裁判の公開

甲斐素直

  問題

   裁判の公開について論ぜよ(裁判所事務官試験問題)

 

[問題の所在]

 今学期は、裁判所事務官試験の過去問を取り上げてきているが、いずれも問題の難度的には、司法試験と遜色のない難問が揃っているのに、私は感心している。本問も、司法権に関連する分野では、最難問と言って良い問題である。

 司法試験においては、平成5年に、次の問題が出ている。 

 次の各事例における裁判所の措置について、「裁判公開の原則」との関係で生ずる憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。

(1)映画の上映がわいせつ図画陳列罪に当たるとして、映画製作者が起訴され、当該映画の芸術性・わいせつ性を巡って争われた刑事訴訟において、裁判所が、わいせつ物の疑いのあるものを一般傍聴人の目にさらすのは適当ではない、という理由で、公判手続きの傍聴を禁止した場合

(2)ある企業が、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとする者に対し、右不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、裁判所が、審理を公開すると営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、口頭弁論の傍聴を禁止した場合

(3)右の(2)の訴訟において、裁判所が、口頭弁論の傍聴は禁止しなかったものの、傍聴人がメモを取ることを禁止した場合

 この司法試験問題と本問を比べると、裁判の公開という非常に大きな問題の中で、論点を絞り込んでくれている点で、司法試験問題の方がかなり易しい。何故、裁判所事務官試験に、司法試験を上回る難度の問題が出るのか、理解に苦しむところである。多分、司法試験レベルの答案さえ書けば、それ以上は書いて無くとも、合格答案として評価されるのでは無いかと思う。そこで、以下、この司法試験問題も念頭に置きつつ、本問において、何を論じるべきかを簡単に整理してみよう。

 本問の第一の論点は、裁判の公開は、一体何を保障した制度なのか、ということである。これを外してしまうと、後は何を書こうと、論文の体をなさない。

 第二の論点は、それを受けて、裁判の公開の例外ないし限界である。すなわち、わが国憲法は、ほとんど例外を認めない形で裁判の公開を保障している。しかし、そのためにかえって様々な場合に、国民として裁判を受ける権利を実質的に侵害されている、という事態が生じている。司法試験問題で具体的にテーマとされている猥褻物陳列罪や公私の領域における秘密漏洩行為、それに強姦事件における被害者のプライバシー保護という三つの点が、従来から問題とされてきた。この点に関しては、国際人権規約との関係が大きな論点となる。

 上記司法試験問題であれば、ここまで書けば合格答案と言うことになる。しかし、本問では、そうした縛りがないので、これ以外の、裁判の公海との関係で近時問題意識を持たれている様々な問題を念頭に置き、時間との関係で、どこまで書けるかを悩まなければならない。

 例えば、情報公開法において、委員会段階ではイン・カメラ審理(in camera review)が許容されているのに、裁判段階になると認められないという点が問題となっている。

 全く同様の事件を取り上げていながら、少年事件や家事審判事件となると公開原則が無造作に排除されるのが正しいのか、という問題も存在している。

 そのどこまでを取り上げるかに、受験者のセンスが問われる問題である。

一 裁判の公開概念の内容

 公開という言葉には、二つの意味がある。第一の意味は、裁判の原告や被告に公開することを要求することで、「当事者公開」という。第二の意味は、国民に対して広く公開することを求めることで、「一般公開」という。憲法は、国会における本会議の公開を要求しているから、それとの対比で言えば、ここでの公開は後者、対国民的な公開を意味し、具体的には裁判の傍聴を許容することを言うと解される。

 そこで、問題は、裁判の一般公開はなぜ必要とされるのか、ということである。理論的には二つの可能性がある。第一は、国民の知る権利を保障したものだとする。第二は、裁判に対する国民の信頼を確保する為だとする。

 最高裁判所は、第二の説を採ることを、レペタ事件において明確にしている。すなわち、最高裁判決は「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある」と述べる(最大平成元年38日=百選第6164頁)。

 このように考えた場合には、傍聴する権利という人権ではなく、制度的保障と捉えていることになる。したがって、制度の中核を侵害しない限り、公開原則を制限することは一般論として可能である。

 その説を採る場合には、この、制度の侵すべからざる中核は何か、ということがただちに問題となる。一般論的に言えば、それはこの国民の裁判に対する信頼ということになる。この点についてきちんと論じている判例はないが、レペタ事件最高裁判決は次のように述べている。

「傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であって、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである。傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であって、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがって、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある」

 要するに、公開原則が要求しているのは、文字通り、一般公衆に対して傍聴を許すことに尽きるのであって、それ以上のものではない。公正かつ円滑な審理がまず要求されるのであって、それと抵触しない限りで傍聴を許す必要があるのに留まるということである。換言すれば、国民の知る権利の保障ではない、というのが判例の見解である。

二 裁判の公開の限界(憲法822項について)

 現行憲法の最大の問題は、822項がその例外を非常に厳しく制限する姿勢をとっていることである。すなわち、非公開が許されるのは、文言に依存する限り、「公の秩序又は善良な風俗を害する虞」がある場合に限定される。

 そこで、問題となるのは、この公序良俗という言葉が何を意味しているか、ということになる。かつての通説は、次のように説いていた。

「公序良俗違反という観念は、違法性の実質的、社会学的側面を表現するために用いられることもあるが、ここではそのような一般的意味ではなく、より具体的に、人身を刺激して公共の治安を破り、あるいは猥褻等人心に不良の影響を及ぼして風教を傷つけるようなことをいうものと解される。旧憲法『安寧秩序又は風俗を害する』というのと同義である。」

(『註解日本国憲法』有斐閣1241頁より引用)

 このように公序良俗概念を狭く解する場合には、猥褻物陳列罪は何とかなるかもしれない(刑事裁判という点をどう考えるか、という問題が残るが)としても、秘密漏洩罪や現時点で最大の問題となると考えられる情報公開におけるインカメラ審理の導入などを公序良俗で説明することは不可能という答えが導かれることになる。本問の強姦罪は公序良俗で制限できるかは非常に微妙である。このような解釈の背景には、公開原則を非常に大事なものとする考えが存在していることはいうまでもない。

 これに対して、近時は次のように述べて、例外を幅広く認めるべきである、という見解が一般的である。

「憲法82条の定める公開の保障の重要性を承認するとしても、それだけが問題なのではなく、それを包み込むところの、公正な手続き的配慮の要請というものがその基底にあり、今やむしろそこにこそ着眼して裁判の運営を考えるべき時期に来ているのだ、ということも、はっきり自覚すべきところなのであろう。」

(三日月章『民事訴訟法研究(7)』有斐閣、昭和5311頁)

 こうして、基本的な方向としての裁判の非公開という目的を、憲法822項の極めて限定的な文言にも関わらず達成するために、様々な手法が検討されることになる。以下、簡単に紹介しよう。

 

(一) 国際人権B規約14条との関連

 解釈法学として、本問において、まず第一に考えなければならないのは、憲法82条と国際人権規約の関係である。

わが国は昭和54年に国際人権規約を批准し、この条約は自力執行可能な条約に属するから、この規定もまた国内法としての効力を有し、しかも条約は法律に優越する法段階にあるから、条約違反の立法や行政行為は無効と考えなければならない。

 ところが、国際人権規約141項は、憲法82条と相当に異なる定め方をしているため、両者をどのように調和的に解釈するべきかが問題とならざるをえないのである。同項は次のように述べる。

「報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序もしくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において、裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」

 つまり、単純に読めば、82条の言っている公序良俗違反に加えて、国の安全及び私生活上の利益保護の場合に裁判の公開の例外を認めているのである。

 これを根拠とすれば、先に問題となるとして挙げた領域のほぼすべてについて裁判の非公開を根拠づけることが可能となる。本問の強姦罪における被害者の保護については、「当事者の私生活の利益」という言葉で読めることは明らかである。

 問題は、どのようにして憲法82条と国際人権規約の整合性をとるかである。考え方としては次のようなものがあり得る。

 第一は単純に国際人権規約が憲法に優位する、と説明することである。

 この説を採る場合には、論文としては、憲法82条の問題ではなく、専ら憲法98条の解釈論となる。今回の出題は、司法の章の議論をすることに狙いがあるから、この説については、それがあるという以上の説明は、今回はしない。

 第二は、憲法優位としつつ、憲法の文言の中に国際人権規約を読み込むという手法である。例えば、憲法21条の表現の自由という言葉は、その例示からする限り、意見発信の自由だけを保障している読める(石井記者事件最高裁判決=百選第5156頁参照、なお第6版ではこの判例は削除になった。)。しかし、国際人権B規約192項の要求する「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け」る権利も読み込む。それと同じように、公序良俗という言葉の理解としてこの14条を読み込んでいく、という方法である。

 第三は、同じく憲法優位としつつ、憲法が822項以外の場合にも、非公開の場合を認めていると解する立場である。この場合、憲法822項は単なる例示と解釈することになる。

 以下においては、第二説及び第三説について説明する。

 

(二) 公序良俗概念拡張説

 憲法の文言解釈という観点から見れば、公序良俗という言葉の意味を戦前の安寧秩序よりも拡大することができれば、それがもっとも簡明な説明であることは疑う余地がない。もっとも問題がないわけではない。

 例えば佐藤幸治は次のように言う。

「この『公の秩序…』の要件が刑事裁判の公開停止にもかかっているのをみると、それを広く解釈することには疑問が残る。」(佐藤『日本国憲法論』成文堂609頁)

 この引用だけでは判りにくいと思うので補足すると、憲法82条は「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」として絶対的公開事項を定めている。これらはいずれも刑事事件に関する保障と読める。その結果、安易に公序良俗を拡張すると、この規定との整合性が問題になってくるのである。

 したがって、この説を採る場合には、こうした批判があることを頭に置いて、それを跳ね返せるだけの理由を展開し、あるいは十分に限定的に議論を展開する必要がある(念のため強調しておくが、こうした批判があると言うこと自体を論文に書くのは間違いである。それは短答式的な知識であり、論文式試験の評価対象者はそれに合格しているのだから、もはやそうした知識の有無は評価対象にならない。つまり、そのような記述はちゃんと書けた場合にも、いたずらに論文を長くし、他の論点に投入できる時間と紙幅を削るだけで、評価の向上にはつながらない。しかも、内容が誤っていれば、減点される。)。

 そこで、例えば戸波江二は次のように述べる。

「従来の憲法学説が『公の秩序』の内容を公共の安全と狭く解釈してきたこととの関係では問題が残るもののそれを社会的に認められた権利と解し、かつ、非公開にことに十分な理由が認められる場合に限定したうえで、『公の秩序』を広げることがもっとも異論の少ない解釈であるように思われる。」

(戸波江二「裁判を受ける権利」ジュリスト1089281頁より引用)

 しかし、公序良俗という言葉は様々な場面で使われるだけに、ここでの意味をなぜ社会的に認められた権利と決定できるのかははっきりしない。また、社会的権利というのは具体的に何かもはっきりしない。

 高橋和之は次のように述べる。

「プライバシーや営業の秘密、情報公開に関する訴訟で、公開裁判がかえってプライバシーや営業の秘密を侵害し、あるいは秘密とすべき情報を公開してしまう危険を伴う場合には、公開が『公の秩序』を害する恐れのある場合と解される。ここでの『公の秩序』とは、人権規定を含む憲法の諸原理により形成されているものであり、公開がこれらの諸原理と抵触する場合には、『公の秩序』を害すると解されるのである。」

高橋『立憲主義と日本国憲法』第2版、有斐閣382頁)

 この高橋説を重ねて読むと、戸波説でいう社会的権利というのも人権と読み替えて良いと思う。

 裁判の非公開は、その審理内容が一般に公表されることを事前に抑制する行為であるという点において、表現の自由の事前抑制と同質の行為である。事前抑制禁止の法理に対する例外としては、その表現行為によって害悪の発生することが異例なほど明白であるか、あるいは回復不可能な損害が発生することが明白であることが要求される。戸波江二のいう「非公開にすることに十分な理由が認められる場合」というのも、この程度の十分さと考えないと、国際人権規約の要求する「裁判所が真に必要と認める限度」という要件にかみ合わないと考えている。

 なお、浦部法穂は、次のように述べている。

「『公の秩序又は善良の風俗』という言葉は、〈中略〉裁判の公開に関しては、今日ではむしろ、当事者や証人など訴訟関係人の名誉・プライバシーその他の人権に対する配慮の必要性の方が高いと言うべきである。先にも引いた国際人権規約14条が裁判公開原則をかなりの程度相対化しているのは、そのためである。したがって、本条の解釈としても、訴訟関係人の人権を害する恐れがある場合も、ここにいう公の秩序または善良の風俗を害ずる恐れがある場合に含めて解すべきであろう。」

(『注釈日本国憲法下巻』青林書院1296頁)

 このように、拡大して考える説を採る論者は、比較的多いように思われる。

 

(三) 例示説

 例示説は、822項は公序良俗に限定したものでは無く、それ以外にも、同条の基礎となっている裁判の公正という要求により合致する場合には、公開の制限が可能である、と説く。

 例えば佐藤幸治は、かつて次のようにのべた。

「フランス革命前のアンシャン・レジームの下での秘密裁判を克服することを課題とした近代の公開・対審・判決という訴訟原理(公開即公正という発想)は、その当時に比べれば、裁判、特に民事の裁判に期待される役割は大きく拡がってきている現代において、多少修正し、実質的に公正を確保するような裁判原理を模索購求すればよいのだという認識がある」

(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣昭和63年刊434頁より引用)

 文言解釈として少し弱いところに問題があるが、前に述べたとおり、制度的保障と解し、裁判の公正がまず要求される、という原点にたつ限り、十分説得力はある。

 近時は少しトーンが変わって、次のように述べている。

「民事訴訟については、『公の秩序…』に匹敵するような重大な事由がある場合には人権ないし権利の内容・性質、公開によって引き起こされる害悪の重大性、非公開審理を回避しうる方策の有無等の検討を求めるということになろう(『公の秩序』例示説といわれれば、そうかもしれないが)。」

 このように例示と述べれば、その例示の外延を画するものとして、国際人権規約を引用して、例外を限定的に拡大することは容易に可能となる。

ある。

 

(四) 非公開審理を求める権利

 ここまでに紹介したのが、判例の採る制度的保障説に準拠した学説であるが、そこから一歩進めて、むしろ非公開審理を求める権利という、人権が存在すると考える立場がある。

 すなわち、およそ一般的に人権が審理の公開によって侵害されるような事態が発生すれば、32条の裁判を受ける権利から一般的に、非公開審理を求める権利というものを構成するのはそう突飛な発想とは言えない。すなわち

「本稿は、憲法32条を、裁判所へのアクセスを保障しただけでなく、非刑事裁判手続きにおけるデュー・プロセスを保障したものと理解し、その一要素として実効的な救済を求める権利を内包するものと理解する立場に立ち、裁判を公開にすることが実効的な救済を不可能にする場合、原告は非公開審理を求める権利を主張しうるものと考える。従って、政府が国民の秘密を侵害し、その秘密に対して有する基本的人権を侵害している場合には、国民は憲法32条の下でその秘密について有する基本的人権の侵害に対して実効的な救済を求める権利を有しており、そこから非公開審理を求める権利が導かれると考えるべきである。」

(松井茂記「裁判の公開と『秘密』の保護」民商法雑誌106581頁より引用)

 ここだけを見ると、この説は極めて魅力的である。ただし、諸君としてこの説に依拠して論文を書くことを考える場合には、注意するべき点が一つある。それは、非公開要求が国民の権利である、ということは、裁判所の裁量権を否定してしまう、という点である。したがって、当事者の非公開要求にも関わらず、裁判所が公開とした場合に、違憲問題が発生する。このことは、制度的保障という理解そのものの限界などと絡んで、論文における理論体系全体に影響を及ぼす、ということである。

 高橋和之も抽象的権利にとどまらず、具体的権利だと主張する(『立憲主義と日本国憲法』第2版、有斐閣381頁)。この場合にも、高橋説の前提を為す司法権概念を理解する必要がある。それは少々複雑な議論なので、ここではそれ以上の説明は行わない。関心のある人は、是非彼の本を読んで欲しい。

三 イン・カメラ審理と公開原則

 傍聴人の排除という点に絡む主要学説は以上の通りである。司法試験問題に対する解答であれば、基本書と相談しつつ、ここまでに紹介した説のどれかを採用して論文を書いてくれれば、合格答案と評価されるはずである。

 しかし、冒頭にも述べたとおり、本問には、司法試験と違って、論点の範囲に縛りがない。そこで、情報公開法との関連は、当然に意識しなければならない。その場合における重要な学説を紹介しておきたい。

 この説では、公開審理とは、傍聴人を排除して訴訟当事者と裁判官だけで行う審理のことをいう、ととらえる。その結果、次のように述べる。

「これまで構築されてきた憲法秩序の下では、企業秘密、財産権よりも、知る権利を具体化するための権利である情報公開請求権の方が高い価値を持っているとされているのであるから、いくつかの裁判例で説かれているように、この権利の制限に対しては、裁判所は厳格な司法審査を行わなければならない。すなわち、情報公開請求権の保護のために厳格な司法審査を行う過程で、裁判所は、当該情報・文書を非公開で審理することができるのである。<改行>ところで、この非公開審理は、傍聴人を法廷から排除して証拠調べを訴訟当事者と裁判官の間で行うという方式ではないことに注意しなければならない。非開示処分の対象となった、あるいは、開示の執行停止の対象となった情報・文書を裁判官のみが直接閲覧するという形の証拠調べである。この方式は、裁判官に与えられた裁量権の範囲内のものであり、その権限行使が公正な裁判を維持し、裁判への信頼を得るためであることは前述したとおりであり、憲法82条が認めるところと解される。」

(戸松秀典「裁判の公開と非公開文書の裁判」ジュリスト増刊『情報公開と著作権法』49頁より引用)

 すなわち、インカメラ審理は、裁判官の証拠調べの方法にすぎず、公開原則と直接的には抵触することはない、と把握するわけである。確かに現場検証その他の証拠調べは一般に対審とされていないから、これは非常に説得力がある。

四 憲法37条について

 今ひとつの大きな問題は、刑事事件については憲法37条が明確に公開裁判を要求していることである。したがって、仮に37条が刑事事件において絶対的公開原則を要求していると読む場合には、それ以上論ずるまでもなく、強姦事件や猥褻物陳列罪事件については非公開は許されない、と結論されることになる。

 しかし、一般的には37条は82条の原則を確認しているに過ぎないと解する。なぜなら、82条が絶対的公開事由としてあげているのは、「出版に関する犯罪」「政治犯罪」と明らかに刑事事件を限定的にあげているからである。すなわち、82条は刑事事件についてさえ、公開しなければならないものと非公開にできるものの区別があることを予定している、と読めるのである。

 第3章の権利という言葉をどう読むかは、この点と絡んで考える必要がある。仮に第3章の権利という言葉で、31条を読めば、同条は罪刑法定主義を保障している解する点については争いはないから、刑事事件は自動的にすべて含まれることになる。また、13条で一般的行為自由を読んでも、刑事法というのは行為自由の制限法であるから、すべて含まれることになる。前に述べたように、刑事裁判でも非公開が許容されるという前提からいう限り、このような解釈は間違いというべきであろう。結局、第3章で人権カタログに具体的に継起されている権利、具体的には15条から29条までをいうと見るのが妥当と考えている。

 ここで最後の問題となるのが、そのような権利を規制する法律に抵触して刑事裁判になった場合には、常に絶対的公開事由に該当することになるのか、という点である。

 おそらく肯定するのが通説であろう。しかし、私は訴訟法の基本原理たる当事者主義の原則に照らし、そのように拡大するのは不当と考える。法規の違憲性を当事者が主張した場合にのみ、絶対的公開事由に該当すると考える。

 司法試験問題の場合、事件は芸術性、猥褻性をめぐって争われているとあり、要するに構成要件該当性があるかどうかが問題になっているのであって、猥褻性ある表現の自由が認められるべきである、というような憲法上の概念が争点になっている事件ではない。したがって、第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件ではない。要するに、訴訟で問題になっている法令が人権制限の内容を持っているからといって直ちに第3章に関する事件になるのではなく、当事者間で憲法上の概念が争点とされている場合にのみ、それに該当する。

 司法試験問題に出てきた猥褻映画の場合にはもう少し議論が必要である。

 私自身は、82条に言う出版に関する犯罪にいう出版とは文字通りの出版、すなわち印刷という形態による表現行為に限定する理由はなく、同問で問題となっている映画なども含めて一般公衆に向けられた表現形態のすべてを意味するものと理解するのが妥当と考えている。なぜなら、出版に関する犯罪にせよ、政治犯罪にせよ、それは第3章で定める権利が問題となっている事件の一類型に過ぎず、それをわざわざ特記したのは、それが国家による侵害の危険性が高いからである。その観点から見れば、映画は印刷と並んで、国家による検閲等の対象となってきたメディアであり、公開裁判の要求は同様に強いものといわねばならないからである。

 ただし、この点をめぐって議論するのは実益のあることではない。上述のとおり、映画による表現の自由を、出版で読もうと、第3章の権利で読もうと、結論に変わりはないからである。

五 少年事件の公開について

少年事件などの審判事件については、現在、非公開原則がとられている。おそらく、諸君は、審判事件という概念そのものをよく知らないと思われるので、以下、簡単に制度説明をした上で、公開問題を説明する。

(一) 少年事件とは

 少年の場合には、刑法の定める犯罪構成要件に該当する行為を行った場合にも、それを刑事事件とせず、「非行」と捉える。その場合は、少年法に基づき、家庭裁判所において、家庭裁判所調査官が、少年の生育環境や非行内容を調査する(家裁調査官は、少年事件を専門に扱う職種で、心理学の素養が必要である。)。この調査結果に基づき、少年は「審判」を受け、そこで刑罰ではなく「保護処分」の決定を言い渡される。この少年審判は、刑事裁判と違って原則として検察官の立ち会いがなく、かつ非公開とされている(少年法222項)。

このように、同じように犯罪構成要件該当行為を行っても、成人と少年ではその後に受ける手続が異なる。これは、現行の少年司法手続が、少年の可塑性を信頼し、少年に援助・教育を与えることで、その立ち直りを助けようという「保護主義」という理念に根差しているからである(少年法1条)。

 この「保護主義」は、子どもが健全に成長し発達を遂げる権利(成長発達権)は、憲法レベルにおいては、憲法13条の幸福追求権、憲法26条の教育を受ける権利などから導かれると考えられる。

 国際人権条約のレベルで言うと、子どもの権利条約は、「子どもに関するすべての措置をとるに当たっては...子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする」(31項)、「締約国は、子どもの生存及び発達を可能な最大限の範囲に置いて確保する」(62項)、「締約国は、刑法を犯したと申し立てられ、訴追され又は認定されたすべての子どもが尊厳及び価値についてのその子どもの意識を促進されるような方法であって、その子どもが他の者の人権及び基本的自由を尊重することを強化し、かつ、その子どもの年齢を考慮し、さらに、その子どもが社会に復帰し及び社会において建設的な役割を担うことがなるべく促進されることを配慮した方法により取り扱われる権利を認める」(401項)と規定している点が根拠となる。

 この子どもの権利条約を具体化した国際準則として、「少年司法運営に関する国連最低基準規則」(北京ルールズ)というものがある。それでは、「少年司法システムは、少年の福祉に重点を置いたものでなければならず、また少年犯罪者に対するあらゆる反作用が、常に、犯罪者および犯罪に関する状況の双方に比例することを保障しなければならない」(4.1)、「手続は、少年の最善の利益に資するものでなければならず、かつ、少年が手続に参加して自らを自由に表現できるような理解しやすい雰囲気のもとで行われなければならない」(14.2)、「少年の福祉は、その少年の事件を考慮するにあたって指導的な要素でなければならない」(17.1(d))と定めている。

 

(二) 少年事件と非公開原則

 少年法222項は、「審判は、これを公開しない」として、少年審判手続を非公開としている。

 この点について学説は、少年事件は非訟事件であるから、公開を要しないという形式的な理由を挙げてきた(例えば、平場安治『少年法[新版]』有斐閣法律学全集77頁)。しかし、少年事件には刑事司法的な性格があるのであるから、民事事件を主として念頭に置いている非訟事件と同一視できるかは疑問である。

 かつて最高裁判所は、少年事件等について、公開すべき裁判か否かは立法政策上の問題であるとした(最大昭和311031日決定=民集10101355頁)。しかし、このように言うのなら、法律で裁判という言葉さえ津川なれば、容易に憲法82条の制約を免れることになっておかしい。

 そこで、その後立場を変え、次の様に述べて、裁判の本質によって決まるとした(最大昭和3576日民集1491657頁)。

「若し性質上純然たる訴訟事件につき、当事者の意思いかんに拘わらず終局的に、事実を確定し当事者の主張する権利義務の存否を確定するような裁判が、憲法所定の例外の場合を除き、公開の法廷における対審及び判決によつてなされないとするならば、それは憲法82条に違反すると共に、同32条が基本的人権として裁判請求権を認めた趣旨をも没却するものといわねばならない。」

 そうなると、改めて少年事件の非公開の正当性が問題とされなければならない。例えば、松井茂記は「犯罪報道と表現の自由」(ジュリスト113638頁)で、「家庭裁判所の審判を一律に必ず非公開とすること自体が憲法82条に反しないか……かなり疑わしい」とするなど、その理由が問われるようになってきた。ここでの問題は、本当に保護主義から、直ちに全面非公開が説明できるのか、という点にある。

 しかし、現在までのところ、こうした疑問に対する肯定説からの積極的な解答はない。

 日本の現行少年司法制度は、第2次大戦後、 アメリカの少年司法制度を模範として創設されたものである。そのアメリカにおいても、 少年審判へのアクセス権や少年事件報道をめぐる問題は、学界や裁判の場において、 長年にわたって激しく議論されてきた。そして、 特に近時おける少年犯罪の増加・凶悪化を背景として, 各州で少年保護のための公開制限・報道制限の見直しが行われている状況にある。

 わが国でも平成12年に少年法が改正され、

(1) 家庭裁判所は、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪及び短期2年以上の懲役又は禁錮に当たる罪の事件の事実認定の手続に、検察官が関与する必要があるときは、検察官関与決定をすることができるものとする(22条の2第1項)。

(2) 家庭裁判所は、検察官関与決定があった場合において、少年に弁護士である付添人がないときは、弁護士である国選付添人を付するものとする(22条の3第1項)。

など、刑事司法的色彩を強めており、また、

(1) 家庭裁判所は、被害者等から事件に関する意見の陳述の申出があるときは、これを聴取するものとする。ただし、相当でないと認めるときは、この限りでないものとする(9条の2)。

(2) 家庭裁判所から、被害者等に対し、少年審判の結果等を通知する制度を導入する(31条の2第1項)。

(3) 被害者等に対し、審判中及び審判確定後、一定の範囲で非行事実に係る記録の閲覧又は謄写を可能とする(5条の2第1項)。

など、当事者公開的色彩も強化している。こうした状況の中で、一律非公開という現行制度の説明は、大変困難になっているといわざるを得ない。こうしたことから、私自身は、松井茂記と同じく、少なくとも一般公開の一律排除というのは、違憲の疑いが濃厚と考えている。