幼児教育助成制度と憲法89条

甲斐素直

問題

 Xは、Z県Y市の市民である。

 Y市は大都市のベットタウンとしての性格を持つ地域に所在し、新興住宅地を中心に幼い子を持つ夫婦が大量に流入してきているため、幼稚園設置に対する需要が強く存在している。そこで、Y市では子育て支援の充実のため、公立幼稚園を増設しているが、それでは不十分であることが明らかになった。そこで、次のような施策を講じている。

1)私立幼稚園を市内に積極的に誘致するため、Z県が実施する私立学校振興助成法にもとづく私立幼稚園経常費補助事業に加えて、市独自の助成措置を講ずることとした。市内に住所を有する幼児、すなわち、Y市に住民登録をしているか、あるいは外国人登録をしている幼児を1人受け入れるごとに5000円を私立幼稚園に交付することとした。市の私立幼稚園助成要項には、私立幼稚園は、補助金の交付を受けようとするときは、所定の交付申請書に行事関係資料を添付してY市教育委員会に提出すること、幼児教育終了後は、所定の実績報告書に関係資料を添付して同委員会に提出すること、同委員会は、虚偽の申請その他不正な手段により補助金の交付を受けたと認めたときは、既に交付した補助金の全部又は一部を返還させるものとすることなどが定められている。

2)Y市内のA新興住宅地では、幼稚園に対する需要が極めて高いにも拘わらず、公私を問わず幼稚園が存在していないため、一部の児童が幼稚園に通うことが不可能な状況が発生していた。そして、諸般の事情から、近い将来に公立幼稚園を新設することも困難であるところから、団地自治会が、幼稚園の代替施設として無認可で開設する幼児教室に対して、この前年から、私立幼稚園と同様の助成金を交付している。本件教室は、その規約の定めるところによれば、保護者全員をもってする、権利能力なき社団であって、総会は、全保護者で構成され、多数決の原則が行なわれ、毎年度初めと年度末に開かれ、その各クラスの幼児の保護者2名ずつと代表委員1名と職員代表3名をもって構成する運営委員会が平常業務を遂行し、その定例会が月1回開かれ、代表委員は11年交替で監査委員2名が運営委員会の業務遂行と財産状況の監査をし、各委員は年度途中で幼児が在園しなくなれば直ちに交替することになっている。

 Xは、20XX51日に、私立幼稚園及び幼児教室への助成金の交付は憲法89条に違反するとして、地方自治法242条に従い、市監査委員に対し、前年までに支払い済みの私立幼稚園に対する助成金計400万円及び幼児教室に対する助成金計50万円の返還を求めると共に、同年予算計上額幼稚園に対する助成金計100万円及び幼児教室に対する助成金計50万円の支払防止のため、しかるべき勧告を求めて監査請求を行った。

 しかし、監査委員は、私立幼稚園及び幼児教室には公益性があるから、これら支出に不当性はなく、本件監査請求は理由がないと判断し、20XX620日にその旨をXにあて通知し、かつ、公表した。そこで、Xは同年7月1日に、地方自治法242条の2に従い、予算執行の差し止め並びにY市長に対し交付済み助成金のY市に対する返還を求めて訴えを提起した。

 本件助成金が憲法89条に違反するものか否かについて論ぜよ。

[はじめに]

 小問1と小問2の違いは、幼児教育施設に対する補助に、法的根拠があるかないかの1点に尽きる。すなわち、幼稚園は、学校教育法上の教育施設である。

 私立学校振興助成法9条は「都道府県が、その区域内にある小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、盲学校、聾学校、養護学校又は幼稚園を設置する学校法人に対し、当該学校における教育に係る経常的経費について補助する場合には、国は、都道府県に対し、政令で定めるところにより、その一部を補助することができる。」と定める。これが問題文中にある経常費補助である。また、同10条は「国又は地方公共団体は、学校法人に対し、第4条、第8条及び前条に規定するもののほか、補助金を支出し、又は通常の条件よりも有利な条件で、貸付金をし、その他の財産を譲渡し、若しくは貸し付けることができる。」とする。これが同じく、問題文中にある追加的な助成措置の法的根拠となる。

 これに対して、幼児教室に対する補助には、このような法律に基づく根拠はない。しかし、同時に、幼児教室に対する補助を禁ずる法律もないから、地方公共団体の条例に基づいて補助を交付することは、法律と条令の関係において禁じられるわけではない。

 そして、そもそも公の支配に属しない教育事業という問題があるという点から見ると、両者には全く違いがない。したがって、同一の問題として考えて良い。

 司法試験では、平成7年度に、次のような問題が出されている。

 国が、私立学校法にいう私立学校に対して補助金を支出することは憲法上許されるかどうかについて論ぜよ。

 また、地方公共団体が、学校教育法にいう幼稚園には該当しないがこれに類似した事業を行う幼児教室に対して補助金を支出する場合はどうか。

 問題の形式が若干違うが、本問は、これと同一問題である。

一 解答のポイント

 仮に諸君に対して、89条前段の宗教団体に対する公金の支出の制限を論じるように求めたならば、諸君は当然のこととして203項の政教分離から議論を始めるであろう。ところが、後段について論ずる場合には、なぜか人権論の議論がまったく出てこない傾向がある。しかし、それは誤りである。後段の場合にも、まさに人権と財政の関係が問題なのである。そして、前段であれば、信教の自由という自由権との関連だけを論ずれば足りるのに対して、後段の場合には自由権に加えて社会権も問題になるところに、その難しさがある。

 すなわち、この問題の難しさは、福祉主義に立脚する教育・慈善等の事業に対する援助の必要性、民主主義に立脚するところの国会中心財政主義、そして思想・信条の自由という自由主義という、現行憲法を支配する三大原理が、この狭い領域で互いに衝突している点にある。そのことを抽象的に表現したのが89条後段である。単純に無駄遣いの禁止というような、卑近なレベルで同条をとらえるのは間違いである。

 教育について簡単に説明すれば、次のような対立関係が問題になる。

 第一に、憲法26条は教育を受ける権利を保障している。国は我々国民の人権からの要求に応えて、教育活動を支援しなければならない。その場合、教育の私事性と公教育という概念の対立の中から、援助の形態、限度が決定されることになる。

 第二に、憲法83条の定める国会中心財政主義は、公金が支出された場合には、それに対する監督を要求している。俗な言い方をすれば、国は、金を出す場合には、必ず口も出さねばならないのである。

 この結果、26条を重視すれば私学に対する公金の支出が要求され、公金を支出すれば83条からその使途に対する国の監督活動が要求される。

 そして、大学教育にせよ、幼稚園教育にせよ、私人による公教育活動は、その運営主体の持つ人生観・世界観の具体化と理解することができる。したがって、そうした活動に対する干渉は19条(運営主体の教育理念のベースとなる世界観が、特定の宗教に基づいている場合には20条)違反となる。

 要するに、こうした教育活動を支援しなければ違憲であり、その教育活動に干渉しなければ違憲であり、そして干渉すれば違憲になるという三すくみ状態が発生する点に、この問題の難しさがある。それを解決しようとしているのが、憲法89条なのである。

 それをどう整理するかが論文のポイントとなる。

 問題文の中に、幼稚園及び幼児教室の管理形態がある程度詳しく書き込んであるが、これは、上記各原理衝突の調整が、それぞれの教育活動における管理形態に掛かって判断されるためである。しかし、何時も強調することだが、諸君の論文レベルで、事実認定論を書いてはいけない。この事例のベースになった判例を見てもらえれば判るが、実際の事実認定ははるかに詳細である。この問題の事実は、あくまでも諸君が考えるための補助に過ぎず、この程度の事実では絶対に確定的な判断を下すことはできない。諸君に求められているのは、常に法律上の論点を指摘し、それに対する意見を理由と共に述べることである。

二 判例の見解

 小問(2)の設問のベースとなった、埼玉県吉川町における幼児教室補助事件において、東京高等裁判所は平成2129日判決において、次のように述べている。

「同条後段の教育の事業に対する支出、利用の規制については、もともと教育は、国家の任務の中でも最も重要なものの一つであり、国ないし地方公共団体も自ら営みうるものであって、私的な教育事業に対して公的な援助をすることも、一般的には公の利益に沿うものであるから、同条前段のような厳格な規制を要するものではない。同条後段の教育の事業に対する支出、利用の規制の趣旨は、公の支配に属しない教育事業に公の財産が支出又は利用された場合には、教育の事業はそれを営む者の教育についての信念、主義、思想の実現であるから、教育の名の下に、公教育の趣旨、目的に合致しない教育活動に公の財産が支出されたり、利用されたりする虞れがあり、ひいては公の財産が濫費される可能性があることに基づくものである。このような法の趣旨を考慮すると、教育の事業に対して公の財産を支出し、又は利用させるためには、その教育事業が公の支配に服することを要するが、その程度は、国又は地方公共団体等の公の権力が当該教育事業の運営、存立に影響を及ぼすことにより、右事業が公の利益に沿わない場合にはこれを是正しうる途が確保され、公の財産が濫費されることを防止しうることをもって足りるものというべきである。右の支配の具体的な方法は、当該事業の目的、事業内容、運営形態等諸般の事情によって異なり、必ずしも、当該事業の人事、予算等に公権力が直接的に関与することを要するものではないと解される。」

 これを、[はじめに]で述べたところに従って、整理してみよう。

  1 26条について

 この引用文中、「もともと教育は、国家の任務の中でも最も重要なものの一つであり、国ないし地方公共団体も自ら営みうるものであって、私的な教育事業に対して公的な援助をすることも、一般的には公の利益に沿うものである」とあるところは、前節で説明したことのうち、26条に基づく支援義務を述べたものと見ることができる。

 もっとも、その観点から見た場合に、この判決は、必ずしも正しい説明とは言えない。すなわち、この文章だと、「国ないし地方公共団体が自ら営みうる」ということが、直ちに私学補助の根拠の一つになると述べている。これは正しい説明とは言えない。仮に国民の教育を受ける権利が、国または地方公共団体の設立した学校で十分に充足されている場合には、それに上乗せする形で作られている私立学校に対して支援する義務は国家にはないからである。

 例えば、小中学校の場合には、圧倒的に高い割合が公立学校で占められており、私立学校は1%未満である。このように、誰もが公立学校に行ける状態下で、わざわざ私立小学校に行く(例えば慶應幼稚舎に行く)のは個人の勝手であるが、それを国民の貴重な税金で支援するのは、むしろ間違いと言うべきであろう。

 それに対して、本問で問題となっている幼稚園の場合には学校数の6割、園児数の8割は私立で占められている。ついでに言えば、大学の場合にも、学校数の8割弱、学生数の7割強は私立で占められている(平成16年度学校統計による)。

 すなわち、本問にも現れているとおり、普通の親が子に幼稚園教育を受けさせたかったならば、ほとんどの場合、私立幼稚園に依存せざるを得ない状況にある。したがって、国としては公立に準ずる低廉な費用で通園させられるように補助する義務が、憲法26条から発生すると言えるのである。

 したがって、上記判決の文章は、「国ないし地方公共団体が自ら営みうるにもかかわらず、その責務をきちんと果たさず、国民の教育を受ける権利の充足を私立学校に依存している場合には、私的な教育事業に対して公的援助を行うことは、国等の義務というべきである」としなければいけない。

  2 19条について

 判決文中、「教育の事業はそれを営む者の教育についての信念、主義、思想の実現である」と述べている点に注目してほしい。私が前節で指摘した19条ないし20条の問題が述べられていることが判る。

 この判決の最大の問題は、この文章を「教育の名の下に、公教育の趣旨、目的に合致しない教育活動に公の財産が支出されたり、利用されたりする虞れがあり、ひいては公の財産が濫費される可能性があることに基づくものである」という文章とつなげている点である。私人の世界観に従った運営が行われると、自動的に「公教育の趣旨、目的に合致しない教育活動」となったり、濫費される可能性が発生するという論理的な理由は存在しない。

ここで判決が指摘すべきであったのは、まさにこの逆、公的補助を通じて、私人の世界観に国家が介入することの危険性にある。

  3 83条及び89条について

 この判決の場合、この状況から最後の問題点である憲法83条の要求については、あっさりと、「教育事業が公の支配に服することを要するが、その程度は、国又は地方公共団体等の公の権力が当該教育事業の運営、存立に影響を及ぼすことにより、右事業が公の利益に沿わない場合にはこれを是正しうる途が確保され、公の財産が濫費されることを防止しうることをもって足りるものというべきである。」という結論を導いている。

 その場合に、それが89条の趣旨に合致するということはよいが、何故このような文言解釈が可能であるのか、という点については、全く論究していない点に問題がある。

 小問(1)のベースとなった大阪府池田市における私立幼稚園補助金支出差止等請求事件において、大阪地方裁判所は、平成6330日判決において、上記判決を引用した。その上で、事実の認定として次のように述べている。

「補助金の支出に当たり、補助金に係る事業が前記1(一)記載の助成の趣旨に沿って行われるべきことは、池田市教育委員会が定める本件要綱によって、補助金の使途が限定され、補助金の交付を認めるか否かについての事前の審査及び事後的な報告と審査が制度化されていること並びに同委員会による個別的な指導と実施状況の視察を通じて確保されていると解すべきであって、地方自治法に定める一般的な監査制度の存在をも考慮すると、補助金に係る事業が公の利益に沿わない場合には、池田市において、これを是正しうる途が確保され、公の財産の濫費をさけることができるものというべきであるから、右の関与をもって、憲法89条にいう『公の支配』に属するものということができる。」

 この場合にも、その団体の内政に、19条等に違反しない程度に干渉する道が確保されていれば、89条の要求は満たされるという見解を示している。

 しかし、89条で使われているのは「公の支配」という極めて強い言葉であり、それが何故このように弱く解釈して良いのか、という疑問に対しては、全く回答を与えていない。そこで、以下においては、89条の解釈論に限定して説明する。

三 89条に関する問題点

 公金その他の公の財産の支出、使用(以下「公金の支出等」という。)は、憲法83条の定めるところに従い、国会の財政権に服することとなる。したがって、公金の支出等の対象になる場合には、たとえ内閣や裁判所の所掌に属する活動であっても、ないしは地方公共団体や私企業の活動であっても、全面的に国会の財政管理に服することを原則とする。すなわち、支出に先行して国会の審議が必要であると共に、事後に会計検査院の財政監督に服したうえで、国会の管理が行われねばならない。憲法89条は、その国会の持つ強力な財政権に対する数少ない制限として、重要な意味を有している。

 本条は、公金の支出等に関して、二つの制限を定めている。第一に、宗教上の組織もしくは団体に対して、支出等を行うことを禁じている。第二に、公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業(以下「慈善等の事業」という。)に対しては、同じく支出等を行うことを禁じている。

 このうち、前半については比較的問題が少ない。政教分離の原則は、信教の自由を実質的に保障するものとして憲法203項の定めるところであり、本条はこの原則を財政に置いて再確認し、国会の権限をもってしても宗教団体に公金の支出等を行うことはできないことを明定したものと理解することができる。

 これに対して、後半は常識的にはまことに理解に苦しむ規定となっている。ここに列挙されている慈善等の事業というものは、憲法の重要な基本原則である福祉主義の具体的な中身というべきものである。福祉主義は、私人間の関係に対する国の積極的な関与を要請するものであるから、国や地方公共団体のイニシアティブで行われる福祉事業を公金で賄うだけでなく、私人のイニシアティブで行われる福祉事業についても、国等として可能な限りの援助を行うのが当然のことと考えられる。ところが本条は、邦文の文言に即して理解する限り、そうした私人のイニシアティブで行われるそれらの事業に対しては、一切の公金の支出等を禁じているものと読めてしまうのである。この結果、憲法の基本原則の一つである福祉主義と正面から衝突するため、その意味を憲法秩序の中で理解するのが非常に困難な規定となっている。

四 学説及び実務の現状と問題点

 学説は、激しい対立を示しており、通説と目すべきものはない。したがって、論理的にきちんとしていさえすれば、どのような説を採用しようとも問題はない。学説の状況を以下、簡単に見てみることにしよう。

(一) 私学補助違憲説

 本条後半に関しては、初期においては、「公の支配」を厳格に解し、その結果、私学などに対する補助は違憲とする立場が圧倒的に支配しており、今日においても相当有力な見解ということができる。

   1 全面違憲説

 その主張の典型例を清宮四郎に見ることができる。すなわち、公の支配に属しない事業とは「国または地方公共団体の監督・指導によって、組織・運営の自主性が失われていない私の事業と解すべきであろう。」とした上で、現に私立学校法で定められている程度の監督では、「事業はなお自主性をもち、公の支配に属するものとはみられないから、助成との関係からみて、憲法上の疑義が残される。」としている(清宮・憲法I、215頁より引用)。その一方で、そうした事業の自主性にこだわって援助をしぶるのは、憲法自身の矛盾と鋭く非難している。

 このように、憲法自身の記述に明白な問題があるという結論を下した場合には、憲法改正という手続きを踏んだ上で、その新しい憲法規定に準拠した法律により、私学補助を解決するのが正道というべきである。そして事実、この説に立つ学者はすべて、本条に関しては憲法改正の必要性を主張している(宮沢俊義『日本国憲法』747頁、法学協会『註解日本国憲法』1335頁、槙『財政法』84頁、青山武憲『憲法』352頁等)。

   2 二分説

 違憲説の中で、注目すべきものに、伊藤正己の見解がある。それによれば、補助を、経常費補助と非経常的な補助とに区分し、経常費補助については本説に従いつつ、非経常的な補助については公の支配に服しない団体にも支出可能としている(伊藤『憲法』第3479頁参照)。ただし、そう解する根拠は示していない。

 私としてこれを補足説明すれば、次のように言える。

 経常費というのは、使途が限定されていない補助のことである。したがって、経常費の使途を国が監督しようとすれば、それは結局その私学の全財政活動を監督することを意味するから、大学の自治に対する国の干渉を意味し、23条違憲である。これに対して、非経常的な補助とは、「はじめに」で述べた特定費補助に相当する。私学が特定の施設・設備を調達したりするのにあたり、その費用の一部を補助するという制度である。この場合、その特定の施設・設備の調達関係の活動だけが国の監督対象となり、監督が厳密にそれに限られる限り、私立大学の自治に対する干渉になることはない。したがって、89条後段の文言をどう解するか、という解釈論を度外視すれば、これは正しい説と言える。

 問題文中に、経常費補助の文言を明記したのは、こうした問題があることを考慮してのことである。

(二) 実務の見解

 有権解釈の「公の支配」に対する把握は、基本的には上記違憲説と同一である。すなわち、昭和24年の法務庁見解によれば、公の支配に属しない事業とは、

「国または地方公共団体の機関がこれに対して決定的な支配力を持たない事業を意味するのであると解する、換言すれば、『公の支配』に属しない事業とは、その構成、人事、内容及び財政等について公の機関から具体的に発言、指導または干渉されることなく事業者が自らこれを行うものをいうのである。」

(昭和24211日法務庁調査2発第8号)。

 ただ、私立大学などはその「公の支配」に属すると解釈する点において、違憲説と決定的な差異を示すために、従来から私学に対する補助が行われてきているわけである(学説として、これと同様の公の支配概念を採り、かつ、私学が公の支配を受けていると解するものとしては、佐藤功・憲法、498頁、大沢実『公会計』24頁等)。

 この解釈は、実質的には相当の修正を被りつつも、基調としては現在も存在し、むしろこの考えをてこにすることによって徐々に私学経営に対する国の発言権を強化する方向に、法改正その他の制度運営が行われる傾向が認められる。例えば私立学校振興助成法12条は、所管庁に対して、次の権限を認めている。

 所轄庁は、この法律の規定により助成を受ける学校法人に対して、次の各号に掲げる権限を有する。

 助成に関し必要があると認める場合において、当該学校法人からその業務若しくは会計の状況に関し報告を徴し、又は当該職員に当該学校法人の関係者に対し質問させ、若しくはその帳簿、書類その他の物件を検査させること。

 当該学校法人が、学則に定めた収容定員を著しく超えて入学又は入園させた場合において、その是正を命ずること。

 当該学校法人の予算が助成の目的に照らして不適当であると認める場合において、その予算について必要な変更をすべき旨を勧告すること。

 当該学校法人の役員が法令の規定、法令の規定に基づく所轄庁の処分又は寄附行為に違反した場合において、当該役員の解職をすべき旨を勧告すること。

 要するに、当該学校法人の予算が助成の目的に照らして不適当であると認める場合にその変更勧告権や、役員の解職勧告権を認めている。勧告という表現に押さえているが、これは明らかに大学の自治に対する干渉であって、23条に違反するものである。そのため、伝家の宝刀的にちらつかせることはあっても、実際に行使されたことはない。実際に行使して、憲法訴訟になった場合には、かえって問題が拡大してしまうからである。

(三) 私学補助合憲説

 現在のわが国では、憲法改正というパンドラの箱の底には必ず9条の問題が隠れている。このために、いかに89条後段の不当性が認識されても、そのためにパンドラの箱を開けることは不可能という現実を踏まえて、基本的には違憲説と同一の認識に立ちつつ、現行89条後半を実質的に空文化することにより、私学等に対する補助を合憲にしようとする試みが行われている。

  1 財政統制説

 その一つの典型例を、小嶋和司に見ることができる。すなわち、

「国家機関による財政上の処分については、個別的処分に対してまで詳細な執行統制がなさるべきものである。けれども、私的自主性を尊重すべき私的事業に対しては、それほど具体的な執行統制をなしがたい。しかも、慈善・教育・博愛の事業の場合には、その目的の公共性のゆえに、『包括供与』がなされやすい。アメリカにおいては、それがなされて私的団体や議員の利権行為となったが、そのような統制離脱行為を防止するところに本規定の目的が存し、したがって、本規定の言う『公の支配』とは、一般の財政処分が服するような執行統制にまで服することを条件とすると考えるべきものである。」               小嶋『憲法概説』514頁より引用

 この説においては、「公の支配」の語を、支出された公金に対する個別具体的な財政統制と読み換えるので、以下においては、この説を「財政統制説」と呼ぶこととしたい。これに賛同するものとしては、佐藤幸治『憲法』第3184頁、中村睦男・憲法Ⅱ、288頁。同様の見解を示すものとして、佐藤立夫『憲法』下巻、360頁、阪本昌成『憲法I』352頁等。

 財政統制説による場合には、本条後半は当然の財政原則を単に確認した規定であるにとどまり、特に存在する意味は全くないものであることは明らかである。冒頭にも述べたとおり、公金に対しては国会中心財政主義が全面的に適用になるから、その使途に対して国会自身による財政管理、そしてその前段階としての内閣及びそれに属する各行政庁ないしは会計検査院による財政監督が、公金が支出された限度で存在するのは当然すぎるほど当然のことだからである。

 この説のいま一つの欠点は、このように注意規定と読む場合には当然必要となるはずの、なぜ、慈善等の事業に限定してこうした注意規定が置かれなければならないか、と言う理由の説明に、十分には成功していない点である。確かに、アメリカにおいて慈善等の事業に関連して問題が発生したことがある、というのは一つの説明ではある。しかし、慈善等の事業以外にも、公共性があって、しかもなお私的自主性が尊重されるべき私的事業は多数存在するはずである。それらに対して包括供与が行われれば、やはり同種の問題が生ずるのは明らかである。現に近時、日本でもアメリカでも、私企業に対して実際に包括供与ないしそれに近い財政援助が行われている。これらの団体に包括供与をした場合にも、財政統制説による限り、やはり一般の財政処分が服するような執行統制を行う必要は存在していると言わなければならないはずであろう。我が憲法立法当時のアメリカにおいては、小嶋の言われるとおり、慈善等の事業に限ってそうした問題が発生していたかもしれない。しかし、そのことが直ちにこの当然の注意義務をうたう対象として、慈善等の事業だけを限定的に列挙する理由とはならないはずである。

 しかもこの説は、こうした無理な立論をしているにも拘わらず、現実に行われている私学補助を合憲とすることはできないという点で、説そのものの本来の目的を達成できていない、という致命的な欠陥をも有しているのである。すなわち、この説に立つ場合の最大の問題は、私立大学に対する補助は、当該大学の有する「大学の自治」に対する尊重の必要から、補助金交付の形態に重大な制約が課されるという点にある。私立大学に対する補助が、特定の物品の購入に当てられる等、特定性のあるものであれば、その補助金使用状況の確認までに財政統制を限定し、一般的な運営に立ち入らないことは容易である。これに対して、経常費補助のように、私学の活動の全面に関係する形での補助金が交付される場合には、私学活動の全面が国の財政統制に服さない限り、財政統制の一般原則を充足したことにはならない。要するに、財政統制説を遵守したことにはならない。しかし、他方そのような財政統制を国が実施した場合には、それは大学の自治に対する侵害と評価せざるを得ないから、当然に禁止される。

 だから、この説の下で、公金の支出等の制限と大学の自治とを両立し得る補助は、公金の使途を特定目的に限定したものである、ということにならざるを得ない。

 したがって、この説による場合には、本問の場合には、小問(1)についても、小問(2)についても、違憲という答えになる。

  2 公的性質説

 このように財政統制を問題にすることなく、正面から私学という存在は公の支配に服しているものだ、と立論する立場がある。例えば兼子仁は次のように述べる。

「『公の支配』の概念も、教育条項との調整に基づく体系的解釈によって決する余地がある。そこで、現行教育制における私立学校の性質が問題となる。教育基本法によれば、国立私立を問わずすべて『法律に定める学校は、公の性質を持つもの』である(61項)。すなわち現行教育法は、国公立学校教育は公共的なものであるが、私立学校は私事である、という態度をとらず、両者をひとしく公共的なものとしているのである。〈中略〉補助条件は、私立学校が教育の自由を土台とする公教育制度として十分な規制を受けていれば足りることとなる。」

兼子『教育法』96頁より引用

(なお、引用量を減らす目的で初版から引用しているが、新版では遙かに詳しい紹介が行われているので、この説に興味のある人はそちらも参照すること)

 このように論じた上で、現行の私学は、第一に、私立学校法によりその設立主体は特別法人たる「学校法人」に限られ、その設立、管理組織、解散、合併、収益事業について法令の規律と所轄庁による監督がなされていること、第二に、学校法人として教育基本法等が国公立学校と同様に適用になること、および第三に公費補助を受けた場合には、それに伴う所轄庁の監督に服することを根拠に、公の支配に属していると結論するのである。

 これは非常に鋭い見解であり、傾聴に値する。しかし、なお「公の支配」という言葉の呪縛から抜け切れていないところがある、との批判を受けている。それは、結論の部分において三重の監督の存在を認めて、初めて公の支配と見ている点である。しかし、前提としているのは、教育基本法が学校教育はすべて公のものであるとしている点になのであるから、それを受け入れる限り、その教育内容が、国公立学校と同様の拘束の下に許される点に、公の支配を認めれば十分と考えられる、というのである。こうして学校教育そのものの公の性質そのものに、公の支配の存在を認める見解を採るものが、近時は増加しつつある(吉田善明『憲法の基本構造』272頁、和田「公金支出の制限」有斐閣『憲法の争点』241頁等)。これらの説は、兼子説も含め、いずれも公の支配を公的性質と読み換えようとするものであるので、以下においては、まとめて「公的性質説」と呼ぶこととしたい。

 これら、教育基本法に依存する説は、第一に、憲法の邦文にも、そして次節に詳しくは述べるが、英文にも適合しない主張であって、解釈論としては非常な無理がある。第二に、この説の理解にしたがえば、教育基本法の下におけるすべての教育は公的性質を有していることになるから、本条に国会中心財政主義を制約する機能は全くないことになるので、財政統制説以上に無意味な規定となってしまう。第三に、この説の前提の当然の結果ながら、教育を除く二つの事業については、どのように考えるのかが全く示されていない。したがって、慈善等の事業がなぜ限定列挙の対象になったのかという点については、全く説明の努力も行われていない。

 さらにこの説には、財政統制説と全く同一の欠陥が存在している。それは、現に行われている私大に対する経常費補助を合憲とすることはできないという点である。確かに公的性質説は、事前における国からの支出を合憲にする努力はしている。しかし、財政統制説が指摘しているとおり、いかなる公金の支出等に対しても83条により、財政統制ないし管理を受ける必要がある。本説の主張に従って教育事業に対する公金の支出が合憲にできたとしても、それは、決して事後において、公金が支出された限度で、その使途に関して国会の財政管理に服する必要があるという事実を消滅させるものではない。したがって、1970年度以降に実施されている経常費補助については、財政統制説において述べたところと同様に、大学の自治の尊重と国会中心財政主義を両立させることができないので違憲となる、という同じ結論が導かれなければならない。

 仮に何らかの理由から、経常費補助を合憲とした場合には、この説を採った場合には本問の二つの小問は大きな差違を示すことになる。すなわち、小問(2)の幼児教室は公教育ではないから、補助の対象とならないのである。

  3 学習者交付説

 杉原泰雄は、上記いずれの合憲説にも賛同しがたいとして次のように論ずる。

「現に行われている私立学校や保育所等に対する補助金は、そこで学習し保育されている者等に対する公金の支出ーー25条・26条の具体化ーーとして説明することにより辛うじて正当化される」           杉原『憲法Ⅱ』440頁より引用

とする。そこで、以下、これを「学習者交付説」と呼ぶこととしたい。しかし、この説は、現実に公金の支給を受けている団体の存在を無視し、国民に対する直接交付と擬制するもので、実体を直視した説とは言い難く、上記2合憲説以上に問題が大きい。また、上記すべての説と同じく、事後の財政管理の問題を無視している。

 なお、本問のベースとなった埼玉県吉川町の幼児教室補助事件において、町側が「右支出にかかる補助金は、本件教室に対する補助ではなく、保護者に対して支給する就園奨励補助金である。」と主張して、この説を採用している。

五 私見ーー事後的財政管理の代替手段としての公的監督

 上記判例の見解は、先に紹介した学説のどれとも合致せず、私の説に近いものである(明言されていないが、他にこういう説を唱えている人はいないので、多分私の説をヒントに展開されたものと思う。)。そこで、以下に、少し詳しく私自身の考え方を以下に紹介しておきたい。

(一) 「公の支配」の公的監督としての把握

 私は基本的には緩和説を採るべきである、と考えている。しかし、従来の緩和説は、なぜ公の支配という言葉を常識的な意味とは別の意味に理解できるのか、という点に関する解釈論的な根拠を全く示していない。これは解釈法学としては正しい態度とは思えない。そこでこの点についてまず論じたい。

 憲法89条後半については、「公の支配」という語をどのように理解するかが問題である。この語に関する最大の問題は、日本語の響きが非常に強い点にある。日本語の「支配」という語をそのまま理解すれば、「その事業の予算を定め、その執行を監督し、更にその人事に関与するなど、その事業の根本的な方向に重大な影響を及ぼすことのできる権力を有することを言う(宮沢・憲法、741頁より引用)」と解するのが妥当であろう。しかし、このような支配状態は、学校の場合であれば、常識的に言って国公立校以外には、自治医科大学のように、地方公共団体の出資で設立された私立大学くらいしか考えることはできないであろう。この結果、前述のとおり、この見解の下では、私立大学に対する補助は全面禁止という解釈を引き出すほかはない訳である。

 しかし、ここで今一つの解釈の道が存在している。現行憲法は、邦文のものとは別に英文のものがあり、これも邦文のものと等しく正文とされている。したがって、邦文の憲法が適切に文言解釈できないときは、英文のそれを文言解釈することによって、邦文の解釈を補完するという方法が残されているのである。そして英文の89条を見ると、「公の支配」に該当する部分は"under the control of public authority" という表現になっている。直訳すれば、「公的機関の監督に服する」という程度の意味であり、邦文のそれとは明らかにニュアンスが異なる。確かに" control"という語のもっとも強い語義を採れば、邦文の憲法にある「支配」という意味になる。しかし、むしろ通常は監督とか取り締まりという程度の意味に使用される語ということができよう。したがって、「公の支配」の語を、「公の監督」と読み換えることは、文言解釈の枠内でも許容可能ということができるであろう。「財政統制」と読み換えることや「公的性質」と読み換えることよりもはるかに小さな変更にすぎないからである。

(二) 公的監督の具体的内容

 監督という語は、日本語としても英語同様に非常に意味の広範な言葉であるから、この読み換えだけで問題が解決するわけではない。広義に理解すれば、法令等の根拠に基づき、行政官庁や裁判所の監督を受けていれば、一応その要求を充足できるといことになり、妥当する民間活動の範囲は非常に広くなる。どのような監督であれ、監督と名がつくものが存在していれば本条の要求が充足されていると解するのは、冒頭にも述べたとおり、本条が国会中心財政主義の重大な例外して存在しているという意義を事実上失わせるものであるから、到底妥当とは言えない。

 まさにこの点に、本条で要求される「監督」の実体的内容を探索する手掛かりが存在している。そして、それを決定する要素としては、冒頭にも述べた本条の意義、すなわち私的団体の独立性の尊重と、これに対する公金支出の要求、そして財政監督の必要性という三つの要求の調和として考えられなければならない。

 従来、本条の根拠として「公金の乱費の防止」ということがいわれてきた。しかし、誤りと考える。なぜなら、乱費の防止を制度目的の一つとして読む限り、交付された公金の使途に対する国家の監督は必然的な要求となり、19条、20条、23条と衝突することにならざるを得ないからである。

(三) 慈善・博愛事業との総合的理解の必要性

 前半との関連とは別の、後半だけの独立の問題として、慈善等の事業がどのような性格の事業なのかについても検討する必要がある。この事業の内在的な制約としては、三つの点を認識する必要がある。

 まず、これらの事業は、福祉主義の中心的活動として保護育成することが、憲法上の要請として存在するものであるので、国としては、単に個別具体的な活動について助成するばかりでなく、その活動の全般にわたっての援助の必要もあるということである。すなわち、ここに限定列挙されている事業においては、包括供与は、財政統制説の主張するところとは反対に、原則的に実施される必要があるということが、通常の私的事業に対する場合と異なる第一の点である。

 次に、教育事業については、学問の自由の制度的保障としての大学の自治の存在から、その主体性を奪うような補助の在り方は当然に禁じられることについては、一般に承認されているところである。同様の問題は慈善や博愛の事業についても等しく認められるべきであろう。すなわち、これらの事業のついては、学問の自由に対する場合のような、その自由に対する激しい侵害の歴史がないために、独立の自由権の主体として認識されていない。しかし、およそ福祉主義ないし生存権的基本権の対象となる諸活動は、自由権の実質的確保を内容としているものであるから、福祉主義にしたがって国の介入を要求する前段階として、国の介入を許さない自由権の存在を想定することができる。そして、特に慈善や博愛の事業は、その団体が、活動の基調としている世界観、すなわち社会のあるべき姿に対する価値観の反映として実施されるものなのであるから、これに対応した自由権は、思想ないし信教の自由と密接な関係をもっていると考えることができる。すなわち、二重の基準の原則において、営業の自由など、経済権的自由権に類する、政策的制約の可能な権利と理解するべきではなく、内在的制約以外には国の干渉を禁ずる性格の自由と解すべきである。その意味において、大学の自治の場合と同じく、その具体的活動形態について国が全面的な干渉をすることは禁じられなければならない。すなわち、本条後半に掲げられた事業は、いずれも国がその活動内容に過度の支配を及ぼすことを禁じられている事業であるという意味で、共通の性格を有していると見ることができる。

 この結果、これらの事業は、上記第一の特徴に対応して、経常費補助に代表される公金の包括供与が要請されるが、それを行った場合には、その使途に対して通常の公金の使用の場合には当然に要請される個別具体的な財政管理が禁じられているという点において、通常の私的事業とは異なる第二の特徴を有しているのである。

 最後に、これらの事業は、橋や港湾を建設したりするなど、現状を積極的に変更しようという事業ではなく、健康で文化的な生活という、いわばあるべき状態にもっていくことが事業目的であるから、事業目的が実現された状態を調べても、そこに新たな経済価値の発生を認めることはできない。したがって事業の効果、すなわち公金の使用というものに当然期待される有効性を客観的に測定することは非常に困難であるという点に、第三の特徴を有している。

 上記のところから、これらの事業に対しては、経常費補助を行うべきであるが、行った場合には支給された公金の使途に関して具体的な財政管理が許されない。それにも拘わらず、事業そのものの有効性を客観的に測定することが非常に困難ということになる。このような場合に、いったい何を指標とすれば、これら事業に対する公金による援助が実施可能になるだろうか。事業目的が妥当であるというだけでは、明らかに不足である。

 この問題に対する回答の一つとして、再び公的監督の存在を考えることができる。すなわち、個々の事業の主体性を奪わない範囲で実施される公的な一般的監督の存在をもって、個別具体的な事後の財政管理に代えることが許されれば、こうした財政管理の不可能な事業に対する公的援助の道が開かれるのである。しかし、このような代替手段は極めて不十分なものであるから、83条に対する余りにも大きな例外の設定である。したがって、法律のレベルで導入するには問題が大きすぎる。本条後半は、まさにそうした点を配慮した上で、83条に対して憲法自身の定めた特則と解する。

 このように考えてくると、ここで要求される公的監督とは、当該団体の運営体制の健全性と、事業内容の健全性の、この二つを確認できる程度の監督であることを要すると同時に、それをもって足りるというべきである。そして、私立大学の場合には、運営体制の健全性確認の要求は私立学校法によって、事業内容の健全性確認の要求は教育基本法等の法律によって、それぞれ一定の公的監督権が確保されていることによって充足されていると見ることが可能である。

 以上のことから、本問を見ると、小問(1)については、公教育であるから、それに伴う公の監督を以て、89条の要求は満たしているということができるであろう。

 問題は小問(2)である。学校教育法にいう教育機関でない限り、公教育とは言えない。例えば、塾が、今日の進学競争の中でどれほど重要な役割を実質的に果たしていようとも、それに対する公的補助が問題にはならないのは、それが私教育だからである。問題は、本件幼児教室が、その様な純然たる私教育と同視しうるかという点にある。問題文中に、幼児教室の設立経緯及び運営形態についてくどく書き込んであるのはそれが理由である。

 仮に、ここに書かれている事項から、幼児教室が実質的に公教育とみなしうるならば、憲法26条から、公的補助を肯定する余地が生じてくることになる。そして、運営形態から、そこに公的監督を行う余地があると認められるならば、89条の要件を充足している可能性が生じてくることになる。

 しかし、冒頭にも述べたとおり、そこから先は事実認定の問題となり、本問のあずかり知らぬところである。