憎悪表現と表現の自由

甲斐素直

問題

 学校法人Xは、我が国に居住する少数民族であるA民族に属する子弟に対し、母国語による民族教育を行うことを目的とする各種学校Bを設置していた。

 A民族を排斥することを目的する団体Cに属するY等は、長期にわたり街頭宣伝車でB校前を占拠し、その授業時間中に「ここはA国のスパイ養成機関」「犯罪者に教育された子ども」「こいつら密入国の子孫」「Aを日本からたたき出せ」「出て行け」「こんなものはぶっ壊せ」「端のほう歩いとったらええんや,初めから」「我々は今までみたいな団体みたいに甘うないぞ」「この門を開けろ,こらぁ」等の怒声を次々と間断なく浴びせかけ,合間に,一斉に大声で主義主張を叫ぶなどの示威活動を繰り返し行った。

 このため、B校では、校門を閉ざし、教職員が教室の窓とカーテンを閉め、児童に教室から出ないように指示をしたが、示威活動の拡声器による怒号を防ぐことはできず、低学年の児童のほとんどが恐怖を感じて一斉に泣き出すなど、授業の実施に当たり、多大な被害を受けた。

 そこで、これらの憎悪表現を伴う示威活動を理由に、XYに対し、民法709条に基づく不法行為に基づく損害賠償を請求した。

 これに対し、Yは、

1 ある少数集団に対する差別的言動は,直ちには,当該集団の個々の構成員に対する不法行為を構成するとはいえない。したがって,在日A人という少数集団に対する差別的言動がXに対する不法行為に当たるとの主張は誤っている。

表現によって摘示された事実は,公共の利害に関する事実であり,かつ,真実であるため,それら摘示事実の表現行為は違法性が阻却される。仮に,真実であるとの証明がない場合であっても,真実であると信じたことにつき相当な理由があるから,当該事実を摘示した被告らには過失がなく,Yらの責任が阻却される。

 したがってY等の活動は、憲法21条の保障する表現の自由に属するので、不法行為には当たらないと、主張した。

 X及びYの主張に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

参照条文

国際人権A規約202項 差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。

人種差別撤廃条約41項 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

[はじめに]

 本問は、京都地方裁判所平成2510月7日判決(大阪高裁平成26年7月8日判決/最高裁判所第三小法廷平成2612月9日上告不受理決定)における事実関係を簡略化して問題としている。

 ここで問題となっているのは、憎悪表現である。憎悪表現の規制は、憲法学から見て、大変難しい問題である。

(一)論文の基本構造

 参照条文に明示されているとおり、それは明確に国際人権条約で禁止されている。それ以前の問題として、いたずらに民族的憎悪の念を表現することは、道徳的にも許されない。したがって、憎悪表現と表現の自由は、等価的比較衡量の対象では無く、それが成立する限りで表現の自由は考えられないものと言わなければならない。その意味で、憎悪表現の禁止は、プライバシーないし名誉権と同じ論理構造を持っている。したがって、諸君の書く論文の前半は、それらと同じものとなるので、ここでは解説を省略する。

 念のため、要点を述べれば、第一に人権の本質論を展開し、人格的利益説を述べる。その根底の理念が、社会道徳の延長であることを述べ、憎悪表現である限り、権利性が認められないと論じれば良い。

(二) 問題の基本的な所在

 問題は、その先である。憎悪表現的要素が含まれていれば、常にいかなる表現の禁じられることになれば、それは表現の自由を封殺する機能を有することになる。したがって、その限界はどこにあるかが、深刻な問題とならざるを得ないのである。

 この問題は、本当は、本来なら、条約の命ずるところにしたがって法律を制定し、その法律で、限界を定めるのが最善の対策である。現在、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどでは、この条文を履行すべく憎悪表現を規制する法律を設けている。我が国にその様な法律があれば、これは憲法問題では無く、法律解釈の問題で解決することが出来る。

しかし、日本は、人種差別撤廃条約を批准してはいるが、問題の4条に関しては、留保を付しており、現在まで、憎悪表現を規制する立法を行っていない。日本が留保した理由について、外務省は次の様に説明している。

「これらは、様々な場面における様々な態様の行為を含む非常に広い概念ですので、そのすべてを刑罰法規をもって規制することについては、憲法の保障する集会、結社、表現の自由等を不当に制約することにならないか、文明評論、政治評論等の正当な言論を不当に萎縮させることにならないか、また、これらの概念を刑罰法規の構成要件として用いることについては、刑罰の対象となる行為とそうでないものとの境界がはっきりせず、罪刑法定主義に反することにならないかなどについて極めて慎重に検討する必要があります。我が国では、現行法上、名誉毀損や侮辱等具体的な法益侵害又はその侵害の危険性のある行為は、処罰の対象になっていますが、この条約第4条の定める処罰立法義務を不足なく履行することは以上の諸点等に照らし、憲法上の問題を生じるおそれがあります。このため、我が国としては憲法と抵触しない限度において、第4条の義務を履行する旨留保を付することにしたものです。」

(出典=http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/top.html

 いくら留保を付しても、法律制定義務についての留保では無いのだから、いまだに法律を制定していないのは問題である。

 実を言うと、法律を制定する努力は相当程度行っており、何度かその試みがある。すなわち、人権擁護法案が2002年(平成14年)に、小泉内閣により提出されたが、廃案となった。その後も、2005年(平成17年)に民主党が「人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案」を提出し、2012年(平成24年)には野田内閣が「人権委員会設置法案」を閣議決定しているが、何れも成立していない。2015年5月22日、民主党、社民党及び無所属の議員が「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律(案)」(以下「法案」という)を参議院に提出している。

 何れに対しても、一方では人権救済の不徹底が問題視され、他方では、人権侵害の定義が曖昧で、拡大解釈をされて言論統制につながりかねないとの批判がなされたのである。

 その結果、その限界に関しては、現状としては、もっぱら理論的に解決していかねばならない。しかし、その議論は必ずしも明確とは言えないのである。

 その理由は、我が国の歴史にある。天皇機関説事件に代表されるように、政府や皇室を批判する表現は、厳しい規制にさらされてきた。あるいは、その時々の模範的な道徳観に反する表現行為に対して、非国民などの蔑称で、しばしば激しい規制の対象とされてきた。こうした経験から、憲法学者としては、一定の内容の表現を、法律の規定を背景に「悪い表現」であると政府が認定し、規制することに強いアレルギーを示さざるを得ないのである。その結果、個人の表現の自由は最大限に確保されるべきであると主張し、表現の自由の保障の強化を主張してきたのである。

このようなスタンスに立つ場合には、表現内容が一定の人々にとっていかに耳障りで不愉快であったとしても、それだけを理由として規制するという結論を導き出すことは許されないことになる。本問で示された人種・民族的な憎悪表現に付いて言えば、それは我が国の内政・外政に関する意見表明という、政治的表現の自由に属する。そのような政治的表現行為を、他の政治的スタンスに立った場合に不愉快、不適切だからといって規制することが許されず、むしろもっとも手厚い保護の対象になるべきだとさえ考える余地がある。

 このため、ややもすると、憎悪表現に対する規制には及び腰になってしまわざるを得ないのである。

 人種差別撤廃条約は1965年の第20回国連総会において採択され、1969年に発効した。しかし、日本は1995年になって加入し、その後20年を経過するのに、規制立法が制定されない理由もまた、そこにある。

(三) 現行法の活用による規制

 日本における現行刑法で、憎悪表現に対して適用できそうなものとしては、脅迫罪(刑法222条)、名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)などがある。しかし、脅迫罪や侮辱罪は、特定の個人に向けられた表現に限定されるので、本問におけるYの主張1に見られるように、「○○人はみな犯罪者だから○○国へ帰れ」式の、人種・民族や社会的身分一般に対する憎悪表現に対しては、適用するのは困難である。

 同様に、名誉毀損罪も、不特定多数の人々の集合体に対する憎悪表現には適用されない。本問のように、その場の状況から特定人に向けた名誉毀損であると認められる場合にも、上述のとおり、国の内政・外政に関する意見表明という、政治的表現の自由に属する以上、Yの主張2のように、公共の利害に関する問題であるという主張を排除することは難しい。

 以上に述べたのは、基本的には刑事司法における問題であるが、月刊ペン事件判決に明らかなように、民法709条に基づく損害賠償請求の場合にも、意義、要件、効果は基本的に刑事司法の要件を借用する形で展開されるため、同様の壁にぶつかることになるのである。

 今一つの方法が、東京都公安条例のような公安条例により、Yの活動を規制する、という方法である。しかし、公安条例は、いわゆる時・所・方法に関する規制、すなわち内容中立規制である。したがって、憎悪表現という表現内容に基づく規制を、そうした条例を根拠に行うことは、まさに表現の自由の規制であって許されない。

 状況下で、裁判所に何が、どのような論理の元に可能になるのか。本問で、それについて考えてみよう。

一 米国の状況

 我が国同様に、人種差別撤廃条約4条の留保付きで承認し、いまだ立法を行っていない米国が、どのような論理でそれを主張しているのかを、ここでは見ることとしたい。

 本レジュメの表題とした憎悪表現は、「ヘイト・スピーチ(hate speech)」という事が、日本でもしばしばある。米国において「ヘイト・スピーチ」という用語の下に、この問題が論じられるからである。

 米国で、ヘイト・スピーチが一般的に用いられるようになったのは1980年代後半以降である。この時期、人種や性別をめぐる差別や偏見の解消のための効果的な対策が模索され、とくに大学のキャンパスにおける人種的ハラスメントに対処するため、多くの大学が憎悪表現を含むハラスメント行為全般を規制する学則を採用するようになったことから、その合憲性をめぐる議論が活発化した。

 その論争に一つの決着を付けたのが、1992年に連邦最高裁が下したRAV判決(R. A. V. v. City of St. Paul, 505 U.S. 377 (1992))である。この事件では、ミネソタ州セントポール市の制定した「偏見を動機とした犯罪に関する条例(Bias-Motivated Crime Ordinance)」が違憲と判断された。

 1990621日の早朝、R.A.V.という団体に属する数人の若者(十代)が、壊れた椅子の脚をテープで留めるという、実に粗雑な十字架を作り、それを若者たちの一人が住む家の向かいにあるアフリカ系米国人一家の前庭の芝生の上で立てた上で、それを燃やした。その結果、上記条例違反に問われたのである。この十字架を燃やすという行為は、黒人に対する差別を行うことで知られるK.K.K.Ku Klux Klan)の象徴的な行為である。

 問題になったのは、条例中の次の様な規定であった。

「公共的または私的な財産の上に、人種・肌の色・信条・宗教・性別に基づいて、他者に怒り・不安・怨みを生ぜしめると知られている、またはそう知られることに理由のある、燃える十字架やナチスの鍵十字その他のシンボル、物、呼称、特性の描写や落書きなどを設置して、秩序紊乱行為(disorderly conduct)を犯した者は、軽罪とする。」

 軽罪というのは、米国では、懲役1年未満の刑を科されるという意味である。また、秩序紊乱行為とは、我が国で言う軽犯罪に相当する非定型の犯罪行為、例えば、酩酊して徘徊するとか、治安を乱すというような行為を意味する。

 R.A.V.は、同規定が過度に広汎であるため、第一修正の保障する表現の自由を侵害し、文面違憲であると主張した。第1審はこの主張を認めたが、ミネソタ州最高裁判所は、「他者に対し怒り、警告、怨み等を惹起する」という文言は十分に限定的であるとして、過度の広汎性を否定し、原判決を差し戻した。そこで、R.A.V.は連邦最高裁判所に上告した。連邦最高裁判所は、サーシオ・レーライ(certiorari)を認めた。

判決は、54の僅差で、R. A. V. の主張を認めた。

 多数意見はスカリア(Antonin Scalia)判事が執筆し、レンクィスト(William Rehnquist)長官、ケネディ(Anthony Kennedy)、ソウター(David Souter)、トーマス(Clarence Thomas)の各判事がこれに賛同した。

 スカリア判事は、条例の解釈に当たっては、条例がチャプリンスキー判決の言うところの「喧嘩言葉(fighting words)」を構成するというミネソタ州最高裁判所の結論を受け入れ、その限りでは、過度に広汎とは言えないとした。

 チャプリンスキー判決とは、Chaplinsky v. New Hampshire, 315 U.S. 568 (1942),のことで、喧嘩言葉基準(fighting words doctrine)を確立したことで知られる。すなわち、エホバの証人の信者であるチャプリンスキーが路上で宣教活動を行ったところ、群衆に襲われそうになったので、危険があるとして近づいた警官に「このファシスト野郎(a damned Fascist)」などの暴言を吐いて逮捕された事件である。当時のニューハンプシャー州の法律では、公共の場所で不快な、嘲笑的な、あるいは困惑させるようなスピーチを浴びせてはならないと定められていた。チャプリンスキーはこれに違反したとして刑事責任を問われたのである。これに対し、チャプリンスキーは、この州法は表現の自由に反しており違憲であると主張して争った。連邦最高裁判所は、「言葉自体が侵害を与え、あるいは治安を乱すことを即座に引き起こす傾向にある(words those which by their very utterance inflict injury or tend to incite an immediate breach of the peace)」表現については、わいせつや名誉毀損と並んで表現規制が許されるとして、有罪を支持したというものである。

 しかし、その上で、連邦最高裁判所は第一修正の定める言論の自由条項に対して独自の分析を行った。第一修正は、政府が言論ないし表現行為の内容を規定することを禁じているというのである。なぜなら、そこには思想の否定が含まれるからである。その結果、内容規制の立法は原則的に無効と推定されるとした。そして、市の主張する規制利益の重要性を認めつつも、当該利益を達成するために表現内容にもとづく規制を課す必要性を否定し、同条例は違憲であると述べたのである。

 この判決によって、全米において憎悪表現の規制は不可能となったと理解され、それまで憎悪規制を設けていた自治体や大学は規制を廃止した。

 この米国の例に見られるように、人種差別撤廃条約の要求する立法は、表現の自由との関係で困難な点が多い。

二 裁判所による解決

 そうした中で、裁判所による解決が図られた点で、本件はきわめて興味深い。

 判決は、まず憲法982項の定める国際協調主義を基礎に、人種差別撤廃条約の遵守の必要性を指摘する。ついで、同条約6条が次の様に定めている点を指摘する。

「締約国は、自国の管轄の下にあるすべての者に対し、権限のある自国の裁判所及び他の国家機関を通じて、この条約に反して人権及び基本的自由を侵害するあらゆる人種差別の行為に対する効果的な保護及び救済措置を確保し、並びにその差別の結果として被ったあらゆる損害に対し、公正かつ適正な賠償又は救済を当該裁判所に求める権利を確保する。」

 このことから、「国家として国際法上の義務を負わせるというにとどまらず、締結国の裁判所に対し、その名宛人として直接に義務を負わせる規定であると解される」と結論するのである。

 そして、Yの活動を細かく認定した上で、次の様に結論を下す。

「本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は、いずれも、在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下、在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり、在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから、全体として人種差別撤廃条約1条1項所定の人種差別に該当するものというほかない。

したがって、本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は、民法709条所定の不法行為に該当すると同時に、人種差別に該当する違法性を帯びているということになる。」

 その上で、更に事実認定をした上で、次の様に述べて、2の主張も退けているのである。

「本件活動は、全体として、在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下、在日朝鮮人が日本社会で日本人や他の外国人と平等の立場で生活することを妨害しようとする差別的発言を織り交ぜてされた人種差別に該当する行為であって、これが「専ら公益を図る」目的でされたものとは到底認めることはできない。」

おわりに

 私自身は、条約に従って、憎悪表現規制法を早期に制定することが必要と信じている。しかし、一方において、表現の自由に対する規制となり得るため、一方においてマスメディアも含めた幅広い反対運動に遭い、他方において、憎悪表現に対する不十分な帰省に終わるため、保護として十分ではないという宿命を持っている。そうした中で、司法による個別的な救済に当面は頼るほかはないであろう。その意味で、この判決は重要である。