成年被後見人の選挙権

甲斐素直

問題

 Xは成人の日本国民であり、成人後は選挙においては毎回選挙権を行使していた。しかし、ダウン症で中度の知的障害があり、計算が苦手なため、万が一のトラブルを避けるため、父親Aを成年後見人として、後見開始の審判(民法7条)を受けて、平成×年、成年被後見人となった。ところが、公職選挙法11条1項1号が成年被後見人は選挙権を有しないと規定していることから、この時以降、選挙権を付与しないこととされた。

 そこでXは、上記の公職選挙法11条1項1号の規定は、憲法153項、141項に違反し無効であるとして、行政事件訴訟法4条の当事者訴訟として、原告が次回の衆議院議員及び参議院議員の選挙において投票をすることができる地位にあることの確認を求めた。

 これに対し、Y(国)は次の2点を主張した。

 第一に、公職選挙法は、同法9条の積極的要件を満たすと同時に、同法11条1項1号の「成年被後見人でないこと」等の消極的要件も満たした場合に、初めて選挙権を有する旨規定しているのであるから、同法11条1項1号は、既に認められている法律上の権利を制限する趣旨の規定とは解し難く、同号の規定が違憲無効であった場合に、その制限が解かれて成年被後見人に対し当然に選挙権が付与されるという構造とはなっていない。そうすると、たとえ成年被後見人でないことを選挙権付与の要件とする公職選挙法11条1項1号の規定が違憲無効であると判断されたとしても、同法9条の規定のみから、成年被後見人全般に対して直ちに公職選挙法上の選挙権を付与されるとの解釈を採ることは、適切に選挙権を行使することが期待し得ない者を選挙人団から排除しようとした上記の公職選挙法の趣旨に反し、立法者の合理的意思に合致しないことが明らかであり、この点についての立法府の合理的選択の余地を奪うもので、立法権の侵害に当たる。 したがって、原告に次回選挙における選挙権があることの確認を求める本件の訴えは、裁判所が法令の適用によって終局的に解決できるものではなく、裁判所法3条に言う法律上の争訟に該当しない。

 第二に、同法11条1項1号が成年被後見人であることを選挙権の欠格事由とした趣旨は、選挙権が選挙人団を構成して公務員を選定する公務としての側面を有する権利であることから、選挙権を行使し、公務員として相応しい者を選定するために最低限必要な判断能力を有さない者については選挙権を付与すべきでないと考えられることを前提に、家庭裁判所において事理弁識能力を欠く常況にある者と判定された成年被後見人は、定型的に見て選挙権を適切に行使することが期待し得ないとして、これを選挙人団から排除したものである。

 X及びYの主張に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。ただし、「成年被後見人の選挙権の回復等のための公職選挙法等の一部を改正する法律」はいまだ成立していないものとせよ。

[はじめに]

(一) 成年後見制度と欠格条項

 成年後見制度は、2000年に、それまであった禁治産制度を廃止して創設された。明治時代に創設された禁治産制度では、禁治産が宣告されると、選挙権含め、様々な法律に、約150にも上る「欠格条項」、つまり、例えば「ただし禁治産者を除く」というような条項が存在していて、連動して資格を失うこととなっていた。しかし、禁治産制度の時代には、このことはあまり問題にはならなかった。禁治産は滅多に利用されることの無い制度だったからである。

 しかし、ノーマライゼーション(normalization)、つまり障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方が、北欧に始まって世界的に広がり、わが国でもこれを受けて、障害者にも、健常者同様の自己決定権を認め、社会参加を促そうという機運が、20世紀の末頃に高まった。禁治産制度が廃止されて、成年後見制度が導入されたのは、これが理由である。すなわち、禁治産制度のように障害者や高齢者の権利を制限するのではなく、判断能力が不十分であっても、可能な限り現有能力を活用し、不十分な部分は後見人がサポートすればいいという考え方に転換されたのである。

 しかし、成年後見制度の導入が若干拙速に行われ、各種法律にあった前述の欠格条項の見直しが十分に行われず、100を超える欠格条項が、そのまま成年後見制度に引き継がれてしまった。選挙権もその一つであった。

 2003年に支援費制度が導入された。これは、障害者が、その必要に応じて市町村から各種の情報提供や適切なサービス選択の為の相談支援を受け、利用するサービスの種類ごとに支援費の支給を受け、事業者との契約に基づいてサービスを利用できる制度である。これは、2006年には障害者自立支援法に移行した。このように、障害者の自立を促進する手段として「契約」が求められた結果、契約締結に際して、成年後見人のサポートが必要となった。このため、2006年だけで、約1万件もの成年後見の申立てがあったと見られるほどに、この年を契機に急速に成年被後見人が増加し、今日では累計で136000人の人が、成年被後見人となるに至った。

 茨城県牛久市に居住する名児耶(なごや)匠(たくみ)さん(2013年東京地方裁判所判決時点で50歳)もその一人で、問題文にも記したとおり、ダウン症のため、中度の知的障害があったが、日常生活に不自由が無いため、禁治産宣告は受けていなかった。しかし、2007年に自立支援を受ける目的から父親を後見人として成年被後見人になったところ、それまで行使できていた選挙権が自動的に行使できなくなったために、この訴訟を提起したものである。

 なお、今回の訴訟で国側が出した書面によると、成年後見制度が始まった時、100程度だった欠格事項は、現在では、逆に180ぐらいにまで増えているという。例えば、成年被後見人は、公務員にも弁護士にもなれない。しかし、これらは、試験を通じて、個々人の能力を判定しているのであるから、成年被後見人が試験に合格できた場合に、一律にその資格を否定する理由は存在しないものと言わなければならない。このように、わが国のノーマライゼーションは、いまだ不十分な状態にあるといわなければならない。

(二) 問題の所在

 旧司法試験は、大きな論点は、一つだけであったが、新司法試験では、通常、二つの大きな論点が存在するタイプの問題が出題されている。そこで、本問も、その型に作問した。

 問題のベースとしたのは、上述した名児耶さんの訴えを受けて2013(平成25)年3月14日に東京地方裁判所で下された判決(平成23年(行ウ)第63号)である。ただ、判決そのものが取り上げている論点は多岐にわたるため、本問では、上記の通り、論点を二つだけに絞り込んでいる。すなわち、

 第一に、立法の不作為といわれる問題であり、第二に、平等権の審査基準論である。

 第一の論点は、条文をぼんやり見ているだけでは判りにくいかもしれない。仮に、公職選挙法が、一般的に参政権を認め、「但し、禁治産者を除く」として参政権を認めない、という条文構成を採っているならば、その制限条項が違憲無効と判定されれば、自動的に原則に復帰し、参政権が認められるという結論になる。ところが、公職選挙法は、問題文に書いたとおり、参政権が認められるための積極要件と、否定されるための消極要件を規定し、両者をともに充足して初めて参政権が認められるという条文構成になっている。その結果、消極要件が違憲無効と判断されただけでは、参政権が認められない。成年被後見人は、選挙権が認められるという立法があって、初めてXの請求は認められるのである。

 わが国憲法は、基本的に権力分立制を採用し、国会を国の唯一の立法機関と定めている(41条)。したがって、裁判所が判決の一環として、実質的に立法を行うことは、憲法41条に違反し、許されない。これが、問題文でYが第一に主張していることである。

 かつて、シャピロ・エステル・華子事件において、東京高裁は原告・控訴人に対し「誠に気の毒なことである」と述べつつも、結論的には次のように判決した(シャピロ・エステル・華子事件(東京高裁昭和57623日判決=百選第574頁=第6版には収録されていない。)。

「憲法によって裁判所に与えられた違憲立法審査権は、存在する規定についてそれが違憲であるかどうかを審査し、違憲と判断したときにはこれを無効として、つまりいわば存在しないものとして、適用しないことを本質とする。ある規定が実定法上に存在しないとき、それがいかに憲法上望ましいものであろうとも、違憲立法審査権の名の下に、これを存在するものとして適用する権限は裁判所に与えられていないのである。」

 要するに、違憲立法審査権は、憲法41条との関連において権力分立制を重視する場合には、その効果は立法の無効を宣言することに尽きるのであって、さらに進んで実質的に積極的な立法に属する活動をすることはできないとしたのである。

 このように考える場合には、公職選挙法が14条違反と判断された場合にも、事情判決の手法を使用して違憲宣言を下すに留まり、実質的な救済は、その違憲宣言に触発されて国会が、国籍法の改正を行わない限り不可能というのが一応の結論になる。

 しかし、今日の学説・判例は、このように立法の不存在の場合にも、一定の条件下で、裁判所が積極的に違憲判決を下すことを認めている。

 この問題は立法の不作為と呼ばれる。だから、この点については、立法の不作為のパターンに載せて論じれば良く、そのパターンさえ知っていれば易しい問題である。

 同様に、平等権の審査基準という問題は、特定のパターンで論文を構成する必要がある。そのパターンさえ知っていれば易しいが、知らないと、とんでもない難問となる。

 以下、それぞれについて、どのような論理をたどれば良いのか説明する。

一 立法の不作為

(一) 立法の不作為概念

 立法の不作為とは、憲法上、立法府として当然に行うべき立法を行わないことである。あるべき法が存在しないこと、といった方がわかりがよいかもしれない。

 誤解しないで欲しいのだが、憲法が制定を要求している法が存在しないということは、決して直ちに憲法上の問題になるということではない。例えば、憲法96条は、憲法改正の要件として国民投票を要求しているが、つい最近までそのような法律は制定されていなかった。これも間違いなく立法の不作為であり、立法論のレベルでは問題であるが、現実に憲法改正の手続に取りかかりながら、そうした法律が不存在であるがために断念した、というような事態が起こっていないので、国民に具体的な影響を与える問題にはならない。そして、国民に具体的な影響が発生しない限り、付随的審査制の下では、司法審査の問題にはならない。すなわち、本問は、単に立法の不作為が存在しているだけでなく、その不存在に基づいて、人権侵害が発生している、という事態を考えて、始めて問題足りうる。

(二) 司法審査の可能性

 かつては、先に例示したシャピロ華子事件判決に見られるように、「立法の不作為の問題は、その性質上、政治過程の中で処理されていくべきもので、原則として裁判過程に馴染むものではない」と一般に考えられていた(佐藤幸治『憲法』第3346頁)。これは、自由国家理念と密接に結びついた理由である。

 自由国家理念の下においては、立法の不作為は司法審査の対象となる可能性自体を持ち得ない。なぜなら、自由とは国家からの干渉のない状態であり、したがって法律が存在していなければ完全な自由状態を享受できるから、法律の不存在により人権の侵害が発生すると言うことはあり得ないからである。もちろん、これは自由権についての問題であって、国務請求権や参政権については、自由国家理念の下でも、法律の不存在により人権侵害の問題は発生してくるのである。しかし、自由国家においては、その自由を確保するためのメカニズムとしての権力分立制には絶対的なウェイトが置かれる。現に存在する法律に対する違憲審査でさえも、それが消極的な立法としての性格をもつが故に問題視される状況下においては、立法の不作為を司法府が論ずることは、まさに司法による積極的な立法行為を意味するだけに、当然に違憲と判断されることになる。

 実を言えば、これは立法の不作為の場合だけの問題ではない。行政の不作為についても同じことが言われていたのである。すなわち、存在する行政についての違憲審査はともかく、まだ何らの行政行為が行われていない段階で、特定の行政行為を行うように司法府が命ずることは、権力分立制に違反し、許されない、とかつては説かれていた。いわゆる「行政権の第一次判断権」と言われる問題である。今日ではこの問題は、憲法レベルの問題ではなく、立法裁量レベルの問題であると理解されている。すなわち、行政事件訴訟法が、行政活動に対する後行的司法審査を原則としているので、その限度で行政権の第一次判断権が承認されるのであって、行政行為の不存在の場合にも司法審査そのものは可能であると説かれる。その結果、今日においては、有名抗告訴訟として不作為の違法確認の訴えが認められ、また無名抗告訴訟の形で、行政行為の義務づけ訴訟、あるいは差し止め訴訟が肯定され、現実にも多数の訴訟が行われている状況にある。

 この行政権の第一次判断権という理論は、権力分立制という理念と、司法審査の拡充による国民の権利保護という対立する概念の調和点として存在しているものであるが、同様の問題を立法に関して考えたとき、登場してくるのが、本問の「立法の不作為」概念なのである。したがって、立法の不作為という概念を、司法審査と切り離して考えることは適当ではない。

 しかし、今日の国家の把握として、かっての自由国家から社会国家、福祉国家、積極国家としての把握が通説となるとともに、それに伴う国家責務の増大が認識され、社会的公正を実現するための立法活動が強く要求されるようになったことによって、この観念が司法上、肯定されるに至った。そこで、先に紹介した佐藤幸治は、先に紹介した文章に続けて、「けれども、個人の重要な基本的人権が立法の不作為ないし不備によって実際に侵害されていることが明確な場合には、憲法訴訟における争い方如何によっては、司法審査の対象となりうることがあると解される」と述べるに至っている。

 さらに、憲法訴訟理論が深められたことにより、国民の憲法上の権利保護の手法が研究されるようになり、広く認められるに至ったといえる。

 この点を論ずるに当たり、注意を要するのは次の二点である。

 第一に、司法審査を否定する学説は既に過去の遺物である。今日において、そのような立場を墨守する者はいない。したがって、この点を論点でない、とはいわないが、これに力点を置いて論ずるのは誤りである。国家試験レベルであれば、せいぜい23行以上をこの点について使用してはいけない。書いて減点されるわけではないが、これにつぎ込む行数があれば、次項以下に述べる数多くの重要な論点における議論を深めるために投入すべきである。これについて詳しく論じた結果、重要論点を落としてしまえば減点されたのと同じことになる。この点は完全に落としても、以下の議論をしっかりと書けば、問題なく合格答案となる。これはその程度の重要性しか持たない、と認識しておけば十分である。

 第二に、上述のように、社会国家化に伴い、立法の不作為が問題になるようになった、という議論の代わりに、時々「社会権では立法の不作為が問題になる」と書く人がいる。しかし、「社会国家」と「社会権」とは別の概念である。確かに立法の不作為には、堀木訴訟のように社会権が中心論点となっている判例も多い。しかし、本問や在宅投票制度復活訴訟や衆議院議員定数不均衡是正訴訟のように参政権に絡んで平等権が問題になったものは非常に多い。さらに、第3者没収(最大昭和371128日=百選[第6版]244頁)や河川附近地制限令事件のように財産権ないし適正手続きが問題になったもの、高田事件(最大昭和471220日=百選[第6版]262頁)のように迅速な裁判を受ける権利が問題になったものなど、自由権が問題になった事件も多いのである。

 このように、あらゆる人権の領域で社会国家概念に基づく国家の積極立法義務は普遍妥当するのであって、社会権だけがこの概念から導かれる人権ではない。むしろ、社会権の場合には、自由権などと違って、国会の裁量の幅が広がるので、立法の不作為という主張を退ける例が多い。

(三) 立法の不作為の実体的要件

 わが憲法は、社会国家理念を基本的に採用しているが、それは権力分立制などに代表される自由国家理念を否定したことを意味するのではない。したがって、この二つの基本的な国家理念の折衷点をどこに求めるかにより、立法の不作為にどのような要件が存在する場合に、司法審査を可能ならしめるか、を論ずる必要がある。

 これをこのレジュメでは、実体的要件と呼ぶことにする。決して実体法上の要件という意味ではなく、後述する司法手続き上の要件と区別するための呼称である。

 これについて、在宅投票制度復活訴訟において、札幌高裁は次のように述べた。

「国会が或る一定の立法をなすべきことが憲法上明文をもつて規定されているか若しくはそれが憲法解釈上明白な場合には、国会は憲法によつて義務付けられた立法をしなければならないものというべきであり、若し国会が憲法によつて義務付けられた立法をしないときは、その不作為は違憲であり、違法であるといわなければならない。」

(札幌高等裁判所昭和53524日判決)

 以下、これを分解して説明しよう。

  1 憲法上の立法義務の存在

 立法の不作為に違憲性が認められるための第一の要件は、ここに述べられた憲法上の立法義務の存在である。それは憲法の条文に明示されている場合に限らず、黙示、すなわち解釈上明白に認められる場合であっても良い。

 なぜこの要件が要求されるのだろうか。それは、繰り返し強調するが、司法権が実質的意味の立法を行わないためである。国会の行うべき立法の内容が、憲法そのものから明確であれば、裁判所があるべき法律の内容を確定しても、権力分立制を侵したことにはならない。本問の場合、そこから被後見人の選挙権の議論につながることになる。

  2 相当の猶予期間

 第二の要件は、国会が憲法の即して立法を行うための相当の猶予期間の存在である。衆議院議員定数違憲訴訟に関する最高裁大法廷昭和60717日判決(百選[第5版] 338頁)は、そのことを明言した。

 相当の猶予期間が必要なのは、立法は、機械的な作業ではなく、あるべき状態を作り出すために必要な一定の範囲内に存在する選択肢から、何が最善かを検討、審議するために一定の時間が必要であるためである。特に、例えば先に挙げた情報公開請求権のように、その問題について各方面の意見が分かれている場合には、それにかなりの長期間を要するのにも無理のないところがあるからである。これに対して、立法の不作為により侵害されている国民の利益が一義的に決定できる場合には、立法の猶予期間は必要ではない。例えば河川附近地制限令事件の場合には、損失補償内容は、その国の活動によって個人が被った財産的全損害であって、そこに立法裁量の余地はないから、猶予期間を論ずることはないのである。

 相当の猶予期間があった、というためには、それに先行して国会が、違憲状態の発生を認識していなければならない。上記衆議院議員定数の場合には、それに先行して51年の違憲判決などがあったので、違憲状態の発生を認識することが容易であった。マスコミ等で繰り返し違憲状態の発生を論議していたからである。

 これに対して、参議院議員定数不均衡の場合には、むしろ最高裁は衆議院において違憲と認定した状態をはるかに上回っていた場合にも合憲という判決を出し続けた。この結果、平成4年の選挙において、1票の価値に16.5の格差が生じていたことをもって最高裁は違憲状態の発生を認定したが、国会にそのことを認識する契機が存在していなかったことを理由に、立法裁量権の限界を超えるという認定をすることができなかった(最大平成8911日=百選[第5版]34 0 頁=第6版には収録されていない。)。

 それが最大どの程度の期間となりうるかについては、60年最高裁判決から、一般に最大5年間といわれている。本問の場合には、2000年の成年後見制度の導入からみた場合はもちろん、2006年の自立支援法から見ても、問題なく5年を超えている。

(四) 立法の不作為の訴訟上の要件

 立法の不作為を訴訟として争う手段としては、大きく分けて、通常訴訟の一環として争うという方法、立法の不存在によって直接損害を受けたことを理由として、国家賠償訴訟で争う方法、及び特定の内容の制定を国会に命じ、もしくは立法府の不作為が違憲であることの確認を求める方法の三つを考えることができる。

 このうち、最後の訴訟は、具体的事件とは離れて、憲法の抽象的判断を裁判所に求めることに他ならないから、わが国憲法が定めている憲法訴訟が付随的憲法訴訟である、という建前から否定していかない限り、肯定することは不可能である。この結果、現時点でこれを一般的に肯定する者はいない。

 例によって、念のため、注記しておく。仮に、本問が1行問題であれば、ここに書いていることは当然議論しなければならない。しかし、本問は事例問題であり、通常訴訟で争っていることは明らかだから、これ以上、この点について論じる必要は無いので、このレジュメでは掘り下げない。しかし、どの類型で提起すべきかという設問の場合には、それぞれの類型でどのようなポイントが論点となる。各自で、勉強しておいて欲しい。

二 参政権と平等条項

(一) 主権論と参政権の性格

[はじめに]で述べたとおり、このテーマにおける最初の論点は主権論と参政権の法的性格である。すなわち、狭義の国民主権論を採れば参政権に関する二元説が導かれ、人民主権説を採れば権利説が導かれる。

 問題は、これらの論点をどの程度まで論ずるかである。国家試験本番における論文は、ゼロサムゲームである。限られた時間の中では、あらゆる論点に等しくきちんと論じていくことはできない。そこで、何を書いて、何を切るかの選択に迫られることになる。当然のことであるが、大きく配点されているものを書き、配点の低いものを切るのである。一般に、原点に近いものほど配点が低く、中心論点に近いほど配点が大きい。

 したがって、本節で取り上げた論点については、単にその結論だけを述べ、理由を省略する、という戦略があり得る。つまり、単に「国民主権説を支持しているので、二元説を妥当と考える」とだけ書いて、理由を省いてしまうのである。いうまでもないが、このように理由を省けば、その分だけ減点される。だから、それ以上の点数をメインの論点で稼げる自信がなければ、やってはいけない。

 ついで、できるだけ簡略に理由を述べるという無難な戦略がある。その場合、第一に主権論について、なぜそれを採用するかの理由が必要であり、第二に参政権論での理由が必要である。

 人民主権論を採用した場合に、権利説を導くのは比較的問題が少ない。それに対して、国民主権から二元説に至る記述の場合には失敗する例が多い。往々にして、諸君は、主権論について理由を書きながら、二元説についての理由を省いている傾向を示すのである。しかし、上記のゼロサムゲームの理屈からすれば、どうしても、どちらかの理由を省かないと紙幅が足りなくなるというのなら、主権論の方を省いて、二元説ではきちんと書く、というのが正しい戦略である。以下、二元論を少し詳しく説明する。

 狭義の国民主権説は、個人主義を背景にしている説であって、歴史的にはシェイエスなどが説いた。すなわち主権者たる国民とは、「老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、『いっさいの自然人たる国民の総体』を言う」(芦部信喜『憲法学Ⅰ』240頁)。この考え方では、統治者たる国民と被治者たる国民とは、同一の存在である(治者と被治者の自同性)。このように「主権が全国民に存すると考えると、このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、全国民主体説にいう国民主権は、天皇をのぞく国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということ、を意味することになる。したがって、国民に主権が存するとは、国家権力が『現実に国民の意思から発するという事実を言っているのではなく、国民から発すべきものだ』という建前を言っているに過ぎないことになる。」(芦部信喜・同上・241頁)

 この場合、国民そのものが行動することはできないから、間接民主制を必然的に要求する。すなわち、国民は議会における代表者を通じて行動することになる(国民代表)。議会こそが、国家で現実に行動する能力を持つ最高の地位を占める機関となる(国権の最高機関)。したがって、実質的には議会が主権を行使しているとも言える(議会主権)。

 参政権、すなわち誰が国民代表となり、また、誰が国民代表を選ぶことができるかは、この結果、国権の最高機関たる議会(41条)が決定する。したがって、個々の有権者は、自らの権利として参政権を行使するのではなく、国民全体の利益を考えて参政権を行使することように、議会から義務づけられた者であるに過ぎない。

 つまり、狭義の国民主権原理に立脚する限り、ここにいう国民とは集合体としての国民であって、個々の国民ではない。現実にも、国政レベルでは、個々の国民の権利は、公務員の選定権に関しては、国会議員を除いては認められておらず、また、罷免権は、最高裁判所裁判官(792項)に関する例外的権限をのぞいてはいっさい認められていない(最高裁昭和24420日判決)。

 この見地から見る限り、参政権は、実は個人の権利ではない。選挙は本来国家という団体の行為であり、個人が有する参政権とは、個人が国家活動に必要な公的職務を遂行するに過ぎない。したがって、それは議会という国家機関の構成手続に関する憲法規定の反射であるに過ぎないと結論づけられる(参政権=公務説)。

 しかし、この公務説は、現行憲法15条が参政権を人権と定めていることを余りにも無視している。そこで登場したのが、現在の通説である二元説である。これは、次の様に、二重の性格を有すると説くものである。

「選挙人は一面において、選挙を通じて、国政についての自己の意思を主張する機会が与えられると同時に、他面において、選挙人団という機関を構成して、公務員の選定という公務に参加するものであり、前者の意味では参政の権利をもち、後者の意味では公務執行の義務を持つ」(清宮四郎『全訂憲法要論』法文社152頁)

 この二元説の考え方は、一面で権利性を強調して国会の裁量権を制限する。例えば国会議員の議員定数不均衡を違憲と判断しうるのは、それが国民の権利の不当な制約となるからである。しかし、他面において、公務性を強調して、参政権の制約を肯定する。例えば公職選挙法が定める選挙犯罪者等に対する公民権停止処分が許されるのも、選挙権の公務性に基づく最小限度の制限として許容されるからである。

 本問の場合にも、公務性を強調すれば、被後見人から選挙権を剥奪することは立法裁量権として肯定されるのに対し、権利性を強調すれば、人権侵害と構成する余地が拡大することになる。

(二) 憲法14条の適用可能性

 問題文では、明確にX14条を根拠として訴えを提起している。しかし、人民主権説に依る権利説を採る場合には、14条を待つまでも無く、参政権の侵害と構成できるので、実は14条は論点にならない。人民主権説に立つ人の場合には、本問に対して、その様に論じることになる。以下では、国民主権論に立つ二元説に限定して説明する。

 本問で問題となっているのは、国会議員の選挙人の資格である。これについて、最初に問題となるのは、憲法14条ではなく、憲法44条である。

「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。」

 この本文は、「法律でこれを定める」と述べている。つまり、基本的に広範な立法裁量権が認められている。この点を重視すると、公職選挙法が選挙人の資格をどのように定めようと、違憲という問題は生じない。Yの第二の主張は、このことを言っている。

 それに対する第一の制約が但書である。仮に、成年被後見人が、但書に列挙されている「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入」のどれかに該当すると考えた場合には、14条を論じるまでも無く、本件規定は違憲になる。しかし、Xは、その列挙のどれにも成年被後見人が該当しないと考えたから、14条を主張したわけである。

 ここでの問題は、憲法14条の定める一般的平等原則をこの場合に導入することが可能なのか、という点にある。そこでの問題は、上記但書と14条一項列挙事項がほぼ同一の表現を採用していることにある。これから文言解釈をする限り、参政権の場合には、一般平等条項を排除し、但書の限度において平等を導入していると考えるのが妥当になる。

 この障害を、1表の価値の平等を最初に問題にした、昭和51年衆議院議員定数違憲判決(百選[第6版]326頁参照)がどのように超えたかを見よう。

「憲法は、141項において、すべて国民は法の下に平等であると定め、一般的に平等の原理を宣明するとともに、政治の領域におけるその適用として、前記のように、選挙権について151項、3項、44条但し書の規定を設けている。これらの規定を通覧し、かつ、右151項等の規定が前述のような選挙権の平等の原則の歴史的発展の成果の反映であることを考慮するときは、憲法141項に定める法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向するものであり、右151項等の各規定の文言上は単に選挙人資格における差別の禁止が定められているにすぎないけれども、単にそれだけにとどまらず、選挙権の内容、すなわち各選挙人の投票の価値の平等もまた、憲法の要求するところであると解するのが、相当である。」

 この記述でポイントとなるのは、4行目にある「選挙権の平等の原則の歴史的発展の成果の反映である」という表現である。これを抜きにして、14条の適用を肯定することは難しいのである。このように論じて、はじめて本問で、14条を論じることが可能になる。この文章に相当するものが、諸君の論文に必ず現れなければ、この段階で落第答案である。

(三) 平等権の本質

 君たちとして、平等権が問題になる事例で、最初に論じなければならないのは、平等権とは、人権か否か、という問題である。何を馬鹿な、人権に決まっているじゃないか、と思う人が多いだろうが、実は、今日の通説は、平等権は人権ではない、と考えており、人権だとするのは少数異説にとどまるのである。そして、その少数異説こそが、諸君が往々にして理由も無く、切って捨てる「絶対的平等を保障したもの」と主張する説なのである。

 なぜなら、人権とは、他者との比較無しに、その権利の侵害を考えることができるものだからである。例えば、私が学問の自由を侵害された、という事件が起きたとしよう。その場合、私の人権が侵害されたかどうかを判断するために、他の教員の学問の自由が侵害されているかどうかを検討する必要はない。その様に、人権という概念には常に絶対性が伴っている。問題となっているのが表現の自由であれ、営業の自由であれ、その人権の被侵害者だけを検討すれば、人権侵害があったかどうかを判断可能なのが人権である。

 ここまで説明すると、なるほど、平等権は人権ではなさそうだ、ということが判ると思う。他の人と比較しないと、それが侵害されたかどうかは判らないからである。

 では、平等権の正体は何なのだろうか。平等原則だ、と考えるのが、今日の通説なのである(例えば芦部信喜『憲法』第5128頁は「平等原則」と柱書きしている)。それでは、平等原則とは何だろうか。

 それを説明するためには、諸君に、法学の講義を思い出して貰う必要がある。法学で、法の目的は正義だ、と習ったはずである。

 その法的正義は、第一の段階では遵法的正義、すなわち法に従うことが正義だ、という形で述べられる。ソクラテスが、自らの命を賭して守った正義がこれである。

 しかし、それを止揚しようとして説かれる第二段階の形式的正義では、公法と私法に分けて論じられる。公法における正義を配分的正義といい、私法における正義を交換的正義という。第一段階で述べていた法とは、実は、こうした正義に適った法だけを言う、と考える。憲法は公法に属するから、憲法を支配している正義は配分的正義ということになる。

 配分的正義の内容は次の法諺で示される。

「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」

 これを読めば、これは平等権を端的に述べているな、と気がつくと思う。その通り、平等権とは、実は、公法すべてを支配する配分的正義の概念がむき出しに現れているだけなのである。これに対し、普通の人権は、第3段階の実質的正義の具体化である。

 諸君は、憲法13条の幸福追求権を包括的基本権、すなわちあらゆる人権を包括する概念だと言うことを知っている。14条も同じく包括的基本権であるが、13条よりさらに以前の、人々の意識が、まだそれを人権というレベルに達していない場合に、それを配分的正義の原則に従って解決するための規定だ、と理解することができる。だから、何かの人権が成立する場合には平等権を論じる必要はない。これを平等権の補充性という。

 換言すれば、あらゆる人権は配分的正義の具体化である。先に私の学問の自由が侵害された、という例を挙げた。学問の自由は配分的正義のこの場面における具体化である。だから、仮に、23条がなければ、我々はその内容を21条から読むことができる。仮に21条もなければ13条の幸福追求権の一環として読むことができる。しかし、13条さえもなければ、我々は、それを平等原則から読めるのである。すなわち、私の学問の自由だけが侵害され、他の教授の自由が侵害されていないということから、その教授との比較において、私は平等権を侵害されたと論じることで、救済を図ることができる。

 このようなことは、すべての人権についていうことができる。それが平等権の性質だからだ。したがって、平等権侵害は、13条も含めて、何か人権を考えることができる場合には、議論する必要がないのである。

 今、ここでは、諸君に直感的に理解して貰うために、平等権は相対的権利だから、人権ではない、という逆方向の説明の仕方をした。しかし、もちろんこれは憲法論的には間違った議論の仕方である。法学で法段階説を習ったから判っていると思うが、法律学において、理由は常に上の段階から来る。

 だから、平等権の場合にも、まず、その本質は平等原則に他ならない、と論じ、その論理的帰結として、したがって相対的平等と解するべきだ、と論じていかねばならないのである。すなわち、平等権は、常に他者との比較においてのみ成り立つものであり、したがって実体的な権利性を持たない。そこで、平等権はそれ自体としては無内容(あるいは無定型)であり、単一の権利概念としては成り立たないから、憲法14条は端的に平等原則を定めたものと解しておけば足りると考えるのである。権利ではなく、関わり合いのある権利・利益に対する規制の不合理さをいっているに過ぎないからこそ、他者との比較で不合理である(相対的平等)、という主張が可能になる。

(四) 141項後段列挙事項について

 このように、平等権の本質を原則であり、相対的平等であると理解した場合には、合憲の場合と違憲の場合をどのような基準で区別するか、という深刻な問題が発生する。特に問題となるのは、141項後段に列挙されている事項に、訴訟法上、何か特別の意味があるか否かである。この点を巡っては、非常に多くの学説が対立している。したがって、平等権を巡る問題では、常に最大の論点である。

  1 単純例示説

 最高裁判所は、昭和39年の判決で14条について、次のように述べた。

「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」

 以来、今日まで、この点は確立した判例として引き継がれている。この説は、おそらく、学説的にも通説であるといって良い。この説をとった場合には、単なる例示だから、本問が、その例示のどれに該当するかを議論する必要は全くない。ところが、ある程度勉強をしていると、成年被後見人は社会的身分に該当するとか、門地に該当するとかいう議論をしたくなる。しかし、この説を採用している場合には、そもそもそれは論点にならないから、その段階で立論としては破綻していることになる。

  2 141項後段特別意味説

 14条前段と後段とで、訴訟法的なレベルで特別の意味があるとする説である。すなわち、14条後段は、例示であることは確かだが、単なる例示ではなく、審査基準論のレベルで、前段とは異なる特別の意味がある、という主張のことである。

 ロースクールで教えていると、この説が絶対的に正しいものと機械的に考えている学生が多く、まるで神のお告げであるかのように、全く理由も挙げずに主張する例にしばしばぶつかる。しかし、少なくとも、判例に対立する考え方なのであるから、この説を採る理由を示すことなく展開する場合には、落第評価を与えられることになる。

 この説のやっかいなところは、学者により、かなり説明が違うことである。以下、代表的な例を示したい。

  (1) その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。

「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また違憲を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第3版、249頁)

 この主張は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。確かに精神的自由権に関しては、特に思想や信条に関しては、民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、先に述べたように、自由主義や民主主義の前提となる配分的正義の理念であるから、その内容を補填する実質的正義はどれも問題となりうるのであって、民主主義的な当否だけが平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。また芦部信喜は「民主主義ないし個人主義の理念」(第5130頁)と述べて、比較的近いがそれでも個人主義を追加している点で違っている。しかし、民主主義は個人主義から導かれる理念であるから、両者を同列に取り扱うこの記述はおかしい。

  (2) そこで、より平等権に密着した理由が求められた。例えば、浦部法穂は次のように主張する。

「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」

(浦部『憲法学教室』全訂第2109頁)

 もっとも、この説については、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判する。そこで、松井茂記自身は次のような理由を挙げる。

「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」

(松井『日本国憲法』第2版、367頁)。

 この問題に関する学説をこれ以上紹介しても、煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。諸君としては、自分の基本書と相談しつつ、適当と思われる自分なりの理由を確立して、何時でもさっと論じられるようにしておいて欲しい。

 どの説を採るにせよ、列挙事項に入るか否かで大きく結論が変わるという前提なのであるから、これは特別意味説を採用していることは明らかなのに、それについての議論もなければ、それぞれの概念に属する理由もなく、一方的に決めつけるだけなのである。そのような神のお告げ論文を書いている限り、君たちに明日は来ない。

(五) 平等原則にかかる審査基準

 上記のように、根拠においてばらつきがあるだけではなく、審査基準も、これらの説はばらついている。以下、代表例を示したい。

  1 単純例示説の審査基準

 14条後段列挙事由が単なる例示と考えた場合の審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。例えば、非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。

「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法141項に反するものということはできないというべきである。」

 この例は、結果として合憲と述べているが、例えば尊属殺人判決や薬局距離制限判決など、結果と指定権と述べている判例でも、同じ審査基準を使用していることに変わりは無く、ただ著しい不合理を認定しているだけである。

 これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の説を採用している。

① 精神的自由権に関連した差別については、厳格な審査基準を適用する。

② 経済的自由権に関連した差別については、狭義の合理性基準を適用する。

そのどちらにも属さない一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。

 このように、中間領域が出現するために、二重の基準の論理が、この場合には三重の基準として現れる点に特徴がある。

 下級審判例の実例としては、例えば、非嫡出子相続分に関する東京高裁平成5623日判決がある。

「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、242項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」

 非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。このように、下級審の判事が常に最高裁判決に盲従しているわけではないことは、留意しておいてほしい。

  2 141項後段特別意味説の審査基準

 その場合には、学説の多様性に対応して、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195196頁参照)。

  ① 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準

  ② 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準

  ③ 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準

 これに対し、芦部信喜は次のような基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学Ⅲ 人権各論(1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。

① 人種や門地による差別=厳格な審査基準(27頁)

② 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(30頁)

③ 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(29頁)

 これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。

だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。

 列挙事項に該当する、よって…という式に全く理由を示すことなく、審査基準を導く例をかなり勉強している学生でもする事が多い。しかし、そんな立論ではまったく評価できないことは理解してもらえたであろうか。

 本問で審査基準論をどのように展開するかは、諸君が、上に紹介した説のどれを採るかで決まる。通説に従い、単純例示説を採り、3分類説を採る場合には、参政権は、精神的自由権に近い性格を持つ平等原則だから、厳格な審査基準を採るべきことになる。戸波江二説でも同様の結論になるであろう。それに対し、芦部信喜説の場合には、多分②の厳格な合理性基準を採用することになるであろう。

 どの説を採った場合にも、冒頭に紹介したとおり、私法上の財産権行使に当たり、ノーマライゼーションの思想から導入された成年後見制度を、それとは全く関係の無い参政権行使の制限として使用する何らの合理的理由も存在しないから、明らかに違憲という結論が導かれるであろう。

 このことは、きわめて自明であるところから、問題文の末尾にもある通り、判決直後の平成25531日「成年被後見人の選挙権の回復等のための公職選挙法等の一部を改正する法律」(法律第21号)が成立し、平成25630日から施行された。