旅券法と適正手続条項
甲斐素直
問題
一般旅券を有するXに対し、外務大臣Yは、平成○年7月29日に「一般旅券返納命令書について」と題する文書を発した。同文書には、Xが昭和○○年以来北朝鮮工作員と認められる人物と海外において接触し、その指示により情報収拾活動を行っていた等の事実にかんがみ、Xは旅券法13条1項七号にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当な理由がある者」であることが、本件一般旅券の発行後に判明したとして、旅券法19条1項一号の規定に基づき、Xが所持する本件一般旅券を返納すること命じるとともに、その旅券が8月1日までに返納されなかったときは、その旅券は効力を失うとともに、Xは旅券法23条1項六号の規定により罰せられることがあること、この処分に不服のある場合は行政不服審査法の定めるところに従い、この処分があった翌日の起算通知日から起算して60日以内に外務大臣に審査請求することができる旨記載してあった。
これに対し、Xは、本件旅券返納命令処分は、それに先行してXに告知聴聞を行っていない点において、憲法31条の定める適正手続に違反し無効であるとして、その処分取り消しを求めて訴えを提起した。
本件訴訟において、YはXに次の様に反論した。
憲法31条による保障は、刑事手続に関するものであって行政手続には及ばない。仮に行政手続に及ぶと解すべき場合であっても、当該行政処分に事前の告知聴聞が必要か否かは、その処分により制限を受ける権利利益の内容、制限の程度、その処分が達成しようとする公益の内容、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではない。これを旅券法13条1項七号に該当することを理由とする旅券返納命令についてみると、これにより実質的に侵害される利益は憲法上保障される海外渡航の自由という重要なものであるが、同命令によって達成しようとする公益は、日本国の利益及び公安という、正に国家的ないし国際的見地からその確保が極めて強く要請されるものであって、緊急性を有するものである。かかる点を総合較量すれば、同命令をするに当たり、その相手方に対し事前に告知、弁解、防御の機会を与える旨の規定がなくても、旅券法19条1項の規定が憲法31条の法意に反するものということはできない。
X及びYの主張の憲法上の当否について論ぜよ。
参照条文 旅券法
第十三条 外務大臣又は領事官は、一般旅券の発給又は渡航先の追加を受けようとする者が次の各号のいずれかに該当する場合には、一般旅券の発給又は渡航先の追加をしないことができる。(一~六略)
七 前各号に掲げる者を除くほか、外務大臣において、著しく、かつ、直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者
第十九条 第1項 外務大臣又は領事官は、次に掲げる場合において、旅券を返納させる必要があると認めるときは、旅券の名義人に対して、期限を付けて、旅券の返納を命ずることができる。一 一般旅券の名義人が第十三条第一項各号のいずれかに該当する者であることが、当該一般旅券の交付の後に判明した場合(二号以下略)
第3項 第一項の規定に基づき同項第一号又は第二号の場合において行う一般旅券の返納の命令(第十三条第一項第一号又は第六号に該当する者に対して行うものを除く。)については、行政手続法 (平成五年法律第八十八号)第三章 の規定は、適用しない。
第二十三条 次の各号のいずれかに該当する者は、五年以下の懲役若しくは三百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。 (一~五、七略)
六 第十九条第一項の規定により旅券の返納を命ぜられた場合において、同項に規定する期限内にこれを返納しなかつた者
[はじめに]
かつて、行政手続に憲法31条が適用になるか否かは、激しく争われた。しかし、今日では、通常の行政処分は、行政手続法(平成五年法律第八十八号)の定めるところにより、告知・聴聞等の手続きを踏むことが要求されている。したがって、告知・聴聞の不存在等は、通常は法律違反の問題になるので、憲法違反を論ずる必要はない。
ただし、同法はその3条で国会の処分に始まる一連の処分については,その適用除外と明記している。また、成田新法の場合には、その第8条で同法が適用除外とされている。
同様に、本問の旅券法の場合には、その19条3項がやはり行政手続法 の規定を排除している。その結果、本問では、依然として憲法31条が行政手続きに適用になるか否かを論じる実益がある問題となっている。
問題文中で明記したから、憲法31条との関係は極めて明白だと思う。すなわち、憲法31条が英米法にいう適正手続条項であるならば、当然に行政手続きにも適用がある。そして行政手続きに憲法31条が適用になるなら、告知聴聞を予定していない旅券法19条は違憲なのである。そこで、憲法31条と適正手続条項との異同が第一に問題となる。第二の論点は、同条の内容が適正手続を定めたものであるとした場合、行政事件に適用されるのだろうか、という点である。そして、それも肯定される場合、第三に、適用される場合とされない場合があるとき、その識別の根拠は何か、ということである。
本問のような小論文では、諸君は法律判断だけをすればよく、事実認定は行う必要が無い。ただ、本問ではYが緊急性ということを判断根拠の一つに挙げているので、その点を推定する手がかりとして、返納命令を発したのが7月29日であること、その命令に記載された返納期限が8月1日であったことを記載しておいた。つまり、ほとんど時間的余裕が無い発令である。ここから、少なくともYは極めてXの旅券を執行させる緊急性が高いと判断していたことが判る。
なお、本問の事実関係は、基本的には東京地方裁判所平成5年3月17日判決(平成1年(行ウ)第219号)に依拠しているが、現時点に引き直してあるため、法令等は同判決とは異なるものとなっている。
一 適正手続
(一) 問題の所在
上記第一の論点を、別の表現で表すと、憲法31条の法定手続の保障とは、英米法にいうデュープロセス概念(Due process of law)と読む、ということを意味する。31条の抽象的な表現に、告知、弁解、防御の機会を読み込むことは、文言的には不可能で、英米法の伝統と重ねる以外にはあり得ないからである。
わが国現行憲法は、日本語と英語という二つの正文を持っている。その英語の31条を見ると,次の様になっている。
No person shall be deprived of life or liberty, nor shall any other criminal penalty be imposed, except according to procedure established by law.
つまり、「procedure established by law」という表現をとっていて、「Due process of law」とは表現されていない。それをDue process of lawと読み替えることが許されるのか。本問の根本的な問題はそこにある。
(二) 英米法における適正手続条項
英米法におけるDue process of lawは、今日では「手続及び実体要件の双方について法定されなければならないのみならず、内容も共に適正なものでなければならない。」と、定義される概念である。すなわち、米国判例の下においては、デュープロセスは、さらに手続的デュープロセスと実体的デュープロセスとに分けて論じられる。しかし、ここで本問で論点としている告知、弁解、防御の機会というのは、そのうち手続的デュープロセスを意味する。したがって、本問で実体的デュー・プロセスについて論じる必要は全くない。
ちなみに、実体的デュープロセスは、わが憲法学では一般に幸福追求権として論じられる概念にきわめて近い。すなわち、米国法では新たな人権を実体的デュープロセス概念を通じて導くのである。わが憲法において、手続的デュープロセス概念について、31条ではなく、13条を根拠に読もうとする説が、後述するように有力に唱えられているが、この説は、この点から導かれてくる。Due process of lawにいうlawとは、法律の意味ではなく、法的正義の意味である。すなわち、ドイツ流の罪刑法定主義が、かつては罪と刑の双方を法律という法規範で制定することを要求するに尽きていた(今日ではさらに合憲であることを要求するので、実質的には差異が無くなった)のに対して、それが正義の理念にかなったものであることを要求する点に最大の特徴がある。
その源流は、1215年マグナカルタ39条にまでさかのぼるといわれる。すなわち、
「いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判によるか、または国土の法によるのでなければ、逮捕、監禁、差し押さえ、法外放置、もしくは追放され、または何らかの方法によって侵害されることはない。」
合衆国憲法の場合には、第5修正で,当初からこれがうたわれている。すなわち、
「何人も・・法の適正な過程によらずに生命、自由または財産を奪われることはない。」
同条の場合、連邦機関による恣意的な権力行使の抑圧を目指し、専ら手続的デュープロセスを定めているにすぎない。これに対して、南北戦争後に、戦後処理の一環として黒人差別の禁止などととも制定された第14修正1節は、逆に連邦による州に対する干渉権を認めて、次のように定める。
「いかなる州も法の適正な過程によらずに、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。」
この規定の場合、名宛人として州が明確に定められている点で、連邦最高裁の権限が拡張され、しかも、連邦最高裁によってこれが実体的デュープロセス(substantive due process)規定であると解釈された。20世紀初期の段階における実体的デュープロセス概念は、連邦最高裁のとる司法積極主義の下に、米国の社会権立法に致命的な打撃を与えた。特に、1935年1月から翌年5月までのわずか17ヶ月間に、ルーズベルトのニューディール政策を支える世界大恐慌対策の12の立法を違憲無効と宣言して、ニューディール政策を崩壊に追い込んだことから、その威力がひろく認識されるに至った。違憲立法審査権の行使にあたり、司法積極主義を経済法領域で否定し、今日の司法消極主義に切り替えたことが、憲法革命(Constitutional Revolution of 1937)と呼ばれる由縁である。今日、我々が論じる審査基準論は、すべてこの憲法革命の結果構築された米国判例に依拠している。
我が国現行憲法の原案と言うべきマッカーサー草案を起草したGHQ民政局員は、その中心人物であったケーディス大佐(Charles Louis Kades、1906年 - 1996年)に代表されるように、ニューディール政策の熱烈な支持者であった。彼らは、上記実体的デュープロセス概念という形による司法権の拡大は暴走であると考え、日本においてその様な事態が再現されるのを防ぐために、マッカーサー草案からは意識的にデュープロセス規定が排除された。
これを受けて制定された現行憲法31条の文言でも、前述したとおり、「法律の定める手続によらなければ(except according to procedure established by law)」という表現をとっていて、“due process of law”いう表現はわざと排除されている。
ここから、上述第一の論点の問題は出てくる。すなわち、制定過程において意図的に排除したデュープロセス概念を、ここにいう法定手続保障という言葉に読み込むことが可能か、という問題である。
同様に第二の論点の問題も出てくる。英米法のデュープロセス概念は、行政手続きにも及ぶことははっきりしている。しかし、わが国憲法31条は、条文の位置・表現内容からみれば明らかに、直接には刑事手続きを対象としたものだからである。それどころか、31条のこの同じ文言を罪刑法定主義を宣言したものと読むのが普通である。罪刑法定主義は、行政手続に適用になるはずはない。この結果、本問旅券法のような行政手続きには適用がないという、Yの主張が導かれる。これについての学説・判例を、その初期の段階から時系列的に見てみよう。
二 学説の推移
(一) 否定説
我が国では、上記のような制定経緯を受けて、憲法31条が米国流のデュープロセス概念を採用したものではない、という説が初期においては、疑う余地のない通説であった(美濃部達吉『新憲法逐条解説』1947年刊70頁参照)。
その後においても、例えば日本国憲法制定過程の研究者であり、米国デュープロセスの研究者である田中英夫が「憲法31条(いわゆる適正手続条項)について(『日本国憲法体系』有斐閣1965年刊、第8巻、165頁)」という論文において、31条は米国のデュープロセス概念とは無関係である、と断じている。これら消極的な考え方の根拠には、この立法経緯の影響が大きい。
(二) 刑事手続適用限定肯定説
しかし、徐々にではあるが、同条を手続的デュープロセスと読む学説が登場してくる。その最初期の例の一つを法学協会編『註解日本国憲法』に見ることができる。
「被告人の言い分を充分聴取(rechtliche Gehör)しないで処罰したり、曖昧で、広い内容を持った刑法を制定したりしたときなどのように、憲法のどの条文に反すると明らかにはいえないが、憲法の精神に反するといわざるをえない場合がある。このような場合本条によって救済するのが妥当である。この限度で英米法の『適法手続』を採用したと解するのは、全体として英米法の影響を受けたわが憲法の解釈として不当ではないと思われる。」(1953年刊、588頁より引用)
但し、同書も、第二の論点である行政法への適用に関しては、消極的である。
「本条は、刑事に限定されたものであろうか、それとも、ひろく生命、自由、財産に対する一切の侵害に対する保障を規定したものであるか。アメリカ憲法は後者である。しかし、わが憲法は、『生命もしくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない』としているのであって、アメリカ憲法のように、たんに『生命、自由、財産を奪われない』としているのとは異なる。条文の位置からいっても、刑事手続きに関する一群の規定の最初に置かれている。また、わが憲法には、自由権、平等権、財産権、労働権について、幾多の規定が設けられているから、本条によって、アメリカ憲法のように経済活動までも含んだ包括的な自由保障の規定と解する実質的な必要も存在しない。このような理由から、本条は、少なくとも主眼としては刑罰に関する規定と解するのが妥当であろう。」(同書、584頁)
すなわち、ここでは本条の射程距離は刑罰に限定され、行政手続きにおけるデュープロセスは考慮の外になっている。
(三) 準刑事手続的行政手続準用肯定説
こうして、31条が少なくとも刑罰規定に関しては英米法にいうデュープロセスと読むことが急速に通説化していく。例えば、宮沢俊義はほとんど根拠をあげることなく、次のように述べる。
「『法律の定める手続』は、かような意味において、いわゆる『妥当な法の手続』(due process of law)とその趣旨を同じくするといえよう。」(宮沢俊義『日本国憲法』1955年刊、285頁)
さらに宮沢俊義は、行政手続きへの準用を肯定する。
「かならずしも刑罰の場合以外は、『法律の定める手続』によらずに、自由を侵していいという意味ではない。そういう場合には、当然、本条が、ことの性質に応じて、準用されるべきものとおもう。たとえば、少年法による保護処分や伝染病予防法による強制収容などは、やはりそれぞれの性質に即した『法律の定める手続』によるべきものである。」(同書286頁)
ここで準用を許容しているのは、実質的に刑罰と同じ作用を行う行政手続きだけであって、行政手続一般に米国流の手続的デュープロセスの準用を肯定しようという考えではないことに注意すべきである。
(四) 準刑事手続的行政手続適用肯定説
31条を、準用にとどめず、全面的に行政手続へ適用することを肯定する説が登場するのは、したがってかなり遅れてくる。
「現代国家において増大してやまない行政権力をこの手続的保障の埒外に放してしまったのでは、国民の自由保障の核心が失われるであろう。憲法上記の文言の単なる形式論理的解釈ですますことなく、個々の手続的保障の本旨と個々の行政手続の性質に即して、具体的に慎重に検討されなければならない。」(高柳信一「行政手続と人権保障」清宮・佐藤功編『憲法講座』2巻1963年刊、260頁)
しかし、この場合にも、これに引き続いて「行政強制と令状主義」「行政と黙秘権」というように議論を展開していくことに示されるとおり、刑罰類似の作用を行う行政手続を専ら念頭に置くものであり、米国法が行政手続にデュープロセスを適用するときに、その中心となる告知・聴聞の問題を取り上げたものではなかった。
(五) 行政手続適用全面的肯定説
もちろん単純に肯定する説が登場してくるのは、時間の問題といえた。
「こんにちにおいては、かつての『消極国家』の時代とは違って、刑罰権のみを制約することだけで人権侵害の危険性がのぞかれるものではない。『積極国家』という言葉で表されるように、こんにちの国家は国民生活に多種多様な形でー単に秩序維持・弊害除去といった消極的な形だけでなく、より積極的に特定の政策目的を推進するなどの形でーかかわりをもつようになっている。ここでは、必然的に、行政権の役割が増大する。このように、行政権の機能が増大し国民生活に大きくかかわるものになってくると、行政権の行使による国民の権利・自由侵害の危険性が、刑罰権の発動による場合と同じく、(あるいはそれ以上に)、重大な問題とならざるを得ない。そうであれば、人権保障のためには、行政権の発動についても、適正な手続によるべきことが要請されなければならないことになる。」
(浦部法穂『憲法学教室』全訂第2版271頁)
(六) 13条根拠説
他方、31条が歴史的にも文言的にも、デュープロセス概念を継承したものではないところから、佐藤幸治は、米国流のデュープロセス概念を基本的には13条で読み、31条は、その刑事に関する特別法とする(佐藤幸治『憲法』第3版587頁)。その結果、行政手続におけるデュープロセスを13条から肯定しようと論ずる。
「公権力が法律に基づいて一定の措置をとる場合、その措置によって重大な損失を被る個人は、その措置がとられる過程において適正な手続的処遇を受ける権利を有すると解される。この点、31条を根拠にこの権利を肯定する説もあるが、31条の表現及び憲法体系上の位置に照らし、基本的には13条の『幸福追求権』の問題とすべきである。」(同書462頁)
松井茂記も同様の見解を示す(松井『日本国憲法』第3版有斐閣2007年刊544頁)。
(七) 手続的法治国家説
これは、行政法学の分野から登場した学説である。塩野先生の教科書で行政法を勉強している人なら知っていなければいけない。ドイツ法系にいう法治主義(Gesetzmäßigkeit)という概念もまた、論理の流れは違うが、結論的に適正手続を要求する。その考え方を憲法解釈に導入して問題を解決しようとする説である。
「これは、憲法の具体的条文によるのではなく、日本国憲法における法治国の原理の手続法的理解の下に、国民の権利・利益の手続的保障が憲法上の要請であるとするのである。」(塩野宏『行政法Ⅰ』有斐閣1994年刊、226頁)
ドイツ流の法治国家理念と米国流のデュープロセス理念の架橋の試みとして面白いものである。ただ、内容的には憲法31条に関して前に述べた歴史的、文言的経緯から否定するばかりでなく、13条についてさえもその裁判規範性を否定し、結局、立法によって解決すべきであると論ずる点で、憲法学者としては一般に受け入れがたい説となっている。
三 今日における学説の内容
(一) 憲法学
こうして、かつての通説とは異なり、近時はデュープロセスを何らかの形で行政手続にも肯定するのが多数説となりつつあるが、では、その学説の内容として、どのような点が論じられているか、というと、必ずしも明確ではない。
1 刑罰と実質的に同様の機能を果たす秩序罰や、執行罰としての科料
2 身体の拘束を伴う行政処分(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律29条以下に基づく知事の強制入院など)
というような実質的に刑罰類似の機能を果たす行政活動について、手続的保障が及ぶという点についてはほとんど異論がない。しかし、では、上記場合に令状主義がとられていないことを直ちに違憲というか、という点についてはとたんに明確性が欠ける。
3 より一般的に行政手続にデュープロセス保障は及ぶか
という点になると、さらに議論が分かれてくる。
「行政手続における手続的デュープロセスの問題は、概して、そもそも憲法31条が『行政手続』に適用されるかどうか、という形でしか論じられなかった。しかも憲法31条の要求が『行政手続』にも適用されるべきだといわれながら、その適用されるべき『行政手続』というのが具体的にはいかなる手続を指すのか、いっこうに明らかにはされなかった。 さらに従来の学説は、そもそも憲法31条が行政手続に適用されるか否かというレヴェルでの議論に終始したため、憲法31条が適用された場合、いかなる手続が要求されるのかというレヴェルでの議論が全く欠けてしまった。つまり、具体的な行政の手続が手続的デュープロセス違反だとして裁判所で争われたときに、裁判所が手続の合憲性を判断する具体的な基準の議論が存在しなかったのである。」
(松井茂記「行政手続におけるデュープロセス」ジュリスト1089号273頁)
要するに、そうした点については、判例と行政法学に任せきりで、憲法学は手を抜いていたといっても過言ではない。
そこで、行政法学では、この点についてどう考えていたのかを見てみよう。
(二) 行政法学
行政法学の説くところによれば、行政手続における適正手続の内容については、適正手続四原則というものの存在を認めることができる。塩野前掲書222頁に準拠しつつ簡単に概念内容を紹介すれば、次の通りである。
1 告知・聴聞
行政処分をする前に、相手方に処分内容及び理由を知らせ、その言い分を徴する事により、処分の適法性、妥当性を担保し、公権力の侵害から国民の権利・利益を守ろうとするものである。
2 文書閲覧
聴聞に際して、処分の相手方が当該事案に関し、行政側の文書等の記録を閲覧することをいう。告知によって、相手方はどのような理由で処分がされることを知ることができるが、文書閲覧を認めることにより、それがどのような証拠によって支えられているかを知ることができることになる。これによって、当事者は聴聞の段階で的確な意見を述べることが可能になるわけで、聴聞の意義を実質的に支える機能を有する。
3 理由付記
行政処分をするに際して、その理由を処分書に付記して相手方に知らせることをいう。これにより行政処分の恣意抑制機能、慎重配慮確保機能、不服申立ての便宜機能等が確保され、行政手続における公正、透明性の向上に資することになる。最高裁判所は、司法修習生の裁判官任官拒否を行うに当たり、その理由を明らかにしない方針をとっているが、これはこの原則に対する明らかな違反ということができる。
4 審査・処分基準の設定・公表
申請に基づく利益処分であれ、不利益処分であれ、行政庁が処分する際によるべき基準を設定し、これを事前に公表しておくことである。
今日では憲法学でも、行政手続一般における適正手続保障の内容として同様のものを考えることになる。
四 判例の推移
ここで上述したところを踏まえつつ、本件判決に至る判例の流れを簡単に見てみよう。
(一) 第3者没収違憲判決=最大昭和37年11月28日(憲法判例百選第5版250頁)
最初の違憲判決としてあまりにも有名なこの事件について、内容を説明する必要はないと思う。判決はいう。
「第三者の所有物を没収する場合において、その没収に関して当該所有者に対し何ら告知、弁解、防禦の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であつて、憲法の容認しないところであるといわなければならない。けだし、憲法29条1項は、財産権は、これを侵してはならないと規定し、また同31条は、何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられないと規定しているが、前記第三者の所有物の没収は、被告人に対する附加刑として言い渡され、その刑事処分の効果が第三者に及ぶものであるから、所有物を没収せられる第三者についても、告知、弁解、防禦の機会を与えることが必要であつて、これなくして第三者の所有物を没収することは、適正な法律手続によらないで、財産権を侵害する制裁を科するに外ならないからである。」
ここで注目してほしいのは、このように古い時点ですでに判例は、刑事事件における適正手続が、学説がいうような令状主義というようなレベルの問題ではなく、明確に米国デュープロセス概念にしたがった「告知、弁解、防御の機会を与えること」こそが核心的権利である、と指摘していた点である。
(二) 個人タクシー事件=最判昭和46年10月28日(行政判例百選第5版246頁)
行政手続への適正手続条項の適用を巡るもっとも有名な事件で、最近の憲法教科書の多くはこの事件に論及するようになっている(例えば佐藤幸治462頁、戸波江二326頁等)が、この判決は憲法判例百選には掲載されておらず、行政判例百選を見なければならない。
事件は、個人タクシーの免許を陸運局長に行ったのに対して、陸運局長は申請人に事前に告知・聴聞することなく、一方的に却下したので、その取消を求めた訴訟である。第1審東京地裁判決は、憲法13条、31条は「国民の権利、自由が実体的のみならず、手続的にも尊重さるべきことを要請する趣旨を含む」と述べ、事実認定につき、「行政庁の独断を疑うことが客観的にもっともと認められるような不公正な手続をとってはならない」として、告知・聴聞が法律的には要請されていなかったにも関わらず、それを欠いた点で行政手続を違法とし、取り消した。東京高裁もこの判決を支持した。最高裁判所は次のように述べて、下級審判決を支持した。
「多数の者のうちから少数特定の者を、具体的個別的事実関係に基づき選択して免許の拒否を決しようとする行政庁としては、事実の認定につき行政庁の独断を疑うことが客観的にもっともと認められるような不公正な手続をとってはならないものと解せられる。」
すなわち、実質的に見れば、行政手続への適正手続条項の適用を肯定したのである。内容的に見れば、告知聴聞を要求するばかりでなく、内部的基準の設定・公表も要求しているのであって、かなり進んだものといえる。が、それにあたって、憲法上の根拠に論及するのを慎重に避けた点に、この判決の限界がある。
(三) 川崎民商事件=最大昭和47年11月22日(憲法判例百選第5版264頁)
税務署員の質問・検査に被告人が抵抗したことから刑事事件になったものである。この事件では31条ではなく、35条の行政事件への適用が問題になったという点で、前に紹介した学説の流れには乗りやすく、憲法教科書で必ず触れられる判例となっている。
「憲法35条1項の規定は、本来、主として刑事責任追及の手続における強制について、それが司法権による事前の抑制の下におかれるべきことを保障した趣旨であるが、当該手続が刑事責任追及を目的とするものではないとの理由のみで、その手続における一切の強制が当然右規定による保障の枠外にあると判断することは相当でない。しかしながら前に述べた諸点を総合して判断すれば、旧所得税法70条10号、63条に規定する検査は、予め裁判官の発する令状によることをその一般的要件としないからと言って、これを憲法35条の法意に反するものとすることはできない。」
この判決は、憲法学者の説く令状主義の行政事件への適用をリップサービス的に認めたために、どの憲法教科書でも引用される重要判例となっているが、実際問題として行政事件に裁判所の令状を要求するという判例も立法例も皆無である。
(四) 群馬バス事件=最判昭和50年5月29日(行政判例百選第5版248頁)
個人タクシー事件と並んで有名なこの判例も、憲法判例百選には搭載されておらず、行政判例百選を見なければならない。
群馬バスが、営業路線の延長を求めて運輸大臣に免許申請をした。これ対して、陸運局長は法の定めるところにしたがい、聴聞を行い、かつ、運輸審議会に諮問して、本件申請は却下すべきであるとの答申を得て、却下処分にした。
これに対して、群馬バスでは、聴聞が不十分であり、また、審議会の審理手続についても不公正であると主張して裁判になった。1審は群馬バスが勝訴したが、2審は逆に何ら違法はないとして国側の勝訴となった。最高裁判所は次のように述べた。
「行政庁が行政処分をするにあたって、諮問機関に諮問し、その決定を尊重して処分をしなければならない旨を法が定めているのは、処分行政庁が、諮問機関の決定(答申)を慎重に検討し、これに十分な考慮を払い、特段の合理的な理由のない限りこれに反する処分を行わないように要求することにより、当該行政処分の客観的な適正妥当と公正を担保する事を法が所期しているためと考えられるから、かかる場合における諮問機関に対する諮問の経由は、きわめて重大な意義を有するものというべく、したがって、行政処分が諮問を経ないでなされた場合はもちろん、これを経た場合においても、当該諮問機関の審理、決定(答申)の過程に重大な法規違反があることなどにより、その決定(答申)自体に法が右諮問機関に対する諮問を経ることを要求した趣旨に反すると認められるような瑕疵があるときは、これを経てなされた処分も違法として取り消しを免れないこととなるものと解するのが相当である。」
ここでは、告知聴聞は単なる形式として存在していればたりるのではなく、実質的妥当性を有するものであることが明言されている点が大きい。憲法論としては、ここでも最高裁判所は、法律の解釈として公正・妥当を要求したのであって、憲法上の根拠に論及しなかった点に大きな限界があった。
(五) 成田新法事件=最大平成4年7月1日(憲法百選252頁)
このように、最高裁判所は実質的には行政手続について幅広く手続的デュープロセスを肯定しつつ、それを憲法上の権利として明言するのを避ける姿勢をとり続けたのであるが、この基本姿勢に関して、歴史的な転換を示したのが、成田新法事件である。同法の趣旨については、同法1条が詳しいので、ここに紹介する。
「第1条 この法律は、新東京国際空港及びその周辺において暴力主義的破壊活動が行われている最近の異常な事態にかんがみ、当分の間、新東京国際空港若しくはその機能に関連する施設の設置若しくは管理を阻害し、又は新東京国際空港若しくはその周辺における航空機の航行を妨害する暴力主義的破壊活動を防止するため、その活動の用に供される工作物の使用の禁止等の措置を定め、もつて新東京国際空港及びその機能に関連する施設の設置及び管理の安全の確保を図るとともに、航空の安全に資することを目的とする。」
成田新法では、使用禁止命令を発する際に、告知・弁解・防御の機会を与えるとの規定が存在していないことが問題となった。さらに今日では同法は改正されて、参照条文に示したように行政手続法を積極的に排除している。その点に対して、同判決が示した見解が、多くの憲法教科書に引用される次のものである。
「憲法31条の定める法定手続の保障は、直接には刑事手続に関するものであるが、行政手続については、それが刑事手続ではないとの理由のみで、そのすべてが当然に同条による保障の枠外にあると判断することは相当ではない。 しかしながら、同条による保障が及ぶと解すべき場合であっても、一般に、行政手続は、刑事手続とその性質においておのずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、行政処分の相手方に事前の告知、弁解、防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではないと解するのが相当である。」
しかし、これだけでは抽象的すぎて、何を言っているのか判らない。同判決は、問題文に引用した箇所に引き続き、上記3条1項の解釈論として、次のように述べている。
「本法3条1項に基づく工作物使用禁止命令により制限される権利利益の内容、性質は、前記のとおり当該工作物の三態様における使用であり、右命令により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等は、前記のとおり、新空港の設置、管理等の安全という国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からその確保が極めて強く要請されているものであって、高度かつ緊急の必要性を有するものであることなどを総合較量すれば、右命令をするに当たり、その相手方に対し事前に告知、弁解、防御の機会を与える旨の規定がなくても、本法3条1項が憲法31条の法意に反するものということはできない。」
また、行政手続へ憲法35条の定める令状主義が適用されるか否かについては次のように述べた。
「行政手続における強制の一種である立ち入りに全て裁判官の令状を要すると解するのは相当ではなく、当該立ち入りが、公共の福祉の維持という行政目的を達成するため欠くべからざるものであるかどうか、刑事責任追及のための資料収集に直接結びつくものであるかどうか、また、強制の程度、態様が直接的なものであるかどうかなどを総合判断して、裁判官の令状の要否を決めるべきである。」
こうして、行政手続にもデュープロセス概念を肯定すること、及びその根拠が憲法上31条に求められることは判例上明白になった。しかし、実際に令状主義を肯定したわけではなく、その意味で、川崎民商事件と同様、令状主義に関する限りリップサービスと評する方が妥当であろう。
(六) 成田新法事件における園部少数意見
園部判事は、この法廷意見に対し、結論は同一であるが、異なる理由付けを示した。
「私は、行政庁の処分のうち、少なくとも、不利益処分(名宛人を特定して、これに義務を課し、又はその権利利益を制限する処分)については、法律上、原則として、弁明、聴聞等何らかの適正な事前手続の規定を置くことが、必要であると考える。このように行政手続を法律上整備すること、すなわち、行政手続法ないし行政手続条項を定めることの憲法上の根拠については、従来、意見が分かれるところであるが、上告理由は、これを憲法31条に求めている。確かに、判例及び学説の双方にわたって、憲法31条の法意の比較法的検討をめぐる議論が、我が国の行政手続法理の発展に寄与してきたことは、高く評価すべきことである。しかしながら、我が国を含め現代における各国の行政法理論及び行政法制度の発展状況を見ると、いわゆる法治主義の原理(手続的法治国の原理)、法の適正な手続又は過程(デュー・プロセス・オヴ・ロー)の理念その他行政手続に関する法の一般原則に照らして、適正な行政手続の整備が行政法の重要な基盤であることは、もはや自明の理とされるに至っている。したがって、我が国でも、憲法上の個々の条文とはかかわりなく、既に多数の行政法令に行政手続に関する規定が置かれており、また、現在、行政手続に関する基本法の制定に向けて努力が重ねられているところである。もとより、個別の行政庁の処分の趣旨・目的に照らし、刑事上の処分に準じた手続によるべきものと解される場合において、適正な手続に関する規定の根拠を、憲法31条又はその精神に求めることができることはいうまでもない。」
この下線部を付した箇所を見ると、園部判事は先に紹介した諸学説のうち、準刑事手続的行政手続適用肯定説を採用している事が明らかである。
成田新法のように準刑事手続ではない場合については園部判事は次の様にいう。
「一般に、行政庁の処分は、刑事上の処分と異なり、その目的、種類及び内容が多種多様であるから、不利益処分の場合でも、個別的な法令について、具体的にどのような事前手続が適正であるかを、裁判所が一義的に判断することは困難というべきであり、この点は、立法当局の合理的な立法政策上の判断にゆだねるほかはないといわざるを得ない。」
つまり、法廷意見は、成田新法の合憲性を積極的に判断しているが、園部判事はそれに反対して、憲法訴訟論でいう狭義の合理性基準(明白性基準)で判断するべきだと主張しているのである。その場合、今日であれば、行政手続法がその重要な判断基準になるということができる。当時は,行政手続法は存在していなかったので、園部判事は次の様に言う。
「不利益処分を定めた法令に事前手続に関する規定が全く置かれていないか、あるいは事前手続に関する何らかの規定が置かれていても、実質的には全く置かれていないのと同様な状態にある場合は、行政手続に関する基本法が制定されていない今日の状況の下では、さきに述べた行政手続に関する法の一般原則に照らして、右の法令の妥当性を判断しなければならない事態に至ることもあろう。しかし、そのような場合においても、当該法令の立法趣旨から見て、右の法令に事前手続を置いていないこと等が、右の一般原則に著しく反すると認められない場合は、立法政策上の合理的な判断によるものとしてこれを是認すべきものと考える。」
今日では、行政手続法が制定されたわけだが、同時に、問題文の参照条文に上げたように、成田新法は行政手続法を積極的に排除しているので、立法意思は極めて明白であり、したがって、園部判事は「これを是認すべきものと考える」ことになると思われる。
五 本問への適用
以上に述べたことを要約すると、諸君としては、次のような形で論文を構成していく事になろう。
(一) デュープロセスか否か
31条が英米法流のデュープロセス概念を継承したものであって、その内容は告知・弁解・防御の機会を与えることとしたという点については、肯定するのが今日の通説・判例といいうるので、諸君としてもそれに倣うのが妥当であろう。ここで否定しても論文としては成り立つが、後の議論が続かなくなるので、かなり詳しい議論が必要となる。肯定するとして、問題は理由付けである。
近時の教科書では、例えば「この規定は、〈中略〉アメリカ憲法にいう『法の適正な手続』(due process)条項に由来し、国民の権利・自由を手続の点から保護することを目的としている」(戸波江二・新版322頁より引用)というように、あっさりとデュープロセスを読むものもある。しかし、例えば、長谷部恭男も全体としては500頁に満たない彼の憲法教科書(『憲法』第5版、新世社)で、31条には7頁も投入している。そこで長谷部は、単に実体的真実発見ばかりで無く、功利主義的観点からの理由付け、個人の尊厳原理からの理由付け、社会全体の利益という観点からの理由付けなど多角的な論証を試みている。ここから見れば、単純に理由も述べずに適正手続条項であることを肯定するのはあまりにも危険と言うべきであろう。
本稿に書いたように、文言そのものは明確にデュープロセスを排除する意図で書かれていたことなどを考えると、法学協会の「英米法の『適法手続』を採用したと解するのは、全体として英米法の影響を受けたわが憲法の解釈として不当ではない」という押さえた表現の方に、私としては与したい。
なお、渋谷秀樹は次の様な理由を挙げている。
「合衆国憲法との文言の相違にとらわれず、本条がアメリカ合衆国のデュー・プロセス条項の流れをくんでいることを重視し、戦前の人権蹂躙の歴史を深く反省する立場からは適正手続・適正実体法定説が唱えられている。手続に関して憲法の規定のみでは不十分であり、補充的に『適正』という制限を法律に課すことには意味があること、罪刑法的主義という重要な原則は成文規定から直接導き出されることがのぞましいこと,さらに実体に適正を要求することは人権保障をより厚くすることを理由とする。」(『憲法』有斐閣2007年刊182頁)
これは説明文であるから、このまま諸君の答案にコピーしても合格答案とはならないが、ここで述べられていることを自分の意見として再構成すれば,かなり高い評価が得られるであろう。
(二) 行政手続に適用があるか
デュープロセスの行政手続への適用を肯定しなければ、これまた議論が続かない。この点は議論が少し難しくなる。アメリカ法において幅広く行政手続への適用が肯定されていること、わが国判例の流れを受けて、通説は、行政手続一般への適用ないし準用を肯定している。したがって、諸君もまた、原則的には肯定して良いと思う。しかし、学説的には依然として制限的に解している立場も少なくない。先に園部判事の意見を紹介したが、このように刑事処分に準じた限りでの適用(その精神とある箇所は準用を意図したものか)であって、行政手続一般への適用は考えない、という姿勢は今日でも珍しくない。例えば米国法の専門家である熊本信夫は次のように述べている。
「私は判例の発展によって憲法31条が行政手続にも及ぶ、という解釈を導くことには、その文言、成立の背景から考えてなお困難であると考える。結局、行政手続については憲法31条の趣旨・精神を立法政策上適切に生かすことによって、一般法の制定によるべきと考える。」(平成4年度重要判例解説51頁参照)
この立場による場合には、行政手続との関係では、31条は良くて抽象的権利、おそらくは背景的権利と読むにとどまり、間違っても具体的権利を保障したものではないことになる。このような立場に立って論文を書いても良い。
いずれにせよ、理由も無しに書き飛ばせるところでは無い。
(三) 審査基準
刑事手続に31条を適用する場合には、それを欠落している立法の違憲審査に当たっては、厳格な審査基準を採用し、文面審査として曖昧性故に無効の法理等を適用して判断するべきである、という点については特に争いは無い。これに対し、行政手続に適用することを認める場合にはどうなるか。それが本問最後の大きな論点である。
最高裁判所は場合を分けて議論している。改めて引用すると、次の様に表現している。
憲法31「条による保障が及ぶと解すべき場合であっても、一般に、行政手続は、刑事手続とその性質においておのずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、行政処分の相手方に事前の告知、弁解、防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではないと解するのが相当である。」
いつも、最高裁判所判決の文言をそのまま引用しても、合格答案になるとは限らない、むしろ理由を補わない限りは落第答案になる、と注意しているが、これも又、その良い例で、これでは、どのような審査基準を使用するべきなのかさっぱり判らない。
この文言の解釈について、渋谷秀樹は次の様に述べている。
「分析的に整理すれば、その手続を適用して剥奪・制限される実体的権利利益の内容と性質に照らして,それを制限する根拠となる公益の内容・程度・緊急性がどのようなものかを決定する目的審査と、実体的権利利益の制限の程度を審査する手段審査がなされることを示唆している。結局、その手続によって制約される実体的な権利・利益の位置づけに応じて、厳格審査、厳格な合理性の審査、合理性の審査が使い分けられるのであり、その様なアプローチは基本的に支持できる。」(渋谷前掲書188頁)
最高裁判所の判決文そのままより、理解できる説明文と言えるであろう。この説明によれば、行政手続の31条との関係は、合理性に関する三つの審査基準のいずれによる場合もあるということになる。すると、次に出てくる疑問は、その審査基準はどのような物差しに従って使い分けられるのか、ということである。残念なことに、その点について、最高裁判所は明確な回答を行っていない。「新空港の設置、管理等の安全という国家的、社会経済的、公益的、人道的見地からその確保が極めて強く要請されているものであって、高度かつ緊急の必要性を有する」場合には、狭義の合理性基準(明白性基準)で足りるのだ、という主張であるのだと思われる。
このような曖昧な態度は当然学説の厳しい批判を受けている。野中俊彦は、成田新法事件に対する意見として、次のように述べる。
「一般論としては必ずしもおかしくはない。しかし少なくとも事前手続の必要がある場合と無い場合の大まかな区分けとその理由を示す必要があったと思われる。そうでないと総論賛成、各論留保のようなことになってしまい、せっかくの意義のある判示がどう生かされるのかが見えてこない。」(野中俊彦「『成田新法』訴訟大法廷判決について」ジュリスト1009号31頁より引用)
そして、全部で37箇所もあった団結小屋や要塞などの空港反対活動の拠点のうち、第1期工事期間中に使用禁止命令が発されたのは3箇所のみであること、1986年から始まった第2期工事においても使用禁止命令は15箇所に増えたにとどまること、除去・封鎖が行われたのはさらにその半分くらいであったこと、などという事実を背景に次のように結論するのである。
「手続が不十分という場合ではなくて、本法のようにまったく手続規定を欠く場合は、違憲と判断すべきが筋であるように思われる。本法に『高度かつ緊急の必要性』という特別の事情があったとしても、実際には禁止命令が出されたのはしばらくは一握りにも満たない数であって、禁止命令を受けない工作物との異なる取り扱いの正当性を示すためにも、やはり事前手続が必要だったのではなかろうか。」(同上)
私自身も、同様の感想を持っている。現実の流れの中で見る限り、反対派側に告知・弁解・防御の機会を与える余裕のないほどの緊急性があった事案とはとうてい思えないからである。
論文作成技術的には、園部少数意見に従って、準刑事手続ではない行政手続に関しては狭義の合理性基準と割り切ってしまうほうが、すっきりと書けると言えるであろう。しかし、上述のような事情から具体的妥当性には大きなクェスチョン・マークがつくこと、もちろんである。
行政手続と憲法31条の関係に関し、最大の問題領域である税務調査に関しても同じような問題がある。例えば所得税法234条は、税務調査に当たって、事前告知を要求していないが、実務的には原則として調査対象者にあらかじめ調査日時を連絡(事前通知)することとしている。これについて、北野弘久は次のように述べる。
「憲法13条、31条との『適正手続』の要請や、調査不協力犯等の犯罪構成要件に関すること、憲法31条、35条、38条違反の疑いを回避する等の見地からも、現行法に明文規定がなくとも事前通知をすることは質問検査権行使の適法要件と解するのが妥当であろう。〈中略〉被調査者に右の事前通知をせずに、税務職員がいきなり調査に来た場合にはその様な調査は不適法であり、被調査者は調査を適法に拒否できる」(『税法学原論』第5版青林書院374頁より引用)
要するに、31条にしたがった法の運用をしない限り、具体的場合においては適用違憲という結論を導けると述べているのである。
本問の場合に参考になるのが長谷部恭男の意見である。長谷部恭男は行政手続における告知聴聞だけでも3頁に達する記述を行っているが、その最後に、行政手続を二つに分けて論じている。
それによれば、公共施設や道路の建設等の際、地域住民の声を聞くというような手続の場合には、手続上の不適正さを処分の違法に直結すべき必要性は低下する。それに対し、本問のように、行われた処分が対象となる人の法的に保護されるべき権利や正当な期待を変動させる類型の場合には、違ってくると言う。
「この場合には、権利や正当な期待の変動を受ける相手に告知と公正な聴聞の機会を与えるべき強い理由がある。この場合には前述の刑事手続に関する議論を準用することが可能であり、単に正しい結論を得るにとどまらない価値が手続には認められる。」(長谷部前掲書262頁より引用)
諸君としては、この程度のことを書けば十分である。実務的には冒頭に述べた緊急性が、こうした価値を否定できるだけのものかどうかが、最終的な結論を決めることになる。