かつて最高裁が使っていた原理に部分社会の法理というものがあった。
これは一般市民法秩序から分離した自律的な法規範を持つ社会、団体においては、その内部問題にとどまる時は、その自主的自律的な解決に委ね、司法権の介入が制限されるとするものである。
これは有名な板まんだら事件でも、とられている原理である。それによれば宗教上の教義に関することは、法律上の争訟にあたらず、実体審査手続審査を含めて一切司法は判断しないとするものであった。
この考えは基本的には団体自治による、もっと深く捕らえるなら、個人主義により国家が個人に対して介入しないという原理、つまり私的自治の原則による概念のはずである。
しかしながら実際には、部分社会の法理により構成員個人の人権の侵害について考えることを放棄しているように思う。個人を守る個人主義の概念を用いて個人の人権が侵害されるというのはなんとも矛盾としかいいようがない。
よく日本人の国民性について全体主義の色彩が強いと言われるのだが、戦前には特別権力関係という概念が使われ、国家に関することは不可侵としていた。これは国家について司法権は何も考えないということを宣言しているように思う。そして戦後になって人々の帰属意識として国家から会社などに変わり始めた。そこで部分社会の法理という概念が使われだすようになった。
結局のところ、司法権が国民の全体主義の考え方を支持し、それを個人主義の概念で説明するためだけに部分社会の法理が作られたのではないかと勘ぐってしまう。
日本人は、戦前は国に帰属主体として考えるのを放棄して尽くし、戦後は会社に同様に尽くしてきたと思う。それに弊害は多いはずであるが、それを司法は理由付けとして、前者に特別権力関係、後者に部分社会の法理を使ったのではないだろうか。国家も会社も規模は違っても人が構成し、それにより、その構成している個人が侵害されることは常に起こりうることで大差はない。
考えないということは常に危険を伴う。前述の板まんだら事件においては、司法が一切判断を下さなかったことによって紛争が解決せず、寺が荒れることまであった。このことを考えて、「考える」ということの重要性についてもっと考えていく必要がある。
《コメント》
もろに憲法問題を取り上げているので、2年生の書いた文の揚げ足取りをして、と批判されるのを覚悟の上で、少し細かく駄目を出します。
@ 『かつて』ではありません。れっきとした現役の判例理論で、現在もたくさんの判決が、この理論にしたがってでています。
A 『最高裁判所が使っていた』ではありません。下級審が先行して積極的に使い、最高裁判所も追認するに至ったものです。漠然と表現したいなら、『裁判所が使っていた』が正しい表現です。
C 『部分社会の法理』ではありません。『いわゆる部分社会の法理』です。つまり、法学で習う部分社会論とは全く別の論理、学説なのです。
D 『板曼荼羅事件でもとられている』と述べるのは間違いです。この事件では、最高裁判所は「信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらない」と述べています。すなわち、部分社会の紛争だから司法判断をしないのではなく、法律の適用による終局的な解決が不可能だから、司法判断をしないといっているのです。論理としてはよく似ており、大きく論ずる場合にはまとめて論じてもかまいません。しかし、間違っても「いわゆる部分社会の法理」を適用した事例とストレートに表現することは許されません。
いわゆる部分社会の法理の典型例は、やはり富山大学単位認定事件や、袴田家屋明け渡し請求訴訟等に求めるべきでしょう。
E ここから後の記述は、事実の問題と言うより、基本的な考え方の問題ですから、直ちに正誤を言うことはできません。しかし、人権の歴史というものに対する知識の不足という根本的な問題があるように感じられます。すなわち、フランス人権宣言等で成立した近代的な人権概念というものは、いわば裸の個人が直接国家と向き合っているという構造のものでした。だからこのような人権観の下では、国家と個人の中間に位置する団体というものは、本質的に人権問題とはなりませんでした。人権の私人間効力における無効力説といわれる
説は、こうした憲法思想の端的な表明といえます。
しかし、社会国家の発展とともに、中間団体による人権侵害の問題が重要なものとなってきました。そこで、これをどのように法理論化し、どの限度まで司法権の介入を認めるかが注目を集めるようになったわけです。例えば、昭和女子大事件で最高裁判所が示した、私人間効力における間接適用説は、そうした試みのひとつと位置づけることができます。
これと富山大学事件とどこが違うか考えてみましょう。ここでは、実は、大学自体が享受している『大学の自治』という憲法上の法益と、学生個人の人権が衝突しているのです。富山大学は国立大学なので、昭和女子大で使えた私人間効力論で解決しようとすると、大学の自治を無視して、司法権の全面介入を肯定せざるを得ません。この問題に対する解決策のひとつは、特別権力関係論といわれるもので、富山大学事件の原審は、それで事件を処理しようとしました。それに対して、最高裁判所が「いわゆる部分社会の法理」を適用した最大の理由は、国公立であろうと、私立であろうと、こちらの説であれば、大学の自治の問題を統一的に解決できるところにあります(この判決中に明言されています)。
要するに、いわゆる部分社会の法理が使われているのは、普通の中間団体ではなく、団体そのものに憲法上の保障が与えられている場合に限られているという点を注目するべきです。
F もう一つ君に考えてほしい重要な問題があります。司法権は、実力を伴わない国家機関だと言うことです。裁判所の判決に人々がしたがうのは、それは一般的に正しいものであり、したがってしたがうのが正しいことだ、という社会規範が存在しているからです。裁判所が、当事者が見て、どう考えても誤っていると思われる判決を出すのが普通になってしまったら、誰も裁判所の判決にしたがわなくなります。
板曼荼羅事件を考えてみましょう。ここでの争点は、日蓮正宗が、同宗の教義に言うところの「広宣流布の達成」といえる
状態になっているかかどうかです。こういう教義の解釈を、信者でも何でもない国の裁判所が示したところで、それが説得力を持ち、人々がしたがうと君は思いますか? 人々が判決に従わないのが常態化した時、司法の権威は地に落ち、社会秩序は崩壊します。だから逆から言うと、裁判所は、人々が確実に判決に従ってくれそうな事件についてのみ、判決を下すようにすることが、その権威を維持する上で必須の要求なのです。こういう問題を理論
体系化しようとしているのが、憲法訴訟論と言われる理論です。
さらに、人々がそれにしたがわない時に、裁判所が執行官などの実力を借りて、その解釈を信者の人々に強制したとすれば、それは国家権力による信教の自由の侵害ではない、と君は断言できますか?
中間団体の内部問題に、司法が介入することを肯定するか否かは、このあたりまで考えて、当否を論じなければならない問題なのです。司法万能主義は危険な考え方です。