プライバシーの権利

小説『宴のあと』事件

甲斐素直

問題
 世界的に著名な小説家Yは、雑誌Aに○○年一月号から同年一〇月号にわたつて小説Bを連載執筆した。
 この小説Bは、次の様な筋の話であった。「Cという、かつては外務大臣にもなり戦後衆議院議員に当選した男が、革新党から推されて知事選挙に立候補した。Cは有力候補であつたので保守党の対立候補の擁立は人選難に陥り、Cは当初は有利に選挙戦を展開した。Cの妻Dは、少女時代から苦労を重ねて、ついに著名な料亭の女将となった女性である。保守党では、Dの経歴、行状を誹謗した怪文書が選挙戦の最中にばらまいてCは人気を落とす戦術に出た。またCは選挙の終盤戦で資金がなくなり、反対に保守党からは多額の買収資金が投入され、さらに投票日前日に『C危篤』のビラがまかれたりした。結局知事選挙は保守党の謀略と金の勝利に帰し、Cは惜敗した。Dは、CのためにCに隠れてその所有する料亭を抵当に入れて選挙資金をつくるべく奔走したため、同料亭は休業するに至つた。しかし怪文書がばらまかれたために選挙がCの敗北に終つたのち、DCと離婚し、料亭を再開した。」
 このような筋はXの主要経歴と同じであり、このことは世間周知の事実であり、しかも直前に行われた知事選挙でXの主要経歴は広く知られているため、この小説Bの主人公はまさにXであるとの印象を一般の読者に与えることは明白であった。そこでXは雑誌Aに苦情を申し立て、Aはこれを認めて小説を単行本とすることを取りやめた。
 これを奇貨として、出版社ZYに申し入れてその了解を取り、小説BZから単行本として刊行することとした。そしてZは刊行にあたり、「注目の長篇モデル小説」「トツプクラスの批評家が『モデル小説の模範』というのです。素材になつた元外相と料亭の女主人、そして知事選挙という公知の現実が、これほど作品の中で変貌し、芸術的に昇華すると、読者は文句なしに、相寄り相容れなかつた二つの人間像に、そして女主人公の恋の悲劇に感動するでしよう。」といつた表現を用いて宣伝した。
 そこで、XY及びZを被告とし、小説B単行本の発行差し止めとプライバシーの権利侵害に基づく精神的損害に対する賠償を求めて訴えを提起した。
 この訴えに含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

[はじめに]
(一) 私法上のプライバシー
 問題文に明示されているように、本件訴訟はXという私人と、Y及びZという私人の間で提起された、民法709条に基づく損害賠償訴訟であり、その限りでは、純然たる私法上の争いである。それなのに、なぜこれに憲法上の問題点が存在しうるのだろうか。それはXが出版の差し止めを求めているからである。出版は、憲法21条において言論と並ぶ代表的な表現の自由であり、そして、通説というべき憲法13条の公共の福祉に関する内在的一元説に立つ限り、人権を抑制できるのは人権だけである。したがって、Xの主張するプライバシーの権利は人権と考えざるを得ない。
 このように、私人間の紛争において考えられるプライバシーの権利のことを、本稿では私法上のプライバシーと呼ぶ。これに対し、プライバシーには国家との国民の関係で考えられるプライバシーも存在する。この対国家的関係で考えられるプライバシーを公法上のプライバシーと呼ぼう。これは普通、情報プライバシー権と呼ばれている。
 プライバシーに少なくともこの2類型が存在していることは、一般に認められている。例えば憲法判例百選(有斐閣)を見ると、プライバシーに関する紛争は2箇所に分けて掲載されている。すなわち、京都府学連事件(第544頁)、前科照会事件(第544頁)及び江沢民事件(第546頁)は人権総論に掲記されているのに対して、宴のあと事件(第5136頁)、ノンフィクション逆転事件(第5138頁)及び石に泳ぐ魚事件(第5140頁)は表現の自由の箇所に掲記されているのである。ただ、この二つをどの様に呼ぶかについては、学説は必ずしも統一されていない。例えば赤坂正浩は、本稿で私法上のプラバシーと呼ぶものを古典的プライバシー、公法上のプライバシーと呼ぶものを現代的プライバシーと呼んでいる(赤坂『憲法講義(人権)』信山社272頁以下参照)。
 諸君は、ややもするとこの二つの類型を混同し、ごちゃ混ぜに書く傾向がある。しかし、この二つは、意義、要件、効果のすべてにわたり別類型であるので、きちんとその点を述べないと落第答案になるので注意しよう。
 以下、単にプライバシーと述べるが、本稿でのそれは、上述したとおり、私法上のプライバシーを意味していることに注意して欲しい。
(二) 人権の本質
 人権の本質に関しては、人格的利益説と一般的行為自由説という二つの大きな学説の対立が存在することは諸君も知るとおりである。プライバシーは、憲法13条から導かれる無名基本権であるために、この対立は、結論に直接影響する。したがって、諸君としては、論文の序論として自分は、どちらの説を採るかを理由と共に説明しなければ、合格答案にはならないことに注意しなければならない。
(三) 私人間効力
 私法上のプライバシーは、私人の人権と人権が衝突しているので、ちょっと考えると人権の私人間効力が問題になりそうに思う。しかし、先に説明したように、これは本質的に私人間の紛争であり、それが結果として表現の自由の抑制という効果を招いているのに過ぎない。人権の私人間効力という問題は、本来は対国家的な人権を、私人間で主張できるかという場合に問題となる。したがって、私法上のプライバシーのように、本来的に私人間の紛争に関して司法上考えられた権利について、それを論じる必要は無い。

一 幸福追求権の性質
 この問題で、この点について詳しく書きすぎると、当然ながら論点がぼけてしまう。しかし、ここでは諸君の理解の確実を期するため、少し詳しく説明している。
(一) 法的権利性について
 憲法13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、ということは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。
 わが憲法13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、その第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的制度の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。
(二) 具体的権利性について
 本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとして、では、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、抽象的権利にとどまるとは、裁判で権利主張を憲法自身に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。
 これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』第3版、229頁)」という批判がある。しかし、これは論理が逆転している、というべきであろう。すなわち、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった人権について、13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から、本条の具体的権利性は考えるべきなのである。
 その場合
「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。
 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容を以下に限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、次項に述べる「人格的利益」が考えられる。
(三) 人格的利益説について
 芦部信喜及び佐藤幸治に代表されるわが国通説は、幸福追求権とは人格的な利益であるとしてきた。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それからは征する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。
 この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。
 第一点については、前節に述べた可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記348頁より)、と説明できる。

 第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良い。

二 私法上のプライバシー権
 私人の表現の自由と、私人のプライバシーという対立の中で問題とされるプライバシーは、今日においても依然として「一人でいさせて貰いたい権利 right to be let alone」(ウォーレン・ブランダイスによる1890年の論文)ないし「私生活をみだりに公開されない権利」(宴のあと事件判決)という私法上の権利である。
 この私法上のプライバシーを憲法問題として把握するのは、次の二つの理由からである。第一に、人権を制約できるのは人権だから、表現の自由を制約しているプライバシーは、人権と理解しなければならない。第二に、この私人間の紛争に、国家機関たる裁判所が事前抑制という形で介入するとき、国家による事前抑制禁止の法理の適用、という憲法問題が起こる。
(一) プライバシー権及び名誉権の成立要件
 私人が私人のプライバシーを侵害する場合の、最も重要なリーディングケースは、いうまでもなく『宴のあと』事件東京地裁判決(昭和39928日=百選〈第5版〉136頁)である。この判決では、プライバシー侵害が成立するための要件として次の三つを挙げた。
① 私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあり、
② 一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められ、
③ 一般の人には未だ知られていない事柄である。
 この三要件は重要なので、私法上のプライバシーを論ずる場合、必ず言及してほしい。往々にして、諸君は、この要件が理論的に導かれるように書く。しかし、それは間違いで、この宴のあと事件判決が創出した審査基準と考えるべきである。すなわち、この三要件を説明するときには、必ず宴のあと判決と結びつけて書く必要がある。
 それ以降の一連の私法上のプライバシー事件は、いずれもこの三要件を肯定し、それを基準にして判断を下している。例えば、映画『エロス+虐殺』事件(東京高裁昭和45413日=百選〈第4版〉140頁)で、事前抑制が拒絶された理由は③の要件、すなわち一般人にひろく知られている、ということが決め手になったし、ノンフィクション『逆転』事件(最高裁平成628日=百選〈第5版〉138頁)では②及び③が決め手となって、プライバシー侵害が肯定され、出版が差し止められているのである。私小説『石に泳ぐ魚』事件でも、最高裁判所はやはりこの三要件にしたがって判断を下している。
(二) プライバシー権の限界と表現の自由
 人格的利益説に依って立つ場合、人権の基礎は道徳に求められるから、社会道徳に背馳する自由を考えることはできない。例えば、人を殺す自由、人の物を盗る自由は、それが非侵害者の人権を侵す限度で否定されるのではなく、そもそもその様な人権を考えることはできない。これは今日における通説的理解である。一般的行為自由説に立つ場合、このことをどのように説明するか(おそらくパターナリズムによると思われるが、はっきりしない)はともかく、結論的にはやはり同旨と見てよい。このことを、表現の自由に投影する場合には、そもそも人の名誉を傷つけたり、プライバシーを侵害するような表現の自由は、存在しないということができる。その意味で、私人間では、プライバシー権は、表現の自由に優越する権利である。
 同じことは、別の方向から説明することもできる。即ち、およそ自由権とは、国家からの自由であって、私人からの自由を意味するものではない。したがって、同等の地位に立つ私人間において、表現の自由に、国家に対する関係でのような優越的地位を考える余地はない。したがって、他者の名誉やプライバシーを侵害する表現の自由を評価するに当たって、より厳格度を増した審査基準を使用する余地はない。
 しかし、名誉侵害やプライバシーが成立する場合にも、人によっては、それを侵害するような表現行為を忍受しなければならない場合がある。第一に、公的地位を有する者であれば、その公的地位の程度に応じて、名誉やプライバシーの侵害が認められても、それに対する侵害を忍受すべき場合が生ずる。
 例えば、名誉毀損罪に関する事件であるが、最高裁は、次のように述べた。
「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合があると解すべきである。」

雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和56416日=百選〈第5版〉144頁)

 すなわち、名誉毀損でさえも許容されるのであるから、それよりも権利侵害の程度が低い、と一般的に考えることのできるプライバシーに属する場合に、その主体の公的地位によっては、その公的活動に対する批判ないし評価の一資料として表現行為が許容される場合が考えられることになる。この場合、それは単なる私人間の問題ではなくなっているために、先の論理が適用にならないのである。しかし、表現それ自体の価値を重視しているというよりも、むしろそれが奉仕する対象である国民の知る権利が対立する利益として登場してきている、と考えるべきであろう。
 第二に、ノンフィクション『逆転』事件において、最高裁は、先に言及した公的地位にあるものに対する社会的評価の一資料として公表されたとき以外に、「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合」についても、関係者はプライバシーの侵害を忍受すべきであるという見解を示している。
(三) プライバシー権の限界と芸術
 本問で問題となるのが、この上記基準の外に、第3の基準として、芸術作品である場合に、その芸術性の故にプライバシー侵害が許容される場合があり得るか、ということである。すなわち、Zはその広告において、「公知の現実が、これほど作品の中で変貌し、芸術的に昇華」していると述べて、その事を明らかにしている。
 この点について、『宴のあと』事件判決は次のように述べて、これを否定する。
「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおりプライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけであり、また小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。」
 最高裁判所は、石に泳ぐ魚事件においてこの判断を支持した。すなわち、作家柳美里が私小説の自由を主張して上告したのに対し、最高裁判所は、被上告人のプライバシー侵害が発生しているか否かを審査し、それが肯定されると、作品の芸術性には全く言及することなく、上告を棄却した。
 これに対しては、学説的には芸術性がプライバシー権の限界となることに賛同する見解もある(奥平康弘『ジャーナリズムと法』新世社1997年刊229頁)が、判例を指示し、否定するのが通説と言える。例えば、棟居快行は次のように説く。
原告の「周辺の人々は、例え作品が高度に芸術的に昇華され、実話が作品中の芸術的必然性のあるエピソードだと一般人にはとられるに至っているとしても、素直にそのように鑑賞せず、むしろ事実若しくは事実らしい作品中の情報だけを、自分のモデル本人に対する補強材料として摂取しがちである。あるいはさらに、作品が虚実織り交ぜて芸術的に成功していればそれだけ、作者が加えた創作の部分(例えばモデルに対応する作中人物の内面の描写)までもが実在のモデルの内面であるかのように受け取られてしまうのである。」

(「出版・表現の自由とプライバシー」ジュリスト116617頁)

 すなわち、裁判上、法律上の争訟の一環として宗教の教義や成績の評価が問題になっても、それが裁判になじむ問題ではないが故に、裁判所が判断を行わないのと同様に、作品の芸術性が問題となっても、裁判官選任の基準は決して芸術性に対する感受性の高さではないのだから、判断を控えるのが妥当であろう。

三 表現の自由の事前抑制と事後抑制の異同
 ここで注意するべきは、ここまでの議論では、私法上のプライバシーは、人権の制約原理という点を除くと憲法問題ではなく、あくまでも私法上の紛争というレベルに止まっている、ということである。
 私法上のプライバシーの問題で、私人間効力を書く必要がないのは、そもそもこれが私人間に考えられる権利であって、国家と国民の感に考えられる権利ではないからである。
 私法上のプライバシーに関して、具体的に憲法問題が発生するためには、公法上のプライバシーと同じく、これを国家が侵害する活動に出る必要がある。人権は国家と国民の関係において考えられるものだからである。私法上のプライバシーに対する国家権力による個別具体的な侵害の主体としては行政権と司法権が考えられる。すなわち、本問の場合、憲法上の論点はもっぱら単行本化の差し止めを裁判所という国家機関に求めている、という点に現れる。
(一) 単行本出版差し止めと事前抑制の関係
 本問の場合、単行本化の差し止めが、事前抑制に属するか、事後抑制に属するかにより、論文の構成が大きく異なることになる。
 小説そのものはすでに文芸誌に発表されており、Bは、それを単行本化することを差し止めているに過ぎない。この点で、情報は言論の自由市場に到達しているから、したがって、これは事後抑制ではないか、と思われるのである。実際、判例は、このような場合は事前抑制には該当しないと考えているものと思われる。例えば、税関検査事件最高裁判所判決(大法廷昭和50910 百選〈第5版〉152頁)は、次のように述べている。
「税関検査が表現の事前規制たる側面を有することを否定することはできない。 しかし、これにより輸入が禁止される表現物は、一般に、国外においては既に発表済みのものであつて、その輸入を禁止したからといつて、それは、当該表現物につき、事前に発表そのものを一切禁止するというものではない。また、当該表現物は、輸入が禁止されるだけであつて、税関により没収、廃棄されるわけではないから、発表の機会が全面的に奪われてしまうというわけのものでもない。その意味において、税関検査は、事前規制そのものということはできない。」
 国外において発表されていれば、すでに事後抑制という考え方をとるのであれば、国内文芸誌に掲載されている場合には、当然に事後抑制という考えが導かれるであろう。
 しかし、私自身は、これは事前抑制に属する、と考えている。なぜなら、表現の自由とは、「自ら選択する・・方法により」(国際人権B規約192項)伝える自由であり、単行本化する事もまた、一つの独立した表現方法である。そして、情報は、その伝達に使用する方法により、言論の自由市場に与える影響に差があるものなのであるから、単に、別個の伝達方法により、すでに一度言論の自由市場に到達している、という事実は、新たな媒体を利用した表現を抑制するにあたっての事前性を否定するものではない、と考えるからである。
 実際問題として、事後抑制と考えた場合には、論文上はあまり論点がないので、以下においては、事前抑制の場合に限定して論じる。
(二) 事前抑制禁止の根拠
 表現の自由は、精神権的自由権の代表として、それを国家が抑制する場合、いわゆる2重の基準に基づき、その合憲性の審査については厳格な審査基準が適用されるなど、経済的自由権に比べて、非常に制限的に取り扱うべきである(なぜなのかについては、ここでは省略するが、諸君の論文では簡略にではあるが、述べる必要がある。)。しかも、それが事後的に行われるか事前に行われるかにより、制限の度合いが違う。すなわち、事前抑制(prior restraint, or previous restraint)の場合には原則的に禁止され、例外的に認められる場合にも非常に厳しい制約の下でかろうじて認められるに止まるとする理論が、米国の憲法訴訟に関する判例法の上で発達している。
 同じように、表現の自由の不当な行使が行われた場合であるにも拘わらず、なぜ事後抑制に比べて、事前抑制を国が実施する場合については、より厳しい制約が課せられるのであろうか。これが事前抑制禁止の法理における第一の論点である。
 北方ジャーナル事件(最大昭和61611日、百選〈第5版〉150頁)において、最高裁はこの点を次のように説明する。
「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。」
 まことに簡にして要を得た説明であるから、諸君はこれを覚えて、自分の論文中にこのダイジェスト版を必ず書くようにしよう。
(三) 検閲と事前抑制禁止の異同
 わが憲法は、欧州の憲法の流れ受けて、検閲の禁止を当然に認めている。この結果、事前抑制と検閲の異同が第二の論点となる(ただし、本問では本質的な論点ではないので、原則として落として良い。書く場合にも、できるだけ簡潔にまとめること。)。
 これについては単純に、事前抑制と検閲を同義と考えることもできる。しかし、歴史的背景の全く異なる言葉を同義と考えるのは、基本的に無理があるといわなければならない。その結果、わが国では、広義の事前抑制を、検閲と狭義の事前抑制に分けて考えるのが一般である。その場合、同じく厳しい事前抑制の下にあって、さらに検閲という概念を立てるのであるから、これに対しては絶対的な禁止と解し、それを除く事前抑制については原則的な禁止にとどまるのであって、場合によっては抑制も可能と解することになる。税関検査事件において、最高裁は次のように説明する。
「諸外国においても、表現を事前に規制する検閲の制度により思想表現の自由が著しく制限されたという歴史的経験があり、また、わが国においても、旧憲法下における出版法(明治26年法律第15号)、新聞紙法(明治42年法律第41号)により、文書、図画ないし新聞、雑誌等を出版直前ないし発行時に提出させた上、その発売、頒布を禁止する権限が内務大臣に与えられ、その運用を通じて実質的な検閲が行われたほか、映画法(昭和14年法律第66号)により映画フイルムにつき内務大臣による典型的な検閲が行われる等、思想の自由な発表、交流が妨げられるに至つた経験を有するのであつて、憲法212項前段の規定は、これらの経験に基づいて、検閲の絶対的禁止を宣言した趣旨と解されるのである。」
 そして、こうした沿革から、検閲を次のように定義した。
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき、網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すものと解すべきである。」
 この最高裁の採用する検閲の定義は、かなり狭いもので、その妥当性については学説からの批判の強いところである。しかし、いずれにせよ、司法権による抑制に検閲概念の適用がある、という説は存在しないから、ここでその点についてくどくど議論するのは完全に間違いである。
(四) 事前抑制禁止の法理の要件
 この二分説の下においては、検閲の概念は、程度の差こそあれ、狭く設定されることになる。が、検閲に該当しないとされても、それにより国家による抑制が完全に自由になるわけではない。検閲の外側には事前抑制の厳しい制約が存在しているからである。
 アメリカにおいて、事前抑制は一般に「あるコミュニケーションが生ずる時点に先立って発せられる、そうしたコミュニケーションを禁止する司法的・行政的命令」と定義されている。コミュニケーションとは情報の伝達行為の意味であるから、情報がその発信者の意図する受領者に到達する以前にそれを妨げる行為はすべて事前抑制に該当する。
 事前抑制を具体的な訴訟の場において実体的に肯定する判断をするための基準としては、①必要最小限度の法則 ②規制規定の明確性 ③手続き的保障の三つが特に重要と言われている。
  1 必要最小限度の規制
 必要最小限度規制として事前抑制方法が採られていることを合理的に証明する手段として、規制手段相互の比較に代えて、定型的な要件を設定しようとするのが一般的である。
 アメリカにおける判例の発展を踏まえて、例外的に表現の事前抑制を司法権が認めうる条件として、①事前抑制をしなければ害悪が生ずることが異例なほど明白(unusual clarity)である場合、あるいは、②事前抑制によって阻止しようとする損害が回復不可能(irreparable)なものである場合、といわれている。
  2 規制規定の明確性
 行政権が表現の自由を事前抑制する場合にあっては「立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要」といわれている。例えば税関検査事件における最高裁多数意見に対する伊藤正己ほかの反対意見は次のように述べる。
「表現の自由を規制する法律の規定は、それ自体明確な基準を示すものでなければならない。殊に、表現の自由の規制が事前のものである場合には、その規定は、立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要である。それ故、表現の自由を規制する法律の規定が、国民に対し何が規制の対象となるのかについて適正な告知をする機能を果たし得ず、また、規制機関の恣意的な適用を許す余地がある程に不明確な場合には、その規定は、憲法211項に違反し、無効であると判断されなければならない。」
 しかし、これは、参考までに紹介したのであって、本問は、立法的規制の問題ではないから、これは論点ではない。
  3 手続き的保障
 事前抑制が有する基本的な危険の一つは、適正な手続き的保障を欠いたまま、恣意的な行政裁量の下に表現の自由の保護範囲が決定されるという点にある。そこで、そうした恣意的な取り扱いがなされないような保障が存在していることが必要である。最高裁は、北方ジャーナル事件において、次のように述べている。
表現行為に対し、「その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのであるから、事実差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。」
 この手続き的保障の要求については、必ず論及すべきである。もっとも、実際には、北方ジャーナル事件では裁判所は、このような方法を採っていない。この点について、最高裁は次のように述べて救済している。
「差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解されるから、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。」
 この点については本問では論及する必要はないが、具体的設問によっては、これが問題になることもあり得るから、議論としては覚えておいてほしい。
北方ジャーナル事件で問題になったのは名誉毀損であるが、前にも述べたとおり、名誉権とプライバシーは非常に似通った権利であるから、そこで問題になっていることが、プライバシーにもほぼそのまま妥当すると考えてよい。
 北方ジャーナル事件では、対象となった人物が、選挙に出馬しようとしている者であったから、そのプライバシー侵害は、前にも述べたとおり、一定の要件で許容される可能性がある。その場合に、その表現行為をプライバシー侵害で事前に抑制しようとするときは、前に紹介した事前抑制禁止の法理にしたがい、厳しい判断基準の下に許容される可能性があることになる。