取材源秘匿の権利

甲斐素直

問題

 テレビ局Xは、…年の衆議院議員選挙の際、A党党首BがC県で選挙演説を行い、多数の市民がそれを聴きに来ている模様を、取材クルーを派遣して撮影していた。Bの演説に強い反発を感じた市民Yは、声高にBを非難するヤジを飛ばし、手に持っていたA党の宣伝ビラを丸めて投げつけたところ、それがBの顔をかすめた。そこで、その場の警備に当たっていた警察官ZがYを取り押さえ、暴行罪の現行犯として逮捕した。

 Yは、Zの逮捕行為に全く抵抗しなかったにも拘わらず、Zは、逮捕に当たり、Yを地面に引き倒し、その両手を後ろに回して手錠を掛け、その後に、倒れたままのYの腹部を足で数回蹴とばした。このため、Yは全身数ヶ所に擦過傷を負ったばかりでなく、腹部に全治1ヶ月の打撲傷を負った。

  テレビ局Xの取材クルーは、演説の開始から逮捕にいたる全過程を撮影していた。しかし、Xのニュース番組では、Yが投げたビラを丸めた紙が演説中のBをかすめる場面を放映したにとどまり、YがZにより逮捕された場面は放映しなかった。

 Yは、Zから受けた暴行を、特別公務員暴行陵虐罪に当たる行為であるとして、C地方検察庁に告訴した。その事実を捜査する一環として、検察官Dは、Xに対し、事件当日に取材クルーが撮影したフィルムの任意提出を求めたが拒否されたため、裁判官Eの発した差し押さえ令状に基づき、未編集のものも含め、当該クルーが当日現場で撮影したフィルム全部を差し押さえた。

 これに対して、Xは、この処分に不服であるとして、処分の取り消しを求める準抗告を提起した。

 本件差し押さえ処分にかかる憲法上の問題点を論ぜよ。

[問題の所在]

 報道の自由を論じる時、それは人権、この場合に限定すれば表現の自由には属さない、ということを明確に認識しておかなければならない。そうでないと、答案は、その一行目で、あっさりと落第答案になってしまう。

 報道の自由が人権ではないということは、諸君が、ごく普通の常識を働かせて考えさえすれば、すぐに判るはずである。

 なぜなら、普通、人権というものは、その絶対的性格として「何人も」享受できるものだからである。表現の自由は、その良い例で、成人だけでなく、児童もその主体となれることは、児童の権利に関する条約の明言しているところである。

 ところが、報道の自由の主体になるのは、報道機関だけで、他の者は絶対になれない。くどいようだが、報道機関という特定の性格を有する機関だけが、その権利の主体となれるのであって、まちがっても「何人も」ではないのである。この点で、すでに人権ではあり得ないことが判るであろう。

 また、人権というものは、自然人だけが享有できる。何かの理由で法人(団体)に主体性を認められる必要がある場合には、法人の人権享有主体性なんていう議論が必要になる。ところが、報道の自由の場合には、報道機関たる性格を有する法人〈別に実定法の法人格を有している必要は、理論上は無いという意味では、団体という方が正確だが〉だけがその主体になるのであって、自然人がその主体となる事は絶対に無い。もちろん、この報道の自由から派生する取材の自由や編集の自由になると、自然人が主体となるが、その場合にも、「何人も」ではなく、その報道機関の中で一定の地位を占めている自然人(つまり、その法人の機関。取材の自由であれば取材記者、編集の自由であれば編集者)だけがその主体になれるのである。このように、法人(団体)だけが主体になれる権利という点でも、これは明らかに人権ではない。

 こういう、憲法理論という以前の、普通の社会常識から考えれば、報道の自由が人権(表現の自由)に属すると書くのは正気ではない、ということが判ると思う。だから、そう書いた瞬間に、完全な落第答案と評価されるというのは、容易に理解できるであろう。

 そこで、問題は、では、それは憲法理論としては、どう構成するべきかと言うことである。その答は、知る権利だと言うことになる。したがって、報道の自由に関する論文の、主たる論点もまた、知る権利の展開に合わせた形で把握されていく必要がある。すなわち、知る権利に奉仕する権利として、報道の自由は積極的に肯定される。他方、知る権利に奉仕する必要性から、報道の自由には一定の限界が発生する。すなわち、国民に、その知る必要のある客観的な情報を適時適切に供給することは、報道機関の特権であると同時に義務である。特権だから、普通の人権より強力に保護される。しかし、同時に、報道機関に属する自然人が、その思想等に基づいて、報道内容をねじ曲げたり、報道すべき情報を削除することは許されない。このように、積極、消極両面ともに、知る権利に対する奉仕性から生ずる点を把握することが大切である。

 要するに、報道の自由は、なぜ一般の表現の自由とは別個に論じられるのか、換言すれば、一般の表現の自由との異質性をきちんと押さえられるか否かが、論文の出来を決定する分岐点である。同時に本問の中心論点が、報道の自由ではなく、取材の自由にある点を押さえた文章となっている必要がある。単純に報道の自由に関する論文の冒頭部分を転記したのではいけないのである。

 本問はTBSビデオテープ押収事件(平成279日最高裁判所決定=百選(第6版)168頁参照)として知られる事件をベースに作問したものであることは、ある程度勉強している諸君なら直ちに気がついたこととと思う。

 そこで問題となるのは、この事件が、これに先行する博多駅フィルム提出命令事件や日本テレビ事件とどこが違うのか、また、これらの場合の審査基準としてどのようなものを設定するか、である。当然これが第二の大きな論点となる。その記述に当たっては、単に博多駅フィルム提出命令事件やTBS事件だけでなく、その後の判例理論の発展をも踏まえたもので無ければならない。

一 報道の自由の意義

 報道の自由とは、「報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由」を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人(団体)である点に第二の特徴がある。

 いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、ないし下すべきであるのか、の理由を述べなければいけない。

(一) 事実の伝達

 この事実の伝達という点を押さえることは、取材の自由を中心論点とする本問では特に重要である。事実の伝達を使命とするものであるから、その事実の収集活動である取材を特に保護する必要が生ずるからである。

 かつては、表現の自由は、憲法19条の思想信条の自由を受けて、これを外部的に表白する自由を意味すると解されていた。その前提の下においては、純然たる事実の伝達は、そのままでは表現の自由の保護客体とならない。そのため、かっての学説は「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」、というような詭弁を弄して、無理にその保護対象に取り入れていた。このような説明の下においては、報道の自由は、自民党の機関誌「自由新報」や共産党の機関誌「赤旗」のように、特定の主義主張の下に、必要とあらば真実をねじ曲げる編集をするような報道姿勢の場合には保護対象となりやすいが、報道の自由の理念に忠実に、純粋に客観的事実の報道に徹すれば徹するほど、保護から遠のくという奇妙な結論が導かれる。また、石井記者事件最高裁判決に端的に現れているように、取材の自由までは保障しないという結論が容易に導かれることになる(石井記者事件については後述)。

 これらの見解は、報道の自由の本質を捉えて、それを真っ正面から保護しようという姿勢に立つ理論とは言い難い。その様な説明は、無益どころか、有害なものと評価すべきであろう。予備校本などでは、このような骨董品的な見解がいまだに書かれている例をみるが、これは、今日では、異常な珍説という他はない。

 なお、どのように論ずるにせよ、報道の自由について論ずるためには、その前提として表現の自由概念そのものを論じなければならない。表現の自由をどのような概念かについて、まったく述べずに、いきなり上記の「事実と思想の区別は難しい」というような議論を始めるのは、基本的に間違っている。

 今日、我々は、従来の狭い、文字通りの表現行為の自由に代わって、今日的な表現の自由として、知る権利を包含する形の表現の自由という概念を知っている。ドイツ憲法(基本法)第5条が表現の自由の内容として「一般に近づくことができる情報源から妨げられることなく知る権利」を保障したのは、憲法レベルにおいて、かっての表現の自由概念から訣別し、知る権利を正面から肯定した最初の例である。

 こうした発展を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准昭和54年)192項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。

 もちろん、これは人権規約で定める表現の自由であって、憲法21条の表現の自由は依然としてかつての狭い概念のままである、という立場を貫くことは可能である。しかし、法律レベル以下の法規範を対象とした解釈法学では、憲法そのものの定める表現の自由か、条約が定める表現の自由かは問題にならない。法段階説的にいって、どちらの場合にも、それに違反する法律や命令は無効だからである。したがってそうした旧弊な立場を維持することは、無用に論理を複雑にする以上の何ものでもない。こうしたことから、今日の憲法学では、憲法21条の自由そのものが、あらゆる考え及び情報を求め、受け、伝える自由と理解するのが普通である。したがって、我が国が世界人権規約を批准した昭和54年以降においては、それ以前の狭い表現の自由概念を述べた学説は、解釈法学としてはその妥当性を失い、それに依拠した判例は、もはやその先例性を失っているというべきである。

 この段階で、知る権利を意義づけるに当たり、後に紹介する博多駅フィルム提出命令事件を引用して、民主主義を報道の自由の基礎とのみ説明する者がある。しかし、国民の知る権利は、単に主権者としての地位から発しているのではない。その様な説明をした場合には、知る権利の対象として保護されるのは、主権者として必要な情報に限定されることになってしまうことを、看過している。

 知る権利の本質そのものに遡った、より幅広い説明がここでは必要である。例えば、人権の本質を人格的利益説に求める立場では、各人は自らの人格を自由に発展させる権利を持つのであり、そのためには、自己を成長させるために必要なあらゆる種類の情報を、求め、または受ける権利を必然的に保有する、と説明することができるであろう。これを一言に表現すれば、「自己実現と自己統治の権利確保のために」知る権利が認められるといっても良い。こういう簡潔な表現も是非覚えてほしい。

 このように知る権利概念を使用する場合には、その権利の内容として事実の伝達が含まれることは当然のことであって、先に論及した事実と思想の区別困難というような有害無益な説明をする必要は完全に失われているのである。

(二) 報道機関による活動

 表現の自由の享有主体は、[はじめに]で述べたとおり、あらゆる私人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般私人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使とは言わない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解しなければならない。なぜならば、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般私人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、それに対応する特別の制約が課せられるからである。

 その相違は、一般私人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。

 この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かつての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日、百選第6166頁参照)は次のように述べている。

「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」

 すなわち、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点をきちんと押さえておかねばならない。

 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。

 その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、本問取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権である。

 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。このことは電波メディアには法律上明定されており、印刷メディアの場合にも、基本的に同様に考えられている。ただ、それが抽象的権利に留まるのか、具体的権利として把握することが可能なのかについて、説が分かれているに過ぎないのである。ただ、この点は本問では論点とはならないので、その存在を指摘するにとどめる。

二 取材の自由

 知る権利に奉仕する権利としての報道の自由は、さらに三つの派生原則に分けて理解することができる。取材の自由、編集の自由及び発表の自由である。その中でも、取材の自由は、正確な事実を収集するための活動として、特に強力な保護の対象となる。

(一) 取材の自由の意義

 事実を伝達するためには、まず伝達すべき事実を収集しなければならない。報道機関が行う事実収集のための活動を取材という。取材の自由が報道の自由の一環に属するものであることは、今日においては疑う余地がない。

 だが、最初からそう考えられていた訳ではない。先に報道の自由に関し、学説は初期に「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」という奇妙な論理を通して、表現の自由の一環として肯定するという姿勢をとっていた、と述べた。このように報道の自由を把握する立場では、報道の自由も、また「何人も」享受できる権利である。しかし、何人にも、取材の自由を認めるわけにはいかない。

 その様に考える場合には、必然的に「本来の報道の自由は、取材された事実を報道する自由を意味し、当然には取材の権利をも含むと見るべきではない」(宮沢俊義『憲法Ⅱ』法律学全集4新版363頁)とする見解が導かれることになる。

 判例もこれを受けて、当時は、報道機関の取材活動における特権的な地位の主張を、次の様に述べて否定していた。

「憲法の右規定は一般人に対し平等に表現の自由を保障したものであつて、新聞記者に特種の保障を与えたものではない。それゆえ、もし論旨の理論に従うならば、一般人が論文ないし随筆等の起草をなすに当つてもその取材の自由は憲法21条によつて保障され、その結果その取材源については証言を拒絶する権利を有することとなるであろう。憲法の保障は国会の制定する法律を以ても容易にこれを制限することができず、国会の立法権にまで非常な制限を加えるものであつて、論旨の如く次ぎから次ぎえと際限なく引き延ばし拡張して解釈すべきものではない。憲法の右規定の保障は、公の福祉に反しない限り、いいたいことはいわせなければならないということである。未だいいたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための取材に関しその取材源について、公の福祉のため最も重大な司法権の公正な発動につき必要欠くべからざる証言の義務をも犠牲にして、証言拒絶の権利までも保障したものとは到底解することができない。」(石井記者事件=最大昭和2786日=百選(第5版)156頁参照=第6版には掲載されていない。)

 このような判決の流れを大きく変更したのが、先に引用した博多駅フィルム提出命令事件最高裁判決である。同判決は、先の引用部分に続けて次のように述べる。

「思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由と共に、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」

 この判決の表現に注目して欲しい。時々、この判決が、報道の自由を表現の自由の一環として補償していると読む人がいるが間違いである。あくまでも、「21条の保障のもとにある」と言っているに過ぎないのである。これは、先に引用した知る権利へ奉仕する自由という意味である。まして、それから派生する権利である取材の自由は「21条の精神に照らし、十分尊重に値いする」というレベルにまで、憲法的名保障のレベルは低下するのである。

 この判決では、取材の自由が法的権利であることは示されているが、抽象的権利のレベルに留まるのか、それとも具体的権利であるのかははっきりしなかった。この権利が具体的権利であることが最も端的に現れてくるのは、公務員の守秘義務を取材活動を通じて突破しようとする場合である。沖縄機密電報漏洩事件で最高裁は次のように述べた。

「報道機関の国政に関する報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、いわゆる国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由は、憲法21条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものでありまた、このような報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由もまた、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない。そして、報道機関の国政に関する取材行為は、国家秘密の探知という点で公務員の守秘義務と対立拮抗するものであり、時としては誘導・唆誘的性質を伴うものであるから、報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」

(最判昭和53531日=百選(第6版)170頁参照)

 要するに、普通人が行えば、違法と評価される行為と客観的には完全に同一の行為が、報道機関によって行われる場合にだけ、正当業務行為と評価されることになるのである。

 この理念は今日では完全に定着し、立法、司法、行政のあらゆる場面で取材の自由は、特権的な地位を与えられる。

 例えば、国会法52条は、その本文で、「委員会は、議員の外傍聴を許さない」と定めつつ、その但書で「報道の任務にあたるものその他の者で委員長の許可を得たものについてはこの限りではない」と規定し、事実上フリーパスで報道陣の傍聴を認めている。また、裁判所が一般傍聴人のメモ行為を禁じていた時代にも、報道関係者のメモ行為は特に禁止した例はない(なおレペタ事件=百選156頁参照)。

(二) 取材源秘匿の自由

 取材の自由から派生する権利として、取材源秘匿の自由というものが認められるかについては、古くは争いがあった。すなわち、先に紹介した石井記者事件では、憲法21条は新聞記者に特別の保障を与えたものではない、として、これを否定した。しかし、上述の通り、報道の自由は一般の表現の自由と異なる特別な保障であり、その主体たる報道機関には特別の権利が認められる、と考えるときには、これは当然異なる結論となる。

 取材源の秘匿が要請されるのは、しばしば、取材源を明らかにしない、という信頼があって始めて正確な情報が得られることがあるためである。この結果、この内々の信頼関係が保護されることによって、正確な情報が国民に伝達されるという結果が生ずるからである。

 最高裁判所は、次の様に述べて、取材源秘匿の権利の存在を肯定した(平成18103日最高裁判所第三小法廷決定=百選(第6版)160頁参照)。まず一般論としては、次の様に述べる。

「ある秘密が上記の意味での職業の秘密に当たる場合においても,そのことから直ちに証言拒絶が認められるものではなく,そのうち保護に値する秘密についてのみ証言拒絶が認められると解すべきである。そして,保護に値する秘密であるかどうかは,秘密の公表によって生ずる不利益と証言の拒絶によって犠牲になる真実発見及び裁判の公正との比較衡量により決せられるというべきである。」

 しかし、その上で、取材の自由に関しては、特別の論理が働くとした。

「報道関係者の取材源は,一般に,それがみだりに開示されると,報道関係者と取材源となる者との間の信頼関係が損なわれ,将来にわたる自由で円滑な取材活動が妨げられることとなり,報道機関の業務に深刻な影響を与え以後その遂行が困難になると解されるので,取材源の秘密は職業の秘密に当たるというべきである。」

 簡単に言えば、報道機関の場合には、自動的に職業上の秘密に該当するとしたのである。

その場合に、どのような審査基準で、秘匿の自由を認めるべきかについては、審査基準論の問題になるので、後で改めて論じたい。

(三) 取材物提出拒否権

 このように、取材源秘匿権というものが、取材の自由の一環として認められるということになると、そこからさらに進んで、報道目的で撮影されたテレビフィルム等、取材の成果物に対する裁判所からの提出命令や、捜査当局による差し押さえが問題となる。

 再三引用している博多駅フィルム提出命令事件最高裁判所判決は、この点について次のように述べた。

「本件において、提出命令の対象とされたのは、すでに放映されたフイルムを含む放映のために準備された取材フイルムである。それは報道機関の取材活動の結果すでに得られたものであるから、その提出を命ずることは、右フイルムの取材活動そのものとは直接関係がない。もつとも、報道機関がその取材活動によつて得たフイルムは、報道機関が報道の目的に役立たせるためのものであつて、このような目的をもつて取材されたフイルムが、他の目的、すなわち、本件におけるように刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない。」

 要するに、明言はされていないが、取材源秘匿と同様に、取材物を官憲に提出することにより、信頼関係を破壊し、将来の取材の自由を制約する可能性を肯定し、これを根拠に提出拒否権を認めていると理解することができる。

 その上で、裁判の公正という利益との間に比較衡量を行うことになる。すなわち、

「しかし、取材の自由といつても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。」 

 この事件において、裁判の公正という言葉はかなり重い。なぜなら、ここで問題になっているのは、特別公務員暴行陵虐罪(刑法195条)という、国民の国家に対する信頼の根底を揺るがす重大犯罪であり、その重要性に鑑みて特に設けられている準起訴手続という、裁判の信頼を確保するための最後の手段と言うべき特別手続実施のために認められていることだからである。しかも最高裁は、この裁判の公正と取材の自由の比較衡量の到達点として、放送のために準備されたフィルムに限って提出を命令したのである。放映のために準備されたフィルムだということは、報道機関自身が編集権を行使し、将来の取材に障害をもたらさないという第一次的判断が既に行われているものに限定している、ということを意味する。

 昭和63年に起きた日本テレビのビデオフィルムを検察事務官が差押事件で最高裁判所は、博多駅フィルム提出命令事件との異同を次のように述べた。

「同決定は、付審判請求事件を審理する裁判所の提出命令に関する事案であるのに対し、本件は、検察官の請求によつて発付された裁判官の差押許可状に基づき検察事務官が行つた差押処分に関する事案であるが、国家の基本的要請である公正な刑事裁判を実現するためには、適正迅速な捜査が不可欠の前提であり、報道の自由ないし取材の自由に対する制約の許否に関しては両者の間に本質的な差異がないことは多言を要しないところである。」(最判平成元年130日=平成2年度重要判例解説参照)

 付審判請求と通常の刑事事件を、単純に同視できるかについては疑問がある。しかも、この決定が、はかりの一方に乗るものが、このように若干軽いものになっているにも関わらず、利益衡量の段階でも、博多駅フィルム提出命令事件のようなぎりぎりの衡量を行ったかは疑問のあるところである。同判決に対する反対意見で、島谷判事は次のように述べる。

「報道機関の取材結果を押収することによる弊害は、個々的な事案の特殊性を超えたところに生ずるものであり、本件ビデオテープの押収がもたらす弊害を取材経緯の特殊性のゆえに軽視することも、適当ではないように思われるのである。更に、本件ビデオテープには未放映部分が含まれているが、右部分は、記者の取材メモに近い性格を帯びており、その押収が前記弊害をいつそう増幅する傾向を有することにも十分留意する必要がある。」

 このように、博多駅フィルム提出命令事件の厳しい比較衡量要件を緩和する傾向の延長線上に、捜査機関による押収が問題となったTBSビデオフィルム押収事件が存在している。すなわち、同事件では、博多駅フィルム提出命令事件に見られた裁判の主体である裁判所、あるいは日本テレビビデオフィルム差押え事件に見られた裁判の直接の当事者である検察と違い、その一段階前の捜査機関による押収である。

 したがって、本事件では、その前例と同様に、比較衡量の一方の基準として、裁判の公正を根拠に説明することはできない。実際、この判決ではその点への論及はない。ここで表面に出ているのは、犯罪を助長する形で行われた取材方法の異常さの指摘なのである。

「本件は、撮影開始後複数の組員により暴行が繰り返し行われていることを現認しながら、その撮影を続けたものであって、犯罪者の協力により犯行現場を撮影収録したものといえるが、そのような取材を報道のための取材の自由の一態様として保護しなければならない必要性は疑わしいといわざるを得ない。」

 すなわち、ここでは、本件が取材の自由の保護対象となっていること自体が疑問視されているのである。その意味で、この判決により、一般に捜査機関の押収と取材の自由が、裁判の公正というような秤に対等の重み付けでのる問題である、ということが確定されたとは未だ言い切れないように考えている。

三 編集の自由

 本問の場合には、折角特別公務員の暴行について取材しながら、編集の段階でこれを削除し、報道しなかった点の意義を考えなければならない。

 編集権は、それ自体、著作権が認められる権利であり、例えば、公職選挙法でも、第148条で新聞・雑誌の「報道評論の掲載の自由」を、第151条の3で放送事業者の「選挙放送の番組編集の自由」を確認している。或いは、訂正請求事件において、最高裁判所は次のように述べている。

 「[放送]法3条は,…表現の自由及び放送の自律性の保障の理念を具体化し,『放送番組は,法律に定める権限に基く場合でなければ,何人からも干渉され,又は規律されることがない』として,放送番組編集の自由を規定している。すなわち,別に法律で定める権限に基づく場合でなければ,他からの放送番組編集への関与は許されないのである。法4条1項も,これらの規定を受けたものであって,上記の放送の自律性の保障の理念を踏まえた上で,上記の真実性の保障の理念を具体化するための規定であると解される。」(訂正放送等請求事件20041125日最判=平成16年度重要判例解説22頁参照)

 このように、放送に関する編集権は強力な保障の対象となっている。

 しかし、同時に、冒頭に強調したとおり、この強力な編集権もまた、国民の知る権利に奉仕するために「事実の伝達をする自由」として認められていることを忘れてはならない。本問の場合、特別公務員の暴行という国民一般の利害に深刻な関わりを持つ重大事件を取材していながら、それを編集段階で削除する自由というものがあるのか、つまり編集権の濫用ではないか、という疑いが存在する。博多駅事件で最高裁判所は、取材の自由、編集の自由に対する概念として「一面において、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮する」必要性を指摘している。

四 表現の自由における比較衡量基準

 これら一連の取材物提出拒否権からみの事件で問題となっているのは、第1に、裁判の公正ないし捜査の適正という利益と取材の自由という異質の利益を比較する手段として、比較衡量という手法を採用している。

 比較衡量の手法としては、単純な比較衡量(その事件限りの比較衡量(ad hoc衡量)、定義づけ比較衡量、重み付け比較衡量という三つの手法が存在している。したがって、本問では、そのどれを、どのような理由から使用するべきかが中心論点となる。

 まず、三つの比較衡量方法について、簡単に説明する。

 第一の、単純比較衡量という方法は、博多駅フィルム提出命令事件で採用されたものであり、それに続く日本テレビ事件、TBS事件でも採用されていた。

 第二の、定義づけ比較衡量というのは、一方を表現の自由として固定した上で、それに対立する利益を衡量するという手法で、有名な例としては大分県屋外広告物規制条例事件(最判昭和6233日=百選(第6版)130頁参照)がある。

 そして、第三の重み付け比較衡量の代表というべきが、泉佐野市会館使用不許可事件判決である(最判平成737日=百選(第6版)182頁参照)。

 同事件判決を簡単に紹介すると、次のようになる。まず、会館の使用を拒否することが憲法の保障する集会の自由の制限につながることを肯定したうえで、

「制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」

とする。その上で、比較衡量するにあたっての基準を、この集会の自由という精神的自由権の制限である点から次のように結論する。

「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない」

と述べ、いわゆる明白かつ現在の危険という基準を導入して審査するのである。

 このような3通りの比較衡量方法が存在していると言うことを念頭に置いて、先に紹介した平成18年最高裁判所決定が、どの比較衡量方法を、どのような理由から使用しているかを見てみよう。

 同決定は、まず一般論として次の様に述べる。

「当該取材源の秘密が保護に値する秘密であるかどうかは,当該報道の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該取材の態様,将来における同種の取材活動が妨げられることによって生ずる不利益の内容,程度等と,当該民事事件の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該民事事件において当該証言を必要とする程度,代替証拠の有無等の諸事情を比較衡量して決すべきことになる。」

 この部分だけを見ると、ad hocな衡量を行おうとしているように見える。しかし、これはあくまでも一般論である。この一般論を受けて、そのすぐ後に、報道機関の特殊性を述べ出すのである。

「この比較衡量にあたっては,次のような点が考慮されなければならない。すなわち,報道機関の報道は,民主主義社会において,国民が国政に関与するにつき,重要な判断の資料を提供し,国民の知る権利に奉仕するものである。したがって,思想の表明の自由と並んで,事実報道の自由は,表現の自由を規定した憲法21条の保障の下にあることはいうまでもない。また,このような報道機関の報道が正しい内容を持つためには,報道の自由とともに,報道のための取材の自由も,憲法21条の精神に照らし,十分尊重に値するものといわなければならない」

 ここに書かれているのは、博多駅フィルム提出命令事件判決の引用である。この結果、取材の自由及びそれから導かれる取材源の秘密には、次の様に重み付けが行われる。

「取材の自由の持つ上記のような意義に照らして考えれば,取材源の秘密は,取材の自由を確保するために必要なものとして,重要な社会的価値を有するというべきである。」

 これが、極めて明白な重み付け文言であることは、特に説明の要は無いであろう。これを受けて、現実の審査基準は、次の様にするべきだという。

「当該報道が公共の利益に関するものであって,その取材の手段,方法が一般の刑罰法令に触れるとか,取材源となった者が取材源の秘密の開示を承諾しているなどの事情がなく,しかも,当該民事事件が社会的意義や影響のある重大な民事事件であるため,当該取材源の秘密の社会的価値を考慮してもなお公正な裁判を実現すべき必要性が高く,そのために当該証言を得ることが必要不可欠であるといった事情が認められない場合には,当該取材源の秘密は保護に値すると解すべきであり,証人は,原則として,当該取材源に係る証言を拒絶することができると解するのが相当である。」

 つまり、特別の事情が無い限り、報道機関に関しては、常に取材源に関する証言を拒否することが許されるとしたのである。ここで展開されてる論理が、先に紹介した泉佐野市民会館事件で開発された、明白かつ現在の危険理論にきわめて類似したものであることは判ると思う。

 このように、平成2年のTBS事件当時と、平成18年では、その間に平成7年の泉佐野市民会館事件を挟んで、最高裁判所そのものの見解がかなり推移していることが判る。したがって、今日において、TBS事件と同様の事例問題が出題された場合に、同事件の最高裁判所の論理に従っていさえすれば、多分合格点が貰えるだろうというような発想は、きわめて甘いものと言わなければならない。諸君は、現時点における人権センスで論文は書かねばならないのである。

 本問の場合、作問にあたり、次の点を工夫している。

 第一に、問題が捜査段階であり、したがって、博多駅フィルム提出命令事件や上記平成18年決定と異なり、「裁判の公正」は、対立する利益に上がってこないという点である。刑事訴訟法を勉強した諸君は判っているはずだが、捜査に当たって「強制の処分はこの法律に特別の定のある場合でなければ、これをすることができない」(刑訴法1971項)のであり、原則は任意捜査なのである。したがって、裁判の公正と異なり、捜査の必要という事自体は、憲法レベルはおろか、法律レベルにおいてさえ、保護法益になるとは言えないのである。

 第二に、問題文中に、明白に放映されていないということを記述しておいた。博多駅フィルム提出命令事件で最高裁判所が、裁判の公正と取材源秘匿の必要の妥協点として、宝永済みフィルムという点を捉えたことを考えれば、裁判の公正という一方の利益が存在していない本問で、この記述はかなり重いはずである。これと、先に指摘した編集の自由の比較衡量が、本問の中心論点となるよう、工夫したのである。

 こういう点を念頭に置いて回答をして欲しい。