定住外国人の生活保護受給権

甲斐素直

問題

 Xは、日本に永住権を持つ中国人である。同じく永住者の在留資格を有する外国人である夫とともに料理店を営んで生活をしていたが、昭和53年頃に夫が体調を崩した後は、夫が所有する建物に居住し、夫の亡父が所有していた駐車場の賃料収入等で生活していた。

 しかし、夫が認知症により入院したことから、Xは生活費の支弁に支障を来すようになった。そこで、Xは、Y県福祉事務所長に対し、生活保護の申請をしたが、同福祉事務所長は、生活保護法第1条が生活保護の対象を国民に限定していることを根拠に、Xが外国人であるとの理由で、同申請を却下する処分(以下「本件却下処分」という。)をした。

 これに対し、Xは、Yを相手取り、生活保護法第1条は、憲法25条及び経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(国際人権A規約)9条に違反しているとして、本件却下処分の取り消しを求めて訴えた。

 Xの主張の当否について論ぜよ。

参照条文

 生活保護法

 第1条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。

 国際人権A規約

第九条 この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。

[はじめに]

 もしかすると、諸君はこの問題を「外国人の人権」の問題として捉えるかもしれない。それは間違いである。今日の憲法学では、外国人一般について考えると言うことはしないからである。

(一) 外国人の権利の法源

 今日、国際化時代を迎えて、外国人の権利には様々な法源が存在している。大きく分けるならば、国内法と国際法とに分類することができる。

 国内法は、憲法を最高法規として、それの下に出入国管理法や外国人登録法等の諸法制が存在している。わが憲法の解釈に当たっては、その基本原理たる個人主義、すなわち個人の尊厳の尊重という原理に照らし、すべての人が人権の享有主体であると考えられる。したがって外国人にも日本国憲法の人権保障は及ぶと解される。判例も、非常に早い時点から「いやしくも人足ることにより当然享有する人権は不法入国者といえどもこれを有する」(最判昭和251228日)としてこの理を確認している。しかし、フランスやドイツの憲法と異なり、わが国現行憲法は外国人の人権については直接論及していない。このため、外国人に関わりのある法律の解釈に当たって、今日においては、そのよりどころとなるのは、憲法よりは、むしろ、次に述べる国際法の方が重要なものとなっている。

 国際法は、確立された国際法規、すなわち国際慣習法と、わが国が締結した条約とに分類することができる。しかし、国際慣習法は、主権国家の絶対性が強く意識されていた時代に成立したものが多く、その後、国際連合の成立を経て、大なり小なりその修正は避けられない。こうしたことから、今日、法源として特に重要なのは、国連が中心となって制定した一連の条約、すなわち国際人権規約、児童の権利に関する条約、難民条約などである。これらの条約においては、いずれも基本的に、外国人を含むすべての個人に対して平等に人権を保障すべき義務を締約国に課している。

(二) 権利の性質とその分類

 上述のとおり、憲法が基本的にない外人無差別の原則を取り、さらに国際条約がその原則の徹底をはかり、例外をきわめて限定していることは、今日疑問の余地はない。したがって、ここで問題となるのは、個々の人権について、例外的に外国人にその保障が及ばない場合があるか、あるとすれば、その範囲及び根拠は何か、という点である。その根拠としては、今日、個々の人権ごとに考える必要があるとされている(いわゆる権利性質説)。次のような分類をすることが可能であろう。

 第1は、人権そのものの本質が、日本国民であることを、その享受の要件としている場合である。いわゆる参政権がこれに該当すると言われる。

 第2は、公共の福祉の要求から制限することが許される場合である。これについては権利の性質に応じて、内在的性質にとどまる場合と、政策的制約も可能な場合が存在するであろう。なお、国際人権規約4条が「民主社会における一般的福祉を増進することを目的として」権利を制限することは認めるが、それは「法律で定める」場合にのみ可能とされている。

 第3は、我が憲法の適用範囲の問題である。すなわち、日本国民には属人主義に従い、その居所が国の内外であるを問わず人権保障が及ぶのは当然であるが、外国人については、属地主義に従い、原則として国内にある者にしか保障が及ばない。この点は、出入国管理との関係で問題となる。

 第4に、主権国家としてのわが国が、国内にある外国人を管理するという観点から許される最低限度の規制が考えられることになる。

(三) 外国人の意義

 かっては、単純に外国人という統一的な概念を使用して、これに人権が保障されるか、という非常にラフな形での議論が一般的であった。しかし、上述のように例外的に権利の性質によっては外国人に保障されない人権があると考える場合、すべての外国人が、それらの権利において等しく問題になることはあり得ない。したがって、ある程度外国人を類型に分け、それに応じて、保障され、あるいは保障されない権利を考える必要がある。

 通常、外国人とは、日本国籍を有しないものの総称であって、大きく外国籍保有者と無国籍者に分けることができる。しかし、権利の性質から見る場合には、このような分類は意味を持たない。

 代わって、考えられているのが、①定住外国人、②難民、③一般外国人と大きく三者に分けるというものである。

 ①の定住外国人は、さらに出入国管理法上の一般永住資格者と、日韓条約等に基づく永住資格者などに分類することができる。一般論として述べるならば、定住外国人については、その生活実態を重視し、可及的に日本国民と同様の人権保障がなされるべきである。

 ②の難民とは、国際難民条約において難民と認められるもののことで、いわゆる政治難民のみを意味し、経済難民は含まないとされる。難民については、条約はかなり徹底した内外人無差別を要求している。

 ①の一般外国人は、さらに正規の滞在者と不法入国者ないし不法残留者に分けることができる。このうち、不法入国者等の概念は、わが国が外国人管理をしようとするところから発生する問題である。

一 社会権の権利性

 本問の場合、第一の論点となるのは、社会権がどのような正確の権利かということである。社会権そのものの具体的権利性が否定される場合には、定住外国人ばかりでなく、日本人の場合ですら、権利侵害の問題が起こらないからである。

 これは、本来ならば、一つの独立した問題となる。しかし、本問では、議論の前提に過ぎないから、いかにポイントを外さず、しかも簡略に自説を述べるかが重要なこととなる。

(一) 学説の対立

 そもそも、憲法25条の権利は、自由権と違い、それがいかなる内容の権利なのか、という事自体が確定していない。

 重要な大きな対立としては、生存権的基本権説と社会権説の対立がある。

 生存権的基本権説は、民法学者の我妻栄が打ち出した学説で、自由権的側面と国務請求権的側面という二つの異なる性格を併せ持つ権利と考える。そして、国務請求権的側面から、基本的にプログラム規定と考える。ただし、公権力による自由権的側面に対する侵害があった場合には、具体的権利性を有し、裁判による救済を求めることができる。

 この学説は、一時期、広く受け入れられ、後述する食糧管理法違反事件で最高裁判所がプログラム規定説を打ち出す根拠となった。また、今日においても、労働法学界などにおいては通説である。

 これに対し、その後、憲法学界を支配するようになったのが社会権説である。しかし、これも統一的な内容を持たない。細かく分類すると、10説以上になるが、代表的な学説を紹介すると、次のものがある。

  (1) 抽象的権利説:社会権を、立法府及び行政府を拘束するが、裁判規範性はない、と考える説のことである。この説では、現実の立法が行われるまでは、プログラム規定説と同様に裁判規範性を持たない。しかし、現実に立法が行われた後においては、その法律により具体的権利が生まれているから、裁判所としては、その具体的権利の憲法適合性を審査することが可能になる点で、プログラム規定説と異なる。また、我妻説と同様、自由権的側面に対する侵害については、具体的権利性を承認する。

  (2) 具体的権利説:社会権を具体的事件における裁判規範性を肯定できる権利と考える説のことである。すなわち、そうした立法が存在しない場合にも、現実の行政の違憲性を裁判所で争いうる。

 しかし、諸君は、このような説の対立がある、ということを論文に書く必要はない。必要なことは、自分の使っている基本書は、その点についてどう述べているのかを、教科書を開いてきちんと確認した上で、それにしたがって議論すれば十分である。

 ある教科書を、自分の基本書と決める、ということは、どんな問題が出てきても、必ずその教科書に述べられていることにしたがって論文を書くということである。大学院生のレベルまで到達すれば、自分独自の説を展開しなければいけないが、君たち学部生の場合には、基本書に忠実に論文を書くのがむしろ責務と考えてほしい!

 例えば、基本書として芦部信喜を使っているなら、『憲法』(岩波書店)の社会権のページを開いてみよう。すると、自分は抽象的権利説を採るとした上で「25条は、立法府に対して生存権を具体化する立法を行うべき法的義務を課していると解される」と明言している。なぜそう解するのか、という点は、その前のパラグラフに漠然と述べられているところから、諸君なりに工夫して要約してくれればよい。この要約が上手くできるかどうかで得点に差が開くわけである。解される根拠を全く書いてくれなければ、添削の際、私に「なぜ?」と書き込まれることになり、本番試験であれば大幅減点をされることとなる。

 また、例えば、基本書として長谷部恭男『憲法』(新世社)を使っているなら、プログラム規定説や抽象的権利説が説明した上で、具体的権利説が説明され、それを受けて「『健康で文化的な最低限度の生活』は、『わいせつ』概念など他の不確定概念と比べてとくに抽象的であるわけではなく、少なくとも特定の時点における大まかな線を引くことは可能である」とする。可能だと言うことは、事案によっては具体的権利性を肯定できることを意味する。そこで結論として、「抽象的権利説に基づいて司法の介入を求める手がかりとなる具体的な制度が存在しない場合には、この『言葉通りの意味』における具体的権利説がその役割を発揮する余地がある」と述べている。だから、長谷部の場合には基本的に具体的権利説と考えて良い。ここでは、少なくとも「なぜ?」という点については、上記のように明確に書いてくれているから、それを引用すればよいことになる。

 これ以上、諸君が基本書として使用している可能性のある教科書を一々引用して説明することはしないが、どんな問題であれ、論文を書く作業は、まず自分の基本書が採用している説を確定するところから始まるということは、判って貰えたと思う。全く理由も書かないままに、最高裁判所判決を丸写しにしても、それは論文では無い。

(二) 判例の推移

  (1)食糧管理法違反事件

 25条に関する最初の最高裁判決は、食糧管理法違反という刑事事件に関する(昭和23929日)。被告側は、食糧の没収は生存権の否認であると主張したのに対して、最高裁はそれを退けたのであるが、理由は次の二つである。

 第1に「国家は、国民一般に対して概括的にかかる責務を負担しこれを国政上の任務としたのであるけれども、個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するものではない。言い換えれば、この規定により直接に個々の国民は、国家に対して具体的、現実的にかかる権利を有するものではない。」

 第2に「国家経済が、いかなる原因によるを問わず著しく主要食糧の不足を告げる事情にある場合において、もし何等の統制を行わずその獲得を自由取引と自由競争に放任するとすれば、買漁り、買占め、売惜しみ等に依って漸次主食の遍在、雲隠れを来たし、従ってその価格の著しい高騰を招き、ついに大多数の国民は甚だしい主要食糧の窮乏に陥るべきことは、識者を待たずして明らかであろう。」

 この判決は、一面で上記我妻説を受け入れ、生存権という新しい概念を認めたという点で画期的であった。が、同時に、その自由権的側面での問題であるにも関わらず、生存権に具体的権利性を否定した点で我妻説に反するものであり、問題あるものであった。

 この判決は、前述のとおり、プログラム規定説を採ったものと紹介されることが多い。

(三) 朝日訴訟

 学説に衝撃を与えたのは朝日訴訟である。原告朝日茂は、その十数年前から国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所し、現物による全部給付の給食付医療扶助と生活扶助基準で定められた最高金額月600円の日用品費の生活扶助とを受けていたが、600円の基準金額が生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりない違憲のものであると主張して訴訟を提起した。高裁判決は、マーケットバスケット方式により健康で文化的な生活を営むための最低限度の金額は670円と認定し、1割程度のずれは行政裁量の範囲内であるとして、不当であるが合法として請求を退けた。

 最高裁総和42524日判決(憲法判例百選第6版292頁参照)は、朝日茂が上告前に死亡したため請求を退けたが、「ねんのため」と称して憲法判断を示した。すなわち、上述した食糧管理法最高裁判決を先例として宣言した後、次のように述べた。

「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。したがつて、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。

 下線部分は、我妻栄や芦部信喜のいう自由権的側面の具体的権利性を述べた部分であり、食糧管理法違反事件と一線を画した極めて重要な判例と考える。

 なお、この事件は、行政裁量が問題となっているため、生存権が抽象的権利なのかプログラム規定説を採ったものかは不明である。

(四) 堀木訴訟

 堀木訴訟は、大略次の様な事件である。Xは、国民年金法施行令別表の11号(両眼の視力の和が0.04以下のもの)に該当する視力障害者で、同法に基づく障害基礎年金を受給している。Xは内縁の夫Aとの間に男子Bがある。XAと離別後独力でBを養育してきた。しかし、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当制度を知ったことから、居住するC県知事Yに、その受給資格について認定の請求をしたところ、Yは、請求を却下する旨の処分をした。さらに、XYに異議申し立てをしたのに対し、Yは右異議申立てを棄却する旨の決定をした。その決定の理由は、Xが障害基礎年金を受給しているので、児童扶養手当法43項二号に該当し受給資格を欠くというものであつた。

 第1審は14条違反で請求を認めた。これに対して第2審判決は、憲法251項が救貧施策を、2項が防貧施策を要求しているという独特の理論を採用した上で、これは2項の問題であるので、国の立法裁量権に著しい濫用がない以上、認められない、として退けた。

 最高裁判所大法廷昭和5777日判決は、前記昭和23年判決を再確認した後、次のように議論を展開した。

「憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう『健康で文化的な最低限度の生活』なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である」

 この判決を、プログラム規定説を採用していると読んだり、抽象的権利説と読むのは誤りである。なぜなら、ここでは立法裁量が濫用と見られる場合には司法審査の対象となるということを明言したからである。すなわち、この下線部は、小売市場事件と同じ狭義の合理規制基準を採用しているのである。朝日訴訟との落差は大きく、これが大法廷判決とされた理由もここにあると考えられる。

 そもそも立法裁量とは、「裁判所が法律の合憲性の審査を求められたとき、立法府の政策判断に敬意を払い、法律の目的や目的達成のための手段に詮索を加えたり裁判所独自の判断を控えること」(戸松秀典『立法裁量論』有斐閣1993年刊、3頁より引用)をいう。要するに、本来は司法審査可能な問題についての裁判所の自制が、この理論の根拠なのである。したがって、立法裁量が問題になった段階で、すでに司法審査の対象となっているということができる。そして、この判決では、その立法裁量が著しく合理性を欠く(下線部)場合に、司法審査が可能であることを宣言しているのである。すなわち、そのような場合には具体的権利性を承認したものと読むのが正しい、と考えている。

(五) こうした最高裁のスタンスはその後も貫かれている。給与所得に係る課税制度が本条に違反するとする訴訟に対する最高裁第三小法廷平成元年27日判決(百選第5302頁参照)では、上記堀木訴訟最高裁判決を引用した後、次のように述べる。

「そうだとすると、上告人らは、前記所得税法中の給与所得に係る課税関係規定が著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないゆえんを具体的に主張しなければならない」

 しかし、それが不十分であったとして請求を退けている。証明に成功すれば、司法審査を行うという積極的な姿勢をみることができる。この場合にも、具体的権利性を肯定していると見ることができる。

二 立法の不作為

 今一つ、大きな問題が「立法の不作為」という概念が問題になる。

 これも、独立の問題となりうる大きな論点であるが、本問の力点が外国人にあるのであるから、いかにポイントを外さず、簡略に論じるかが答案作成に当たって重要である。諸君の知識を整理するため、本問に関係の無い論点についても簡単に説明する。

(一) 社会国家と立法の不作為

 現実の立法の内容が、憲法の要求する内容になっていないとして争うことを、立法の不作為という。直感的な説明で良ければ、憲法上、立法府として当然に行うべき立法を行わないことである、といえる。あるべき法が存在しないこと、と理解してほしい。

 かつては「立法の不作為の問題は、その性質上、政治過程の中で処理されていくべきもので、原則として裁判過程に馴染むものではない」と一般に考えられていた(佐藤幸治『憲法』初版246頁)。なぜなら、憲法41条は、国会を国の唯一の立法機関といっているからである。憲法に基づいて、あるべき法律の内容を裁判所が決定することは、積極的な立法活動であり、それは41条に違反していると考えると、こういう結論が導かれる。

 しかし、今、我々は社会国家に生きている。それなのに、41条に関する形式的な解釈から、立法の不作為について全面的に司法救済を否定してしまっては、社会権の法的権利性を確保することはできない。そこで、今日では、立法の不作為を裁判で争うことは可能だ、と一般に考えられるようになり、例えば本問のベースとなった堀木訴訟でも、それが認められている。

 しかし、社会国家であるからといって、憲法上、権力分立制度が明白に採用されている以上は、実質的に国会が唯一の立法機関であることを侵害するような司法審査をすることは許されない。国会が立法権を独占していることを肯定した上で、なおかつ、どのような場合に、裁判所は、立法の不作為を審査できるだろうか。

 第一に、争われているのが、具体的権利である必要がある。抽象的権利とは、裁判では争えない権利という意味だから、抽象的権利説を採る場合には、裁判に訴えることは難しい。但し、何らかの立法があれば、プログラム規定説と違って、それにより具体的権利性が生じた、として争う方法は当然にあり得る。最高裁判所は堀木訴訟で、門前払いではなく、本案判決を下している。これは、最高裁判所がこの事件においては具体的権利性を肯定したことを示している。プログラム規定説を採った場合には、法律上の争訟がないとして門前払いをするはずだからである。この判例を、生存権そのものが具体的権利性を有するものとしたのか、それとも抽象的権利だが、立法に基づく具体的権利性がこの場合にあると解するかは、諸君は、その使用している基本書にしたがって、説明していけばよい。

 第二に、どんな訴訟類型で争いうるだろうか。立法の不作為を裁判の場において争う方法は、理論的には、次の三つがある。

① 通常訴訟の枠内で争点となったときに争う方法、

② 不作為により損害を受けたとして国家賠償法により争う方法、

③ 立法義務存在確認の訴えを起こすか、立法の不存在違憲確認訴訟を起こす方法

 何かの法律に、それを訴訟として争うことができるとされている場合に、その訴訟の論点の一つとして立法の不作為の違憲性を争うという方法である。本問のベースになった堀木訴訟では行政事件訴訟という通常訴訟の中でこのことを争った。衆議院議員定数違憲訴訟では、公職選挙法の定める選挙訴訟という訴訟の中で争われた。これらが第1の方法の典型である。これが可能であることについては、例示した事件に明らかなとおり、既に判例は確立しており、学説的にも異論はない。本問の事件は、この類型に属する。

 これに対し、立法の不作為により損害を受けたとして、国家賠償法に基づき、国に損害賠償を求めるというのが、②の類型である。この類型が認められれば、実際上、そのような訴訟を起こす手段を提供する立法がないあらゆる場合に、立法の不作為を訴訟で争いうることになる。最高裁判所は、当初、在宅投票制度廃止国家賠償訴訟(最判昭和601121日=百選第6420頁)で厳しい要件を示し、その後の判例でこれを踏襲することにより、事実上否定していた。しかし、ハンセン病事件国家賠償訴訟において、熊本地裁が積極説を打ち出し(平成13511日判決=百選第6422頁)、政府が上訴をせずにこれを受け入れたことをきっかけに判例が変化し、今日では最高裁判所も認めるに至っている(例えば在外邦人の選挙権訴訟=最大平成17914日=百選第6324頁)。

 残る③の類型は、国家賠償法というような迂路を使用せず、直ちに裁判で立法の不作為を争うことを認めるという方法である。これは要するに抽象的事件訴訟を認めるというのに等しいから、司法権概念を根本的に転換すればともかく、付随的憲法訴訟性を肯定している限り、受け入れ困難である。その結果、学説・判例共に否定している。

(二) 憲法上の立法義務の存在

 繰り返し強調するが、裁判所が、本来国会が行うべき立法を判決の形で下すことは、憲法41条に違反する。では、どんな場合なら、法律がないのに、あるべき法律の内容を、判決が述べても憲法違反にならないのだろうか。

 第一に、憲法の要求が、明白である場合である。

 単に明白であるだけでなく、一義的内容である場合には、国会が立法裁量権を行使する余地がない(立法裁量権のゼロへの収束)から、それにあたることは明らかである。例えば、憲法293項は、国が個人の財産権を侵害する場合には、損失を補償しなければならない、と定めている。だから、国が個人の財産権を侵害することを認める法律に補償する旨の規定がない場合には、憲法293項を直接に適用することで、その立法の不作為を裁判所は補うことが出来る(河川附近地制限令事件=最大昭和431127日=百選第6228頁)。

 では、憲法の要求が解釈上明白であるところまでは一緒だが、一義的でなく、憲法を受けてどのような制度にするかについては、国会に立法裁量の余地がある場合はどうだろうか。最高裁判所は、衆議院議員定数違憲判決において、少なくとも狭い立法裁量に該当する場合には、立法の不作為を裁判で争いうることを明らかにした(最大昭和51414日=百選第6326頁)。但し、裁判所として国会の立法権を侵害するわけには行かない。その結果、定数配分規定には「全体として違憲の瑕疵がある」と述べつつ、判決は公職選挙法を違憲とせず、事情判決という形式を採った。それにより、国会の自発的な立法裁量権の発動をうながしたのである。

(三) 相当の猶予期間

 第二の要件は、国会が憲法に即した立法を行うための相当の猶予期間の存在である。最大衆議院議員定数違憲訴訟に関する最高裁大法廷昭和60717日判決(百選第6330頁)は、そのことを明言した。

 相当の猶予期間が必要なのは、立法は、機械的な作業ではなく、あるべき状態を作り出すために必要な一定の範囲内に存在する選択肢から、何が最善かを検討、審議するために一定の時間が必要であるためである。特に、例えば先に挙げた情報公開請求権のように、その問題について各方面の意見が分かれている場合には、それにかなりの長期間を要するのにも無理のないところがあるからである。これに対して、立法の不作為により侵害されている国民の利益が一義的に決定できる場合には、立法の猶予期間は必要ではない。例えば河川附近地制限令事件の場合には、損失補償内容は、その国の活動によって個人が被った財産的全損害であって、そこに立法裁量の余地はないから、猶予期間を論ずることはないのである。

 相当の猶予期間があった、というためには、それに先行して国会が、違憲状態の発生を認識していなければならない。上記衆議院議員定数の場合には、それに先行して51年の違憲判決などがあったので、国会が違憲状態の発生を認識することが容易であった。少なくともどのような要件に該当すれば違憲となるかは、明らかだったのである。

 これに対して、参議院議員定数不均衡の場合には、むしろ最高裁は衆議院において違憲と認定した状態をはるかに上回っていた場合にも合憲という判決を出し続けた。この結果、平成4年の選挙において、1票の価値に16.5の格差が生じていたことをもって最高裁は違憲状態の発生を初めて認定した時、国会にそのことを認識する契機が存在していなかったことを理由に、立法裁量権の限界を超えるという認定をすることができなかった。それが最大どの程度の期間となりうるかについては、51年最高裁判決から、一般に最大5年間といわれている。

(四) 審査基準

 立法の不作為について、どういう審査基準を採用しているかが最後の論点である。

 衆議院議員定数違憲訴訟では、最高裁判所は次のように述べた。

「衆議院議員の選挙における選挙区割と議員定数の配分の決定には、極めて多種多様で、複雑微妙な政策的及び技術的考慮要素が含まれており、それらの諸要素のそれぞれをどの程度考慮し、これを具体的決定にどこまで反映させることができるかについては、もとより厳密に一定された客観的基準が存在するわけのものではないから、結局は国会の具体的に決定したところがその裁量権の合理的な行使として是認されるかどうかによつて決するほかはなく、しかも事の性質上、その判断にあたつては特に慎重であることを要し、限られた資料に基づき、限られた観点からたやすくその決定の適否を判断すべきものでないことは、いうまでもない。しかしながら、このような見地に立つて考えても、具体的に決定された選挙区割と議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかはないというべきである。」

 これはいわゆる狭い立法裁量と呼ばれるアプローチである。戸松秀典によれば、これに対応する審査基準は厳格な合理性基準である。戸波江二等は、それに対し、立法裁量という概念を排斥し、直接にこの判決に厳格な合理性基準を読む。どちらの路線をとって論文を書くかは、これも自分の基本書と相談して決めて欲しい。どっちつかずの文章、あるいはそもそも問題意識さえ示していない文章は、論文としては論外である。

 上記の場合は参政権が問題となっているが、本問の場合には、冒頭から強調しているとおり、社会権である。その場合には、どのような審査基準を採用するべきであろうか。

 堀木訴訟において最高裁判所は次のように述べた。

「憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう『健康で文化的な最低限度の生活』なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である」

 この判決では、立法裁量が濫用と見られる場合には司法審査の対象となるということを明言している。すなわち、この下線部は、経済的自由権に関する審査基準を示したことで有名な小売市場事件と同じ広い立法裁量基準を採用しているのである。

三 塩見訴訟判決の概要

 社会権と定住外国人の人権が問題になった事件として、塩見訴訟がある(最判平成元年32日=百選第614頁参照)。Xは在日朝鮮人として1934年(昭和9年)に出生し、その時点では日本国籍を有していたが、配線に伴い、朝鮮人とされた。しかし、1970年に日本人と婚姻し、帰化によって日本国籍を得た。全盲であったXは、1959年(昭和34年)に制定された国民年金法に定める障害福祉年金の受給資格があるとして請求したが、Y(大阪府知事)は、廃疾認定日(この事件の場合には立法時点である1959年)に日本国民でなかった者には同年金を支給しないと定めていた同法561項但書(国籍条項)を根拠に裁定しなかった。そこで、Xは同処分の取り消しを求めて訴えを提起した。

 第一審判決(大阪地判昭和 551029)、第二審判決(大阪高判昭和 591219)いずれも原告の請求を退ける判決を下した。そこでXは最高裁判所に上告した。

 最高裁判所は、食糧管理法違反事件判決を引用したした上で、次の様に述べた。

「障害福祉年金も、制度発足時の経過的な救済措置の一環として設けられた全額国庫負担の無拠出制の年金であつて、立法府は、その支給対象者の決定について、もともと広範な裁量権を有しているものというべきである。加うるに、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも、許されるべきことと解される。したがつて、法八一条一項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。」

 また、国際人権A規約違反という点については、次の様に述べた。

「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)九条は「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と規定しているが、これは、締約国において、社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、右権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治的責任を負うことを宣明したものであつて、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない。このことは、同規約二条1が締約国において「立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成する」ことを求めていることからも明らかである。したがつて、同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない。」

四 定住外国人と社会権

(一)総論

 社会権ないし生存権的基本権については、先に権利の性質の分類においてあげた第1の、人権そのものの本質が、日本国民であることを、その享受の要件としている場合の一つとして数える考え方がある。しかし、国際社会権規約(国際人権A規約)が社会権について内外人無差別原則を採用している以上、これを批准したわが国としてはとうてい採用できない考え方といわなければならない。したがって、原則的にはすべての外国人が社会権を享有しうると考えるべきである。さらに、わが国では、難民条約を批准するに当たり、社会権関係立法の中にそれまで存在していた外国人差別条項をすべて削除した。

 ただし、社会権の特殊性から、享有主体たりうる者が限定されることがあるのは、当然であろう。すなわち自由主義が国家からの自由を意味していたのに対して、福祉主義は、各個人の生存を確保するため、国家に対して積極的に私人間に介入することを要求している。介入のためには、当然、人的、物的な各種資源が必要であり、そのためにはそうした資源を確保するための原資が必要となる。原資の確保能力は各人の属する国ないし社会によって異なる。その結果、同一の生存権的基本権が、国に立法その他の国政上の施策を義務づける抽象的権利にとどまる場合もあれば、さらに進んで各個人が裁判上主張できる具体的権利と位置づけられることもある。すなわち、生存権的基本権がどの程度に具体的権利と認められるかは、基本的にその社会の構成員によるそれまでの努力の積み重ねの上に決定される。国際人権A規約が漸進的な実現を要求しているゆえんである。

 このように考えると、わが国に在留する外国人がわが国生存権的基本権の主体となることができるかどうかは、ひとえに当該生存権的基本権の基礎となるわが国社会の構成員性を外国人が有しているか否かで決定されると考えるのが妥当である。勤労の権利(憲法27条)を例に説明すると、次のようにいえる。

 第一に、国外にいる外国人にはわが国憲法の保障は及ばないから、わが国における勤労の権利を彼らが主張して入国する自由はない。

 観光目的で入国している一般外国人は、同様に、わが国社会の一員とは言えないから、国内に在留していても勤労の権利はない。

 これに対して、定住者や難民は当然にわが国社会の一員であり、一般に勤労の権利も肯定されることになる。

 問題になるのが、わが国に不法入国して、あるいは正規に入国した後に、不法就労した外国人である。彼らに勤労の権利が認められないのはいうまでもないが、それにも関わらず就労した、という事実により、わが国社会の一員としての性格を帯びるようになったことは否定できない。この結果、就労の不法性にも関わらず、勤労の権利に関して保障されるあらゆる権利がそこに認められることになる。

(二) 社会保障法の適用

 本問の中心問題は、社会保障法である。国際人権A規約9条は、参考条文に上げたとおり、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を確認している。さらに、難民条約23条は「締約国は、合法的にその領域内に滞在する難民に対し、公的扶助及び公的援助に関し、自国民に与える待遇と同一の待遇を与える。」と定めている。したがって、それが憲法の責務であるか否かを論ずるまでもなく、条約に基づき、わが国はあらゆる外国人について社会保障の手を差し伸べる義務がある。塩見訴訟最高裁判所判決の国際人権条約に関する理解は、完全に狂っていると言うほかはない。

 当然ながら、最高裁判所のこのような議論には、学説の批判が強い。芦部信喜は社会権が第一次的には『各人の所属する国によって保障されるべき権利』であるとしても、その保障が参政権と同じように、外国人に対して原理的に排除されていると解するのは妥当ではない、とした上で、次のように論じる。

「限られた財政状態の下での社会保障等積極的な国の配慮義務は、まず『国民』に対するものであり、合理的な理由があれば『国民』にそれを享受する優先権を認めることも許されると思われるが、生存の基本にかかわるような領域で一定の要件を有する外国人に憲法の保障を及ぼす立法がそもそも社会権の性質に矛盾するわけではないのである。わが国の場合には、特に永住権を持つ在留朝鮮人・台湾人については、日本国民に準じて取り扱うのがむしろ憲法の趣旨に合致すると言わなければならない」(『憲法学Ⅱ 人権総論』136頁)

 要するに、永住権を持つ朝鮮人等の場合には、わが国こそが第一次的な責任国というべきなのである。

 また、この判決の論理は、先に説明した国際人権の流れの中で、社会権についても内外人無差別原則を採用しなければならないことを無視した議論というべきである。この点については、最高裁判所は先に紹介したとおり、「『立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成する』ことを求めていることからも明らかである。したがつて、同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない。」として、国際条約を無視している。

 しかし、この漸進的に達成という規定は、もっぱら開発途上国を念頭に置いたものであって、わが国などを対象とするものではない。少なくとも、同規約22は「この規約の締約国は、この規約に規定する権利が人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位によるいかなる差別もなしに行使されることを保障することを約束する。」としており、「国民的」な差別の撤廃は即時的におこなうのであって、漸進的達成は認めていないのである。

 おそらくこうした問題点を考慮したのであろう、第2次塩見訴訟(国籍条項が削除された後に、再度起こした訴訟)においては、最高裁判所はこうした論点を回避し、単純に違憲審査基準論で退けている。すなわち、

「国民年金制度は,憲法25条の趣旨を実現するために設けられた社会保障上の制度であるが,同条の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は,立法府の広い裁量にゆだねられており,それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱,濫用とみざるを得ないような場合を除き,裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。」

 堀木訴訟と同じ、いわゆる明白性基準を採用したのである。このように社会権については明白性基準という考え方についても、学説の批判は強い。たとえば初川満は次のように言う。

「生存権の保障はすべての人権の維持・確保にとって必要不可欠であって、人権中より優越的な地位が認められるべきであるから、この生存権に関する立法が憲法25条に適合するかどうかの審査基準は、経済的自由権の規制立法に妥当する『明白性の原則』ではなく、より厳格な審査基準であるいわゆる『厳格な合理性』の基準を用いるべきである」(ジュリスト1146160頁より引用)

 中村睦夫によると、このように、近時生存権について厳格な合理性基準の使用が強く主張される背景には、アメリカ連邦最高裁判決があるという。

「外国人に生存権の保障を認めようとする新しい見解は、公的扶助プログラムから外国人を排除するアリゾナ州法を合衆国連邦憲法14条違反とした1971年の連邦最高裁Graham判決を紹介している。Graham判決は、違憲審査基準として『厳格な合理性基準』を用い、①外国人も納税し、徴兵制に服し、州内で労働し、州経済の成長に貢献していること、②外国人も平等保護条項にいう『人』に該当するので、財源確保のための関心は、市民および長期在留外国人に公的扶助を限定するうえでは、、真にやむを得ない利益とはいえないことを理由としてあげている」(社会保障判例百選〔第2版〕10頁)

 諸君としても、安易に明白性基準に賛同してはならない。また、第2次訴訟で最高裁判所はこう述べている。

「立法府は財政事情のみによって裁量権を行使するものではないし、原判決が判示するとおり、帰化した日本人で、かつ障害を有している者の数のみによって財政負担を算出し、それが予算全体の規模からみて相対的に少額であるからといって、そのことから直ちに立法府の裁量に逸脱・濫用があるとすることもできない」

 これは、第1次訴訟における最高裁判所判決が「その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも、許されるべきことと解される」と述べていたことを無視した議論で、判例としても相互矛盾を起こしているのである。