平等権の審査基準

                                  甲斐素直

 問題

 法の下の平等について説明したうえ、平等原則違反の違憲審査基準について論ぜよ。

(裁判所事務官試験問題)

[はじめに] 

 これは非常に親切な設問である。問題としては、私が表題に掲げたように「平等権の審査基準について論ぜよ」と出題した場合と、書くべき事はまったく変わらない。すなわち、第一に、平等権というのは実は権利ではなく、平等原則のことであるとまず論じ、第二にその事を前提とした上で、その場合の審査基準を論じなければならないことに違いは無いからである。

 つまり、この問題は、わずか1行の中に、答案構成の仕方までちゃんと教えてくれている、という信じられないほど、親切な問題なのである。諸君としては、この親切さを直ちに感じ取れる程度の勉強をしていることが、裁判所事務官試験では、求められている、ということである。

一 平等権と平等原則

(一) 問題の所在

 外国人の母と日本人の父の間に生まれた非嫡出子の日本国籍取得問題に関する最高裁判所判決(平成2064日判決)は、平等権に関して次のように述べている。

「国籍の得喪に関する法律の要件における区別が,憲法141項に違反するかどうかは,その区別が合理的な根拠に基づくものということができるかどうかによって判断すべきである。なぜなら,この規定は,法の下の平等を定めているが,絶対的平等を保障したものではなく,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって,法的取扱いにおける区別が合理的な根拠に基づくものである限り,何らこの規定に違反するものではないからである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39527日大法廷判決・民集184676頁,最高裁平成3年(ク)第143号同775日大法廷決定・民集4971789頁)。」

 平等権が問題になる事件の場合には、このように昭和39年という恐ろしく古い判例を引用して、簡略に(つまり理由付けを手抜きして)述べるのが、最高裁判決の標準的なパターンとなっている。なお、今一つ引用されているのは、非嫡出子相続分平成7年判決である。

 しかし、最高裁判例が、このように手抜きをして述べているからといって、諸君が同じように手抜きをして、このような粗雑な記述をして良い、ということにはならない。学生の答案としては、これはれっきとした落第答案である。

 なぜ「絶対的平等を保障したものではなく,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のもの」と言えるのか、この段階からきちんと理由を挙げて論じていかなければならない。これは学説の分かれのあるところなので、れっきとした論点なのである。

(二) 平等権の法的性格

 君たちとして、平等権が問題になる事例で、最初に論じなければならないのは、冒頭に述べたとおり、平等権とは、人権か否か、という問題である。何を馬鹿な、人権に決まっているじゃないか、と思う人が多いだろうが、実は、今日の通説は、平等権は人権ではない、と考えており、人権だとするのは少数異説にとどまるのである。そして、その少数異説こそが、最高裁判所が理由も無く、切って捨てている「絶対的平等を保障したもの」と主張する説なのである。

 なぜなら、人権とは、他者との比較無しに、その権利の侵害を考えることができるものだからである。例えば、私が学問の自由を侵害された、という事件が起きたとしよう。その場合、私の人権が侵害されたかどうかを判断するために、他の教員の学問の自由が侵害されているかどうかを検討する必要はない。その様に、人権という概念には常に絶対性が伴っている。問題となっているのが表現の自由であれ、営業の自由であれ、その人権の被侵害者だけを検討すれば、人権侵害があったかどうかを判断可能なのが人権である。

 ここまで説明すると、なるほど、平等権は人権ではなさそうだ、ということが判ると思う。他の人と比較しないと、それが侵害されたかどうかは判らないからである。

 では、平等権の正体は何なのだろうか。平等原則だ、と考えるのが、今日の通説なのである(例えば芦部信喜『憲法』第5128頁は「平等原則」と柱書きしている)。それでは、平等原則とは何だろうか。

 それを説明するためには、諸君に、法学の講義を思い出して貰う必要がある。法学で、法の目的は正義だ、と習ったはずである。

 その法的正義は、第一の段階では遵法的正義、すなわち法に従うことが正義だ、という形で述べられる。ソクラテスが、自らの命を賭して守った正義がこれである。

 しかし、それを止揚しようとして説かれる第二段階の正義では、公法と私法に分けて論じられる。公法における正義を配分的正義といい、私法における正義を交換的正義という。第一段階で述べていた法とは、実は、こうした正義に適った法だけを言う、と考える。憲法は公法に属するから、憲法を支配している正義は配分的正義ということになる。

 配分的正義の内容は次の法諺で示される。

「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」

 これを読めば、これは平等権を端的に述べているな、と気がつくと思う。その通り、平等権とは、実は、公法すべてを支配する配分的正義の概念がむき出しに現れているだけなのである。

 諸君は、憲法13条の幸福追求権を包括的基本権、すなわちあらゆる人権を包括する概念だと言うことを知っている。14条も同じく包括的基本権であるが、13条よりさらに以前の、人々の意識が、まだそれを人権というレベルに達していない場合に、それを配分的正義の原則に従って解決するための規定だ、と理解することができる。だから、何かの人権が成立する場合には平等権を論じる必要はない。これを平等権の補充性という。

 換言すれば、あらゆる人権は配分的正義の具体化である。先に私の学問の自由が侵害された、という例を挙げた。学問の自由は配分的正義のこの場面における具体化である。だから、仮に、23条がなければ、我々はその内容を21条から読むことができる。仮に21条もなければ13条の幸福追求権の一環として読むことができる。しかし、13条さえもなければ、我々は、それを平等原則から読めるのである。すなわち、私の学問の自由だけが侵害され、他の教授の自由が侵害されていないということから、その教授との比較において、私は平等権を侵害されたと論じることで、救済を図ることができる。

 このようなことは、すべての人権についていうことができる。それが平等権の性質だからだ。したがって、平等権侵害は、13条も含めて、何か人権を考えることができる場合には、議論する必要がないのである。

 今、ここでは、諸君に直感的に理解して貰うために、平等権は相対的権利だから、人権ではない、という逆方向の説明の仕方をした。しかし、もちろんこれは憲法論的には間違った議論の仕方である。法学で法段階説を習ったから判っていると思うが、法律学において、理由は常に上の段階から来る。

 だから、平等権の場合にも、まず、その本質は平等原則に他ならない、と論じ、その論理的帰結として、したがって相対的平等と解するべきだ、と論じていかねばならないのである。すなわち、平等権は、常に他者との比較においてのみ成り立つものであり、したがって実体的な権利性を持たない。そこで、平等権はそれ自体としては無内容(あるいは無定型)であり、単一の権利概念としては成り立たないから、憲法14条は端的に平等原則を定めたものと解しておけば足りると考えるのである。権利ではなく、関わり合いのある権利・利益に対する規制の不合理さをいっているに過ぎないからこそ、他者との比較で不合理である(相対的平等)、という主張が可能になる。

 これに対して、平等権という権利を保障したものだと考える少数説(少数説にたつ代表的な論文として、川添利幸「平等原則と平等権」公法研究451頁=1983年)がある。平等「権」と理解した場合には、権利である以上、当然に他者との比較を抜きにした絶対的な平等が導かれる。それに対し、平等を「権利」ではなく、「原則」と理解していると、相対的平等という重要な概念が導かれることになる。

*      *      *

 なお、ここで書かなくても良いことを幾つか整理しておく。

 第一に、立法者拘束説というのが、受験予備校の模範答案では、わざわざ言及している例が非常に多い。しかし、その必要はまったく無い。

 これは過去の亡霊である。正確にいうと現行憲法初期の佐々木惣一の説で、その後はほとんど論者がいない。これはワイマール憲法の少数説に基づいている。

 ワイマールでは「法律の前の平等Gleichheit vor dem Gesetz」と規定した。ここで法律という訳を当てているのは、ドイツ語で権利ないし法はRechtといい、法律をGesetzというからである。少数説はこの文言解釈として法律の適用における平等という解釈を引き出した訳である。しかし文言解釈でも、法律という語の中に憲法を含めれば立法者を制約するという解釈は当然出てくるはずなので、基本的に無理があり、ワイマール終期には採る人はいなかった。現基本法も同じ言葉であるが、その解釈では当然に立法者も拘束すると読まれている。

 佐々木惣一は、この過去の外国の少数説を根拠に14条を解釈する。それによると前段「すべて国民は法の下に平等であって」までで切って、これが法律の適用における平等権を保障している、と読む。後段の人種、信条以下の部分は、生活規制無差別の権利という平等権とは別の権利で、こちらの方は立法者も規制する権利と解釈する。後段は当然限定列挙と読む必要がある。この解釈の利点は、いずれの権利も絶対的無制約のものとできるという点である(佐々木「憲法学文選一」有斐閣31年刊、参照)。極めて技巧的な点、後段をよほど限定解釈しないと実質的な不合理が発生する点等、非常に問題の多い説なのである。

 以上から判ってもらえたと思うが、君たちが普通に平等権として意識している内容を論じているのは、佐々木説の場合、生活規制無差別の権利ということになる。そして、この権利に関する限り、佐々木説も立法権も含めてすべての国家権力を規制することを肯定している。すなわち、わが国に、社会的身分の差別などに関して、立法権を拘束しないという説は、現在はもちろん過去においても存在したことはないのである。貴重な行数を費やしてありもしない説に対する反論を書く必要は、したがって全くないのである。

 もちろん、論じても直接的な実害はないが、その分、論述時間が失われる。つまり、より点を与えられる論点に触れる時間がなくなるという意味で、それを論じる暇があれば、その分、少しでも点になる論点に関し、時間を投入する努力をした方がよい。

 第二に、平等概念は、その依って立つ基本原則に応じて、幾つかの分類がある。すなわち自由主義に基づく平等概念は「形式的平等」「機会の平等」または「機械的平等」とも呼ばれ、各人に平等の機会を与えることを要求するが、それ以上の国の介入を禁じる。福祉主義に基づく平等概念は「実質的平等」「条件の平等」または「結果の平等」と呼ばれ、各人の知的、経済的、社会的能力等を考慮し、それらの点でハンディのある人を国が支えることにより、すべての人が実質的に等しく扱われるように配慮する義務を国に課するものである。14条の平等概念が、両者を含むものであるか否かについては争いがある。形式的平等に限ると解釈した場合には、実質的平等は25条で読む(すなわちそれは社会権を通じて実現される)から、どちらに考えても効果の差異はない。古典的な意味の平等概念は形式的平等に限るものであったこと、14条の「法の下の平等」という言い方はその系譜を受け継ぐものであること、等を考え合わせると、14条は形式的意味の平等だけを意味するものだ、と考える方が無難という考え方もある。

 これに対し、14条は福祉主義を知る現行憲法を前提として作られていること、自由権と社会権とが相対化していること等から、積極的に読む方が正しいと思われる。事実、多数説であろう。

 しかし、この対立は、本問の結論に何の影響も与えないから、書く必要はない。

二 14条の審査基準

(一) 141項後段列挙事項について

 前節に論じたように、平等権の本質を原則であり、相対的平等であると理解した場合には、合憲の場合と違憲の場合をどのような基準で区別するか、という深刻な問題が発生する。特に問題となるのは、141項後段に列挙されている事項に、訴訟法上、何か特別の意味があるか否かである。この点を巡っては、非常に多くの学説が対立している。したがって、平等権を巡る問題では、常に最大の論点である。

  1 単純例示説

 最高裁判所は、先に引用した部分で説明した昭和39年判決で、次のように述べた。

「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」

 以来、今日まで、この点も判例として引き継がれている。この説は、おそらく、今日でも、学説的にも通説であるといって良い。この説をとった場合には、単なる例示だから、本問が、その例示のどれに該当するかを議論する必要は全くない。ところが、ある程度勉強をしていると、非嫡出子は社会的身分に該当するとか、門地に該当するとかいう議論をしたくなる。しかし、この説を採用している場合には、そもそもそれは論点にならないから、その段階で立論としては破綻していることになる。

  2 14条後段特別意味説

 先に言及した佐々木説は、14条前段と後段とで、実体法的なレベルで意味が変わると主張していた。ここに紹介するのは、同じように、後段に特別の意味があるとする点ではよく似ているが、佐々木説と違って、訴訟法的なレベルで特別の意味があるとする説である。すなわち、14条後段は、例示であることは確かだが、単なる例示ではなく、審査基準論のレベルで、前段とは異なる特別の意味がある、という主張のことである。

 ロースクールで教えていると、この説が絶対的に正しいものと機械的に考えている学生が多く、まるで神のお告げであるかのように、全く理由も挙げずに主張する例にしばしばぶつかる。しかし、少なくとも、判例に対立する考え方なのであるから、この説を採る理由を示すことなく展開する場合には、落第評価を与えられることになる。

 この説のやっかいなところは、学者により、かなり説明が違うことである。以下、代表的な例を示したい。

  (1) その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。

「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また違憲を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第3版、249頁)

 この主張は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。確かに精神的自由権に関しては、特に思想や信条に関しては、民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、先に述べたように、自由主義や民主主義の前提となる配分的正義の理念であるから、その内容を補填する実質的正義はどれも問題となりうるのであって、民主主義的な当否だけが平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。また芦部信喜は「民主主義ないし個人主義の理念」(第5130頁)と述べて、比較的近いがそれでも個人主義を追加している点で違っている。しかし、民主主義は個人主義から導かれる理念であるから、両者を同列に取り扱うこの記述はおかしい。

  (2) そこで、より平等権に密着した理由が求められた。例えば、浦部法穂は次のように主張する。

「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」

(浦部『憲法学教室』全訂第2109頁)

 もっとも、この説については、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判する。そこで、松井茂記自身は次のような理由を挙げる。

「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」

(松井『日本国憲法』第2版、367頁)。

 この問題に関する学説をこれ以上紹介しても、煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。諸君としては、自分の基本書と相談しつつ、適当と思われる自分なりの理由を確立して、何時でもさっと論じられるようにしておいて欲しい。

  (3) ここで大事なことは、その理由と、本問の論点である中心論点とが結びついていないと、わざわざ特別意味説を展開する必要が失われる、ということである。

 例えば戸波江二は、本文には単に「不合理な差別の典型を列挙した」(戸波江二『憲法』新版、195頁)という程度に述べて、なぜこれが不合理なのかについての基準を挙げていない。その場合でも、そのあとで、「収入」という概念を例に挙げて、それに基づく納税における差別は合理的な差別で、デモ行進における差別は不合理な差別だ、と説明している。だから、戸波説をとる場合には、「不合理な差別の典型を列挙した」とだけ書いたのでは合格ラインには届かないのである。それぞれの事例問題においては、列挙事項のどれに抵触するのかを述べるとともに、なぜそれが不合理の典型なのか、という理由を事案に沿って挙げる必要があるのである。

 また、列挙事項のどれにはいるのか、ということも重要な論点である。諸君の答案では、先に触れたように、社会的身分に入るとする人が多かったが、そのほか、学説としては、門地や人種になるとする説も強い。

 つまり、後天的に得たものを社会的身分といえば(例えば、警報における身分犯の典型が公務員という身分とするのはその典型)、先天的なものは門地という概念に入ると理解できる。

 また、人種差別撤廃条約1条は、人種差別を次の様に定義している。

「この条約において、『人種差別』とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。」

 このうち、世系とは祖先から代々受け継いだ血統などをいうと解されるから、典型的には白人系とか黄色人種系という意味だが、親が婚姻していないという事から受け継いだ差別である非嫡出子もこれに含まれるという事ができる。

 どの説を採るにせよ、列挙事項に入るか否かで大きく結論が変わるという前提なのであるから、これは特別意味説を採用していることは明らかなのに、それについての議論もなければ、それぞれの概念に属する理由もなく、一方的に決めつけるだけなのである。そのような神のお告げ論文を書いている限り、君たちに明日は来ない。

(二) 平等原則にかかる審査基準

 上記のように、根拠においてばらつきがあるだけではなく、審査基準も、これらの説はばらついている。以下、代表例を示したい。

  1 単純例示説の審査基準

 14条後段列挙事由が単なる例示と考えた場合の審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。例えば、非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。

「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法141項に反するものということはできないというべきである。」

 この例は、結果として合憲と述べているが、例えば尊属殺人判決や薬局距離制限判決など、結果と指定権と述べている判例でも、同じ審査基準を使用していることに変わりは無く、ただ著しい不合理を認定しているだけである。

 これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の説を採用している。

① 精神的自由権に関連した差別については、厳格な審査基準を適用する。

② 経済的自由権に関連した差別については、狭義の合理性基準を適用する。

そのどちらにも属さない一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。

 このように、中間領域が出現するために、二重の基準の論理が、この場合には三重の基準として現れる点に特徴がある。

 下級審判例の実例としては、例えば、非嫡出子相続分に関する東京高裁平成5623日判決がある。

「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、242項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」*

 非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。このように、下級審の判事が常に最高裁判決に盲従しているわけではないことは、留意しておいてほしい。

  2 141項後段特別意味説の審査基準

 その場合には、学説の多様性に対応して、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195196頁参照)。

  ① 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準

  ② 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準

  ③ 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準

 これに対し、芦部信喜は次のような基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学Ⅲ 人権各論(1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。

① 人種や門地による差別=厳格な審査基準(27頁)

② 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(30頁)

③ 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(29頁)

 これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。

 戸波江二説の場合、例示のどれかに該当すれば一律に厳格な審査基準になるから、非嫡出子がどれに該当すると解釈するかはそう深刻な問題にはならない。それに対し、芦部信喜説の場合、非嫡出子を人種や門地と解釈した場合には、厳格な審査基準となり、社会的身分と解釈した場合には厳格な合理性基準という、大きな差を示すことになる。

だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。

 列挙事項に該当する、よって…という式に全く理由を示すことなく、審査基準を導く例をかなり勉強している学生でもする事が多い。しかし、そんな立論ではまったく評価できないことは理解してもらえたであろうか。