公務員の政治的基本権制限 

問題

 Xは、A省に勤務する事務官で、東京都内にあるA省の地方支分部局(いわゆる「出先機関」)において、窓口で一般市民に対応し、主として申請書類の受理業務、申請者に対する各種連絡業務、申請書の作成等に関する市民の相談にマニュアルに基いて応じる業務等、裁量権のない機械的労務を提供している国家公務員である。

 Xは、20121216日施行の第46回衆議院議員総選挙に際し、B党を支持する目的で、同年1125日、122日、129日のいずれも午後2時から3時頃にかけて、3回とも東京都C区内の約50箇所の店舗・住宅の郵便受けに、B党の機関紙、およびB党公認候補者(その予定者)の経歴等を紹介したパンフレットを投函した。Xは、この行為が国家公務員法第102条第1項および人事院規則14-75項第3号、第6項第7号および第13号に違反するとして、国家公務員法第110条第1項第19号に基いて起訴された。

 Xの行為に関して生じる憲法上の問題について論じなさい。

〔資 料〕

人事院規則14-7 5項・第6項(抄)

(政治的目的の定義)

法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。

特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。

(政治的行為の定義)

法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。

政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。

十三 政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。

[はじめに]

(一) 問題の所在

 公務員の政治的基本権の議論は、学生諸君に取り、難問である。これはわが国戦後史の一要素という点が強く、それらを規制している規定を、憲法学の立場からすっきりと説明することが非常に困難だからである。

 精神的自由権の抑制という、極めて深刻な問題であるにも拘わらず、どの憲法教科書を見ても、相対的に見ればより精神的自由権より重要度の低いはずの労働基本権の制限に大きな紙幅を割き、政治的基本権の制限については、軽く触れてあるに過ぎない。政治的基本権制限といわずに、わざわざ政治活動の制限という軽い表現を使用しているのも、この問題が書きにくいという深層意識が、大きな問題ではないのだ、という自己暗示を、憲法教科書の筆者に掛けていることの反映であろう。

 しかし、現実には、国家公務員の場合、投票に行く以外の政治活動はすべて禁じられていると言っても過言ではない。まさに政治的基本権の制限以外の何者でもない状況にある。

一 憲法41条について

 憲法41条の、国会中心立法主義から導かれる委任立法の限界という問題がある。これについて、本格的に説明すると、それだけで一つのレジュメができてしまうので、ここでは説明の手を抜き、要点のみを説明する。これに関しては、大別して三つの論点がある。

(一) 委任立法の根拠

 それに関する第一の問題は、なぜ執行命令や委任命令が認められるのか、という事である。おそらく諸君は、その段階から混乱しているであろうから、論拠を整理すると次のとおりである(念のため注記するが、諸君としてこの密度で議論する必要があるという意味では無い。どこまで簡略化するかが本問における答案の合否を決める。)。

 第一に、法の規制の対象となる社会は常に変動しているにも関わらず、成文法は不変であるから、時間の経過により、法律が確実に不適切なものとなっていく点である。典型的には、インフレ等の進行により、行政手数料など金額で表記する必要のある事項が、社会の実態と適合しなくなる場合等があげられる。また、技術の発達等による変動もある。例えば電算機の発達で、従来は人が介在しなければならない問題が自動的に処理されるような場合がある。こうした場合、法律は特に慎重な手続きで制定されることになっているから、機動的に状況の変化に対応することが困難である。そこで、より改定の容易な下位の成文法に規制のより具体的な定めを任せることにより、社会の変動により柔軟に対応する必要性が認識されることになる。

 第二に、国として基本の規制を定める一方で、その内容は各地域や業界等の具体的な状況に応じて異なる定めを行う必要がある場合もある。例えば、公衆浴場は、地域における公衆衛生の確保のために欠くことができない施設であるが、その担い手は非常に零細な中小企業であるので、その経営を保護するために浴場相互間に距離制限を定め、経営が成り立つ程度の顧客を確保する政策を採ることが適切である、と判断された場合を考えてみよう。この場合に、具体的にどの程度の距離が浴場間に存在することが適切かは、各地域の人口密度や、内風呂の設置率、水道代や燃料費等の経営コストにより異なるはずであり、しかもこうした条件は時間の変化とともに変わっていくから、法律で全国一律に具体的定めをおくことは適切ではない(公衆浴場距離制限判決=百選第6199頁参照)。

 第三に、行政庁の活動を規制する法律の場合には、その個々の行政活動の持っている専門性、技術性から、その問題に十分に通じていない国会が定めるよりも、その行政庁に委ねる方が、具体的妥当性の高い法規範を制定することが可能になる場合がある(小売市場事件判決=百選第6203頁参照)。このような場合、それぞれの行政を担当する省庁に細部の定めは委せる事が妥当であるが、この種立法は、それにより国民に新たに権利・義務を発生させることになるから、憲法41条の定める国会中心立法の原則に照らして、行政庁の一存で定めることは許されない。そこで、国会が法律の中で、行政庁にその点の詳細規定を定める権限を授権していることを明確にするという手法が考えられる。

 この種立法を委任立法という。そして、法律におかれる授権規定を委任規定、それに基づいて制定される法規範を委任命令と呼ぶ。

 委任立法という手法を採用することを明確に認める規定は、現行憲法にはないが、766号が政令に限定してであれば、執行命令、委任命令のいずれも肯定している。こうしたことから、一般的な執行命令や委任命令(省令とか庁令等)も許容していると考えられるのである。

(二) 独立行政委員会に対する委任立法の合憲性

 ここから出てくる第二の問題が、省令等が許容されるのは、その省庁が内閣の下にあることから、政令の延長線上にあるとして肯定できるとしても、内閣の支配の及ばない独立行政委員会に対する委任ということが、766号を根拠にして可能なのか、という点である。一般論として言えば、独立行政委員会の場合には、その独立性を確保するために強い自律権が認められているので、その委員会の本来的権限に属する問題に関しては、委任立法の形式を取っていても、その実体は自主立法権であると考えられる。そして、どの範囲に自主立法権が認められるかは、その委員会の設置目的と結びついて議論されなければならない。ただし、それはあくまでも内部行政に関してであり、対国民的な規範に関しては、常に41条に基づき、国会の立法権に基づく必要がある。この結果、対公務員規制の場合に、これが国の内部行政なのか、それとも対国民規制なのかが問題となる。

(三) 国家公務員法1021項の白紙委任性

 第三の問題は、国家公務員法1021項が白紙委任ではないか、という事である。1項だけを見ればそう解するのが自然であり、したがって、君たちとしてその様に議論して何ら問題は無い。ただ、上記1の点と結びついて、一般に独立行政委員会に対する委任規定は白紙委任になっている場合が多い。個別・具体的委任にとどめている場合には、その委員会の独立性を国会が侵害する危険が生じるからである。

 私自身は102条は白紙委任とは考えていない。102条には1項だけでなく、2項及び3項があり、そこでは明確に公職の候補者となること及び政党その他の政治的団体の役員等になることを禁止している。その事と併せ読めば、人事院規則への委任の範囲は、それに準じる範囲に限定したものと読むのが妥当と考えているからである。

 それにも関わらず、現実の人事院規則14-7は、本問にも明らかなとおり、雁字搦めに公務員の政治活動を禁止している結果、現実に国家公務員に可能な政治行為は投票くらいしかない。これは、102条について私のような読み方をする場合には、明らかに委任の範囲を逸脱した命令であって、憲法41条違反ではないが、国家公務員法102条違反と解するべきことになる。

 論文としてであれば、ここで終わりにしても、立派に合格答案である。しかし、それでは、本問の具体的事例に関しては絵にならないので、立論としては、このような結論を出した場合にも、「今仮に合憲であると解しても」として21条及び31条の議論につなげていく必要がある。

二 公務員の概念

 諸君は、本問で問題となっている公務員とは何か、という事を決定せず、あたかも総ての公務員について、共通に政治的基本権の制限が存在するかのような書き方をする場合が多い。それは完全な間違いである。公務員というのは極めて多義的な概念だからである。

 例えば、憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」として、天皇まで含めた概念として公務員という語を使用している。

 今、問題になっている公務員概念は、国家公務員法が使用している概念である。しかし、国家公務員法に限定しても、同法23項は、内閣総理大臣から始まって、国務大臣や副大臣、政務官等、国会議員たる身分を有するものが就任する行政職なども列挙している。これらのものは、政治活動をするのが仕事であるから、政治活動の禁止等というのは、そもそも問題にならない。

 本問で問題となっている公務員とは、さらに一段絞り込んで、一般職の公務員(国家公務員法22項)であると、一応は言うことができる。但し、同法23項の定める特別職の公務員の中にも、裁判官及びその他の裁判所職員、国会職員、防衛庁職員のように、やはり政治活動の制限が問題になる公務員が存在している。これについて、統一的な定義を与えることはできず、個々的に論ずる他はない。

 実は、詳しくは後述するが、基本的には、どの範囲の公務員に政治活動の制限を加えるかは、理論で導かれる問題では無く、立法政策的に決定される問題であり、統一的な概念ではないからである。

 例えば、日本では普通、裁判官や検察官は、政治的中立性が求められると考えられている。しかし、アメリカの州レベルの制度では、裁判官や検察官についても選挙で決める方式を採用しており、その結果、政治家の登竜門的役割をこれら官職が果たしている。例えば、ウォーレン・コートで有名なアール・ウォーレン(Earl Warren)は、最初、カルフォルニア州の地方検事として敏腕ぶりを発揮して、共和党候補として第30代カリフォルニア州知事(1943 - 1953年)となり、さらに大統領選挙に出馬したが、惜しくも落選し、対立候補であったアイゼンハワー大統領により、第14代連邦最高裁判所長官に任命された。ロックナー時代を代表するタフト第10代最高裁判所長官に至っては、元第27代大統領である。この結果、裁判官や検察官に対する政治活動の制限はない。

 そのため、明らかに政治的に変更しているとみられる判決が出ることもしばしばある。例えば、2000年の米大統領選挙で、民主党のゴア(Albert Gore)は全米票数の48.38%をとり、共和党のブッシュ(George W. Bush)の47.87%を上回った。しかし、大統領選挙は、間接選挙方式で行われる結果、開票が全米で最後になったフロリダ州デイト郡における開票結果が、全米の大統領を決定するという異常事態が発生した。その結果は不明朗なものであったが、フロリダ州知事ブッシュ(John Ellis Bush=大統領候補の弟)の閣僚である州務長官は、ブッシュの勝利を宣言した。ゴアは票の再集計を求めて訴訟を提起したが、フロリダ州最高裁及び連邦最高裁はいずれも判事の所属政党によって予想されたとおり、再集計を禁じる判決を下した (Bush v. Gore, 531 U.S. 98 (2000)) 。これにより、フロリダ州の25票がブッシュに回ったので、間接選挙の結果はブッシュ271票対ゴア266票となって、ブッシュが第43代アメリカ合衆国大統領になった。

三 公務員の政治的中立性の根拠

 有名な猿払事件においては、郵政事業という現業職員に関する事件であった。現業職員について、どのように考えるべきかは、それ自体難しい問題であった。しかし、郵政民営化に伴い、その問題は消滅した。そこで、以下においては、本問でまさに問題となっている一般職国家公務員(これを以下「公務員」という)に限定して議論したい。

(一) 問題の所在

 公務員については、様々な形で人権制限が存在する。その中で最も重要な問題は、労働基本権の制限と政治的基本権の制限である。両者は相当異なる問題である。

 政治的基本権の制約は精神的自由権に属するから、公共性を内包しているということを根拠とした制約を一般的に肯定することができない。また、その性質上、代償措置が不可能という点も重要である。したがって、労働基本権制限の論理をそのまま持ち込むというやり方をする限り、政治的基本権の制限は必ず違憲とされなければならないことになる。

 したがって、政治的基本権の場合には、公務員関係の特殊性から、その制限根拠を導く必要がある。

 過去において、様々な学説がその説明にチャレンジしてきた。特別権力関係論説、全体の奉仕者論説、職務性質説、憲法秩序構成要素説等である。最初の二つは、その妥当性の否定された過去の学説で、今日では、それを肯定する判例はもちろん、学説も存在しないので、諸君としては、念頭に置く必要すら無い。。

 しかし、受験予備校の模範答案などでは、特に全体の奉仕者説については、いまだに書いてある場合があり、機械的にそれを受けての記述をするものも少なくないので、そのどこが問題なのか、簡単に説明する。

 憲法15条で言う公務員という言葉がもっぱら国会議員を指すことは、151項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と宣言し、153項が選挙一般について、4項が秘密選挙について保障していることに明らかである。その間に挟まっている15条2項の全体の奉仕者を、突然、国会議員ではなく、およそ公務員一般に対する文言だと考えるのは無理がある。無理にそう解するとしても、主たる名宛人が国会議員であることは明らかなのであるから、この概念が政治的中立性を意味すると結論することは不可能である。

(二) 職務性質説

 これは、公務員の政治的基本権制約を肯定できるか否かは、もっぱらその担任する職務の性質によってきまることで、「全体の奉仕者」性とは直接の関連はないとする説のことで、宮沢俊義の提唱にかかるものである。

 その説くところによれば、公務員が「全体の奉仕者」であることは、公務員が政党に加入しあるいは投票することと矛盾するものではない。そもそも政党は全体の利益のために活動するのであるから、政党をもって一部の奉仕者と見るべきではない。したがって、すべての公務員の政治活動が制限されるべきだという結論を生むわけではない。国会議員などは彼らの政党を通じて「全体」に奉仕しようとするのに対して、

「事務的職員は、これら政治的職員の指導の下に公務に従事することによって『全体』に奉仕することをその職務とするものであるから、その必然的結果として、彼らは公務を行うにあたって、彼ら個人の政治的意見によって行動することなく、多かれ少なかれ政府の政治的意見によって行動すべき拘束を受ける。そこに彼らの職務の本質がある。この種の公務員がその職務を合目的的に行うことを確保するために、その職務執行に関して、一般国民に比べて、政治的行動が制約を受ける可能性が生ずる。」(宮沢俊義『日本国憲法』(芦部信喜補訂)日本評論社刊220頁以下参照)

 この職務性質説は、公務員の労働基本権に関する判例である全逓東京中郵判決の採用するところとなった。しかし、政治的基本権に関しては、これに基づく判例はない。政治的基本権に関する代表的な判例としては猿払事件最高裁判例があるが、その理論の内容については、後に紹介することにしたい。

 この職務性質説の指摘するところは基本的には正しい。しかし、憲法学としての最大の使命は、その職務の性質の差がどこからもたらされるものか、という点である。それが明らかにならない限り、その職務の性質なるものは、論者の主観によって決まり、客観的な学説たり得ないからである。

(三) 憲法秩序構成説

 これは、職務性質説の持つ上記限界を打破しようとして登場してきたもので、芦部信喜の説くところである。教科書のレベルだと、次のように書いてある。

「人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法的秩序の構成要素として認めていること(15条・734号)に求められなければならない。」「(政治活動の自由の制限)の場合も、制限の根拠は憲法が公務員関係の自律性を憲法的秩序の構成要素として認めている」(芦部信喜・第6278頁より引用)

 これでは簡単すぎて、何を言っているのか判らないので、もう少し詳しく述べているものを見てみよう。

「職務の性質の相違は、公務員の人権制限の根拠としての意味よりも、制限の範囲ないし限界を具体的に画定する場合の最も重要な基準としての意味を強くもつことに注意しなければならない。けだし『人権の制限は、憲法で積極的に規定されているか、もしくは、少なくとも前提されている場合にかぎり可能である』という原則に鑑みれば、公務員の人権制限の根拠は憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素としていること(15条・734号参照)に、求められねばならないからである。それが認められるならば、当然に公務員関係という特別の法律関係によって公務員の人権が犠牲に供されるようなことがあってはならないとともに、公務員の人権の保障を一般市民法ないし労働法秩序における場合と同じものとみなすことによって、公務員関係の存立および自律性が崩壊させられるようなことがあってはならない、という帰結が導き出されるであろう。そうだとすれば、政党内閣制の下においては、行政の中立性が保たれてはじめて、公務員関係の自律性が確保され行政の継続性・安定性が維持されるのであるから、このような中立性の維持という目的を達成するために合理的にして必要最小限度の規制は、憲法上容認されているということになるであろう。」(芦部信喜『憲法学Ⅱ』有斐閣259頁)

 この説が議論の前提としている公務員の中立性、自律性の必要性そのものについては全く異論はない。この説の最大の問題点は、憲法そのものの文言の解釈にあるのではないか、と考えている。

 すなわち、現行憲法15条は、国会議員等、明らかに選挙によって任用される政治性ある公務員を前提としている。あるいは、選挙を通じて選任された国会議員により、一般職公務員の任用が間接的にコントロールされる制度を予定している。また734号では、内閣という国会に連帯責任を負う機関が、公務員の任用権を持つと規定しているのであるから、まさにその間接的コントロールを述べていると読む方が自然である。要するに、全く目的の異なる規定を根拠に、公務員の中立性の維持を云々するのは、本質的に無理な考え方と私は考えている。

(四) 猟官制と能力制

 これらの学説は、いずれも、現在の国家公務員法に採られている法制度が、合憲で、正しいものという前提で、それをいきなり憲法によって説明しようとする点に無理がある。公務員の任用制度をどのように運用するかについての考え方(立法政策)としては、大別して猟官制(spoils system)と能力制(merit system)がある。

  1 猟官制

 猟官制とは、簡単に言えば、政府が公務員の任免権を有するという制度である。猟官制を採用している場合には、政党制の下においては、選挙の都度、全国の公務員の相当数が、与党系の職員に交代させられる、という形を採ることになる。選挙で勝利を得た政党が官職という獲物(spoils)を得るところから、猟官制(spoils system)と呼ばれるのである。

 アメリカにおいては、ジャクソン第7代大統領以降においては、民主主義理念の下に、猟官制が幅広く実施されていた。

 猟官制による場合には、行政庁が内閣の意向を正確に実施するため、政府の政策が末端まで徹底するという長所を持つ。南北戦争でリンカーン第16代大統領が勝利できた最大の原因は、猟官制により戦争反対者を連邦公務員から全員罷免できた点にあるといわれる。次に述べるガーフィールド第20代大統領暗殺事件を契機に、以前に比べると相当適用範囲が縮減されはしたが、今日でも高級官僚の任免において採用されている方式である。

例えば、現在の駐日アメリカ大使であるケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)は、第35代大統領ジョン・F・ケネディの長女という以外何の政治的経歴も無く、日本に関する知識も外交実績も無い人物であるが、2008年の大統領選挙の際、バラク・オバマ候補への支持をいち早く表明し、彼の当選に大きく貢献したことが、任命理由である。その前代のルース(John Victor Roos)は敏腕弁護士で、ケネディ同様に、日本に関する知識も外交の経験もない人物であるが、大統領選挙の際、オバマ陣営の資金調達を担当し、著しい業績を上げたため、この職に任命されていた。

 これらの人事に見られるように、猟官制には、その官職に適した能力を持たない者が就任する危険は避けられないこと、行政内容が大きく政治によって左右されること、その結果、行政の連続性が阻害されることなどの短所がある。

 わが国では、明治憲法下に政党内閣が誕生した明治311898)年当時は、基本的に猟官制が採用されていたといって良い。その後、官僚の勢力を確立しようとする有司勢力と政党勢力の対抗の間にあって、猟官制と能力制のいずれを主とするかについては、一進一退を繰り返した。

 大正デモクラシー以降の政党内閣時代には、完全に猟官制が確立し、下級官吏に至るまで政権党の交代により、人事が異動するのが一般的となった。昭和に入って全体主義が強まるとともに、官僚の力も強まり、昭和71932)年に犬飼政友会内閣が首相の暗殺により崩壊したことから、わが国における猟官制の歴史は終わることになる。すなわち同年に実施された文官分限令改正により、文官分限委員会が設けられ、官吏身分保障が強力になった結果、内閣の交代があっても、官僚が罷免されることはなくなった。

 行政の民主的コントロールという観点からは、一般職公務員といえども「これを選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(151項)」から、個々の一般職公務員の任免にあたっても、国民が直接関与するのが妥当である。国民主権原理の下において、これは、一般職公務員の任用が国民を直接代表する国会の権能であることを意味する。そして、議院内閣制の下においては、その権限は内閣を通じて行使されることになる(734号)。すなわち、内閣は、すべての公務員を自由に任免することができる。このように、現行憲法は、その文言からすると、猟官制を基本的に採用していると考えるのが妥当である。

  2 能力性

 猟官制の弊害を重要視する場合には、一般職公務員については政治から絶縁させて、能力本位に任用、昇進させるべきであるという考え方が発生する。これが能力制である。

 米国では、1881年に、ガーフィールド(James Abram Garfield)が第20代大統領としての就任から4ヶ月足らずの時点で、ギトー(Charles Julius Guiteau )という者によって暗殺されるという事件が発生した。ギトーは、大使になる事を願って勝手にガーフィールドにために選挙運動をし、彼自身の信じるところではその勝利に多大な貢献をしたにも関わらず、彼の期待に反して大使に登用されなかったことに腹を立ててこの凶行に及んだものである。この衝撃的な事件から、米国は、急激に能力性へと大きくカーブを切った。現在では、公務員のトップ人事(つまり本省の局長から課長程度)は、前述の通り、猟官制で運用されているが、9割程度の連邦公務員については能力性となっている。

 能力制を採用するためには、行政の政治的中立性を確保する必要がある。このためには、憲法734号にもかかわらず、内閣による一般職公務員のコントロール権を否定する必要がある。そのために設けられたのが、内閣から独立した行政委員会の一つである人事院である。また、政治の行政組織への不干渉を確保するためには、同時に行政組織側から政治への不干渉もまた確保されなければならない。

 こうして、一般職公務員に関して能力制を採用する場合に限り、政治的基本権の制限という問題が発生することになる。すなわち、政治的基本権の制限という問題は、一般職公務員という「特別の法律関係の存在」と、その法律関係内部を国会や内閣からの干渉から守る目的で「自律性」を確保するための代償ということができる。

 但し、この説明は、一般職公務員の能力制人事及びその必然の要求である行政の政治的中立の持つ実質的妥当性は明らかにしているが、それはいわば社会学的な説明であって、憲法学的な根拠とはならない。憲法学的には、憲法的価値基準に基づく説明が必要である。

  3 現行国家公務員法の立法経緯

 上述のとおり、戦後、194611月に現行憲法が制定されたが、その背景となったマッカーサー草案を起草したGHQ民政局のケーディス(Charles Louis Kades)大佐等は猟官制を予定していた。そのことが、上述したとおり、憲法15条や734号に現れている。

 問題は、フーバー(Blaine Hoover)を団長とする合衆国人事顧問団(United States Personal Advisory Mission to Japan)の来日にある。その中心人物であるフーバーは、官僚制擁護主義者で反組合的な性格を有していたから、5ヶ月に及ぶ調査活動の結果、19476月に片山内閣に提出した報告は、他の顧問団のように単なる勧告をGHQに対して行ったのではなく、具体的な法律案を作成して、その完全実施を日本政府に迫る、という、第二次大戦後に米国からわが国に来た顧問団としては、かなり異色の活動となった。そして、その完全実施を迫るため、GHQ民政局に新たに公務員課を設け、フーバー自身が初代の課長に収まって睨みを利かせるということになった。

 この法案は、フーバーに法律知識が欠けていたため、すでに成立していた憲法と完全に整合性を欠くもので、独立性の強い中央人事機関(人事院)の設立や、公務員の争議禁止条項を盛り込むこととなった。

 しかし、日本政府によって実際に国会に提出された国家公務員法案では、その中心というべき、人事院の独立的地位を保障する諸規定が削除されており、内閣に完全に従属するものと変化していたから、猟官制を可能とするものということができる。この間の経緯についてははっきりしないが、法案提出時にフーバーが休暇を取って日本を離れていたことを奇貨として、マッカーサー草案を作成したGHQ民政局の中心人物であるケーディスの意向により、このような変更が行われたと見られる。国会は、この法案を、さらに人事院の名称を人事委員会と替えるなど、人事院の内閣に対する独立性を弱める方向に修正した上で、昭和221947)年1021日に成立させた。

 この段階における国家公務員法1021項は次のような文言であった。

「職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与してはならない。」

 すなわち、人事委員会(人事院)規則への白紙委任条項はこの段階では存在していなかったのである。

 これが現在の条文に変わった原因は、いわゆる21ゼネスト(1947年(昭和22年)21日の実施を計画されたゼネラル・ストライキ。決行直前にマッカーサーの指令によって中止となった。)などをきっかけとして、GHQが労働運動に対して批判的に変わったことが大きい。この結果、GHQは国家公務員法の改正を考えるようになり、争議権の禁止に関しては、それを待たずに「内閣総理大臣宛連合国軍最高司令官書簡に基づく臨時措置に関する政令」、すなわち政令201号により規定されることになる。

 この政令201号を、正規の条文の中に取り込むよう、GHQの強い圧力で実施された昭和23年の国家公務員法の第一次改正では、人事委員会の名称を人事院に改め、その内閣からの独立性を強化するとともに、職員の団結権、団体交渉権、争議権とともに、政治活動の自由についても制限が強化されることになり、その一環として1021項に関しても現行のものとなったのである。

 これを受けて、人事院規則14-719499月に公布され、即日施行されることになったのである。同規則は、その後、一度も改正されていない。

 要するに、現行の国家公務員法は憲法理念を受けて制定されたと言うよりも、憲法制定後におけるGHQからの、いわば超憲法的圧力の下で制定(改正)されたというべきであり、そのことを憲法的にストレートに説明することは不可能なのである。人事院及び人事院規則の存在は、先に述べたとおり、憲法15条及び734号に違反しているから、憲法の変遷として説明するしかない法現象と考えている。

(五) 判例の論理

 人事院及び人事院規則については、その様に憲法の変遷があったと考えて合憲とするとして、では、現実の規定の内容は、現行憲法に照らして合憲といえるのであろうか。

 この点については、判例(猿払事件=最大昭和4911月6日=百選第630頁参照)は次のように合憲論を説明する。

「公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もっぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。」

 ここまでは、行政の政治的中立性に関するわかりやすい説明である。いままでの説明を理解していれば、ここで述べられていることは、「能力制を採用しる場合には」という但書を補うべきものであることが判るであろう。すなわち、猟官制を採用している場合には、政治的中立性を要求することなく当然に「議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期」すことが可能だからである。それに対し、能力制を採用している場合には、公務員の地位にいる者が政権党の支持者とは限らないので、政治的中立性が要求されることになるわけである。

 ただ、この限りでは、個々の一般職公務員の政治活動の禁止までを導くことはできない。その職務に忠実である限り、職務を離れてどのような思想信条を持ち、また、それを表明しようとも、毫も非難されるものではないからである。そして、従来問題となってきた公務員の政治行為のほとんどは、勤務時間外に、私人としての立場から行われた行動である。本問もまたその様に作問されている。そこで、後半において、その点をカバーするため、「国民の信頼の維持」ということがいわれる。

「すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。」    

 しかし、行政の中立的運営が行われているということに対する信頼の維持のためには代償なく、基本的人権を侵害することが、なぜ許容されるのかについては、全く論及されていない。

 この点について、次に考えてみよう。

(六) 行政の中立性と裁判の中立性の異同

 行政の政治的中立性に対する国民の信頼の確保という点に関する論理は、全く同一のものを、司法権の独立性に対する政治的中立性という議論の中に見いだすことができる。しかし、裁判官の場合には、非常に限定的な形でしか、政治的基本権の制限は行われていない。すなわち、禁じられているのは、次のような行為だけである。

「国会もしくは地方公共団体の議会の議員となり、又は積極的に政治運動をすること(裁判所法521号)」

 この規定の場合、前半の例示が後半の解釈を拘束するため、解釈の幅は狭いものとならざるを得ない。最高裁平成10121日大法廷決定の場合、国会が制定しようとしている特定の法律に反対する集会において、パネリストとして積極的に発言しようとした行為を巡ってのものであった(百選第6392頁参照)。

 これに対して、一般職国家公務員の場合の国家公務員法1021項は、はるかに包括的である。猿払事件の場合、問題となった事実は、単に選挙用ポスターを各地に貼付して回ったに過ぎない。本問の場合には、政治的ビラを配布して回ったにすぎない。

 この違いの発生原因は様々な点に求めることができ、単一の要因ではない、と考える。一つは、裁判所法は、昭和22年に制定された当初の法文が、フーバーによる検閲を免れて生き残っているという点がある。しかし、国家公務員法の当初の法文と比べても、裁判官に対する制限は弱いものとなっているから、理由がそれだけではないことがわかる。

 それは結局、行政庁と裁判所との権限の差である。すなわち裁判所は、①重要な政治問題に関して自制が要求される、という点及び②裁判所は法の執行、換言すれば合法違法の判断だけに止まる、という点、そして③裁判所の活動は、原則的に法廷という施設内で行われるという点等にあると考える。

 これに対して、行政庁は、第一に、それがどれほど政治性の高い問題であろうとも、司法権の場合と異なり、判断を下す行為を避けてとおることができない。必ずそれを処理しなければならないのである。

 第二に、行政行為において一定の裁量権を行使する必要がある。行政裁量が要求されるということは、行政庁は、単に合法な行為をすればよいのではなく、その時点における社会状況の中でもっとも妥当な行為をしなければならないことを意味する。換言すれば、政治的判断を下す必要に迫られる。その判断が、一党一派に偏せず、客観的に公平な立場から行われている、という信頼は、このような場合、きわめて重要なものとなってくる。

 第三に、社会国家現象がある。社会国家は、個々の国民に関する膨大な情報を蓄積し、それをもとに、私人間への積極的な介入を行う。しかも、それに当たり、必ずしも法律の根拠を要しない。こうした強大な権力が、政治的に利用されるときは、精神権的自由権の保障などはほとんど意味を失うほどの、強大な影響力を発揮することは明らかである。しかも、その場合に、行政庁の活動は、行政庁の庁舎内に限定されることはほとんどない。広く、社会の中で活動は展開されるのである。

 こうして、ある公務員の政治活動が、行政官としての地位を利用した活動で、国民の行政に対する信頼を害するおそれがあるものなのか、純然たる私人としての活動なのかは、必ずしもその外形からでは判別できない、という問題が生じてくる。このため、私人としての活動もまた一定の規制を行うことが、必要となってくる。それは、公務員がその地位を利用して、一般国民に自らの政治信条に従うように有形、無形の影響力を行使することの禁止である。

 このように考えてくると、一般職公務員は、その職務の持つ公共性の故に、政治的自由権を一定範囲で認められないのは、その業務の性質そのものということができる。そして、その中でも最も重要なのは、行政裁量権の存在であると考える。裁量権の有無こそが、司法権と行政権の行使面における最大の相違だからである。しかし、その場合でも、必要最小限度の規制に止まるべきなのは、それが代償を伴わない規制という点からも当然のことといえる。

四 審査基準の一般

 人権を、裁判を通じて救済しようとする場合には、憲法訴訟という枠組みを通す必要がある。その結果、人権論の問題では、常に審査基準論が最大の争点となる。

 この節に述べていることは、本問の論点、というより、論点の論理的前提というべき一般論であるが、諸君の知識が欠落している可能性が高いと思われたので、説明する。

(一) 文面審査・文面違憲

 司法権による違憲審査は、その自制の要求から、その事件を解決するのに必要な限度においてのみ行使されるのが原則である。つまり、その事件の限りで憲法を適用し、その結果違憲という結論が出た場合にも、その事件の限度で違憲を宣言する(適用違憲)。

 しかし、21条の保障する精神的自由権や31条の保障する適正手続き保障の場合には、少々事情が異なる。それらを規制する立法が過度に広汎であったり、犯罪構成要件が不明確である場合には、そのまま放置すると、国民は自分のどのような行為が禁止されているのかが判らず、萎縮して、本来許容されている行を行う事も避けるような事態が発生してしまう(萎縮効果=Chilling Effect)。そこで、裁判所は憲法保障機能を発動し、具体的事件の審査に先行して、その法律の文言それ自体を審査し(文言審査)、その段階で違憲という結論が出た場合には、具体的な事件審査に入ることなく、違憲を宣言する(文面違憲)。

 その場合、やむにやまれぬ利益や国の重大な利益を判断基準として、代償を提供することなく権利を制限する場合の一般論として、最小限度規制の要求が現れる。そして、個々の場合において、最小限度の規制か否かを判定する一番簡便な方法は、LRA基準に従って判断することである。

(二) 適用審査・適用違憲

 文面審査の結果、問題が無ければ、原則通り、適用審査を行う。

 個々具体的な場合の審理基準は、通常の政治的自由権であれば、精神的自由権の一環として厳格な審査基準となるはずである。しかし、公務員の場合には、基本的な制約可能性が推定されるから、基準も一段階緩和されると考えるべきであろう。すなわち、厳格な合理性基準のもとに、政府としては、国の重大な利益に関わることが証明できれば、規制の必要性を論証できたものと考える。猿払事件最高裁判決が、厳格な合理性基準を採用しているのは、その意味で支持しうると考える。

五 憲法31条と明確性審査

 文面審査の具体例として、徳島市公安条例事件最高裁判決(昭和50910日大法廷判決=百選第6186頁)が31条違反の場合について、述べていることを見てみようた。

「本条例33号の『交通秩序を維持すること』という規定が犯罪構成要件の内容をなすものとして明確であるかどうかを検討する。

 右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。〈中略〉交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがあるといわなければならない。」

 しかし、それにも関わらず、合憲とした。それは次の様な理由である。

「およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。〈中略〉それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」

 本問の人事院規則14-7の場合、その文言は極めて明確であると考えられるので、その限りで問題は無いということができる(実は最後に述べる適用違憲の問題があるので、本当に明確と言えるかどうかは確言できないが、差し当たりは問題なしとして、先に進む)。

六 憲法21条と過度の広汎性審査

(一) LRAテスト

 憲法21条に関し、過度の広汎性故に無効の法理の適用可能性を判断するに当たって、重要な役割を担うのがLRAテストである。

 LRAテストを使用するに当たっては、現行国家公務員法の規定についていえば、地方公務員法36条との比較が重要性を持つ。提出された立論を見る限り、そもそも地方公務員に対する政治的基本権の制限が、国家公務員の場合と違っていることを知らない人が多いのではないかと考え、念のため、同条をここにそっくり紹介する。

1 職員は、政党その他の政治的団体の結成に関与し、若しくはこれらの団体の役員となつてはならず、又はこれらの団体の構成員となるように、若しくはならないように勧誘運動をしてはならない。

2 職員は、特定の政党その他の政治的団体又は特定の内閣若しくは地方公共団体の執行機関を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、あるいは公の選挙又は投票において特定の人又は事件を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、次に掲げる政治的行為をしてはならない。ただし、当該職員の属する地方公共団体の区域(当該職員が都道府県の支庁若しくは地方事務所又は地方自治法第252条の191 の指定都市の区に勤務する者であるときは、当該支庁若しくは地方事務所又は区の所管区域)外において、第一号から第三号まで及び第五号に掲げる政治的行為をすることができる。

 公の選挙又は投票において投票をするように、又はしないように勧誘運動をすること。

署名運動を企画し、又は主宰する等これに積極的に関与すること。

寄附金その他の金品の募集に関与すること。

文書又は図画を地方公共団体又は特定地方独立行政法人の庁舎(特定地方独立行政法人にあつては、事務所。以下この号において同じ。)、施設等に掲示し、又は掲示させ、その他地方公共団体又は特定地方独立行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し、又は利用させること。

 前各号に定めるものを除く外、条例で定める政治的行為

3 何人も前二項に規定する政治的行為を行うよう職員に求め、職員をそそのかし、若しくはあおつてはならず、又は職員が前二項に規定する政治的行為をなし、若しくはなさないことに対する代償若しくは報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益若しくは不利益を与え、与えようと企て、若しくは約束してはならない。

4 職員は、前項に規定する違法な行為に応じなかつたことの故をもつて不利益な取扱を受けることはない。

5 本条の規定は、職員の政治的中立性を保障することにより、地方公共団体の行政及び特定地方独立行政法人の業務の公正な運営を確保するとともに職員の利益を保護することを目的とするものであるという趣旨において解釈され、及び運用されなければならない。

 すなわち、同条は第1項で裁判官類似の積極的政治活動の禁止を定め、第2項ではかなり限定的に列挙したものに限定し、それ以外には条例という民主的根拠のある場合に鍵って制限を肯定するという姿勢をとる。地方公務員と国家公務員の非政治性の要求は本質的に差異はないはずなのであるから、LRAテストからすれば、国家公務員法102条の規定は、当然に過度に広汎と判定されるはずであり、したがって違憲という結論が自動的に導き出されることになる。

(二) 公務員の分類

 ではどの限度の規定ならば許されるのであろうか。すなわち、地方公務員法の規定を国家公務員法に移植すれば、それで問題は解決するのであろうか。

 否定的に解したい。すなわち、一般職公務員のすべてについて一律に規制する、という姿勢を示している点において、地方公務員法もまた、過度に広範な規制を行っていると評価されるべきである。労働基本権の場合には、法律そのものが、現業部門の労働者、狭義の一般職公務員、警察等職員という三分類を行って、制限の程度に差異を設けていた。より制限の許容度の高い労働基本権でさえも、このような職務内容に応じた制限態様の区分が行われていることを基準に評価するならば、少なくともそれと同様に、その職務内容に応じた分類が行われていない限り、実質的内容を検討するまでもなく、違憲と評価することを、LRA基準は要求する、と解すべきである。

 このことは、従来から多くの論者の指摘してきたところである。本問において、わざわざ「裁量権のない機械的労務を提供している国家公務員」という表現が使われている、ということは、このことを論点にするように、という明示的な要求と考えるべきである。

 しかし、従来、これは抽象論に止まり、管見の限りでは具体性ある基準の提示は試みられていない。このことが、従来学説の厳しい批判にも関わらず、政治的基本権に関して見直しが行われようとしなかった一つの原因であろうと思われる。

 諸君に対する説明の域を超えていることを承知の上で、以下にその試論を示す。

  1 現業部門の労働者

 国営企業労働者の場合には、以上に述べたような政治的中立性に関する公務員業務の特徴を認めることはできない。その業務は、法に従った機械的な内容のものだからである。したがって、国営企業労働者については、管理職と否とを問わず、政治的基本権の制限は違憲と考える。したがって猿払事件の場合、最高裁判決は明らかに適切ではない。

  2 警察等職員

 警察等職員の場合には、それが侵害行政の主体として、第一線に立つ者の場合にも広範な行政裁量権が承認されることを考えると、その政治的自由権が一般に大幅な制限を受けることは承認されざるを得ない。ただし、その場合でも、国家公務員法の委任を受けて制定されている人事院規則の各条項が具体的妥当性を有するかは、個々の場合に応じて判断されなければならないのは当然のことである。なお、ここで警察等職員と呼んでいるのは、労働基本権の場合と異なり、警察庁以下のいわゆる警察官や海上保安庁の職員ばかりでなく、行政法学上、警察行政の主体となる者、例えば労働基準監督官とか保健所の立ち入り検査を担当する者などのすべてを意味している。そのすべてが侵害行政の第一線に立つものという意味において、先に指摘した政治的基本権制限の要件を満たしているからである。同様のことは、税務署職員についても考える余地があるのではないかと思われる。

  3 狭義の一般職公務員

 現業公務員と警察等職員の中間に位置する、狭義の一般職公務員の場合には、労働基本権の場合と異なり、一律に論じることはできないと考えられる。行政職第二表に属する職員や研究職公務員、医療職公務員のように、行政裁量権を原則的に対国民的関係において有していない者は、現業公務員と同様に、政治的基本権の制限は否定されるべきであろう。

 行政職第一表の職員の場合にも、必ずしも行政裁量権を有するとは限らない。管理職は一般に裁量権を有するといえるが、それが、内部関係にとどまる限りは、ここでの問題にはならない。

 逆に、非管理職であっても、対国民的な関係において裁量権を法律上、あるいは事実上有する場合には、政治的基本権の制限が承認されるべきであろう。ただし、その場合に、現行法制における規制がすべてそのまま妥当するかについては、警察等職員の場合と同様に、個別的な審理が必要になると考える。

七 適用審査

 従来であれば、この前まで論じてくれれば十分に合格立論であった。しかし、本問のベースとなった東京高裁平成22329日判決が、大変注目すべき見解を打ち出したので、本問では、その点を念頭に置て議論を展開する必要が生じた。

 同判決は、猿払事件最高裁判決を前提とした上で、この具体的事件において、被告人を救済する道を探り、適用違憲という見解を示したのである。

 まず文面審査においては次の様に述べる。

211項の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤を提供し、国民の基本的人権の中でも特に重要なものであるから、上記自由の一形態としての政治活動ないし政治的行為をする自由は、国民の一員である国家公務員に対しても、可能な限り保障される必要がある。しかるに、本法及び本規則による公務員の政治活動の禁止は、対象とされる公務員の職種や職務権限、勤務時間の内外等を区別することなく定められている上、政治的行為の態様についても、地方公務員法と大きく異なることなどに照らし、過度に広範な規制とみられる面があることや、現在の国民の法意識を前提とすると、公務員の政治的行為による累積的、波及的影響を基礎に据え、上記禁止規定が予防的規制であることを強調する論理にはやや無理があると思われる面があり、本件罰則規定を全面的に合憲とした、猿払事件最高裁大法廷判決の審査基準である、いわゆる「合理的関連性」の基準によっても全く問題がないとはいえないものがある。しかしながら、その規制目的は正当であり、また、公務員の地位や職種等と関係することなくその政治的行為自体で、あるいは、政治的行為が集団的、組織的に行われた場合など、その規制目的に明らかに背馳するものも幅広く考えられること、さきの過度の広範性ゆえに問題のある事例については、本件罰則規定の具体的適用の場面で適正に対応することが可能であること等を考えると、本件罰則規定それ自体が、直ちに、憲法211項及び31条に違反した無効なものと解するのは合理的でないと考える。」

 この下線部の主張が次の議論を引き出すポイントである。これを受けて次の様に論じるのである。

「本件配布行為について、本件罰則規定における上記のような法益を侵害すべき危険性は、抽象的なものを含めて、全く肯認できない。したがって、上記のような本件配布行為に対し、本件罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、これを処罰の対象とするものといわざるを得ず、憲法211項及び31条に違反するとの判断を免れないから、被告人は無罪である。」

 これは、なぜ21条違反に文面審査が求められるかが判っていない論理という批判を免れない。その点について、判決は次の様に反論している。

「このような当裁判所の判断については、どこまでの政治的行為が許されるのか、その基準が明確ではなく、いわゆる萎縮効果を防ぐことができないから、法令違憲という結論を出すべきであるとの批判がなされると考えられる。その批判にはもっともな面もあるけれども、当裁判所の審理対象は本件配布行為であって、それ自体については合憲、違憲の判断が可能であるが、さらに、本件罰則規定全体が想定する政治的行為について、どのような場合に違憲状態が生じるかを判断することは事実上極めて困難であり、萎縮効果を防ぐことができないとして、全面的に違憲とすることは、あまりにも乱暴な議論であって、先にも触れたように、その結論は事例の集積をまって判断すべきものであると考える。」

 私としては、あまり成功した反論とは思えないが、猿払事件最高裁判決の重圧の下で、何とか被告人を救済しようと努力した点は評価すべきであろう。

 そして、最高裁判所第二小法廷平2412月7日判決は、次の様に述べて、この努力を肯定したのである。

「本件配布行為が本件罰則規定の構成要件に該当するかを検討するに、本件配布行為が本規則6項7号、13号(5項3号)が定める行為類型に文言上該当する行為であることは明らかであるが、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものかどうかについて、前記諸般の事情を総合して判断する。」

 そして、種々検討の上、次の様に結論した。

「これらの事情によれば、本件配布行為は、管理職的地位になく、その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって、職務と全く無関係に、公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり、公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでもないから、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると、本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである。」

八 まとめ

 諸君としては、この問題に対して、丁度適合する最高裁判所判決がある以上、それに準拠して立論をしたい誘惑に駆られるであろう。

 しかし、それはかなりのギャンブルである。

 第一に、これは21条や31条に関する文面違憲を支える萎縮効果を無視した理論である。したがって、これを選択した場合には、当然、その点に関して質問が集中するはずである。それに耐え抜けるだけの自信が無いと悲惨な結果が待っている。

 第二に、最高裁判所判決が最終的に無罪とした理由を分解すると、最高裁判所は、公務員の政治的基本権制約をしないための要件として、次の諸点が全て必要だと考えていることが判る。

① 管理職的地位にないこと

② 職務の内容や権限に裁量の余地のないこと

③ 職務と全く無関係であること

④ 公務員により組織される団体の活動でないこと

⑤ 公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでないこと

 ここで気をつけなければならないことは、君たちはこれをこのまま引用すると、同じく質問の集中砲火を浴びるはずだということである。

 何時も強調するように、論文は、理由が命である。ところが、この最高裁判所判決にはまったく理由が書かれていない。最高裁判所の権威があれば、それで押し通すことが可能であるが、諸君が自説として、それを述べた以上は、質問に対してその理由を応えねばならない、ということである。だから、最高裁判所が述べていない理由を諸君は予め、一つ一つ考えておかねばならない。

 さらに警告する。最高裁判所は、これだけの要件が必要だと述べたけれど、それが本当かどうかは判らない、ということである。