高校における格闘技の必修と信教の自由

甲斐素直

問題

 絶対平和主義を教義とするA教の信者であるXは、平成○○年にB県立C高等学校に入学した。B県においては、高校に関し学区制がとられているため、Xとして、県立高校に進学を希望する場合には、C校に進学する他はない。
 
C校においては学年制が採られており、生徒は各学年の修了の認定があって初めて上級学年に進級することができる。同校の学業成績評価及び進級並びに卒業の認定に関する規程(以下「進級等規程」という。)によれば、進級の認定を受けるためには、修得しなければならない科目全部について不認定のないことが必要である。そして、ある科目の学業成績が100点法で評価して60点未満であれば、その科目は不認定となる。また、進級等規程によれば、休学による場合のほか、生徒は連続して2回原級にとどまることはできず、B県立高等学校学則及び退学に関する内規(以下「退学内規」という。)では、校長は、連続して2回進級することができなかった学生に対し、退学を命ずることができることとされている。C校では、健全なる精神は健全なる肉体に宿るという教育理念の下、保健体育が全学年の必修科目とされており、Xが入学した平成○○年から、第1学年の体育科目の授業の種目として柔道が採用された。柔道の授業は後期において履修すべきものとされた。 

A教の教義では、単に他者に対して危害を加えることを禁じるばかりでなく、その模擬動作というべき格闘技を行うことも禁じていた。そこで、Xは、柔道の実技に参加することは自己の宗教的信条と根本的に相いれないとの信念の下に、柔道の授業が開始される前の平成○○年4月下旬、体育担当教員らに対し、宗教上の理由で柔道実技に参加することができないことを説明し、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨申し入れた。申し出を受けて、C校長Yは、体育担当教員らと協議をした結果、Xに対して実技に代わる代替措置を採らないことを決めた。Xは、後期に開始された柔道の授業では、服装を替え、サーキットトレーニング、講義、準備体操には参加したが、柔道実技には参加せず、その間、道場の隅で正座をし、レポートを作成するために授業の内容を記録していた。Xは、授業の後、右記録に基づきレポートを作成して、次の授業が行われるより前の日に体育担当教員に提出しようとしたが、その受領をその都度拒否された。

 その結果、体育担当教員は、Xの実技履修に関しては欠席扱いとし、準備体操を行った点のみを評価し、第1学年の前期にXが履修した他の体育種目の評価と総合して被上告人の体育科目を42点と評価した結果、体育に関しては不認定となった。そこで、Xに対し、柔道実技の補講を行うこととし、通知したが、Xはこれに参加しなかった。そのため、進級認定会議において、Xは進級不認定と決定されたので、Yは、Xを第2学年に進級させない旨の原級留置処分をし、被上告人及び保護者に対してこれを告知した。

 翌年度においても、Xの態度は前年度と同様であり、学校の対応も同様であったため、Xの体育科目の評価は総合して48点とされ、実技の補講にも参加しなかったため、Xは、進級認定会議において進級不認定とされ、Yは、Xに対する再度の原級留置処分を決定した。また、同日、表彰懲戒委員会が開催され、Xについて退学の措置を採ることが相当と決定された。Yは、自主退学をXに勧奨したが、Xがこれに従わなかったため、2回連続して原級に留め置かれたことから学則に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するとの判断の下に、退学処分を告知した。

 これに対し、Xは、柔道以外の体育種目については受講に特に不熱心であったという事実はなく、またXの体育以外の成績は優秀であり、授業態度も真摯なものであったので学則に該当しないとして、退学処分の取り消しを求めてYに対し訴えを提起した。

 これに対し、Yは、高等学校の校長が生徒に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、Xに対し、宗教上の理由から特別扱いをすることは憲法20条の定める政教分離原則に違反し、許されないものであるから、校長の裁量は合理的なものであったと主張した。 

Yの主張の憲法上の当否について論ぜよ。

[はじめに]

 本問が、剣道を柔道に換え、余計な議論を呼びそうな点を修正し、事実関係を単純化しているが、基本的にはかなり忠実に神戸高専剣道必修事件判決(最判平成838日=平成8年度重要判例解説15頁=百選第594頁参照)をなぞっているものであることは、読んだ瞬間に判ったと思う。したがって、本問の論点は、同事件で裁判上問題とされた点と同一である。

 この事件は、信教の自由に関する判例として注目を集め、百選でも精神的自由権の箇所に収録されている。だから、諸君として信教の自由だけが論点だという錯覚を起こしがちなのは無理もない。しかし、本問は、普通に事実関係だけを紹介した形で設問にすると、退学という行政処分の効力を争っているので、それだけが論点となり、信教の自由は全く論点になってこない。

 実は、本判決が信教の自由の問題として知られるに至ったのは、Yの側で問題文に明記したとおり、自分の裁量の正当性を証明する手段として政教分離原則を引っ張り出してくれたお陰である。そこで、その点を問題の最後に明記し、さらに論点としてYの主張だけに絞ることで、なんとか信教の自由も詳しく論じられるようにしたのである。

 しかし、それでも、Yの主張の前半は、依然として行政庁としての裁量権に関する議論だから、その論点を外すわけにはいかないのである。行政法を勉強していれば判り切ったことだが、退学処分を行うに当たり、それが自由裁量行為であるということになると、だいたい問題はその段階で終わり、学校側の勝訴で話は終わる。本判決の意義は、校長の有する裁量権の限界を明確にし、校長の有する裁量権が羈束裁量であることを明らかにしたことである。その意味で、本問は憲法26条の問題である。そのことが、確実に諸君に伝わるように、問題文の大半は、処分に関する法的根拠と、処分に至る行政手続の流れの説明に投じてある。そして、その限界を構成しているのが政教分離原則という意味において、同20条の問題である。

 要するに、本問は、本質的に二つの大きな論点がある問題である。各論点について、普通に書いていってしまうと、二つ分のボリュームがある論文ができあがる。これは現在の新司法試験の標準的な出題形式であるから、悪い問題ではない。この二つの論点を、いかにバランス良くまとめるかが論文作成上の最大の問題となる。最初のアプローチはどうしても26条からとなる。26条の議論を完全に外してしまえば、その段階で落第答案である。

一 いわゆる部分社会論

 本問では学校内部における処分が問題になっている。したがって、論理的に言えば、最初の論点は、常にいわゆる部分社会論の問題になる。しかし、本問では舞台になっているのが公立学校であり、問題になっているのが退学処分であるから、富山大学事件最高裁判所判決(百選第5416頁)の示した基準に照らす限り、司法審査権の限界という問題は結論としては否定される。

 このように、最終的には否定されてしまうので、この論点は、書けば点にはなるが、後に二つも大きな論点が控えていることを考えると、答案構成の技術としては、減点覚悟で切るのが正しい。

 しかし、仮に、本問題となっているのが私立高校である場合には、昭和女子大事件最高裁判所判決(百選第528頁)に明らかなように、退学処分であったとしても、司法審査の限界の問題が発生する。また、退学処分に進む前の原級留置処分の段階で、その処分をXが争う場合には、これが中心論点となる。だから、こういう論点があるのだ、ということは、必ず頭の隅に残しておいて欲しい。

二 教育を受ける権利について

 本問の事件を、少し細かく分析すると、すべての問題の出発点は、C校が、保健体育の必修科目として柔道を選んだことにあることが判る。これを、法律学的にいうと、教育内容の決定権は誰にあるか、という議論である。

 一般論として記憶しておいて欲しいのだが、教育権が問題になる場合には、常に、

1 教育の私事性を説明する。
2 その限界として、公教育概念を説明する。
3 公教育概念の中で、教育内容決定権が誰にあるかを説明する。旭川学力テスト最高裁判決に依存して答案構成をすれば、それが基本的には本人にあり、それを補完する形で、親、国、教師等がその具体的内容決定権の所在として導かれる。

という答案構成になる。本問に引きつけて説明すれば、仮に教育が私事であれば、Xがやりたくないことを強制するのは、教育の自由に対する侵害になる。学校側がカリキュラムとして特定科目の受講を強制できる根拠は、高校教育が公教育に属するからである。

(一) 基本的概念の整理

 憲法26条の保障する教育権は、君たちが普通に使っている教科書では社会権と呼ばれる権利の一種と理解されているから、以下、それに絞って説明する。憲法25条の保障する健康で文化的な最低限度の生活を現代社会において行うには、社会の中にあふれている情報を適時適切に理解し、それに基づいて行動する能力を有していなければならないことは当然のことである。そのための能力を身につける権利が教育権である。

(二) 教育を受ける自由と「私教育」

 教育権の主体は、本人である。本人が自分の受けるべき教育内容を決定する権利を持つ。すなわち、人はその全生涯にわたって、自らを教育する自由を有する。

 ただし、本人が幼児その他の若年者であるため、自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない場合には、親または親権者がその教育内容を決定する権限を持つ(民法820条)。これは家族を基本とする身分権を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、その必然的結果として導かれるものである。なお、世界人権宣言263項は「親は子に与える教育を選択する優先的権利を有する」としている(なお、児童の権利に関する条約5条はより包括的な表現を採用しているが、同趣旨と理解して良いであろう)。

 本来、教育は私人がその教育の自由の行使として、私人としての立場から行うものであった。これを「教育の私事性」と言い、こうした教育の原点としての教育理念を「私教育」という。家庭内において、親が子に行う躾その他の教育は、その典型である。

(三) 教育を受ける権利と「公教育」

 教育を受ける自由を個人の力で実現できる範囲には、しかし限界があるところから、社会権ないし生存権的基本権の請求権的側面が現れる。この結果、国として、各人の能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負うことになる。このように、福祉国家理念の下に、児童生徒の教育を受ける権利を保障するものを「公教育」という。教育基本法

6条は「法律に定める学校は、公の性質をもつ」と定めて、国公立の教育機関ばかりでなく、私立の学校法人によって行われる教育も含めて、すべての学校教育は、この公教育に属することを宣言している。

 公教育の種類としては、初等中等教育機関における教育のほか、それ以前の幼稚園や保育園における教育、それ以後の大学等の高等教育機関における専門的研究や社会人に対するいわゆる生涯教育も当然に数えられなければならない。例えば、国が図書館、美術館、博物館、公民館、公会堂等様々な文化施設を設けなければならないのは、このような、教育を受ける権利の一般的な要求に応えたものと言える。

 本人に教育内容を決定する能力の存在する高等教育や生涯教育は、知る権利等を背景とする自由権的性格が強い。これに対して、初等中等教育においては義務教育が憲法262項で定められていることもあって、国に対する請求権としての面がより強い。それらの理由により、初等中等教育分野に社会権としての特殊性が集中的に現れてくる。本問で問題になっている高校教育も、初等中等教育に属する(本問の元となった神戸高専事件の場合、高専が高校教育と大学教育を兼ねているという中間的な性格を有しており、議論が複雑になるところから、本問では県立高校と作問している。)。

(四) 私教育と公教育の接点

 憲法262項は義務教育を定めている。この規定は、子に対する教育内容の決定権という親の権利が、初等・中等教育という一定の限度で公法上の義務に転換していることを示している。ここに教育の私事性、すなわち私教育と公教育の接点を端的に見ることができる。今日の教育問題を考えるに当たり、教育の私事性と公教育という、教育の基本的な、しかし、互いに相矛盾する概念をどのように調和させるかが、最大の問題となる。

 旭川学力テスト事件で、最高裁判所(昭和51521日大法廷判決)は、この点について次のように述べる。

「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」

(五) 公教育の特殊性

 公教育は、私教育にない様々な制約に服する。

  1 教育の機会均等

 教育は、個人が健康で文化的な最低限度の生活を営む手段としてあらゆる国民に保障される。この点で特に重要なのが、男女共学及び心身障害児童に対する特殊教育である。

  (1) 男女共学

  (2) 障害児童に対する教育

  2 義務教育の無償

  3 教育の中立性

 教育を受ける自由は、知る権利の一形態である。国民の知る権利を実質的に保障するには、独占性の強い情報機関については、その公共性を理由として編集権を否定し、不偏不党の立場から多角的な情報の供給に努める義務が発生する。公教育は、刑罰の威嚇を背景にした囚われの聴衆を対象にしているという点で、いわば究極の独占性をもつ情報機関である。したがって、その中立性に対する要求は、どのような情報機関よりも強いものとなる。その中立要求の中心は、政治的中立及び宗教的中立である。また、この政治的中立性を実質的に確保するための派生原則として、教育行政の中立性が必要となる。

 ここから、Yの反論である政教分離の問題が登場してくる。

三 教育内容決定権の所在

公教育の場合に、最大の論点は、教育内容を決定する権利は誰にあるのか、ということである。これは教科書検定や指導要領をめぐり、論じられる。

(一) 国家教育権説

 文部省の主張を、それをそのまま是認した高津判決(昭和49716日東京地裁判決=第1次家永訴訟)から紹介すれば、次のとおりである。

「議会制民主主義体制の下における今日の公教育は、教育の私事性を捨象し、かっての家庭における私的教育にかわって、組織的、機能的に実施運営されるのであり、国は国民の付託にもとづき福祉国家として教育内容にも及び得るのである。教科書検定制度も右教育行政の一環として、教育の機会均等、教育水準の維持向上などの教育目的から実施されるもので」ある。

 この説は、教育の機会均等を本条の中心的要求と把握していた当時における憲法学界の通説的理解をベースに国の教育権の根拠は「国民の付託」であるとしつつ、その付託とは国会の多数決原理を通じて現れるのだ、と結論することにより、多数党の基盤となっている特定の政治思想による教育行政の支配を肯定するというものである。戦前の軍国主義的国家教育権説と区別する意味では、「議院制民主主義的国家教育権説」とでも呼ぶべきであろう。この説は、教育の政治的中立性と正面から衝突する結論を導いているものであり、現行憲法の下においては、とうてい支持することはできない。

(二) 国民教育権説

 これに対立する「国民の教育権」論は、文部省のこうした主張に反対する立場の理論的支柱にする目的から理論化されたという共通の性格をもつ学説の総称であり、そういう名称の単一の学説が存在するわけではない。その代表的なものを紹介すれば、教育主権論、教育人権論、教育本質論、23条論、教育基本法10条論(現在の16条に相当)などがある。

 国民教育権説を採用した判例の代表的な存在である有名な杉本判決(昭和45717日東京地裁判決=第2次家永訴訟)は、前提として教育人権論を唱えつつ、そこから教師の教育権を引き出す。すなわち

「教育の外的な事項については、一般の政治と同様に代議制を通じて実現されてしかるべきものであるが、教育の内的事項については、その特質からすると、一般の政治と別個の側面をもち政党政治を背景とした多数決によって決せられることに本質的に親しまず、教師が児童、生徒との人間的なふれあいを通じて、自らの研鑽と努力とにより国民全体の合理的な教育意思を実現すべきものであり、また、このような教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負い、その信託にこたえるべきものと解せられる。」

 そこで語られていること、特にその前半の、代議制とその限界は、文部省流の政治思想の教育の場への全面的導入肯定論の問題点を正しく指摘している。また、後半も建前としてみる限り、文部省でさえも異論のないところであろう。

 問題は、このことから「国民の教育権」の名の下に教師の教育権を、事実上まったく無限定に肯定してしまう点にある。これは明らかに論理の飛躍と評せざるを得ない。この飛躍に対する、最高裁判所の批判を見てみよう。

「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続きによつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」

 確かに、教師に教育の内容を決定する権利があることは明らかである。すなわち

「教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定」できる(引用は、いずれも旭川学テ判決)。

 しかし、公教育の要請としての中立性の要求は、国の干渉を排除すれば直ちに実現できるというものではない。テレビ局の不偏不党性が、適切な監視手段なしに実現できないのと問題は一緒である。まして、法律の定めるところにより、登校を強制されている、いわば囚われの聴衆である児童が、しかも是非弁別能力の低いものが、教師の独裁的権力の下に学習しているのだ。その教育活動の内容に対する監督手段が通常存在しないことを考えれば、不偏不党性からの逸脱があった場合に、直ちに問題の発生が知られる可能性は非常に低く、しかも子供の可塑性が高いことを考えるとそこに発生する害悪は非常に大きなものとなり得る。その点に、通常の知る権利の場合以上の強力な、中立性保障策が必要なことは明きらかである。杉本判決が示した「下級教育機関における公教育内容の組織化は法的拘束力のある画一的、権力的な方法としては国家としての公教育を維持していく上で必要最小限度の大綱的事項に限られ」るとしただけで十分な保障とはとうてい思えない。教師の教育権を制限する何らかのメカニズムが必要である。

(三) 折衷説(旭川学力テスト最高裁判所判決)

 そうした意味で、旭川学力テスト判決で最高裁が示した、現場行政における両極端を排除し、中庸を求めようとした見解はまさに正しいものと言うべきである。すなわち、教育を受ける権利は「教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子供の学習する権利に対応」するものであり、「もっぱら子供の利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきもの」であって子供が「自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的観念を子供に植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」と言う認識は、杉本判決と同一のものと言えよう。

 他方、児童や親にとって、公教育においては学校や教師を選択する余地のきわめて乏しいこと、児童生徒の批判能力の低いこと、等の要素から、教師の自由を全面的に認めることはできないとしたのも、現実に密着した正しい事実認識ということができるだろう。こうした点から、公教育の内容は、国と教師と父兄の3者で責任を分担しつつ構成していくというのも考え方の筋道としては十分に支持できるものである。

四 学校側の有する教育内容決定権

 国と教師と父兄の3者で責任を分担するというが、その結果として、国=学校側にはどのような権限があるのか、ということが、問題となる。結論として言えば、教育大綱決定権がある(教育基本法16条)から、カリキュラムの一環として、学校教育法及び指導要領に従って、保健体育の授業で武道を実施することができる、ということになる。

 諸君の論文に書く必要はないが、念のため、指導要領の内容を説明しておくと、次のようになっている。

 保健体育に関する高等学校の指導要領は、保健体育の目標として次のように宣言する。

「各種の運動の合理的な実践を通して,運動技能を高め運動の楽しさや喜びを深く味わうことができるようにするとともに,体の調子を整え,体力の向上を図り,公正,協力,責任などの態度を育て,生涯を通じて継続的に運動ができる資質や能力を育てる。」

 これを受けて、武道という項がたてられている。

F 武道
(1) 自己の能力に応じて次の運動の技能を高め,相手の動きに対応した攻防を展開して練習や試合ができるようにする。
 ア 柔道
 イ 剣道
(2) 伝統的な行動の仕方に留意して,互いに相手を尊重し,練習や試合ができるようにするとともに,勝敗に対して公正な態度がとれるようにする。また,禁じ技を用いないなど安全に留意して練習や試合ができるようにする。
(3) 自己の能力に応じた技を習得するための計画的な練習の仕方や試合の仕方を工夫することができるようにする。」

 そして、内容の取り扱いとして次のように述べられている。

Fの(1)の運動については,これらのうちから一つを選択して履修できるようにすること。なお,地域や学校の実態に応じて,相撲,なぎなた,弓道などその他の武道についても履修させることができること。」

 

C校はこれに従って、体育実技の一環として柔道を導入したのであり、これは体育理論と違って、実践が要求されているのだから、C校の取り扱いは指導要領に照らし、正しいと言える。

 問題は、それを履修することができないという生徒がいた場合に、それに対して代替措置を執ることが許されないのか、という点にある。

 基本的には、それは校長の裁量に服する。最高裁判所はいう。

「校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである」

 この意味では、一般的には自由裁量行為に属する。しかし、退学の場合には別だと最高裁判所はいう。

「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則133項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである」

 こうして、退学処分に関しては羈束裁量と考えるべきことになる。

Xが退学処分になったのは、Xが一般的に学則に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するというわけではなく、保健体育の成績だけが問題なのであり、これが問題になったのは、実技に代替措置を認めなかったためである。

 例えば、身体に障害があって、武道を行えない、という生徒がいた場合に、代替措置を執ることは当然である。そして、信仰上の理由というのは、いわば精神的に武道を行うことに障害があるということだから、代替措置を執る理由はある。最高裁判所は次のように述べた。

「信仰上の理由に基づく格技の履修拒否に対して代替措置を採っている学校も現にあるというのであり、他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能であると考えられる。また、履修拒否が信仰上の理由に基づくものかどうかは外形的事情の調査によって容易に明らかになるであろうし、信仰上の理由に仮託して履修拒否をしようという者が多数に上るとも考え難いところである。さらに、代替措置を採ることによって神戸高専における教育秩序を維持することができないとか、学校全体の運営に看過することができない重大な支障を生ずるおそれがあったとは認められないとした原審の認定判断も是認することができる。そうすると、代替措置を採ることが実際上不可能であったということはできない。」

 ここまで論じて、はじめて問題になるのが、代替措置を採ることが、Yの主張するように政教分離原則に違反することになるかどうかである。ここまでの議論は、これが判決の主たる論点であったことに明らかなとおり、政教分離を論じるための、絶対的な前提条件である。

五 政教分離の答案構成

 信教の自由及び政教分離を論じるのは、諸君としてははじめてなので、最初に政教分離を論じる場合の答案構成を簡単に説明する。

1.問題になっているのが神道である場合には、まず宗教とは何か、という点を論じなければならない。ただ、本問の場合には、A教は明確な教義をもつ宗教であるので、宗教性について問題が生じるとは考えられないので、割愛して良い。
2.だから、本問の場合にはいきなり政教分離の法的性格論(例えば制度的保障と考えるというように)を述べる。
3.その法的性格を基にして、政教分離で問題となる国家活動とは何かを論じる。そして、許される国家活動と禁じられる国家活動を識別する基準として、レモンテスト及びエンドースメントテストを述べる。

 以下、そこで論じなければならないのは何か、ということを逐次説明したい。

六 政教分離について

 ここに述べることは、諸君の論文に書かねばならないことではない。しかし、論文の絶対的な前提をなしている事項なので、これを誤解していると、論文内容がめちゃめちゃになってしまう。その意味で、正確に理解しておいて欲しい。

(一) 政教分離の意義

 わが国では、神道があることからくる宗教概念の特殊性から、政教分離概念についても、また、欧米諸国の概念をそのまま持ち込むことができない。すなわち、わが国特有の概念と把握する必要が発生する。そもそも、政教分離という概念は、欧米においてすら、きわめて多義的な概念であって、厳密に定義を下さない限り、議論が噛み合うことがない。

 その意味で実質的に問題となるのが、「教」という部分が教会(宗教団体)を意味するのか、それとも宗教を意味するのかという点である。

 欧州においては、一般に、国家と教会の分離(separation of Church and State)が、政教分離という用語の下においては問題とされている。その場合、国家は特定の教会(宗教団体)に有利にならない限り、宗教活動を行うことは何ら問題にはならない。すなわち、国家の非宗教性は、ここでは要求されない。このように政教分離を解釈する場合には、本問のような事例では、そもそも問題となり得ない。

 これに対して、わが国では、国家と宗教の分離(separation of Religion and State)を意味する、と解する点において、ほとんど異説はない。ここで注意しておく必要があるのは、憲法89条前段は、公金の支出等を禁ずる対象として「宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持」ということを上げている点である。一般に、89条前段は203項の財政的表現と説かれるが、条文上は明らかに、国家と教会の分離を定めており、203項とは内容に違いがあるのである。

(二) わが国における分離形態

 政教分離には、欧米を例にとれば、部分的分離〈例えばドイツやベルギー〉、敵対的分離〈例えばフランスやトルコ〉、完全分離〈例えば米国〉などがある。わが国の制度を、欧米の分類基準のどれに入るかという観点から分けていけば、完全分離主義に属するといわれる。決して宗教を敵視してはいない〈つまり敵対分離ではない〉が、受け入れてもいない〈つまり部分的分離ではない〉からである。そこで、従来から、わが国の政教分離を論ずる際には、完全分離主義の典型たる米国における憲法理論を導入して論ずることが行われてきている。しかし、わが国にいう政教分離とは、欧米では国家と宗教団体であるのとは異なり、国家と宗教の分離であるということを考えるとき、その継受に当たっては慎重でなければならない。

 しかし、その根拠をどこに求めるかが問題となる。学説は一般にきわめて直感的にこれを主張するのみで、その理由をきちんと示すことをしない。言われる時には戦前において、神道が国教的に扱われ、国民の信教の自由を抑圧した歴史をいう場合が多い(例えば長谷部『憲法』第4196頁)。しかし、そうした理由は、米国にもあったのだから、米国同様に国家と宗教団体の分離で十分のはずである。私見によれば、次の点が理由となる。

 わが国信教の自由の、欧米に比べての大きな特徴は、憲法202項が宗教行事への参加強制の禁止を規定している点に端的に示されるとおり、明確に宗教を信じない自由を予定している点にある。これは米国憲法第1修正が、国教の禁止という形で信教の自由を保証しているのにとどまる点と大きな違いである。このようにわが国において、無宗教の自由の尊重される理由は、キリスト教諸国やイスラム教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているために、特定の宗教が国民の日常生活を規制する機能が低下し、ひいては宗教を有しない者の数が非常に多くなっている点に求められるであろう。宗教行政を所轄する文化庁が毎年、刊行する『宗教年鑑』をはじめ各種統計資料にも、各宗教教団から提出された宗教別信者数の総合計が、21600万人と日本の総人口の1.8倍にもおよぶ数値が示されている。他方で、世論調査で、「あなたは何か、信仰とか信心とかを持っていますか」と聞いた場合の回答では、無宗教と答える人の割合は確実に70%を超えるのである。

 これに対して、欧米各国ではごく一握りの人間を除いては皆何らかの宗教に帰依している。例えば、米国の統計を見ると、次のような状況である。

○キリスト教84.9%(カトリック系25.0 プロテスタント57.1 東方正教会系 2.8 ○ユダヤ教1.9% ○イスラム教0.3% ○仏教0.2% ○ヒンドゥー教0.1% ○その他12.6

 無宗教というのは、この最後のその他の中に埋没していることになるから0.1%以下である事は確実である。したがって、すべての宗教を等しく有利に扱うことにより、信教の自由の保護が事実上可能なため、国家と教会を分離すれば十分であって、国家から宗教までも排除する必要はない。しかし、わが国では、何らかの宗教を信ずる者を有利に扱うことは、多数を占める無宗教者を相対的に不利に扱うことを意味するから許されない。

 この結果、わが国では政教分離とは、国家と宗教の分離を意味するものとして、すなわち最高裁の言葉を借りれば「国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの」という結論が導かれることになる。宮沢俊義は、この国家の非宗教性を「宗教をまったくの『わたくしごと』にする必要がある」と説明している(『憲法Ⅱ』新版、355頁)。この結果、我が国では国家と教会の分離ではなく、国家と宗教の分離が要請されることになる。そうしようとする場合、基本的に厳格分離が要求されるのは当然といえよう。

 このように理解した場合、201項で宗教団体に対する特権の付与を禁じ、あるいは89条で公金等の支出を禁じたのは、絶対的な禁止を意味するものと理解しなければならない。すべての宗教団体に、等しく特権を与え、若しくは公金を支出する行為は、米国の場合には、政教分離原則違反とはならないが、わが国の場合には、この禁止に該当することになる、と理解するべきであろう。後に説明するレモンテスト、エンドースメントテストの使用にあたり、注意するべき点である。

七 政教分離の法的性格

 わが国の政教分離の法的性格に関しては、説の対立が存在している。通説判例は、制度的保障説であるが、人権説(芦部信喜)、制度説(佐藤幸治)及び客観的禁止説(戸波江二)がこれに厳しい批判をあびせているのである。ここでは説明の手を抜いて、制度的保障説についてだけ説明する。

 政教分離が制度的保障であるかどうかを考えるには、まず、制度的保障そのものがどのような概念なのかを明らかにする必要がある。この概念は、法律の留保を説明するためにドイツのカール・シュミットが考えだしたもので、一般に、組織された既存の制度に対して、憲法的保護を与え、その制度の核心(本質的内容)の侵害されないことを立法権からも保障する法的保障であると説かれる。制度的保障の対象になっているのは制度自体であって、個人の人権そのものではない。すなわち制度は、原則として自由と峻別される。しかし、両者は無関係なものではなく、制度が個人の自由の保護、強化に仕えるという補充的な性格を持つ点に特徴が顕れる(制度の中核をなしているのが自由権である、という論文があったが、とんでもない間違いである)。制度そのものを改変したり、廃止したりするには憲法改正によらなければならない。その反面で、制度の周辺的な要素については法律による規制が可能である。

 政教分離を制度的保障と把握する場合の議論の内容は後に紹介することにして、ここでは最初に、変則的であるが、制度的保障説にどのような問題点があるかを見ておくことにしよう。

 制度説に反対する学説は、基本的に、制度的保障という理論を使用すること自体を拒否する。その理由は大きく三点に求めることができる。

 第1に、制度的保障説は、もともと「法律の留保」を伴う憲法規定の説明手段として開発されたものであるから、わが国現行憲法のように法律の留保なく、すべての人権が立法権に対して保障されている法制の下では、その必要性が低下している。

 第2に、自由権は一般に国家からの自由という性格を有しているのであるから、国家を前提とし、その法律によって人権が規制されることを予定している制度的保障説は、基本的に相容れない性格を有するこは否めない。その結果、当該制度的保障が奉仕すべき人権規定の保障がかえって弱められるおそれがある。

 第3に、政教分離に関しては、憲法は、国教制度の内容を定めてそれを明確に忌避(政教分離原則の明確化)しているのであって、制度を積極的に創設することにかかわる制度的保障の理論によるべき場合ではない(制度の本質的内容を云々する余地がない)。

 だから、制度的保障説を論じる場合には、このあたりを守る文章を工夫する必要がある。

上記問題点の特に1及び2についての説明方法として、多くの論者の賛同を得ているのは、戸波江二の説くところである。

 それによれば、通常、制度的保障説で最大の問題点と指摘されることの多い、何が制度の不可侵の核心(本質的内容)か、を決定するのは、理論そのものの問題ではない。「本質的内容をどのように確定するかという問題がそもそも優れて実践的な解釈問題であって、本質的内容の広狭は究極的には解釈者の価値判断によって定まる。」そして、このように本質的内容の範囲がこの理論自体から論理必然的に導かれないとすれば「結局のところ、いかなる立法が制度的保障の本質的内容を侵して違憲となるかの判断にあたっては、実は、制度的保障の理論は何の役にも立っていないことを意味する。」では、制度的保障理論の意義はどこにあるかといえば、それは制度的保障だとされる特定の憲法規定が人権を直接に保障する規定ではなく、一定の制度を客観的に保障する規定であることを明らかにする規定であることを説明する「一種の説明概念」にすぎず、「そこから何らかの具体的な法的帰結が導き出されるという意味での解釈論的道具概念ではない。」「最も重要なことは、制度的保障とされる憲法規定を個別に検討し、それぞれの法的性格をその規定の特質に応じて確定することである。」(筑波法政7号参照)。

 この理論を政教分離に当てはめると次のようになる。制度的保障と把握することにより、はじめて「政教分離原則の侵害の有無は、憲法20条2項の宗教の自由侵害の有無と異なり、個人に対する『強制』の要素を必要としない。すなわち、国又は地方公共団体が行政主体になって特定の宗教活動を行えば、一般市民に参加を強制しなくとも、それだけで政教分離原則の侵害となる。政教分離に対する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害となることを恐れなければならない」(津市地鎮祭、名古屋高裁判決より引用。)と解し得る。このような説明を導きうるという点において、説明の道具として制度的保障概念を使うことが優れているのである。

八 国家と宗教の分離の限界

 以下では、制度的保障説ないし客観的禁止原則説を前提にして、国家と宗教の分離の限界を説明する。

(一) 総論

 宗教は、個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常である。この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教との関わり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近い。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。

 なお、関わり合いの完全な排除ができない理由として、福祉国家にあって社会給付の平等制が要求されるから、という説明が目立ったが、これは不十分である。限界線上の問題として合憲判決がでた津市地鎮祭判決の対象となった地鎮祭の挙行は、なんら福祉国家的社会給付の問題ではないことを考えれば、そのことは明らかと言える。

 この問題は三つの場合に分けて考えるべきである。

 第一に、宗教とは異なる理由で行われる国家からの援助の受け手として宗教団体が存在する場合である。例えば特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財保護の一環として、神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のために国が宗教団体に補助金を支出したりする行為である。わが国は先に述べたように宗教に対して敵対的分離主義を採用しているわけではないから、これらは許される。仮に、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による逆差別が生ずることにもなるからである。

 第二に、個人の信教の自由の保護のために、国家が宗教と関わりを持つことが要請される場合である。刑務所等における教誨活動がその典型である。刑務所においては、受刑者の信教の自由は、その身体的自由の制限のために事実上制限されているので、教誨活動を認めないときは、著しく制約される結果を招くことにもなる。人権と人権の衝突の場合に、比較考量によってどちらの人権がどの限度で承認されるかを検討する。政教分離原則と人権の衝突の場合にも同様の比較考量が許されるべきであろう。

 第三に、元々宗教行事であったものが、今日のわが国において、単なる社会習俗と化している場合がある。例えば、わが国が今日採用している休日のほとんどには宗教的背景が存在している。すなわち、日曜(キリスト教の安息日)、土曜(ユダヤ教の安息日)、正月(神道の祭日)、春分・秋分の日(仏教の祭日)などである。また、クリスマスもわが国ではキリスト教信仰とは切り離された形で一般的祝い事とされている。社会習俗化している場合には、政教分離原則に違反しないということができる。このような本来的宗教行事が、社会習俗なのか、それとも依然として宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならないといえるであろう(津市地鎮祭最高裁判決)。

(二) 津市地鎮祭訴訟最高裁判所判決

 最高裁判所は、津市地鎮祭訴訟で、目的効果基準を導入したとされる。これは、米国連邦最高裁がレモン事件で採用した、いわゆるレモン・テストに類似している。より正確に言うと、レモン・テストは、津市地鎮祭判決を批判する手段として、芦部信喜が米国判例の中から見つけてきて、比較して論じたものである。本来の目的効果基準は、レモン・テストとは関係がない。

 最高裁判所の使用した目的効果基準と、レモンテストの相違点は、第一に、地鎮祭という事実行為に適用したものであり、第二に、過度の関わりという三番目の要件がない貂である。

 すなわち、最高裁は、203項の国の行為を

「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。」

とする解釈を導入することによって、地鎮祭儀式の3項該当性を否定した。しかし、「布教、教化、宣伝」などの行為は、神道には本質的に伴わないから、このような目的ないし効果を伴うものだけを3項は禁止していると解するかぎり、神道の活動は常にそこにいう宗教行為に当たらないことになる。それは結局、戦前の神道非宗教説と同一の理論となる。

 少なくとも、津市地鎮祭のように厳格に神道の儀式として実施されたものを、通常の住宅の新築等に当たって施主と業者が酒食をともにすることを主たる目的として行われる、地鎮祭と称されるところの単なる世俗的行事=習俗と同視して、宗教行為に当たらないとしたことは、わが国神道の特殊性をあえて無視したものである。すなわち、神道の宗教としての特徴を意識的に切り捨てている点に、この基準の第1の問題がある。

 第2に、その内容が多分に主観的なものであって、判断者により大きく揺れ動くおそれがあるという点に問題がある。この第2の問題の深刻さについては、津市判決以後の、目的効果基準を使用した下級審判決の振幅の大きさが端的に示している。例えば、愛媛玉串訴訟において、下級審段階では、同じように目的効果基準を使用しながら、合憲、違憲と対立する判決が下されているのである。

 最高裁判所の目的効果基準による場合、愛媛玉串訴訟判決で、可部少数意見は

「二要件を充足する場合に、それが憲法203項にいう『宗教的活動』として違憲となる(その一つでも欠けるときは違憲とならない)とするもので、この点、合衆国判例にいうレモンテストにおいて、〈三つの要件を述べた部分を省略〉の一つでも充足しないときは違憲とされることとの違いがまず指摘されるべきであろう」

という。その意味で、この点は重要な論点である。レモンテストを引用しながら、すべてを充足しない限り違憲とならないのではないか、と思われる書き方をしている者が時々いるが、妥当ではない。

(三) 愛媛玉串訴訟最高裁判所判決

 この判決は、その理由中で、津市地鎮祭判決をかなり長く引用して議論しており、そこだけをみれば、その採用した目的効果基準をそのまま維持したように見える。しかし、実際の判断の段階では、これとは異なる議論が展開されている。すなわち玉串料の宗教的意義について検討をした後、次のように述べる。

「これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀に関わり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合と異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体型の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。」

 ここで論じられているのは、明らかに目的効果基準ないしレモンテストというよりも、エンドースメントテスト(Endorsement test)である。"endorse"とは、本来、手形などの裏書きの意味であるが、それと同様に、国が特定の宗教団体を積極的に支援する姿勢を示すことにより、その特別性を保障する否かを、政教分離の重要な要素として把握する、という考え方である。この理論は、米国最高裁判所のLynch v. Donnelly(1984)判決での同意意見の中で、オコナー判事が提唱し、Wallace v. Jaffree(1985)判決で発展させた基準で、「宗教を是認または否認するメッセージを政府が送っているかどうか」、すなわち「その宗教を信じない者に、その者達がよそ者であり、政治共同体のまったき構成者ではないとのメッセージを送り、信仰者に、仲間内の者であり政治共同体で優遇されるとのメッセージを送る」者であるかどうかを基準として、政教分離原則違反か否かを判断するのである。

 一読して明らかなとおり、エンドースメントテストは、国家と宗教団体の分離を問題としている。最高裁判所は「県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれない」と言っているが、逆に言えば、他のすべての宗教団体に同様の支出をしていれば、玉串料の支出も合憲となると読める。これは、通説・判例が一致して承認してきた国家と宗教の分離という理解に対する大幅な修正であり、きわめて危険な思想ということができる。

 政教分離を、国家と宗教の分離と把握する通説の立場に依る限り、「特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持った」ことが問題なのではなく、およそ、宗教との間に特別の関わりを持ったことが問題であり、それが特定の宗教団体かすべての宗教団体か、もしくは、特別の関わり合いであることが意識されているかいないか、というようなことは何ら重要性を持たない、と言わざるを得ないのである。

 しかし、この判決が、津市地鎮祭判決に比べ、神道の国教化傾向に対する明確な歯止めを提供した点は高く評価されなければならない。

(四) 結論

 今日、我々は一般にレモンテストの三原則を採用して、政教分離原則を判断する。諸君の中には、丸で天からの声があったかのように、三原則を当然に理論的に導けるかのような書き方をする人が多い。しかし、それは間違いである。これはあくまでもレモンテストというアメリカ連邦最高裁の開発した基準であって、その各要件を理論として導くことは不可能である。だから説の根拠としては、必ずレモンテストという言葉を使用するようにしよう。問題はなぜこの基準を使用することが妥当なのか、その根拠である。これまで繰り返し強調したとおり、アメリカ連邦最高裁の開発した一連の基準は、いずれも国家と教会、すなわち宗教団体が分離しているか否かを判定するための基準であって、国家と宗教の分離を判定するために開発されたものではないから、文字通りに適用すると不都合が生ずるからである。この点について、戸波江二は次のように説明する。

「この基準は、国家と宗教との一定の関わりを前提とするものであって、必ずしも厳格な基準というわけではない。しかし、国家と宗教との間に線を引くための基準として一応の妥当性を有し、また日本の判例でも一般的な基準となっている以上、この基準を基本的に維持して三要件違反の有無を厳格に審査し、他方で、国家行為の宗教性を具体的・実質的に判断していくのが妥当であると思われる。」新版227

 まことに奥歯に物の挟まったような、不明確な支持理由であるが、わたしも賛同する。すなわち、すべての教会と等しく関わり合いを保つこともまた、宗教との分離に反することになるので、違憲というべきであることなどを念頭に置くというような、米国よりもはるかに厳格な分離が要求されることを、この基準の適用にあたっては忘れてはならないのである。したがって、先に分類した三つの場合、すなわち、偶発的に宗教団体が公金の交付対象となった場合、個人の信教の自由を保障するためには国家が宗教と関わりを持つ以外に方法がない場合、及び実際には社会習俗であって宗教活動ではない場合以外の場合には、国家は宗教と関わりを持ってはならない。

九 本問への当てはめ

 以上に述べたことを、本問に当てはめて検討してみよう。まず最高裁判所判決から見る。

「所論は、代替措置を採ることは憲法203項に違反するとも主張するが、信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法203項に違反するということができないことは明らかである。」

 この判決は、愛媛玉串判決が出る以前のものだから、単純に目的効果基準で処理しており、第3の過度の関わりあいの検討が行われていないことが判る。だから、諸君としては、判例に依拠して論じる場合にも、最低限、その点を補わなければ,合格答案にはならない。

 先に述べたとおり、その具体的な基準としてはエンドースメントテストがある。同じように格闘技を禁じる教義をもつ宗教の中で、特にA教だけを優遇するのであれば、このテストに落第することになる。しかし、A教に限定することなく、あらゆる宗教的要求に対して代替措置を執る場合には、過度の関わりあいにはならない、と結論できる。