116日=百選第532頁参照)があまりにも有名である。下線部の箇所に、その端的な表現が見られる。

「行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。<中略>禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。」

 二重の基準は、精神的自由権に関して、司法積極主義を採用し、その結果、審査基準として、原則となる狭義の合理性基準に比して、より厳格度を増した審査基準を採用することを要求しているのであって、論理的必然として厳格な審査基準を採用することを求めているわけではない。したがって、精神的自由権に対して厳格な合理性基準を採用したわが国判例を理論的に誤っていると非難することはできない。

 しかし、表現の自由の保護のためには、より厳格度の高い審査基準が適当であると考えるところから、学説はこれを批判することになる。

四 適用審査と文面審査

(一) 適用審査・適用違憲

 文面審査の結果、問題が無ければ、原則通り、適用審査を行う。

 個々具体的な場合の審理基準は、通常の政治的自由権であれば、精神的自由権の一環として厳格な審査基準となるはずである。しかし、公務員の場合には、基本的な制約可能性が推定されるから、基準も一段階緩和されると考えるべきであろう。すなわち、厳格な合理性基準のもとに、政府としては、国の重大な利益に関わることが証明できれば、規制の必要性を論証できたものと考える。猿払事件最高裁判決が、厳格な合理性基準を採用しているのは、その意味で支持しうると考える。

(二) 文面審査・文面違憲

 問題は、ここで取り上げられているのは21条の表現の自由だという点である。表現の自由に対する司法審査が、上述した適用審査、適用違憲で十分と言えるのか、ということを考えなければならない。

 司法権による違憲審査は、その自制の要求から、その事件を解決するのに必要な限度においてのみ行使されるのが原則である。つまり、その事件の限りで憲法を適用し、その結果違憲という結論が出た場合にも、その事件の限度で意見を宣言するのが正しい(適用違憲)。

 しかし、21条の保障する精神的自由権や31条の保障する適正手続き保障の場合には少々事情が異なる。それらを規制する立法が過度に広汎であったり、犯罪構成要件が不明確である場合には、そのまま放置すると、国民は自分のどのような行為が禁止されているのかが判らず、萎縮して、本来許容されている行を行う事も避けるような事態が発生してしまう(萎縮効果=Chilling Effect)。そこで、裁判所は憲法保障機能を発動し、具体的事件を離れて、その法律の文言それ自体を審査し(文言審査)、その段階で違憲という結論が出た場合には、具体的な事件審査に入ることなく、違憲を宣言する(文面違憲)。

 その場合、国の重大な利益を判断基準として、代償を提供することなく権利を制限する場合の一般論として、最小限度規制の要求が現れる。そして、個々の場合において、最小限度の規制か否かを判定する一番簡便な方法は、LRA基準に従って判断することである。

(三)  憲法31条と明確性審査

 文面審査の具体例として、徳島市公安条例事件最高裁判決(昭和50910日大法廷判決)は、31条違反の場合について、述べていることを見てみようた。

「本条例33号の『交通秩序を維持すること』という規定が犯罪構成要件の内容をなすものとして明確であるかどうかを検討する。
 右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。〈中略〉交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがあるといわなければならない。」

 しかし、それにも関わらず、合憲とした。それは次の様な理由である。

「およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。〈中略〉それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」

 本問の人事院規則14-7の場合、その文言は極めて明確であって、その限りで問題は無いということができる。

五 憲法21条と過度の広汎性審査

 本問で問題となっているのは21条なので、節を改めて少し詳しく説明する。

(一) LRAテスト

 憲法21条に関し、過度の広汎性故に無効の法理の適用可能性を判断するに当たって、重要な役割を担うのがLRAテストである。

 LRAテストを使用するに当たっては、現行国家公務員法の規定についていえば、地方公務員法36条との比較が重要性を持つ。そもそも地方公務員に対する政治的基本権の制限が、国家公務員の場合と違っていることを知らない人が多いのではないかと考え、念のため、同条をここにそっくり紹介する。

1 職員は、政党その他の政治的団体の結成に関与し、若しくはこれらの団体の役員となつてはならず、又はこれらの団体の構成員となるように、若しくはならないように勧誘運動をしてはならない。
2 職員は、特定の政党その他の政治的団体又は特定の内閣若しくは地方公共団体の執行機関を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、あるいは公の選挙又は投票において特定の人又は事件を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、次に掲げる政治的行為をしてはならない。ただし、当該職員の属する地方公共団体の区域(当該職員が都道府県の支庁若しくは地方事務所又は地方自治法第252条の191 の指定都市の区に勤務する者であるときは、当該支庁若しくは地方事務所又は区の所管区域)外において、第1号から第3号まで及び第5号に掲げる政治的行為をすることができる。
 公の選挙又は投票において投票をするように、又はしないように勧誘運動をすること。
署名運動を企画し、又は主宰する等これに積極的に関与すること。
寄附金その他の金品の募集に関与すること。
文書又は図画を地方公共団体又は特定地方独立行政法人の庁舎(特定地方独立行政法人にあつては、事務所。以下この号において同じ。)、施設等に掲示し、又は掲示させ、その他地方公共団体又は特定地方独立行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し、又は利用させること。
 前各号に定めるものを除く外、条例で定める政治的行為
3 何人も前二項に規定する政治的行為を行うよう職員に求め、職員をそそのかし、若しくはあおつてはならず、又は職員が前二項に規定する政治的行為をなし、若しくはなさないことに対する代償若しくは報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益若しくは不利益を与え、与えようと企て、若しくは約束してはならない。
4 職員は、前項に規定する違法な行為に応じなかつたことの故をもつて不利益な取扱を受けることはない。
5 本条の規定は、職員の政治的中立性を保障することにより、地方公共団体の行政及び特定地方独立行政法人の業務の公正な運営を確保するとともに職員の利益を保護することを目的とするものであるという趣旨において解釈され、及び運用されなければならない。

 すなわち、同条は第1項で裁判官類似の積極的政治活動の禁止を定め、第2項ではかなり限定的に列挙したものに限定し、それ以外には条例という民主的根拠のある場合に鍵って制限を肯定するという姿勢をとる。地方公務員と国家公務員の非政治性の要求は本質的に差異はないはずなのであるから、LRAテストからすれば、国家公務員法102条の規定は、当然に過度に広汎と判定されるはずであり、したがって違憲という結論が自動的に導き出されることになる。



(二) 公務員の分類

 本問に関する諸君の答案としては、上記のところまでで十分である。

 しかし、ではどの限度の規定ならば許されるのであろうか。すなわち、地方公務員法の規定を国家公務員法に移植すれば、それで問題は解決するのであろうか。諸君の今後のために、その点を以下では検討してみよう。

 否定的に解したい。すなわち、一般職公務員のすべてについて一律に規制する、という姿勢を示している点において、地方公務員法もまた、過度に広範な規制を行っていると評価されるべきである。労働基本権の場合には、法律そのものが、現業部門の労働者、狭義の一般職公務員、警察等職員という三分類を行って、制限の程度に差異を設けていた。より制限の許容度の高い労働基本権でさえも、このような職務内容に応じた制限態様の区分が行われていることを基準に評価するならば、少なくともそれと同様に、その職務内容に応じた分類が行われていない限り、実質的内容を検討するまでもなく、違憲と評価することを、LRA基準は要求する、と解すべきである。

 このことは、従来から多くの論者の指摘してきたところである。しかし、従来、これは抽象論に止まり、管見の限りでは具体性ある基準の提示は試みられていない。このことが、従来学説の厳しい批判にも関わらず、政治的基本権に関して見直しが行われようとしなかった一つの原因であろうと思われる。

 諸君に対する説明の域を超えていることを承知の上で、以下にその試論を示す。

 1 現業部門の労働者

 国営企業労働者の場合には、以上に述べたような政治的中立性に関する公務員業務の特徴を認めることはできない。その業務は、法に従った機械的な内容のものだからである。したがって、国営企業労働者については、管理職と否とを問わず、政治的基本権の制限は違憲と考える。したがって猿払事件の場合、最高裁判決は明らかに適切ではない。

 2 警察等職員

 警察等職員の場合には、それが侵害行政の主体として、第一線に立つ者の場合にも広範な行政裁量権が承認されることを考えると、その政治的自由権が一般に大幅な制限を受けることは承認されざるを得ない。ただし、その場合でも、国家公務員法の委任を受けて制定されている人事院規則の各条項が具体的妥当性を有するかは、個々の場合に応じて判断されなければならないのは当然のことである。なお、ここで警察等職員と呼んでいるのは、労働基本権の場合と異なり、警察庁以下のいわゆる警察官や海上保安庁の職員ばかりでなく、行政法学上、警察行政の主体となる者、例えば労働基準監督官とか保健所の立ち入り検査を担当する者などのすべてを意味している。そのすべてが侵害行政の第一線に立つものという意味において、先に指摘した政治的基本権制限の要件を満たしているからである。同様のことは、税務署職員についても考える余地があるのではないかと思われる。

 3 狭義の一般職公務員

 現業公務員と警察等職員の中間に位置する、狭義の一般職公務員の場合には、労働基本権の場合と異なり、一律に論じることはできないと考えられる。行政職第二表に属する職員や研究職公務員、医療職公務員のように、行政裁量権を原則的に対国民的関係において有していない者は、現業公務員と同様に、政治的基本権の制限は否定されるべきであろう。

 行政職第一表の職員の場合にも、必ずしも行政裁量権を有するとは限らない。管理職は一般に裁量権を有するといえるが、それが、内部関係にとどまる限りは、ここでの問題にはならない。

 逆に、非管理職であっても、対国民的な関係において裁量権を法律上、あるいは事実上有する場合には、政治的基本権の制限が承認されるべきであろう。ただし、その場合に、現行法制における規制がすべてそのまま妥当するかについては、警察等職員の場合と同様に、個別的な審理が必要になると考える。