議員の免責特権とその限界
甲斐素直
問題
国会議員が院内で人の名誉を侵害する発言をした場合、民事上、刑事上の責任を問われるか。また、所属議院において、右発言を理由に除名の決議がなされた場合、当該議員はその決議の効力を訴訟で争うことができるか。地方議員の場合と対比して、憲法上の観点から論ぜよ。
(平成6年 司法試験 第2問)
[はじめに]
(一) 小問形式問題の論文について
本問は、改行無しに書き下されているので、そうとは気がつかないかもしれないが、小問形式の問題である。第一に国会議員の院内における不法行為に対する刑事・民事の責任論であり、第二に院内における責任論であり、第三に司法権の限界論であり、第四に地方自治論である。
普通の教科書では、これらは必ずしもまとまった形では論じられていない。しかし、このように一つの問題として聞かれている以上、諸君としては、これらを切り離してバラバラに「一 民事上の責任については…」なんてふうに論じてはいけない。総論として、それらに共通する論点を発見し、まずそれについて論じた上で、その個別適用という形で小問ごとに各論を述べるという形式で論じなければならない。
もし、それをやらずに、最初から個々の小問ごとに答えていった場合には、結局、共通要素をその都度繰り返し記述する羽目になり、論文として冗長になる。期末試験や国家試験のように、時間と紙幅に制限がある場合には、その冗長になった分、論点に関する議論を深めることができず、点数を減らすことになる。あるいは、さらに悪いことは、共通要素を捉え損なった結果、自己矛盾する議論を書いたりして、致命的な減点をされたりする。
(二) 免責特権の意義
本問の中心論点が、憲法51条の保障する議員の免責特権であることは、誰にも判ると思う。
免責特権は、国民主権原理の下、全体の奉仕者として活動する義務を負う国会議員に対して、それを選出した選挙区の有権者が拘束的委任を行ったり、あるいは公約違反の責任を追及してリコールしたりすることを禁じている点に重要性がある。
しかし、こうした民主主義的意義は近代民主主義確立以降の話であって、免責特権は、歴史的には、一般国民の場合以上に、議員の職務における表現の自由を保障することに目的があった。その結果、第一に、免責特権は民事上、刑事上の責任についても免除する効果があるかが問題となる。
刑事免責については、国会乱闘事件(東京地方裁判所昭和37年1月22日判決=百選第5版386頁参照)において問題となった。
民事免責については、札幌病院長自殺事件によりにわかに広い関心を呼ぶに至った(最判平成9年9月9日=百選第5版388頁参照、なお、平成9年度重要判例解説搭載。事件の発生は昭和60年。札幌地裁平成5年7月16日、同高裁平成6年3月15日判決=平成6年度重要判例解説搭載。本問は出題時点から見て明らかにこの事件を念頭に置いている。)。
第二は、民事、刑事以外の責任についてはどうなるか、である。すなわち
@ 議院からの懲罰
A 所属政党・組合・会社等からの懲罰
B 政治責任の追及
の3者についてはどう考えるべきか、という問題である。本問は、このうち、議院からの懲罰を取り上げている。
(三) 憲法17条との関係
国会議員及び地方議会議員は公務員としての身分を有する。したがって、その不法行為に基づき国民に損害を与えた場合には、当然憲法17条に基づき国家賠償の対象となる。そこで問題は、17条と51条の免責はどのような関係に立つかという問題が生じる。これは重要な論点で、上記札幌病院長自殺事件においては、最高裁判所は終始17条の枠内で議論し、判決を下していて、51条には言及しなかったのである。つまり、51条は、民事免責に関する限り、17条の注意規定であって、何ら特段のことを定めたわけではない、と解釈したことになる。上記札幌病院長自殺事件の最高裁判所判決はこの考え方を採っている。最高裁判所判決と言えども、判例に法源性があるわけではないから、その論理に賛成する必要は無い。しかし、この点についての議論を書かない限り、本問が合格答案と評価されることはあり得ない。ただ、本問はあくまでも51条に関する問題だから、どの程度まで17条の議論に踏み込むかが、は難しいところで、答案構成で一番悩むべきところである。
一 免責特権の本質
総論、すなわち一連の小問の共通の基盤は、免責特権の本質が何か、という点にある。簡単に言えば、免責特権とは、議員個人を保護するために存在しているのか、それとも議院の自律権を保護するために存在しているのか、という問題である。
これは免責特権に限らず、憲法の保障するあらゆる個人特権に共通して意識しなければならない問題点である。
例えば不逮捕特権でもそのことが問題となる。もし不逮捕特権が個人を守るものであるならば、不当逮捕だけを禁止すれば足りる。したがって、議院としては逮捕を許諾するか否かの議決権はあるが、期限付き許諾をする自由はないということになる。これに対して議院の自律権を守るために存在していると考える場合には、例え有罪であることがはっきりしている場合にも、その議員が議員の運営上欠くことができない人物であれば、逮捕を拒否できるし、特定の時期以降、その人物の必要が生ずる場合には期限付き許諾も可能という理屈になる。
では、免責特権の場合、どう考えるべきであろうか。
個人の表現の自由の議会という場における絶対的な保障なのか、それとも自律権の保障なのか、という点を考えるに当たり、どちらを採るかで端的に結論が分かれるのは、議会の懲罰からの自由を認めるか否かであろう。
すなわち、免責特権が議員個人を保護するための規定であるとするならば、その保護は当然組織体としての議院からの侵害に対しても向けられるべきだからである。換言すれば、議員が除名され、それが不当と考える場合には、裁判所にその保護を求めることが可能であって、はじめて保護を完全なものとすることができるのである。
私自身は、議院の自律権の補助権能と考える立場である。免責特権の最も重要な機能が、はじめに述べたとおり、命令的委任の禁止に有り、これは国民主権概念そのものから導かれる要請であることを考えると、議院の自律権の保障規定と見るのが妥当と考える。このことは、憲法58条により、議員の懲罰が明確に自律権の問題とされていることからも明らかと言える。
また、比較法的に述べるならば、免責特権の母国たるイギリスにおいては、そもそも議会における言論の自由(the right to free speech within Parliament)は、議会特権(Parliamentary privilege)という言葉の下に論じられており、個人の特権とは考えられていない。
議院の自律権を論ずる場合、第一に、それは権力分立制との関係が問題となる。すなわち、議院の自律に対する行政府及び司法府からの干渉が禁じられる。第二に、忘れてならないことは、問題になっているのが「議院」であって、「国会」ではない、ということである。したがって二院制との関連が問題となる(但し、本問ではこの論点は現れてこない)。
免責特権はイギリスにおいて王権と議会との間の長期にわたる闘争の末に1688年の名誉革命の後の制定された権利章典(1689年)によつて確立されたものである。すなわち、それまでの間、議会が王室経費の削減を論じようとして反逆罪に問われたり(1397)*[1]、権利請願(Petition of Rights)を行って投獄されたり(1629年)*[2]する事件の末に、権利章典で次の様に定められたのである。
「議会における言論の自由および討議または議事手続は議会以外のいかなる裁判所またはその他の場所においても訴追または責問されてはならない」(“That the freedom of speech and debates or proceedings in Parliament
ought not to be impeached or questioned in any Court or place out of
Parliament.”)
この歴史的事実に明らかなとおり、免責特権の自由主義的意義は、議院という組織体における討論の自由を意味し、他の権力、特に司法権からの自由という点にある。したがって、議員個人の特権ではなく、議院の自律権の一環として理解するのが妥当であると考えている。
二 憲法17条の本質
本来なら、ここで民事免責の意義について論じるべきであるが、先に述べたとおり、最高裁判所は、その問題を17条で処理し、51条の問題としない。それがなぜかを理解しておく必要があるので17条の説明をここに挿入する。
国家賠償に関しては国家賠償法が存在しているが、その解釈は、大幅に文言から乖離したものとなっている。それがなぜかを理解して貰うために、諸君の論文には、間違っても書く必要のない、基礎の部分から説明する。
(一) 日本における沿革
欧米では、早くから「王は悪事をなせず(King can do no wrong)」という概念が発達し、国家の違法行為という概念そのものが認められなかった。これを国家無答責という。当初は、そのために公務員個人に対する賠償請求が行われていた。しかし、公務員個人に賠償請求をすることを認めると、公務員が萎縮し、事なかれ主義に堕するところから、それを防ぐために禁止する法理が登場する。これが、日本が欧米法を継受し、国家無答責の概念を受け入れた時期には確立していた。
日本の明治憲法には国家無答責に関する条文はまったくなかった。しかし、法体系として欧米法を継受したため、早くから判例は国家無答責の原則を当然に憲法的秩序の一環として採用していた。そして、上記理由から、この国家無答責は、公務員個人に対する請求を否認するという内容までも含んでいた。
しかし、社会の基盤整備が主として民間の手で行われた欧米と異なり、日本の場合は鉄道や港湾の建設なども国家によってなされる必要があった。このため、国家無答責原則の無批判な採用は、欧米よりも問題が大きかった。判例は早くからその問題性に気付き、この原則の適用範囲を狭める努力を行ってきていた。すなわちまず国の活動であっても私経済活動には、早くから国に民法を適用し、不法行為責任の成立を認めた。例えば国有鉄道の活動については民法に基づき、賠償責任を肯定した。鉄道工事による損害(大審院明治31年5月27日判決)や汽車の煤煙で名松が枯死した事件(信玄公笠懸松事件=大審院大正8年3月3日判決)がそれである。
ついで国家活動を権力活動と非権力活動とに区分し、国家無答責原則の適用を前者に限定した。徳島市立小学校の遊動円棒の欠陥のため生じた児童の死亡事故について国に損害賠償責任を認めたのが、その転機となった有名な判例である(大審院大正5年6月1日判決)。念のため、補足しておくと、教育活動は今日では非権力作用と考えているが、明治憲法の下においては、富国強兵思想の下、典型的な権力活動と考えられていたのである。しかし、校庭の遊具の設置・管理は非権力活動に属すると大審院は判断したのである。
これに対して権力的活動については、一貫してこれを認めなかった。例えば、消防自動車の試運転時の事故も、「国家警察権の作用なりとす」と述べて、権力活動に属するとした(大審院昭和8年4月28日判決)。憲法秩序が国家無答責の原則をとっている場合に、判例による努力には、一定の限界があったと評価することができる。
また、公務員個人に対する賠償責任を否定する、という点に関しては修正がなされなかった。これは、官公吏が賠償責任を負うことをおそれて消極的行政に終始する、つまり官吏の萎縮を防ぐという観点からは適切である。しかし、それにより被害者の保護をいっそう弱いものとした事は否めない。ただし、官公吏が職権を乱用して私人の権利を侵害した場合にはもはや官公吏としての行為ではない、として民法の規定を適用して損害賠償を認めた。
第二次大戦後に、日本の現行憲法が制定された時点では、欧米各国、特にアメリカでは国家無答責が依然として支配していた。このため、日本国憲法の原案とも言うべきマッカーサー草案には、国家賠償制度については論及がなかった。そして、これを受けて作成された日本政府の政府原案でも同様であった。しかし、衆議院段階で、上記の判例の努力を受け継ぐ形で、現行憲法17条が、刑事補償に関する40条とともに、議会修正という形で追加された。
そして、その「法律」の中心をなすものとして制定されたのが、国家賠償法ということになる。
(二) 国家賠償の意義
憲法17条は「法律の定めるところにより」国家賠償を受けることができると定める。
ある事項についての詳細は国会が「法律でこれを定める」と憲法が書いている場合に、これを国会に対して無制限の立法裁量権を認めたもの(プログラム規定説)と考えるときには、国家賠償を憲法編入した意義が失われる。そこで、これを「制度的保障」と説明することで、国会の立法裁量権を制約すると理解することになる。
日本国憲法17条には、中核概念を考える手がかりが条文中に全く書かれていない。したがって、この条文を文字通りに読むと、国家賠償をどの範囲で受けることができるのか、逆に言うと、どこまで否定することができるのかは、立法府の純然たる裁量の問題であるように読める。
しかし、郵便法違憲判決(最大平成14年9月11日=百選第5版292頁参照)は、この点について次のように述べている。
「立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」
すなわち、国家賠償制度を法律で定めると言っている以上、本条もまた制度的保障と考えるべきである。その場合には、立法権によって侵すことのできない制度の中核は何か、ということは、理論的に決定するほかはない。
本条の場合、普通はこのような議論の流れを採らないで、「賠償責任の法的性質」は何か、という形で論じられるので、少し判りにくいが、これは制度的保障の中核論だ、と理解することができる。すなわち、責任の本質を、国の代位責任と考えるのか、それとも自己責任と考えるのか、ということが、国の立法裁量の限界を形成することになるので、これが中核論になるわけである。
代位責任と自己責任の区別は、正確に理解して貰う必要があるので、少し詳しく説明する。
民法715条の定める使用者責任は、典型的な代位責任である。たとえば、甲運送会社の運転手乙が業務上運行するトラックに轢かれて、丙が重傷を負ったと仮定しよう。その場合、丙は乙が民法709条の要件を満たしている場合に、乙に代わって損害賠償をするように甲に求めることができる。したがって、乙の行為が709条の要件を満たしていない場合には、甲にも損害賠償を求めることはできないし、充たしていた場合にも、甲が乙の「選任及びその事業の監督に付き相当の注意をなしたるとき、又は相当の注意を為すも損害が生ずべかりし」時にもまた、請求することはできないことになる。これが代位責任である。戦前、非権力活動について民法を適用することで被害者を救済した、とはこのような責任を国家に認めたという意味である。
戦前の判例法で被害者を救済できないのは、権力的活動のみであった。そこで、国家賠償法1条1項は、その部分を補完するという発想で、次のように制定された。
「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ず。」
したがって、国家賠償法が、民法不法行為法の使用者責任を補完するものとして、代位責任説を妥当とするのが、立法者の意思であることは明らかである。
それに対し、今日、憲法学レベルでは自己責任説が通説と見ることができよう。そう考える理由は、実際面から考えた場合、かなり単純である。代位責任と考えた場合には、公務員個人に民法709条に基づく賠償責任が発生することが、国家賠償の前提要件になってしまうからである。それにより様々な問題が発生してしまう。わかりやすいところでは、損害賠償請求をする国民の側として、責任ある公務員を特定しなければならないという問題が生ずる。このように、様々な好ましからざる問題を回避するためには、自己責任と考えるのが妥当なのである。
現在の通説・判例は、このように国家賠償制度の本質を自己責任と解する結果、代位責任的に書かれている国家賠償法1条を、判例は次の通り、全面的に読み替えている。
第一に国家賠償法の適用される範囲では萎縮効果を防ぐため、公務員本人に対する民法709条に基づく不法行為請求は認めない。
そして、国家賠償法を厳格に文言解釈すると、709条が認められない結果、国民に不利益が生じる。そこで、自己責任にふさわしく、その適用範囲を拡大するため、
第二に「公権力の行使」とは、非権力活動も含めたすべての国の活動とする。
第三に、「公務員」とは上記公権力の行使にあたっている者であれば、公務員としての身分を有する必要はないとする。
第四に、「職務の執行にあたり」とは、その外形が一般国民から見て職務行為であれば良いとする。
第五に、「故意過失」とは当該行為者を基準とせず、公務員一般に要求される水準から客観的に決定されるとする。
第六に、代位責任ではないから、加害公務員を特定する必要はなく、ある組織の責任と認められればそれで十分とされる。
第七に、「違法」という場合も、特定の法律がある必要はなく、法秩序全体から見て判断される。ただし、単に違法であるだけでなく、「職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく漫然と」することが要件としている(職務行為基準説)。国会議員に関して言えば、在宅投票制度訴訟(最高裁判所第1小法廷昭和60年11月21日判決=百選第5版438頁参照)がそれを述べている。これについては学説的には批判が強いが、判例は確立している。
最大の問題は、その自己責任を、どのような憲法理念に基づいて説明するか、という点である。自己責任の根拠となる理論はいくつかある。
憲法学における代表的な見解は、例えば「国家活動には違法な加害行為を伴う危険が内在して」(日本評論社『基本法コンメンタール憲法』(第4版)99頁より引用=菟原明執筆部分)いる点に、自己責任説の根拠を求める。これに限らず、従来の憲法のコンメンタールや国家賠償法の概説書では、自己責任の根拠を危険責任と説明しているものが多かった。例えば、同じような説明を、『青林書院注解法律学全集憲法』でも行っている(同書360頁=浦部法穂執筆部分)。
危険責任というのは、典型的には民法717条がそれである。発生させる危険の範囲において、その管理者は無過失責任を負うべきだと考える。この考え方は、結局、国家賠償責任の本質は、民事責任の一種だと考えていることになる。確かに、国家賠償法2条は明白にこの考え方に基づいている。
この危険責任説に立った場合には、どんな理由があるにせよ、国会が裁量的に賠償責任を全面的に免除するということは考えられない。だから国家賠償責任を免除した郵便法は、全面的に違憲となると解するべきである。また、本質を無過失責任と考えている以上、担当する公務員に故意・重過失がある場合と軽過失の場合とで、前者についてだけ賠償責任を認め、後者については否定する、というような結論が導かれるわけもない。その意味で、憲法学で有力なこの見解を、郵便法違憲判決が採用しなかったことは明らかである。
郵便法違憲判決の論理は、明言されている訳ではないが、その背景にあるのは、従来から国家賠償法の領域では有力に主張され、通説となりつつある「国家補償法」という考え方と思われる。
従来の考え方では、17条の国家賠償は国による違法な侵害を問題にするのに対し、29条3項の損失補償は適法な侵害なので、両者は、適法と違法という全く別の法現象を取り上げていると考えていた。それに対し、ここにいう考え方は、その両者を国家補償法という統一的な法体系として把握しようとする立場である。
この考え方を最初に日本で打ち出したのは、田中二郎であろう。
「不法行為に基づく損害賠償の制度と適法行為に基づく損失補償の制度とは、従来、性質上、異なる制度と考えられ、かつ異なる制度として規定されてきた。すなわち、前者は、近世の個人主義的思想を基底とし、個人的道義的責任主義を持って基礎原理として構成されたのに反し、後者は、従来、団体主義的思想を基底とし、社会的公平負担主義の実現を基礎理念として構成された。しかし、今日においては、少なくともその基礎理念において、かような意味での対立は認めがたい。むしろ両者を融合統一し、公平負担の見地から、被害者の損害填補に重点を置いて、問題を解決しようとする傾向にあるといえよう。」(田中二郎『新版行政法上』弘文堂1964年刊184頁より引用)
しかし、この場合、行政法の概説書であるため、憲法論との結びつきが書かれていない。
その点を私が憲法学的に補完すると、次のようにいうべきであろう。旧憲法が前提とする天皇主権国家において国家賠償を考える時には、一般国民から見て、天皇は先の例の甲運送会社と同じく、第三者的立場の存在であった。したがって、民事法の論理に従い、代位責任と構成することは十分に可能であった。しかし、現行憲法では、国家の主権者が天皇から国民に代わっている。その結果、国民が国家に対して損害賠償を求める、という場合、その賠償を求める相手である国家とは、実際には我々国民の総体である。賠償金の原資は、我々国民の拠出した税金である。したがって、広く国家賠償責任を認めるときには、俗な言い方をすれば、同一人の右のポケットから左のポケットにお金を動かした程度の意味しかない。
もう少し具体的な例を挙げれば、次のような事例を考えることができよう。今、仮に国の管理する原子炉が暴走し、全国民が等しく100万円の損害を受けたと仮定しよう。この場合、そのような膨大な賠償資金は国にはないから、その原資を得るためには、国民一人当たりに平均して100万ずつの臨時課税を行う必要が生ずるはずである。しかし、そのような賠償は全く無意味なことなので、すべての国民が被害者になるような場合には、そもそも国家賠償の必要は生じないと考えた方がよい。
そうした無意味な国家賠償の成立を否定する論理として、29条3項の損失補償と共通する論理を求めるならば、国民相互間の公平負担の原則ということがいわれる(例えば宇賀克也『国家補償法』有斐閣法律学大系1997年刊3頁)。損失補償の場合には、あらゆる適法侵害について補償を認めるのではなく、特別犠牲の場合に限定して考える。換言すれば、国民総てが負担するべき損失を特定人が被る時、それを国民総ての負担で救済しようということである。
次の文章は、損失補償に関するものであるが、国家補償法という考え方からすれば、当然に国家賠償の場合にも妥当するはずである。
「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」(柳瀬良幹『公用負担法』新版、有斐閣法律学全集14巻256頁より引用)
これを明確に体系化したのは、今村成和である。今村成和は、自己責任と考える根拠として、一方において上述した危険責任という考え方も採用しているが(国家賠償法2条があるから、それは正しい。)、それと並んで社会保険という考え方を示す。すなわち、
「個人責任の場合には、結局においては、社会保険(危険の分散と社会化)との間に、両者の同視を許さない本質的な相違が存在するのに対し、国家責任の場合においては、責任の主体が国家(社会)であるということにより、それ自体の中に社会保険的効果を見出し得るということである」(今村成和『国家補償法』有斐閣法律学全集9巻1957年刊、89頁より引用)
このように国家賠償責任とは、社会保険のような制度だと考える場合には、そこに立法裁量の余地を認めることが可能になる。すなわち、損害が発生した場合に、それをしっかりと賠償する代わりにその保険費用相当額を国民全体で負担する法制度を導入するか、あるいは費用を必要最小限に抑える代わりに損害賠償をしないとする法制度とするか、という立法裁量である。ここまで説明して、初めて郵便法判決における次の一文の意味が判る。
「公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,当該行為の態様,これによって侵害される法的利益の種類及び侵害の程度,免責又は責任制限の範囲及び程度等に応じ,当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。」
特定人に、避けることのできない、きわめて深刻な被害を与える場合には、たとえ国民全体の負担が増加しても国家賠償責任を免除し、あるいは制限することは許されない。しかし、一定の危険性があり、したがってその危険を甘受できない場合には利用しないことも可能である場合に、そのことを明らかにした上で、国民全体の負担を低額に押さえるという立法裁量は、国民国家において、個人の尊重と全体の負担の軽減という比較考量の中で、肯定されて良いはずである。この論理を、郵便法判決は次のように論じている。
「法は,『郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することによって,公共の福祉を増進すること』を目的として制定されたものであり(法1条),法68条,73条が規定する免責又は責任制限もこの目的を達成するために設けられたものであると解される。すなわち,郵便官署は,限られた人員と費用の制約の中で,日々大量に取り扱う郵便物を,送達距離の長短,交通手段の地域差にかかわらず,円滑迅速に,しかも,なるべく安い料金で,あまねく,公平に処理することが要請されているのである。仮に,その処理の過程で郵便物に生じ得る事故について,すべて民法や国家賠償法の定める原則に従って損害賠償をしなければならないとすれば,それによる金銭負担が多額となる可能性があるだけでなく,千差万別の事故態様,損害について,損害が生じたと主張する者らに個々に対応し,債務不履行又は不法行為に該当する事実や損害額を確定するために,多くの労力と費用を要することにもなるから,その結果,料金の値上げにつながり,上記目的の達成が害されるおそれがある。」
補足して説明すると、この議論の背景になっているのは、郵便法3条である。3条は次のように述べている。
「郵便に関する料金は、郵便事業の能率的な経営の下における適正な費用を償い、その健全な運営を図ることができるに足りる収入を確保するものでなければならない。」
換言すれば、独立採算ということである。この当時は郵政事業特別会計、現在であれば郵政公社の枠内で、独立採算とされているのである。その結果、国家賠償を幅広く認めれば、その分だけ郵便料金が上がるという構造を持つことを判決は説明しているのである。
*
*
*
以上の説明で、51条がどう問題になるかが判っただろうか。国会議員は国家公務員である(憲法15条参照)。したがって、国会議員の公務員としての活動、すなわち「議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で『民法上の不法行為』責任を問はれないのは17条の解釈上当然のことであって、51条というような特別の規定が存在する必要はない。だから、51条は、単なる注意規定であると主張することになる。これに対し、51条がある以上、17条とは異なる特別の効果、すなわち「国家賠償法上およそ違法が問題とされる余地がないことを定めたもの」と考えれば国が賠償責任を負うことがない、と考えることになる。
三 国会議員の民事免責について
(一) 絶対的免責説
この説は、議員の表現の自由を確保するために、国民のプライバシーや名誉権を侵害するような言論であり、しかも悪意が立証されたような場合にも、それが議員の職務と関連性を持つ限り、絶対的に免責されると説く。
札幌病院長自殺事件の第一審及び第二審判決のとった立場である。すなわち、51条は
「議員が議院で行った言論を絶対的に保障する趣旨に出たもの、すなわち、絶対的免責特権を規定したものと解されるから、議院が虚偽であることを認識しながら、もしくは虚偽であるかどうかを不遜にも顧慮せずに、または違法もしくは不当な目的で他人の名誉を毀損する発言をした場合であっても、それが議院で行った演説等に当たる限り、当該議員は、名誉を毀損された者に対して民事上の責任を負わないというべきである。」
と説く。この場合、理由としてあげられるのは、次の諸点である。
@ 国会議員に対しては政治責任を追及できるのみである、という見解。
A 政府が反対党員の言論をとらえて法的責任を追及する恐れ
(二) 相対的免責説
これに対して、相対的免責説は17条の枠組みの中で免責特権を考える。例えば佐藤幸治は次のように説く。
「議院における発言者たる議員については、政策的見地から法的責任を問いえないとすることには合理的理由があるとしても、該議員による明らかな名誉毀損・プライバシー侵害行為を一律に適法としてしまうことは、人権は原則として内在的制約にのみ服するという学説上広く承認された憲法法理と抵触することになるのではないか。憲法自体が明文上そうした政策的制約を容認しているのであればそれに従うほかないが、そうでない限り、人権規制に関する一般法理が妥当すると解すべきではないか。」(ジュリスト1052号85頁より引用)
私自身は、この相対的免責説を支持している。なぜなら、先に述べたとおり、免責特権の本質が議院の自律権の保護を保護法益としていると考える場合、議院として必要な限度の保護にとどめれば十分だからである。
(三) 国家賠償法との関係
どちらの説をとる場合にも、国会議員は公務員であり、その職務を行うに当たり、他人に損害を与えたのであるから、国家賠償制度との関係が問題となる。
先に述べたとおり、国家賠償法の解釈に当たっては、職務の執行に当たり、国民に損害を与えた公務員個人が、国民に対して直接民事責任を負うことはない、という理論が確立している。
国会議員は、公務員である。したがって、国会議員の民事個人責任が追求されることがない権利は、51条ではなく、17条というより一般的な形で保障されているのである。
絶対的免責特権を認めるならば、選挙民による道義的追求等政治的な責任に期待し、究極的には選挙における国民の審判にゆだねる、という考え方をとるべきである(同旨野中他『憲法U』93頁)。少なくとも、求償権の行使を認めないとしつつ、国賠法の成立を認めるのは理論の飛躍というべきである。
それに対して、上記相対的免責説の場合には、当然国賠法がそのまま適用になると考えることができる。
なお、最高裁判例は、免責特権の憲法上の性格に関する言及を避け、国家賠償法上、公務員は被害者に対して個人責任を負わないことを根拠に、議員個人に対する請求を退け、また、在宅投票制度廃止事件最高裁判例に示された職務行為基準説を適用して国に対する請求を退ける、という形で、国家賠償法の解釈論のレベルで処理した。
四 刑事免責について
先に述べたとおり、イギリスにおいて免責特権が権利章典に定められた最大の原因は、議会における討論を反逆罪その他の刑事事件として取り上げられないことからの自由である。したがって、免責特権が刑事免責をもたらすことは当然のことである。
以下は、本問とは関係が無いく、したがって諸君は書く必要が無いが、重要な点なので説明しておく。
その問題は、議会内における免責特権の範囲はどこまでかという点にある。往々にして、討論と異なり、暴行等の行為は免責特権の対象とはならないとされる(例えば芦部信喜は「暴力行為はそれに含まれない」とする=第5版298頁参照)。
イギリスでは、先に紹介したとおり、1629年に庶民院議員エリオットが庶民院において行なつた発言等について王座裁判所で刑事責任を追求され有罪判決を受けたが、後に1668年に上院は右の判決を破棄した、という事件がある。その判決で貴族院は「仮に暴行が王座裁判所で審問されるべきものだとしても、議会における発言は議会外で審問されるべきでない」(Even if the assault was proper to be dealt with by the Court of Kings
Bench, the words spoken in Parliament could not be dealt with out of
Parliament.)と、述べた(事件の内容については注2参照)。
問題は、この「仮に(Even if)」という言葉をどう解釈するかにある。それを度外視するならば、暴行は常に王座裁判所で審問されるべきだと言うことになる。しかし、「仮に」が就いている結果として、暴行であったとしても、議会外で審問されるべきではない場合があることになる。
エリオット事件では、まさにその暴行と言える事態が存在したのである。すなわち、1629年3月2日、エリオットが発言を始めると、議長は下院を一週間停会するように王命を受けている旨を告げ、委員会の決議を表決に付することを拒絶した。そこで議場は混乱して騒然となり、議長が席を立つて議場を立ち去ろうとすると、ホーリス(Denzil Holles)等は議長の腕を掴えて議長席に引き戻し、エリオット決議を宣言する間議長の椅子に抱き留めていたのである*[3]。そして、貴族院はまさにこのホーレスの行為を、議会特権に含まれると判決したのである。
そこで問題は、免責特権に含まれる行為か、それとも刑事処罰の対象となる行為かについての判定権者は誰か、という問題がある。換言すれば、議場における暴行を処罰するには、議院による告訴・告発を要件とするか否かである。先に国会乱闘事件に関して示した東京地方裁判所判決は、判定権は裁判所にあるとした。しかし、学説的には批判が強い(例えば藤田晴子「議院の自律権」有斐閣刊、日本国憲法体系5巻参照)。暴行の事実がなかった場合にも、他権が院内事項に介入する道を開いてしまうからである。
議院証言法は、偽証罪について議院からの告発を要求している。これを類推するならば、院内における犯罪については、議院が告発しない限り、被疑者を逮捕し、あるいは起訴することはできないということになる。
五 国会議員の懲罰について
先に述べたとおり、免責特権の保護法益を議院の自律権と考える場合には、議院がその自律権の内容として、議員に対して懲罰権を有するのは当然であり、これは司法権の内在的制約に該当するので、司法審査権は及ばない、と解するべきことになる。
それに対して、議員個人に対する絶対的な保護制度と理解するときは、議員の自由を、その属する組織体が侵害する場合には、当然司法的保護が与えられるべきである。なぜなら先に紹介したとおり、絶対的保障の根拠が先に挙げた「政府が反対党員の言論をとらえて法的責任を追及する恐れ」というものにあるならば、議院内閣制をとる現行憲法の下では、政府与党による反対党に対する弾圧のおそれは、議院による懲罰の場合にも存在しているからである。したがって議院による懲罰からも免責を認めないと、理論としての整合性を欠くといわざるをえないことになる。
イギリスの場合、両議院に懲罰権があるのは当然であるとし、実際、過去において議会内における発言で懲罰された例が多々存在する*[4]。
六 地方自治体の場合
議員の議員としての活動に、民事、刑事の免責を与える必要は、地方自治体議会の場合にも同様に存在するというべきである。すなわち、議会における演説、討論または評決にあたって、個人の名誉を毀損するような発言等は当然に予想され、それに免責を与えない限り、議会制民主主義の健全な活動は期待できないという点では、国会であると、地方議会であるとを問わないからである。もちろん、憲法93条の特殊性から、地方議会には、憲法51条の持つ主要な効果、すなわちリコールの禁止を読むことはできないが、民事・刑事免責は、認められてしかるべきである。
民事免責については、先に述べた憲法17条の解釈から、当然に公務員個人の免責は導くことができる。
刑事免責については、民事責任さえ問われない場合に刑事責任の追及はあり得ないと一般論として述べることが可能であろう。さらに、地方自治の本旨を尊重する立場から、92条及び93条を根拠として、当然認められるべきであろう。すなわち、地方自治の本旨に該当する活動である限り、それに対して国家機関が干渉する行為は自治権の侵害というべきであり、司法権あるいは検察権も国家機関である以上、その活動という形式を通じた干渉もまた禁じられると説明すれば良いであろう。
この場合、ここで認められる免責特権の根拠が自治権にあることは明白であり、上記絶対的免責説を地方レベルで肯定するのはきわめて困難というべきであろう。が、相対的免責説に立つ場合には、自治体議会の自律に必要な限度で免責を認めるのであるから、その成立は当然認められる。すなわち、この点について明言する論者はいないが、絶対的免責説をとる場合には、国会と地方議会とで説を使い分ける他はないのではないか、と考える。
判例は、この問題についてはいわゆる部分社会の法理によって解決している。しかし、議院の自律権という概念の正体も、憲法上尊重するべき自治権を有する組織の内部自律の尊重なのであるから、部分社会論とその実質において差違はないというべきである。すなわち、諸君が部分社会論を否定する場合にも、肯定する場合にも、その実質的根拠として、上記のような92条からの展開を論ずる必要があると考える。
問題は本問のメインテーマである除名の場合である。国会の場合には、憲法58条が明言しているので、これについて司法審査権は、憲法訴訟論にいうところの内在的制約に抵触し、許されない、と考える点、特に問題はない。
これに対して、地方議会の場合、判例は、純然たる内部自律にとどまる場合には司法審査権は及ばないが(村議会議員出席停止処分事件=最大昭和35年10月19日=百選第5版414頁参照)、除名の場合には及ぶとしている(米内山事件=最大決昭和28年1月16日民集7巻1号12頁参照)。すなわち、身分そのものの得喪にかかわる場合は、自治権尊重の限界を超えている、とするのである。例えば、地方自治体職員の免職などに司法審査権が及ぶことに関して争いはなく、したがって諸君としてこれを支持して何ら問題はない。
ただ、私はこの判例に反対の意見を持っている。議員の地位は、究極的には選挙民の支持に立脚していることを考えると、除名の場合にも、選挙民の判断にゆだねるのが妥当であり、一律に議会の懲罰については、司法審査は及ばないと考えるのが、議会制民主主義の理念に照らし妥当と考える。
実際問題として、議員が除名された場合には直ちに補欠選挙が行われる(公職選挙法113条参照)。したがって、除名処分が司法審査の対象となると考えた場合、除名が無効と判決されると、同一の議席に対して除名された議員と補欠選挙で当選した議員の二人が存在することとなり、いずれが優越するかという解決困難な問題が生じてしまう。理論的に考えるならば、除名が無効であれば、補欠選挙そのものが無効なのだから、除名された議員が優先する、と考えることもできる。しかし、民主主義の理念に照らして考えるならば、最近時の選挙で当選したものと考えるべきであろう。その場合、結局、除名無効判決はその意義を失ってしまうはずである。
*[1] ハクセィ事件(Haxey's case )は、議会における討論の自由(the right to free speech
within Parliament)のリーディングケースとして知られる。1397年1月、ハクセィ(Sir
Thomas Haxey=庶民院議員ではない)は庶民院に請願を提出し、その中でリチャード2世の財政運営について論じた。王はこれを反逆罪とし、貴族院の裁判により死刑を宣告された。しかし、1399年にリチャード2世が崩御したことから、その後継者ヘンリー4世は特赦を実施し、さらに庶民院の請願により判決そのものが無効とされた。(F.W.メートランド『英国憲法史』明玄書房302頁以下参照)
*[2] エリオット事件(the case of Sir John Eliot):1628年に庶民院はチャールズ1世に対し、議会の同意無しでは課税などをしないという請願を提出した。王の財政が逼迫していたこと、貴族院もこの請願に同調する動きを見せたこと等から、チャールズ1世は一旦は承認し、請願は法律としての効力を持つに至った。しかし、その後、王は態度を変え、議会を解散し、長期にわたって召集しなくなると共に、エリオットやホーリス(Denzil Holles)等、議会の主要メンバーを「顕著なる侮辱と暴動の扇動」を理由として投獄した。1641年に長期議会が開かれると、庶民院はこれを特権の破壊であるとして抗議した。王と長期議会の紛争は、ついに清教徒革命に発展するが、さらに王政復古後の1667年、両院は一致して、エリオット等に対する判決は違法であつたと宣言した。そして、当時まだ存命していたホーリスが訴えを提起し、上院はその裁判権能に基づき王座裁判所の判決を覆した。(F.W.メートランド・399頁以下参照)。