裁判員裁判の合憲性

甲斐素直

[問題]

 Xは、ヘルパーとして介護施設にパートタイムで勤務する女性であるが、平成×年、裁判員として選任され、A地方裁判所において強盗殺人事件の裁判員裁判で裁判員を務めた。事件では、死刑判決が下されている。

 Xは、評議を含む9日間の全日程に参加したが、証拠として殺害現場のカラー写真がモニターで提示され、また、被害者が命乞いする119番の音声も聞かされた。これらを見聞きしたXは審理中に嘔吐し、その後も頭がぼんやりして食事がのどを通らず、夜も写真などがフラッシュバックして就寝中に何度も目が覚めるなどの症状が出た。このため、医師により急性ストレス障害と診断され、勤務を休んで治療に専念せざるを得なくなった。その結果、勤務していた介護施設から、体調不良を理由にパート契約の終了を通知された。

 そこで、Xは裁判員制度を「意に反する苦役」として違憲と主張、裁判員法を成立させた国会議員に「重大な過失がある」として、国家賠償法に基づき、損害賠償を請求した。

 Xの主張に含まれる憲法上の問題について論ぜよ。

[はじめに]

 平成13612日に内閣に提出された「司法制度改革審議会意見ー21世紀の日本を支える司法制度ー」(以下「審議会意見」という。)によって予定されていた裁判員制度は、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」と略称する。)によって、その具体化され、それに伴い、その問題点も明確になってきた。

 本問では、事例を絞り込んで、意に反する苦役の点だけを取り上げたが、今ひとつ深刻な問題が、信教の自由に対する侵害という問題である。実は、人の身で、他の人の罪を裁くことを禁じる宗教は多いのである。ここでは、それらも含めて問題を検討してみたい。

 なお、人権問題の常として、この問題の違憲性審査にあたり、どのような審査基準をどのような形で論じるべきかが、諸君の論文の場合、大きな論点となる。

 本稿では、最後にまとめて論じるが、諸君は、その点については、当初から意識して議論を展開する必要がある。

一 裁判員制度そのものの合憲性

 英米流の陪審員制度では、陪審員団が、被告人の有罪か無罪かを決定する。すると、裁判官は、この陪審団の決定に拘束されて判決を下す。

 わが国憲法76条は、裁判官は憲法及び法律にしか拘束されないという「裁判官の良心」を保障している。陪審員団の意見に裁判官が拘束されるということは、これに違反している。その結果、わが国で、陪審制度を導入することは、違憲とするのが通説であった。例えば、芦部信喜の教科書を見ると「陪審制を設けることは可能と解される(通説)」とあって、一見合憲説のように見えるのだが、実はその前に「裁判官が陪審の評決に拘束されないものであるかぎり」という重要な但書がついている(『憲法』岩波書店第5344頁)。つまり、陪審員の意見を参考意見にとどめないかぎり、違憲と、芦部信喜は言っているのである。それは欧米流の陪審制度の導入は違憲と言っているのに等しい。これは旧憲法時代に設けられた旧陪審法(大正12418日法律第50号)も同じく参考意見としており、これがために利用する人も無く、昭和18年に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」により、その施行を停止された最大の理由となっている。

 そこで、審議会意見は、陪審制度の導入をあきらめ、それに代わって大陸流の参審員制度に類する裁判員制度を導入することとした。

 陪審員と違って、裁判員は、裁判官と対等の権限で評決に参加する。その場合、裁判員と裁判官はそれぞれ独自に見解を持つことが予定されている。すなわち、裁判官の見解を市民である裁判員の意見が拘束するわけではないから、これは763項に抵触しない。

 ここで問題となるのは、裁判所というものは、裁判官だけで構成されなければ違憲ではないのか、という問題である。

当然、この点に関する司法制度改革審議会の公式見解が知りたいところだが、驚いたことに、審議会では終始一貫この点についての議論を避けている。唯一、ある程度踏み込んだ発言が、次に紹介する竹下守夫教授(民事訴訟法)による発言である。他に無いので、一応、これを審議会見解と考えることにしよう。

「問題は日本国憲法では、一方で裁判所の構成員としては身分保障のある裁判官に関する規定だけを置いておって、他方、国民に裁判所の裁判を受ける権利を保障しているわけです。そのことから出てくることは、刑事訴訟について言えば、被告人は、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないということを保障しているのではないか。このことの重みは十分受け止める必要があると私は考えています。つまり、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪にされることはないということですから、そこは誤解のないようにお願いしたいと思います。

 他方、憲法は下級審の裁判所について言えば、最高裁の場合のように、その構成を直接に決めているわけではありません。したがって、身分保障のある裁判官以外の者が裁判所構成員になるということをすべて排除しているということは言えないのではないかと思います。

 したがって、その制度が憲法の基本原則に反することなく、かつ、先ほど言ったように身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないという保障の趣旨を損うものでなければ、合憲と考える余地があると思われるわけです。

 例えば、仮に裁判員に評決権を認めても裁判体の構成とか、評決の方法とか、上訴審の在り方等いかんによっては、裁判を受ける権利の保障と抵触しない制度を構築することも可能であろうと思われるわけです。」

(平成13130日第45回審議会議事録より引用)

 この発言は、条文を引用せずに行われているので、補充すると、次のようになる。

 最高裁については、791項で「その長たる裁判官及び法律に定めるその他の裁判官でこれを構成し」とあるから、裁判官、すなわち憲法78条で身分保障が与えられている者だけが、その構成員となることができる。

 それに対して、下級審には裁判官のみで構成するという規定がどこにもない。したがって、裁判官以外の者が裁判所の構成員になっても違憲ではない、ということである。説得力のある見解ということができよう。

二 被告人の拒否権否定について

 その問題性の第一は、裁判員の参画を被告人として拒否できる制度になっていないことである。この点は、本問では論点ではないが、裁判員の拒否権と並んで、問題のあるところなので、簡単に見てみよう。

 かつて、学説は、陪審制度を例え認めるとしても、それを被告人に強制することは許されないとしていた(例えば、宮沢俊義著・芦部補訂『日本国憲法』601頁)。

 これは、陪審制度を導入する論理的基盤をどこに求めるか、という議論と直結する。

 それが自由主義に基づく制度であると理解する場合には、それを選ぶか否かは被告人の自由にまかされるべきである。現実にも、イギリスにおいては、自由主義に基づく制度と理解されているため、そのような選択権が認められており、その結果、現実問題として陪審は滅多に使用されることはなくなっている(ショーン・エンライト他著『陪審裁判の将来-90年代のイギリスの刑事裁判』成文堂1991年刊参照)。

 先に、裁判員法全体の合憲性で論じたように、現行憲法は、確かに旧憲法と異なり、裁判官による裁判を保障しているわけではない。しかし、同時に裁判官による裁判を原則としていることは明らかである。したがって、その原則を覆せるだけの立法理由があって、はじめて拒否権の剥奪が可能となる。

 審議会意見は、拒否権を認めない根拠として、次のように述べる。

「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上、訴訟の一方当事者である被告人が、裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは、認めないこととすべきである。」

 民主主義的契機を重視する場合には、審議会意見の指摘するように拒否権を認めるべきではないのかも知れない。しかし、報告のいう民主主義的契機とは、報告自身が述べるところに依れば、次のような概念であるに過ぎない。

「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる。」

 これを受けて、裁判員法第1条は「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」ことが立法目的だと述べる。

 この理由付けから見る限り、裁判員制度そのものが民主主義的な性格を持っているのではなく、単に国民の司法に対する理解・支持を深める契機になるというだけの意味に過ぎない。この程度の理由が、被告人の拒否権を覆すだけの理由となるかは、疑問のあるところである。裁判員による刑事裁判が、死刑判決があり得る重大事件に限定されていることを考えると、被告人に、自らの裁判の形態を選ぶ権利を全く否定できるとは思えないのである。

 裁判員裁判の合憲性については、最高裁判所がわざわざ大法廷を開いて判決を下している(最高裁大法廷231116日判決)。この事件の場合、ベースとなった事件は営利の目的で覚せい剤を密輸入しようと企てた者が、税関職員に発見されて捕まったというものである。被告人として裁判員制度を争う個別具体的な必要性は、ここに論じている被告人の拒否権という点にあるはずなのに、驚いたことに、肝心のその点については主張しておらず、従って裁判所も見解を示していないのである。

 これは本問とは関係がないので、ここでは、問題の存在を示すにとどめる。

三 裁判員候補者の拒否権

 今一つの大きな問題が、裁判員候補者の定め方である。大陸諸国の参審員制度の場合には、一般に本人の希望に基づいて選任する方式を採用する。しかし、審議会意見は、先に述べた民主主義的契機を重視するためであろう、無作為抽出方式をとることとした。

「新たな参加制度においては、原則として国民すべてが等しく、司法に参加する機会を与えられ、かつその責任を負うべきであるから、裁判員の選任については、広く国民一般の間から公平に選任が行われるよう、選挙人名簿から無作為抽出した者を母体とすべきである。」

 このような方式をとる場合にも、希望しない者に対しては、当然に拒否権が考えられるべきである。これについても、審議会意見は、次のようにきわめて限定的な姿勢をとった。

「裁判員選任の実効性を確保するためには、裁判所から召喚を受けた裁判員候補者は出頭義務を負うこととすべきである。ただし、健康上の理由などやむを得ないと認められる事情により出頭できない場合や、過去の一定期間内に裁判員に選任された場合など一定の場合には、その義務を免除されるものとすべきである。」

 こうした意見に基づいて制定された裁判員法は、大略次のように定めている。

 裁判員候補者とされた者は、裁判所の呼び出しに対して出頭する義務を有する(29条)。裁判員になることを辞退する権利は、同法16条に限定的に列挙された事由に該当する場合に限られている。そして、出頭義務に違反した場合には、10万円以下の過料に処せられる(同83条)。

 そこで、辞退理由が、憲法上、問題を生じる可能性あるものを網羅したものとなっているか否かが、論点となる。裁判員法16条は次のものをあげている。その前半は、形式的なものである。すなわち、

 一 年齢70年以上の者
 二 地方公共団体の議会の議員であって、会期中の者
 三 大学、専修学校、各種学校の学生又は生徒で、常時通学を要する課程に在学する者
 四 過去5年以内に裁判員又は補充裁判員、検察審査員又は補充員だったもの

 五 過去1年以内に裁判員候補者として期日に出頭した者
 

問題は、実際上の理由による辞退である。法律で定められているのは、次の4つである。

イ 重い疾病又は傷害により裁判所に出頭することが困難であること。

  • ロ 介護又は養育が行われなければ日常生活を営むのに支障がある同居の親族の介護又は養育を行う必要があること。

  • ハ その従事する事業における重要な用務であって自らがこれを処理しなければ当該事業に著しい損害が生じるおそれがあるものがあること。

  • ニ 父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務であって他の期日に行うことができないものがあること。

  •  これ以外に、政令で定める除外理由が予定されている。それが、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律第十六条第八号に規定するやむを得ない事由を定める政令」(平成20年政令第3号)である。それでは、次のものが定められた。

     妊娠中であること又は出産の日から八週間を経過していないこと。

  •  介護又は養育が行われなければ日常生活を営むのに支障がある親族(同居の親族を除く。)又は親族以外の同居人であって自らが継続的に介護又は養育を行っているものの介護又は養育を行う必要があること。

  •  配偶者(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)、直系の親族若しくは兄弟姉妹又はこれらの者以外の同居人が重い疾病又は傷害の治療を受ける場合において、その治療に伴い必要と認められる通院、入院又は退院に自らが付き添う必要があること。

  •  妻(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)又は子が出産する場合において、その出産に伴い必要と認められる入院若しくは退院に自らが付き添い、又は出産に自らが立ち会う必要があること。

  •  住所又は居所が裁判所の管轄区域外の遠隔地にあり、裁判所に出頭することが困難であること。

  •  前各号に掲げるもののほか、裁判員の職務を行い、又は裁判員候補者として法第二十七条第一項に規定する裁判員等選任手続の期日に出頭することにより、自己又は第三者に身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由があること。

  •  この結果、本問で問題となった裁判員となる事で、トラウマを負うおそれ、あるいは[はじめに]で指摘した宗教上の問題は、いずれもこの六号の「身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」と認められるかどうか、という、個別の裁判官の判断にかかることになってしまったのである。

     本問の場合、Xは、裁判員として選任されるに当たって辞退を申し出たわけではない。しかし、上述のように、辞退が原則的に許されない立法の下で、裁判員を務めた結果、精神的障害を負ったのであるから、この点が論点になるのである。

     米国の場合であれば、憲法そのものに「弾劾の場合を除き、すべての犯罪の審理は陪審によって行われなければならない」(323項)とされているから、いわばこの反面として、市民に陪審員になる義務を課することが、憲法上認められていると考えることが可能である。それに対して、わが憲法の場合には、陪審を明確に予定した規定は存在しない。憲法上、国民に対して義務を課することができるのは、12条の憲法が保障した自由の保持義務、262項の教育義務、27条の勤労の義務、30条の納税義務程度しか存在していない。陪審制度を、イギリス法のように自由主義に基づいて説明する場合には、12条から義務を引き出す可能性は存在するであろう。しかし、民主主義的意義から説明する場合には、それも無理といえる。

     大陸法系の参審制の場合、参審員になるにあたっては本人の同意が要件となっていることを考え合わせると、この法案における義務性を説明することの困難性はより明確である。

     以下、具体的に検討しよう。

    四 宗教的理由に基づく拒否権

     本問の論点は、明確に、「意に反する苦役」である。しかし、意に反する苦役に関しては、残念ながら、判例及び理論の蓄積がきわめて少ない。

     それに対し、「はじめに」で指摘した信教の自由は、精神的自由権の代表的存在であり、理論の積み上げが厚い。そこで、諸君は書く必要が無い、ということを強調した上で、ここでは、信教の自由に基づく拒否権というものをまず検討しよう。その上で、その理論を、意に反する苦役に適用するという、説明の仕方を採りたい。

     信教の自由に対しては、二重の基準論に照らせば、その司法審査には厳格な審査基準が妥当する。厳格な審査基準は、司法積極主義の下、立法を違憲と推定し、国に反証を求める。反証は次の二点に要求される。

    1 立法目的が正当であること、

    2 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益 compelling interest)」を促進するのに必要不可欠であること、

     あるいは、厳格な合理性基準によって判断するという考え方もあり得る。その場合には次の二点である。

                     ア 立法目的が重要な国家利益 important government interest に仕えるものであり、

               イ 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性 substantial relationship in facts」が存在することを要求

     立法目的の正当性については、先に論じたとおりであって、一応肯定できるであろう(つまり、諸君の論文では、先に論じた点を、この段階で、適宜まとめて紹介する必要がある。)。当然重要な国家利益に仕えているということは、肯定できる。

     問題は目的と手段の関係である。信教の自由を憲法が保障するとは、公権力が信教の自由を制限することはなく、また、特定の信仰を持ち、あるいは持たないことを理由として、どのような不利益も与えられることがないことを意味している。

     日曜参観日欠席処分取り消し請求事件において、東京地方裁判所は、次のように述べている(昭和61320日判決)

    「信仰に基づいて、国法上義務づけられた行為その他の行為を行うことを拒否した場合にも(その法義務が実質的にみて是非遵守されなければならないほど重大な公共的利益に仕えるものでなかつたり、あるいは、それによつて他人の人権を侵害する結果を招来するものでないかぎり)、これに対し何らかの不利益を課することは信教の自由の侵害そのものであり、そのような法義務を課すること自体が違憲となるというべきである。そして、人が一方でその信仰に従うならば一定の不利益を受けざるをえなくなり、他方で法義務を容認するならば自己の信教の自由の行使を放棄せざるをえなくなるというような選択を余儀なくされることは、それ自体憲法上の信教の自由を危殆に陥れるものである。」

     非常に正しい指摘というべきである。特に括弧書きに注目しよう。この判例は、厳格な合理性基準を使用していることが判る。これに従えば、裁判員制度というものが、「実質的にみて是非遵守されなければならないほど重大な公共的利益に仕えるもの」かどうかが、ここでの判断のポイントになるのである。

     裁判員制度は、先に述べたとおり、自由主義や民主主義の直接の要請ではなく、裁判員という経験を多くの国民が積むことにより、一般国民の裁判に対する理解が深まるであろうことを期待し、それを通じて司法の国民的基盤を強化したいという、極めて間接的な狙いによって導入されたものである。そうであれば、これは到底是非遵守されなければならないほどの重大な公共的利益に仕えるものということはできない。

     事実、裁判員法16条は、「父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務」に基づく拒絶を認めている。この場合の葬儀というのは、通常は宗教上の儀式であり、それが拒絶理由になるということは、法律そのものが、宗教的理由による拒絶を、部分的にではあれ、予定しているということを示している。そのことを勘案しても、宗教的理由に基づく拒絶を予定していないことは、立法の不作為であって、違憲というべきである。

     確かに、政令のレベルで、「身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」場合に、拒否が認められている。しかし、重大な不利益と認められるか否かは、担当裁判官の個別の判断にかかっており、類型として宗教的理由に基づく拒否を認めているわけではない。

    五 意に反する苦役

     信教の自由と異なり、意に反する苦役という言葉については、わが国憲法学ではほとんど議論されておらず、わかりにくい。

     憲法18条は、許容される意に反する苦役として、刑罰によるものをあげている。現実問題として、懲役刑で課されている労役は、家具の生産その他、一般の社会人が、その職業として行っているものと同一である。それらの職業従事者からみて、それは誇りにこそなれ、苦役と感じるものであるはずはない。また、政府の公式見解(1980815日政府答弁書)は、徴兵制の導入をこれに該当するものとしている。この場合も、兵士としての活動それ自体は、現在、自衛隊員が職業として行っている活動であり、彼らとして、それを苦役と認識しているはずは無い。

     このように見てくると、いかなる行為であれ、本人が欲しない行為を公権力が強制する場合が、基本的に意に反する苦役に当たると考えることができる。すなわち、18条の文言は「意に反する」というところに力点があり、それが苦痛をもたらすものであるか否かは基本的に問題にはならない。このことからするならば、18条は精神的自由権に属することになる。通説は身体的自由権と考えているが、その場合においても、二重の基準において、精神的自由に近いか、経済的自由に近いかを考えれば、「意に反する」ことが要件になっている以上、それは精神的自由に近い存在であるといえる。したがって、厳格な審査を行うべき点で、先に例示的に説明した。信教の自由と違いはない。

     裁判員裁判の合憲性について、先に紹介した最高裁判所大法廷判決(最高裁大法廷231116日判決)における、意に反する苦役に関わる部分を全文紹介しよう。

    「(4) 所論〈4〉は,憲法18条後段違反をいうものである。

     裁判員としての職務に従事し,又は裁判員候補者として裁判所に出頭すること(以下,併せて「裁判員の職務等」という。)により,国民に一定の負担が生ずることは否定できない。しかし,裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,292項)。

     これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる「苦役」に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。」

     この部分は、その立論の冒頭で、裁判員法1条を引用し、制度目的が重要な国家利益に仕えるものであることを述べており、厳格な合理性基準を採用しているらしいことが判る。

     したがって、それ以降は、目的と手段の間に「事実上の実質的関連性」があることを論証した部分となるはずである。

     これを簡単に要約するならば、

     1 参政権類似の権限を国民に付与するものだから、苦役では無い。

     2 柔軟な辞退制度を設けている。

     3 負担軽減のための経済的措置が講じられている。

     という3点を上げている。

     はっきり言って、これはかなり頓珍漢な理由付けと考える。

     第1の点では、権限の付与だから、苦役ではないというのであるが、これはまったく理由にならない。これは憲法と言うより法学の問題であるが、権利と義務の相違は、その権限を有するものが、その行使を欲するか否かにかかっている。権利や権限であっても、その行使を欲しない者にその行使を強制する場合には、それは義務と呼ばれるのである。例えば、親が子どもの面倒を見たいと欲して、子どもの成長に必要な資金を拠出する場合、それは親権の行使と呼ばれる。それに対し、親が子どもの面倒を見ることを拒否している場合に、拠出を強制する場合には、扶養義務、看護義務などと呼ばれる。しかし、その内容はまったく同一なのである。

     その事は、判例が例としてあげている参政権に関し、きわめてはっきりしている。近時、棄権が多く、過半数未満の投票で、代表者が決まることが多い。それでは、民意を反映しているとは到底言えない。しかし、憲法が、参政権は15条で自由選挙を明確に定めているので、義務づけを論じることは無理である。その状況下で、憲法にまったく根拠が無い裁判員制度について、参政権を例に、義務づけを正当化するというのは、噴飯物の議論である。

     その場合、先に信教の自由で論じたのと同様に、裁判員法において採用している方法が、それをクリアできるとは考えられない。したがって、やはり違憲と考えるべきである。

     先に、「意に反する苦役」という言葉は、「意に反する」という点に力点があり、必ずしも苦痛をもたらすものである必要はない、と述べた。しかし、苦痛をもたらすものであれば、なお、確実に意に反する苦役ということができる。そして、本事件の場合、雇用を継続することが不可能で、解雇されるほどの重篤な精神的障害を負ってしまったのであり、原告にとって、意に反する苦役であったことは極めて明白である。

     第二の、柔軟な辞退制度というものが、少なくとも法律のレベルにおいてはかなり硬直していることは、先に紹介したとおりである。制度の柔軟な運用により、その法律文言の硬直性をカバーできるかと言えば、疑問と言わなければならない。精神的自由権に関しては、国民の萎縮効果を抑えるため、文面審査が求められるからである。

     第三の、日当その他の補償制度の存在は、侵害されているのが経済的権利であればともかく、本件のような精神的自由については、まったく妥当しない。

     こうして、本問については、違憲と考えざるを得ないのである。

     ここで、本問から離れて、裁判という活動の、人々の心に与える負担について簡単に紹介しよう。結論的にいうと、それはかなりの精神的苦痛を伴う作業であり、本問のように、具体的な症状が現れない場合にも、それは苦役性を有しているのである。

     諸君は法曹一元という言葉を知っていると思う。現状としては、その入口である司法試験及び司法修習の段階だけがそれであって、特に裁判官と弁護士の間の人的交流は極めて低調である。その結果、裁判官は官僚化する傾向を示し、裁判が市民の日常感覚から遊離することの問題性は、審議会意見でも次のように指摘されているところである。

    「裁判所法は、判事補のみではなく、弁護士や検察官など判事の給源の多元性を予定しているが、運用の実際においては、判事補のほとんどがそのまま判事になって判事補が判事の主要な給源となり、しかも、従来、弁護士からの任官が進まないなど、これを是正する有効な方策を見いだすことも困難であった。こうした制度運用の経緯、現状を踏まえ、国民が求める裁判官を安定的に確保していくことを目指し、判事となる者一人ひとりが、それぞれ法律家として多様で豊かな知識、経験等を備えることを制度的に担保する仕組みを整備するほか、弁護士任官の推進、裁判所調査官制度の拡充等の施策を講じるべきである。

     ここで、問題は、なぜ弁護士からの任官が進まないか、である。そこに裁判というものの負担がある。現実に弁護士から判事に任官された経験を持つ獨協大学教授高木新二郎は、これまでに弁護士から任官した人々が、判決を書くということに困難を感じることが多いからだと指摘している。

    「ベテラン弁護士と思われていたのに、裁判官になってから心身の健康を損ねて長期病欠中の人もいる。通常単独事件を担当しているものの、事件を溜めてしまうために、配転を半分またはそれ以下に軽減せざるを得ない人、あるいは調停等を含む判決を書かなくとも済む仕事、つまり、英米では地裁以上の裁判官(Judge)ではなく、簡裁判事に相当する者または補助職(Magistrate等)が担当する仕事についている人も少なくない。やむを得ず簡裁に移ってもらった人もいる。」(『弁護士任官裁判官』社団法人商事法務研究会刊、17頁より引用)

     すなわち、一般市民ではなく、司法試験に合格して長年弁護士活動をし、日弁連から特に委嘱されて裁判官に任官したという、いわばエリートでさえも、そして、単なる民事紛争の判決を下すというだけのことで、それほどのストレスを感じるのである。

     裁判員が直面する問題は、その比ではない。裁判員の関与する事件数をできるだけ減少させるという狙いから、裁判員法2条は次の場合に限定しているからである。

     一 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件

     二 裁判所法第26条第2項第2号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。)

     ここに、裁判所法2622号とは、要するに強盗、事後強盗等である。

     したがって、裁判員は、死刑にするか否かという深刻な決断に迫られる可能性は極めて高い。これは極めて残酷な義務といわなければならない。評決の時、心の平静を保てる市民がどれほどいるか、疑問である。

     このような残酷な義務を、良心に照らして拒む国民に強制することが妥当するほどの重大な法益に、裁判員制度が奉仕していると言えるかは、先に述べた立法理由に照らす限り、大いに疑問といわなければならない。