自動書籍販売機と憲法14条
甲斐素直
問題
株式会社Xは、福島県において、監視カメラや身分証のチェックで、本人確認、年齢確認が行える独自のシステムを導入した機械を設置し、これにより卑猥な姿態、性交、またこれに類する描写のあるDVDを販売することを生業としていた。そして、このDVDは福島県青少年健全育成条例18条により有害図書と指定されていた。
このような有害図書等を自動販売機で販売しようとする場合には、同条例20条の3により県知事に届け出をしなければならない。
しかし、Xの設置した販売機は、上記の通り、遠隔地にあるセンターから監視カメラ等により監視している者が、18歳以上と確認できない場合は身分証の提示を求めるシステムを作動させ、販売しないように管理されているため、対面販売と同様に確認できるシステムであるとして、この機械を設置する際、知事に届け出をしなかった。
しかしながら、 監視センターの各モニター画面は20型サイズであり(画素数は10万画素)、画像はある程度鮮明であるが、ピントがやや甘くややぼんやりしており、顔の細かい部分は不鮮明で塊としてしか確認できないものであった。さらに 通常は1人の監視員が3台のモニターを担当することになっているが、監視員は交替で休憩をとるから、時には15台のモニターを2人で監視することもあった。このような状況のもと、18歳未満か否か不明なグレーゾーンの客であっても販売許可ボタンを押し、着信をなるべく多く受け付け、その場合でも着信表には年齢を20代と記載するよう運営されていた。
このため、設置から1月経過したとき、Xは、有害図書の販売を自動販売機で行ったとして、同条例34条により起訴された。
これに対し、Xは、同条例20条の3は、青少年に健全な育成を阻害する行為を規制する目的で立法されたものであり、これを考えれば、店員と客が直接対面して青少年に有害図書を販売する、いわゆる書店販売は知事への届け出義務が課されていないのに、Xの機械は実質的に対面販売となっているにもかかわらず、監視システムを導入していない自動販売機と同等に取り扱われ、設置に知事の届け出が課されるのは、憲法14条及び21条に違反するとして主張した。
Xの主張の憲法上の当否について論ぜよ。
参照条文:福島県青少年健全育成条例
第18条 知事は、図書類の内容の全部又は一部が前条第1項各号のいずれかに該当すると認めるときは、当該図書類を青少年に有害な図書類として指定することができる。
2 次に掲げるものは、青少年に有害な図書類とする。
(1) 略
(2) ビデオテープ又はビデオディスクであつて、卑わいな姿態等を描写した場面で規則で定めるものの描写の時間が合わせて3分を超えるもの(当該ビデオテープ又はビデオディスクの内容が主として視聴者の性的好奇心をそそるものでないと認められるものを除く。)又は連続して3分を超えるもの(映像は連続しないが、音声が連続する等実質的に描写が連続する場合において、当該描写の時間が3分を超えるものを含む。)
(3) 略
3 図書類を販売し、交換し、貸し付け、見せ、若しくは聴かせることを業とする者又は図書類サービス業者(以下これらを「図書類の取扱業者」という。)は、第1項の規定により指定された図書類及び前項各号のいずれかに該当する図書類(以下「有害図書類」という。)を青少年に販売し、譲渡し、交換し、貸し付け、頒布し、見せ、又は聴かせてはならない。4 図書類の取扱業者は、有害図書類を陳列するときは、青少年の健全な育成を阻害するおそれがない方法として規則で定める方法により、陳列しなければならない。ただし、法令により青少年の立入りが禁止されている場所において有害図書類を陳列するときは、この限りでない。
5 前項本文の場合において、図書類の取扱業者は、有害図書類の陳列場所の見やすい箇所に、当該図書類を青少年が購入し、借り受け、閲覧し、又は視聴することができない旨の掲示をしなければならない。
6 知事は、前2項の規定に違反している図書類の取扱業者に対し、期限を定めて、その有害図書類の陳列方法を改善し、又は前項の掲示をすべきことを命ずることができる。
第20条の2 図書類等販売業者は、その設置する自動販売機等ごとに、第21条第2項の規定による青少年に有害な図書類及び青少年に有害ながん具類の撤去その他の必要な措置を自ら直ちに講ずることができない場合において、自己に代わつてその措置を講ずることができる者を自動販売機等管理者として置かなければならない。ただし、図書類等販売業者が自ら管理することができるものとして規則で定める自動販売機等については、この限りでない。
第20条の3 図書類等販売業者は、図書類又はがん具類の販売又は貸付けを目的として自動販売機等を設置しようとするとき又は自動販売機等の設置場所を変更しようとするときは、当該自動販売機等ごとに、あらかじめ、規則で定めるところにより、次に掲げる事項を知事に届け出なければならない。
(1) 図書類等販売業者の住所及び氏名(法人にあつては、主たる事務所の所在地、名称及び代表者の氏名)
(2) 自動販売機等管理者の住所及び氏名
(3) 自動販売機等の設置場所
(4) 自動販売機等の設置場所の提供者の住所及び氏名(法人にあつては、主たる事務所の所在地、名称及び代表者の氏名)
(5) 自動販売機等の設置予定年月日
(6) 自動販売機等による販売又は貸付けの開始予定年月日
(7) 自動販売機等により販売し、又は貸し付ける図書類又はがん具類の種類
第21条 図書類等販売業者は、その設置する自動販売機等に有害図書類又は有害がん具類を販売又は貸付けの目的で収納してはならない。
2 図書類等販売業者及び自動販売機等管理者は、現に自動販売機等に販売又は貸付けの目的で収納されている図書類が第18条第1項の規定による指定を受けたとき又はがん具類が第20条第1項の規定による指定を受けたときは、直ちに当該図書類又はがん具類の当該自動販売機等からの撤去その他の必要な措置を講じなければならない。
3 知事は、第18条第1項の規定による指定を受けた図書類又は第20条第1項の規定による指定を受けたがん具類が前項の規定に違反して、自動販売機等に販売又は貸付けの目的で収納されているときは、当該図書類等販売業者及び自動販売機等管理者に対し当該図書類又はがん具類の撤去その他の必要な措置を命ずることができる。
4 知事は、青少年の健全な育成のために必要な環境を阻害するおそれのないよう、図書類等販売業者に対し図書類又はがん具類が収納されている自動販売機等の設置場所について適当な措置を講ずるよう求めることができる。
第34条5項 次の各号のいずれかに該当する者は、10万円以下の罰金に処する。
(1) 第20条の3第1項の規定による届出をせず、又は虚偽の届出をした者
[はじめに]
この問題の事実関係に対する切り口として、実に様々なものがある。実際、本問のベースとなった福島県青少年健全育成条例事件(最高裁判所第二小法廷平成21年3月9日判決)では、14条以外にも、21条1項、22条1項、31条と多彩な憲法条文に対して違憲主張がなされている。だから、単に事実関係が書かれていて、最後に「この問題に含まれる憲法問題について論ぜよ」というものであれば、これらすべてを論点として提起し、論じるというとてつもなく難しい問題となってしまうのである。
しかし、本問の場合には、Xがその数多い論点の中で14条を選んでおり、問題として要求されているのはそのXの主張に含まれる憲法問題なので、論じるのは14条という事になる。21条を加えたのは、その14条における審査基準論の関係で判りやすくする狙いだったのだが、却ってミスリーディングであったか、と後悔している。
Xの主張内容は、問題文中に明記してあるので明快と思っていたのだが、提出された論文を見る限り、読み取れない人もいたので改めて説明すると、14条違反として問題になっているのは、有害図書を自動書籍販売機により販売する者と、一般の図書販売者に対する同県条例における取り扱いの差異である。同県条例18条3項以下によると、図書販売業者は陳列方法に関して規制はあるが、有害図書を陳列し、販売することが許されている。それに対し、自動書籍販売機により販売する者は、21条により、そもそも有害図書の陳列そのものが禁じられている。
そこで、Xは、その場に職員を配置する代わりに、遠隔地の監視センターに配置した職員を通じて、個別の販売ごとに人間が関わる体勢を取ったので、一般書籍販売者と同様の扱いになると考えていたにもかかわらず、依然として自動書籍販売機による販売として規制され、起訴されたので、対面販売との違いに関し、14条違反を主張したわけである。
出題者が当初作成した問題だと、画像は鮮明だとされていた。私は、それだと君たちがミスリーディングされるおそれがあると考え、原判決に従い、不鮮明とした。しかし、これは本問の論点には直接には関係が無い。鮮明であろうと無かろうと、対面販売と遠隔販売の違いが争点だからである。そして、対面販売の場合でも18歳以下か否かが不明なグレーゾーンへの販売がなされることはあり得ることだからである。
一 憲法14条の本質
憲法14条の問題で最初に論じなければならないのは、それが人権なのか、それとも原則なのか、という点である。
最高裁判所判決は、例えば国籍法3条の合憲性が問題となった事件で、次の様に述べる。
「法律の要件における区別が,憲法14条1項に違反するかどうかは,その区別が合理的な根拠に基づくものということができるかどうかによって判断すべきである。なぜなら,この規定は,法の下の平等を定めているが,絶対的平等を保障したものではなく,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって,法的取扱いにおける区別が合理的な根拠に基づくものである限り,何らこの規定に違反するものではないからである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁)。」
このように、昭和39年という恐ろしく古い判例を引用して、このように述べるのが、最高裁判決の標準的なパターンとなっている。なお、もう一つ引用されているのは、非嫡出子相続分判決である。
しかし、昭和39年判決も含め、最高裁判所判決には、なぜこのように考えるのかという理由が全く書かれていない。いつも強調するとおり、論文の命は理由である。したがって、仮に諸君がこれをこのまま丸写しにしていれば、理由不足として減点されるのは間違いない。
今日の学説は、相対的平等概念を、14条が保障しているのは平等権という人権ではなく、平等原則だという点から引き出す。だから、そのあたりの展開をきちんと書いてくれねば合格答案とはならない。
簡単に、平等権に関する講義を復習すれば、今日、学説は、14条は権利ではなく、平等原則を定めたものだと考える通説と、平等権という権利を保障したものだと考える少数説(少数説にたつ代表的な論文として、川添利幸「平等原則と平等権」公法研究45号1頁=1983年=がある。たいていの教科書に紹介されている。ただし、ここでは内容は説明しない。前回の講義で反対説の内容を説明したところ、全く無意味なつまみ食いをした論文が提出されたので、余計な知識はない方が安全と言うことを痛感したためである。)。
平等「権」と理解した場合には、権利である以上、当然に他者との比較を抜きにした絶対的な平等という概念が導かれないとおかしい。つまり、上記最高裁判所判決は、平等権は、実は権利ではない、といっているに等しい。これが平等権=平等原則説である。
ここでの鍵は、憲法14条が、単に平等といわずに、「法の下の平等」と言っている点にある。ここに、法というのは、法の支配(rule of law)とか、法定の手続きの保障(due process of law)というときの法(law)の意味であって、実証法思想の下では、配分的正義そのものと理解するべきである。
アリストテレスによると、公法の領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるもので、これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」という法諺により有名である。正義にかなっている状態を、普通「合理的な区別(差別)」と呼んでいる。前に平等権とは、平等原則の意味である、と述べたのは、結局、近代法における正義理念といっているのと同じことになる。
すなわち、憲法13条と同様に、14条もまた、包括的基本権の1種である。憲法は公法秩序を定める法規範であるから、そこに保障される人権は当然すべて配分的正義の実現を目指している。そこで、ほとんどの場合には、14条に言及するまでもなく、個別の具体的権利の中で平等原則を読み切れる。例えば、三菱樹脂事件の場合、思想・信条に基づく差別的取扱いであるから、広い意味では間違いなく平等原則違反の事件であるが、解釈論的には19条の思想・信条の自由に対する侵害として把握すれば十分であって、14条に言及する必要はない。しかし、例えば議員定数違憲訴訟における47条のように、その権利の歴史的あるいは文言的理由から個別の人権では読み切れない場合には、14条を使用して権利を保護する必要が生ずる。本問で問題になっている国籍法は、憲法10条の定めている立法裁量権に関する文言的理由から、個人の保護が読み切れないために、補完的に14条を使用する必要が生じるのであり、その点で、議員定数違憲訴訟と類似している。
このように、公法体系を支配する根本的な正義概念が現れているものであるから、行政や司法のみならず、立法もこの平等原則に従う必要がある。法律が実質的正義に背馳する内容のものであれば、当然に本条に違反して違憲と評価されることになる。
二 14条の審査基準
(一) 14条1項後段列挙事項について
このように平等権の本質を原則であり、相対的平等であると理解した場合には、合憲の場合と違憲の場合をどのような基準で区別するか、という深刻な問題が発生する。特に問題となるのは、14条1項後段に列挙されている事項に何か特別の意味があるか否かである。最高裁判所は、先に説明した昭和39年判決で、次のように述べた。
「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」
以来、今日まで、この点模範例として引き継がれている。この説は、おそらく、今日でも、学説的にも通説であるといって良い。私自身も、この説を支持している。
しかし、近時、例示であることは確かだが、単なる例示ではなく、裁判規範として特別の意味がある、という主張が有力になされるようになっている。
この説のやっかいなところは、学者により、かなり説明が違うことである。
その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。
「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また意見を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第3版、249頁)
この主張は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。これに賛同する説もある(例えば芦部信喜『憲法』第5版、133頁)。確かに思想や信条に関しては民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、自由や民主と並ぶ基本原則であって、民主制的な当否が平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。そこで、より平等権に密着した理由が求められた。例えば、浦部法穂は次のように主張する。
「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」
(浦部『憲法学教室』全訂第2版109頁)
もっとも、この説については、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判する。そこで、松井茂記自身は次のような理由を挙げる。
「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」
(松井『日本国憲法』第2版、367頁)。
この問題に関する学説を、これ以上紹介しても煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。諸君としては、こうした中から、基本書と相談して適当と思われる理由を確立しておいて欲しい。
ここで大事なことは、その理由と、本問の論点である中心論点とが結びついていないと、わざわざ特別意味説を展開する必要が失われる、ということである。
例えば戸波江二は、本文には単に「不合理な差別の典型を列挙した」(戸波江二『憲法』新版、195頁)という程度に述べて、なぜこれが不合理なのかについての基準を挙げていない。その場合でも、そのあとで、「収入」という概念を例に挙げて、それに基づく納税における差別は合理的な差別で、デモ行進における差別は不合理な差別だ、と説明している。だから、戸波説をとる場合には、「不合理な差別の典型を列挙した」とだけ書いたのでは合格ラインには届かないのである。それぞれの事例問題においては、列挙事項のどれに抵触するのかを述べるとともに、なぜそれが不合理の典型なのか、という理由を事案に沿って挙げる必要があるのである。
(二) 審査基準論一般
審査基準の説明に入る前に、まず合理性基準(広義)の概念区別について説明する。これまで、この基本的な点についての説明をしていなかったからである。
1 狭義の合理性基準
憲法訴訟において、裁判所の非民主制、専門機関の判断に対する尊重などを根拠に、司法消極主義を原則的に採用する場合、法律に対する合憲性推定原則を導くことが出きる。この原則の下に違憲審査基準を考えるとき、狭義の合理性基準(rationality test、rational basis standard of review)を導くことが出きる。これは米国連邦最高裁の判例に依れば、「裁判所は議会が単に誤りを犯しただけでなく、極めて明白な、合理的な疑いの余地のないほど明白な誤りを犯したときだけ法律を無視できる」とされるので、明白性の原則あるいは明白性基準とも呼ばれる。
2 厳格な審査基準
これに対して、精神的自由権など、民主主義の過程そのものが歪んでいる場合には、投票箱にものをいわせた自動的な回復が期待できない。そこで、民主制に影響を与える可能性のある問題の場合には、司法積極主義を採用する必要がある。その場合には、上記合憲性推定に代わって原則的に違憲性推定が働くことになる。それが司法審査と結びついたときに導かれるのが、厳格な審査基準(strict scrutiny test)である。米国連邦最高裁の判例に依れば、この基準の下において、国が、立法の合憲性を立証するには、次の要件を証明する必要があるとされる。
① 立法目的が正当であること(立法目的が、「やむにやまれぬ利益(compelling interest)」を追求するものであること)、
② 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益 」を促進するのに必要不可欠であること、
3 厳格な合理性基準
以上のような基準を採用するときは、狭義の合理性基準を採用すれば合憲判決に、厳格な審査基準を採用すれば違憲判決に、と単純な照応関係が発生してしまう可能性が高い。それでは、審査基準として、少々硬直的であることは否めない。そこで登場したのが、厳格な合理性基準(strict rationality test)である。その内容を見ると、厳格な審査基準と合理性の審査基準の中間的な厳しさを持っているので、中間審査基準 (intermediate standard)と呼ばれることもある。米国連邦最高裁の場合、この基準は、自由権と並んで重要な人権である平等権に関する審査基準として開発された。この審査基準は、
① 立法目的が重要な国家利益 (important government interest) に仕えるものであること、
② 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性 (substantial relationship in facts)」が存在すること
を要求する。すなわち、立法の目的が、それを達成するために法によって用意された手段によって合理的に促進されるものであることを、国の側は事実に基づいて証明しなければならない。この基準は、合理性基準を基本的に適用しながらも、事実上の実質的関連性の審査に当たって、問題の性質上、立法目的の合理性そのものの合理性に関しても審査できること、及びそれに当たって国家利益に適合するか否かを審査可能である点で、合理性基準よりも司法介入を強く認める点に特徴がある。
ここに示したとおり、英語が元になっているので、それぞれの言葉をどう訳するかにより、日本語にした場合には若干の用語のぶれが生じることは認める。しかし、その英語の訳語の幅を超えた用語例は間違いである。以上に示したのと違う言葉遣いをしていた人は、猛省してほしい。もし、その誤りが、諸君の使っている本に由来するものである場合には、その本は間違いなくレベルが低く、国家試験に耐えられないものであることは明らかなので、直ちにゴミ箱に放り込むこと。
(三) 平等権における審査基準
1 14条後段単純例示説の場合
14条後段列挙事由が単なる例示と考えた場合の審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。例えば、非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。
「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法14条1項に反するものということはできないというべきである。」
これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の三分説を採用している。
① 精神的自由権に関連した差別には、厳格な審査基準を適用する。
② その他一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。
③ 一般的な差別の中でも、経済的自由の分野における差別については、狭義の合理性基準を適用する。
例えば、非嫡出子相続分に関する東京高裁判決は次のように述べている。
「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、24条2項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」
非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。このように、下級審の判事が常に最高裁判決に盲従しているわけではないことは、留意しておいてほしい。
2 14条後段特別意味説における審査基準
これに対し、14条1項後段特別意味説の場合には、学説の多様性に対応して、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195~196頁参照)。
① 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準
② 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準
③ 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準
これに対し、芦部信喜は次のような基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学Ⅲ 人権各論(1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。
① 人種や門地による差別=厳格な審査基準(27頁)
② 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(30頁)
③ 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(29頁)
これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。
* * *
本問の場合、14条の他に21条を、ミスリーディングになり得るかも、と危惧しつつ書き添えたのは、この部分における議論を簡明なものとするためであった。つまり、精神的自由権に準じた性格の平等権と言うことで、容易に厳格な審査基準を使うべきだという結論が導けるのである。
(四) 未成年者の人権制限
1 未成年者人権制限の許容理由
問題がこれだけであれば、本問の結論はあっさり出ることになるが、盾の半面も忘れてはならない。
岐阜県青少年保護育成条例に代表される、いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているが、その背景には、今日のメディアが、地方公共団体によって有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる、価値の極めて乏しい出版物を、もっぱら営利的な目的追求のために刊行している、という現実がある。そのため、規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至っている。その結果、各都道府県等の制定している青少年保護育成条例に見られるような法的規制に対しては、表現の送り手であるメディア自身も、社会における常識的な意見も反対しない現象があらわれている。
岐阜県で問題となった、自動販売機による有害図書の販売について、最高裁は次の様に述べた。
「自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること〈中略〉から、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。」
ここで、規制を許容する大義名分が、条例名に現れている青少年の保護育成という概念である。伊藤判事は次のように述べる。
(未成年者の)「その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。」
この点について補完すれば、次のように言えるだろう。
近代国家における法制度を支配する最も重要な原理である自由主義及び平等主義は、基本的にすべての人が同等の能力を持つことを前提に、私人に対する政府の干渉を排除し、同等の機会を提供することを持って必要にして十分なものとする。しかし、現実の国民は決して同等の能力を持つものではない。特に、完全に自由競争に委ねたのでは、その犠牲者となることが確実なほどに能力の劣るものに対しては、国家として積極的に私人間に介入し、それによって実質的に自由及び平等の回復を図ることが必要となる。これが20世紀型基本原理とも言われる福祉主義である。
そこでは、社会的、経済的ないしは肉体的に弱者であるものが強者との平等の自由競争にさらされることにより、一方的に収奪・搾取される事態の発生を防ぐ責務を国家に要求すること自体が国民の基本的人権の一翼を構成しているものと理解する。そして、一般に未成年者はそうした弱者としての地位にあることから、その保護のための様々な政策が採られることとなる。未成年者の場合、その発達段階にもよるが、そうした保護が、日常生活のあらゆる面に及ぶため、一般に強者として理解される成人男性を基準として人権を考えた場合、人権に対する抑圧原理として現れてくる場合もある。しかし、それをもって未成年者が人権を否認されていると考える必要はない、ということなのである。
すなわち、未成年者は、成年者よりも強く知る権利を保障されるからこそ、その強い保障が制限という形態をとることもある、というわけである。
2 国による制限許容理由
ここまで述べれば、未成年者の人権制限が肯定できるような錯覚を起こすかもしれない。しかし、ここまでの議論だけでは、いまだ公的機関によるフィルタリングを肯定することはできない。なぜなら26条で述べた教育の私事性から、
「もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務である」(旭川学テ判決より)
という結論が出てくるからである。そこで、公教育の導入と同じように、現代社会における複雑性の下では、そうした親の監督権は
「それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。」
と述べて、はじめて本問規制の肯定可能性が生まれてくるのである。公的機関による未成年者の人権制限のためには、どのような議論を積み重ねる必要があるかが判ってくれたと思う。
ここから審査基準を緩和してよい、という理論を展開しなければならない。伊藤判事は、次のようにいう。
「ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。」
理由はこれまで述べてきた福祉主義である。
そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる諸原則、例えば明白かつ現在の危険原則とか、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)原則、はそのまま適用されない。同様に、事前抑制の禁止原則とか明確性原則といった違憲判断の基準についても、成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されることになるものと考えられる。具体的に以下検討しよう。
(五) 立法事実論について
厳格な審査は、二つの要件から成り立っている。目的の正当性と、その目的と手段との間の合理的な関係である。本問の場合であれば、目的は「児童・生徒の健全な発達」である。手段としては対面販売の確保である。ここで問題は、対面販売が本当に健全な発達に役立つと言えるのか、という点である。立法者がそう考えた、というだけでは不十分である。すなわち、目的と手段の間の合理的関連性が科学的に証明されていなければ、一般的には規制は許容されない。
有害図書を読んだり、有害サイトにアクセスすることは、健全な発達に害を与える可能性が高いことは確かであろうが、青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえない。成人の場合には、その証明が存在しない場合には、そのような手段を禁圧することは、知る権利に対する侵害として許されない、と考えられることになる。
しかし、青少年の場合、害悪の証明がないからといって、看過した場合、悲惨な結果が将来する可能性がある。そこで、伊藤判事はいう。
「青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」
科学的証明に代えて、高度の蓋然性でたりる、とするのである。
このことを、本問の場合に引き直すと、次の様な最高裁判所の主張になる。
「本条例の定めるような有害図書類が、一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼすなどして、青少年の健全な育成に有害であることは社会共通の認識であり、これを青少年に販売することには弊害があるということができる。自動販売機によってこのような有害図書類を販売することは、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず販売が行われて購入が可能となる上、どこにでも容易に設置でき、本件のように周囲の人目に付かない場所に設置されることによって、一層心理的規制が働きにくくなると認められることなどの点において、書店等における対面販売よりもその弊害が大きいといわざるを得ない。本件のような監視機能を備えた販売機であっても、その監視及び販売の態勢等からすれば、監視のための機器の操作者において外部の目にさらされていないために18歳未満の者に販売しないという動機付けが働きにくいといった問題があるなど、青少年に有害図書類が販売されないことが担保されているとはいえない。」