司法権概念と「法律上の争訟」

甲斐素直

法律上の争訟について説明したうえ、法律上の争訟に当たらないとされる具体例を述べよ。(裁判所事務官試験問題)

[問題の所在]

 裁判所法31項は次の様に定めている。

裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。

 設問が聞いているのは、ここに出てくる「法律上の争訟」とは何を意味するか、ということである。端的に答えれば、これは司法権の定義である。だから、この定義に該当しない裁判所の活動は司法権の行使ではない。

(一) 法律とは関わりの無い争訟

 学問的争い、宗教上の争い、事実に関する争いなどは法律上の紛争ではないから、司法権には該当しない。例えば、板曼荼羅事件(最判昭和5647日=百選第5420頁参照)の解決は、司法権の行使ではないから、裁判所は判決を下さない。ここまでは理論的には何の問題も無い。

(二) 司法権とは?

 法律上の争いであれば、しかし、すべて司法権に該当するのだろうか? すなわち憲法の予定する司法権とはどのような概念なのか? それが本問の中心論点となる。

 日本国憲法は、41条で立法、65条で行政、76条で司法という用語を使用しているが、これら用語がどのような概念なのか、という点については全く定義をおいていない。立法については、諸君も知るとおり二重立法概念が存在するので、学者により、その外延をどこに求めるかについては説の対立があるが、基本的に争いはない。行政については、逆に現代行政国家活動の複雑さから、定義があきらめられ、消極的定義(対国民的な国家作用から立法と司法を除外したもの)が通説的地位を占めている。

 この結果、司法概念を確立しないと、行政概念も定まらないことになる。ところが、これは大変難しい。

 行政国家となる前の時代である明治憲法下において、美濃部達吉は、丸1頁以上も様々に検討した上で、行政と司法の間の実質的な差異を見いだしえないとして、両者の差異は形式面に求めるほかはないという結論を導き、「司法とは刑事、民事の裁判を意味す」と定義した(美濃部『憲法撮要』有斐閣昭和2年刊、478頁以下参照)。このように、行政と司法との本質的区別をあきらめ、歴史的に司法権に属するとされているものを司法権概念の内容とするのだ、という考え方なので、これを「歴史的概念説」という。この考え方は、今日においても基本的に妥当する。

 明治憲法では、行政裁判所が独立機関として存在していたから、司法裁判所の権限は、美濃部の定義に見られるとおり、刑事訴訟、民事訴訟の両裁判に限られていた。現行憲法では司法権はすべて裁判所に属することになった。だから、「司法とは刑事、民事及び行政事件の裁判を意味す」と定義すれば基本的に正しい。

 しかし、このように通常、裁判と呼ばれていたものがすべて裁判所に属することになったから、何とかこれら三つの裁判の共通要素を括りだして、それで司法権の概念を決定できないか、という考えが生まれてくる。

 ここまでは話が、まだ単純である。難しくなるのは、現行憲法の司法権にはもう一つの訴訟類型が存在していることによる。それは憲法訴訟である。そこで、憲法訴訟概念も司法権に含めるべきかどうか(つまり「司法とは刑事、民事、行政事件及び憲法訴訟を意味する」というべきかどうか)が問題となる。この点をめぐって激しい学説の対立が存在する。その結果、この問題は、旧司法試験においては3回も出題されている。

 最初は平成9年度司法試験で、次の問題が出ている。

 住民訴訟(地方自治法第242条の2)の規定は、憲法第76条第1項および裁判所法第3条第1項とどのような関係にあるかについて論ぜよ。

 また、条例が法律に違反することを理由として、住民は当該条例の無効確認の訴えを裁判所に提起できる旨の規定を法律で定めた場合についても論ぜよ。

 平成13年度司法試験では、次の問題が出ている。

下級裁判所の裁判権の行使に関し,「下級裁判所は,訴訟において,当該事件に適用される法令が憲法に違反すると認めるときは,その事件を最高裁判所に移送して, 当該法令の憲法適合性について最高裁判所の判断を求めなければならない。」という 趣旨の法律が制定された場合に生ずる憲法上の問題点について論ぜよ。

 平成14年度司法試験では、次の問題が出ている。

以下の各訴えについて、裁判所は司法権を行使することができるか。

1 国会で今制定されようとしているA法律は明らかに違憲であるとして、成立前に無効の宣言をするよう求める訴え。

2 B宗教の教義は明らかに憲法第13条の個人の尊重に反しているとして、その違憲確認を求めてC宗教の信徒らが提起した訴え。

3 自衛隊は憲法第9条に違反する無効な存在であるとして、国に対して、自己の納税分中自衛隊に支出した額の返還を請求する訴え。

 いずれも、本問と同一の論点の問題である。以下、順次説明したい。

一 戦後初期の判例・通説

 現行憲法初期においては、学説は、司法権に憲法訴訟が含まれるか否かについては、激しい対立を示していた。それにけりを付けたのは、最高裁判所の次の判決である。

「現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第81条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第98条の最高法規の規定又は第76条もしくは第99条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分抽出されうるのである。米国憲法においては、前記第81条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第81条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである」

(最大昭和2378日=百選第5432頁参照)

 この判決により、憲法訴訟も司法権に含まれるとされたのである。

 法律上の争訟に憲法訴訟が含まれるとすると、憲法訴訟には抽象的な法律紛争と、具体的な事件に付随して憲法判断が求められる具体的な法律紛争が存在する。最高裁判所は警察予備隊違憲訴訟判決で、次の様に述べた。

「わが現行の制度の下においては、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかような具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない。そして弁論の趣旨よりすれば、原告の請求は右に述べたような具体的な法律関係についての紛争に関するものでないことは明白である。従つて本訴訟は不適法であつて、かかる訴訟については最高裁判所のみならず如何なる下級裁判所も裁判権を有しない。」

(最大昭和27108日=百選第5428頁参照)

 これらの判決により、現行憲法下における初期の通説が確立した。

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法Ⅰ』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

 この判例に従えば、違憲審査権は、司法権に内在する権限であり、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随してその権限を行使することができるが、逆に司法権行使の要件を満たす事件・争訟がなければこの権限を行使することはできないことになる。それゆえ、この権限は、一般に「付随的違憲審査権」と呼ばれている。

 この考え方に従う限り、司法権概念の発動として行われる訴訟で無い限り、裁判所は憲法判断をすることはできない。すなわち、先に示したとおり、裁判所法3条において、裁判所の権限は「法律上の争訟」と、「その他法律において特に定める権限」の二つがあるが、後者の場合には憲法判断を下すことは許されない。

さて、問題は、このように定義を下す理由である。定義は、常に理由がある。そして、判例には法源性がないから、最高裁判所が上記判決を下した、というのは理由にはならない。学者としては(そして、諸君の論文においても)、判例の存在以外の所から理由を求めねばならないのである。

 清宮は、次のように説明する。

「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスや米国の制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

 つまり、米国法を継受したことが理由だというのである。では、米国法ではなぜその様な定義ができたのだろうか。実は、日本国憲法と違って、米国連邦憲法には司法権に関する限定的な規定が存在する。32節である。

「合衆国の司法権はつぎの諸事件に及ぶ。この憲法、合衆国の法律および合衆国の権限にもとづき締結された、または将来締結される条約のもとで発生するコモン・ロー上およびエクイティ上のすべての事件。大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件。海事法および海事裁判権に関するすべての事件。合衆国が当事者の一方である争訟2 以上の州の間の争訟。異なる州の市民間の争訟。同じ州の市民間の争訟であって、異なる州から付与された土地の権利を主張する争訟1 州またはその市民と外国またはその市民もしくは臣民との間の争訟。」

 この条文で、末尾の言葉が「事件又は争訟(case or controversy)」になっていることに気がつくと思う。この語の解釈を通じて、米国法では司法権概念が成立したのである。

よって決せられることを明文で保障しているところに由来している。

二 米国法の変遷とわが国への影響

(一) 総説

 米国法が、わが国が米国法を継受した当時から今日まで変化しなければ、前節に述べたところで何の問題も無い。

 困ったことに、米国においても、この概念は確固不動のものではなく、時代によりかなりの変遷を示している。その変遷状況を、簡単に紹介すると次の様になる。

1910年代の米国最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。

 もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。

 司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」

(阪本昌成『憲法理論Ⅰ』補訂第3版、成文堂2000年刊393頁より引用)

 用語が少し違うので判りにくいと思うが、第一に、先に紹介した司法権の定義が米国で認められていたのは1910年から1970年くらいまでだと言うことである。そして、その後においては、今日までの間に2回も司法権概念が変動している、というのである。

 最後にでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理の名前で諸君が、憲法訴訟論の中で学ぶことになる要件のことである。つまり、今日の憲法訴訟論は、そもそも古典的な司法権概念が成り立たないことを前提に、理論体系が作られているのである。

(二) 客観訴訟の導入と司法権概念への影響

 通説の代表的主張というべき清宮の教科書の初版が刊行されたのが昭和32年(1957年)であるから、当然のこととして通説・判例による米国法の継受による司法概念には、70年代以降における米国判例法の変化というものは反映されていない。

 しかし、上記の通り、米国法における司法権概念は変化したのであるから、もはや先の理由付け(米国法の継受)ということは言うことができない。つまり、通説は、その大切な理論的根拠を失ってしまったのである。

 ここで主観訴訟と客観訴訟という言葉について説明しておく必要がある。主観訴訟とは、簡単に言えば先に挙げた司法権の定義そのものである。訴訟の当事者の個人的な利害に関わる訴訟といっても良い。それに対し、客観訴訟とは、そのような個人の権利利益の保護を目的とするのではなく、客観的な法秩序の適正維持を目的とする訴訟のことである。

 問題は、米国で積極的に客観訴訟の承認が行われ、それが様々な分野でわが国法制度に影響を与えた、という点にある。例えば、平成14年度問題の小問3に示されている納税者訴訟は、米国で発達した訴訟類型で、納税者としての資格に基づいて、国や地方公共団体の財政運営について訴えを提起できるという訴訟類型である。わが国では、この訴訟形式そのものの継受は行われなかったが、それに代わるものとして導入されたのが、地方自治法242条の2に定められた住民訴訟である。平成9年司法試験問題が取り上げているのは、この問題である。

 当然のことながら、この住民訴訟に代表される客観訴訟については、具体的争訟とはいえないから、先の司法権概念をそのまま維持する限り、司法権の行使ではなく、「その他法律において特に定める権限」ということになってしまう。したがって、前節に紹介した通説・判例にしたがう限り、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。しかし、現実の憲法訴訟において、客観訴訟が占めている重要性を考えると、これは戦後憲法訴訟史を否定するに等しい。

 こうして、この問題を解決するために、今日では、様々な学説の対立が生じてくることになる。議論の方法としては、大きく三つの方法を考えることができる。

 第1は、司法権の定義そのものは従来のまま維持する。ただし、憲法訴訟の根拠は76条ではなく、81条により与えられた権限であるので、「その他法律において特に定める権限」に関しても違憲審査権を行使することは可能である、とする論理である。

 第2は、司法権概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を含むようにする一方で、違憲審査権は76条の司法権に含まれる、という点は修正せずに維持することである。

 ここでは、さらに大きく二つの方法を考えることができる。その1は、具体的事件性という言葉を維持しつつ、「具体的」という概念について、主観訴訟よりも拡張して、客観訴訟を含みうるようにすることである(要件緩和説)。その2は、具体的事件性という概念それ自体を放棄して、新たな概念を中核に私法概念そのものを構築し直すという方法である(要件除去説)。

 第3は、司法権概念を見直すということに加えて、さらに、違憲審査権の根拠としても、76条ではなく、81条とする、というように、司法権、違憲審査権の二つ共を、かつての通説・判例から修正していく方法である。

 現実に、学界を見れば、そのいずれの学説も存在している。したがって、諸君としては、これらの方法のうち、どれがもっとも諸君の感性に合致するかを考えて、この点に関する自説を確立しておくことが大切である。特に、例えば芦部説のように、この点について沈黙している基本書を採用している場合には、これは重要な作業となる。

三 近時の代表的学説の対応

(一) 法原理機関説

 佐藤幸治は第1の立場の代表ともいうべき説を唱える。先に指摘したとおり、従来の司法権概念を維持する場合にも、清宮のいうように、米国法を継受したから、という理由はもはや使用できない。なぜなら、今日では、米国判例法自体が変化してしまっているからである。したがって、この第1の立場を維持するためには、米国法とは無関係な独自の理由から、結果として従来の通説と同じ定義を導かねばならない。佐藤が、その独自の理由として案出したのが「法原理機関」という概念である。次のように説く

「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。)

 このように具体的事件性を把握する場合には、従来の通説・判例と同じく、主観的当事者訴訟だけが司法権の行使として許容されることになる。では問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

 つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、①付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、②その決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。

 ここまでの議論で、客観訴訟は『その他法律において特に定める権限』として認められるのであって、決して、76条の司法権に含まれる訳ではないことがはっきりした。したがって、違憲審査権を行使するためには、憲法訴訟は76条の司法権の内容ではなく、81条という特別規定に基づく権限と解する立場をとっていると理解すべきである。ここから、佐藤説は、さらに違憲判決の効力に関し、81条の解釈としての法律委任説というものに展開していくことになる。すなわち、憲法訴訟が、76条に含まれている場合には、付随的憲法訴訟となるから、その判決の効力も個別的効力説を採るべきである。しかし、81条を根拠とする結果、それに縛られる必要が無く、法律で、個別的効力を採るか、一般的効力を採るかを決定できるとするのである。

(二) 公権的裁定説

 浦部法穂は、第二の、司法権概念そのものの拡大を行う立場のうち、その1とした説の一つの典型である。浦部は、司法権概念については、かつての米国判例ではなく、納税者訴訟等を承認した以降の米国判例が採用する概念を基本的に採用していると見ることができる。しかし、佐藤がもはや米国継受法を根拠として使用できない以上に、浦部として継受法であるという主張はできない。そこで、佐藤と同様に、司法権とは本質的に何か、という議論を展開することで、その点を説明しようとする。ただ、佐藤が、およそ司法というものの本質から説き起こしたのに対し、浦部は、次の通り、国家権力の一翼として存在する司法の概念を考えるために、結論の差異が生ずる

「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」(『憲法学教室』全訂第2版、日本評論社2006年刊323頁以下より引用。なお参照『注釈憲法』761項=浦部法穂執筆部分)。

 このように、公権的裁定の必要の有無が事件性を決定することになれば、その裁定の必要がある種類の事件か否かは、立法裁量の対象となる、と考えることが可能である。しかし、そこで、個別的事件性という点が歯止めとなると考えることになる。浦部法穂に依れば、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。

「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」

 この立場に依る場合には、客観訴訟は現実に法的に解決しうる紛争が存在している、という点において具体的事件性を充足しており、合憲と解される。そして、警察予備隊判決の採用した76条から違憲審査権を導く立場は、そのまま維持しうることになる。

(三) 法の支配説

 高橋和之は、第二の司法権概念を修正する説のうち、その2の、具体性という部分を捨てる、という立場のひとつの典型である(「司法権の観念」樋口陽一編『講座憲法学』第6巻、日本評論社1995年刊13頁以降参照)。

 高橋によれば、司法とは、『適法な提訴を待って、法律の解釈・適用に関する争いを、適切な手続の下に、終局的に裁定する作用』をいうものとする。なぜこのような定義を導けるのかについては、かなり話が複雑なので、原典を参照してほしい。この定義は、かつての通説とよく似ているが、具体的事件性という言葉が欠けている点で決定的に異なっていることは判るであろう。この欠落を、高橋は、米国法の部分的継受という形で、次のように説明する。

「従来、司法の定義には事件性の要件が不可欠のものと考えられてきた。その理由として指摘されてきたものには二つがある。一つは、日本国憲法の司法概念が米国合衆国憲法の影響を受けているという理由である。この説明は、米国の司法概念が事件性を不可欠の要素としていることを当然の前提にしている。しかし、この前提はそれほど自明ではない。米国合衆国憲法は、31項で『合衆国の司法権は、一つの最高裁判所、および議会が随時制定・設立する下級裁判所に属する』と規定し、2項で『司法権は、…事件(Cases)、及び、…争訟(Controversies)に及ぶ(extent to)』と定めている。これを日本国憲法と比べてみると、1項は日本国憲法761項とほとんど同じ規定であることがわかる。ところが、日本国憲法には、2項に該当する規定がない。このために、日本国憲法の司法権が米国合衆国のそれと同じだと主張する論者は、2項の内容を日本国憲法761頃の司法権概念の中に読み込んできたのである。しかし、米国合衆国憲法では31項と2項は別個の規定として存在しており、ゆえに、2項の内容は1項の司法権概念の内容とはなっていない。かりに司法概念が、日本の論者の言うように、事件性の要件を含んでいるとすれば、2項はまったく無意味な規定ということになろう。むしろ、2項を素直に読めば、事件・争訟の要件は司法権の及ぶ対象を定めるものと解すべきではなかろうか。そうだとすると、米国合衆国憲法31項および日本国憲法761項の司法権は、その概念内容としては事件性の要件を含んではおらず、したがって、司法権がいかなる対象に及ぶかは、合衆国憲法32項に対応する規定を欠く日本国憲法においては、別途検討する必要があるということになろう。」

 しかし、このことは事件性という要件を不要と考えていることではない。

「付随審査制においては『事件』の存在が前提となるということになる。しかし、ここにいう『事件』とは具体的事件に限定されない。司法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象的』事件でもかまわない。たとえば、行政法学上民衆訴訟、客観訴訟と呼ばれている訴訟も含まれる。それらの『事件』の解決に付随して必要な限度で違憲審査をするのが付随審査制である。実際、日本の違憲審査制はこのような理解で運用されてきている。ゆえに、日本の違憲審査制が司法審査型であることは、司法の概念が事件性の要件を含まねばならない根拠とはならないのである。」

 この定義においては、司法権が受動的な権力であることが重視される。そこでは、活動の前提として提訴権を考えねばならない。では、その提訴権はどこから生ずるのか。すなわち、訴訟はいかなる場合に提起することが認められるのか。その点については、憲法32条の裁判を受ける権利であると主張する。すると、ここからさらに提訴権が認められるのは、裁判を受ける権利が認められる場合に限定されるかどうか、という問題が導かれる。この点についても、議論が複雑なので、原典を参照してほしい。とにかく、こうして、32条をベースにして、独自の司法権概念を構築している点に、高橋の大きな特徴があることが理解できるであろう。

(四) ドイツ憲法説

 先に、戦前のわが国学説が大陸法を継受していたのに対して、戦後現行憲法が米国法を継受したところから、戦後の学説が出発した、と述べた。しかし、現在のドイツボン基本法では、憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会の各裁判権をすべて司法として一元的にとらえ、それぞれについて最高裁判所を設置するという形式を採用している。その意味で、裁判所に司法権(Rechtsprechung)が一元的に帰属する観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。そして、ドイツの憲法裁判所は、抽象的な違憲審査権を持っているのであるから、ドイツにおける司法権概念が、具体的事件性というような言葉を含んでいるわけはない。

 実際に、ドイツ憲法学を見ると、司法権は一般に「法に関する紛争又はその侵害があった場合に、特別の手続きによって、有権的な、したがって拘束力ある判断を下す職務」と理解されている。

 日本国憲法76条は、司法権の定義をいかなる形でも有していないのであるから、その解釈としてドイツ憲法的な司法権概念を採用することも、日本国憲法における根拠をきちんと説明でき、かつ、発生する問題のすべてを破綻なく説明できる限り、立派に学説として成り立つはずである。

 私の知る限り、わが国でこの立場を明確に宣言している学者はいない。しかし、戸波江二の説は、非常にこれに近いものと思われる。

 なぜなら、第一に、司法権の概念を紹介するにあたり、米国法への言及をすることなく、「一般に、具体的な紛争について法を適用して裁定する作用をいうと解されている」と述べているにとどまる(『憲法』新版、ぎょうせい、平成12年刊、427頁より引用。以下の引用もこれに続く部分である)。この”一般に・・解されている”という述べ方は、学者が自説ではない説が通説である場合によく使う言い回しである。第二に、次に述べるように、明確に事件性の要件を否定しているのである。

 すなわち、客観訴訟に関しては、次のように述べている。

「なぜ事件性が司法権の本質的要素とされるのかという問題について、理論的な根拠を提示する学説もある。それによれば、紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって主張を行い、公平な裁判所が法に従って判断を下すという構造こそが司法権にふさわしいものであると説かれる。たしかに、近代の裁判はそのような訴訟構造を前提として発展してきており、歴史的にみて司法権は事件性を前提にしているということができる。しかし、問題はそのような訴訟構造の枠を超えた事件を裁判所が審理判断することができないかどうかである。そして、客観訴訟が法律で定められ、『念のため』判決のように訴訟要件を欠く訴訟で実体判断がなされていることなどを考慮すれば、事件性の要件、は、例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。すなわち、事件性の要件は、事件性の要件をみたさない訴えを裁判所が拒否するための正当化理由となるが、逆に、裁判所が事件性を欠く訴えについて個別的に審理・判断したり、法律が事件性の要件を欠く訴訟を定めたりしたとしても、それらの事件を裁判所が審理・担当すべき十分な理由がある場合には、『司法』権を裁判所に属せしめた憲法76条に反することにはならないと解される。事件性の要件を欠く訴訟のうちで、どのようなものを裁判所の審理の対象とすることができるかは、法を適用して紛争を解決するという司法にふさわしいかどうかによって判断されよう。」

 冒頭で批判されているのは法原理機関説であるから、それを採らないということははっきりしている。その理由として説かれているのは、理論的根拠というより、現実に採用されている客観訴訟の存在それ自体である。そして、それが事件性の要件を満たしていない、と考えているのであるから、浦部法穂説や高橋説のような意味での事件性拡張説を採用していないこともはっきりしている。したがって、事件性を司法権の要件とはしていないのである。その結果、最初の定義の後半である「法を適用して紛争を解決する」という部分だけが、司法の本質に関する定義と考えていることになる。結局これは、ドイツ流の、法に関する紛争に対して終局的拘束力ある判断を下すのが司法だ、とする捉え方と同一のものと考えられるからである。

 要するに、戸波説の特徴は、裁判所としては、事件性を楯にして拒絶することもできるが、裁判所として審理するべき十分な理由さえあれば、特別法がない場合にも、そうした事件について「個別的に審理・判断」できるという点にある。だから、かつての通説・判例が言っていた事件性を欠いている事例でも、裁判所の判断次第というのが答えになる。

 このように司法権概念を修正して客観訴訟を含みうるようにした以上、違憲審査権の根拠は76条だとする、従来の判例・通説を支持しても、理論的には破綻せずに、議論展開が可能である。この段階において、戸波は、81条説を採用する。その理由は、76条説による限り、違憲判決についても、通常の判決と同一の個別的効力説を採用するという結論が導かれてしまうからである。しかし、違憲判決の効力に、一定の限度で対社会的効力を認めるべきは、理論の必然である。そこで、戸波は、一般的効力か個別的効力かという議論とは別に違憲判決の効果論という形で論ずるべきだとする。結論的には、法律委任説を採り、そうした法律がない現状としては、違憲判決に法律を法令集から除去する効力はないが、他の国家機関は最高裁の判決に対しては、それに従って対処すべき法的義務を負い、特に国会がそれを改廃しないことは、立法の不作為になるとする(戸波・前掲書395頁参照)。

[おわりに]

 以上に紹介した学説は、悉皆的なものでは無い。単に、冒頭で紹介したあり得る学説の各類型における典型例を紹介したものに過ぎない。これ以外にも、米国の現行司法権概念をそのまま継受しようと主張する説や欧米の哲学者の説を根拠に主張する説など、様々なものが存在している。

 ここに紹介したどの説によっても、津市地鎮祭判決や衆議院議員定数不均衡判決が、警察予備隊判決を修正した、と無矛盾的に説明できる。だから、諸君は、どれかを採用してくれればよい。

 諸君が、自らの感覚を基準に受け入れやすい説を、時間をかけて正確に理解し、論文を書けるようにしておこう。間違っても、本講のように、各学説を総花的に紹介する論文は書いてはいけない。