監視カメラと肖像権

甲斐素直

問題

 

X県の繁華街であるA地区では、犯罪が多発し治安が著しく悪化したことから、XはA地区住民多数の陳情を受けて、同地区内のXが管理する主要な通りに網羅的に監視カメラを設置した。その際、XはA地区に居住する住民からボランティアを募り、日替わりでそのカメラのモニターを監視するとともに、録画することとした。録画したビデオフィルムは、A地区商店街事務所の施錠されている金庫内に1週間保管した後、再び録画に利用し、上書きすることで消去することとしていた。
 A地区に居住するYは、○○年5月、自宅玄関先の路上で妻と口論の末、妻に対して暴力をふるったところを、監視カメラに映されてしまった。その情報がどのような経緯で一般に知られるに至ったかは不明であるが、結果として、Yの暴力行為が監視カメラに写されたということがA地区で噂になり、Yやその妻は、近所に買い物に行くのも苦痛なほどの注目を近隣住民から集めるに至った。
 そこでYは、Xの行った監視カメラの設置・管理が不適切であることにより、精神的損害を被ったとして、Xを相手取り訴えを提起した。
 本問における憲法上の問題点を論ぜよ。
【はじめに】
 この問題は、基本的に次のような論点から成り立っている。
 第一に、Yに、路上においてカメラに写されない権利というものがあると論証する必要がある。これは普通、肖像権と呼ばれる。この権利の内容がどのようなものかは、現在までのところはっきりしていないので、それを明確にすることが、第一の論点となる。
 第二に、Xが、そもそも繁華街に監視カメラを設置する権能を有しているのか、という問題である。仮に、監視カメラを設置すること自体が違法・違憲であれば、それにより被害を受けたYは損害賠償の請求が可能である。だから、論文の組み立て次第では、この段階で議論が終わることになる。
 第三に、仮にXに監視カメラ設置権があるとした場合には、最後に、Xの権能と、Yの権利の調整を、どのような基準で行うか、という問題が出てくる。
 以下、順次考えていこう。

一 肖像権について
 肖像権といえば、京都府学連事件というのは、条件反射的に諸君も思いついてもらえると思う。念のため、ポイントの部分を引用しておけば、次のような判決である。
「憲法13条は、『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。」
 この判決により、肖像権と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも警察に代表される国家権力によってみだりに容貌等を撮影されない権利というものが、憲法のレベルで考えられるということは判例的に確立したと言える。以後、多数の判決がこの判例に依拠する形で論じているからである。
 問題は、この判決文の限りでは、この肖像権なる権利の内法・外延がはっきりしない点にある。学説的な考え方としては、次の三つがある。
 第一は、13条に基づくプライバシーの権利の一環として理解することである。
 第二は、13条に基づくと解する点では同じだが、文字通り『肖像権』という名の、プライバシーとは異なる権利が存在すると考えることである。
 第三は、憲法21条の表現の自由の消極的行為形態の一つとして理解することである。
 以下、簡単に概観してみよう。

(一) プライバシーの一環とする見解について
 本判決は、「個人の私生活上の自由の一つ」として、肖像権を認めているから、その点を重視すれば、肖像権をプライバシーの一環として捉えているように見える。ところで、ここでプライバシーと呼んでいるのはどのような権利なのだろうか。
 プライバシーという権利は、無名基本権の典型であるだけに、様々な定義が存在している。大別すれば、次の三つになる。
 1 私法上のプライバシー権
 「宴のあと」事件判決が示した「私生活をみだりに公開されない」という権利として、私法上考えられるもので、もっぱら私人間で問題となる権利である。これについては、表現の自由等との衝突等の場面で、人権性を認められるという限りで、憲法上の問題となる。そのため、憲法の領域に特化した権利としての、すなわち、国家と国民の関係で問題となる公法上の権利としてのプライバシーを、これに依拠して論ずる者はいない。しかし、このことは、この概念そのものが否定されているのではないことに注意する必要がある。私人間における私法上の争いである場合には、「石に泳ぐ魚」事件その他の事件に見られるように、この説にしたがって判例は常に事件を処理するのである。もっとも、下級審判例の中には、情報プライバシー権的理解を私人間の争いに適用するものもないではない(例えば、「ノンフィクション『逆転』」事件東京高裁平成195日判決参照)。
 2 情報プライバシー権
 この説は、プライバシー権を「個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求し、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利」(佐藤幸治『憲法』青林書院第3453頁)と定義する。定義そのものの中に、「道徳的自律」という言葉が入っていることに明らかなとおり、人格的自律説を前提とする説であり、一般的行為自由説では採ることが不可能である。
 3 社会評価からの自由権
 一般的行為自由説を代表する論者である阪本昌成は、社会的評価をプライバシー権の中核とする。すなわち、情報プライバシー権説が、情報の流出自体をプライバシーの侵害として問題にするのに対して、阪本は、それ自体はプライバシーの侵害にはならないとする。プライバシー侵害が発生するのは、流出した個人データが社会的にマイナス評価の対象になり、当該個人が従来得ていた社会的評価が低下することに、プライバシー侵害を認められるとするのである。すなわち、プライバシーとは、「他者による評価の対象となることのない生活状況または人間関係が確保されている状態に対する正当な要求または主張」と定義されることになる。より簡単に言えば、「社会の評価からの自由な領域の確保」といっても良い(阪本『プライヴァシー権論』日本評論社、7頁以下参照)。
 4 その他の見解
 いうまでもなく、以上は代表的な学説の対立を瞥見したに過ぎない。個々の学者ベースでいれば、さらに多様な概念が存在する。有名例を2例挙げる。
 棟居快行は、対行政権の場面では基本的には第2説を支持しつつ、対マスメディアの場面では、「人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由」と定義する(棟居『人権論の再構成』信山社、185頁以下)。これは、第3説に基づくプライバシー概念の一部受け入れといえる。
 また、芦部信喜は、情報プライバシー権とは別個の憲法上の具体的権利として、「個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項を公権力の介入・干渉なしに自律的に決定できる自由」というものを考え、自己決定権と呼ぶ(芦部『憲法』岩波書店第5125頁)。この場合には、肖像権に関しては、これに含まれることになる(校則による髪型の自由などを例示している。)。

* * *

 同じように、プライバシー権という言葉を使用しても、そこには上述のように、様々な意味があるのだが、本判決で認める肖像権をプライバシー権の一環として捉えるというのは、いうまでもなく、第2説の自己情報コントロール権として構成する立場である。私法上のプライバシー権説の場合には公道上の行為に私事性を認めることが困難である。また、社会的評価からの自由権説の場合には、公表を予定しない撮影行為については、プライバシー侵害を考える余地はないからである。本判決の評釈の多くは、プライバシー説を採っているが、それはしたがって情報プライバシー権という理解になる。これが通説的な見解ということができよう(例えば辻村みよ子『憲法』日本評論社第2193頁、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』有斐閣第2136頁、初宿正典『憲法2基本権』成文堂第3141頁等)。
(二) 文字通りの「肖像権」とする見解について
 一般的行為自由説を採用する場合には、肖像権をプライバシー権の一環として捉えられない以上、プライバシーとは別の無名基本権と考える以外にない。その典型例を、阪本昌成に見ることができる。阪本は、一般的行為自由説の主張者として、「『幸福追求権』は『一般的行為の自由権』の別称である」(阪本『憲法理論Ⅱ』成文堂、240頁)とするから、肖像権というものを特別の人権として把握する必要がない。そうした立場から、肖像権については、通説の場合にはプライバシーとは別の人格権を構成するはずだと批判し、本判決に言及してている(同書246頁以下参照)。同じように、基本的に一般的行為自由説に立つ戸波江二も、本判決を13条から導かれる新しい人権の一種として紹介している(戸波『憲法』ぎょうせい新版175頁参照)。そして、プライバシーに関する説明では言及していないから、やはりこのような考え方をとっていると見られる。赤坂正浩も「肖像権の制限をめぐって、プライバシー権とは異なる展開を示してきた」として、独立の権利とする説を採る(赤坂『憲法講義・人権』信山社280頁)。
 京都府学連事件判決に関する判例評釈では、光藤景皎・マスコミ判例百選(別冊ジュリスト31号)150 「犯罪捜査目的の写真撮影と肖像権」をあげることができよう。判決が「少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない」としている点を捉えて、「憲法13条を国家権力の行使に対するものと一応限定して考えているようで、ただちに、私人対私人の関係に適用することはできないであろう」と述べているからである。宴のあと事件に代表される私法上のプライバシー権説は、私人対私人の関係においてもっぱら問題になる権利であること、自己情報コントロール権説も、私人間適用を予定していることを考えると、ここに示された光籐の見解は、判例がプライバシーの権利と一線を画した『肖像権』というものを想定していると読むことができるはずである。
 もっとも、一般的行為自由説と人格的自律説の対立が、この点に関する見解の相違を常に導いていると見ることはできない。例えば、樋口陽一は、戸波江二と同じように、プライバシーに関する議論とは切り離して本判例を説明している(樋口『憲法』創文社、272頁)。逆に、一般的行為自由説をとる長谷部恭男は、肖像権をプライバシーの一環として説明している(『憲法』新世社第5149頁参照)。

(三) 表現の自由の消極形態とする見解について
 棟居快行は、監視カメラを表現の自由の侵害に当たるとする。なぜなら、
「公道、公園のような公共の場所は、地域住民のコミュニケーションの場としての機能を果たしている。そのような、いわゆる『パブリックフォーラム』の継続的監視は、公共の場での表現行為を萎縮させ、多数の市民の表現の自由を奪うものである」

棟居快行『憲法学再論』(信山社)「監視カメラの憲法問題」284頁以下参照

 棟居快行自身は明言していないが、このようにパブリックフォーラムにおける表現の自由を奪われない権利の一環として肖像権を説明する場合、肖像権自体は、憲法21条の消極形態としての撮影されない権利として把握されていることになるはずであろう。
 このように、自己の意思に反して見られない権利というものを、21条で考えることができるというと、違和感を持つ人も多いであろう。しかし、212項はその明文で、通信の秘密(自己の意思に反して聞かれない権利)を保障していることを考えれば、自己の意思に反して見られない権利というものを考えることは、十分に可能であることが理解されよう。私自身は、この自己の意思に反して聞かれない権利と見られない権利という概念の上位概念として、内心の平穏の権利という概念を考えている。

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 このような多様な説の存在を説明したのは、決して諸君の論文で、こうした多様な説の存在を書け、という意味ではない。諸君としては、このように多様な学説の存在を念頭に、自説をしっかりと基礎づける必要があることを認識してくれれば、それで十分である。しかし、往々にして、自説は、当然の法理にしたがっているかの如く、全く説明を要しない自明の理である式の記述が、特に自己情報コントロール権説を採る人などに目立つので、注意して欲しい。

二 監視カメラの設置権
(一) 監視カメラ設置の法的根拠
 このように、肖像権を基礎づける説は様々に考えることができる。どの説をとるにせよ、監視カメラの設置は、それに対する侵害といえる。このような人権侵害を行政権が行うためには、その侵害行為の根拠となる権利の存在が必要である。たとえば、先に言及した京都府学連事件判決は、肖像権の限界について次のように述べている。
「個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法21項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。」
 要するに、この場合には、犯罪捜査権という国法上の権能にもとづいて、肖像権の侵害が可能だとしているのである。監視カメラに関するものとしては、自動速度監視装置により速度違反車両の運転者および同乗者の容ぼうを写真撮影することを争った事件がある。この場合にも、「速度違反車両の自動撮影を行う本件自動速度監視装置による運転者の容ぼうの写真撮影は、現に犯罪が行われている場合になされ、犯罪の性質、態様からいつて緊急に証拠保全をする必要性があり、その方法も一般的に許容される限度を超えない相当なものであるから、憲法13条に違反せず、また、右写真撮影の際、運転者の近くにいるため除外できない状況にある同乗者の容ぼうを撮影することになつても、憲法13条、21条に違反しないことは、当裁判所昭和441224日大法廷判決(刑集23121625頁)の趣旨に徴して明らかである」(最判昭和61 214日判決)

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 本論から少しずれるが、この判決は、肖像権を憲法上の権利として承認した点を除き、批判が多い。その批判は上記引用部分に続く次の議論に対するものである。
「そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法2182項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法13条、35条に違反しないものと解すべきである。」
 この判決の、肖像権絡みの部分に対する憲法学説の評価が高いため、ややもすると学生諸君は、上記箇所までもそのまま正しい議論として論文を書いてしまう傾向がある。この論理のどの辺に問題があるのかを端的に説明するには、次の下級審判例を見て貰うのが一番簡明であろう
 本件事件と同じように、警察がデモ行進を写真撮影した事件で、次のような理由から警察の撮影を、大阪地裁は違法としたのである。
「集団示威運動は参加者の思想を公に発表する目的で行われるものであるから、その状況を写真撮影されることは参加者等が事前に認容しているところであつて何等違法と言いえないと考えられるが、本件の如く容貌を目的として撮影される事までは一般に集団示威運動に参加する者が認容しているとは言えないと考えられる。顔写真の撮影は一見任意捜査であるかのように思われるが社会通念上無形の強制力を馳駆して、個人の平穏な生活を侵害するはもとより、憲法上保障された諸権利や個人の尊厳を害する惧れある行為であり(なお刑事訴訟法196条参照)、又一方実定法の上より見ても刑事訴訟法2182項の規定の反面として身柄の拘束をうけていない被疑者の写真撮影は令状を要し同法1971項但書にいう強制の処分に含まれるものと考えられるから、被疑者の承諾なくしてその写真を撮影することは犯罪の種類、性質、捜査方法等よりして真に止むをえないような特別の事情の存する場合を除き違法と言わねばならない。そして本件の場合被疑者たる本件被告人等が写真撮影されることを黙示的にでも承諾していたと言えないことは同人等が前記撮影に抗議している点よりして明らかであり、又写真撮影が真に止むをえないような特別の事情があつたとも認められないので、本件写真撮影は違法と言わねばならない。」(大阪地裁昭和361223日判決)
 この二つの判決文を読み比べれば、府学連事件の最高裁判決のどの辺に問題があるかは自ずと明らかであろう。

* * *

 しかし、本問の場合には、このような犯罪捜査の手段ではなく、一般的な防犯目的で監視カメラを設置しているのであるから、単純にこれらの判例に準拠して論ずることはできない。防犯目的の監視カメラ設置の根拠となる権利・権能は何かということを考えなければならない。
 現行警察法の下において、都道府県は、第一次的警察権を有している。すなわち

36  都道府県に、都道府県警察を置く。
 都道府県警察は、当該都道府県の区域につき、第2条の責務に任ずる。
2  警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法 の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。
 したがって、当該都道府県内の特定地域の犯罪の予防に努める責務=権能は、都道府県警察に属している。この都道府県の有する地域防犯権が、この段階における一応の答となる。すなわち、都道府県は、犯罪が多発する地域における犯罪の予防手段として、警察官のパトロールを強化することができる。さらに一歩進めて、そうした地域の中心に警邏の拠点となる交番その他の施設を設けることができる。では、人間の警察官に換えて、監視カメラを設置し、それを通じて警察官が監視し、必要に応じて出動する体制にしてどうして悪いのか。これがX側の主張となるはずである。
 こうした見解に対しては、先に示した大阪地裁判決のような判断を加えることを考えると、犯罪捜査のためですら令状なくして許されない撮影行為が、単なる防犯活動のために可能になるわけがない、と考える諸君も多いかもしれない。しかし、それは間違いである。刑事警察では令状なしでは許されない個人に対する強制行動が、交通警察や保安警察では令状なしで許される、というのは確立した実務であり、判例である。
 例えば、ドライバーが飲酒運転していないか否かを確認する手段として、ネズミ取りを設け、通りかかるすべての自動車に止まるように指示して呼気テストをするのは、その典型的な例と言える。その延長線上の問題として、判例は、銀行強盗が発生し、非常線を張った際に、不審者の鞄を開ける行為は令状なしで許されるとする(最高裁判所昭和53 620日判決=最高裁判所刑事判例集324670頁=LEX-DB27682160)。
 また、保健所員が飲食店の衛生状態を検査するため、令状なしで立ち入り検査ができる。それと同じように、税務署員による家宅捜査には令状が不要であることとする(川崎民商事件=最高裁判所昭和471122日判決)。
 もちろんこれらの判例には批判も強い。だから、そうした批判に準拠して、監視カメラの設置それ自体を違憲として否定するという路線を採ることも、十分に意味のある論文構成である。そうした場合には、そうした肖像権を侵害する監視カメラは違憲であるという結論がこの段階で導かれて、論文は終わることになる。
 以下では、これらの判決に準拠し、写真撮影というものは、基本的に強制力を行使するのではないから、適切な要件が存在する場合には、法律の明文の根拠がない場合にも、防犯のために、監視カメラを設置し、録画する権能が都道府県にあるとすることも可能と考えることにして、議論を先に進めることとしたい。

三 双方の主張の当否
 議論がこの段階に到達すると、実は、これまでに論じた様々な学説の差違は、あまり意味をもたなくなる。つまり、どの説をYの権利の基本として使用した場合にも、OECD8原則の遵守が、X側に求められるという結論になるからである。先に挙げた情報プライバシー説、独立の肖像権説、消極的表現の自由説のどれを諸君が採るかを確定した上で、どのような論理をたどって、OECD8原則を導くべきか、各人で考えてみて欲しい。ここでは説明を省略する。たどり着くべき結論が明確なのであるから、論理の展開には、さほど苦労はないものと思う。

 

OECD8原則とは、1980年にOECDOrganization for Economic Cooperation and Development 経済協力開発機構)が行った「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告」で示されたものである。わが国における肖像権関連の様々な立法、すなわち個人情報保護法などは、いずれもOECD 加盟国の義務として、この原則に従って制定されている(この点については、首相官邸ホームページ参照)

http://www.kantei.go.jp/jp/it/privacy/houseika/hourituan/kentou.html

 また、佐藤幸治の情報プライバシー説などは、この原則の理論家と理解することができる。それは次の様な内容である。
(1) 収集制限の原則:個人データの収集には制限を設けるべきであり、いかなる個人データも適法・公正な手段によって、かつ適当な場合にはデータ主体に知らしめ、又は同意を得た上で収集されるべきである。
(2)データ内容の原則:個人データは、その利用目的に添ったものであるべきであるとともに、利用目的に必要な範囲内で、正確、完全かつ最新のものでなければならない。
(3)目的明確化の原則:個人データが収集される目的は、収集されるときに特定されなければならず、また、その後のデータの利用は、本来の収集目的を達成することに限定されなければならない。
(4)利用制限の原則:個人データは、データの対象たる本人の同位又は法律の授権ある場合を除き、前項に示された目的以外のために提供その他の利用に供されてはならない。
(5)安全保護の原則:個人データは、紛失又は不当なアクセス・破壊・利用・修正・提供等の危険に対し、合理的な安全保護措置により保護されなければならない。
(6)公開の原則:個人データに関する開発、運用及び政策については、一般的公開の方針が採られねばならず、また、個人データの存在、性質及びその主要な利用目的並びにデータ管理者の身元、勤務所在地に尽き、容易に知る手だてがなければならない。
(7)個人参加の原則:個人は、自己に関するデータが存在するか否かにつきデータ管理者に確認を求めること、自己のデータを合理的な期間内に過度にならない費用で合理的な方法により、判りやすい形で閲覧すること、その請求が拒否された場合にはその理由を開示されること、また、自己に関するデータにつき争い、そのデータを消去、修正、補正させることができる。
(8)責任の原則:データ管理者は、以上の原則を実行あらしむる諸措置を遵守する責任を有する。
 イギリスは、現在、世界でもっとも監視カメラが多数設置されている国として有名であるが、そのイギリスで監視カメラの適正運営のために制定された1998年データ保護法(Data Protection Act 1998)は、監視カメラシステムの統括者など個人データ(個人情報)のユーザーが守るべき「データ保護8基本原則」を明らかにしている(法2条別表1)。それぞれの原則の概要は、次のとおりである。
 原則第1 個人データは、公正かつ合法的に取得されかつ処理されるものとする。
 原則第2 個人データは、一つ以上の特定かつ合法的な目的で取得されかつ目的外処理は許されないものとする。
 原則第3 いかなる目的で処理される個人データも、その目的との関連において、適切かつ妥当であり、また、過大であってはならない。
 原則第4 個人データは、正確、かつ必要な場合には最新に保たれなければならない。
 原則第5 個人データは、その目的に必要とする期間を超えて保有されてはならない。
 原則第6 個人データは、法の下で、データ主体の権利を認めた上で処理するものとする。
 原則第7 データの不正もしくは不法な処理、不注意のよる紛失またはデータの破損を防ぐために、十分な技術と組織的な対策を講じるものとする。
 原則第8 個人データは、EU等の個人情報保護措置を講じていない諸国に移転してはならない。
 これを見ると、基本的にOECD8原則を受けたものであることが判る。
 本問の場合には、個人情報保護法を直接適用できる問題ではないので、上記イギリスのような特別立法が存在しない以上、OECD8原則に従って議論するのが適切といえる。


四 あてはめ
 憲法上の問題点としては、以上に尽きる。つまりここから先は、本問の要求からは抜けるので、書く必要が無い。むしろ、書くとそれが原因で落第答案になりかねない。
 しかし、ここで議論を打ち切ると諸君としても結論はどうなるのだ、ということが気になると思うので、仮に現実にこのような訴訟が行われたときに、どのように考えられることになるかについて、以下順次検討してみよう。
 第1のデータ収集制限原則との関係でいえば、本件カメラの設置に当たり、地元からの陳情があったというのが大きな正当化理由になる。繁華街で不特定多数の人びとが通行するとはいえ、地元住民が最も多くカメラに捉えられるはずであり、その人びとの陳情があったということは、データ主体の多くが同意を与えたとみなしうるからである。
 第2のデータ内容原則との関係でいえば、Yの行為は暴力行為であり、正にこの監視カメラの監視対象行為である。DV法なども存在していることを考えると、Yの行為を監視対象としたのは正しいといわなければならない。
 第3の目的明確化原則との関係でいえば、棟居快行は警察の設置する監視カメラについて、それは警察官が現場をパトロールするのと同じではない、と批判している。
「肉眼による確認と記録の容易なカメラとでは、目的外利用の危険度が全く異なるうえに、警察官に対しては市民の側からその活動内容や権限の範囲を問い質することによるチェックが不可能でないのに対し、監視カメラの場合には、誰がどのような目的・権限の下で監視を続けているのかが不明である点で大きく異なる。」(棟居快行『憲法学再論』(信山社)289頁より引用)
 後半にある目的に関しては、さらに次のように批判している。
「監視カメラがいかなる目的に用いられるかは、実のところ不明である。ビデオ録画が実際上は容易であることから、粗暴犯の取締のみならず、警察内部で他の公安警察目的に転用され、特定思想団体のメンバーであることの割り出しなどに用いられる危険性がある。」(棟居快行・前掲288頁より引用)
 これは、実のところ、大阪あいりん地区(旧釜が崎地区)という特定の地域に設置された監視カメラに関する問題点である。実は、ここに引用している論文は、その地域に設置された監視カメラをめぐる訴訟に、原告側意見書として提出されたものをベースとしたものだからである(この訴訟については、大阪地方裁判所平成 6 427日判決参照)。
 要はXが、本原則に則った基準をきちんと制定しているか、また、それに厳格にしたがって運用しているかという問題である。あいりん地区の場合には、その辺があいまいだったことが、棟居快行の批判を招いていたと言えよう。本問の場合、基準の存在そのものは問題文からは明らかではないが、民間ボランティア等を使用することにより、少なくとも警察内部における多目的への転用は防ぐ制度になっていると考えて良さそうである。一応、基準もきちんとあると仮定して議論を先に進めよう。
 第4の利用制限原則との関係でいえば、上記第2原則との関連で述べたことが妥当すると思われる。
 第6の公開原則は、第3の明確化原則と表裏一体をなすものといえよう。いかに明確な管理・運用基準を設けていても、それが公開されていない限り、上記に紹介した棟居快行の疑問は解決されないであろうからである。
 第7の個人参加原則も重要である。これが確立してれば、Yは速やかに問題の解決を図ることが可能になるからである。
 第8は、総論的な規定であるから、特に個別の検討は不要であろう。
 本問事件の解決という観点から見た場合には、最も重要なのは、第5の安全保護原則違反という点である。現に、監視カメラに写った事件が流出しているという客観的事実が存在している以上、Xとして安全保護原則違反があったことは明らかである。そして、その流出経路が判然としないということは、管理体制に欠陥があることを示している。この点から、本件監視カメラの設置・運用に瑕疵があったといえる。
 国家賠償法第二条は、「道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があつたために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責に任ずる。」と定める。本条は、民法717条と同様に、無過失責任を定めたものである。したがって、監視カメラという公の営造物の設置・管理に瑕疵があった以上、Yの請求は認められることになる。