人権の私人間効力
甲斐素直
問題
株式会社
Yでは、これまで男女ともに従業員の定年を60歳と定めていた。しかし、 高年齢者等の雇用の安定等に関する法律が改正され、平成25年4月1日から 定年を65歳に引き上げる等の措置を執らねばならないことになった。そこで、Yでは、定年を、男性については70歳、女性については65歳とする改正を行うこととした。Yの女性従業員Xは、この定年制改正は合理的な理由無く男性と女性を差別するものであるから、憲法14条に違反するとして、女性についても70歳を定年とするべきであると主張した。
これに対し、
Yは、憲法の定める人権は対国家的権利であって、私人間では効力がないので、Xの主張は根拠がないと反論した。X及びYの主張の、憲法上の当否について論ぜよ。
参照条文 高年齢者等の雇用の安定等に関する法律
第
9条 定年(65歳未満のものに限る。以下この条において同じ。)の定めをしている事業主は、その雇用する高年齢者の65歳までの安定した雇用を確保するため、次の各号に掲げる措置(以下「高年齢者雇用確保措置」という。)のいずれかを講じなければならない。一
当該定年の引上げ二
継続雇用制度(現に雇用している高年齢者が希望するときは、当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度をいう。以下同じ。)の導入三
当該定年の定めの廃止[はじめに]
近年では、国家試験では人権問題は、まず間違いなく事例形式で出題される。事例形式の場合には、人権の私人間効力という問題は、本問のように思い切り論点を限定した形にしないと、まず論点にならないと考えてよい。例えば、私人間効力に関する重要な判例は、三菱樹脂事件判決(最大昭和
48年12月12日=百選第5版26頁)、日産自動車事件(最判昭和56年3月24日=百選第5版30頁)、それに昭和女子大事件(最判昭和49年7月19日=百選第5版28頁)等がある。しかし、その事件の事実関係が、そのまま事例形式の問題として出た場合には、私人間効力を論じる必要はない。説明しよう。昭和女子大事件の場合には、今日では富山大学事件最高裁判決が、いわゆる部分社会論で処理するべきだと明言している。そして、通説・判例に従う限り、あの事例では原則的には司法審査の対象とはならないから、司法審査の対象となることを前提とする私人間効力について論究するのは間違いということになる。
三菱樹脂事件を例にとれば、その事実関係の下において、「単純に憲法上の問題点を論ぜよ」と聞かれたら、試用期間における雇用契約解約の自由と勤労の権利(憲法
27条)が中心論点となると考えるのが素直である。そして、27条は社会権だから、私人間効力が認められるのは当然で、論点にはならないのである。三菱樹脂事件では、弁護士が変な頭の持ち主で、27条ではなく、19条を問題にしたことからそれが論点となったのである(当事者弁論主義から、裁判所は弁護士の提起した論点に縛られる)。だから、三菱樹脂事件の事実関係に忠実に則った事例問題においては、27条だけを論じるのが正しい。そして、本問のベースとなった日産自動車事件の場合、今日であれば、女性差別撤廃条約及び男女雇用機会均等法が論点となる。ブランダイスルールの下においては、例え当事者が違憲性を主張しても、条約や法律という下位の規範で問題が解決可能な場合には、憲法問題を論じる必要はない。そして、これらの条約等は私人間のおける直接適用を予定しているから、今日という時点における出題であれば、やはり私人間効力はもはや論点にはならない。だから、本問の事件が実際に起こったとしても、裁判所としては、私人間効力を論じる必要はない。
こうした事情の結果、私人間効力が中心論点となる事例問題というのは、本問のように、無理矢理当事者に憲法問題について主張させ、かつ、裁判所なら無視して構わないその主張の憲法上の当否について論ぜよ、という、二重、三重に不自然な設定をしない限りは今日では、存在しないのである。
そして、それほどの無理をして、私人間効力論を論点とする論文問題が出題される可能性があるかというと、まずない。司法試験や公務員試験の受験生レベルには、これは少々難しすぎる問題なので、全員落第で合格者ゼロということが容易に予想でき、受験者を合格者と落第者に二分するという試験制度の目的に反するからである。
だから、司法試験や公務員試験の論文式試験を受験する場合には、私人間効力は絶対に論点にならないと、頭から決め込んで答案構成をするのが、一般論として正しい。
しかし、論文として書くことが難しいということが、国家試験で全く出ないということを意味するものではない。たとえば、平成
19年度新司法試験短答式の公法第3問では、次のような問題が出題されている。「私人間における人権保障に関する次のアからエまでの各記述について,明らかに誤っているもの二つの組合せを,後記1から6までの中から選びなさい。
ア
イ. 憲法の人権規定は,私人間においても直接適用されるとする説に対しては,私法の国家化をもたらし,私的自治の原則及び契約自由の原則の否定にならないか,国家権力に対抗するという人権の本質を変質ないし希薄化する結果を招くおそれがあるのではないかと指摘されている。
ウ. 市民社会の自律的作用を尊重すべきであることから,民法第90条の公序良俗規定等の私法の一般条項を媒介として,憲法の人権規定を私人間において間接的に適用するとする説に対しては,資本主義の高度化に伴い,国家類似の組織を有し,国家類似の機能を行使する社会的権力の登場による人権侵害の危険性と可能性が増大していることを看過していると指摘されている。
エ. 私人相互間の社会的力関係から,一方が他方に優越し,事実上後者が前者の意思に服従せざるを得ない場合,憲法の人権規定を,私人間においても適用ないし類推適用するとする説に対しては,こうした関係は法的裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優越関係にすぎず,国又は公共団体の支配が権力の法的独占に基づいて行われる場合とは性質上の相違があると指摘されている。
1. アとイ 2. アとウ 3. アとエ 4. イとウ 5. イとエ 6. ウとエ」
私人間効力についてきちんと勉強しておかないと、この問題は、そもそも何を聞かれているのかも理解できないのではないであろう。
すなわち、論文式試験用に勉強する必要はないが、短答式試験を突破できる程度の理解はもっていないとどうにもならない。ここでは、そうした基本的な理解をねらって、私人間効力についてずばり聞く問題を工夫してみた。この問題に関しては、近時、高橋和之が鋭い問題指摘を行って無効力説を打ち出し、他方小山剛が保護義務論を打ち出して違う角度から問題提起を行っている結果、憲法学界の関心はきわめて高い状況にあり、この程度の短答式問題は今後も頻出が予想されるのである。
一 アジア及び欧州における法
(一) アジアにおける法と義務
中国に、春秋戦国時代と呼ばれる時代がある。紀元前
770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。その前半、紀元前
403年までの歴史を、孔子が「春秋」という書にまとめていることから、春秋時代、その後を、前漢の劉向が『戦国策』という書にまとめたことから、戦国時代と呼ぶ。この時代、それに先行する周の統一時代が終わって分裂状態になった。そこで、その分裂状態を解消し、統一国家に戻るためにはどうしたら良いかをめぐって、諸子百家と呼ばれるほどに様々な理論家が現れた。代表的なものとしては孔子に代表される儒家(徳による王道で天下を治めるべきであると説いた)、老子や荘子に代表される道家(道を説いた)、墨子に代表される墨家(博愛主義(兼愛交利)と専守防衛を説いた)等がある。
その一つに法家がある。法家とは儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。例えば韓という国の王族であった韓非子がいる。韓非は「矛盾」や「守株」といった説話を説いて儒家を批判したことで知られる。
秦の政は、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施し、ついに中国再統一を果たし、自ら始皇帝と名乗る。しかし、法が厳しすぎたために陳勝・呉広の乱を初めとする反乱が続発するようになる。
ここに出てきた法は、要するに国民に厳しい義務を課し、その威嚇力により国内の安定を図るというものである。したがって、国民から見れば、法が少ないほど善政という事になる。劉邦は、「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」の
3条のみを法とした「法三章」を制定することで国民の人気を集め、ついに秦を滅ぼして漢を建国することに成功した。この法三章にしめされるように、アジアにおいては法は義務を中心に構築された。
(二) 欧州における法と権利
十二表法(
Lex Duodecim Tabularum)は、古代ローマにおいて初めて定められた成文法である。その名は、法が12枚の銅版に記されたとする伝承に由来する。ローマは、その建国後、確実に拡大を続けたが、それに伴い貴族(
Patriciiパトリキ=元老院議員となることのできる社会階級)と平民(plebsプレブス=それ以外の国民のことで、宗教的な儀式および行政に関わることは許されてはいなかった)の間の対立が激化し、実力を付けた平民は紀元前494年にプレブス達はモンテ・サクロ(聖山)に立て篭もり、自分達の政治的発言力の強化を求めた。こうした要求の一つとして成文法の制定が求められた。そこで平民の不満をなだめるため、紀元前451年に十二表法が制定されることになる。このエピソードに端的にしめされているとおり、欧州においては法の制定は、弱い側の要求として現れる。その中心が権利にあるためである。
(三) 明治憲法における「臣民の権利」
明治憲法の制定時、枢密院において「第ニ章 臣民権利義務」を審議する冒頭、森有礼文部大臣が発言し、天皇に対して臣民は権利を持たないと主張し、章名を「臣民の分際」に改めることを求めた。これに対し伊藤博文は、君権を制限し臣民の権利を保護することが憲法創設の精神であり、臣民の権利は憲法に欠かせないことを説いた。参考までに、原文を紹介する。
十四番(森): 本章ノ臣民權利義務ヲ改メテ臣民ノ分際ト修正セン。今其理由ヲ略述スレハ、權利義務ナル字ハ、法律ニ於テハ記載スヘキモノナレトモ、憲法ニハ之ヲ記載スルコト頗ル穩當ナラサルカ如シ。何トナレハ、臣民トハ英語ニテ「サブゼクト」ト云フモノニシテ、天皇ニ對スルノ語ナリ。臣民ハ天皇ニ對シテハ獨リ分限ヲ有シ、責任ヲ有スルモノニシテ、權利ニアラサルナリ。故ニ憲法ノ如キ重大ナル法典ニハ、只人民ノ天皇ニ對スル分際ヲ書クノミニテ足ルモノニシテ、其他ノ事ヲ記載スルノ要用ナシ。
議長(伊藤博文) 十四番ノ説ハ憲法及國法學ニ退去ヲ命シタルノ説ト云フヘシ。抑憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君權ヲ制限シ、第二臣民ノ權利ヲ保護スルニアリ。故ニ若シ憲法ニ於テ臣民ノ權理ヲ列記セス、只責任ノミヲ記載セハ、憲法ヲ設クルノ必要ナシ。又如何ナル國ト雖モ、臣民ノ權理ヲ保護セス、又君主權ヲ制限セサルトキニハ、臣民ニハ無限ノ責任アリ、君主ニハ無限ノ權力アリ。是レ之ヲ稱シテ君主專制國ト云フ。故ニ君主權ヲ制限シ、又臣民ハ如何ナル義務ヲ有シ、如何ナル權理ヲ有ス、ト憲法ニ列記シテ、始テ憲法ノ骨子備ハルモノナリ。又分ノ字ハ支那、日本ニ於テ頻ニ唱ヘル所ナレトモ、本章ニアル憲法上ノ事件ニ相當スル文字ニアラサルナリ。何トナレハ、臣民ノ分トシテ兵役ニ就キ租税ヲ納ムルトハ云ヒ得ヘキモ、臣民ノ分トシテ財産ヲ有シ言論集會ノ自由ヲ有スルトハ云ヒ難シ。一ハ義務ニシテ一ハ權理ナリ。是レ即チ權理ト義務トヲ分別スル所以ナリ。且ツ維新以來今日ニ至ルマテ、本邦ノ法律ハ皆ナ臣民ノ權理義務ニ關係ヲ有シ、現ニ政府ハ之ニ依テ以テ政治ヲ施行シタルニアラスヤ。然ルニ今全ク之ニ反シタル政治ヲ施行スル事ハ如何ナル意ナルカ。森氏ノ修正説ハ憲法ニ反對スル説ト云フヘキナリ。蓋シ憲法ヨリ權理義務ヲ除クトキニハ、憲法ハ人民ノ保護者タル事能ハサルナリ。
(出典:国立公文書館蔵『枢密院会議筆記・一、憲法草案・明治二十一年自六月十八日至七月十三日』(アジア歴史資料センターから電子閲覧可能)
このように、明治憲法の重要性は、人権が国家に対する権利でると承認した点にある。
二 人権の私人間効力の考え方
上述した伊藤博文の発言に端的に示されているとおり、近代憲法における基本的人権規定の「名宛人」は、国家である。すなわち、自由とは国家からの自由であり、平等とは国家に対する平等取り扱いの要求であり、民主とは、国家に対する参政権として現れる。
自由権などについて、安易に「前国家的権利」と書く人がよくいるが、これは、上記のような理由から、完全に間違いである。確かに、法哲学のレベルにおいては、表現の自由などは、国家成立以前においても理念として考えることができる。その様な前国家的権利は、当然のことながら、私人間でしか考えることができない。
しかし、それが憲法に取り入れられた瞬間に、概念は、それ以前の全方位性を失い、国家との関係での保障に転化するのである。したがって、憲法の人権保障は、私人間には及ばないのである。
そもそも、近代市民革命は、日本流にいうならば、藩とか家というような中間団体の存在を否定し、個々人が国家と直接対置できる地位にあるとしたところにその意義がある。したがって、対等の私人という者はいても、私人の間に上下の区別はあり得ない。その場合には、人権を私人間で考える必要そのものが存在しない。
しかし、資本主義の爛熟と共に、これに対する問題意識が芽生えた。なぜなら、企業その他、さまざまな社会団体が出現し、そうした社会団体によって、実質的に私人の権利が侵害される場合が生じてきたのである。
そうした事態に対する、日本国憲法の答の一つが社会権である。例えば労働基本権においては、国家が企業と労働者という私人間に積極的に介入し、労働者を助け、企業の力を押さえることにより、両者の実質的対等性を確保しようとしているのである。
しかし、伝統的な自由権については、どう考えるべきだろうか。この点について、ドイツと米国では異なる考え方をした。わが国憲法学説は、その両者から強い影響を受けている。順序として、諸君の印象に強いであろうドイツ法から説明し、ついで米国法に及ぶこととする。
三 ドイツにおける理論
先に説明したとおり、欧州における法は、権利を中心に構築されている。より正確に言うと、欧州の言語において、法と権利は、一般に同一の言葉である。すなわち、ラテン語では
iusないし iurisという言葉が法ないし権利を意味し、これがイタリア語でdiritto、スペイン語でderecho、フランス語でdroit、ドイツ語でRechtという言葉が、同じく法と権利を表している。英語だけが、法はLaw、権利はRightと異なっているが、これは支配民族であるノルマン族の言葉であるLawがもっぱら法を意味し、被支配民族であるアングロ=サクソン族の言葉であるRightが権利を意味するようになったという歴史的偶然によるものである。たいていは、文脈で法と権利のどちらの意味かは判るが、限界的な場合には欧州人にとっても、少々紛らわしい。そこで、議論しているのが、法なのか権利なのかを特に明確にする必要がある場合には、権利には主観的、法には客観的という意味の言葉を付け足して区別する。
すなわち、権利という言葉は、フランス語では
Droit subjectif、イタリア語ではDiritto soggettivo、スペイン語ではDerecho subjetivo、そしてドイツ語ではsubjektives Rechtと呼ぶのである。同様に、法という言葉は、それぞれDroit objectif、Diritto oggettivo、Derecho objetivo、そしてobjektives Rechtと表現する。このような区別を受けて、ドイツの憲法学説は、人権(
Menschenrechte)というときのRechtという言葉にも、主観的な権利としての側面と、客観的な法秩序としての側面の二つがある、と一般に考える。そして、この認識を一歩前進させて、個人の権利としての人権(
subjektives Recht)は国家に対してしか効力を持たないが、客観的法としての側面(objektives Recht)は、全法秩序に対して効力を持つという考え方が出現した。その場合、その客観的法秩序が私人間に直接に適用されるのか(直接適用説)、間接的に適用されるにとどまるのか(間接適用説)が論じられるに至った。これに対して、伝統的な、そもそも人権は、それが権利であれ、客観的法秩序としてであれ、私人間には効力を持たないという考え方も存在する(無効力説)。つまり、この三つの説は、どれも人権が私人間において適用にならない、という点では、全く理解に違いが無いことに注意して欲しい。
予備校の出す模範答案などでは、この点が完全に誤解されていて、直接適用説とは、人権(すなわち
subjektives Recht)そのものが私人間に直接適用される説のことであり、間接適用説とは、同じく人権が民法90条等を経由して私人間に適用される説のことだというだという、完全に誤った説が普通に書かれている。それに引きずられて、司法修習生や若手弁護士までが同様の誤解を持っていることが多い。しかし、以上の説明から、そうした理解が完全に誤っていることは、理解してもらえたと思う。以上の三つの学説は、ドイツでは今日においても互いにしのぎを削っているが、ドイツ連邦憲法裁判所で下したリュート判決(
Lueth-Urteil, BVferGE 7,198)が間接適用説を採用したことから、今日では間接適用説が、通説・判例としての地位を占めるに至っている。これは、ハンブルク州広報室長のリュート(
Erich Ernst Lüth)が、公開の席や新聞紙上で、ナチス時代にユダヤ人迫害映画を作成した映画監督ハーラン(Veit Harlan)を名指しにして、彼がドイツ映画界に再登場することは、ドイツの国際的評価を破壊するとして、彼の映画のボイコットを呼びかけたのに対して、ハーランの映画の配給会社が訴えた事件である(つまり、この事件は私人と私人の間の紛争である。決して本問のように、個人とその個人が属する団体間の紛争ではないことに注意する必要がある。諸君が、論文で私人間効力を論じる場合に、ややもすると個人対団体の場合に限って問題が生じるような書き方をするが、それは必ずしも正しくない。)。この事件に関して、ドイツ連邦憲法裁判所は次のように述べた。
「基本権は、基本権思想史・制定史、憲法異議申立制度の趣旨からして、第
このように、憲法裁判所判例が明確に間接適用説を採用したことも大いに寄与して、ドイツでは、間接適用説が、通説的地位を持つようになり、それが日本に輸入されて、わが国でも通説的地位を占めて今日に至っている。
(一) 日本における近時の問題意識
日本では、米国法とは憲法構造が違うこともあり、戦前からの流れもあって、この点ではドイツ学説の影響を強く受けた。特に、ドイツ連邦憲法裁判所が上述の通り間接適用説を採用したことが、日本で間接適用説を通説的なものとした大きな原因と考えられる。この考え方によれば、自由権や平等権については、民法第
90条などの一般条項の内容を、憲法人権規定に含まれている客観的法が充填するという間接的なプロセスを経て、私人間の行為を規律する、ということになる。そして、三菱樹脂事件判決も、通説は、間接適用説を判例が採用したものと読む。これに対し、近時、高橋和之は、無効力説の立場から、鋭い批判を展開している。高橋の攻撃は、わが国の通説・判例である間接適用説に対し、客観的法は何故直接適用されないのか、という疑問を提示する形で行われている。
「おそらく、それはこの法的価値が未だ抽象的な段階のものであり、現実の適用を見るためには『具体化』されなければならないからであろう。その具体化は、一方で、『主観的な基本権』規定として憲法の中で争われるが、他方で、私人間については、私法の一般条項への価値充填という操作を通じて行われるという構想なのであろう。この結果、憲法は全方位的な基本権(客観的な法的価値)と対国家的な具体的基本権の両者を自己の内部に持つことになり、憲法あるいは基本権規定の性格を曖昧化させることになった。憲法は、前憲法的な『倫理的価値』を保護するために国家権力を組織する規範であり、基本権規定は国家がその任務を遂行するにあって侵してはならない国民の権利を掲げたもの、というのではなく、あるいは、その様なものに尽きるものではなく、全社会の基礎として社会内のあらゆる関係において妥当すべき法的価値をも宣言したものという性格を帯びることになる。後者の憲法観・人権観は、徹底すれば、近代的な立憲主義の観念を逆転し、憲法・人権が権力ではなく、国民を拘束するものへと転化するモメントを秘めており、看過することのできない重大な意味を持つものといわざるを得ない。」(「『憲法上の人権』の効力は私人間に及ばない-人権の第三者効力論における『無効力説』の再評価」ジュリスト
ここで高橋が指摘した、憲法が「全社会の基礎として社会内のあらゆる関係において妥当すべき法的価値をも宣言したものという性格を帯びる」という考え方は、ドイツでは明確に意識されており、それに対する答えは国家の基本権保護義務論という形に展開されている。これは簡単に紹介すれば、国家が個人の人権を保護する義務を負うとして、日本では、この説は小山剛(慶応大学教授)によって展開されている(代表的なものとして、小山剛『基本権保護の法理』成文堂参照)。
保護義務論について、もう少し細かく説明すると次の通りである。
「基本権三極関係(「国家─基本権侵害者─基本権被侵害者」)の下で、国の義務として基本権保護(正確に言えば「基本権法益の保護」)を導き出し、それによって立法者および裁判所に基本権保護の具体化と配慮を命ずることにその解釈論的特徴をもち、理論化に当たっては防禦権以上のものを内部に見出すがゆえに、且つまた、基本法(憲法)に社会権の明文規定を持たない下で展開されてきたドイツでの特殊な基本権理論の状況とも相俟って、保護義務論の射程範囲も限定された理論であることにその理論的特質をもつ」(戸波江二「人権の現代的展開と保護義務論」『日独憲法学の創造力』信山社
諸君に余計な知識を与えて混乱させることを恐れるので、ここではこれ以上の紹介を避ける。
ただ、日本では一般的に、ドイツの通説である保護義務論を受け入れることには反対説が強い。例えば、芦部信喜は「そのまま日本の解釈論に挿入することには問題がある」(「憲法
50年を回想して」公法研究59号=1997年)と指摘している。佐藤幸治はさらに踏み込んで、次のように述べている。「確かに国家の保護義務を強調しなければならない局面があることは否定できないが、一般的に広く国家の保護義務を憲法理解の根底に据えることは、個人の自由を核とする人格的自律権の発展と相容れない契機を孕んでいるように思われてならない。」
佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂
ここにみられるように、少なくとも人格的利益説に立つ限り、無理のある説といえる。私自身は、戸波も指摘しているとおり、保護義務論は、社会権に具体的権利性を認めないドイツ学説の生み出した特殊性から生じたものなので、社会権に具体的権利性を肯定するわが国では、保護義務論を採るよりも、国家の介入義務は社会権で論じた上で、それと自由権との境界の明確化を計ることこそが、人権擁護の真の道ではないかと考えている。
念のため説明すると、高橋の無効力説は、憲法の保障する人権に関して私人間で無効力といっているが、前国家的権利レベルにある人権は当然に私人間に適用になるとする説であって、人権を全く否定するものではない。すなわち高橋は、フランス革命時に成立した、人権を自然権としてとらえる視点からの議論を展開しているのである。
「憲法という法領域の特性が国家を名宛人とするものである以上、憲法上の『個人の尊厳』は、道徳哲学において有した全方位性を限定されて、国家に対する要請に転化する。たしかに、憲法は最高法規であり、下位規範を拘束する。しかし、その拘束も『対国家性』を超えることはできない。ゆえに、私人間を規制する法律は、私人が国家に対して主張しうる人権を制約する限りでは、憲法の拘束を受けるが、私人相互の水平的な関係に関しては、憲法の人権規定は効力を及ぼさず、その拘束を受けない。」
そして、従来、通説が間接適用説と評価してきた三菱樹脂判決についても、「直接適用はおろか間接適用も否定した典型的な無適用説といってよい」と評価している(高橋和之「人権の私人間効力論」高見勝利・岡田信弘・常本照樹編『日本国憲法解釈の再検討』(
2004年、有斐閣)14頁)。そして、学説が判決の立場を間接適用説と理解するに至った理由については、原審判決である東京高裁昭和43年6月12日判決(判時523号19頁)が「企業が労働者を雇用する場合等、一方が他方より優越した地位にある場合」に企業が労働者の思想の自由をみだりに侵害してはならないと述べたことへの反論を述べているからである、と指摘する。そして、最高裁判決の論旨について「私人間における調整は立法で対処するということをポイントとしており、民法90条等に言及してはいるが、それは法律による調整の仕方の例示であって、その規定を媒介にして人権規定の効力を及ぼしていくという発想をとっているわけではない」と評価する(同書15頁)。つまり高橋の説は、そもそもわが国現行憲法が自然権をベースにしている説及びそれを憲法に取り入れる際に、自然権ではなく、「憲法の保障する権利」という説という、二段構えの独自の見解を採用している点に最大の特徴がある。この二つの段階に関する説のいずれも肯定しない限り高橋説を採ることは不可能である。
* * *
ここまで説明すると、冒頭の短答式問題に現れた「
人権はすべての法秩序に妥当すべき価値である」というような、予備校答案的には見慣れない言葉の意味が判り、この問題に解答できるようになったと思う。同時に、そこに述べた、私人間効力論は、国家試験の受験生レベルには少々難しすぎる議論だということが理解してもらえたと思う。
例えば、間接適用説を採ると論じるためには、人権という言葉に権利としての側面とは別に客観的法秩序としての側面がある、と論じた上で、さらに、なぜその法秩序が直接適用にならず、間接適用になるということを、高橋の批判を跳ね返せるだけの密度で書かねばならないのである。そこでドイツ法の出した解答である保護義務論を導入すると、芦部信喜や佐藤幸治の批判を跳ね返せる論理を構築しなければならない。あるいは、高橋の説を採れば、憲法学の全レベルにおける再構築が求められることになる。
このような複雑な議論を、国家試験レベルの受験生に期待するのは本質的に無理というものなのである。
四 米国におけるスティツ・アクション法理
米国連邦憲法は、本来、連邦の活動を規制するのが目的であった。したがって、その修正条項の冒頭にある権利章典にしても、名宛人は連邦であり、州政府は対象ではなかった。つまり、州法によって、そこに書かれている人権侵害が行われても、それは連邦憲法違反ということにはならないのである。
しかし、南北戦争後、連邦政府は、南部諸州の行う立法や行政に干渉する必要に迫られた。その結果、制定された憲法第
14修正が、各州(State)の活動(Action)に対して、「人の生命、自由、財産を奪ってはならない」と定めた。この適正手続(due process of law)保障を利用して、連邦最高裁判所は、違憲審査権の対象を、州の立法その他の活動にも拡大していった。さらに、本来は州が行うべき活動を私人にゆだねた場合に、その私人が人権侵害等を引き起こした場合には、それを州(
State)の活動(Action)に準じて14修正違反になるという理論(スティツ・アクションの法理)と言われるものが、連邦判例上、出現したことから注目されるようになった。例えば、州が公営駐車場を設置している場合に、その中のレストランを同じく公営で経営していれば、そのレストランが黒人差別を行うことは、連邦憲法に違反することは、明らかである。それに対して、そのレストランの経営を私人に委ねていた場合に、その私人が黒人差別を行った場合には、それは本来は私人間の問題だから、連邦憲法違反ということにはならないはずである。しかし、これを州の活動と同視することが許される条件が存在している場合には、連邦憲法を適用して判断することが可能になる(
Burton v. Wilmington Parking Authority 365 U.S.715)。ただこの場合に、どういう条件が存在する場合に、私人の活動を州の活動と同視しうるかは、米国法特有のかなり複雑な問題となる。しかし、本問は本質的にState Action法理で解決できる種類のものではないので、ここでは詳しい説明は割愛する(興味のある人は、芦部信喜『憲法学Ⅱ』有斐閣1994年刊、314頁以下が詳しいので参照すること。)。時々、私人間効力の議論で、「国家に比すべき巨大企業」の出現を根拠にあげる人がいるが、これはこのスティツ・アクション法理の混入である。間接適用説の根拠の一つにこれを挙げるのは致命的誤りとなるので注意しよう。
五 私人間効力が問題となる人権とは?
冒頭で、私人間効力論は難しい議論なので、国家試験ではでない、と説明した。しかし、おそらく、諸君は、論文式試験でも、私人間効力を論じなければならない問題は結構出ている、と反論するのではないかと思う。少なくとも、予備校答案的には、私人間効力に言及している問題というのは結構ある。
しかし、実はそれは錯覚である。本当は、私人間効力について論じる必要の無い問題について、わざわざ論じて点を下げているというのが正しい理解である。すなわち、今日のわが国憲法においては、私人間効力が問題となる人権は、意外に少ない。その点を以下、説明する。
(一) 社会権
近代市民革命は、封建国家権力から人民を解放して、自由をもたらすことを目的として行われた。そうした自由主義(
Libertarianism=Liberalismではない点に注意)の理念を根本原理とする夜警国家にあっては、国家の機能は治安の維持と国防に限定される。すなわち憲法は、国家から個人の権利を守るために存在しているのであるから、互いに対等な地位に立つ私人間にそれが適用にならないのは、当然のことということができる。しかし、
19世紀末から今世紀にかけての資本主義経済の発達は、国家と人民との中間に位置するいわゆる中間大規模組織の発生・発達をもたらした。これらの組織は、一面においては、自然人の人権行使手段として、人権享有主体性までも一定の範囲で認められる(団体の人権享有主体性の議論参照)。同時に、その構成員である自然人の自由を、一定範囲で制限する機能を有する。この結果、単に国家が私人間の問題に介入しないという政策(laissez-faire=レッセ・フェールといわれる)を維持しているだけでは、必ずしも自然人の自由を確保することを意味しないということが明らかになってきた。他方、同時に起きた民主主義の発達は、国家が人民の権利を抑圧するものではなく、それどころかその権利を擁護する味方として機能することを、人民として信用できる状態をもたらした。こうして、国家が人権の擁護者として積極的に私人間に介入する積極国家が誕生するに至った。
積極国家の下において、憲法そのものにより、国家に積極的に私人間に介入することが命じられている人権(すなわち社会権)については、私人間での効力が肯定されることは当然のことであって、改めて議論する必要すら存在しない。
(二) 人格権
わが国憲法の根本原理であり、したがって自由主義の上位規範である個人主義に基づき、個人の尊厳そのものを踏みにじるような形態の私的自治が、憲法のレベルにおいて許されないことも当然である。私法上、生命権や貞操権に代表される人格権と呼ばれる権利の使用、収益、処分を内容とするものがこれに当たる。人格権は、それが尊重されることは憲法上あまりにも当然であるため、ほとんど憲法に規定はなく、明文があるのはわずかに奴隷的拘束の禁止(
18条)程度に止まる。しかし、その他の権利についても同様に、私人間においても直接適用があると考えるべきである。刑法が処罰規定を置いている殺人罪、名誉毀損罪や信用毀損罪等が、私人間の紛争に対する国家権力による侵害として、違憲と論じられたりしない理由はここにある。(三) 民主主義
積極国家の基礎を形成している健全な民主主義を揺らがすような行為は、私人間で行われることが多い。それは民主主義の直接的な脅威であるが故に、憲法レベルにおいて禁止されるのは当然である。これもあまりに当然のことであるために、憲法に明文があるのは、選挙権の行使に「私的にも」責任は問われることはない(
15条4項)ことが保障されている程度に過ぎない。しかし、その他の参政権行使を妨げる行為についても同様に考えるべきである。例えば、選挙において立候補する自由は、次の通り、人権として直接私人間にも適用がある、と最高裁は述べている。「選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法
最大昭和
43年12月4日(三井美唄事件=百選第5版326頁参照)そしてこの立候補の自由を侵害しない限度でしか、労働基本権を認めなかったのである。
現行の公職選挙法においては、戸別訪問その他、私人が他の私人に対して政治的意見を表明する自由を、刑罰の威嚇を以て禁止している。その立法の妥当性はともかく、それが許される憲法学的理由もまたこの点にある。
(四) 本質的私人間紛争
本質的に私人間の紛争であるが、憲法的な評価も必要なもの、例えば私法上のプライバシー権を巡る紛争は、それが本質的に私人間紛争であるが故に、例え、その権利が認められると、その限度で憲法上の人権である表現の自由が抑制される結果を生じる場合にも、私人間効力を論じる必要はない(石に泳ぐ魚事件=百選第
5判140頁参照)。なお、公法上のプライバシーは国家と国民の関係が問題になっているから、これまた私人間効力を論じる必要はない(早稲田大学江沢民事件=百選第
5判46頁参照)。(五) 立法による私人間への国家介入
結局、私人間効力が問題となる種類の人権とは、消極国家において、従来厳密に国家が私人間に介入することを禁じられていた一連の基本権-そのほとんどは論理の必然から自由権及び自由主義的平等権-に限られることになる。
ここでもう一つ重要な限界を述べなければならない。今日のわが国は、冒頭に述べた消極国家ではなく、積極国家となっていることから、私人間に国家が積極的に介入するという立法を、国会が行うこと自体は当然に合憲であるという前提が存在している。私人間効力に関して後述する無効力説も、立法者の立法義務の問題と捉えてこれを肯定する。
例えば、家は個人の城であるから、家庭内の問題に国家権力が介入するのは許されない。しかし、夫婦喧嘩等の家庭内暴力において、女性が一方的に被害者になる事態が多発しているのを放置できない場合には、国会は「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(いわゆる
DV法)を制定することができる。ちなみに同法前文は次のように述べている。「我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、人権の擁護と男女平等の実現に向けた取組が行われている。〈中略〉
ここに、配偶者からの暴力に係る通報、相談、保護、自立支援等の体制を整備することにより、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図るため、この法律を制定する。」
このように
DV法は、明確な国家権力の私人間への介入法なのである。このようなな国家権力の家庭内への介入を許容する立法が、どの限度で許容されるかについては、それ自体が憲法学的に検討しなければならない問題であり、この前文の存在は、立法者自身にも同様の問題意識があることを示している。しかし、ここで諸君に見て欲しいのは、そのような問題についても、人権の直接適用を認める立法が存在しているという事実である。三菱樹脂事件や日産自動車事件が、今日では私人間効力の問題にならないのは、その領域で、国家が私人間に介入する立法が存在していることが理由なのである。
(六) 私人間効力が問題となる人権とは?
したがって、いわゆる人権の私人間効力と呼ばれる問題を厳密に表現し直すならば、
「歴史的に国家と国民の関係だけを規律するとされている種類の基本権が、国会の立法を待たずして、私人間に適用になることはあるか。あるとすれば、それはどのような形を採用して行われるべきか。」
となる。もっと簡単にのべれば「基本権(自由権)の規範内容を具体化する立法を待たずに、人権規定が私法領域においてもつ効力」といえる。本問における
Yの主張もそのように理解しなければならない。私人間効力論とは、その程度の問題なのであって、私人の間で人権が論じられさえすれば、常に論点になるというものでは決してない。学生諸君の中には、私人間の紛争と読むと、機械的に私人間効力の議論を書く人がよくいるが、それは完全な間違いである。減点される危険を考えると、むしろ私人間効力には原則として論及しないというスタンスの方が無難である。