有害図書と青少年の健全育成

(福島県青少年健全育成条例事件)

甲斐素直

問題

 A県では、青少年健全育成条例を制定している。

 同条例は、18歳未満の者を「青少年」と定義した上で、「有害図書類」、すなわち内容が著しく青少年の性的感情を刺激しその健全な育成を阻害するおそれのあるものと知事が指定した図書等を、「自動販売機等」により販売することを禁じている。なお、自動販売機等とは「販売又は貸付けの業務に従事する者と客とが直接対面する方法によらずに販売又は貸付けを行うことができる設備を有する機器」である。図書類の販売等を業とする者は、その設置する自動販売機等に、有害図書類を販売又は貸付けの目的で「収納」してはならず、その違反者は6月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処するなどと定める(対面式の書店等での陳列については禁止されていない)。また、自動販売機等を設置する場合には、設置場所、販売する図書の種類等を知事に届け出なければならないとし、その違反者は10万円以下の罰金に処するとしている。

 Xは、AB市内の土地に、DVD等の販売機を設置した。この販売機は次の様なものであった。

① 上記土地に設置された無人小屋に他の3台の図書類の販売機と並べて設置されており、小屋には扉もなく自由に出入りできる上、外壁には「無人24H」およびピンク色のハート型と「空間」という表示や、「最強超映像DX 雑誌 ビデオ グッズ」と記載された看板が掲示されていた。

② 小屋内にはセンサーがあり、客を感知すると、小屋内の壁3か所に設置された監視カメラが作動し、客の画像が、被告会社の委託を受けた株式会社の東京都内にある監視センターに設置されたモニターに送信される。監視センターには24台のモニターがあり、5名から10名の監視員が交代で、全国約300か所に設置された同様の無人小屋の監視に当たっていた。

③ 監視員が遵守すべきマニュアル等によれば、監視員は、モニター上の客の容貌等を見て、明らかに18歳以上の者であると判断すれば、販売機の電源を入れて販売可能な状態に置き、また、年齢に疑問がある場合には、運転免許証などの身分証明書を呈示するよう求める音声を流し、呈示された身分証明書の画像を確認して客との同一性および18歳未満の者ではないことを確認できた場合には、同様に販売可能な状態に置くこととされていた。

 Xは、自動販売機は、同条例20条の3に定めるところにより、設置に当たって届け出義務を課されているのに、それに違反して無届けで設置し、その機器内に本条例が定める有害図書類に該当するDVDを販売目的で収納したとして起訴された。

 これに対して、Xは、 1)本件機器は本条例に定める「自動販売機等」に該当しないこと、(2)本件機器まで規制するのは憲法211項に違反すると争った。

 第1審及び第2審は、監視センターのモニター画面では、必ずしも客の容貌等を正確に判定できるとはいえない状態にあった上、客が立て込んだ時などには18歳未満かどうか判定が困難な場合でも購入可能なように操作することがあったことなどから、いずれも、本件機器は、本条例に定める自動販売機等に該当すると認定し、Xを有罪とした。

 そこで、Xは最高裁判所に上告した。

 Xの主張に含まれる憲法上の論点について論ぜよ。

 

[はじめに]

 今回テーマとした「有害図書指定の表現の自由」については、岐阜県青少年保護育成条例事件(最判平成元年919日=百選第6116頁=以下、岐阜県事件という。)という古典的な判決があり、理論的にもしっかりしているので、諸君の書く小論文のレベルでは、この判決、特に伊藤正巳判事の少数意見をしっかりと理解して議論を展開すれば、それで十分である。

 ただ、事例を岐阜県の限りにしておくのもつまらないので、本問は、福島県青少年保護育成条例事件(最高裁平成2139日第二小法廷判決=平成21年度重判16頁参照)に依拠している。しかし、問題文を読めば判るとおり、Xは、岐阜県事件で指摘された問題点を回避出来る販売方法を工夫して、自動販売機ではない、といおうとしており、その点が否定されれば、後はそのまま岐阜県事件の判決を踏襲してあるだけである。だから、答案は、岐阜県事件の伊藤正巳判事の補足意見に沿って展開すれば十分である。

一 論文作成の基本指針

 諸君が論文の書き方をまだ判っていない感が強いので、この具体的な設問に沿って、論文の書き方をいうものを簡単に整理してみたい。

(一) 論文作成にあたっては常にその論文を通じた基本哲学の確立が重要である。それなくして、単に事実をかき集めて羅列したり、ここの論点について、前とは独立していくら詳細に論じたところで論文の体をなすとはいえない。

 青少年、すなわち未成年者について言えば、それが日本国民としての基本的人権の享有主体として肯定される点にはまったく疑問の余地がない。未成年者の権利制限は、むしろ女性における権利制限(例えば、坑内労働や妊産婦等の危険業務に対する就業等の禁止)と性格を一にする。すなわち福祉目的により行われるものである。ただ、未成年者というものの特殊性が、女性に対する保護よりもその範囲を広くし、かつ程度を高めているに過ぎない。

(二) 今日の時点において本テーマを論ずる場合、児童の権利に関する条約(平成6516日条約2号。以下「児童権利条約」という)13条以下の、表現の自由の保障規定について言及する必要があるであろう。次の規定である。

1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。

a 他の者の権利又は信用の尊重

b 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 これは、国際人権B規約192項とほとんど同一の文言であり、未成年者も、成年者と同様の表現の自由、特に知る権利を有していることが判る。したがって、未成年者の保護目的とは言え、その権利を制限出来る、というのはどうしても一つの論点となる。ただ、岐阜県事件の論理はしっかりしているので、これには言及する程度で足り、それ以上あまり神経を使う必要はない、と考える。

 この規定について一つだけ注意点を述べておけば、本問のケースはbの最後の「道徳の保護」で読める。その場合、条約の要求しているのは「法律」による制限である。それに対し、本問では「条例」による制限となっている。それが可能なのか、ということは当然に論点たり得る。しかし、法律事項を条例で規制しうるかという問題は、まともに書いてしまうと、それだけで一つの論文となる重要論点である。しかし、それを正面から書き込んでは、論点呆けになってしまう。法律と同じ民主的基板を有するから…程度の説明で、出来るだけ簡単にスルーした方が良い。

(三) 欧米では、かつてパスカルが「子供は人間ではない」と言ったように、伝統的に子供の権利を認めることが少なかったのに対して、わが国では、子宝という言葉に示されるように、子供を大事にする思想が強く、そのことは51年という非常に早い時点で「児童憲章」が作られているという点にも現れていると言えよう。わが国の問題は、子供を単に庇護の対象として考える傾向が強く、子供そのものを権利の主体として尊重するという発想に乏しかった点である。それが、一方的に大人の価値観を押しつける、いわゆる校則問題の多発などにつながったのであろう。その意味で、児童の権利に関する条約をわが国が批准したことの持つ最大の意義は、子供の権利という概念を明確に確立したこと、したがって従来の児童保護手段についても、その観点から、改めてその当否及び射程距離を再構成する必要を迫っているという点に存していると言っても差し支えないであろう。

(四) 米国における児童の権利についての議論の変化については、論文として触れる必要はないが、念頭に置いておく必要がある。すなわち、1969年のティンカー事件で、公立学校の生徒は「一歩校門を入ったら、言論又は表現の自由等の憲法上の権利を失うものではない」という格調高い表現で知られる生徒の人権容認判決以来、米国にはキディリブの強い潮流が存在していた。ところが、それによって、「学校の荒廃」が進行、激化し、単に児童生徒の能力が低下するばかりでなく、性風俗の早熟化、麻薬や銃器の濫用等に象徴される心身両面に渡る問題の深刻化により、そうした自由主義は、むしろ行き過ぎた自由化との認識が広まった。こうした基本思想の変化を受けて、連邦最高裁判所も、1986年には学校当局による持ち物検査を、1987年には生徒総会における発言の中止を、そして1988年には高校新聞の検閲を、それぞれ是認する判決を下すという調子で、完全に右傾化傾向を見せている。

(五) この米国での苦い経験は、青少年の主体性を重視するあまり、それが保護の客体となる弱い存在であることを軽視しすぎるのもまた、問題があることを教えたものといえる。わが国学界の一部に見られた、青少年の表現の自由を強調する論者がすっかり退潮してきたのも、こうした他山の石から来る教えに対応したものということができる。

(六) 未成年者の権利を制限出来る根拠として、出てきた論文は、何れも選挙権を例に挙げていた。しかし、これはとんでもない間違いである。選挙権は、未成年者については、制限されるのではなく、そもそも与えられていないのである。本問で問題となるのは、未成年者が有する権利について、それを制限することが可能か、という問題なのである。

二 未成年者の知る権利とその限界

(一) 知る権利の権利性の議論

 本問は、未成年者の知る権利及び未成年者の場合に、その制限が認められるか、という点にある。議論の導入部として、知る権利の権利性は論じる必要がある。しかし、全体のバランスを考えるなら、せいぜい23行くらいしか投入できない。

 私としてお勧めしたいのが、上記児童の権利条約を引用し、そこから論証することである。すなわち、同条は、表現の自由をあらゆる種類の情報を求め、受け、及び伝える自由と述べているが、この求める自由及び受ける自由だけが問題となるとき、知る権利という、という程度の記述である。

(二) 未成年者の知る権利の重要性

 出てきた論文では、人権が制約可能である、とか、未成年者の人権は制限可能である、とあっさり論じていたが、それは間違いである。

 この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであって、慎重な検討を要する問題である。

 伊藤判事は、未成年者の知る権利を制限しうる根拠として補足意見で次のように述べた。

「青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのである」

 この補足意見を知らなくとも、冒頭に述べたとおり、児童の権利の問題では、機械的に児童の権利に関する条約をチェックするという姿勢を持っていれば、同じような結論に容易にたどり着くことができる。すなわち、児童における知る権利保障の必要性が高いことについては、児童の権利に関する条約17条が次のように明言している。

「締約国は、大衆媒体(マス・メディア)の果たす重要な機能を認め、児童が国の内外の多様な情報源からの情報及び資料、特に児童の社会面、精神面及び道徳面の福祉並びに心身における健康の促進を目的とした情報及び資料を利用することができることを確保する。」

 同条はこれを受けて、さらに具体的な保障に論及するのであるが、ここに述べられていることと伊藤補足意見は、表現こそ違え、児童の知る権利の重要性を述べたものである。諸君も、議論に当たってこの原点、すなわちある意味においては、知る権利は、児童において、成人の場合より一層重要性を有することを看過してはならない。

(三) 未成年者の人権制限

 問題がこれだけであれば、本問の結論はあっさり出ることになるが、盾の半面も忘れてはならない。

 岐阜県青少年保護育成条例に代表される、いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているが、その背景には、今日のメディアが、地方公共団体によって有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる、価値の極めて乏しい出版物を、もっぱら営利的な目的追求のために刊行している、という現実がある。そのため、規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至っている。その結果、各都道府県等の制定している青少年健全育成条例に見られるような法的規制に対しては、表現の送り手であるメディア自身も、社会における常識的な意見も反対しない現象があらわれている。

 岐阜県で問題となった、自動販売機による有害図書の販売について、最高裁は「自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること〈中略〉から、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。」と述べた。

 ここで、規制を許容する大義名分が、条例名に現れている青少年の保護育成という概念である。上記引用箇所に引き続いて、伊藤判事は次のように述べる。

「他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。」

 この点について補完すれば、次のように言えるだろう。

 近代国家における法制度を支配する最も重要な原理である自由主義及び平等主義は、基本的にすべての人が同等の能力を持つことを前提に、私人に対する政府の干渉を排除し、同等の機会を提供することを持って必要にして十分なものとする。しかし、現実の国民は決して同等の能力を持つものではない。特に、完全に自由競争に委ねたのでは、その犠牲者となることが確実なほどに能力の劣るものに対しては、国家として積極的に私人間に介入し、それによって実質的に自由及び平等の回復を図ることが必要となる。これが20世紀型基本原理とも言われる福祉主義である。

 そこでは、社会的、経済的ないしは肉体的に弱者であるものが強者との平等の自由競争にさらされることにより、一方的に収奪・搾取される事態の発生を防ぐ責務を国家に要求すること自体が国民の基本的人権の一翼を構成しているものと理解する。そして、一般に未成年者はそうした弱者としての地位にあることから、その保護のための様々な政策が採られることとなる。未成年者の場合、その発達段階にもよるが、そうした保護が、日常生活のあらゆる面に及ぶため、一般に強者として理解される成人男性を基準として人権を考えた場合、人権に対する抑圧原理として現れてくる場合もある。しかし、それをもって未成年者が人権を否認されていると考える必要はない、ということなのである。

 すなわち、未成年者は、成年者よりも強く知る権利を保障されるからこそ、その強い保障が制限という形態をとることもある、というわけである。

 ここまで述べれば、未成年者の人権制限が肯定できるような錯覚を起こすかもしれない。しかし、ここまでの議論だけでは、いまだ県知事による有害図書の指定を肯定することはできない。なぜなら、26条で述べた教育の私事性から、

「もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務である」

という結論が出てくるからである。そこで、公教育の導入と同じように、現代社会における複雑性の下では、そうした親の監督権は

「それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。」

と述べて、はじめて本問規制の肯定可能性が生まれてくるのである。公的機関による未成年者の人権制限のためには、どのような議論を積み重ねる必要があるか判っただろうか。

三 憲法訴訟論に関する緒論点

 こうして、ようやく県知事の関与権を認める、という結論が引き出せたのであるが、これだけでは、依然として本件フィルタリングが肯定されるという結論までを引き出すことはできない。

 精神的自由権に対する制限を、裁判所として肯定するには、厳格な審査が要請されるからである。したがって、諸君としてまず必要になるのは、未成年者が絡む場合には、審査基準を緩和してよい、という理論の展開である。伊藤判事は、次のようにいう。

「ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。」

 理由は、伊藤判事は述べていないが、上述した福祉主義であると考えられる。

 そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる諸原則、例えば明白かつ現在の危険原則とか、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)原則、はそのまま適用されない。同様に、事前抑制の禁止原則とか明確性原則といった違憲判断の基準についても、成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されることになるものと考えられる。具体的に以下検討しよう。

(一) 立法事実論について

 厳格な審査は、二つの要件から成り立っている。目的の正当性と、その目的と手段との間の合理的な関係である。本問の場合であれば、目的は「児童・生徒の健全な発達」である。手段としてはフィルタリングである。ここで問題は、フィルタリングが本当に健全な発達に役立つと言えるのか、という点である。立法者がそう考えた、というだけでは不十分である。例えば、同じ目的で、校則で、男子生徒に丸刈りを強制する例があり、常識的に健全な発達にどれだけ寄与するか疑問であるところから問題となった。すなわち、目的と手段の間の合理的関連性が科学的に証明されていなければ、一般的には規制は許容されない。

 有害図書を読んだり、有害サイトにアクセスすることは、丸刈りに比べると、健全な発達に害を与える可能性が高いことは確かであろう。しかし、青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえない。成人の場合には、その証明が存在しない場合には、そのような手段を禁圧することは、知る権利に対する侵害として許されない、と考えられることになる。

 しかし、青少年の場合、害悪の証明がないからといって、看過した場合、先に紹介した米国におけるような悲惨な結果が将来する可能性がある。そこで、伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要制が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」

 科学的証明に代えて、高度の蓋然性でたりる、とするのである。髪型の場合には、そのような蓋然性すら存在していないことが、議論の焦点となったわけである。

(二)包括指定と事前抑制

 本問の県知事によるフィルタリングについて、既に存在している有害図書に事後的にアクセスを制限しているだけであるから、事後抑制であり、したがって検閲にも該当しない、という議論を展開できる。こうした議論に対しては、伊藤判事は次の様にいう。

「憲法212項前段の『検閲』の絶対的禁止の趣旨は、同条1項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない」

 要するに、知る権利を中心として構成し直した論理の下では、知る以前の抑制か否かが、事前・事後を決めるのである。

 さらにいうと、通常の検閲が、表現内容を審査した上で、不適切なものと認められた場合にだけ、抑制するものである(税関検査事件参照)。これに対し、青少年保護育成条例における有害図書の指定とは、個別に図書の内容を審査することなく、概括的に有害図書と指定して規制の網を被せるものであるから、知る権利に対する制約性は、検閲よりもはるかに強いものといわなければならない。このような抑制を包括的事前抑制と呼ぶ。

 ここでも、未成年者の人権制限における特殊性を述べる以外に、これを許容する手段はない、といわなければならない。伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なって心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によっては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる『一夜本』のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとってきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもっては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。」

(三) 基準の明確性

 およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。

 表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本問の場合、問題文に、有害図書を認定する基準として「著しく青少年の性的感情を刺激しその健全な育成を阻害するおそれのあるもの」と書かれている。これで、そこにいう明確性を具備していると言えるかが問題となる。

 岐阜県の条例では、写真の内容が「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされていたのが、明確性に欠けるのではないか、として議論になった。

 岐阜県の場合には、岐阜県青少年保護育成条例に基づいて設けられている施行規則2条において、上記写真の内容について、「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二 性交又はこれに類する性行為」と定められおり、さらにこれを受けて出されている岐阜県告示により、その具体的内容についてより詳細な指定がされている。伊藤判事は、条例そのものが不明確な場合でも、このように下位の法規範による具体化、明確化が行われている点を捉えて、総合すれば、明確性を具備しているとした。

 本問では、そのような要件は加えられていないから、与えられた条件だけで考慮する必要がある。その場合には、岐阜県の例に比べると、本問基準は、あきらかに一段と明確性に欠けていると言える。

 特に問題なのが、ここで問題となっているのが、小学生から高校生までという幅広い年齢層にわたっていることである。未成年者については、健全に成長するには、むしろ成人よりも知る権利を重視する基本的必要性があることを忘れてはならない。そして、それにも関わらず、制限が許容されるのは、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされているからであり、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、こうした選別能力を十全には有していないと認められることが根拠であった。しかし、小学生に比べると高校生の選別能力は大幅に発達しているものと一般に考えられるから、小学生については有害図書と判断されるものでも、高校生では許容される場合もあり得る。ところが、そうした差違も、少なくとも設問の限りでは設けられていないのである。

 以上の問題点を受けて、単純に、本問規制を違憲とする論文にまとめるのも一つの方法である。

 合憲とする路線をとる場合には、諸君として、議論としては、徳島市公安条例事件における通常人標準説を基礎とし、これまでもたびたび強調した未成年者の人権制限の特殊性を強調することで、クリアしていく他はないと思われる。その場合、岐阜県の例に準じて、より具体的な下位規範による明確化の要求なども、議論中に含めることが、高得点を獲得するためには、必要と思われる。

四 成年者が、未成年者保護の側杖となる点について

 本問で、Xは、自らの表現の自由、つまり国際人権B規約192項の表現に依るならば、情報及び考えを伝える自由が制限されると主張している。これまで述べてきたように、未成年者に対する制限は許容されるとしても、その結果、情報を受領することに何の問題も無い成年者に対して有害図書とされるものを販売する自由までが制限されている点が、本問では最大の問題となる。

 実を言うと、米国では、児童保護のため、有害サイトへのアクセス制限を行う連邦法が、連邦最高裁から3度まで違憲判決を受けて、挫折している。

 すなわち、1996年児童ポルノ防止法(Child Pornography Prevention Act of 1996)は、児童ポルノの適用内容を実際の写真のみでなくコンピュータで作成された子どもの性的映像にまで拡大して制限しようとしたが、2002 年に連邦憲法第一修正の保障する表現の自由侵害として連邦最高裁判所により違憲判決を受ける。

 1996年通信品位法(Communication Decency Act of 1996)は、18 歳未満の未成年が、わいせつまたは、品位に欠ける内容のコンテンツにアクセスするのを遮断し、故意にそのようなコンテンツの配信、掲載を禁じたが、同じく表現の自由の侵害という訴えにより、1997年に連邦最高裁で違憲と判決された。

 そこで、それに代わって制定された1998年児童オンライン保護法(Child Online Protection Act of 1998)は、1996年品位法の内容を縮小して合憲かを狙ったが、再び合憲性が問われ、10年以上にわたる係争後、2009年にやはり表現の自由侵害として違憲判決を受けた。

 これに対し、わが国では、岐阜県事件以来、その制限は肯定的である。伊藤判事は「包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえない」と言う。つまり、米国のインターネットの場合には、制限されると、成年者もアクセス出来なくなるが、岐阜県の場合も、本問の場合も、成年者が有害図書指定を受けた書籍を入手することは、制限はあるが、可能なのである。そして、その制限は、上述したとおり、青少年保護のため、必要最低限度に押さえられているという認定の元であれば、成年者として忍受するべきであると考えられることとなる。