名誉毀損と表現の自由
甲斐素直
宗教法人
A会は、会員数が数百万人に達する巨大組織である。A会会長Xは、その教義を身をもつて実践すべき信仰上のほぼ絶対的な指導者であって、公私を問わずその言動が信徒の精神生活等に重大な影響を与える立場にあつたばかりでなく、右宗教上の地位を背景とした直接・間接の政治的活動等を通じ、社会一般に対しても少なからぬ影響を及ぼしていた。A会の政治部門としてB党がある。A会による効率的な投票により、B党は衆参両院にそれぞれ数十人の議員を有し、また、都道府県以下の地方議会には総計で数千人の議員を有している。
月刊誌
Cの記者Yは、 A会を批判する記事を執筆し、Cに掲載した。その中で、多数の信徒を擁するわが国有数の宗教団体であるA会の教義ないしあり方を批判し、その誤りを指摘するにあたり、その例証として、同会会長Xの女性関係が乱脈をきわめており、A会婦人部の幹部でXと関係のあつた女性Dが、Yによって国会に送り込まれていることなどの事実を摘示した。Yは、DがA会婦人部幹部であり、Xの推薦により国会議員となっていることは証明した。また、XとDの間に男女関係があることの直接的証拠は挙げることができなかったが、約20年間にわたり、広く綿密にA会を調査して諸情報を収集し、本件記事の主要な事実についてほとんど誤りのないことの確信を得たうえで、本件記事を執筆した。XがYを名誉毀損で告訴した。
この事件における憲法上の問題について論ぜよ。
[はじめに]
この問題は、最後の
1行を除くと、刑法の問題と読むことも出来る。そのため、つい刑法問題としての解答を書いてしまう人がある。すなわち、刑法の問題であれば、刑法230条及び230条の2を当然の前提として、その文言を解釈し、構成要件、違法、有責という各要件を検討していけば良い。そのような答案を書けば、当然、憲法問題に対する解答としては落第答案として評価されることになる。憲法問題としてみた場合、それらの条文は合憲なのか、合憲と解する場合、どのように文言を解釈するべきなのか、というレベルの議論になる。
すなわち、単純に刑法
230条等を読んだ場合、それは憲法21条の保障する表現の自由を侵害し、違憲と評価するべきなのである。これを合憲と解するためには、まず第一に、名誉権という、憲法には規定されていない人権が存在し、それを保護しているのだ、と解さなければならない。しかし、それだけでは、これら規定は合憲にはならない。なぜなら、この名誉権は、刑法
230条が合憲であると考えた場合(違憲という説はないが)、きわめて強力な権利だからである。普通、二つの人権が衝突した場合には、等価的比較衡量、すなわち、両者を等しく尊重するべきものとした上で、それぞれの事件においてどちらが優越するかを比較衡量の方法で決定する(例えば、博多駅フィルム命令事件=最大昭和44年11月26日判決=百選第6版166頁参照)。そして、もし一方が表現の自由である場合には、それがきわめて重要な権利であることを前提に、比較衡量を行うことが要請されるのが普通である(重み付け比較衡量=例えば泉佐野市民会館事件=最三平成
7年3月7日判決=百選第6版182頁参照)。ところが、刑法
230条の2は、「公共の利害に関する事実に係」ること、表現の「目的が専ら公益を図ることにあったと認め」られること、そして指摘した事実が「真実であることの証明があった」こと、という三つの条件を同時に満たした場合にのみ「これを罰しない」、つまり、表現の自由が認められる。換言すれば、そのどれか一つでも要件が欠けた場合には、必ず、表現の自由が負けると定めているのである。つまり、他者の名誉の毀損となる表現行為は原則的に許されない。その意味で、名誉権と表現の自由との間では、基本的に比較衡量の問題にはならないのである。最高裁判所は、ノンフィクション逆転事件において、次の様に述べた。
「表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできない」(最三平成
このように、通常はもっとも重視される表現の自由を上回る、異常に強力な権利をどのように根拠づけることが可能なのか? これが本問における最大のポイントである。
なお、
Cの権利を、報道の自由と書いた人がいた。別にそう考えて悪いわけではないが、そう書いた場合には、当然、報道の自由とはいかなる権利か(それ自体は人権ではなく、国民の知る権利に奉仕する自由)という複雑な議論を展開し、どの限度で、どのような内容なら表現行為が保障されるのかという議論をしなければならない。限られた紙幅の中で、その議論をきちんと展開した上で、名誉権との優劣という本論を書くのは大変である。単純に、表現の自由として論じよう。補足すると、この場合、
Cが月刊誌である点がポイントとなる。すなわち、新聞やテレビが報道であることは疑いない。しかし、週刊誌となると、少々微妙である。そして、月刊誌となると、普通の単行本と同様に、報道ではなく、表現行為と考えて良い。例えばかつて、文藝春秋という月刊誌が反田中角栄キャンペーンを長期にわたって展開し、ついに彼を引退に追い込むことに成功した。仮に、文藝春秋が享受していたのが報道の自由と考えた場合には、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」(放送法4条)義務を負うから、反論を掲載することなく、一方的に田中角栄を指弾するキャンペーンを張ること自体が許されない、という事になる。一 幸福追求権の性質
(一) 法的権利性について
憲法
13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、ということは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。わが憲法
13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、その第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的制度の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。ただ、こうした由来に過度に依存するあまり、今日における幸福追求権を、そうした伝統の延長線上に理解して、後に述べるように自由権に限定するような解釈を行うのが妥当かどうかは疑問がある。先に述べたとおり、無名基本権の総括規定と考える場合には、本条は、個人主義に根ざすところのあらゆる人権の総則規定としての意義を有するものとするべきであろう。
(二) 具体的権利性について
本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとして、では、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、抽象的権利にとどまるとは、裁判で権利主張を憲法自身に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。
これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは
13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』第3版、229頁)」という批判がある。しかし、これは論理が逆転している、というべきであろう。すなわち、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった人権について、
13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から、本条の具体的権利性は考えるべきなのである。ここで、その根拠となる学説を検討しなければならない。わが国憲法学界全体としてみた場合には、人格的利益説と一般的行為自由説はほぼ拮抗しており、どちらが多数説とも言えない状態にある。しかし、芦部信喜や佐藤幸治という、人格的利益説を代表する学者が、長く司法研修所教官あるいは司法試験委員を務めた結果、わが国判例は人格的利益説を採用していると言える。諸君の中にも一般的行為自由説を基本書としている人はいないと理解しているので、以下、それのみを解説する。
なお、これらの説の故郷であるドイツでは、一般的行為自由説が判例通説であり、人格的利益説は少数説である。そのため、この説は、次の様に、一般的行為自由説に対する批判から議論をスタートさせるのが通例である。「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。
しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容を以下に限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」
(芦部信喜『憲法学Ⅱ』
341頁より引用)そして、その絞り込みの手段として、次項に述べる「人格的利益」が考えるのである。なお、ここに書いたことは、人格的利益説の根拠そのものではないので、小論文では書く必要は無い(書けば若干の加点は期待出来るが落として減点されることはない。)
(三) 人格的利益説について
この説は、幸福追求権とは人格的な利益であると解している。
人格的利益とは何か? その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版
445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それからは征する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。
第一点については、前節に述べた可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記
348頁より)、と説明できる。第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上
447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良い。(四) 人権の内在的限界
かつて、宮沢俊義は、公共の福祉に関して内在的一元論を説いた。すなわち、人権は無限の自由を保障するが、他者の人権を侵害する限度で、各人の人権は制限される。この理解の下では、各人には他人を殺す自由があるが、それが殺される他人の生命権と衝突するので、その限度で制約される。あるいは人の物を盗む自由があるが、それは他者の財産権と衝突するので、同様に制約されると考えた。
しかし、今日、人格的自律説を人権の基礎として採用する場合には、道徳に反する自由は、そもそも法的保護の対象として考えることはできない。すなわち、上記の例でいえば、他人を殺す自由や他人の物を盗む自由は、道徳に反するから、そもそもそれを人権と考えることができない。したがって、比較衡量を行う余地はない。
このことを、本問に引き直して言えば、他人の悪口を言ったり、陰口を利いたりすることは、道徳的に是認出来ない。したがって、およそ他者の名誉権やプライバシー権を侵害する表現の自由というものは、考えることができない。だから、事案の内容を検討し、名誉毀損あるいはプライバシー侵害が発生していると認めることができれば、表現の自由を考えずに、直ちに不法行為の成立を認めることになる。刑法
230条は、このことを名誉について行っているのだと理解することが出来る。したがって、同条は合憲である。問題は、名誉権は、どの範囲で認められるのか、ということである。
ノンフィクション『逆転』事件において、最高裁は、基本的に次の事実を認定した。
「ある者が刑事事件につき被疑者とされ、さらには被告人として公訴を提起されて判決を受け、とりわけ有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であるから、その者は、みだりに右の前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有するものというべきである。〈中略〉そして、その者が有罪判決を受けた後あるいは服役を終えた後においては、一市民として社会に復帰することが期待されるのであるから、その者は、前科等にかかわる事実の公表によって、新しく形成している社会生活の平穏を害されその更生を妨げられない利益を有するというべきである。」
その上で、名誉権・プライバシー権の侵害にならない条件として次のように述べた。
第一に、「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合には、事件の当事者についても、その実名を明らかにすることが許されないとはいえない。」
第二に、「その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判あるいは評価の一資料として、右の前科等にかかわる事実が公表されることを受忍しなければならない場合もあるといわなければならない」
第三に「その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合には、その者が公職にあることの適否などの判断の一資料として右の前科等にかかわる事実が公表されたときは、これを違法というべきものではない」
これは、前科に限定して記述されているが、名誉毀損行為一般に拡張して理解して良い。要するに、このような場合であれば、それは社会のための表現行為であって、道徳的に否定される悪口ではなく、従って、表現の自由の保障範囲に入ると言うことなのである。これを条文として、一般的に表現したのが刑法
230条の2と考えて、はじめて230条及び230条の2の規定が合憲と解することが可能となる。本件のベースとなった月刊ペン事件に関して言えば、第
1審及び原審は、これを民間宗教団体に関する事柄であり、したがってその段階で既に「公共の利害」性を否定した。つまり、刑法230条の2を、上述の第三に該当するような場合に、限定して解釈したのである。これに対し、最高裁判所は、
A会(創価学会)及びそのリーダーであるX(池田大作)の持つ社会的影響力から、第二に当たる場合と認定したと評価することができる。二 事実の証明
ここで問題となるのが、刑法
230条の2が要求している一連の事実の証明である。前述の通り、同条は、①「公共の利害に関する事実に係」ること、②表現の「目的が専ら公益を図ることにあったと認め」られること、そして③指摘した事実が「真実であることの証明があった」ことという三つの事実の証明が無い限り、刑罰を科せられると述べている。しかし、事実の証明というのは難しい。夕刊和歌山時事事件(最大昭和
44年6月25日判決=百選第6版144頁)で、弁護士の上告理由は、第3の真実性の証明に関し、次の様に述べていた。「真実であることの証明があったか否かという事は、後日刑事訴訟手続の段階(しかも)事実審理の最後に到って)において始めて明らかになる事柄であり、しかも、その判断は裁判官の自由心証に任されているのである。更に、真実であることの証明はきわめて訴訟技術的な事柄である。
自己の公表した事実に付き、その真実性の完全な証明をあらかじめ、全く間違いなく予測するなどということは正しく神のみのなせるわざであり、何といえどもなし得ないことである。」
そこで、夕刊和歌山時事事件で、最高裁判所は次の様に述べた。
「刑法
要するに、表現の自由を尊重する立場から、刑法
230条の2に対し、合憲限定解釈を加えた、と評価することができる。この事件では、真実性の証明のみが問題となったが、他の二つの事実の証明に関しても同じことが言える。裁判官が最終的にどのように判断するかは、容易に判断出来る事柄ではないのである。
三 余計な付け足し
本問のような事例問題では、ややもすれば、諸君は具体的な事実認定を下し、名誉毀損の成否そのものまでも書く。それは間違いである。早い話、和歌山時事事件においても、月刊ペン事件においても、最高裁判所は、事実関係が不明であるとして、破棄差し戻し判決を下しているのである。最高裁判所が名誉毀損が成立するか否か不明であるとした程度の事実よりも、なお少ない問題文記述の事実のみで、諸君が確定的に事実認定を下すのは、それ自体が誤りであることは、明らかと言えよう。
したがって、本問の「憲法上の問題について論ぜよ」という要求に対しては、前節までに述べたことを書けば十分である。以下に述べているのは、実際の事件では、事実認定に関してどのような判断が下されたのか、という諸君の好奇心に応えるための記述であるにすぎない。
ここで問題となるのは、「確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるとき」とは、どのような程度なのか、ということである。
事実の真実性が、原審において否定されたのは、次の様な理由であった。
「公訴事実に関し、被告人側の申請にかかる証人Cが同公訴事実の記事内容に関する情報を和歌山市役所の職員から聞きこみこれを被告人に提供した旨を証言したのに対し、これが伝聞証拠であることを理由に検察官から異議の申立があり、第一審はこれを認め、異議のあつた部分全部につきこれを排除する旨の決定をし、その結果、被告人は、右公訴事実につき、いまだ右記事の内容が真実であることの証明がなく、また、被告人が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたと認めることはできない」
要するに、伝聞証拠排除法則を適用した結果、真実性の証明ができないという結果が発生したのである。
これに対し、最高裁判所は、上記のように、表現の自由を尊重する立場から、次の様に刑法
230条の2に対し、合憲限定解釈を加えた結果、事実認定に対する姿勢に関し、次の様に述べた。「第一審において、弁護人が『本件は、その動機、目的において公益をはかるためにやむなくなされたものであり、刑法
してみれば、前記Cの証言中第一審が証拠排除の決定をした前記部分は、本件記事内容が真実であるかどうかの点については伝聞証拠であるが、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたかどうかの点については伝聞証拠とはいえないから、第一審は、伝聞証拠の意義に関する法令の解釈を誤り、排除してはならない証拠を排除した違法があり、これを是認した原判決には法令の解釈を誤り審理不尽に陥つた違法があるものといわなければならない。」
このように、伝聞証拠を含めて真実性の判断を下すのを相当としたのである。
本問のベースとなった月刊ペン事件差し戻し審では、それが中心問題となった。そこでの問題は、問題文にある通り、伝聞証拠ですら無く、長年の取材成果に基づく確信と言うをもって、「相当な理由」と解することが許されるか、という点にある。東京高裁は、次の様に述べて、真実性の証明はできていないとした。
「所論は、まず、刑法
のみならず、個人の名誉はもとより基本的人権に属する人格権として厚く保護されるべきものであるところ、その保護のため本来なら名誉毀損罪にあたるべき行為を、表現の自由保障という憲法上の要請のため一歩譲つて一定の要件のもとに罪とならない場合を設けたのが刑法刑法
230条ノ2第1項の立法趣旨であり、かつ、同条項は、摘示事実の真否がいずれとも確定されなかつたとき、『疑わしきは被告人の利益に』の一般原則の例外として、被告人の不利益に、すなわち事実が真実であることの証明がなかつたものとしての判断を受ける、とする趣旨のものである」「はじめに」で述べたとおり、名誉権は、それが成立する限り表現の自由は自動的に否定されるという、きわめて強力な権利であるから、このように、刑事事件であるにも関わらず、挙証責任の転換が発生するのである。
この東京高裁の判断を、最高裁判所が支持したかどうかは、不幸にして最高裁判所に再度上告した段階で
Yが死亡したため、不明に終わった。しかし、最高裁判所の次の様な判決からすれば、おそらく、東京高裁の判断は支持されたものと思われる。この事件は、有名なロス疑惑に絡むものである。ロス疑惑とは、
1981年に、輸入雑貨商を営む三浦和義が妻Aとロサンゼルス旅行中、Aが殺害されたという事件に端を発する。これについて、1984年に『週刊文春』が「疑惑の銃弾」というタイトルで、妻に多額の保険金をかけていたことや、現場にいた白い車に三浦が全く気づかない三浦の供述などを理由に、「三浦が保険金目当てに仕組んだ事件ではないか」とする内容を連載した。この影響で日本マスメディアは「三浦犯人説」を強調する報道が目立つようになり、一気に報道が過熱化した。通信社も、この疑惑に関する記事を配信した。三浦は、そうした配信に基づき、記事を掲載したマスメディアを不法行為として訴えた。東京高裁は次の様に述べて、真実と誤審するに付き、相当な理由があるとした。
「被上告補助参加人は,多数の報道機関が加盟する我が国の代表的な通信社であり,人的物的に取材体制も整備され,その配信記事の信頼性は高く評価され,その内容の正確性については被上告補助参加人が専ら責任を負い,記事の配信を受ける報道機関は裏付け取材を要しないものとする前提の下に報道体制が組み立てられている。このような報道体制には相当の合理性が認められるから,一般的にいって,被上告補助参加人からの配信記事について,被上告人らが真実であると信頼することについては,相当の理由がある。」
しかし、最高裁判所は次の様に述べて、これを否定した。
「民事上の不法行為たる名誉毀損については,その行為が公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図るものである場合には,摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があれば,同行為には違法性がなく,また,真実であることの証明がなくても,行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは,同行為には故意又は過失がなく,不法行為は成立しないとするのが当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和37年(オ)第815号同41年6月23日第一小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。
ところが,本件各記事は,被上告補助参加人が配信した記事を,被上告人らにおいて裏付け取材をすることなく,そのまま紙面に掲載したものである。そうすると,このような事情のみで,他に特段の事情もないのに,直ちに被上告人らに上記相当の理由があるといい得るかについて検討すべきところ,今日までの我が国の現状に照らすと,少なくとも,本件配信記事のように,社会の関心と興味をひく私人の犯罪行為やスキャンダルないしこれに関連する事実を内容とする分野における報道については,通信社からの配信記事を含めて,報道が加熱する余り,取材に慎重さを欠いた真実でない内容の報道がまま見られるのであって,取材のための人的物的体制が整備され,一般的にはその報道内容に一定の信頼性を有しているとされる通信社からの配信記事であっても,我が国においては当該配信記事に摘示された事実の真実性について高い信頼性が確立しているということはできないのである。したがって,現時点においては,新聞社が通信社から配信を受けて自己の発行する新聞紙に掲載した記事が上記のような報道分野のものであり,これが他人の名誉を毀損する内容を有するものである場合には,当該掲載記事が上記のような通信社から配信された記事に基づくものであるとの一事をもってしては,記事を掲載した新聞社が当該配信記事に摘示された事実に確実な資料,根拠があるものと受け止め,同事実を真実と信じたことに無理からぬものがあるとまではいえないのであって,当該新聞社に同事実を真実と信ずるについて相当の理由があるとは認められないというべきである。」
このように、最高裁判所の「相当の理由」に関する姿勢はかなり厳しいのである。したがって、月刊ペン事件における再度の上告審が実現していた場合には、おそらく
Yは敗訴したのではないかと想像される。