プライバシーと芸術
-石に泳ぐ魚事件-
甲斐素直
問題
作家Aは、実名を避けながらBの生き方を素材とする小説を甲出版社の発行する文芸誌に発表した。その小説は、質の高い文芸作品として一般に評価されたが、Bは、自分を知る人が読めばその主人公がBであることが容易にわかること、小説は虚実ないまぜに自己の生活や遺伝的特質について言及しており名誉段損とプライバシーの侵害に当たるものであることを主張して、Aと甲を相手どり損害賠償と謝罪広告を求める訴えを提起した。さらにBは、甲がその小説を単行本として出版しようと計画していることを知り、その差止めを求める訴えも提起した。以上の事例について、憲法上どのような問題があるかについて論ぜよ。
(平成
[はじめに]
参考問題は『石に泳ぐ魚』事件(第
1審=東京地裁平成11年6月22日判決、第2審=東京高裁平成13年2月15日判決、最高裁判所平成14年9月24日)をベースに作問されたものである。本事件の場合、最高裁判決は下級審判決を確認したに過ぎないから、主要論点は、下級審で論じている諸問題ということになる。判決要旨を紹介すれば、次のとおりである。
1
モデル小説において、不特定多数の読者が小説の登場人物とモデルとを同定することができ、小説中にモデルが現実に体験したと同じ事実が摘示され、読者がモデルに関わる事実であるか虚構の事実であるかを截然と区別できない場合には、小説中の登場人物についての記述がモデルの名誉を毀損し、モデルのプライバシー及び名誉感情を侵害する場合がある。2
不特定多数の読者が小説の登場人物とモデルとを同定することができるモデル小説の記述中、主人公の父がスパイ容疑で逮捕された事実、主人公が新興宗教に入信し連れ戻しにいった者に3万円無心したという事実は、同人の社会的評価を低下させ、その名誉を毀損するものというべきである。3
右モデル小説の公表後に執筆者とモデルとなった者との交友の契機、小説発表後の交渉経緯、本件訴訟の経緯等を雑誌に公表したことは、モデルとなった者と主人公とを同定しうる読者の範囲を更に拡大し、モデルとなった者の精神的苦痛を更に増大させるものであるというべきである。4
不特定多数の読者が小説の登場人物とモデルとを同定することができるモデル小説の記述中、主人公の父がスパイ容疑で逮捕された事実、主人公が12歳までの間に13回手術を受けた事実は、モデルとなった者が公表を欲しない事実であり、かかる事実の公表によって精神的苦痛を受けることは容易に推知できるから、同人のプライバシーを侵害するものといわなければならない。5
右モデル小説の記述中、主人公の顔面に大きな腫瘍があることは、モデルとなった者と面識はないが、同人が存在すること自体は知っている読者との関係では、同人のプライバシーを侵害するものというべきである。6
「困難に満ちた〈人生〉をいかに生き抜くか」という本件小説の主題を小説という形式で表現するうえで、モデルとなった者のプライバシーを開示することが必要欠くべからざるものであるとまではいい難いから、本件小説についてプライバシー侵害の違法性は阻却されない。7
不特定多数の読者が小説の登場人物とモデルとを同定することができるモデル小説の修正版は、主人公の出身校や専攻が変更され、顔面の腫瘍についてもその存在が暗示されるにとどまっている等の修正が施されて、モデルとなった者と面識がある者にも同定が困難となっているといえるから、修正版の差止請求は認められない。8
小説「石に泳ぐ魚」の公表の差止請求について、本件に先立ち、同小説の出版中止を求める仮処分申請事件の審尋期日において、被告が、同小説をその修正版のとおりの修正を施すことなしには公表しない旨を陳述し、それを受けて原告が同仮処分申請を取り下げるということがあったが、同陳述内容の「合意」を根拠に、本件差止請求を認められる。即ち、本問では、問題が明言しているように、名誉毀損とプライバシー侵害のいずれもが論点である。しかし、このような問題で、名誉権とプライバシー権を厳密に分けて、それぞれについて権利の成立根拠から論ずる必要はない。ただ、成立要件等には差異があるので、その点はきちんと論じなければならない。
なお、本事件でも、参考問題でも、謝罪広告を求めている。そこから理屈としては謝罪広告と憲法
19条の関係という古典的な問題が導かれうる。しかし、それについては、今日確立した判例であるので、特に論ずる必要はないであろう。もちろん、きちんと書けば、加点要素にはなる。一 プライバシー権と名誉権
私人の表現の自由と、私人のプライバシーという対立の中で問題とされるプライバシーは、今日においても依然として「一人でいさせて貰いたい権利
(right to be let alone)」(ウォーレン及びブランダイスによる1890年の論文)ないし「私生活をみだりに公開されない権利」(宴のあと事件判決)という私法上の権利である。この私法上のプライバシーという、本質的には公法上の問題では無いものを、憲法問題として把握するのは、次の二つの理由からである。
第一に、人権を制約できるのは人権だから、表現の自由を制約しているプライバシーは、人権と理解しなければならない。
第二に、この私人間の紛争に、国家機関たる裁判所が事前抑制という形で介入するとき、国家による事前抑制禁止の法理の適用、という憲法問題が起こる。
(一) プライバシー権の根拠
プライバシー権の根拠と限界については、前回、月刊ペン事件に関連して詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。しかし、いまだ、論文の書き方が判っていないと思われるので、要点のみを指摘する。
プライバシー権を人権と考えるには、第一に、憲法
13条の規定する幸福追求権から、包括的基本権という概念を導く必要がある。第二に、憲法
13条には、当たり前の話だが、プライバシー権の意義、要件、効果は書かれていない。それにも関わらず、そこから具体的権利性を導かないと、本問に対する回答は本質的に不可能である。その手段として、人権の本質は何かを論じなければならない。それに対しては、今日、人格的利益説と一般的行為自由説の対立があるので、諸君としてはそのどちらかを採らねばならない。どちらを採るかは、自分の使っている基本書と相談して決めるしかない。単に、どちらかを採ると宣言して、その根拠を書かないという選択肢も、本問のレベルでは存在する。そこまで詳しく論じると、本問の中心論点である芸術との関係が不徹底になって、却って評価を下げるおそれもあるからである。しかし、一般論としてはコンパクトに自分の主張の根拠を把握しておかねばならない。
現在までの段階では、全員が人格的利益説を採ると理解している。そして、その場合の根拠については、前回、詳しく説明しておいたので、それを参考に文章を工夫して欲しい。
人格的利益説に依って立つ場合、人権の基礎は道徳に求められるから、社会道徳に背馳する自由を考えることはできない。例えば、人を殺す自由、人の物を盗る自由は、それが非侵害者の人権を侵す限度で否定されるのではなく、そもそもその様な人権を考えることはできない。これは今日における通説的理解である。
一般的行為自由説に立つ場合、このことをどのように説明するか(おそらくパターナリズムによると思われるが、はっきりしない)はともかく、結論的にはやはり同旨と見てよい。
このことを、表現の自由に投影する場合には、そもそも人の名誉を傷つけたり、プライバシーを侵害するような表現の自由は、存在しないということができる。つまり、プライバシーが成立すると、もはや表現の自由の可否について、考える必要は無い。その意味で、私人間では、プライバシー権は、表現の自由に優越する権利である。したがって、間違っても、等価的比較衡量等という言葉を書いてはいけない。
同じことは、別の方向から説明することもできる。即ち、およそ自由権とは、国家からの自由であって、私人からの自由を意味するものではない。したがって、同等の地位に立つ私人間において、表現の自由に、国家に対する関係でのような優越的地位を考える余地はない。したがって、他者の名誉やプライバシーを侵害する表現の自由を評価するに当たって、より厳格度を増した審査基準を使用する余地はない。
(二) プライバシー権及び名誉権の成立要件
私人が私人のプライバシーを侵害する場合の、最も重要なリーディングケースは、いうまでもなく『宴のあと』事件東京地裁判決(昭和
39年9月28日=百選〈第6版〉138頁)である。この判決では、プライバシー侵害が成立するための要件として次の三つを挙げた。① 私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあり、
② 一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められ、
③ 一般の人には未だ知られていない事柄である。
この三要件は重要なので、私法上のプライバシーを論ずる場合、必ず言及してほしい。実際、一連の私法上のプライバシー事件は全てこの三要件で説明することができる。例えば、映画『エロス+虐殺』事件(東京高裁昭和
45年4月13日=百選〈第4版〉140頁)で、事前抑制が拒絶された理由は③の要件、すなわち一般人にひろく知られている、ということが決め手になったし、ノンフィクション『逆転』事件(最高裁平成6年2月8日=百選〈第6版〉140頁)では②及び③が決め手となって、プライバシー侵害が肯定され、出版が差し止められているのである。本問で問題となっている私小説『石に泳ぐ魚』事件でも、この三要件が問題となっていることは判ると思う。問題は、何故これが妥当な基準か、という点である。これら
3要件は、理論的必然性から導かれたのではなく、判例の開発した基準であるので、その根拠として、宴のあと判決の開発したものであること、その後の判例において妥当性が確認されているものであること、などを上げることになる。名誉権の成立要件としては、刑法
230条の要件に従い、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損したという点に求めていけばよく、先に示した本判決の要点にいう如く、それは、名誉感情の侵害という点に求められる。(三) プライバシー権の限界
名誉侵害やプライバシーが成立する場合にも、人によっては、それを侵害するような表現行為を忍受しなければならない。第一に、公的地位を有する者であれば、その公的地位の程度に応じて、名誉やプライバシーの侵害が認められても、それに対する侵害を忍受すべき場合が生ずる。
例えば、名誉毀損罪に関する事件であるが、最高裁は、次のように述べた。
「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法
雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和
56年4月16日=百選〈第6版〉146頁)すなわち、名誉毀損でさえも許容されるのであるから、それよりも権利侵害の程度が低い、と一般的に考えることのできるプライバシーに属する場合に、その主体の公的地位によっては、その公的活動に対する批判ないし評価の一資料として表現行為が許容される場合が考えられることになる。
この場合、それは単なる私人間の問題ではなくなっているために、先の論理が適用にならないのである。しかし、表現それ自体の価値を重視しているというよりも、むしろそれが奉仕する対象である国民の知る権利が対立する利益として登場してきている、と考えるべきであろう。
第二に、ノンフィクション『逆転』事件において、最高裁は、先に言及した公的地位にあるものに対する社会的評価の一資料として公表されたとき以外に、「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合」についても、関係者はプライバシーの侵害を忍受すべきであるという見解を示している。
本問で問題となるのが、この上記2基準の外に、第
3の基準として、芸術作品である場合に、その芸術性の故にプライバシー侵害が許容される場合があり得るか、ということである。この点について、『宴のあと』事件判決は次のように述べて、これを否定する。
「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおりプライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけであり、また小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。」
これに対して、映画『エロス+虐殺』判決は、次のように述べて、利益衡量の必要性を認めているように見える。
「人格的利益の侵害が、小説、演劇、映画等によつてなされたとされる場合には、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、いかなる場合に右請求権を認むべきかについて慎重な考慮を要するところである。そうして、一般的には、右請求権の存否は、具体的事案について、被害者が排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて蒙る不利益の態様、程度と、侵害者が右の措置によつてその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。」
しかし、実際の事実認定の中では、この比較衡量はあまり大きなウェイトを占めておらず、決め手となっているのは前にも述べたとおり、世上公知の事実という点であった。
さらに踏み込んで、小説表現に有利な比較衡量を行い、被告である作家及び出版社に対して全面勝訴の判決を下したのが『名もなき道を』事件である(東京地裁平成
7年5月19日判決=判例タイムズ883号103頁)。「実在の人物を素材としており、登場人物が誰を素材として描かれたかが一応特定できるような小説ではあるが、実在人物の行動や性格が作者の内面における芸術的創造過程においてデフォルムされ」ているか、「実在人物の行動や性格が小説の主題に沿って取捨選択ないしは変容されて、事実とは意味や価値を異にするものとして作品中に表現され、あるいは実在しない想像上の人物が設定されてその人物との絡みの中で主題が展開されているため、一般読者をして小説全体が作者の芸術的創造力の生み出した創作であって虚構であると受け取らせるに至って」いる場合には、プライバシー侵害や名誉毀損は成立しない。
すなわち、『宴のあと』事件では、前に述べたとおり、表現内容の芸術性はプライバシーの成立を否定するものではないのに対して、この判決では、芸術作品としての成功度が十分に高いが故に、作品が虚構であると読者に受け取らせるレベルに達していれば、プライバシーの成立が否定されると説くのである。
これに対しては、学説的には賛同する見解もある(奥平康弘『ジャーナリズムと法』新世社
1997年刊229頁)が、否定説に立つ説も強い。例えば棟居快行は次のように説く。「このような判断基準に立てば、芸術的成功度の主張立証が当事者によってなされ、裁判所がそれについて一定の判断を下すことにならざるをえない。このような判断が裁判になじむとはとうてい考えられない。」原告の「周辺の人々は、例え作品が高度に芸術的に昇華され、実話が作品中の芸術的必然性のあるエピソードだと一般人にはとられるに至っているとしても、素直にそのように鑑賞せず、むしろ事実若しくは事実らしい作品中の情報だけを、自分のモデル本人に対する補強材料として摂取しがちである。あるいはさらに、作品が虚実織り交ぜて芸術的に成功していればそれだけ、作者が加えた創作の部分(例えばモデルに対応する作中人物の内面の描写)までもが実在のモデルの内面であるかのように受け取られてしまうのである。このように『名もなき道を』判決が前提とした、事実が芸術によって虚構となる、という命題は誤りであって、逆に、虚構までもが優れた芸術作品の中では、事実らしさを帯びるに至る、と考えるべきである。」
(「出版・表現の自由とプライバシー」ジュリスト
1166号17頁)すなわち、裁判上、法律上の争訟の一環として宗教の教義や成績の評価が問題になっても、それが裁判になじむ問題ではないが故に、裁判所が判断を行わないのと同様に、作品の芸術性が問題となっても、裁判官選任の基準は決して芸術性に対する感受性の高さではないのだから、判断を控えるのが妥当であろう。
私は、この棟居快行見解に賛成であるが、本事件では、『名もなき道を』基準をそのまま適用しても、やはり判決は逆転せざるをえないと考えている。なぜなら、被告側は、これが私小説、すなわち、事実をそのまま赤裸々に描く手法の作品であると主張しているのであるから、私小説としての芸術的成功度が高まれば高まるほど、一般読者はその内容を純然たる虚構と受け止めることはあり得ないからである。
本問で問題となっている『石に泳ぐ魚』事件では、判決は基本的には『名もなき道を』判決に近い判断を行っている。それにも関わらず、判決が逆転して原告勝訴となった理由は、『名もなき道を』判決が、基準を一般読者に求めたのに対して、本判決では一審も二審も、原告の周囲にいる人に求めたためである。
「不特定多数の者が講読する雑誌に掲載された小説上の特定の表現が、ある人にとって侮辱的なものか、又は、その者の名誉を毀損するか否かについては、『一般の読者の普通の注意と読み方』を基準とすべきであるとしても、その前提条件ともいうべき『表現の公然性』、すなわち、特定の表現がどの範囲の者に対して公表されることを要するかは、事柄の性質を異にする問題である。後者の問題は、特定の表現が『不特定多数の者』が知り得る状態に置かれることを要し、かつ、これをもって足りると解すべきであり、この要件は、本件においては、本件小説が不特定多数の者が講読する雑誌「新潮」に掲載されたこと自体によって、既に充足されているものというべきである。そして、原告と面識があり、又は、前に摘示した原告の属性の幾つかを知る読者が不特定多数存在することは推認するに難くないところ、これらの読者にとっては、『朴里花』と原告とを容易に同定し得ることは前判示のとおりである。被告新潮社及び被告坂本の右主張は、表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するものであって、採用することができない。〈中略〉原告と面識があり又は前摘示に係る原告の属性の幾つかを知る者が本件小説を読んだ場合に、これらの読者が『朴里花』が原告をモデルとする人物であると認識するかどうかは、本件小説の小説としての価値評価とは必ずしも関連性がないというべきであるから、仮に、本件小説が被告ら主張のような純文学小説ないしは文芸作品に当たるとしても、そのことによって直ちに、『朴里花』と原告とが同定されないということはできない。」
なお、本事件の大きな特徴としては、判決要旨7で指摘した、修正版の存在がある。これは、上記した同定可能性が失われる程度に大きく事実関係を換え、あるいは顔面における障害を伏せて書かれているためである。上記のように、同定可能性を重視した場合には、この結論は必然といえるであろう。
二 表現の自由の事前抑制と事後抑制の異同
ここで注意するべきは、ここまでの議論では、私法上のプライバシーは、人権の制約原理という点を除くと憲法問題ではなく、あくまでも私法上の紛争というレベルに止まっている、ということである。
私法上のプライバシーの問題で、私人間効力を書く必要がないのは、そもそもこれが私人間に考えられる権利であって、国家と国民の感に考えられる権利ではないからである。
私法上のプライバシーに関して、具体的に憲法問題が発生するためには、公法上のプライバシーと同じく、これを国家が侵害する活動に出る必要がある。人権は国家と国民の関係において考えられるものだからである。私法上のプライバシーに対する国家権力による個別具体的な侵害の主体としては行政権と司法権が考えられる。すなわち、本問の場合、憲法上の論点はもっぱら単行本化の差し止めを裁判所という国家機関に求めている、という点に現れる。
本事件の場合、要旨の8に指摘したとおり、差し止めの根拠自体が当事者間の合意に求められている。したがって、その意味では、憲法問題たり得ない。以下では、参考問題にしたがって、その様な合意が存在しなかった場合における差し止め請求について検討することとしたい。
(一) 単行本出版差し止めと事前抑制の関係
本問の場合、Bの求めている単行本化の差し止めが、事前抑制に属するか、事後抑制に属するかにより、論文の構成が大きく異なることになる。
小説そのものはすでに文芸誌に発表されており、Bは、それを単行本化することを差し止めているに過ぎない。この点で、情報は言論の自由市場に到達しているから、したがって、これは事後抑制ではないか、と思われるのである。実際、判例は、このような場合は事前抑制には該当しないと考えているものと思われる。例えば、税関検査事件最高裁判所判決(大法廷昭和
50年9月10日 百選〈第6版〉156頁)は、次のように述べている。「税関検査が表現の事前規制たる側面を有することを否定することはできない。
しかし、これにより輸入が禁止される表現物は、一般に、国外においては既に発表済みのものであつて、その輸入を禁止したからといつて、それは、当該表現物につき、事前に発表そのものを一切禁止するというものではない。また、当該表現物は、輸入が禁止されるだけであつて、税関により没収、廃棄されるわけではないから、発表の機会が全面的に奪われてしまうというわけのものでもない。その意味において、税関検査は、事前規制そのものということはできない。」
国外において発表されていれば、すでに事後抑制という考え方をとるのであれば、国内文芸誌に掲載されている場合には、当然に事後抑制という考えが導かれるであろう。
しかし、私自身は、これは事前抑制に属する、と考えている。なぜなら、表現の自由とは、「自ら選択する・・方法により」(国際人権B規約
19条2項)伝える自由であり、単行本化する事もまた、一つの独立した表現方法である。そして、情報は、その伝達に使用する方法により、言論の自由市場に与える影響に差があるものなのであるから、単に、別個の伝達方法により、すでに一度言論の自由市場に到達している、という事実は、新たな媒体を利用した表現を抑制するにあたっての事前性を否定するものではない、と考えるからである。実際問題として、事後抑制と考えた場合には、論文上はあまり論点がないので、以下においては、事前抑制の場合に限定して論じる。
(二) 事前抑制禁止の根拠
表現の自由は、精神権的自由権の代表として、それを国家が抑制する場合、いわゆる
2重の基準に基づき、その合憲性の審査については厳格な審査基準が適用されるなど、経済的自由権に比べて、非常に制限的に取り扱うべきである(なぜなのかについては、ここでは省略するが、諸君の論文では簡略にではあるが、述べる必要がある。)。しかも、それが事後的に行われるか事前に行われるかにより、制限の度合いが違う。すなわち、事前抑制(prior restraint, or previous restraint)の場合には原則的に禁止され、例外的に認められる場合にも非常に厳しい制約の下でかろうじて認められるに止まるとする理論が、米国の憲法訴訟に関する判例法の上で発達している。同じように、表現の自由の不当な行使が行われた場合であるにも拘わらず、なぜ事後抑制に比べて、事前抑制を国が実施する場合については、より厳しい制約が課せられるのであろうか。これが事前抑制禁止の法理における第一の論点である。
北方ジャーナル事件(最大昭和
61年6月11日、百選〈第6版〉152頁)において、最高裁はこの点を次のように説明する。「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法
まことに簡にして要を得た説明であるから、諸君はこれを覚えて、自分の論文中にこのダイジェスト版を必ず書くようにしよう。
(三) 検閲と事前抑制禁止の異同
わが憲法は、欧州の憲法の流れ受けて、検閲の禁止を当然に認めている。この結果、事前抑制と検閲の異同が第二の論点となる(ただし、本問では本質的な論点ではないので、原則として落として良い。書く場合にも、できるだけ簡潔にまとめること。)。
これについては単純に、事前抑制と検閲を同義と考えることもできる。しかし、歴史的背景の全く異なる言葉を同義と考えるのは、基本的に無理があるといわなければならない。その結果、わが国では、広義の事前抑制を、検閲と狭義の事前抑制に分けて考えるのが一般である。その場合、同じく厳しい事前抑制の下にあって、さらに検閲という概念を立てるのであるから、これに対しては絶対的な禁止と解し、それを除く事前抑制については原則的な禁止にとどまるのであって、場合によっては抑制も可能と解することになる。税関検査事件において、最高裁は次のように説明する。
「諸外国においても、表現を事前に規制する検閲の制度により思想表現の自由が著しく制限されたという歴史的経験があり、また、わが国においても、旧憲法下における出版法(明治
そして、こうした沿革から、検閲を次のように定義した。
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき、網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すものと解すべきである。」
この最高裁の採用する検閲の定義は、かなり狭いもので、その妥当性については学説からの批判の強いところである。しかし、いずれにせよ、司法権による抑制に検閲概念の適用がある、という説は存在しないから、ここでその点についてくどくど議論するのは完全に間違いである。
(四) 事前抑制禁止の法理の要件
この二分説の下においては、検閲の概念は、程度の差こそあれ、狭く設定されることになる。が、検閲に該当しないとされても、それにより国家による抑制が完全に自由になるわけではない。検閲の外側には事前抑制の厳しい制約が存在しているからである。
アメリカにおいて、事前抑制は一般に「あるコミュニケーションが生ずる時点に先立って発せられる、そうしたコミュニケーションを禁止する司法的・行政的命令」と定義されている。コミュニケーションとは情報の伝達行為の意味であるから、情報がその発信者の意図する受領者に到達する以前にそれを妨げる行為はすべて事前抑制に該当する。
事前抑制を具体的な訴訟の場において実体的に肯定する判断をするための基準としては、①必要最小限度の法則 ②規制規定の明確性 ③手続き的保障の三つが特に重要と言われている。
1 必要最小限度の規制
必要最小限度規制として事前抑制方法が採られていることを合理的に証明する手段として、規制手段相互の比較に代えて、定型的な要件を設定しようとするのが一般的である。
アメリカにおける判例の発展を踏まえて、例外的に表現の事前抑制を司法権が認めうる条件として、①事前抑制をしなければ害悪が生ずることが異例なほど明白(
unusual clarity)である場合、あるいは、②事前抑制によって阻止しようとする損害が回復不可能(irreparable)なものである場合、といわれている。2 規制規定の明確性
行政権が表現の自由を事前抑制する場合にあっては「立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要」といわれている。例えば税関検査事件における最高裁多数意見に対する伊藤正己ほかの反対意見は次のように述べる。
「表現の自由を規制する法律の規定は、それ自体明確な基準を示すものでなければならない。殊に、表現の自由の規制が事前のものである場合には、その規定は、立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要である。それ故、表現の自由を規制する法律の規定が、国民に対し何が規制の対象となるのかについて適正な告知をする機能を果たし得ず、また、規制機関の恣意的な適用を許す余地がある程に不明確な場合には、その規定は、憲法
しかし、これは、参考までに紹介したのであって、本問は、立法的規制の問題ではないから、これは論点ではない。
3 手続き的保障
事前抑制が有する基本的な危険の一つは、適正な手続き的保障を欠いたまま、恣意的な行政裁量の下に表現の自由の保護範囲が決定されるという点にある。そこで、そうした恣意的な取り扱いがなされないような保障が存在していることが必要である。最高裁は、北方ジャーナル事件において、次のように述べている。
表現行為に対し、「その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのであるから、事実差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。」
この手続き的保障の要求については、必ず論及すべきである。もっとも、実際には、北方ジャーナル事件では裁判所は、このような方法を採っていない。この点について、最高裁は次のように述べて救済している。
「差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法
この点については本問では論及する必要はないが、具体的設問によっては、これが問題になることもあり得るから、議論としては覚えておいてほしい。
北方ジャーナル事件で問題になったのは名誉毀損であるが、前にも述べたとおり、名誉権とプライバシーは非常に似通った権利であるから、そこで問題になっていることが、プライバシーにもほぼそのまま妥当すると考えてよい。北方ジャーナル事件では、対象となった人物が、選挙に出馬しようとしている者であったから、そのプライバシー侵害は、前にも述べたとおり、一定の要件で許容される可能性がある。その場合に、その表現行為をプライバシー侵害で事前に抑制しようとするときは、前に紹介した事前抑制禁止の法理にしたがい、厳しい判断基準の下に許容される可能性があることになる。