中国赤ゲット旅行
甲斐 素直
一 出発まで
2005年10月末に、私は初めての中国旅行に行ってきました。中国山東省の済南市にある山東大学に招待されたためです。
行ったのは、ある意味で偶然でした。つまり、ある日、中国からのメイルが大学のパソコンに入って来たのです。ウィルスが怖いので、普通、発信者名に心当たりがないメイルは、開かずに削除しています。だから、このメイルも本来なら削除される運命だったのです。開いたのは、偶然私の指が滑って、削除のつもりが開いてしまったからです。読んでみると、こんなメイルでした。
甲斐素直 教授
山東大学法学院の牟 憲魁です。
中国の山東大学法学院は今年10月の末、シンポジウム「日中公法学の課題と展望」を主催する予定です。いまのところ、日本の公法学者として、東京大学の小早川教授、名古屋大学の紙野教授、九州大学の大隈教授、東海大学の桑原教授から出席の返事を頂きました。また、中国の学者として、北京大学、中国政法大学、中国人民大学、武漢大学などの公法学者を招請する予定です。
ご都合がよければ、ぜひご出席を頂きたいと思います。
これまで、私は中国に行ったことがないばかりでなく、これまで関わりも全くありません。それだけに、何で私宛にこういうメイルが来たのか理解に苦しみました。最初は、日本の公法学者に片端からメイルを送っているのではないか、と疑ったりしたものです。
行った後、さらに首を捻りました。東大の小早川先生の場合、東大を代表して中国学会との交流をこれまで行ってきており、山東大学の広報担当の教授とも顔なじみでした。あるいは名古屋の紙野先生、九州の大隈先生の場合には、中国人留学生の面倒などをそれぞれの大学でみていました。東海大の桑原先生の場合、中国の環境法を研究するために中国語を覚え、かなり流暢に話せる状態で、中国に行った回数も数え切れないというほどの人でした。その中で、私だけが本当に何の関わりもなかったのです。帰る間際の雑談でズバリ聞いたら、シンポジウムの幹事ともいうべき牟先生達が、私の憲法学が好きだったから、という返事でした。確かに、それくらいしか招待される理由は思いつきませんが、いまだに半信半疑です。
これも行ってから知ったのですが、山東大学は、大学自体は100年もの歴史を持つのですが、法学院(日本の法学部+大学院の組織なのでこう呼ぶようです)はちょうど今年が設立20周年にあたります。そこで、それを記念して、このような国際シンポジウムを企画した、ということでした。そういう記念のイベントに、わざわざ名指しで呼んで頂けたというのは、ずいぶん光栄なことだと思いました。
メイルを受け取った時点では、そういうことは判っていませんでした。しかし、その時点では、同時に10月末というのは、比較的暇な時期で、学部の講義に1〜2回休講を入れれば何とかなると思われました。実際には、今年は、まさにこの直前の時期に法科大学院の入学試験がずれたので、大変忙しい思いをすることになったのですが、それは後の話。国際親善というのは大事なことだと常日頃考えていましたし、牟先生の方で指定してきたシンポジウムの議題の一つに、国家賠償法があり、諸君も知るとおり、それについては最高裁判所の郵便法違憲判決があるわけですから、それをベースに報告を書くのは問題はないと思われたので、引き受けることにしました。
そこで、一つ問題が起きました。確かに、これは中国への招待なのですが、一つ但書があって、中国国内に入ったら、総ての費用を山東大学側で持つが、往復の航空運賃だけは私が自己負担して欲しい、というのです。今、中国の元は、実力に比して低い交換レートになっていますから、国際運賃を負担するのは大変だ、というのはよく判るところです。
自分で負担する、と行くことになれば、できるだけ安い航空券を捜すのは当然です。山東大学のある山東省の省都である済南にはちゃんと国際空港があり、日本からの直行便もあります。しかし、航空券はたくさんの旅行客がいる路線ほど安くなり、いない路線は高くなるのは当然のことです。つまり、済南直行便は、北京や上海行きの2倍以上の値段になるというのは当然です。招待状を改めてよく読むと、必要があれば、北京や上海まで迎えに行きます、と書いてあります。そこで、改めて牟先生に確認を入れると、間違いなく北京まで出迎えます、という返事なので、安心して北京行きの飛行機便をとりました。もっとも、一番安いノースウェスト航空は、なんと北京着夜の9時半。まさかそんな時間に人に出迎えさせるわけにはいきませんから、結局、少し割高ですが、北京空港に午後1時半に着く中国南方航空の飛行機の切符を押さえました。誰でも考えることは同じらしく、その飛行機には、打ち合わせたわけでもないのに、東大の小早川先生と東海大の桑原先生も乗っていました。
二 中国語
原則的に、私は言葉が判らない国には行かないことにしています。全く知らない国に行く場合には、出発前に少しでも勉強して、簡単な挨拶や店屋での注文程度はできるようにしておきます。そうでないと、町をのんきに歩くことさえできないからです。しかし、先にちょっと触れたとおり、出発直前は、法科大学院の入試で非常に忙しい思いをしていました。だから、中国に関して何の準備もせずに、ぶっつけ本番の旅となりました。
(一) 中国語の発音
成田空港待合室で出発を待つ間に、はっと気が付いて書店に飛び込んでみました。旅行ガイドを買うつもりで入ったのですが、みると「見せて通じる中国ご旅行会話」なる小冊子があったので、これだ、と思ってそれを買い、待合室で早速読み始めました。すると、となりに日本語の達者な中国人が座って、いろいろと話しかけてきます。何でも日本の某大学の先生をやっている人だとか。その人から中国語の発音を習ったのですが、何とも難しい。いくら発音を変えてもOKが出ません。買ったガイドブックのタイトルにある「見せて通じる」というのは本当だと痛感したものでした。その後も、私の発音に、合格点を付けてくれた中国人は一人としていませんでした。
中国語は、単に発音が難しいだけでなく、四大方言という言葉があるとおり、地方による同じ文字に対する発音の落差が大きいのです。そこから面白いことが起こります。中国人は、自分の名前を、我々日本人に自己紹介するときには、日本語読みするのです。例えば、牟先生の場合、何と発音しますか、とメイルで聞いたら、「ム・ケンタイ」と発音しますという返事が来ました。もちろん、実際にそう呼ばれているということではありません。彼の下で日本語を学んでいる学生達は、普通「モー先生」と呼んでいたので、なるほど牟はそう発音するのか、と納得したものです。
この様に、日本人に対して日本語読みで自己紹介するということを裏返すと、自分たちの間では、我々日本人の名前についても、情け容赦もなく中国語読みするということです。シンポジウムの開会式で、順に名前を呼ばれるので、その都度、呼ばれた人は、席から立って一礼するのですが、呼んでいる名前は少しも日本人の名前に聞こえません。ただ、順番だから、多分自分だろう、と思って立つというぐらい、かけ離れた発音になっています。
話が飛びますが、帰国するときに、山東大学では、私に、済南空港から北京空港までの航空券を用意してくれました。その航空券を持って空港に行ったところ、私の旅券に書いてある名前と、航空券に書いてある名前とが違う、と搭乗窓口でクレームが付いて立ち往生する、という一幕がありました。それまで気にもしていなかったのですが、いわれてみてみると、私が持っていた航空券の搭乗者氏名の欄には「JIAFEISUZHI」と書いてあるのです。どう発音するのか、いまだに判らないのですが、とにかく「甲斐素直」という文字を中国語読みし、それを中国式のローマ字で書くとこうなるのだ、ということなのです。それを空港の係官に納得して貰うのに、ちょっと手間取りました。
(二) 中国の簡体字
中国語は、基本的には漢字で書かれていますから、発音することはできなくとも、読んで意味を掴むことはできます。ただ、ここで我々日本人を泣かせるのが、簡体字と呼ばれる一連の漢字です。漢字は全部で5万字もあるので、識字率を高めるために1956年に漢字改革を断行して導入したのが簡体字だそうです。しかし、総ての字を簡単にしたのではなく、日常よく使う500字ほどを改革したのだとか。
今、我々日本人が使っている常用漢字は1945字ですから、その4分の1程度の規模です。だから、中国の新聞などを見ると、見慣れない簡体字と、わが国では戦前に使われていた古い字体(繁体字と呼ばれています)が入り交じっていることになります。簡体字に入っていなければ、どんなに難しい字でも、昔のとおりにきちんと書かねばなりません。例えば、地名には古い字体が多いのです。省の名前でいえば、遼寧省とか安徽省という字は、中国人にも手強いのですが、そのとおりに書くしかないそうです。
簡体字を決定するときには、一定のルールで作業したので、それがどういう意味の文字なのか、推定するのは、ちょっと頭の体操みたいで楽しいものでした。残念ながら、日本語ワープロでは簡体字を示すことができないので、実際の文字を示して説明することができません。
多くの場合には、繁体字の一部をとっています。例えば「関」という字は、今では門構えをはずしたものです。「術」という字は、偏と旁をはずしたものです(つまり木という字に点が打ってあります)。
同じ音の他の文字を代用する例もあります。例えば「機」という字は「机」と書くのです。机場といったら飛行場のことです。ついでにいえば、「場」の簡体字は、これから日という字をはずした形です。「穀」という字の代わりに「谷」と書くのも、同じ発音の別の文字という発想です。
そういうのを組み合わせたものもあります。「勝」という字の場合、月偏に生と書きます。生は、勝と発音が同じなので、音を示す目的で付けられているとか。
草書体を使うものもあります。「言」がその典型です。そういうルールもあるということに気が付なかったものですから、私は長いこと、言偏をさんずいと見間違えていました。例えば「設」という字を「没」と、あるいは「計」という字を、「汁」と読み違えていた訳です。これでは意味が通じるわけがありません。
三 夜汽車
到着した北京空港には、王さんという男性と、呉さんという女性が出迎えてくれました。
王さんは、中国政法大学法学院副教授。この大学は、今は他の大学と同じように、文部省の下にありますが、昔は法務省の下に設立されていた大学だったのだそうです。呉さんは、中国人民武装警察部隊学院助教授。日本の警察大学校のような組織のようです。
二人は、我々を北京駅に連れて行き、そこで九州大学の大隈先生と落ち合いました。それまで私はどうやって済南まで行くのか知らなかったのですが、汽車で行くのだということが初めて判りました。先に書いたとおり、空港に着いたのは1時半なのですが、汽車が発車するのが4時36分、済南につくのが夜中の10時半という予定なのだといいます。地図で見るとすぐ近くのように思っていたのですが、済南と北京は600kmも離れているので、どうしてもこんなにかかるのだというのです。
それだけ時間がかかるので、山東大学では気を遣って、寝台車の一番下の段を取ってくれていました。しかし、寝台にはカーテンがなく、また、上の段に上る階段が付いていません。だから、上の段の人が上り下りするたびに、こちらの寝台に足をつっこんでくることになります。
横になって旅ができるという点では楽なのですが、一番問題だったのが、頭のところに明かりがなかったことです。私は、じっとしているときには本を読んでいないと気が変になる人間なのですが、日が暮れると、本を読むのに天井の乏しい明かりだけが頼りになります。さらに9時を過ぎるとそれも全部消されてしまったから寝ているしかありません。もっとも桑原先生は、列車の出入り口のところにある明かりを頼りに、立ったまま本を読んでいました。上には上があります。
600kmを6時間なのですから、日本人の感覚からすると、特急というより鈍行の感じでした。それでも予定どおりに済南に着きました。州都にしてはちょっと寂しい駅でした。すべての車両から一人ずつ車掌がおりてきて、出入り口の脇に立って、発車の合図を待っていました。ホームに全く人気がないだけに壮観でした。人手の余っている国だということを痛感しました。
四 山東大学国際交流センター
国土が広大な中国の施設の例に漏れず、山東大学は中を車で走らなければどうにもならないほどの広いキャンパスを持っていました。キャンパス内の道路はどれも2車線ないし4車線で歩道付きといえば、広さが感覚的に判って貰えるでしょう。後で知ったのは、それでも、車で20分ほども離れた場所に別に第2キャンパスが設けられており、法学院のような新しい学部はそちらにあるのです。
宿泊先となっていた山東大学国際交流センター(センターは中国語では「中心」と書きます)というのは、名前の通り、山東大学キャンパスの中央にあるのですが、名前から想像していた学術施設ではなく、れっきとしたホテルでした。中国でホテルにどのようにランキングを付けるのか知らないのですが、ちゃんと三つ星を貰っています。正式名称はともかく、正面入口には“University Hotel”というネオンまでついていました。さすがに、中国語で「大酒店」ないし「大飯店」と書いたりはしていませんでしたが。
私の部屋はダブルベットでゆったりと寝られ、大きなテレビも付いていて、なかなか快適でした。但し、日本と違って、バスタブはありません。シャワーを使うのですが、それは、トイレの便器との間をカーテンで仕切って浴びる様になっています。だから、シャワーを浴びると、トイレ部分の床まで濡れてしまいます。ついでにいえば、トイレットペーパーが、洋式便器の後ろの壁に取り付けてあるので、使うときには座ったまま上半身を180度近く回すか、真後ろに手を伸ばして手探りするかのどちらかです。
不便な設計と思うのですが、中国通の桑原先生の話だと、中国はどこに行ってもこんなものだそうです。中国人もさぞ不便だろうと思うのですが、これも、中国どこでもこうなのだとか。海外との交流がまだまだ少ない国なので、こういう奇妙なところが残ってしまっているらしいのです。
五 中華料理
私は中華料理が好きです。今年の夏休みは、ハワイ大学で20日間も過ごしたのですが、その折などは、外でとる食事の半分近くは中華料理だったのではないでしょうか。もちろん、これはやたらとアジア系人種が強いというハワイの特殊事情が手伝ってのことですが。例えば、ハワイ大学の学生食堂は、中国、韓国、日本、それにハンバーガーショップの4つのコーナーから成り立っていたのです。
今回の旅の場合、当然、始めから終わりまで、全部中華料理です。三つ星のホテルのはずの朝の食堂が、すでに中華料理だけのバイキングになっています(もっとも食パンとジャムだけはありました)。最初に面食らったのが、熱いオレンジジュースのあったこと。私の世話係の学生に聞いたら、オレンジジュースは普通熱くして呑むのだとか。当然、牛乳も熱いものが用意されています。残念ながらコーヒーはありません。
並んでいる料理も、見たこともないものばかり。だから、少量ずつとって味を見てみないと、いったい何を食べるのか見当もつかないものばかりです。この違和感は、その後も続き、夜に学部長達と、大学の近所のレストランに行って食べた際にも、見たこともない料理ばかりが出てきて面食らいました。例えば、私はナマコはわりと好きです。刺身にしたときのこりこりとした食感は捨てがたいと思っています。しかし、スープの中に、体中からとげをのばした10cmほどのナマコが、一匹丸々入っているのを見ると、味はよいと思うのですが、視覚的に拒絶反応が出て、結局それはほとんど残してしまいました。
後のことですが、学生達と町のレストランに入って、自由に注文できる折りがあったので、この時とばかり、炒飯はないのか、焼きそば(炒麺)は、酢豚は、カニ玉はどうだ、という調子で、私が日本や海外の中華レストランで頼んでいたものを、例の「中国語旅行会話」の助けも借りながら一所懸命並べたのですが、どれ一つとしてないのです。その店には、そもそもご飯がないから炒飯などは作りようもない、という話でした。言われて店内にいる他のお客を見ると、大きな饅頭を片手に食べている人が目立ちます。どうも山東省というのは、あまり米を食べない文化圏のようです。その時には、かわりにうどんを頼んだのですが、それにも面食らいました。まったく汁に味がないのです。要するに、日本料理でのご飯の位置にうどんがあるので、味なしで出てくるというわけです。
帰国後に調べたところ、こういう事です。普通、日本で中国四大料理というと、北京、上海、四川、広東の四つです。我々が普通に中華料理と呼んでいるのはこれのどれか、ないしこれらのごちゃ混ぜです。この中には山東料理という分類はありません。しかし、山東省というところは、孔子の故郷の曲阜とか、中国歴代皇帝が即位式をあげた泰山などがあることで知られるとおり、中国四千年の歴史がそのまま存在しているところです。だから、近世の四大料理などに毒されていない元祖中国料理が、そのまま今日まで生き延びているというわけです。何でも、孔子が生きていた春秋時代の雑家書『呂氏春秋』には、山東・四川・江蘇・広東料理が四大料理とされているとか。つまりそのころは、北京料理や上海料理は、料理などとは呼んでもらえなかったわけです。このように、日本で言う四大料理に入らない独自の地方料理があるので、中国ではむしろ「八大料理」が一般的な分類なのだそうです。山東料理はその筆頭に位置することになります。帰りがけに、北京空港に降りた際、タクシーを飛ばして北京ダックを食べに行ったのですが、その時、ようやく私の気分としては、中華料理を食べた気がしました。
中国式宴会のマナーで参ったのが、乾杯です。日本だったら、宴会の最初に乾杯をすれば、あとは歓談ということになります。より正確に言えば、乾杯といっても、多くの人は一口飲むだけで、つがれている酒のほとんどは杯に残っています。ところが、中国の場合には、乾杯とは、文字通り杯を乾す事を意味します。乾杯した後は、間違いなく、底まで空になっている事を示すために、他の人に杯を傾けて示すのです。人によっては、杯を自分の頭の上に持ち上げて、逆さまにしてみせる人もいます。ぽたっと垂れてきたりするのもご愛敬というわけです。
それだけだったら、大したことではありません。問題は、それが、宴会の間中、延々と繰り返される点にあります。列席者が何か挨拶を言っては乾杯、とやりますから、先ず列席者の数だけ乾杯が繰り返されます。さらに、それが終わっても、まだ言祝いでいない何かを思い出すと、それをテーマにまた乾杯となります。宴会が進んで、座が崩れてくると、日本と同じように、ビール瓶や酒瓶をもって注ぎに回る人が現れます。その場合、日本なら注がれても、ちょっと杯に口を付けてみせれば勘弁して貰えるのですが、中国の場合には、そうした人が来るたびに乾杯が繰り返されます。どうも日本人と違って、中国人は体質的にアルコールに強いらしく、本当に毎回底まで空にします。勘弁して貰えるのは女性だけです。最初の晩は、その辺が判っていなかったので、ワインを飲んでいたおかげで、翌日は二日酔いで辛い思いをしました。それに懲りたので、二日目からはビールだけで通すようにしました。
六 泰山
シンポジウムの翌日、山東大学がマイクロバスを用意してくれて、泰山か曲阜のどちらかを見物に行くことになりました。しかし、多くの人は平地を歩けば済む曲阜行きの方を選んだので、泰山行きに乗ったのは、僕と桑原先生と張北京大学教授だけでした。私と桑原先生の世話係のはずの女子学生も、曲阜の方に逃げてしまい、こちらに付いてきたのは、高さんという男子学生だけでした。
実は、シンポジウムの前日に、市内観光をした際、私と桑原さんと二人で、市内にそびえる千仏山という山に登っていたのです。千仏山は海抜285mですから大した山ではありません。300段前後の登山道が整備されているので、山頂まで簡単に上れます。天気が良かったので、済南市内全景ばかりでなく、遠く黄河も見えました。…と気楽に書いていますが、考えてみれば、東京タワーのてっぺんまで歩いて上ったようなものですから、世話係の彼女たちにとっては、とんだ災難だったわけです。その私と桑原先生が行く以上、泰山を登るとは文字通り、山登りになるのは必至です。
泰山は、中国五岳の筆頭です。高さは山頂の玉皇峰が1545mと比較的低い山ですが、平野にそびえ立つ偉容から、古くから信仰の山として発展し、麓から山頂まで6666段といわれる(こんなすっきりした数字はもちろん嘘に決まっていますよね。別のガイドブックによると7412段です。)といわれる階段が続いています。300段の千仏山で悲鳴を上げた彼女たちとしては、それを登るのは堪ったものではない、考えたのも無理はありません。彼女たちから敬遠されたようです。
泰山の麓にある泰安市までは、済南からは、マイクロバスで高速道路を通って2時間ほどの距離です。高速道路に乗るときに、黄河が見えました。しかし、対岸までが簡単に見えるほどの小河川で、対岸が見えないといわれる大河の面影はありませんでした。これなら、利根川の方が立派というほどのものです。大河という我々のイメージに比べると、あまりに細い河なので、高さんは違うのではないか、といっていたほどなのですが、架かっている橋にはちゃんと「黄河鉄橋」という文字が見えましたし、念のため、運転手に聞くと、間違いなく黄河だといっていました。中国発展のために、上流でダムが造られ、水量がすっかり減っているとは聞いていたのですが、これほどとは思っていませんでした。
泰山では、始めに、岱廟という、泰山を祀った麓の神社を拝観。次いで、本当なら歩いて登りたいところですが、ガイドブックを見ると登り6時間と書いてあり、既に昼を回っているのでそれはあきらめて、タクシーで、泰山へのバス乗り場へ移動しました。バス代が100元、入山料が20元、保険料が2元で、しめて一人122元というのは、中国の物価水準からすると、ひどく高いバス代です(1元は約15円ですが、国内の購買力はその倍以上の感じでした)。バスはマイクロバスですが、神風運転も良いところで、ヘアピンカーブの連続を、全く速力を落とさずぐいぐい登っていきます。シートベルトがほしいような運転でした。なぜこんなにとばす必要があるのか判らず、首を捻りました。その謎は後で解けました。
中腹にある中天門というところで、今度はロープウェイに乗り換えます。45元。終点が南天門というところです。そこから歩き出すと、山頂までは大した道のりではありませんでした。とはいっても、数百段の石段が待っていましたから、そこからだけでも、千仏山よりは高い計算になります。
泰山は、先に触れたとおり、日本で言えば、高野山や比叡山と同じような、信仰の山です。日本だと、富士山に登れば、ご来光を拝むのが常識ですが、泰山でもやはりご来光を拝むのが、本式の登り方です。そのため、南天門の奥には、そういう人たちを泊めるためのホテルや食堂がずらりと並んでいます。高野山ほどではありませんが、完全に都市化した風景で、あまり信仰の聖地という感じではありませんでした。
しかし、人々は、最初私が木刀か金剛杖の中国版と思い違いをした、太くて長い線香を担いで続々と登っていきます。山頂付近には、十二国記の愛読者ならご存じの碧霞玄君を祀る碧霞祠もあります。5元の入場料を払って参観しました。
院生の高君が、そうした神殿で、一つ一つ、膝を突いてぬかづいているのに、少し感銘を受けました。彼に、文化大革命の昔なら、そんなことをしたら紅衛兵に引きずり回されるところだよとからかったのですが、意味が判らないようでした。中国でさえ、文化大革命は歴史の上の1頁になり、現実の記憶からは消えているようです。
中国でさえ、そうなのだから、君たちも知らないかもしれませんね。簡単に紹介すると1960年代後半から1970年代前半にかけて起きたこんな事件です。
毛沢東といえば、中華人民共和国建国の英雄であり、その後も長く国家元首として君臨していた人物です(今も中国の紙幣は総て彼の肖像です)。しかし、だんだんと実権を失い、劉少奇やケ小平などの実務家が実際の国の運営にあたるようになっていました。そこで、権力の奪回を目指して、国家元首である毛沢東自らが政府に対して起こした流血の革命が文化大革命です。10代の紅衛兵と呼ばれる少年達を使って、大学教授、大学生、医師、教師といったインテリ層が徹底的な弾圧の対象になり、強制的に農村に送り込まれて劣悪な環境下で農作業に従事させられました。また、宗教が徹底的に否定され、寺院その他の宗教的な文化財が破壊され、僧侶が投獄・殺害されたりしました。期間中の死亡者、行方不明者の数は数百万人とも数千万人とも言われます。
だから、高さんのような大学生が、あの当時に、泰山にある宗教施設に跪いて拝んだりしたら、命がいくつあっても足りなかったはずなのです。
さて、そういう調子で、登りは交通機関を使ったのですが、そのおかげで時間に余裕ができたので、下りは歩くことにしました。何千年という信仰の中心ですから、山道ではなく、すべて階段が作られていますから、革靴でも大したことはない、と判断したからです。しかし、単に急であるだけでなく、きわめて蹴込みの浅い石段なので、よほど注意をしていなければ、足を踏み外す可能性があります。東京で言えば、愛宕山の石段を考えて貰えれば、ある程度イメージが湧くと思います。しかも、途中、踊り場が全くない、数千段の階段というのですから、実に厳しい下降でした。風景を見る余裕などは全くなく、ひたすら足元を見ており続けるのです。入山料とは別に、保険料が徴収されるのは、そうした事故対策か、と納得がいきました。
中天門までおりたところで、私としてはよほど後はバスに乗ろうと思ったのですが、同行者一同、歩いておりる気満々のようでした。そこで主張をあきらめ、さらに登山口をめがけて下降を続けました。後で聞いたら、実際には誰もバスにしたがっていたようです。
麓までおりた頃には大分膝がガクガクいっていたのですが、それほど大したことではありませんでした。翌日も、最初は全く足の異常はありませんでした。ところが、階段を下りようとして、ガクガクと崩れ落ちそうになりました。下りに使う筋肉というのは、平地や登りに使う筋肉とは全然別物なのだ、ということを初めて知りました。
七 中国人の公徳心
中国は新しい国です。本格的な経済発展が始まったのは、せいぜい長めに見ても、この20年くらいでしょう。今では大変なものです。例えば、ホテルの部屋には、ケーブルテレビがあり、チャンネル数は60を超えていました(数えてみたのです)。これまで訪問した幾つかの国では、やはりこの様にたくさんのチャンネルがありましたが、幾つかのチャンネルは、外国のテレビをそのまま放映しているのが普通でした。しかし、中国の場合には、全部が中国語でした。もっとも私には区別が付かなかったのですが、北京官話以外の方言放送やさらにはモンゴル語その他少数民族語の放送などもあるようでした。
このように、短い期間に、日本に比肩しうるほどに急速に発展したものですから無理もないことですが、人々の間に、現代的な機器の使用に対する公徳心というものが、残念ながら育っていません。例えば、列車やエレベータのドアが開くと、おりる人がいることなどお構いなしに、必ず我先に乗り込んでくるのです。
しかし、エレベータに乗るときなら、公徳心がなくとも、命にかかわる問題ではありません。その公徳心の欠如が、中国では本当に深刻な問題なのだ、ということを痛感させられたのは、この泰山からの帰り道でした。
バスで走り出したときにはもうとっぷり暮れていました。夜になって、車で走ったのは、この時が初めてだったのです。
最初に仰天したのが、町中を抜けて、高速道路の入口にたどり着いた時です。そこには無秩序にぎっしりと大型トラックが頭をつっこんでいたのです。こういうとき、互いに譲り合うという発想がないので、片側二車線の入口に、10台以上の車が同時に入っていこうとしているのです。収拾がつかない混雑になっているのも当然です。もちろん、我々の乗るマイクロバスの運転手も、強引にその中に割り込んでいきます。きちんと並んでいれば、もっと早くにすんなり動くだろうと思うのですが、そのように無秩序に侵入し、しかも互いに譲り合う気がないのですから、うんざりするくらいの長い時間を掛けて、ようやく入口の関門を通過しました。高速道路に乗ったので、一安心と思いました。しかし、本当のドラマはそれからでした。
山東半島を縦断するこの高速道路は、片側三車線という、かなりゆとりのある構造なのですが、そこは、大型トラックによるカーチェイスの舞台だったのです。あらゆる車が、少しでも先に行こうとして、高速車線、中速車線、低速車線の別などお構いなしに、激しく追い抜き合戦を展開しています。ひどい時になると、中速車線に、高速側と低速側から同時に車線変更していこうとして、接触しかかったりしています。私の乗るマイクロバスの運転手も、それらに一歩も後れをとることなく、激しくレースに参加しているのはもちろんです。泰山に登る際のバスの神風運転も、このようなメンタリティの表れか、と初めて納得がいきました。
我々は、呆然として、この道路一杯に、すべての車が参加して展開される壮絶なカーチェイスを眺めていました。普通の日本人には中国の高速道路は向かない、と桑原先生と話し合っていた、ちょうどその瞬間、1台のダンプカーが、低速側から、中速車線を超えて、一気に高速車線に入り、さらに、先がつかえているということで、また中速車線に戻ろうとした途端に、ものの美事に横転したのです。過積載だったのに、あまりに左右に激しく振ったために、車体のバランスが崩れたため、と私は思いました。桑原先生は、事故の直前に破裂音が聞こえた、といいますから、もしかすると、タイヤのどれかがバーストしたのかもしれません。原因はともかく、車体が高速車線で横倒しになり、積んであった砂が中速車線にぶちまけられ、砂を覆っていた幌が低速車線までとんでいますから、完全に道路を遮断する格好になったのです。50mくらいはなれた位置での事故でしたが、たまたま間にほとんど他の車がいなかったので、よく見え、しかもこちらはぎりぎり巻き込まれずに済む特等席からの観覧でした。
次の瞬間、こちらの運転手は、ためらうことなく低速車線の幌の上を通過し、事故現場を後にしていました。いくらも行かないうちに、パトカーとすれ違いましたから、あの後、おそらく高速はしばらくの間、閉鎖されたのではないかと思います。我が運転手君のとっさの判断がなければ、長いこと、待たされることになったのは間違いありません。
さて、済南市にたどり着き、高速から降りてやれ一安心と思ったのもつかの間。夜の市内の道路というのは、高速道路以上の恐怖の巷であることを痛感しました。
中国の道路というものは、どこでも日本の感覚からは信じられないくらいに幅があり、さらにその外側にゆったりとした歩道が付いているのが普通です。ところが、多くの歩行者が、歩道などにはお構いなしに、夜の闇の中(街灯がほとんどない)を、ぞろぞろと車道の端を歩いているのです。桑原先生の話だと、これは中国人の癖とも言うべきもので、上海や南京でも同じようだということです。
したがって、当然ですが、そのさらに車道の中央寄りを、大量の自転車が走っています。これが驚いたことに、一台としてライトがついていません。後輪のリフレクターでさえ、10台に1台くらいの割でしか付いていないのです。要するに、車からは、その気になって目を凝らさない限り、さっぱり見えません。しかし、中国人は気にせず、どんどん走っています。時には、車の流れの中を、その無灯火、無リフレクターの自転車で、平気で斜め横断しているものまでいる始末です。
そして、車道の中央では、車が高速道路と同じようにカーチェイスを繰り広げています。ある意味では高速よりひどいといえます。というのは、平気でセンターライン・オーバーの追い越しを展開しているからです。今にも対向車と衝突するかと思われたことが何度かありましたが、奇跡的に、そうした場面には遇わずに済みました。
このように一般的に公徳心が欠如していては、中国の交通事故及びその死者の数はものすごいものに違いないと考え、帰ってきてから調べてみました。新華社電によると、中国の自動車保有台数は全世界の1.9%に過ぎないのに、交通事故発生件数は何と15%を占めているのだそうです。また昨年度の中国の道路交通事故による死者は9万4000人に達しています。どちらもダントツの世界1位です。中国の自動車普及がまだ始まったばかりであることを考えると、このまま放置すれば、さらにこの件数は鰻登りになることは目に見えています。
中国は、日本などに比べるとまだまだ政府が強い国ですから、政府がちょっとその気になれば、この公徳心の問題も解決できるはずです。早くに手を打たないと、この無秩序がいよいよ拡大していまいますから、早くに手を打つことを願っています。しかし、すぐに着手したとしても、それが効果を上げるにはしばらく時間が必要でしょう。日本人が、中国に行った場合、当分の間は、絶対にレンタカーを借りて走るべきではない、と痛感しました。
[おわりに]
赤ゲットって何だ、という人もいるかもしれないので、よけいな注釈をつけると、「ゲット」とは「ブランケット(blanket)」の略で、だから赤い毛布という意味です。なぜか、明治初期、東京見物にきた田舎からのお上りさんは、赤い毛布を羽織っていたのだそうで、そこから、お上りさんに対する蔑称として使われた言葉です。それが、その後、なぜか慣れない海外旅行者にもいうようになった訳です。私の今回の中国旅行はまさにそれで、物珍しく、左右をきょときょと見て、周りの人を質問攻めにする旅でした。いろいろと不満はありましたが、まずは楽しい旅でした。この次ぎは、北京大学か、上海大学あたりから招待が舞い込むと良いなあと思っているところです。