14期生(2年生)

 

『がんばらない』

 〜現代の医療機関〜

 岡本 有希子

 

『がんばらない』とは諏訪中央病院の医師、鎌田實の書いた本で、医療機関の現状を考えさせられる一冊です。

医療機関とは患者の病気を治すところである。病気をして、日常生活に多少の支障をきたすようになってしまうと、心にも大きな傷を負う。治療し、命は助かったとしても生きる気力を失ってしまうかもしれない。医療機関は心のサポートやケアもすべきだと思う。治療に専念することで、人間として重要な部分を見落としがちになりかねない。特に大病院に見られるが、医療関係者と患者の間には大きな壁があると感じる。大病院では多くの患者をかかえているために、一人の患者を診察する時間は限られてしまう。確かに大病院には腕のいい医師がいるかもしれないが、町医者のような気やすさはなく、一線ひいてしまうようなところがある。医療関係者と患者との距離を縮めなければ細かい配慮ができず、治療にも支障をきたすのではないだろうか。医療機関は、表面的な治療と並行して内面的な治療をしなければならないと思う。この本に見られる「諏訪中央病院」の医療関係者のように、患者との間に信頼関係が築け、お互いに助けられていくというのが理想だと思う。そして、地域ぐるみのボランティア活動。医療機関と地域が一体となり、寝たきりになってしまった患者のサポートをする。身的な治療、ボランティアに、患者は表も内も癒されていくだろう。

人にはそれぞれの生き方があり、どう生きるかを決めるのは自分自身、いわゆる自己決定権がある。手術すれば治る可能性がある、手術しなければ余命わずかという時でさえも、本人が手術はしない、自宅療養という形をとりたいという意志があれば、尊重すべきである。現在の医療機関では難しいかもしれないが、自宅療養という形をとった場合、往診や緊急時にはかけつけるなど協力するのが理想である。

この本では、「自分が自分らしく生きること」だと強く主張されている。自分らしく生きることは非常に難しい。しかし、最後まで本人の意志を尊重し、素晴らしい最期を迎えさせてあげればいいと思う。自分らしく命を終えるのには、周りの協力が不可欠である。本人の意志を尊重した上で最期を迎えさせてあげてほしい。それにはまず、医療機関の現状を打破しなくてはならない。日本だけでなく、世界にも諏訪中央病院のような医療機関が増えることを願うばかりである。

 

《コメント》

 ちょっと説明が簡略で、何の話かぴんとこない人も多いと思うので、若干補足します。これは集英社文庫から2003年に出た本で、定価560円とやすいので、興味を持った人は読んでください。医師ばかりでなく、法曹にも必要な考え方と思います。この本が当たったので、その続編『それでもやっぱりがんばらない』が2005年にやはり集英社から出ています。こちらはハードカバーに出世して1680円です。

なお、鎌田医師のオフィシャルサイトがあるので、簡単にイメージをつかみたいという人はこちらをどうぞ。

http://www.kamataminoru.com/

 

 

考えるということ

高岡 隆一

 

かつて最高裁が使っていた原理に部分社会の法理というものがあった。

これは一般市民法秩序から分離した自律的な法規範を持つ社会、団体においては、その内部問題にとどまる時は、その自主的自律的な解決に委ね、司法権の介入が制限されるとするものである。

 これは有名な板まんだら事件でも、とられている原理である。それによれば宗教上の教義に関することは、法律上の争訟にあたらず、実体審査手続審査を含めて一切司法は判断しないとするものであった。

 この考えは基本的には団体自治による、もっと深く捕らえるなら、個人主義により国家が個人に対して介入しないという原理、つまり私的自治の原則による概念のはずである。

しかしながら実際には、部分社会の法理により構成員個人の人権の侵害について考えることを放棄しているように思う。個人を守る個人主義の概念を用いて個人の人権が侵害されるというのはなんとも矛盾としかいいようがない。

よく日本人の国民性について全体主義の色彩が強いと言われるのだが、戦前には特別権力関係という概念が使われ、国家に関することは不可侵としていた。これは国家について司法権は何も考えないということを宣言しているように思う。そして戦後になって人々の帰属意識として国家から会社などに変わり始めた。そこで部分社会の法理という概念が使われだすようになった。

結局のところ、司法権が国民の全体主義の考え方を支持し、それを個人主義の概念で説明するためだけに部分社会の法理が作られたのではないかと勘ぐってしまう。

日本人は、戦前は国に帰属主体として考えるのを放棄して尽くし、戦後は会社に同様に尽くしてきたと思う。それに弊害は多いはずであるが、それを司法は理由付けとして、前者に特別権力関係、後者に部分社会の法理を使ったのではないだろうか。国家も会社も規模は違っても人が構成し、それにより、その構成している個人が侵害されることは常に起こりうることで大差はない。

考えないということは常に危険を伴う。前述の板まんだら事件においては、司法が一切判断を下さなかったことによって紛争が解決せず、寺が荒れることまであった。このことを考えて、「考える」ということの重要性についてもっと考えていく必要がある。

 

《コメント》

もろに憲法問題を取り上げているので、2年生の書いた文の揚げ足取りをして、と批判されるのを覚悟の上で、少し細かく駄目を出します。

@ 『かつて』ではありません。れっきとした現役の判例理論で、現在もたくさんの判決が、この理論にしたがってでています。

A 『最高裁判所が使っていた』ではありません。下級審が先行して積極的に使い、最高裁判所も追認するに至ったものです。漠然と表現したいなら、『裁判所が使っていた』が正しい表現です。

C 『部分社会の法理』ではありません。『いわゆる部分社会の法理』です。つまり、法学で習う部分社会論とは全く別の論理、学説なのです。

D 『板曼荼羅事件でもとられている』と述べるのは間違いです。この事件では、最高裁判所は「信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらない」と述べています。すなわち、部分社会の紛争だから司法判断をしないのではなく、法律の適用による終局的な解決が不可能だから、司法判断をしないといっているのです。論理としてはよく似ており、大きく論ずる場合にはまとめて論じてもかまいません。しかし、間違っても「いわゆる部分社会の法理」を適用した事例とストレートに表現することは許されません。

いわゆる部分社会の法理の典型例は、やはり富山大学単位認定事件や、袴田家屋明け渡し請求訴訟等に求めるべきでしょう。

E ここから後の記述は、事実の問題と言うより、基本的な考え方の問題ですから、直ちに正誤を言うことはできません。しかし、人権の歴史というものに対する知識の不足という根本的な問題があるように感じられます。すなわち、フランス人権宣言等で成立した近代的な人権概念というものは、いわば裸の個人が直接国家と向き合っているという構造のものでした。だからこのような人権観の下では、国家と個人の中間に位置する団体というものは、本質的に人権問題とはなりませんでした。人権の私人間効力における無効力説といわれる 説は、こうした憲法思想の端的な表明といえます。

しかし、社会国家の発展とともに、中間団体による人権侵害の問題が重要なものとなってきました。そこで、これをどのように法理論化し、どの限度まで司法権の介入を認めるかが注目を集めるようになったわけです。例えば、昭和女子大事件で最高裁判所が示した、私人間効力における間接適用説は、そうした試みのひとつと位置づけることができます。

これと富山大学事件とどこが違うか考えてみましょう。ここでは、実は、大学自体が享受している『大学の自治』という憲法上の法益と、学生個人の人権が衝突しているのです。富山大学は国立大学なので、昭和女子大で使えた私人間効力論で解決しようとすると、大学の自治を無視して、司法権の全面介入を肯定せざるを得ません。この問題に対する解決策のひとつは、特別権力関係論といわれるもので、富山大学事件の原審は、それで事件を処理しようとしました。それに対して、最高裁判所が「いわゆる部分社会の法理」を適用した最大の理由は、国公立であろうと、私立であろうと、こちらの説であれば、大学の自治の問題を統一的に解決できるところにあります(この判決中に明言されています)。

要するに、いわゆる部分社会の法理が使われているのは、普通の中間団体ではなく、団体そのものに憲法上の保障が与えられている場合に限られているという点を注目するべきです。

F もう一つ君に考えてほしい重要な問題があります。司法権は、実力を伴わない国家機関だと言うことです。裁判所の判決に人々がしたがうのは、それは一般的に正しいものであり、したがってしたがうのが正しいことだ、という社会規範が存在しているからです。裁判所が、当事者が見て、どう考えても誤っていると思われる判決を出すのが普通になってしまったら、誰も裁判所の判決にしたがわなくなります。

板曼荼羅事件を考えてみましょう。ここでの争点は、日蓮正宗が、同宗の教義に言うところの「広宣流布の達成」といえる 状態になっているかかどうかです。こういう教義の解釈を、信者でも何でもない国の裁判所が示したところで、それが説得力を持ち、人々がしたがうと君は思いますか? 人々が判決に従わないのが常態化した時、司法の権威は地に落ち、社会秩序は崩壊します。だから逆から言うと、裁判所は、人々が確実に判決に従ってくれそうな事件についてのみ、判決を下すようにすることが、その権威を維持する上で必須の要求なのです。こういう問題を理論 体系化しようとしているのが、憲法訴訟論と言われる理論です。

さらに、人々がそれにしたがわない時に、裁判所が執行官などの実力を借りて、その解釈を信者の人々に強制したとすれば、それは国家権力による信教の自由の侵害ではない、と君は断言できますか?

中間団体の内部問題に、司法が介入することを肯定するか否かは、このあたりまで考えて、当否を論じなければならない問題なのです。司法万能主義は危険な考え方です。

 

             

                  

富士山

外川 裕美子

 

静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220メートルほどの火口があり、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776メートル。立山・白山と共に日本三霊山の一。(広辞苑より)

  山梨県民はかなり富士山好きであると思う。富士山麓の市役所や地元ラジオ局のホームページでは当然のようにライブカメラで常時、富士山が見られる設定になっているし、富士山課まである。地元テレビ局では一般公募した富士山の写真を毎日紹介している。「私と富士山」という、視聴者が富士山とのエピソードを投書しアナウンサーがそれを朗読するコーナーまであった。また、ご当地ナンバー制の導入にともなって「富士山ナンバー」も検討(静岡県と合同)している(車のナンバーまで富士山にしたいぐらい好き!)。他にも例を挙げればきりがないぐらい、山梨の富士山への情熱はとどまるところを知らない。しかし、この熱い思いにもかかわらず他県の人から「山梨に富士山なんてあった??」なんていわれることもしょっちゅうである。どうやら「山梨にも富士山がある」という認識は全国区になっていないようだ。私も一山梨県民として寂しい限りである。

 そこで、山梨県側からみる富士山を勝手にいくつか紹介したいと思う。

その一つは、河口湖からみる富士山。その魅力は美しい形とダイナミックさである。山や建物が視界を遮らないので思う存分富士山を堪能できる。また、河口湖はバス釣りの釣り人などで土日・祝日ともなればかなり賑わっているが、平日の早朝など湖上に人がいないときは水面に波が立っていないので湖面に写る逆さ富士を運が良ければ見ることができるらしい。また、富士急ハイランドにあるジェットコースター、フジヤマの頂上ではおそらく恐怖との狭間で富士山を眺められること請け合いである。

 ところで、富士山を世界遺産の自然遺産に登録をしようという動きもあったようだが一番の障害は開発が進みすぎたことだと聞いたことがある。また、最近ではアスベストの不法投棄があったというのも耳にした。私は、世界遺産とまではいかなくても富士山が美しい自然のままずっと愛されつづける存在であってほしいと願うばかりである。

 

《コメント》

 君は、『いくつか紹介したい』と書きながら、もっぱら河口湖からの富士しか紹介してありません。それでは読者に不親切と思うので、ここでいくつか追加します。

 私が好きなのは、河口湖より、むしろ山中湖の方です。冬、スケートをしながら眺める雄大な富士も、夏の湖面に映える富士も、どちらも好きです。もし諸君に希望があれば、山中湖セミナハウスで夏合宿をやってもいいですよ。もっとも、このセミナハウスは、山中湖村にあるという意味であって、決して湖畔に立っているわけではない点が少々問題ですが。

 忍野八海(おしのはっかい)から見る富士も好きです。これは、富士の樹海の中に、富士山の伏流水がわきだした八つの池のことなのですが、信じられないほどに 澄んだきれいな水と、水車小屋等のどかな風物と富士の対比はすばらしいものです。昭和9年に国の天然記念物に指定され、昭和60年には、環境庁の選定した日本名水百選にも選ばれています。ネットを検索したら、忍野村のホームページがあったので、貼り付けておきます。

http://www.vill.oshino.yamanashi.jp/8lakes/main.html

 本栖湖からの富士を落とすことはできません。今の5000円札にはありませんが、昔の5000円札の裏にはみごとな富士が 描かれていました。これは、本栖湖北岸からながめた富士です。

 

               

 

日大近辺にあるラーメンの名店

松本貴之

 

私の趣味の中のひとつにラーメン店めぐりがあります。ですので、今回は日本大学近辺でお進めする店を何件か紹介しようと思います。これを機に皆さんにもラーメンに興味を持っていただければと思います。

1.九段 斑鳩

一番近い駅は「九段下」ですが、ちょっと足を伸ばせばいける距離にあります。

スープは今はやりの魚介系。使っているのは、最高級のかつお本枯れ節、さば節、煮干のブレンド、野菜は宮内庁御用達の青果店から仕入れているそうです。もちろん、化学調味料は一切使っていません。店主さんが「儲けよりも、みんなに喜んでもらえるほうが重要」と語るだけあって、その素材を使って丁寧に仕込んだ味は、魚介系特有の魚くささはなく、クリーミーで濃厚な味わいです。ラーメンは683円から。日本大学の近くでは一番お進めの店です。

2.麺者 服部

7号館脇の道を入り、一つ目の十字路にある店です。スープは魚介系です。ですが、ここのおすすめの「じゅーしーつけめん」はそれに独自にブレンドしたスパイスを加えたもの。これが他では食べられない味わいです。一口食べて「うまい!」と言う感じではありませんが、何度食べても飽きない奥深い味わいです。値段は683円から。

3.ラーメン二郎

いわずと知れた名店のひとつ。歴史は古くそのためか、暖簾わけ、関連店を含めると軽く50店舗を超えたりします・・・すごい!そんな歴史的な味を、神保町で味わうことが出来ます。スープはとんこつ系。無料で野菜増し、味濃いめ、にんにくを加えることが出来ます。ですが、とにかく量が半端ではありません。野菜増しはどんぶりに山がそびえたちます。初めて行ったとき、知らないで「野菜増し、にんにく」を頼んだら泣きそうになりました。でも味は濃厚でおいしくおすすめの店です。値段は600円から。

4.天下一品 水道橋店

京都に本拠地のあるチェーン店。店舗は全国にあり、さらにはハワイにもあったりします。スープはドロっとしており、鶏がら、野菜等をなくなるまで煮込んで作られます。そのため、臭みが出てしまいおいしくないと言われる店舗もあります。しかし、水道橋店はそれがなく、天下一品の完成された味が味わえる店舗のひとつです。机においてある薬味を少しずつ加えて食べるのがおすすめです。値段は620円から。

ここにご紹介したのは私にとっての名店の一部です。また、日大の近くには他にも名店が沢山あります。ですので、もしかしたら、あなたにとっての名店が他にもあるかもしれません。もし良かったら、そのような名店を探してみてください。

 

《コメント》

わや神保町の住人となって40年。しかし食事はたいてい大学のそばで間に合わせるものだから、そんなにいろいろと名店があるとは全く知りませんでした。しかし、きちんと場所を書いてくれているのが2番目の店だけでは、探して行きようもないじゃないですか。

 

 

ヴィーナス論

丸山 俊

 

 自分は何気に芸術に興味をもっていたりする。それに関して、今回は「ミロのヴィーナス」のことを少し書こうと思う。

 ミロのヴィーナスといえば、両腕のない女神像として有名だ。しかし、なぜ両腕のない不完全な女神像がここまで世界中に愛されているのだろうか。

 確かに本体は大理石でできているうえに作成年代も紀元前1〜2世紀頃と、出土品としては文句なしの価値はある。しかしそれだけではかつてルイ18世をも虜にしてしまった人を虜にするあの魔性を説明するには弱すぎるだろう。

 彼女の美しさの鍵は大きくわけて2つあると考えられる。ひとつは神が施したともいわれるほどの緻密な設計にある。「黄金分割」という割合をご存じだろうか。これは長短比1:約1.618という人間が最も惹きつけられる割合のことをさす。彼女は顔の縦横から体のバランスにいたるまでを、その計算に入れて造られているのだ。今でこそコンピューターを使えば造作もないことだが、紀元前にそんなもの当然あるはずがない。この謎がヴィーナスに神秘という美しさを与えているといえる。

もうひとつはまさに美そのもの。といっても顔がきれいとかスタイルがいいとか言うわけではない。女の美醜の好みなんてものは人それぞれである。しかしひとつだけ、全ての人間に共通の美しさというものがある。それがもうひとつの鍵「イマージナル・ヴィーナス」だ。どんな完璧な創造物も、1人1人が想像のなかで作り上げる美にはかなわない。ミロのヴィーナスを見て二千年の昔、彼女にはどんな美しい両腕が備わっていたのだろうと想像してみない者はいないだろう。彼女は両腕を失ったことにより決して超えることのできない美しさを手にしたのだ。

神秘の美と、超越した美。これらが、ヴィーナスが「神の創り出した芸術」といわれる所以であり、また、世界中に愛される所以でもあるのだ。

《コメント》

いくつか誤解があるようです。

黄金分割を理論的に明確に確立したのはユークリッド(BC330-290)の原論が最初です。だから、それ以降に制作されたと推定されているミロのヴィーナスに、黄金分割の理論が利用されていたのは当たり前のことなのです。

むしろ不思議なのは、原論に先立つこと150年以上も前に建造されたパルテノン神殿が明らかに黄金分割の理論に従って作られていることです。おそらく、芸術家の感性が黄金分割を経験的に発見して、そうした神殿建築などに利用し、ユークリッドはそれを研究して黄金分割を理論化したのでしょうね。

ついでに言えば、黄金分割は、渦巻貝の構造やヒトデの一種に見られるペンタグラムに代表されるように、自然の中に数多く見つかります。芸術家達は、こうした自然の造形の妙を研究して、黄金分割を導いたのでしょう。

黄金分割を「コンピュータを使えば造作もない」というのも大いに異論のあるところです。黄金比(通常ギリシャ文字のファイΦで表される)というのは、正確に言うと、線分を a, bの長さで 2 つに分割するときに、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比 a : b のことですが、無理数です。つまり、アナログな頭脳を持つ人間だから楽々と取り扱えるので、デジタルに動くコンピュータでは、どうあがいても近似的にしか取り扱えません。だから、コンピュータを利用して黄金分割を実現するのは、結構難しいのです。話の出発点が、君も書いているとおり「人間が最も惹きつけられる割合」である以上、当然のことなのでしょう。

ミロのヴィーナスに腕のないことが想像力をかき立てるというのは全く同感。手はおろか、頭部すらも失われているサモトラケのニケ(ルーブル最高の至宝とされます)に美しさを感じるのも、同じ理由と思います。念のため、ルーブルの日本語頁から、ニケ像の紹介頁を次に示しておきます。

http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ager/ma2369/ager_f.htm