憲法裁判としての判決のあるべき効力

甲斐素直

 問題

 民事訴訟法学の泰斗、兼子一は、違憲判決の効力について、次のように論じている。

「憲法第81条が、最高裁判所に違憲問題に関する最終の決定権を認めていることから、これは最高裁判所の判決に通常の訴訟法上の効力とは別に、憲法がその判断を一般的に妥当させるために特別の効力を付与したものとして、違憲決定判決により、その法令等はその制定が取り消されて無効となり、したがって、国会も行政機関もまた裁判所自身もこれに拘束されて、以後これを有効と取り扱うことができなくなる〈中略〉違憲決定判決の理由で示された限度で、法令等は遡って無効となる。法令の無効は当初に遡及するから、判決以前に生じた事項についても適用できないこととなるだけでなく既にその法令を適用した処分も無効となり、またその法令を有効として適用した民事の確定判決に対しては、これによって不利益を受けた当事者は再審を申し立てることができる(民訴420条1項8号の類推)し、刑事の確定判決に対しては検事総長は非常上告(刑訴454条)をすべきものと解すべきであろう。」(兼子一『裁判法』有斐閣法律学全集34巻 78頁より引用)

 違憲判決の効力はいかにあるべきかについて自説を述べ、それを基準にこの説の当否を論ぜよ。

[はじめに]

 判決の効力論は、わが国特有の議論である。他の国の場合にはこれが、少なくともこのような形で議論の対象となることはない。

 ドイツなどにみられる憲法裁判制度であれば、その判決に法典の変更効力があることは明らかである。

 では、アメリカ法ではどうであろうか。なるほど、アメリカ法においては、憲法訴訟は通常裁判に付随して行われる。しかし、英米法では判例法主義、すなわち、法源の一つとして判例が存在する。これは、判決中の一般性ある法規範の宣言部分については、対社会的な効力、後の判決に対する拘束力を認めるという考え方である。この拘束力ある判決部分を、英米法では判決理由(ratio decidendi、reason for deciding)と呼ぶ。これに対し、例えば少数意見など、拘束力のない法規範の宣言部分を付随的意見(obiter dicta、things said by the way)と呼ぶ。これらの用語を使って説明するなら、英米法では、違憲判決どころか合憲判決についても、判決理由に含まれる概念については、常に一般的効力を認めることになる。

 したがって、アメリカ流の司法制度の下においても、ドイツ流の憲法訴訟制度の下においても、判決に対社会的一般的効力があることは、疑う余地がない。

 ところが、わが国のかつての通説・判例は、憲法訴訟は、アメリカ法を継受したということを理由に、原則的に付随的憲法訴訟と考えた。この論理的な帰結として、個別的効力説が導かれる。他方、アメリカ司法のもう一つの大きな特徴である判例法主義については、わが国法体系が成文法主義をとることを理由にこれを否定した。その結果、合憲判決どころか、違憲判決にも対社会的効力は認められない、という他の国ではおよそ考えられない奇妙な法現象が発生してしまったのである。

 このジレンマをどのように解決するか、が本問の基本的なテーマである。

 今ひとつ、諸君に注意してほしいことは、この判決の効力論という議論は、基本的には、憲法訴訟論の冒頭で説明した司法権概念と対応している、ということである。以下、簡単に各学説を概観するが、それらの結論は、どのような司法権概念を採用しているか、という議論が、その理由付けとなる。したがって、司法権概念を論じることなく、これに関する論文を書くことは不可能であることを、認識していなければならない。つまり、本論文の答案構成は、基本的には司法権概念を論じ、次にその論理的展開として違憲判決の効力論を述べるということになる。

 ここでは、諸君は司法権概念論は理解し、自説を確立していると言うことを前提に、判決の効力論だけを説明する。

一 純粋な概念の採用可能性

 通常、この問題は、わが国では、個別的効力説と一般的効力説の対立として把握される。しかし、実は、このフレームそのものに問題がある。すなわち、純粋な個別的効力説や、純粋な一般的効力説は、憲法訴訟という概念から、採用不可能だからである。このことは、諸君の論文に書き込む必要はないが、議論の前提として、理解して置いてもらう必要があるので、簡単に説明したい。

(一) 個別的効力とその問題点

 わが国は、判決に判例法形成力を認めない。このことと、付随的審査制を組み合わせると、必然的にこの説になる。最高裁判所の法令違憲の判決であっても、それに特別の効力・効果は認めず、当該具体的事件における法令の適用を排除するに過ぎないとする。その場合に、通常挙げられる根拠は、次の点である。

  ① 違憲審査権は司法作用であり、具体的な事件・争訟の裁判に付随して、事件・争

訟の解決に必要な範囲においてのみ行使されるのであって、違憲の判断も当該訴訟当事者に関する限りのものである

  ② 一般的効力を承認した場合には、一種の消極的立法作用を承認することとなり、

憲法41条に違反する

 このように紹介すると、これだけで議論としては完結している感じがする。その結果、まじめに勉強している学生諸君であっても、このように論文を書いて、これで合格答案を書いたと信じて落ち着いている者がかなりいる。

 しかし、これをこのまま純粋に主張すると、かなり非常識な結論が導かれる説だということを気がついていない点に、実はこの説を採ることの最大の問題がある。憲法判決に特別の効力を認めない、ということは、通常裁判所の通常の民事事件や刑事事件における判決と、完全に一緒だということであるだからである。

 通常の判決の持つ効力は、一般に既判力と呼ばれる。詳しくは、民事訴訟法で学んでいるとおりであるが、簡単に結論だけを言えば、既判力は、当事者を、その訴訟の対象となっている問題(訴訟物)に関してのみ拘束する。したがって、当事者ではない第3者、したがって社会一般に対する効力はない。それどころか、同一の当事者間であっても、訴訟物が違えば、やはり拘束力はない。例えば、刑事事件において、ある人物を加害者として処罰するという判決が確定したとする。そこで、被害者が民事訴訟で、加害者に対し、損害賠償の請求を起こした場合において、この訴訟は、刑事事件とは訴訟物が違うと考えられるから、加害者とされた人物は無罪であり、したがって損害賠償の請求は認められない、という判決が出て、社会的反響が生じたりするのは、諸君の知るとおりである。

 しかも、判決が既判力を持つのは、主文に書かれている点に限定される。例えば、尊属殺(刑法200条)は違憲であるという判決が下されたが、それは判決理由中の判断であったに過ぎない。英米法であれば、判決理由(ratio decidendi)こそが判例法を構成する。それに対し、わが国通常の判決の持つ既判力は、判決理由中に書かれるが故に、憲法判断には決して、生じないことになる。

 この結果、裁判所が憲法判断を行った場合における拘束力が、通常判決の持つ既判力と全く同じものだと考えた場合には、何かの理由で同一当事者間における同一事件が繰り返し裁判になった場合においてすら、後の裁判所を拘束しない。まして、他の同種事件における後の裁判所の判断をまったく拘束しない。つまり、最高裁判所は、国会が刑法200条が削除されるまでの間は、別の被告人が相手でありさえすれば、自由に尊属殺に基づく死刑判決を下すことができた、ということになる。

 裁判所自身を拘束しないくらいだから、他の国家機関、すなわち国会及び行政庁は、同種事件について自由に判断でき、違憲判決に拘束されないという結論が導かれる。つまり、国会は尊属殺規定を削除する必要はないし、検察も尊属殺で起訴することを止める必要は全くないということになる。

 このように、付随的訴訟であるが故に、憲法訴訟も、通常判決の既判力と全く同じものだ、と考えた場合には、そもそも何のために憲法訴訟を行う必要があるのか、という原点そのものに疑問が生じてしまうことになる。

(二) 一般的効力とその問題点

 問題文に掲げた文章は、こうした個別的効力説の問題点を、憲法的に捉えるところから、必然的に導かれる。すなわち、個別的効力説の持つ、憲法上の問題点は、整理してあげれば、次のとおりである。

  ① 憲法81条は、最高裁判所に違憲の決定権を与えている。しかし、個別的効力説では、「憲法に適合するかしないかを決定する権限」という言葉に、対社会的には何の意味もなく、したがって同条を空文化するものである。

  ② 憲法98条1項の宣する如く、およそ違憲の法律は効力を持ち得ない。ところが、個別的効力説では、違憲判決が確定した後でも、依然として完全な効力を持っていることになってしまう。

  ③ 個別的効力しかないとすると、法令の一般的性質に反し、法的安定・予見性を 欠き、憲法14条の平等原則に悖る。例えば、尊属殺が違憲であるとする判決が確定した後にも、訴訟物さえ違えば、なお尊属殺にもとづく死刑判決が下りうるということは、明らかに14条違反という外はない。

 こうしたことから、最高裁判所の法令違憲の判断により違憲とされた法令は、一般的に無効となり、六法からの除去効果を生じると考えるのが、純粋な一般的効力説である。違憲判決に、消極的立法と同一の効力がある、と表現しても良い。しかし、このように考えると、とたんに、先に挙げたのとは逆の不都合な問題が生じる。

 世界で最初の憲法裁判所は、オーストリアで設立された。そこではケルゼン(Hans Kelsen)の法理論に従い、憲法も法である以上、司法の対象になるとして憲法裁判制度を導入した。したがって、この憲法裁判所制度は、基本権の保障というよりも最高法規としての憲法を頂点とする法体系の整合性確保を目的としたものであった。ここから、違憲判決に、純粋の一般的効力を認めた。

 この場合、対世的効力を持つ、とは、違憲の法律は、違憲判決の時点で廃止又は修正されたとみなされる。この点で、議会による法律の廃止ないし改正と同視される。しかし議会による立法活動は、遡及効を持たない。違憲判決が、議会による立法活動よりも強力な効果を持つと考えることは矛盾でなる。そこで、違憲判決の効力もまた、判決の日以降にしか発生しないとされた。確かに、このように遡及効を認めない場合には、既に適用された法律の効果までは否定しないから、違憲判決による社会的混乱が少ない、という長所を有する。

 これに対し、通常裁判における判決の既判力は、当事者に関しては遡及的に訴え提起の時点に遡って効果を発生するのである。問題は、違憲性を争った当該事件の関係者に対する遡及的効果も認められない(絶対的将来効)ということになると、わざわざ争った当事者は、救われないという結果が生ずるのである(例えば尊属殺では、どんなに情状酌量の必要ある被告人でも実刑判決になる。)。この不都合を解消するため、憲法裁判所では、事件当事者に関してだけは、遡及効を認めるように制度を改正する必要に迫られたのである(相対的将来効)。

 このように、仮に憲法裁判所制度を導入した場合にも、違憲判決には一般的効力説を純粋に展開した場合のように、絶対的将来効にとどめることは許されず、通常訴訟と同じように、当事者に関しては遡及効を認める制度を導入しなければ、裁判という形態になじまないことになる。

(三) 結論

 このように、比較検討すると、個別的効力説対一般的効力説の争いという、一般的なとらえ方自体に問題があることが判る。対立というが、実際には、いずれかを貫徹する、という理論はありえない。どちらに軸足をおくにせよ、実際の学説は、両者の折衷説とならざるを得ないのだ、ということを認識してほしい。

 学生諸君の論文では、付随的憲法訴訟という概念から、あっさりと個別的効力説を導き、後は、それに対する憲法上の根拠を書いてお終い、という例が非常に多いのだが、それでは、本質的に合格答案とはなり得ない。あくまでも、司法権概念との結びつきの中で、本当に、文字通りの個別的効力説でよいのか、という問題意識を示して欲しいのである。

二 わが国における個別的効力説の展開

 さて、ここでかつて説明した司法権概念を改めて思い出して貰おう。かつての通説・判例によれば、司法権とは、

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法Ⅰ』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁より引用)

とするものであった。そして、違憲審査との関係でいえば、この説のポイントは、違憲立法審査権は、司法権の当然の属性であり、したがって、ここに述べた具体的事件性と呼ばれる概念を充足していないかぎり、行使できないとするものであった。これを付随的憲法訴訟と呼ぶのである。この説に立つかぎり、違憲判決の効力は、個別的効力説とせざるを得ない。しかし、それでは、一般的効力説から突っ込まれた矛盾が、そのまま露呈してしまう。そこで、かつての通説をとる人々は、何とか、前提を破綻させずに、その解決を図ろうとした。その系譜をみてみよう。

(一) 礼譲期待説

「最高裁判所の違憲の判断に対して、立法府も行政府も、これを尊重することが期待できるから、実際上の不便や不公平を避けることができる。すなわちそれらの機関は、かかる法令を廃止するであろうし、それまでの間、行政府は、その執行をさし控えると思われるからである」   (橋本公亘『憲法』青林書院新社、570頁)

 この説の弱点は、その礼譲が、いわば社会儀礼のレベルで説かれているということである。それでは、先に指摘した14条違反問題など、憲法的な問題指摘に対する反論としてはあまりに弱い、という点にある。

 もっとも、この点を積極的に評価する説もある。浦部法穂は、司法権概念において、事件性という概念を、客観訴訟も含みうるように拡張した上で、付随的憲法訴訟という概念を維持した。したがって、これまでの論理展開からすれば、個別的効力説を支持する事になるはずであるし、事実その様に述べる。その理由として次のように説明する。

「最高裁判所の違憲判決は、多かれ少なかれ政治的な影響をもつ。しかし、裁判所は、あくまでも法の厳正な解釈・適用を任務とする機関であるから、判決にあたってそうした政治的影響を考慮に入れるというようなことは、本来なすべきではない。とすれば、判決に伴う政治的影響は、政治部門がまさに政治的に解決すべき問題である。」(浦部法穂『憲法学教室』全訂第2版396頁)

 他の機関との関係ではそれでよいかもしれないが、判例法主義をとらない結果、後の判例を拘束しない点をどう考えるのか、という問題は依然として残る。おそらく、浦部法穂の前提からすれば、一度下した違憲判決を、裁判所は自由に判例変更することができると考えざるを得ないであろう。違憲判決にも拘わらず、国会が政治的判断により、法改正を頑として行わない場合には、それに併せて判決の方を再変更する事も大事と考えるのであろうか。

(二) 憲法的期待説

 芦部信喜は、個別的効力説のもつ矛盾点を、なんとか憲法レベルで解決しようとした。その努力が、次のような表現となって現れる。

「個別的効力と言っても、他の国家機関は最高裁の違憲判決を十分尊重することが要求される。したがって、国会は、違憲とされた法律を速やかに改廃し、政府はその執行を控え、検察はその法律に基づく起訴を行わないなどの措置をとることを、憲法は期待しているとみるべきである。」(芦部信喜『憲法』第5版、岩波書店、379頁)

 しかし、なぜ他の国家機関は、尊重することを「要求される」のかは、よく判らない。憲法が「期待している」というのがその根拠なのであるが、それをどのように論証しているのかがはっきりしないのである。さらに、この引用文の直前には「文面上無効」の判決について、例外扱いにするような表現がある。おそらく対社会的効力が生じるという意味であろう。しかし、先に述べたとおり、文面違憲の判決であっても、判決理由中の判断であって、主文に書かれるわけではない。だから、憲法判断は、そもそも既判力の対象にならない、という点に関しては、何の違いもないのである。そのあたりの説明も抜け落ちている。芦部説をとる人は、こうした問題点を何とか自力で補う必要がある。

(三) 実質的一般的効力説

 佐藤幸治は、かつての判例が採用していた概念が、米国判例法に依拠していたにも拘わらず、第2次大戦後において、アメリカ判例は大きく展開し、客観訴訟なども承認するようになったことから、少なくとも、かつての定義を、アメリカ法の継受として正当化することができなくなったことを正面から認めた。そして、アメリカ法に代わる正当化根拠として、法原理機関説を唱えたことは、先に説明したとおりである。したがって、この正当化根拠という点を除けば、かつての通説・判例の主張をもっとも忠実に現代において承継している学者ということができる。その意味で、彼の、この点に関する説明は、注目に値する。次のように論じている。

「わが国の違憲審査体制が付随的なものであることを前提として、かつ憲法41条を考慮するならば、法律委任説の示唆するように効力について定めた法律が存在しない限り、最高裁の違憲判決に当該法律(規定)を廃止する効果(法令集からの除去効果)(違憲判決の強い効力)が当然に生ずると考えることは無理というべきであろう。しかし、違憲と判示された法律(規定)は一般に執行されないことになるという効果(違憲判決の弱い効果)は生ずると解される。付随的違憲審査制といっても、今日多かれ少なかれ憲法保障的機能も加味して考えねばならず、また、憲法についての有権解釈権を持つ最高裁判所が違憲無効とした法律を内閣が『誠実に執行し』なければならないというのは背理と思われるからである。そうした意味においては、実質的には一般的効力があるといういい方もできるであろう。」

(佐藤幸治『憲法』第3版、青林書院、375頁)

 実質的一般的効力説と名付けられた理由は、この説くところをみれば、一目瞭然であろう。ここで、彼が重要な理由としてとりだしてきたのは、これまで、憲法訴訟の流れの中で繰り返しその存在を指摘した憲法保障的機能である。これこそが、一般的効力の源泉とみているのである。ただ、付随的憲法訴訟という軸足の所在から、依然として個別的効力説を基本的には妥当としている点に、その名残が認められるのである。この議論で、注目するべきは、憲法41条の解釈として、違憲判決の強い効果は遮断するが、弱い効果は遮断しないと主張していることである。この弱い効果を認める点が、従来の個別的効力説と一線を画した結論を導くことが可能になった理由である。

 個別的効力説を採る学者に限って言えば、この実質的一般的効力説が通説的地位にあるということができる。自分の基本書がどのような見解を採っているか、よく判らない場合には、ここに紹介した文章を丸暗記して、答案上に再現しさえすれば、一応合格点をとれるはずである。

(四) 判例法主義説

 冒頭に述べた通り、アメリカ法を中途半端に継受した結果発生した個別的効力説のもっている、さまざまな問題点に対する一番簡単な解決方法は、アメリカ法の完全継受、すなわち判例が法源であることを認めてしまうことである。長谷部恭男は、伝統的な司法権概念を持って妥当とする(長谷部『憲法』第5版、新世社387頁)。その理由ははっきりしないが、法原理機関説に同じ、あるいは類似した考えと思われる。

 しかし、同時に、判例法主義をわが国も採用しているとするスタンスに立つ。

 通説は、わが国は判例法主義をとらないとし、裁判所が先例に従うのは事実上の拘束力である、としてきた。長谷部はその点を問題にする。

「法律問題の最終的な有権解釈権を持つ裁判所が、判例に事実上拘束されるということは、とりもなおさず判例が法的な拘束力を持つことを意味するのではないかとの疑問を提起することも可能である。憲法典や法律が法源であり得るのも、裁判所がそれらを事実上適用するからであり、裁判所が憲法典や法律を適用しなくなれば、それらはもはや法源ではありえない。実際、もし裁判所が何がratio decidendiであるか、あるいは当該事件と先例は区別(distinguish)されうるかなどという問題に頭を悩ますこともなく、事実上先例を引用して具体的事案を解決しているのであれば、事実上の拘束力は法的拘束力よりもむしろ強力であるといえる。少なくとも、最高裁判所の判例が下級裁判所に対して持つ拘束力に関するかぎり事実上の拘束力説と法律上の拘束力説との間に意味のある違いはない。」(長谷部・前掲引用書31頁)

 この場合、判例法が法源たることを認めるのは、国民主権から憲法41条に反するという批判が当然予想される。先に述べたとおり、個別的効力説の条文上の根拠は41条なのである。これについては、次のように反論する。

「国民主権の理念を徹底させる立場からは、国会や内閣と異なり、国民に対して政治責任を負うこともなく、したがって必ずしも国民の意見を反映していない裁判所の裁判が、法源として扱われることには疑義を呈しうる。これに対しては、判例を法源とすることによって国民に裁判の結果についての予測可能性を保障しうるとすること、そして法律によって判例を覆す権限をもつ国会が判例を放置すること事態、国会の黙示の承認を意味すると反論することができよう。」(同条31頁)

 この主張の問題性は二つの点にある。第一は、国会は、裁判所により違憲とされた法律を再可決することにより、判例を覆しうると主張している点である。それでは、最高裁判所が終局的な判断を下していることにはならず、81条に反しているといえるのではないだろうか。第二は、これまでも例に挙げてきた尊属殺のように、違憲判決後、極めて長期にわたって、その判決に反対する狙いから問題規定を法令集から削除しない場合、黙示の承認があったとは到底いえないのではないだろうか(尊属殺の場合、最高裁判所で違憲判決が下ったのは1973年、法令集からの除去は1995年の刑法改正の時であった。)。長谷部説を採る人は、こうした点に対する反論も工夫しておく必要があると思われる。

 なお、長谷部は、判例は憲法典の法源にはなり得ないとする。それは、判例に憲法改正権力を認めることになるからである。

三 法律委任説

 佐藤の法原理機関説は、主観訴訟を以て司法の本質的対象とした。その結果、客観訴訟については、違憲審査権が憲法76条から導かれるとする前提を維持すると、客観訴訟では違憲審査が不可能になってしまう。つまり、愛媛玉串訴訟や衆議院議員定数違憲訴訟が提起されても、合憲・違憲の判定を下してはいけない、といわねばならないのである。このジレンマは、アメリカ法と異なり、憲法81条をもつ日本法では簡単に解決できる。違憲審査権は76条の定める司法権の本質から導かれるものではなく、81条が、そうした権限を裁判所に認めたことから生じると説けばよいのである。

 このように考えた場合には、違憲判決がどのような効力を持つかについては、憲法は何も述べていないことになる。憲法典において、何も述べられていない場合は、特に法律で定めるという規定がない場合にも、それがどのようなものかは、一般に法律で定めることができると解釈される。この場合もそうだ、と考えるのが、法律委任説である。

 佐藤幸治が、法律委任説の代表的な論者であるが、彼の結論は先に紹介したので、重複を避けるため、ここでは今一人の有力な論者である長尾一紘の説くところを紹介する。

「違憲判決の効力の問題は、憲法上、法律の定めるところによるものとする。その理由は以下のようである。

(イ) 「個別的効力」・「一般的効力」なる概念は、技術概念に過ぎず、日本国憲法がそのいずれかを規範的に選択しているとみることは困難である。

 違憲判決の効力の問題は、法政策の問題であって、法論理の問題ではない。要は、日本国憲法が規範的に設定した統治構造の枠内において、違憲審査制の存在目的である、憲法の保障と、基本権の裁判的保障をいかに有効に実現しうるか、という政策考量が問題なのである。憲法は、このような考量を、立法府に委ねたものと解される。

(ロ) 個別的効力説及び一般的効力説は、違憲判決の効力論のすべてをカバーしてい

るわけではない。」  (長尾一紘『日本国憲法』世界思想社新版443頁より引用、なお、第3版482頁では、より詳しい説明となっている。)

 ここで指摘されていることが、いずれももっともであることは、これまで説明してきたことから明らかであろう。法律委任説の最大の問題は、いうまでもなく、現在のわが国には、憲法訴訟法という実定法が存在していないことである。したがって、委任に基づく法律のない現時点で下されている違憲判決については、一般的効力説か、個別的効力説かのいずれかを選択しなければならないのである。佐藤幸治は、先に実質的一般的効力説として説明したとおり、その場合における軸足を個別的効力説に起きつつ、憲法保障機能を梃子に、可能な限り一般的効力説の主張を取り込むことにより、問題の解決を図った。

 これに対して、長尾一紘は、一般的効力説を採る。

「違憲判決についての法律規定がない場合には、一般的効力説の説くところと同様に考えることができる。

(イ) 違憲判決により、当該法令は、客観的に効力を失う。ただし、立法府は、同一内 容の法律を再び制定することができる。

(ロ) 行政府は違憲とされた法律を執行することができない。

(ハ) 下級裁判所は、最高裁判所によって違憲とされた法令を適用することができない。

(ニ) 最高裁は、一度違憲と判示した法令を、後に合憲とすることができない。

(ホ) 違憲判決(に含まれた新しい判例法理)の効力は、当該事件に及ぶことを原則と する(判例の遡及効)。」              (長尾、前掲新版444頁)

 ちなみに、長尾の司法権概念は、きわめて佐藤に近い。すなわち、次のように定義する。

「第三者的地位を保障されている国家機関が、法の解釈と適用にかかる係争、とりわけ、当事者間の権利・義務の存否、ないし、具体的な法律関係の存否にかかる係争に対して、固有の整序された手続きにしたがって、法を判断の準則として行う、終局的な裁定作用」(長尾前掲第3版412頁)

 しかも、長尾は、具体的争訟性を司法権概念の概念的構成要素とする。ただし、客観訴訟は、「具体的な法律関係の存否に関する争い」である点で、具体的争訟であるとする(第3版432頁)から、この点に関しては、浦部法穂にも近いといえる。

 ちなみに、問題文に掲記した一般的効力説のわが国における代表的な論者である兼子一の司法権概念の見解にも近い。兼子一は、司法権概念を次のように定義している。

「裁判とは、社会関係における利害の衝突、紛争を解決し調整する規律を定める、法的な権威を有する第三者の判定である。」(兼子・前掲書1頁より引用)

 以上をまとめて、結論的に述べるならば、法律委任説を取りながら、その法律が存在しない場合に、個別的効力をとる佐藤幸治の方が例外だということである。なぜなら、法律委任説とは、そもそも法律によって、一般的効力を与えることができると主張している説だからである。すなわち、81条の存在が、41条の例外として、国会が、裁判所に消極的立法権を承認できる根拠とする説と理解できる。したがって、法律が存在しない場合にも、41条の効力を81条が遮断していると考える方が素直であろう。佐藤幸治説は、先に紹介したように、41条の効力を二つに分け、強い効果は41条によって否定され、弱い効果だけが認められるとする。法律によっても、憲法の効力を排除できるはずはないから、佐藤説を採るかぎり、委任を受けた法律の内容としても、実質的一般的効力説の主張内容までしか立法できない、とするのが穏当であろう。

四 ドイツ憲法説

 司法権概念の項において、ドイツ憲法説と名付けて紹介した戸波江二は、この問題について、比較的法律委任説に近い考えをとるが、それとは一線を画している。それは、法律委任説が、個別的効力説か、一般的効力説か、という選択を、法律が決定しうるとしているのに対して、その委任の内容は、この一般か個別か、という議論とは関係がなく、違憲判決の効果論という形で論ずるべきだとする説だからである。

「一般的効力か個別的効力かという議論とは別に、違憲判決の効力については次のように考えるのが妥当である。

 第一に、違憲判決に個別的効力以上の効力、たとえば違憲とされた法律を廃止する効力を与える法律を制定することは可能であり、そのような法律が憲法41条ないし憲法76条に反するとはいえない。第二に、違憲判決の効力についての法律の規定がない現状では、違憲判決に法律を法令集から除去する効力を認めることは、法律の改廃が立法府の権能に属する以上、困難である。第三に、違憲判決は後述のように判例としての効力をもち、後の判例を原則として拘束する。第四に、法令の合憲性審査権を有する終審裁判所である最高裁判所が違憲判決を下した以上、他の国家機関は違憲判決に従って当該違憲法令に対処すべき法的義務を負う。したがって、ある法律について違憲判決が下されたのちに、当該法律を国民に適用する国家行為は違憲・違法なものとなり、また、当該法律を改廃しない立法の不作為は違憲となろう。」

(戸波江二『憲法』新版460頁)

 確かに、冒頭に述べたように、純粋に個別的効力説を貫こうとしても、純粋に一般的効力説を貫こうとしても矛盾が生じ、両者の折衷を求める必要がある。その必要性は、こうした理論的前提とは関係なく、裁判所が裁判という形式で、憲法訴訟を行う、という本質と、純粋な個別・一般効力説が整合性を持っていないからである。だから、個別・一般という議論とは切り離して、論ずるべきだという主張であり、説得力がある。

 説の内容自体は、先に述べたとおり、結論的には、法律委任説である。そして、そうした法律がない現状としては、実質的一般的効力説に近い見解を採る。

  すなわち、

 ・違憲判決に法律を法令集から除去する効力はない。

 ・他の国家機関は最高裁の判決に対しては、それに従って対処すべき法的義務を負う

⇒当該法律を国民に適用することは違憲・違法になる。

⇒当該法律を改廃しないことは、立法の不作為になる。

ただし、後者の、立法の不作為になる、という考え方は、長尾一紘の一般的効力説よりもむしろ強い効力であることに注目してほしい。長尾説の内容は、憲法判決に法源としての効力を認める長谷部説と同一であることを考えると、そこにはアメリカ法的な発想があるといえる。それに対し、ドイツ憲法の場合には、連邦憲法裁判所の違憲判決が下れば、速やかに法改正を行う義務が議会にある。本説を、ドイツ憲法説と名付けたが、こういうところにも、ドイツ憲法における通説的な考え方が反映しているということができる。

[まとめ]

 このように、並べて紹介するのは、あくまでも、学生諸君に学説の広がりの中での、自説の位置というものを理解してほしいからである。このように情報を提供すると、ややもすると、この講のミニチュア版で、説の羅列をしたものを書いてしまう人がある。しかし、それは間違いである。論文では、自説をしっかり展開することが求められているのであって、説の羅列が求められているわけではない(両方ともが可能であれば、高い評価を得られるであろうが、国家試験における限られた時間と紙幅では、それはどんな人にも不可能であろう)。だから、本問であれば、冒頭にも述べたとおり、司法権概念及びそれと連動する違憲審査権の根拠条文をしっかりと理由を挙げて述べ、それを受けて、判決はどのような効力を持つべきか、を論じてくれればよい。問題文の兼子説は、それとの対比において、その当否を述べれば十分である。