法人の人権享有主体性(八幡製鉄政治献金事件)

甲斐素直

問題

 株式会社Yでは、取締役会において、政党A1000万円の政治献金を行うこと、及びその資金は同社の交際費から賄うことを決定した。これに対し、同社株主であるXは、本件政治献金は、同社定款に規定する所定の目的の範囲外であるとして、その政治献金の差し止めを求めて訴えを提起した。

 この事件における憲法上の問題について論ぜよ。

[はじめに]

 この問題は、タイトルにも示したとおり、法人が人権享有主体となる事が出来るかどうかが論点である。しかし、それ以前の問題として、そもそも法人という概念が何故必要なのかを少し考えてみよう。

(一) 法人概念の必要性

 いま、諸君の一人、H君が卒業した高校を仮にA校と呼ぶことにしよう。卒業生は誰でも同窓会に入る。学校ができたばかりで、卒業生の数が少ないうちは、卒業生を管理するのはA校の事務員が簡単にできる。しかし、だんだん歴史が古くなると、人数がものすごく増え、さらに世界中に卒業生が散っていくから、とても学校の事務の片手間に管理できる状態ではなくなってくる。そこで、卒業生が皆でお金を出し合って、事務員Bを雇い、ついでにそのBが常時いる場所として、同窓会館を建てたとする。理屈から言うと、事務員Bの雇用主も、この同窓会館の持ち主も、それまでの何十年かの卒業生全員である。しかし、雇用の契約書や建物の登記簿に何千人(あるいは何万・何十万、日大の場合であれば百万単位)もの同窓生全員の名前を書くなどということはできることではない。できたとしても、卒業生の一人の住所が変わったり、姓が変わったり、あるいは死んだりするつど、契約書や登記簿を一々書き直すなどという面倒なことをしなければならない。これはとてもではないが、やってはいられない。

 そこで、A校同窓会長のCが、このBを雇ったことにし、あるいは同窓会館を建てたことにする、という便法を採るという方法が考えられる。しかし、そのやり方だと、例えばCが借金で首が回らなくなったりすると、Cの債権者が同窓会館を差し押さえて競売に掛ける、などということが起こりかねない。あるいは、税務署がCの個人財産として、Cから固定資産税を取り立てる、という問題も起こる。これでは同窓生にとっても、Cにとっても非常に困る。

 いま、A校同窓会というものが、建物の所有者であり、Bの雇用主である、と契約書や登記簿に書けるということになると、話は大変簡単になる。そこで、あたかもA校同窓会が一人の人間であるかのように、契約書や登記簿にもそう書ける、と約束すればよい。

 これが社団法人という概念である。同窓会を構成している卒業生とは別に、実際に、そういう人がいるわけではないが、そういう人がいると考えることが許されれば、法律関係が非常に簡単になることが判るであろう。

 しかし、繰り返していうが、実際にそういう人がいるわけではない。自然人の場合には、その人と直に会うことができれば、その人がいることは間違いなく確認できる。ところが、法人はそのような目に見える実態は何もない。いま、同窓会と全く関係の無い人が、外部の人であるDに対して、私がA校同窓会の責任者である、と主張しても、Dとしてそれが本当かどうかを確かめる方法はない。その結果、大きな損失を受ける恐れがある。それでは、物騒で、誰もA校同窓会と取引してくれないから、それを簡単に確認できる手段がなければ困ることになる。

 逆の問題もある。同窓会という「人」がいることにする、というのはあくまでも上記のような取引の便宜のためのフィクション(擬制)で、本当に存在しているのは、何千人かの卒業生である。つまり、同窓会と取引する人は、問題が起これば、同窓生全員で、その問題を解決してくれると信じているから、同窓会と取引するのである(「無限責任」を負っている、と法律的には表現する。)。いま、同窓会長Cが、同窓会の名義で、その資金を利用して、先物取引に手を出して失敗し、何十億円もの損失を出したとしよう。そこで、同窓生の一人であるH君に、その損害を賠償してくれ、と先物会社が言ってきた時、H君は、それを払わなければならないのだろうか。それに対しては、冗談じゃない、同窓会は先物取引をしたりするためのものではない、Cが勝手に個人的にやったことだから、同窓生の知ったことではない、それどころか、同窓会としては使い込まれた資金を返して欲しい、と言えないと困る。

 第一の問題を解決するためには、法人というものがある、というためには、誰でもその存在を確かめることができるように、法律で一定の手続を踏まねばならない、と決めればよい(民法33条)。第二の問題を解決するためには、法人は、それを作った目的以外のことをすることはできない、と決めておけばよい。そこで、社団法人の場合には、その定款に書かれている目的以外の行為をする能力はない、と決めておけばよい(民法34条)。同窓会の定款に、先物取引に手を出して営利を上げる、などと書いてあるわけはないから、定款の目的を盾にしてH君は、支払いを拒める、というわけである。ちゃんと定款を調べなかった先物会社が悪い、といえるのである。

(二) 株式会社の特殊性

 さて、ここで株式会社というものについて考えてみよう。これは営利法人である。つまり、ここに投資することで、金を儲けようとする人たちを構成員とする社団法人である。だから、会社の定款には、営利事業をする、ということが書いてある。すると、逆に、営利に関係のない活動を法人がすることが可能なのだろうか、という問題が根本的に存在している。

 営利企業の取締役として、許されるのは、会社の利益になる活動である。したがって、確実に政府に公共事業をやって貰えるように、与党に献金しようというのが、普通は許される。確かに、そのような献金なら、営利目的そのものではないまでも、営利と関係ある献金だから、定款の目的と範囲内といえるか?

 そうはいかない。なぜなら、これは献金の力で政治をねじ曲げようとしているのだから、刑法的にいえば、請託贈賄行為である。すなわち、刑法197条は「公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、五年以下の懲役に処する。この場合において、請託を受けたときは、七年以下の懲役に処する。」と言うから、かなり重い罪である。実際に、企業による政治献金に対して刑事責任を問われた事件として、例えば大阪タクシー協会事件大阪高等裁判所(控訴審)昭和58210日判決=判例時報10763頁=LEX-DB24006235参照。

 定款に何が書いてあるかは会社によって違うが、会社の目的は、あくまでも適法行為に限られる。違法な行為を目的とする定款は許されない。よく、会社ぐるみの犯罪、という言い方があるが、実際には会社それ自体は処罰されず、実際にそれを行った自然人だけが処罰されるのは、会社が違法行為を行う権利能力を持たず、したがって会社に違法行為の効果が帰属しないためである。だから、この問題では、人権享有主体性を論じる以前に、そもそもこのような行為のための権利能力を持っていない、という話になってしまうのである。

 そこで、そういう違法になりそうな要素を全部抜いて作ったのが本問である。しかし、では本問の場合は定款の目的という問題は起こらないのだろうか。違法行為を請託したわけではない、この献金を行うことで、会社にとって利益が期待できるわけがない。だとすると、営利目的とは全く関係がない行為だから、目的外行為ということになり、やはり献金のための権利能力がない、という話にならないだろうか?

 これが本問のベースとなった八幡製鉄政治献金事件における最大の問題である。なお、その後、類似の判例として、住友生命政治献金事件(最高裁判所第一小法廷平成15年 227日決定)や、日本生命政治献金事件(大阪地方裁判所平成13718日)等がある。以下においては、これら近時の判例も念頭において説明することとしたい。

一 法人の人権

(一) 総論

 憲法においては、基本的には法人格を否認し、人権の主体となりうるのは自然人のみと考えるのが妥当である。このことは、憲法21条が集会及び結社の自由を保障していることからも推定することが出来る。結社、すなわち団体の形成の自由を、人の集まりである社団に保障することは自己撞着である以上、その主体はあくまで個々の自然人であり、その人権行使の効果として結社、すなわち法人の形成も保障されていると読むのが文理上妥当であろう。

 しかし、同時に、このように集会や結社の自由が保障されている根拠は、集団としての人には個人としての人には出来ないことも可能になることのためである。例えば、デモ行進を、多数の自然人が同時に同じ方向に歩いている、と考えるのはおかしい。やはり、デモ隊という一つの存在が、表現の自由を行使していると考えるべきである。したがって、集団や結社の機能を、一々個々の自然人に分解し、あるいは還元して理解するのは、明らかに妥当ではない。こうしたことから一般に次のように説く。

「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属することに加えて、法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っていることを考えあわせると、法人に対しても一定の人権の保障が及ぶと解するのが妥当であろう」(芦部信喜『憲法』第689頁より引用。)

 ここで注意するべきは、ここに上げられているのは、二つの別の理由だということである。すなわち、第一の理由は、「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属すること」である。ここで言っていることは、自然人の活動の道具であるのだから一々個人に分解する必要はない、ということである。これは先に説明した同窓会に法人格を与えようというのと同じ考え方であり、明確に擬制説である。その時に、契約や登記の便宜から、法人格の必要性を説明した。つまり、このような理解では、団体に法人格を与える理由は、財産権の主体とするためである。

「法人の概念は、主として、財産権の主体となることにその意味を持つものであるから、人権宣言の規定は、主として財産法上の権利義務に関しては、法人にも適用される結果になる。」(宮沢俊義『憲法Ⅱ』245頁より引用)

というような主張は、こうした枠内で初めて理解できる。民法では、一般に法人実在説が採られる。その理由は、それが財産法だからである。だから、同じ民法でも家族法になると、法人擬制説を誰も疑わない(民法951条以下=相続人不在の財産の法人化に関する規定参照)。

 これに対して第二の理由は、「法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っている」という点に求められている。これは一見、民法でいう、法人実在説的な根拠にみえ、予備校教師などはその様な誤解に基づいて講義する例が多い。しかし、そう読むのは間違いである。ここで言っているのは、あくまでも社会の中での活動を評価する、ということにすぎない。

 実定法上、自然人とは異なる厳しい制限が法人に課している場合がある(例えば政治資金規正法による自然人と法人の差別的取扱い)。もし、これらの学説が、完全に自然人と同格に人権享有主体性を法人に肯定するのであれば、それらの実定法は違憲と評価されなければならない。もちろんその様な主張はしていない。それは、これの学説は、法人を本当に自然人と同様の社会的実在として承認しているのではないことを示している。

 ここに上げた二つの点をもう少し判りやすく説明してみよう。宗教団体に法人格を認める主たる目的が、様々な財産権の主体となることを認めることにあることは否定できない。例えば、宗教法人オーム真理教が法人格を有すると、その法人の名義で各地に修行場の建物などを買うことができる。法人格が否定されれば、誰か信者の名義で買わなければならず、先に同窓会に法人格がない場合の例で上げたようないろいろな問題が起こり、不便である。

 他方、宗教法人は、信教の自由の享有主体性を保有する(宗教法人オーム真理教解散命令事件=最決平成8130日=百選第690頁参照)。しかし、この宗教法人の持つ信教の自由は、あくまでも、オーム真理教の信者が、宗教活動を行うための手段である。だから、この宗教法人がキリスト教を信じるとか、あるいは無神論を採る、というようなことは許されないのである。

 同じように、日本大学は学問の自由(憲法23条)の主体たり得る。しかし、日本大学や信教の自由を持つとか、営業の自由を持つ、ということはあり得ない。日本大学という法人が存在する理由は、あくまでも我々教員や君たち学生が学問の自由を行使する手段に過ぎないからである。

 このように、法人・団体に人権享有主体性を認めると言っても、それはそれを構成している自然人が、その法人・団体で実現しようとしている目的の範囲内に留まるのである。普通の自然人と同じように、人権が認められる、と考えたら、全く間違いである。本問で問題となっている政治資金規正法が、自然人と法人とを分けて規制できるのは、ここに理由がある。

(二) いろいろな問題

  1 社会的影響力

 芦部信喜は、政治資金規正法を合憲とする理由として「法人のもつ巨大な経済的・社会的な実力を考慮に入れると、一般国民の政治的自由を不当に規制する結果になる」から、規制しても良いのだ、と書いている(前掲書90頁)。そこで、そのまま真似をして書く諸君が多い。しかし、これは絶対に間違いだから止めよう。

 第一に、法人だから影響力が大きいというのは明白に誤りである。企業のほとんどは、個人の資力とほとんど違いがないほどに小さい。社会的影響力が大きいのは、一部上場企業など、ごく一握りの法人だけである。例えば、平成24年度におけるわが国の企業総数は1706470社に達するが、そのうち、大企業と言える従業員5000人以上の企業は525社(0.03%)に過ぎないのである(平成24年経済センサス参照)。

 第二に、もし社会的影響力が大きいことが人権を制限して良い根拠になるのだったら、自然人であっても、対社会的影響力の大きい人、例えば安倍総理とか孫正義ソフトバンク社長の政治活動の自由は制限しても良いことになる。しかし、そんな馬鹿な話はありえないことは、諸君にも容易に理解できるであろう。

 法人を差別できるのは、あくまでもそれが法人だからであって、対社会的影響力の大小は関係がない。このように明白な誤りは、マネしてはいけない。

  2 社団法人と財団法人の違い

 法人に人権享有主体性を認められるのは、先に述べたように「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属する」ことにある。つまり社団法人でなければいけない。同じように法人であっても、財団法人の場合には、自然人を基本的に要素としていないから、人権の享有主体になることはできないのである。

 こう説明すると、勉強している諸君の中には、ちょっと待ってくれ、私立学校法によれば、大学は財団法人であって、社団法人ではないはずだ、だとすると日本大学が学問の自由の主体になれるという説明は間違いだ、と言い出すかもしれない。そのとおり、財団法人日本大学、つまり大学の建物とか、椅子や机という財産の集合体は学問の自由の主体にはなれない。学問の自由の主体になっているのは、あくまでも我々教員や君たち学生という自然人の集団としての社団である。つまり、人権享有の主体性を考える場合には、個別の法律が、その立法目的から、何に対して法人格を与えているか、ということとは切り離して、憲法レベルで考える必要が生じてくるのである。

  3 自然人特有の人権

 社団の場合にも、自然人の肉体、あるいは個人的な判断と緊密に結びついている人権、例えば選挙権、被選挙権、婚姻の自由、奴隷的拘束からの自由などは、適用が考えられないと言うべきである。実は、ここからもう一つの問題が生じてくる。政治献金、つまり政治活動の自由を法人に認めるということは、自然人の選挙権、被選挙権の行使に影響を与えることだから、これはそもそも法人に帰属可能性のある人権とは言えないのではないか、ということである。これも、君たちが解答しなければならない今ひとつの問題点である。

 このような知識を前提に、今日の問題を検討することとしよう。

二 八幡製鉄政治献金事件

団体の対社会関係における人権享有主体性に関するリーディングケースというべき判例は、八幡製鉄株式会社が自由民主党に政治献金したことに対して、株主が、右寄附は同会社の定款に定められた目的の範囲外の行為であるから、同会社は、右のような寄附をする権利能力を有しないとの理由で、その無効を訴えた事件に関する最高裁判所大法廷昭和45624日判決である。

 この判決が、これまで、宿題にしてきた様々な問題点に対して、どのように解答しているか、そのポイントを引用しつつ、検討してみよう。

 まず、営利企業だから、営利目的以外の活動はできないはずだ、という問題点をどう処理しているのだろうか。

「会社は、一定の営利事業を営むことを本来の目的とするものであるから、会社の活動の重点が、定款所定の目的を遂行するうえに直接必要な行為に存することはいうまでもないところである。しかし、会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。」

 この引用部分が、きわめてしばしば誤解の原因となる箇所である。すなわち、「自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他の構成単位たる社会的実在なのである」というので、この引用部分の最後だけをうっかり読んでいると、これは法人実在説を採っていると思ってしまう。しかし、ここで言う法人の実在性には、非常に強い制限が存在している。それは「地域社会その他の構成単位たる」という制限である。その言葉を、最高裁判所は直ちに補足して次の様に説明する。

「そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味においてこれらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。」

 つまり、本判決は、社会的実在として、企業が社会の中で活動している以上、「会社に、社会通念上、期待ないし要請」がかけられるのは当然であると述べ、健全な社会の一員として、「その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない」と言っている。すなわち、ここで、企業が人権享有主体性を持つのは、企業の本来の目的となる活動あるいはそれに役立つ活動を除けば、社会通念上、期待ないし要請される範囲に属する活動だけだと述べているのである。

 つまり、ここで言う実在性が認められる活動というのは「社会的作用に属する活動」に限定されているのである。その活動とは具体的にどのようなものか。最高裁は言う。

「災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当な程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。」

 すなわち、そこにいう社会通念に基づく活動とは、今日、企業社会責任(corporate social responsibility、略称:CSR)と呼ばれる概念を意味するものであると考えられる。なぜなら、本判決が社会通念上期待・要請される活動の適例として掲げている「災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力」は、企業社会責任の重要な分野として論じられる、社会貢献活動を意味していると読む以外にないからである。それらが、企業として健全な社会活動であることは、疑う余地がない。

 ちなみに、最近の会社は、その重要性を認識し、その様な活動を行うことができるということは、ちゃんと定款に書いてある。例えば、住友生命政治献金事件の第1審判決の認定するところによれば、同社の場合、会社定款自体に、会社の目的の一つとして社会貢献活動が明記されている。したがって、同社の場合には、社会貢献活動は定款所定の目的に該当し、それを行う権利能力を有することには、疑問の余地がない。

 問題は、政治資金の寄付が、ここにいうどの分類に属するかである。八幡製鉄政治献金事件判決は、上記引用箇所に続いて、次のように述べている。

「以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。」

 簡単に言ってしまえば、最高裁判所は、政党への政治献金も企業社会責任の一環であると述べていることになる。ここには、明らかに論理の飛躍が、それも二重に、あるといわなければならない。

 第一の飛躍は、特定政党への政治献金を、議会制民主主義そのものへの貢献と強弁している点にある。

 なるほど、政党が財政的に安定していることは、議会制民主主義にとって極めて重要な問題である。現実に、その目的のため、交付を希望する全ての議会政党を対象として、政党助成法に基づく助成制度が存在している。企業が、政党助成法と同じように、わが国議会制民主主義の健全な発展を目指して政治献金を行うのであれば、同法のように、希望する全ての政党に対して、平等に寄付を行うべきである。そうであれば、これは、議会制民主主義を支えるべきであるとする社会の要請に応えた、企業責任の発露と評価することも可能であろう。

 しかし、八幡製鉄政治献金事件や住友生命政治献金事件等の判決が、事実として確定しているところによれば、現実には政治献金は、特定の政党に偏って行われている。その結果、当然、潤沢な政治資金を有する政党は安定的な運営が可能になるのに対して、企業からの政治献金を得られない政党は、運営が困難になる。すなわち、企業から見て好ましい政党の活動だけが助長され、そうでない政党の活動は抑えられることになる。これは、議会制民主主義の援助・促進という観点から見た場合には、決して好ましいことではない。

 これは企業の活動としては理解できる。なぜなら、営利企業の政治的活動は、あくまでもその企業の目的と整合性をもつ限度で許される。営利法人の場合であれば、それが企業目的は利潤追求である。したがって、利潤追求の手段との整合性を持たねばならない。したがって、特定の政党に偏っての献金は、当然、当該企業に対し、何らかの見返りを期待するものといわなければならない。しかし、そのような企業の目的実現に役立つ活動を、社会貢献活動と呼ぶことは、明らかに妥当とはいえないであろう。

 実際問題として、企業側は、政治献金を社会貢献活動とは認識していない。すなわち、住友生命政治献金事件の第1審裁判所の認定したところによれば、住友生命は、社会貢献活動の一環として、関連団体である財団法人住友生命健康財団、財団法人住友生命社会福祉事業団等に寄附をしており、関連団体による活動を、保険業法111条に基づく説明資料「REPORTSUMISEI(レポート・スミセイ)」に掲載している。そして、上記関連団体に対する寄附については、透明性を高めるため、総代会の決議により余剰金の中から任意積立金として「社会及び契約者福祉増進基金」を組み立てた上で、同基金から支出している。しかし、本件政治献金は、同基金から支出していない。その支出は、損益計算書上、経常費用の部の事業費に計上し、附属明細書上、「事業費の明細」中の一般管理費の一項目である物件費の一部として計上している。本件政治献金について独立した項目を立てていないから、その有無及び金額を附属明細書から知ることはできない。なお、住友生命は、社員に対し、事業費には「新契約の募集および保有契約の維持保全や保険金などの支払いに必要な経費を計上します。」と説明しており、その中に政治献金が含まれていることは伏せているという。日本生命政治献金事件における事実認定を見ても、ほぼ同様となっている。

 こういうことから、私は営利企業による政治献金は許されない、と考えている。

補論=群馬司法書士会事件

 本稿で中心に論じてきた政治献金とは若干ずれるが、南九州税理士会事件判決(最高裁判所第三小法廷平成8319日判決=百選第683頁参照)及び、憲法判例百選には載っていないが群馬司法書士会事件最高裁判所判決は、団体の企業責任を考える場合に、避けて通れない重要判決である(最高裁判所第一小法廷平成14425日判決=判例時報178531 LEX-DB28070836)。以下においては、百選に載っていない司法書士会事件を中心に説明する。

 南九州税理士会事件では、最高裁判所は、税理士会の政治献金を個々の構成員から強制的に徴収することは違憲であるとした。

 これに対し、群馬県司法書士会事件では、司法書士会が、阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に復興拠出金を寄付することとし、会員から特別負担金を徴収する旨の総会決議をしたところ、被上告人の会員である上告人らが、本件決議の無効及び債務不存在の確認を求めた事件である。

 第1審前橋地方裁判所は、南九州税理士会事件最高裁判決を受けて、このような性格の資金は、強制加入団体である司法書士会の目的の範囲外であって許されない、と判決した。これに対して、第2審東京高等裁判所は、これが会員の思想、信条の自由に対する何らかの制約になるとしても、その程度は軽微であって、思想・信条等の自由を根本的に否定するほどのものではないから、司法書士会の目的の範囲外ではない、として決議を有効と判決した。

 そして、最高裁判所は、これを受けて、次のように述べた。

「司法書士会は,司法書士の品位を保持し,その業務の改善進歩を図るため,会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法142項),その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。そして,3000万円という本件拠出金の額については,それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても,阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり,早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると,その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。したがって,兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは,被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。」

 ここでは、まず目的の範囲内にあるか否かが論じられている。法14条に言う「会員の指導及び連絡に関する事務」という言葉は、その会に属する会員との連絡の意味であって、本来、司法書士会相互の連絡を含む意味でないことは文脈上明らかである。まして、他の司法書士会に対して援助をすることが、連絡という概念に含まれるわけがない。だから、法律所定の目的の範囲を厳格に解すべきだ、とする南九州税理士会事件判決に従う限り、明らかに第1審裁判所が正しいというべきであろう。

 結局、この判決は、災害復旧の援助という社会貢献活動は、目的の範囲内に含まれるという八幡製鉄事件における論理が、強制加入団体の場合にも認められていると述べているに他ならない。

 つまり、南九州税理士会事件で、憲法判例百選などが、強制加入団体という点に力点を置いて紹介しているが、それは間違いで、法人と構成員の関係では、強制加入であるか否かに関わりなく、どの様な法人についても、同じことが言えると考えるべきである。八幡製鉄事件や住友生命事件では、その政治献金が、個々の構成員に請求されることがなかったために、論理が異なっているように見えるだけである。