日本大学法学部 甲斐素直ゼミナール vol.15

   


目                  次
 

 

甲斐 素直

 

先生

 

日本国憲法第9条とハワイ

14期生

松本 貴之

 

オリオン座の素顔  

 

 

岡本 有希子

 

感謝の気持ち     

 

 

小宮山 貴之

 

ニコニコ動画について

 

 

染野 絢  

 

趣味がもたらすもの 

 

 

高岡 隆一

 

少子化について  

 

 

中坪 憲一

 

最近、思う事      

 

15期生

   斉藤 千士

 

スコッチ 

 

 

千葉 雅康

 

がけっぷち

        

 

岡田 明子

 

私の時計のなかの住人R

 

阿倍 真吾

 

夏の甲子園決勝 

    

 

荻原 康之

 

好きなもの 

       

 

中塚 充  

 

眠れない夜に 

     

 

深沢 強兵

 

テーマが自由ってことなんで本当に自由に書いてみました

 

藤野 裕基

 

無題 

           

   船水 友貴

Time is money?

 

 

 


本年度甲斐ゼミを振り返って(15期限定)

編集後記

 

 

 

 

 

 

日本国憲法第9条とハワイ

甲斐素直

1 はじめに

 今年(2007年)の全国憲法研究会(日本の憲法学者の大多数が参加している学会です)は、香川大学で開かれました。その中で、新しい研究手法という意味で、面白く感じたのが成城大学の佐々木弘道という若手の研究者による「非武装平和主義と近代立憲主義と愛国心」という報告でした。この報告はそのタイトルにあるように、憲法9条の採用している非武装平和主義について論じたもので、取り上げたテーマとしてはそう新味のあるものではありません。しかし、普通、法律学の論文や報告は、他の人の論文等を参照しながら、自分の考えを述べる(要するに主観を押し出す)というスタイルで行われるのですが、この報告は、論理学の手法を利用して、客観的な論証になるよう努力したという点で、非常にユニークなものでした。

 すなわち、佐々木氏は、この問題に関して二つの規範が存在していると論じます。その二つとは、規範X=戦力不保持、及び規範Y=国民の生命・財産等(プロパティ)を保全する、というものです。そして、規範Xと規範Yが両立することを示せれば、規範Xが妥当であり、近代立憲主義と整合する、と結論づけら得る、という前提の下に、様々な場合を分けて、そのいずれでもこれが成立する、と論証するものでした。

 今後、若手の間では、こういうスタイルの論文がはやるかもしれない、と思わせる迫力のあるものでした。

 その論証は、多くの点でなるほどと納得のいくものでしたが、一つだけ、私として、はっきり間違っていると感じたのが、敵国に現実に攻撃された後の対応でした。その場合には、結論的にいうと、全く抵抗せずに速やかに降伏することが、その後の人々の幸福を最大化すると論じているのです。

 ここで、彼の論証が誤っていると考える最大の理由は、敵国に占領されている状態というものの辛さが、議論から抜け落ちているのです。実は、このような議論は、これが最初ではありません。1980年代に活発に議論された時にも、論敵から「白旗論」と揶揄された無抵抗降伏論が強く主張されました。そして、国民の生命を軽視した国防論よりは、はるかに賢明で現実的な選択だと評価されたりしました。

 なぜこのような議論が出てくるかというと、わが国戦後の米国による占領が、それに先行する軍国主義の時代、あるいは戦争中の苛烈な経験に比べて、遙かに幸福な時代であり、さらにその時代が、わが国の経済大国への発展の礎を築いたからです。確かに、占領というものが、常にそのような性格のものであれば、白旗論というものは高く評価されて良いでしょう。しかし、わが国の戦後というものは、様々なファクターが交錯して生まれた世界史の中でもきわめて希有な事件と考えるべきで、それを一般化するべきではない、と私は考えます。

 それはどのようなファクターかといわれて、その論証を始めると話が長くなり、ここで述べようとしている議論から外れてしまいます。だから、ここでは、そのファクターの中核的な要素として、わが国戦時における玉砕戦法の存在と、戦後に生じた冷戦~朝鮮戦争の存在を指摘しておきます。後者については自明のことと思うので、前者についてだけ簡単に説明すると、米軍は、日本が徹底抗戦に踏み切った場合、現実に日本占領に投入された20万人の軍隊に代えて、少なくとも百万人の軍隊の投入と、それに伴って、沖縄戦で発生した死傷者の数十倍に達する犠牲を覚悟した作戦を立てていました。日本の戦後における米軍の穏和な統治は、そうした強攻策に伴い発生する膨大な人的物的犠牲に対するコンパチブルな代替策として存在していたのです。現行憲法に天皇制が温存され、また、マッカーサーがほとんど自分が盾になるようにして昭和天皇を戦犯として訴追することを妨げたのは、天皇制を廃止し、あるいは昭和天皇を戦犯として処刑することが行われれば、日本国民からの玉砕的な攻撃を誘発する危険があり、そのような事態が発生した場合には、この時点では、日本全土に広く薄く展開されていた20万人の米軍は、全滅する危険があると、マッカーサーが認識していたからに他なりません。

 したがって、それらのファクターの存在しない状態、特に無抵抗降伏が発生した結果、発生した占領状態の場合には、決して戦後日本で見られたような、穏和な統治を期待することは、通常はできないと考えるべきです。そのことは、同じ米国が侵略によって占領したハワイやフィリピンにおいて、如実に見ることができます。

2 ハワイの場合

 ハワイは、まさに非武装国家であり、しかも米国の攻撃に対し、全く無抵抗で降伏した、という意味において、佐々木報告が取り上げた問題に対する、生きた回答です。そこで、以下では、ハワイの事例を詳しく検討することにより、無抵抗降伏が、規範Xと規範Yの両立を否定する実例となることを示したいと思います。

 ハワイ王国は、キャプテンクックの到来によって生じた文化的衝撃をすばやく的確に受け入れたハワイ島のカメハメハによって、1810年に建国されます。カメハメハ王朝は5代続きましたが、そこで後継者が無くなったために、議会によって当初ルナリオという人物が国王に選出されました。しかし、彼もわずか2年で死亡し、やはり後継者がなかったために、議会が新たな国王を選出しました。

 それがカラカウアです。今、ワイキキのメイン・ストリートであるカラカウア・アベニューは、彼の名にちなんだものです。その通りが始まるところ(クヒオ・アベニューとの交差点)に彼の銅像が建っています。彼は欧米の文化の圧倒的な影響に抗して、ハワイ人としてのアイデンティティを確立しようとした最初の国王です。芸術的感性も優れていました。現在、ハワイの州歌とされている「ハワイ・ポノイ(ハワイ固有の人々)」というハワイ語の歌は、このカラカウア王が、人々の愛国心を鼓舞しようと作詞したものす。また、現在、ハワイ州最高裁判所の前に立つカメハメハ大王像も、同じ目的から、彼の戴冠式にあわせて建設させたものです。

 彼は、米国の圧力に負けて、1875年に米国との間に互恵条約を締結します。これは、我が国の江戸幕府が1858年に米国と締結した日米通商条約と同様の、互恵とは名ばかりの不平等条約でした。具体的には、真珠湾の使用権を米国に独占的に認め、また、米国との間の関税をゼロとしたなどの内容だそうです。その結果、それまでの段階で、すでにハワイ経済を支配していた米国人実業家の勢力はいっそう強まり、国王は、政治的には無力となってしまいます。

 そこで、その劣勢を挽回し、米国勢力を排除しようという努力の一環として、1881(明治14)年に世界旅行を行って、各国に働きかけをしました。その途上、日本にも来て、日本との間の不平等条約を世界で始めて廃棄し、同時に日本からの移民を要請しました。現在、ハワイに居住する膨大な数の日系人の移民は、この時から始まったのです。また、日本の皇室との婚姻政策により、日本との政治的統合を目指したことでも有名です。すなわち、姪の、この時5歳のカイウラニ王女と15歳の山階宮定磨親王(後の東伏見宮依仁親王)の婚約を行おうとしたのです。しかし、当時の日本は、ハワイ以上に米国を恐れなければならない状況にあったので、この提案を受け入れる余裕はありませんでした。もし受け入れていたら、少なくとも太平洋戦争が、真珠湾奇襲で始まることはなかったかもしれません。

 カラカウアが志し半ばで1891年に死亡すると、カラカウアの妹で、その最近親であったリリウオカラニ(1838生まれ~1917年没)が、53歳で王位に就きます。彼女は、芸術面では名曲「アロハ・オエ」を作曲したことで知られます。兄妹2人とも音楽的感性が優れていたようですね。彼女は、兄の遺志を継いで、白人支配からハワイ人に実質的に政治権力を取り戻すべく、精力的に活動します。しかし、上述の米国との不平等条約を撤廃しようと強硬手段にでたところ、米国系実業家達グループは、米国海兵隊の支援を得て1893117日、クーデタを起こし、彼女をイオラニ宮殿に幽閉し、ハワイ王国は滅ぼされてしまったのです。

 米国連邦政府は、この米国人クーデタが起きた1893年からちょうど100年経った記念の年である1993年に、ハワイ王国への侵略に対する正式の謝罪を、議会の決議という形式で行っています。この決議は、合衆国公法103-150号として議会を通過し、19931123日にクリントン大統領が署名して、正式に発効しています。この決議は、かなり長文のものですが、その中から、この日のリリウオカラニの行動を描いた下りを引用してみましょう。

1893117日、合衆国政府は、ハワイ王国の主権と独立を侵害し、合衆国市民を含む非ハワイ人系居住者からなる少人数のグループとの間の共謀により、固有で合法的なハワイ政権を打倒することを企てた。リリウオカラニ女王は、抵抗に伴う流血の危険を知らされると直ちに、仮政府ではなく、合衆国政府に対して彼女の権限を委譲する次の声明を発した。

『神の恩寵とハワイ王国の憲法に基づき、その女王であるリリウオカラニは、ここに、この王国の仮政府を樹立するよう要求する特定人に対し、私自身とハワイ王国の憲法に基づいた政府に対して行使されたすべての行動に関して、厳重に抗議する。

 私は、米国合衆国全権大使ジョン・L・スチーブンスが合衆国軍隊をホノルルに上陸させ、地方政府を支援するであろうと声明したことによる圧倒的な武力に屈服する。

 武力によるあらゆる混乱、特に生命の損失を回避するため、抗議と上述の武力による強制の下に、合衆国政府がその代表者達の行動を取り消し、私をハワイ諸島の憲法に基づく主権者の地位に事実として復権させるその時まで、合衆国政府に対しわが権限を委譲する。

1893117日 女王リリウオカラニ』

 合衆国の外交及び軍事による積極的な支援及び介入がなければ、リリウオカラニ女王の政府に対する反乱は、民衆の支援がないことと不十分な武力のために失敗したであろう。」

 この日、リリウオカラニが、まさに佐々木報告が論じたとおり、国民の生命・財産を守るために、無抵抗で降伏したことが、この声明に端的に表れています。また、この当時のハワイ王国が、ホノルルにたまたま停泊していた米国艦に乗っていた一握りの海兵隊でされも「圧倒的な武力」と感じられる程度の軍隊しか持たない国、要するに事実上の非武装国家であったことも、この声明に明らかです。

 では、この無抵抗降伏により、ハワイ王国は救われたでしょうか? 残念ながら、そうならなかったことは、百年以上もたった今日、なお、ハワイは米国の一部であるという事実に明らかです。

 ここでは、もう少し、ハワイのその後を紹介してみましょう。

 白人たちは、こうしてまずハワイの実権を掌握した後、米国にハワイの併合を求めました。しかし、米国はこの時点ではハワイを戦略的に重要とは考えていませんでした。その上、イギリス留学中の妙齢の美女となっていたカイウラニ王女が急遽米国に駆けつけ、すばらしい英語でクーデタ側の非道を訴えた結果、世論をハワイ王国寄りに動かしました。これらのことなどから、クリーブランド大統領は併合を受け入れず、逆に王政復古を求めました。先に引用した謝罪決議は、クリーブランドの行動について次のように述べています。

18931218日のグローヴァー・クリーブランド大統領の議会に対する教書では、完全かつ正確に、反乱者の違法行為を報告し、その行動は、『議会からの授権を得ることなしに、合衆国代表である外交官が参加して行われた戦争行為である』と述べ、それにより平和で友好的な政府が打倒されたと認めている。クリーブランド大統領は、さらに『本質的な悪がなされた。我々の国家の性質及び虐げられた人々の要求に基づき、我々は事態の修復に努めなければならない』とし、ハワイ王国の復権を求めている。」

 ここで、リリウオカラニ女王は、米国の正義を信じるあまり、判断ミスをしました。彼女は、クーデタ首謀者の死刑及び財産没収を主張して譲らなかったのです。彼女を復権させると、犯罪者とはいえ米国人が死刑になると知ると、とたんに米国は態度を変えた結果、米国の支持を背景にしたハワイ王朝の復活案は挫折します。

 しかし、クリーブランド大統領はハワイを併合しようとはしなかったことから、やむを得ず、クーデタを起こした白人たちは、1894年に、判事のサンフォード・ドールを大統領とするハワイ共和国を建国しました。1898年に、クリーブランドに代わって米国大統領に就任したマッキンリーは、米西戦争の影響で太平洋に活動拠点を得る必要を痛感したことから、前代とは方針を変更し、ハワイ併合を承認しました。

 これに対し、リリウオカラニは復権を目指して米国にわたり活動しますが、失敗に終わり、逆に王位の破棄を完全に認めさせられています。こうして、ハワイ人による国家は、米国の手により、終焉を迎えました。

 カラカウア・アベニューと並ぶ、今ひとつのワイキキのメイン・ストリートであるクヒオ・アベニューは、ジョナー・クヒオ・カラニアナオレ王子(1871年生まれ~1922年没)の名前に由来します。彼はカラカウア王の妻であったカピオラニ女王の甥でした。ハワイの主権復活を願っていた彼は、米国への併合後もリリウオカラニ女王の王位復活を試み、失敗して反逆罪で1年間投獄されたりしました。ハワイが、準州としての地位を認められるようになると、1902年から1922年までハワイ代表として米国議会へ派遣され、ハワイ人のための土地を確保する法律を議会に通過させるなどの活躍をしたため、「ケ・アリイ・マカ・アイナナ(庶民の味方)」と呼ばれました。その死後、所有地をホノルル市郡に寄付しました。それが、ワイキキビーチの東半分を構成しているクヒオビーチです。そこに、彼の銅像もあります。

 いまや、ハワイは米国の立派な州として認められたのだから、無抵抗降伏は意味があったのではないか、と思う人もいるかもしれません。しかし、それは間違いです。

 今、ハワイに生きる人々の中で、リリウオカラニ女王が守ろうとしたハワイ原住民の数は、ほんの一握りに過ぎません。ハワイ王国建国時点でハワイにいた人々の子孫(これがハワイ原住民に対して与えられた法的定義)にサモア、トンガ、グアムなど他の太平洋の島々から来たポリネシア人人口を加えても、2000年の国勢調査によると、113,539人に過ぎないのです。ハワイの総人口は約120万人ですから、本来、支配者であるべき原住民は1割未満の少数派に転落しているのです。しかも、これは過去100年間、減る一方です。もっとも、ハワイ系混血まで加えると、25万人程度の数字になります、それでさえも4分の1に満たない少数派であることに変わりはありません。

 しかも、彼らはハワイ社会の最下層を構成しており、貧困にあえいで、満足な教育を受けることもできずにいます。なぜそうなのか、ということを、一つの判りやすい例として、マウイ島における水問題を通じて、見てみましょう。

 ハワイ諸島は、水の豊かなところです。なぜなら、貿易風帯に位置している結果、東から西に、数千キロの海上を渡ってきて、十分に水分を含んだ風が年間を通じて吹き付けて来るからです。例えばマウイ島の最高峰、ハレアカラ山の風上側の山肌に広がる熱帯雨林では、年間に7500mm、つまり7m50cmもの降水量があるといわれます。この豪雨が、山腹を流れ下り、数多くの美しい渓谷を作り上げています。このため、マウイ島は、別名を谷の島(valley island)といいます。昔のハワイ人は、この豊富な水量を誇る河川の水に依存して生きていました。

 ところが、米国に占領された結果、彼らはこの水を失ったのです。米国支配下で、ハワイは典型的なプランテーション農業となりました。特に砂糖黍の栽培が一時期は大変盛んでした。日本からの大量の移民は、その砂糖黍プランテーションにおける労働力として海を渡っていったのです。

 砂糖黍は非常に水を必要とする植物です。1kgの砂糖を生産するために必要な水の量は、4トンに達するといわれます。そこで、プランテーション経営者達は必死になって、河川の水の有効利用体制を整備しました。マウイ島に流れる多数の河川の8割までが、その流れる水の約4分の3まで利用され、海までながれ下る量はほんのわずかといわれます。特に深刻なのが西マウイにあるイアオ川(Iao River)など、かつてマウイで四大河川(ハワイ語でNa Wai `Ehaという語の直訳です)といわれたもので、現在では、大半の時期は川底は干上がり、大雨が降った時にのみ水流が見られるほどに、水が搾り取られています。

 しかし、ハワイの砂糖産業は、キューバなどさらに安い生産地との競争に敗れ、今や操業しているプランテーションは全くありません。それなら、マウイ島の河川に水は戻ってきたのでしょうか。いいえ、マウイ島の水事情は依然として深刻です。なぜなら、プランテーションが砂糖の生産を止めても、プランテーション会社は有している水利権は手放さなかったからです。それらの会社は、いまや水の販売会社に変身しているのです。そこから、金に糸目をつけずに水を購入できる高級ホテルやゴルフ場には、水不足の問題はありません。そして、買い手がつかずに余った水は、かつてのプランテーションの跡地に流れ込み、無駄に蒸発しています。

 これが、先祖からこれらの河川の水に頼って生活してきたハワイ原住民の生活を直撃しています。特に農業用の灌漑用水の不足は、今日でもきわめて深刻です。また、河川に水が全くない、ということは、かつてその河川で釣りその他を行って生計を維持していたハワイ原住民の生活を根底から破壊する侵害行為であったという問題もあります。彼らが伝統的な生活を取り戻すためには、河川にいつでも水が流れるようにしなければいけないのです。

 そこで、ハワイ大学法科大学院の環境問題専門家は、すでに操業していないプランテーションを、大規模に閉鎖するように主張しています。過去の権利の一部を手放すように調停が申し立てられましたが、水会社側は全く取り合わず、調停は成立しませんでした。そこで、環境運動家達は、ハワイ州水法(The Hawai`i Water Code)が水の浪費を禁じていることに着眼し、今後は、企業にこの水という公的資源を、私的利益のために浪費することを止めさせるための行政訴訟に訴える予定です。しかし、現在の米連邦最高裁は、環境訴訟には保守的な傾向があります。州裁判所では、連邦最高裁の判例の枠内でしか問題を取り扱えません。したがって、この訴訟の先行きは、決して楽観を許しません。

 このような例は、これ以外にも多くの場合に見出すことができます。要するに、米国の占領下にあって、ハワイ原住民は生活基盤を破壊され、着実に滅亡に追い込まれているのです。何とかこの流れを逆転させようと、ハワイ州政府は様々な施策を講じていますが、滅亡への流れを変えるほどの効果は出ていません。先に示した謝罪決議にしても、それはあくまでも謝罪であって、それに伴って、ハワイの独立を認めようとか、せめてハワイ原住民に、米本土のインディアン並みに、自治権を有する居留地の設置を認めようという話すら、実現する見込みはありません。最近では、2005年にハワイ選出のダニエル・アカカ(AKAKA)上院議員が、同僚であるイノウエ上院議員と共に、ハワイ先住民政府再編成法(Native Hawaiian Government Reorganization Act of 2005)を提出し、成立させようとしましたが、審議もされずに不成立に終わっています。

3 フィリピンの場合

 1898年にハワイを占領・併合した米国マッキンリー大統領は、ほぼ同じ時期に、フィリピンも占領・併合しています。すなわち、米国は、当初はフィリピンのスペインからの独立を援助するため、と称してフィリピン人のスペインからの独立戦争に介入し、189851日にマニラ湾の戦いでスペイン艦隊を撃破しました。これに力を得て、フィリピン人は同年612日に独立を宣言し、エミリオ・アギナルドを大統領にしました(第1共和国)。ところが、マッキンリー大統領は、ハワイと同様に、フィリピンも植民地にするつもりでしたから、この独立を認めません。814日には11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られました。これに対し、フィリピン人はハワイ人のように無抵抗降伏をするどころか、激しく抵抗しました。米国の有する圧倒的な武力に比較すれば、フィリピン共和国も事実上非武装国家であった点は、ハワイと一緒です。それにも拘わらず激しく抵抗した結果、この時期に米国軍によって虐殺されたフィリピン人は60万人に達しました。この大量虐殺により、武力抵抗は一応は鎮静化しましたが、その後も抵抗はやまず、扱いかねた米国は1916年にフィリピンに自治を認め、さらに1934年には、10年後の完全独立を約束したのです。実際には、第二次大戦開始と共に日本軍が侵攻し、その影響下に1943年に独立国となり、ホセ・ラウレルが大統領になりました(第2共和国)。1945年の日本敗戦に伴い、いったんは米国領に復帰しますが、米国も、それ以上フィリピンで植民地支配を続けることは不可能であったため、結局1946年に独立が認められて今日に至ります(第3共和国)。

4 結論

 短期的に見れば、全く流血の惨事を招かなかったリリウオカラニ女王は名君であり、これに対し、60万人もの犠牲をだしたアギナルド大統領は、彼我の実力差も理解できない暗愚な大統領というべきでしょう。ここまでで分析を止めれば、佐々木報告の分析は正しいものといえます。

 しかし、ではなぜ、同じ時期に、同じ米国から、同じように一方的に侵略されていた両国でありながら、フィリピン人は60年以上も前に独立を回復できたのに、ハワイ人は今日に至るも独立どころか、自治権回復の見込みすら存在せず、緩慢に滅亡しようとしているのでしょうか。答えは一つしかありません。ハワイ人は無抵抗降伏したのに対し、フィリピン人は60万人の犠牲者を出すほどに激しく抵抗を続けたからです。60万人の尊い犠牲者こそが、米国に長期的な植民地支配を断念させた理由であり、したがってフィリピンの今日の独立の礎なのです。もし、フィリピン人がハワイ人と同様に無抵抗降伏していたならば、フィリピンは今もハワイやグアム、そしてサイパンのように米国領であり続けていたことは間違いないと私は思います。

 この二つの歴史的事実に照らす限り、無抵抗降伏が、侵略に対する最悪の対応であることは明らかです。短期的にはどうであれ、100年を単位として国家や民族の尊厳を考える時、侵略に対してはあくまでも武器を持って戦うというのが、正しい答えです。

 ただ、そのことから直ちに、だから憲法9条のいう非武装平和主義が誤りだ、とするのもまた間違いだと私は考えます。現行憲法下における60年にわたる平和という、世界史上でも希有の状態を作り出したのは、明らかに憲法9条の力です。仮定の侵略の恐怖を理由に、60年以上の平和を作り出した力を否定することは、無抵抗降伏論と全く同レベルの、歴史を無視した議論です。我々は、平和を守るために、今後も憲法9条を守っていくのが、正しい対応というべきです。

 ただ非武装平和主義は、現実の侵略に直面した時には、破綻するのであり、そこからは力による抵抗以外にないというだけのことです。だからこそ、非武装平和主義を掲げる以上は、侵略を招かないように死力を尽くすべきであり、侵略にあっても非武装平和主義というようなえせキリスト教的イデオロギーに走るべきではありません。

 

 

 

 

14期生

 

オリオン座の素顔

松本 貴之

 

  冬になると南の空に見ることのできるオリオン座。2つの1等星と6個の2等星を持つこの星座は、ギリシャだけでなく世界の他の場所においても古くから知られ、それぞれの逸話を残している。ギリシャ神話では大きな獅子を棍棒で倒したり(これが、星座の形のモチーフとなっている)、さそりに刺され死に至ったなどは有名である。そのため、オリオン座はさそり座が夜空に現れる頃には恐れて隠れてしまうという話まで作られた。これが中国になると、オリオンを「参」、さそり座を「商」と呼び、同時に夜空に上がらないことから不仲や疎遠な人間関係を表し「参商の仲」といわれたりする。日本では、オリオン座の三ツ星をそれぞれ、ミンタカ、アルニラム、アルニタクと呼び、住吉三神とされることがある。また、1等星のベテルギウス、リゲルを平家星、源氏星と呼んでいる。

このように、それぞれの逸話を話すだけでも十分に楽しむことのできる星座。しかし、星座を形作る星々は宇宙に存在し、どれをとっても逸話以上にわれわれを楽しませてくれる。では、どのようなものがオリオン座には存在しているのか、そんなことを書いていきたいと思う。

オリオン大星雲

  オリオン大星雲はオリオンの三ツ星の下に存在する散光星雲(※1)である。そのため、暗く星のよく見える場所では肉眼でこれを見ることができる。ここは、星が生まれる領域のひとつである。つまり、私たちの住む太陽系も気の遠くなる昔はオリオン大星雲のような場所から生まれてきたのである。では、どのようにして星はできるのであろうか。

  宇宙は真空であるが、ごくわずかに水素分子や水素原子が存在し、これを星間ガスという。星間ガスが冷やされていくにつれて自然に集まり、やがて「星間分子雲」という水素の雲を作る。その代表が、オリオン大星雲の中にある馬頭星雲である。この星間分子雲が作られると、雲の中の特に濃い部分は重力によってゆっくりと収縮し始める。それは100万年という気の遠くなる時間を費やし縮み、ガスの円盤を作る。円盤の中心は最もガスの密度が高く、赤外線を出し始める。これが星の卵の「原始星」である。この原始星はさらに約100万年の時間を費やし、中心部の温度を高めていく。そして、ある一点を気に核融合を起こし、一気に燃え上がり一人前の星となる。いわば、火打石の火花とガスで点火するライターの超巨大バージョンみたいなものであろうか?  星の生まれる瞬間は想像だけでもわくわくしてくる。

ベテルギウス

  ベテルギウスはオリオン座の左上にある赤い星で赤色巨星の一種であり、その中でも特に大きいことから赤色超巨星と呼ばれる。太陽と同じ恒星であるが、スケールは信じられないほどでかい。どのくらいでかいかというと、太陽の約630倍の直径を持つ。因みに地球は太陽の直径に約110個入るから、ベテルギウスには69300個横に並べて入ることになる。その大きさは、太陽の位置に持ってくれば、水星、金星はもちろん、地球や火星をも簡単に飲み込んでしまう。

  赤色巨星とは恒星の晩期の段階に当たる。さらに、段階が進むと恒星は爆発を起こし、白色矮星(※2)、中性子星(※3)、またはブラックホールのいずれかになる。太陽ほどの大きさだと、最後には白色矮星となるが、ベテルギウスの場合、その大きさから超新星爆発(※4)を起こし、ブラックホールになるといわれている。そして、ベテルギウスはいつ爆発してもおかしくない段階にある。もしかしたら、私たちの生きている間に超新星爆発を起こし、夜空を明るく染めてくれるかもしれない。

リゲル

  リゲルは「巨人の左足」を意味し、オリオン座の右下に位置する1等星である。また、ベテルギウスと同じく超巨星のひとつであり、表面が白いため白色超巨星に分類される。リゲルの明るさは、太陽の40000万倍以上といわれる。これは、全天の中で一番明るいシリウスと同じ場所に持ってくると半月よりも明るく輝くほどの明るさである。しかし、その明るさを放つために大量のエネルギーを消費しているため、リゲルは後数千万年で燃え尽きるといわれている。太陽が後46億年燃えるといわれていることから想像しても、その消費量の膨大さが尋常でないことがわかる。少しは、今の省エネ運動を見習ってほしいものである。

  このように宇宙では、オリオン座を見てみるだけでも私たちの想像もできないような、それでいてわくわくするような出来事が、日々起こっている。今度夜空を見るとき、このようなことを考えながら眺めるのもまた、乙なものではないだろうか。

                                    以上  

※1 散光星雲・・・可視光(人の目で見ることのできる光)によって観測できる比較的広い範囲に広がったガスや宇宙塵のまとまりである天体。

2  色矮星・・・恒星の終末期の一形態。晩期の赤色巨星が爆発することで外層部が飛ばされ、残った中心核がなる。恒星の中心核であったことによる余熱と、重力の圧力により光と熱を発している。

※3 中性子星・・・恒星の終末期の一形態。主な成分は中性子、その密度は恐ろしく高く、太陽の100兆倍ある。例えると1㎤に富士山をすべて入れたのと同じ密度。

※4 超新星爆発・・・太陽よりも巨大な恒星が終末におこす巨大な爆発。その後恒星は、中性子星かブラックホールとなる。

《コメント》

 え、オリオン大星雲が暗いところだと肉眼で見える? 本当ですか、知らなかった。というより、未だかつてオリオン大星雲だってアンドロメダ大星雲だって、私は肉眼で見えたことがないのです。東京生まれの東京育ちだから、せいぜい2等星くらいまでしか見えないからです。星雲が肉眼で見えるところに生まれ育った君がうらやましい。

 

 

 

感謝の気持ち

岡本有希子

 

  今年でゼミ誌原稿を書くのも最後。月日の経つのは早いものです。最後に相応しい原稿を書きたいなぁ。そんなことを思いつつ、パソコンに向かいます。稚拙な文章ではありますが、最後までお付き合いください。

 

  思えば、甲斐ゼミに足を踏み入れたのは2年前。ゼミ説明会、公開ゼミは甲斐ゼミしか行かなかった。今思えば、何故そんなに強気に出られたのか…。甲斐ゼミに決めたのは、ゼミの説明がとても丁寧で、また、ゼミ及びサブゼミの雰囲気がとてもよかったからだと記憶している。今、ここに居られるのも13期の先輩方のお陰です。ありがとうございました。

 

  サブゼミの度に熱い議論を交わした同期。ゼミ以外にも、飲みに行ったり一緒に鍋つついたり。毎週、皆に会えるゼミが楽しみでした。14期の皆、2年間とっても楽しかったです。ありがとう。

 

  ゼミの後輩、15期生。15期の皆と行ったスキーは本当に楽しかったです。先輩らしいことは何一つも出来ませんでしたが…。それが心残りです。

 

  最後になりましたが、毎回丁寧な解説をしてくださった甲斐先生。問題案を出せば再提出、論文を出せば厳しいお言葉を戴いたのも、今となってはいい思い出です。

  甲斐先生、2年間本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 

 甲斐先生、多くの先輩方、同期の皆、そして未だ見ぬ後輩達。

甲斐ゼミで出会えた全ての人に感謝を。

ありがとうございました!!

《コメント》

 ゼミ誌に書くのを、これを最後にすることはありません。先輩からの投稿も歓迎です。未だかつて、投稿してくれた先輩がいないからです。

 

 

ニコニコ動画について

小宮山 貴之

  去年のゼミ誌には2chの実況板について書いた。

  今年はそれに続いてニコニコ動画が何故成功したのかを真面目に考えながら書いてみようかと思ったが、書いている途中であまりにも文章が長くなってしまったので諦めて、ニコニコ動画について適当に書いてみようと思う。

 

1、ニコニコ動画は何故当たったか?

http://www.nicovideo.jp/

 

  説明していると長くなる&知っている人も多いと思うのでニコニコ動画についての説明は省く。知らない人は上のURLにアクセスするか、グーグルか、ウィキで説明読むなり好きにしてくれ。

さて、サービス半年を待たずして同じ動画投稿サイトであるyoutubeの利用者数を(国内においては)追い抜くほどの成功を収めた(といっても収支は未だ赤字のようだが)ニコニコ動画であるが、何がそんなに当たったのだろうか。

  利用したことのある人には説明など必要ないだろうが、投稿動画にコメントを付けられ、かつそのコメントを閲覧者全員で共有することができる点にあるのは間違いが無い。

  要するに、擬似的にリアルタイムで大勢の人と同じ動画を見ることができるわけである。

  この点は、2chの実況に似ているが、ニコニコ動画はもっとお手軽である。

  専用ブラウザすらいらず、IEさえあればすぐに利用できる。

  かつ、実況のように時間に拘束されることが無い。いつでも、自分の好きなときに好きな時間だけ実況することができるし、しかも原則無料である。

この辺の敷居の低さもヒットの理由かもしれない。

 

2、ニコニコ動画の問題点と今後

  ニコニコ動画の人気の秘密は、見たいドラマやアニメ等が大体の場合ただで無見ることができる点にもある。

  しかし、これは当然著作権侵害に当たる。

  要するに現状のニコニコ動画の人気の理由の一翼は著作権侵害によって成り立っているといっても過言ではない。

  サイト側も一応の禁止はしているものの、黙認しているのが現状のようである。(動画の削除も権利者からの申請が無い限り行わないというスタンスが取られている)

  以後はこのような著作権との関係をどのように付けていくかが重要な課題になるだろう。

 1つのプランとして、特定の動画を見る権利を販売する形式を取り入れるという案が上がっている。

  利用者の中にも、単純にその動画を見たいというより、ニコニコ動画でコメント付きの動画を見たいという意見が多くあり、そのためならば多少の課金も厭わないという声も聞かれる。

  もし、このような形式が成立して、その収益が権利者に渡るようになれば、権利者の側にとっても新しい収入の主体になりえるものとして、ニコニコ動画はさらに発展していくことができるかもしれないし、現状スポンサーが付きづらくDVD、グッズ販売等に収益を依存しているアニメ製作陣にとっては救世主になりえるのかも知れない。

 

 

《コメント》

  本当に、こうした人の権利を食い物にしたチャンネルの存在は頭の痛い問題です。。「2ちゃんねる」の管理者某に対しては、これまでに損害賠償を求める訴訟等が数十件も提起され、そのほとんどで敗訴し、数億円の賠償ないし制裁金の支払い命令が確定しているそうですが、死刑にでもなるというのでない限り、支払わないと豪語しているそうです。それというのも、現行の民事訴訟法では銀行口座などの資産を、勝訴した原告側が自ら見つけ出さなければ強制執行の申請をすること自体が出来ないという制度上の欠陥があるからです。
  こうした人の権利を食い物にする輩が、動画の権利者にだけは収益を支払うというような殊勝な心がけを持つとはとうてい考えられない以上、これがアニメ制作者にとっての救世主になる等と言うことは、まずあり得ないと私は思うのですが…どうなんでしょうね。

 

 

趣味がもたらすもの

染野 絢

 

  趣味…世の中には様々な趣味を持った人が存在します。趣味が仕事になっているという幸せな人もいれば、好きだからやっているという人もいる。私なんか断然後者ですけれど。私の友人・知人には趣味にポリシーを持っている人がたくさん居て、うらやましい限りです。

  さて、私自身の趣味のひとつはヴァイオリン。下手の横好きってやつですが、かれこれ10年は経ってしまいました。最近、練習してないなぁ…。趣味がもたらすものというテーマで話を進めるために、しばし、ヴァイオリンの話にお付き合いを。

  今もっている楽器は日本製です。二年前に購入しました。イタリア製が有名な楽器なのに、しかもわざわざこの年(21の時に親に頭金だけプレゼントしてもらって、以来ちびちびとローンで払っています)になって購入を決めたのは、前の楽器に限界を感じたからというのと、実際に製作している製作者の方の工房で弾いてみて、音の響きに感動したから。同じに見えて、板の厚さ、作られた年代、ニスの原料、などによって微妙に違うんですよ、これが。…なんて、ほとんど工房のおじいちゃんの受け売りです。本当は、せっかく高いお金を出して買うんだし、外国製の古いやつを紹介してもらおう、とひそかに心に誓っていました。そして、当時の先生に紹介していただいて何年かお世話になっているその工房にいざ出陣!!と途中までは良かったのに…なのに…なのに…!

  いわゆる、一目惚れです。実在する人間にしたことないのにここできたか。

  そんな経緯で私のもとに来ることになった彼女(ヴァイオリンは女性のイメージなんだとか)とは二年ほどのお付き合いですが、湿っぽいのが嫌いな彼女は梅雨の時期はぶちぶちと弦を切っては私を困らせてくれました。湿気を吸って弦が伸びちゃうので、ぴんと張った弦は張力に耐えられずに切れるわけです。さて、私の使っている弦は一本約2千円もします。新品に替えたあと、わずか一週間で切れた時はさすがに頭が痛くなりました。御茶ノ水のクロサワヴァイオリンに走りましたとも。しかし今、秋から春にかけて乾燥するこの時期は、快適に演奏できて楽しさ倍増です。お肌は乾燥と戦ってるけどね。

  購入以来、月に一度生みの親であるヴァイオリン職人のおじいさんのいる工房にお邪魔します。(ローンのために…)。そこでは、楽器を知り尽くした職人が、一番いい音色がでる弾き方を伝授してくださるとともに、ヴァイオリンの歴史から製作工程、イタリア修行時代の話、いいニスの条件など相当マニアックな話を聞かせてくれます。つかまると二時間は絶対に帰れません。それでも、道を極めた人の話というのはためになるもので、努力と忍耐なしには道は開けないという、人生訓のような人生を地でいっている職人の話を聞いていると、これから社会に出て世間の荒波にもまれるであろう身としては、なんだか妙に納得した気分になってしまうのです。

  さて行数も少なくなってきたのでここで結論。

  趣味といえども極めるべし。そこから学ぶものは絶大である。

  ちょっといいこと言って調子に乗ったところで終わりにしようと思います。

  お付き合いありがとうございました。

 

        

 

▲替えた一週間後に切れてくれた弦。\1600~。 ▲こっちは滅多に切れない。一番細い弦。\300程度。

EUROが導入された関係で、ここ最近はどのメーカーも高くなってしまいました。

《コメント》

  ヴァイオリンとは結構な趣味をお持ちですね。10年もやっているのであれば、もうノコギリの目立て段階は突破して、いい音色を出しているのでしょうね。是非一度拝聴したいものです。

 それはそうと、君の話を読んで、なぜイタリアのヴァイオリンが名器とされるのか、謎が一つ解けました。ヴァイオリンが湿気に弱く、乾燥した気候を好むのであれば、イタリアは確かに最高です。何しろ地中海性の気候のど真ん中なのですから。私は、ドイツやフランスにいる時には、ミネラルウォータ入りのペットボトルを持ち歩くなんてことはまずしないのですが、イタリアに旅した時だけは、かなり神経質にミネラルウォータを補給してペットボトルを手放しません。あの国での喉の渇きの厳しさは、経験したことがないと想像しにくいでしょうが、とにかく、ひどく乾いた国なのです。

 

 

 

少子化について

                高岡 隆 

 

  一人の女性が一生のうち出産する子供の数である合計特殊出生率が、現在の日本では1.32と言う低い数値である(2006年)。このままでは、高く見積もってすらも日本の人口は2050年には1億人以下となり、2100年には現在の人口の半分以下となってしまう。実際はもっと早く人口の減少が起こり労働人口もさらに深刻な現象を起こすと考えられる。このような出生率の低下が今後問題になってくる。

  子供の数が減ると言う事は、将来の労働力が減ると言う事ことになる。労働人口が減る場合、産業の担い手がなくなり、経済の縮小を招く事になる。さらに若年者を対象にした学習塾などの経済市場については、もっとも大きな影響を受ける事になる。また同時に起きている高齢化により社会福祉の費用の増大について、その諸々の負担を担っていく人口が減る事になり問題が大きいと言える。年金制度も確実に崩壊するであろう。人的資源しかない日本では労働人口の減少は致命的である。経済全体が縮小する上に、社会福祉にかかる費用が増大していくと取り返しが付かない事になる恐れがある。

  この少子化の原因について何があるのだろうか。これについて参考になるのが、一般的に発展途上国の出生率は高く、先進国は出生率が低い事がいえると言うことである。先進国のほとんどが人口を維持できる合計特殊出生率である2.07を割ってしまっているのである。ドイツなども2006年で1.34という低い出生率になっている。

  このことから先進国になると少子化になるという図式があるといえる。このことから原因を考えてみたい。発展途上国では年金などの社会福祉が整備されておらず、将来の生活を子供に頼る必要が出てくる、しかし先進国では、社会福祉も充実している。また娯楽も豊富で、他に生きがいを見つけやすいことも原因と言いえる。また発展途上国では女性の学歴が低いので子供が増える事で生活が困ると言うことを考慮しないという事も考慮できるかもしれない。

  しかしながら最も大きな原因は、先進国の物価の高さ、また経済において、高い金を払ったならば、それに見合う多様な高品質なサービスを受けられると言う事ではないかと思う。

  先進国であれば、産業の発達で一般の人の賃金も高く、それにより先進国で提供される商品やサービスもその購買力に見合った、質が高い代わりに、価格も高いものとなってくる事になる。一人でも高い品質の商品を買い、サービスを受けると、それを見た他の人も同等の商品やサービスを得ようとして、多少なりとも無理をしてでも高い金を払う事になる。この結果、先進国で人並みに生活するには、かなり高いコストがかかると言える。

  これについて子供を育てると言う事について考えると、子供を育てる事に高いコストがかかることを意味する。子供のTVゲーム機や学習塾などその他の商品やサービスなどは多様であり高品質である代わりに高額であると言いえる。生活費や学費などのコストが相当に高くなる。結果として子供を育てるのに、日本では二千万円以上かかることになる。

  これにより希望する子供の人数が減り、あるいは子供を育てるのは止めようと考える人がでてくると考えられる。子育てを考えなければ、より良い商品やサービスを受けられる金銭的余裕がでてきて、もっと高い生活水準で生活できるからである。つまり直接的には子供の養育にお金がかかりすぎるのが少子化の原因の一つなのである。また、そもそも生活にかかるコストや理想とされる生活水準に満たない事からから結婚すらためらう人もでてくるはずである。

  上記で述べた産業の発達により賃金が上昇しさらに、購買力が上がり、高い商品やサービスが求められるということは、価格の高い商品やサービスを提供する企業に利益を与え、それが賃金の上昇を生むと言う事になり、経済が成熟させるには不可欠であると言いえる。だが、それが結果として少子化を生むということは、経済の発展によって少子化は必然的に生ずるものであるといいえる。発展があれば、必ず構造的に衰退を生む下地が出来てしまうというべきかも知れない。

  さらに日本では、先進国の中でも少子化がかなり進んでいる国である。他の先進国にない問題点があると言いうる。これについて隣国の韓国が参考になると思われる。韓国の合計特殊出生率は2004年で1.16と世界的に見て最低水準である。この原因については儒教的なあるいは保守的な価値観がある国だからと見るべきだろう。核家族化した社会では、周りのコミュニティーとの関わりが薄くなってしまう。そこで性別役割分業観や子育ては女性の仕事と言う考え方が強いと、過度に子育てに対する負担を女性に課すことになって、結果として子育てのしにくい環境になってしまう。こうした事情も少子化を早めているとおもわれる。

  では少子化に対する対策はどのようなものが考えられるか問題になる。

  これについて、少子化は労働力不足が問題になっているから、高齢者の労働力を活用したり、女性の就労をさらに進めるなどの方法が考えられるとされる。しかしながら、働ける高齢者の数も減り続けるだろうし、寝たきりや、認知症の高齢者もいるし、働けない社会の負担になる高齢者が増える事が問題になるのだから、ほとんど解決にならないと言うべきだろう。女性の就労は進めるべきであるが、少子化は女性の人口も減るのだから、抜本的な解決にはならないであろう。

  少子高齢化に対応した社会作りに対応した街づくりが必要になると考えられる。つまり、今までの開発、発展型の政策を改めるべきである。少子化により経済が縮小する事を念頭において、街の主要な施設が一つのところにあるなど、コンパクトな街へ転換することが重要である。また新しく施設を作るのではなく、既存の施設を維持管理することに専念するしかない。

  また当然であるが、子供を育てやすい環境作りは重要である。保育所を増設する事や有給の育児休暇を、より長く完全に保障していくなどの政策や、婚外子の相続における差別つまり嫡出と非嫡出の区別をなくすなどの政策も重要になってくる。

  ここまでの政策は抜本的に少子化を変える事はできないが、これから記す二つの方法は少子化を完全に変えていけると考えられる。一つは高福祉型の政策をとる事である。もう一つは移民など外国人の受け入れを行うことである。

  高福祉型の政策は、スウェーデンなどが行っている。子供一人に対して家庭に児童手当として金銭を給付したり、子供の人数に応じて課税を免除していく方法である。この方法なら子供の養育にお金がかかりすぎると言う少子化の原因を断つことができる。

  しかしながら、このような北欧の高福祉の制度は、租税などにより相当の負担がかかることになる。日本のように、ただでさえ財政赤字を相当抱えている場合は、新たな財政支出を生むので、難しいと言えるのではないかと思われる。スウェーデンですらも、その社会的な負担に耐えられず、政策をかえてしまった事もあったくらいである。この政策を持続的に長期間続けられるかは疑問があるところである。また、この政策をとっても効果が出ていない国もあり、効果に疑問符が付く事もある。

  もう一つの移民など外国人の積極的受け入れを行う政策がある。これは現在の日本の、極めて消極的な外国人受け入れ政策を転換し、外国人の入国、在留の要件を緩和する。また国籍の要件を血統主義から出生地主義への転換をはかる方法である。

  アメリカの例が参考になる。アメリカは先進国でありながら、2006年の合計特殊出生率は2.09という、人口を維持できる数値を確保している。基本的にアメリカに住む白人の出生率は低い。また以前は高かった黒人の出生率も下がってきている。出生率が高いのは、大量に移入してきたヒスパニックのおかげである。

  この場合、移民と言う形で人が直接入ってくるので、国民にほとんど財政的な負担をかけないし、簡単に少子化を抜本的に解決し労働力を手に入れる事ができる。日本にとって、もっとも効果的で、かつ持続も可能な方法である。

  しかし、移民として外国人を受け入れた場合、移民が社会の底辺として階層として固定される恐れがあり、差別が生まれ、犯罪を多発させる原因になる事が考えられる。

  もっと根本的に日本の入国管理は、基本的に難民を認定さえほとんどせず、外国人の排除を前提にしており、これを容易に変える事は出来ないはずである。

  つまり日本では、単一民族という意識があり、よそ者である外国人を簡単には受け入れらない風土があると言える。事実上、同一の文化のもとで、日本人が存在し続けていると言う意識があり、他の民族、文化に排他的であるとも言える。

  アメリカのように移民で出来た国は、移民の排除を表立って主張される事は少ないが、そうでない国で移民がある国、つまり欧州では外国人の排斥が人々の意識にあることが多い。外国人は低賃金で働く事が多いので国民の中で仕事を奪われる者も出てくる、あるいは貧しい人が犯罪に手を染める事が多いから、外国人による犯罪が増えるなどの事が当然おこる。これに、よそ者の排除と言う意識が加われば、外国人を排除しようと言う動きが強く出てくる。仮に外国人を受け入れたとしても、国民にとって外国人や移民に仕事を奪われたというような事情がでてくれば、国民の世論が動き、その流れを止めてしまうかもしれない。

  また少子化が進んで経済が崩壊してからでは移民がくることはないから、経済がまだ力を持っているうちに行う必要があり、なるべく早い政策転換が必要になってくるという時間的な制約がある。

  こうした事から、この政策も難しい点があるといえる。

  ただ現在のところ外国人の受け入れ以上に効果的かつ持続可能な政策は無いから、この外国人の受け入れ政策を中心に、上記に記した各少子化対策をも併用した形で行うしかない。この場合、外国人という自分たちとは異なる存在、つまり異なる民族、文化をもった人々に、いかに寛容に受け入れ、接していく事事ができるかが問題になるだろう。

  いずれにせよ少子化には何らかの抜本的な手を打つ必要があるだろう。座して死を待つように、経済の崩壊を黙って見ている訳にはいかないだろうから-----------

 

《コメント》

  この問題については、私は移民受け入れ政策を積極的に推進するしかない、と考えています。スウェーデン型の高福祉を実現するためには、所得に対して何と6割も租税を課さねばなりません。当然累進税率も大変高いものです。これでは、特に有能で高額所得を得られる層の労働意欲が失われます。彼らの国外脱出という問題が起こるのです。あるいは、企業に対する法人税率も大変高いので、企業そのものの国外脱出という傾向も根強いものがあります。要するに、君が言う財政赤字云々よりも重大な国家の経済競争力そのものが、スウェーデン型の高負担・高福祉政策には潜んでいるのです。従来、わが国はこれとは対照的な小さな政府路線を歩んできた訳ですから、仮にスウェーデン型に転換するとすれば、本当に根幹からの政策転換となります。

  これに対し、現在のグローバル化した世界においては、移民の受け入れはある意味で必然と言え、否応なしに推進しなければならない問題です。例えば、日産の社長のゴーンさんが日本に定住するのを嫌だという自由は現実問題として見る限り、日本政府にないはずです。

  移民国家として生きることを考えた時、しかし、米国は実は余りよいお手本ではありません。よく米国は人種の坩堝といわれます。これは、各民族に自らのアイデンティティを捨てて、米国に同化することを求めています。これは現実問題としてうまくいかず、激しい民族差別を引き起こす原因になっています。そこで注目するべきが、オーストラリアのとるサラダボウル国家です。各民族に、それぞれのアイデンティティを尊重しつつ共存する道を探ることです。これは、国内において各民族の共存がはかれなければ、グローバル化した世界で各国と対等のつきあいをすることは不可能であり、したがってこれまた国家として生き残るための必然の政策といえるからです。

 

 

最近、思うこと

中坪 憲一 

 

  最近というか近年はまっていたことは、お茶を飲むことでした。幼少の頃は、お茶なんぞ、あんなただ苦いだけのものを飲む意味がわからなく、飲むものは、甘いジュースが、もっぱらでした。

  でしたが、最近に至っては、なにか飲むものといえば、とりあえずお茶という具合になっています。特にこの銘柄が好きといったこともないものの、種類としては、日本茶(緑茶)を好んで飲んでいます。ペットボトルの緑茶など、ここ最近新商品も発売することも多く、その度に試して自分なりの好みの味を探しています。ちなみに、私のお勧めは、伊藤園の「おーいお茶濃い味」で他の市販のものに比べて商品名通りかなり濃く私的にはとてもおいしく思っています。

  この、味覚の変化は、大体20歳過ぎから起こってきたもので、昔は、嫌いだったウニやらなんやらが好きになった感覚と似ており、なんか大人になったなとしみじみ感じています。

 

  嫌いなものが好きになった分にはいいのですが、いい部分だけでないこともあります。

 

  最近になり、昔はわかった微細な味がわかりにくくなりました。

  私は、岐阜県のいわゆる田舎のほうに住んでいたこともあり、周りの友人の家が農家の子も多く、よくもらって食べ比べしていたこともあり、野菜の「うまい・まずい」くらいはいえたのですが、最近は、野菜の味がわかりにくくなっていることに気づきました。この大都会に上京してからの生活の不摂生が祟ったのだと思います。

  やはり、ファーストフードや飲み会等で味の濃いものを好んで食べる機会が増えたからなのかと今更ながら反省しています。今後、もっとこんな食生活を送っていたら、いつか今、まずいと思っているものでもうまいと感じてしまうのでは、と若干不安を覚えています。今後は、普段何気なく口にしているものにも、少しずつでも気を使わなければならないと思っています。

 

《コメント》

  加齢に伴う味覚の減退という問題が起こる年齢ではないので、おそらくファーストフードの過食に伴う味覚の鈍磨に過ぎないのだろうと思います。悲しいことに、私の場合には華麗の方が起こっているので、少々参っています。昔、日本とドイツのビールの最大の違いは、日本はどのメーカーのビールを飲んでもほとんど味に違いがないのに対し、ドイツはメーカーの個性がはっきりしていることだと考えていました。ミュンヘンの7大メーカーくらいであれば、一口飲んだだけで、どこのメーカーのものかたちどころに判ったものです。ところが、去年、ミュンヘンに行って愕然としてのは、どのメーカーのビールを飲んでも、さっぱり違いが判らなくなっていたことです。長い伝統を有するメーカーが自らの味を捨てたとは思えませんから、これは私の下が鈍磨したに違いありません。結構物騒なのが、ワインに関しては、味の違いがよく判ることで、夏を越して変質しているようなことはすぐに気がつき、泣く泣く料理用に放出することになります。 

 

 

15期生

スコッチ                     

斉藤 千士 

 

  日大法学部2号館と道を挟んで立つレンガの壁が目を引くビルにタペストリーはある。

  御存知の方も多いがそこはドイツビール「ギネス」をホントに旨く呑ませてくれる、カフェスタイルのバーだ。そこのマスターに、「ウイスキーは飲み慣れてなくて・・・」と言って出してもらったのが「マッカラン12年」だ。グラスに入ったビリヤードの玉ほどの大きさの氷が、室内の薄暗いオレンジの照明を複雑に反射し、その上をシェリー樽の中で琥珀色に色づいたマッカランが静かに滑り落ちる。味はココアやチョコレートの風味はするものの、40度のアルコールがぐっと喉にくる。飲み終えてもまだ、その存在感は消えず芳香でフルーティーな感じが長く続く。このマッカランとの出会いがそれまでの自分の酒の飲み方を完全に変えた。確かに皆で騒ぐ酒は楽しくておいしい。ただ、1杯のウイスキーをじっくり飲みながら自分に向き合い、その酒の事を考えるのは、時間の支配から開放される気さえする。ここ最近は1人か2人でゆっくりとウイスキーを飲む事が増えた。

  前おきが長くなったが、自分はお気に入りのウイスキーについて書こうと思う。一口にウイスキーと言っても、その材料・産地・製法などで呼ばれ方が異なるが、今回はシングルモルトスコッチについて1本、僭越ながらご紹介する。

  まずシングルモルトの定義を簡単に確認したい。シングルモルトスコッチとは大麦(モルト)のみを使い単式蒸留釜で2回蒸留(例外的に2回半・3回)したもので単一の蒸留所のモルトウイスキーだけを瓶詰めしたものをいう。小麦やトウモロコシを原料とする。②グレーンウイスキーと比べ個性が主張され、このシングルモルトファンも多い。その他スコットランドで作られるウイスキー(スコッチ)に、ヴァテッドスコッチ(複数の蒸留所のモルトウイスキーを混ぜ瓶詰め)やブレンデッドスコッチ(数十種類のモルトとグレーンを混ぜ瓶詰め、バランタインやジョニーウォーカーが有名)がある。 

  今年の7月、地元のバーで飲んでいると、何か強烈な個性を持つものが飲みたくなった。そこで、バーテンダーの安部さんに進められたのがアードベック。深緑の瓶から注がれた液体の色は、やや黄色がかったゴールド。香りは燻製のいぶかしさが強い。友達はヨードチンキみたいとも言っていた。一口飲むと味は若干の塩見とそれに強調されたまろやかな甘みが広がる。このスコッチは味もさる事ながら、すばらしいのは飲み終えての匂いだ。 自分は経験したことが無いが、麦ワラにつっこんだらこんな匂いがするのでは?と思わせる、懐かしくどこか落ち着くスモーキーな香りがずっと続く。先述のマッカランがスコッチモルトのロールスロイスなら、このアードベッグは日野自動車の10トントラックと言ったところだろうか。それぐらい力強い個性が感じられる。  

  自分はまだまだ酒を飲み始めて日も浅いが、その魅力にとりつかれている。この文章を読んで少しでもスコッチに興味を持って頂ければ、幸いだ。

《コメント》

  揚げ足をとりたくはないのだが、ビールにうるさい私としては看過できない大きな事実誤認があるので、訂正しておきたい。

  ギネスビールは間違ってもドイツビールではない。

  ギネスといえば、いまやこのメーカーが宣伝用に作ったギネスブックがやたらと有名だが、これはアイルランドのビールである。同じくビールと呼ぶが、ドイツビールなどのラガービールが下面発酵であるのに対し、ギネスを含むエールは上面発酵であるので、単に製造国が違うだけでなく、基本的な醸造法においても、全く別物である。飲み方としても、ドイツビールは英国でも冷やして飲むが、エールを冷やすのは邪道である。夏でも室温状態のものを飲む。

 

  また補足説明を一つ。シェリー樽とはシェリー酒を作るのに使った樽という意味である。シェリー酒というのは乱暴に言ってしまえば白ワインの一種である。白ワインは暑さに合うと簡単に変質して味が代わり、飲めなくなる。そこで、大航海時代に、白ワインが長期の船旅でも変質しないように、スペイン人が工夫したもので、シェリー酵母と呼ばれる特殊な酵母で加工をしたものである。『ソレラシステム』と呼ばれる実に奇想天外な作り方をする。まず、樽を数段重ねる。一番上の段に積まれたのが出荷用の樽である。そこから、熟成されたシェリーを出荷するときに、全部は抜き取らず、2/3は残しておく。そして抜いた分と同量の熟成途上のシェリーを下の段の樽から注ぎ足す。それを樽の段数だけ繰り返し、一番下の樽に新しい白ワインを注ぎ足す。こういうことを毎年繰り返す。だから、仮にそのソレラシステムが置かれてから100年たっていれば、そのシェリー酒は100年前の大変古いものからほんの数年前の新しいものまでが渾然と一体になったものが出来る。欧州の酒であれば、何でも国産化している日本が、シェリー酒だけは国産化できないでいるのは、このように味に奥行きが出るまでに、大変年期がかかるからである。

  こういうシェリー作りに使われた樽を使ってウィスキーを熟成させれば、長い時間を掛けてしみこんだシェリー酒の味や香りが加わるので、そのスコッチにも独特の味の奥行きが生じることになる。しかし、シェリー樽というものは、よほど強力なコネがないとおいそれと手に入れられるものではない。その辺に老舗の強みがある。スコッチなら、何でもシェリー樽と思ってはいけない。ちなみに、日本のウィスキーメーカーは、新しい樽を買って、まずシェリー酒メーカーでしばらく熟成に使ってもらった後、引き取るというような手段でシェリー樽を手に入れている。

  ところで、煙の味が好きなら、是非一度試してほしいのが、『ラフロイグ (Laphroaig) 』。君が書いているアードベック同様、アイラ島のスコッチであるが、全モルト中、もっとも個性的な味と定評がある。

 

がけっぷち

千葉 雅康 

 

  いきなり「がけっぷち」と書いてあると、学生なので、さぞ勉強やら人間関係で苦労していると思う方もいるかもしれませんが、実はそういった話では全くないです。何が、がけっぷちか、というと私の趣味であるサッカーの話であります。

  今から半年ほど前、大学に入ってからサークル活動などをしたことがなかった私は、ものすごく運動不足なのを感じていました。そんなある日、中学の時の友達から電話が掛かってきて「一緒にサッカーやろう」という誘いを受けました。小さい頃からサッカーをしていた私は、しばらくサッカーから離れていたこともあり、遊び程度に楽しむ感覚でサッカーをやりたいなぁーっと思っていたので、彼の所属しているサッカーチームに入ることにしました。

  活動内容は、練習などがなく、月に2・3回試合をするだけです。私が住んでいるのは神奈川県の藤沢市で、チームは藤沢市の2部リーグ所属しています(3部まであります)。

  リーグは8チームで構成されていて、1回戦総当りで対戦します。優勝チームが1部に昇格、下位2チームが3部に降格するというシステムになっています。

  今では、だいぶ体力も戻ってきて、1試合だけなら苦もなくこなせるようになりましたが、最初の頃は全然体力がなく、後半の10分過ぎになると、急に胸がきゅっとなり、走れなくなる現象が起こったりしました。やはり、運動はまめにやるべきだと言うことを痛感させられました。

  そろそろ勘のいい方は「がけっぷち」の意味が理解できたと思います。がけっぷちとは、2部残留に向けてがけっぷちという状況なのです。

   リーグ戦は、私が、加入した時点では3戦して3戦全敗という状況でした。そして、私が加入した後も順調に連敗記録を伸ばし開幕から5連敗しました。そして、6戦目にしてようやく初勝利を果たし、現在のチームの成績はというと、なんと6試合を消化した時点で1勝5敗の勝ち点3です。残り1試合を残し最下位という状況なのです。もはやがけっぷちにいるというより半分以上落ちている状態です。6位と7位のチームはというと両チームとも勝ち点6という状況です。最終節は6位のチームとの対戦なので、その試合に勝ち、かつ、7位のチームが負けなければならないという他力本願的な状況までに追い込まれています。おまけに2チームに得失点差も上回らなければなりません。

 チームのスタメンの7・8人は30歳を超え、なおかつ、このサッカーチームに入ってからサッカーを始めた人が半分以上というチームなのでしょうがないかなぁーっと思っています。このゼミ誌が発行されている頃にはまだ最終節を終えていないので、結果は報告できませんが、残り1試合全力でがんばりたいと思います。

 

《コメント》

  大学に入ってから一度もサークル活動をしておらず、フルタイム走れきれない人を最初から一軍で誘うチームが、そもそも2部リーグに入っていた、ということ自体に驚くべきなのでしょうね。

 

私の時計のなかの住人R                                

岡田 明子  

  今使っているピーターラビットの腕時計は私が幼稚園生の頃に母方の祖母に買ってもらったものだ。

  母が幼稚園生に腕時計なんて使いもしないのにどうするのと言ってあきれたそうだが、そのやりとりすら私は覚えていない。時間に追われる必要もなく日がな一日、カラスの真似をして木の実を車に引かせていた幼稚園児が背伸びをして、大人アイテム(?)腕時計にあこがれて欲しがったのだろうか。祖母はもうずいぶん前に亡くなったが、いまだに祖母からもらった腕時計は私の手首に巻きついてときを刻んでいる。

  ベルトはもともと明るい茶色だったが、すぐにぼろぼろになるので、二年置きくらいでこげ茶や赤などいろんな色のベルトにつけ替えている。他の腕時計を欲しいとは思わない。社会人になっても、祖母と同じ年齢になっても私はこの腕時計を使い続ける。子供っぽい絵柄であろうが、安物であろうが、私の自慢の腕時計であり、私だけに価値のある最高の宝物として私はこの腕時計に限りない愛を注ぐ。

  いろいろなことがあった。

  中学の遠足の時の班行動で遅刻して夕飯に間に合わず、先生に怒られたときもこの腕時計をしていた。日当たりがあまりにもよくてくらくらしながら受けた高校受験の時も、たぶん人生で一番嬉しかった高校の合格発表のときも、高校時代あまりにも出来が悪く時間を持て余した数学のテストの時にもこの時計で時間を確認した。友達と上野で花見をして帰れなくなりファミレスで始発待ちをしたときも、大学一年生のG.W.にスー(恐竜)を一目見ようと何時間も並んだときも、高校時代の友人と二人で愛知万博に行ったときも。
  そして今は、司法科研究室の火曜答練で時間がたりないとあせりながらちらちらとこの時計を見ている。これから、あと半年もすると適性試験、ロー入試がある。その時も私はこの腕時計をみるだろう。

  今の私の姿を、苦楽をともにしてきた腕時計のウサギ達はどう思って見ているのであろうか。ずいぶん、昔なりたかった人間とはかけ離れた人間に成り果ててしまったのだが。先のことはわからず、とても不安である。どうなるかもわからない、将来に対する漠然とした不安がいつも胸のうちにあり、私がワタシから逃げてしまいそうになる。

 それでも、この腕時計はワタシの心臓が赤く脈打つように変わらず私の時を刻み続けてくれる。

 

         背中を向けたウサギ達、私の未来が見えますか?

 

《コメント》

  幼稚園時代に買ってもらった、というと、まだゼンマイ式の時計なのでしょうか。それとも、もうクォーツ時計になっているのでしょうか。いずれにせよ、正確に動かし続けるにはベルトだけでなく、内部のメカニズムのメンテナンスも必要だったでしょう。へたをすると、メンテの費用の方が、新品を買うよりよほどかかっていたりして。それとも、君の幼稚園時代の時計で、すでにメンテが未だに一度も要らないほどの完成度に、日本の時計というものは、達していたのでしょうか? 2年ほど前までは、法学部の卒業記念は腕時計だったのですが、今はボールペンです。ピーター・ラビットにはまだまだ働いてもらうことになりそうですね。

 

夏の甲子園決勝

 阿部 真悟 

 

  ここから書く文章は私的見解に基づくものであり、また、私的が自己満足で書いている文章に過ぎないので、文章に対する批判・意見などは読むにあたって上記のような感情がわいてきた方は、他の文章を書かれているゼミ生をお勧めいたします。よって、興味がある方だけ読んでもらえれば幸いです。

 

  まず、生で見た甲子園決勝を一言で言い表すなら「高校野球最高!!」であると言えます。まぁ、高校野球をテレビで見た方はご存知のはずですが、「高校野球の決勝ですよ!!」、逆転満塁ホームランが飛び出て逆転勝ちをしてしまったんですから、そりゃ~、野球ファンとしては最高の場面に出会えて一生もんのですよ。

  あれですね、自分は中学校で野球をやっていたんですが、まぁ~野球部なもんで、自主的に素振りとかをやってましたよ、毎日500回以上は。そのときに、ただ素振りするだけじゃ~つまんないので、よくイメージトレーニングをやってましてね、まず、架空のピッチャーを作りまして、身長などを設定するんですよ。これで、第一段階は終了で次に変化球の設定するんですが、中学生の球の変化なんてたいした事ないんですが、なぜか自分は野球選手のプロ級の変化に設定しており、直球のスピードも時速150キロに設定してやっていたわけで、今更になって思うとなんて設定でやっていたんだ!?と思う今日この頃です。

  で、さらにイメージトレーニングのときには9回裏・満塁・ツーアウト・ツーストライク・スリーボールに設定しており、その場面に立っている自分というそんな無茶苦茶な設定なことをやっていたわけですが、ここで、なぜそんな場面を…と思った方に言いたい、「だって、そんな場面に立ってホームラン打ってみたいじゃん!!」。

 このような経緯から、甲子園球場のバックスタンド裏の特別中央席(1600円)で8回裏の佐賀北の攻撃を見ていたわけなんです。そしたら、ツーアウト満塁で迎えた佐賀北の攻撃にあるバッターが打ちました。そして、見ていた自分はここでホームランが出れば逆転できるなぁ~と思い試合を見ていいたんですが、打ったボールが最初は高いフライに感じたんですが、だんだんと打球は伸びていき、そして外野席に吸い込まれるよーにボールが入っていきました。見ていた観客全員が大歓声を上げていました。もちろん自分も大声を上げていました。

  ん~、いつ思い出しても最高の瞬間ですね~。

  以上のことから、夏の甲子園は最高な舞台であるといえると思います。

 こんなことを書いていたら、野球をしたくなってきたので、これで終わります。

《コメント》

  野球というものには、ほとんど興味がないので、コメントのしようがない。そもそも、ここ数年、毎年、夏はドイツか米国に数週間行っているので、甲子園の決勝の頃に、日本にいたことがない。海外にいても日本のニュースにはこまめに目を通すようにしているのだが、日本の情報を海外に発信するマスコミも、甲子園情報がそれに値するとは考えていないらしく、まず見たことがない。だからどこが優勝校か、なんて話も、君の文章を読んで始めて知った次第。それにしても、佐賀北等という、聞いたこともない(つまり野球のプロ校ではない)学校が優勝するなんて、奇跡ですね。

 

好きなもの

                                  荻原 康之 

 

  好きということは面白い状態で、状態という表現は正しいかはわかりませんが、とにかく興味深いものです。そのものを意識せずにはいられないことだと思います。

  好きの反対の概念は嫌いだと思っていましたが、違うようです。最近、ある友人から指摘されたことがあります。その友人が言うには、好きの反対の概念は無関心だと言うのです。好きも嫌いも対象物に意識をしているという点に関して言えば同じ概念です。対して、意識をしないというのは無関心です。確かにそのように考えれば好きの反対の概念は無関心です。僕は、それを聞いて「へぇーそうですか」と言っておきました。感心した反面、難しい理屈にはついていけない、と思ったからです。

 

  好きと嫌いは感情的には違うものです。好きなものを考えたときは幸せな気持ちになります。対して、嫌いなものを考えたときにはイライラして胸糞が悪くなります。感情的には相対的な概念であるはずです。友人の言ったことの意味を未だによく理解していませんが、「好きとは何だ?」が最近の僕の、一大研究テーマとなったので、意味のある出来事だったと思っています。

 

  いきなりですが、このとても読みづらい文章をここまで読んでくれた人、あなたは、好きと愛してる、の違いは何だと思いますか?

  僕は、好きは一方通行な感じがします。自分のための気持ちが先行する感じです。愛してるは相手のための気持ちが第一にくる感じがします。相手の幸せを願うことのような感じがします。

 

  まだまだ、青臭くて薄っぺらい感じですが、これから自分が言葉に追いつくようにしたいとは思っています。

 

おそらく、答えのない問いかけ…あなたはどう考えますか?

 

 

《コメント》

  前半の問題。 これは言葉の意味と言うより、使われる目的による違いです。例えば、アンチ巨人ファンは、巨人ファンと同じく、巨人というチームに関心を持ってくれますから、チーム側から見れば同じように大事なファンで、私のようにおよそ興味がない、という人間は困った存在であるはずです。そういう視点から見れば、つまり、好き・嫌いを興味ありと置き、興味なしと対置した場合の話で、一般的な語意とは言えません。普通の用語法であれば、君が正しいのです。誰だって、酸性の反対はアルカリ性であって、中性とは言わないはずです。

  後半の問題。答えが出ない、というより、それは君の日本語感覚の問題に過ぎないと思います。ちなみに大辞林で「好き」という言葉を引いてみると「心がひきつけられること。気持ちにぴったり合うさま」という定義が載っていて、第一は君の考えている好きと一緒ですが、第二の方は、君の考えている愛と同じ意味となっています。つまり、日本語の好きの用法として、二とおりありうるということです。ちなみに愛に対しては「対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。」とあります。簡単に言ってしまうと、好きと同じ心理状態であるが、より度合いの強いのが愛ということです。これは一つの辞書の見解ですが、確かに普通そういう感じで使いませんか? 最初は好きな子という程度であったのが、愛の対象になってくると、結婚を考える、というように…。

 

眠れない夜に

中塚 充 

 

  知っている方は知っているかと思いますが、とにかく私は夜眠れない。不眠症というかなんというか、昔から寝るのが何となく惜しい気がして色々したくなってしまうのです。近年は特にひどくなかなか寝られずにいます。そこで本を読んだり、携帯電話をいじったり、曲を聴いたり、映画を見たり、今後について思い悩んだり、色々とやったりするわけです。すると昼間する些細なことが深夜の時間帯にやるというだけで何か特別な意味をもたらして充足感を私に与えてくれるのです、ただ寝不足・寝坊という代償を伴っていますが。

  そんな夜に考えている事を今回は述べたいと思いますので以下の文章に目を通して頂ければ幸いです。

 

=壱=

   昔に読んだ話です。いつ読んだのか誰が書いたのかは忘れてしまいましたが、とにかく話自体はおもしろかったので内容だけは覚えています。

  それは経済学に関する話で、「資本社会における、物に与えられる価値と人(総体としての人)が持ち得る価値は同等であり一定である、また各々は各々に分配される」という内容でした。つまり物に与えられる価値は食料品なら食料品というジャンルにいくらの価値が与えられ、その中から米ならコメというジャンルにいくらの価値が付与され(需要と供給のバランスで与えられる価値は時間的に変化する)、また人が持ち得る価値(労働力とかじゃなく財力のこと)は価値のプールの中から各個人に振り分けられるのです。そして注目すべきはこれらの価値が増減せず一定であるということで、ある者の又は物の価値が増加したときには反射的に何かの価値が減退するのです(価値の使い回しとでもいいかえられるのか)。

  とまぁおおざっぱに書きましたが大体こんなもんでいいと思います(本当はもっと難しかった気がするのですが、そこのところは忘れてしまって)。この説を知った時に考えたのは「人が裕福(価値を多く所有する事)になるためには他者の価値を奪い去らなければならない」と「全員が裕福になるには人口の目減らしが必要」でした。それは「価値が一定で増減しないのなら奪い合うか、人が少なくなって皆が満足になる程度に所有するしかないはず。」と考えたからです、ならば戦争もまた許容される行為に値してしまうのではないだろうか、そんな考えも浮かんでしまいます。しかし、人類多年の成果はそんなところで終わるはずは無いという思い込みの基、無い頭で必死に考えたところ一つの結論が生まれたのです。

 「平等に分け合えばいいじゃん」

  安易です、確かに安易です(石投げないでください)、ですが此れに尽きるのではないでしょうか。一人勝ちで、ほくそ笑みながら貧民をさげすむのなんて悪趣味ですよ。やっぱり。だから儲けた人はきちんと税金払いましょう、節税なんかも止めていっぱい払ったらいいんです、所得の分配大歓迎ですよ。そろそろ寝られそうなので今日はここまでということで    …そんな事を考えて今宵も更けていくのです。

 

=弐=

  夜眠れずにずぅっといるとさすがに小腹がすいてきます。菓子の買い置きなど当に果てている現状、かといってコンビニまで出かけるのも億劫だし…、と読みかけの本を開いた状態で床に伏せさせ冷蔵庫を開けると大概入っているのは卵・牛乳、キッチンには小麦粉や各種調味料とスパイスはある。そこで思いついたのは「自分で作ればいいじゃん」という安易な結論。

  とりあえずは王道としてホットケーキでも焼いたろかぁと、ボールに卵一個、牛乳・小麦粉・砂糖を適量入れ搔き混ぜる。十分に混ざったところで温めたフライパンに投入。ジュウという音と共に甘い匂い、両面を焼き焦げ目が少しついたところで皿に「良し!、食べよう」とフォークで一口分パクリ・・・、もっちもっち。ベーキングパウダーなんて当然入れてないので面白い食感が。大抵の話だと成功に向いていたりするのですが、そんなうまい話は無くただ単に不味い、というか中がなんか生焼けな感じがします。昔、生焼けの小麦粉を食べたらおなかを壊すと聞いた気がするので廃棄。少し悲しい気分のまま「きっと神様が食べちゃダメって言ってんだ」と言い聞かせ本を読むのに戻りました。

  あくる日、何んとなく意地になり「なんか作ったろう」と小麦粉を眺めると小麦粉の袋にスポンジケーキの作り方が。読むと、どうやらベーキングパウダーは必要ないらしく作り方も意外と簡単らしい。早速、作り始めるも意外とメレンゲを作るのがつらい。泡だて器が無かったので菜箸で根性を出して掻き混ぜる・掻き混ぜる・掻き混ぜる…、腕が痛い。とにかく一応出来上がり卵白・小麦粉と合わせる、ココまでは上手くいったと喜び、いざ焼こうとコンロをみるとオーブンなんかないことに気付きました。「まぁ、焼くのには変わらないし」と再びフライパンを持ち出す、ただホットケーキ(?)の元より生地がユルユルだったのでアルミホイルで型を作り、その中に生地を投入。蓋をしてしばらく様子を見るも一向に膨らんでこない、仕方なしに水を入れ蒸し焼きにすると一転してムクムク膨らんできます。「良し良し」と一人深夜にうなずきながら待つこと10分程度、火を止め皿に移そうとしたところ「ケーキの底が焦げちょる!」というハプニングが。仕様がなくその部分だけ切り取ってみるも意外と底以外は大丈夫そう、そして一口分パクリ・・・、蒸しパンじゃん。「当然な結果、前回よりはマシ」と自分に言い聞かせ、おいしく(?)頂きました。

  そんな事をしながら今宵も更けていくのです。

 

《コメント》

  うーん。無駄なことをやっていますね。私も学生時代、寝られなくて困ったものです。そこで、どうせ起きているなら、その時間を有効活用すれば良いではないか、と考えて、せっせと勉強してみました。非常に能率が上がった感じがあって、自己満足していました。ところが、その一環として論文を書いてみて、愕然としました。翌朝、読むと、書いている時にはあれほどすばらしい論文と信じていたものが、まるっきりくだらない代物であることが一目瞭然だったのです。君も、是非論文を書いてご覧なさい。そうすれば、夜なべの与えて入れる充足感は全く無意味なものであることが判るはずです。そこで、以下に素早く安眠するか、という方向に努力を切り替えました。私の場合には、あまり面白くない小説を読むというのが裁量の対策と判ったのですが、君の場合にはどうでしょうか。

  さて、壱の問題。君と同じことを考えた先人がいます。その名をマルクスといいます。彼の理論の壮大な実験が20世紀に行われました。ソヴィエトであり、中共であり、北朝鮮です。ソヴィエトは消え、中共は市場化に移行し、孤軍奮戦しているのは北朝鮮だけです。これから見ると、やはり眠られぬ夜に考えたことはあまり価値はないといえそうです。

  弐の問題。お夜食は肥満の最大の原因であることを知っていますか? 太りたい力士は、夜中にわざわざ起きだして食事をするほどです。まして、君の食べているのは含水炭素の塊。君の体型に納得が出来ましたが、そろそろメタボリック・シンドロームの心配をしないと若死にする羽目になりますよ。

 

 

テーマが「自由」ってことなので本当に自由に書いてみました

深澤 恭兵 

 

  自由って難しい。ぱっと聞いた感じではすごくいい言葉のような気もするけれど、実際は、いいばかりでもないわけです。

  何故こんなことを思ったかと言うと、このゼミ誌のテーマが「自由」だからです。自由といわれると何を書いたらいいのか逆にわからなくなり、ぜんぜん筆が進まないのです。これを書いている段階で係りの人から再三催促されても全く書けず、お酒の力と深夜のテンションを利用して何とか進められているんです(小学校のときの自由研究も8月の末日までテーマが決められないタイプでした)。

  基本的には自由なほうがいいんだろうけれど時には縛られていたほうがむしろ楽なときもあるんじゃないか?なんて思っていたところで、開き直ってテーマの「自由」をそのまま解釈して身の回りのある自由とつくものについて最近よく思っていることを書いてみたいと思います(学問的な自由について書くと勉強不足が露呈して厳しいツッコミを受けそうなので)。

  僕は無性にお腹が減りやすく空腹であることがすごく多いんです。暇さえあれば「おなか減った」って言っているのでゼミの人たちは御存じの方もいらっしゃるかと思いますが。だからといって学生という身分ですからお金もそんなにはないわけです。そんな時「おかわり自由」の定食屋の存在はかなり助かるんです。僕はパンや麺類を食べるときでもご飯を食べるくらいご飯が好きで、ご飯を食べないと一食食べた気がしない性分なんです(チャーハンをおかずにご飯を食べると言うこともあります)。だからこういう店をかなり重宝しているんですが、ひとつ難点があります。

  おかわりのシステムには店によって2種類あるんです。ひとつは釜がおいてあって自分で盛りにいくタイプ。もうひとつは店員に注文しておかわりをもらうタイプ。前者の場合は自由におかわりできるんですが後者の場合はそうもいきません。最初の一回目は店員さんも「並ですか?大盛りですか?」なんて聞いてきていいんですが、二回目以降になると「さっき大盛りおかわりしたのにまだ食べるの?」みたいな顔をされちゃうわけですよ(確かにちょっと食べすぎな感もありますが・・・)。小心者の僕はこれがあるのでおかわりを断念してしまいます。

  これじゃあ、真の自由とは言えないなとよく思っています(まあ、結局はお世話になっているわけですが)。

  こうして書いてみると何が言いたいかよくわからないと言う人もいるんじゃないかと思うのでまとめますが結局は、「僕って食いしん坊ですよ」ってことです。食いしん坊自慢でした。

 

《コメント》

  うーん。食いしん坊の場合にも、ギャル曽根を見れば判るとおり、徹底すれば職業になりうるのですが、果たして君がそのレベルに到達しうるのかどうか。

  それはともかく、世の中、傾向と対策です。二種類のシステムがあることが判っているのなら、なぜ第二の種類と判っている店に出かけるのですか? ひょっとして、君にマゾヒズムの願望があるとか? あるいは単に過食対策に店員の嫌な顔を利用しているとか?

 

無題

                            藤野 裕基

 

  就職活動やらサークルやらバイトやら何やらかんやらで睡眠時間がどんどん削られている今日この頃、みなさまいかがおすごしですか?

  さて、テーマ自由で何か書けと、ゼミ誌係がかなり無茶なことを言ってくるので今こうして書いているのですが、第一稿はあまりにも趣味に走りすぎて収集がつかなくなりそうで、第二稿は300字で詰まってしまい、第三稿は書いている側としては滞りなく筆が進み、なかなかうまい文章が書けたと自画自賛したものの、この内容を人様に見せていいものかと悩んだ挙句、結局ボツとし、エントリーシートや論文書くより難しいじゃあないか、とぼやきながら、YouTubeでブリーフ&トランクスのペチャパイを聴きつつ、只今、現在第四稿となる本稿を仕方なしに第一項に基づき鋭意執筆中でございます。

  さてさて、こうやって周りを見渡してみても書くことなど何もないことに気付き、この一年間何をやってきたかを思い出してみても書くべきことなど何もないことを思い知らされ、こうしてみると小生の人生は意外と刺激の少ないものだったと落胆しております。

  いやいや、そんなことはない、小生のこの二十一年間の人生は山あり谷ありで決して平坦なものではなかったはず。三月に四国に旅行へ行った際、駅で寝ようとしたところあまりの寒さに本当に今日ここで死ぬことを覚悟したことや、予約していた民宿に行ったところ『本日休業』の札が掛かっており路頭に迷ったこと、夏に屋久島に行き人生初登山で九州最高峰単独登頂に挑戦し、今となっては誰も通らない登山道を選んでしまい一時間ほど山で迷子(世界はそれを遭難と呼ぶ)になって、初めての山小屋で一人孤独に寒さに震えながら夜明けを待ったこと、お伊勢参りに行った帰りお賽銭が足りなかったためか台風にあたり全身びしょ濡れで冷房ガンガン効いている電車に乗ることになったものの、結局風邪をひけず、馬鹿は風邪ひかないという言葉が真実であったということを証明してしまったり、恐山名物の混浴の露天風呂では一つ目はお約束どおり五十年前は美人であったであろうかという方々とご一緒し、二つ目はいわゆる同性愛者(男)のカップルとご一緒するという一生忘れがたい経験をしたりしてと、そしてその後、何か色々と起こりすぎ今後が不安になったので恐山のお守りを購入したことなど・・・・、とまぁ、そんな趣味の一人旅を第一稿でつらつら書いたものの奇しくもゼミの同期に我が体験を凌駕する、「印度腹痛記」を持つ者がおりまして、旅の話などしたところでしょせん彼の二番煎じである事、そして何より小生の旅の思い出話・命懸けの冒険談など「馬鹿だろ、お前」で片付けられそうな事が、執筆中の小生を悩ませる種であります。

 と、さて、これ以上長々と書くのもなんですので原稿第四稿これにてお開き、御静読いただけたならば幸いでございます。

《コメント》

  うーん。いやすごい旅の連続ですね。私など、かつて公務員時代には年間100日、いまでも年間50日くらいは旅をしていますが、そんなすごい体験はないですね。一度だけ、電話帳を頼りに抑えた宿がラブホテルで、1週間の滞在に、誠に主はユリ思いをしたことがあるくらい。

  話は少しずれるけれど、インド旅行は本当に怖いですから、皆さん注意して下さい。私自身もインドに4週間旅をして、その間、一流ホテルだけに泊まり、食べ物にも注意を払っていたにも拘わらず、連れて行った部下が帰国後下痢が止まらなくなって、私も巻き添えになって、麹町保健所で検便させられました(結果として無事でしたが)。さらに、我がゼミでは、ある期のゼミ長が卒業旅行でインドに行ったは良いけれど、やはり下痢になって、追い出しコンパに欠席するという事態になりました。私がインドの下痢は怖いから検便を受けろと説教したところ、次に電話をくれたのは、伝染病隔離病棟の中からでした。赤痢だったのです。諸君も、インドに行くのは構いませんが、下痢をしたら、絶対に保健所に行って検便を受けて下さい。

 

Time is money?

船水 友貴 

 

  タイムイズマネー。時は金なり。有名な言葉である。この意味について、あらためて考えてみたい。

  例えば、「時間はお金を払ってでも手に入れたいくらい価値がある。だから有効活用せよ。」といったものだ。この内容の解釈についてはあまり異論もないと思う。別の捉え方を一応紹介しておくと、金融やらファイナンス関係などでは、また違った意味になるらしい。それはつまり、利子などの時間的価値を指し、「お金は自己増殖し、時間と共にその価値を増していく。」といった意味に捉えたりするらしい。これをマネーイズタイムと呼んだりするそうだ。金は時なり、といったところだろうか。これももちろん重要なこととは思うが、これについては今回見送ることにし、今考えてみたいのは、タイムイズマネーだ。これを実践できているかどうかである。

  さて、少し話は変わるが、この文章を書いている自分の年齢は22歳。ゾロ目である。人生で二度目のゾロ目だ。一度目は11歳の時、11年前。その頃といえば、記憶が定かではないが、まだ毎日が新鮮だったかもしれないし、人生は希望に満ち溢れていただろうし、早く大人になりたいなんて考えていたかもしれない。少なくとも、時間の貴重さ、価値なんてほとんど頭に無かったと思う。

そして今実際上はともかく、法律的には大人して扱われる年齢になった。今なら、「時は金なり」の意味がわからないでもない。

  こんな話を聞いたことがある。人は年をとるごとに、時間が経つのを早く感じるようになる。もしくは、二十歳を超えたらあっという間だよ。なんて、一度くらいは耳にする機会があるのではないだろうか。私としてもつい最近、というほどでもないが、ついにこれを自覚できる年になったのかと思うと、それなりに感慨深いものがある。実際、この時間の感覚の年齢ごとの変化については、生物学的・心理学的なアプローチなどからそれなりに論理的な検証もされているようで、デタラメな話でもないだろう。

  例えば、生物学的なアプローチだと「ゾウの時間とネズミの時間」(本川達雄/中公新書)というベストセラーになった本の中では、哺乳類における時間は体重の1/4乗に比例する、という考え方がある。つまり、年齢が上がり、体が成長するにつれ、体感時間も短くなるといった内容だ。心理学的なアプローチだと、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する。などは有名な説だそうだ。この辺り、経験則による部分も大きいようで、100%正しい話かはわからないのだろうし、それはそれでいいと思う。

  ところで、これ以上の科学的な考察は、各自興味があるなら調べてもらうとして、私的な考えを述べてみる。幼いころは、見るもの全てが初めてで新鮮であって、全てが記憶に刻まれていく。しかも、毎日をだらだら過ごしていようと、充実していようがいまいが、そんなことは関係ない。普通に生活しているだけで入ってくる情報を、まだ未発達の頭で全て吸収しようとするのだ。だから、次々と入ってくる新しい情報に対して未発達の脳で処理していく分、時間の流れを大人よりも長く感じるのではないかと思う。

  例えば、子供の頃は長くて見ていられないと思った映画や、読めなかった本を、ある程度年をとってから見返してみたことがないだろうか。今度は楽しめるかは別として、最後まで進めるのが苦にならないはずだ。私自身は、何度かそういった経験をしている。この現象は、やはり情報処理能力が上がって、話の展開をスムーズに追えるようになったことによるものが大きいのではないか。

  さて、ここまで書いてみて、本題に戻るとして、何が言いたいのかというと、要するに、時は有限で、貴重ということだ。二十歳といえば、マラソンでいえば折り返し地点である、なんて意見もある。そこまでとは思わないが、時間を無駄に過ごしてはいけないとは思う。22歳ともなれば、尚更のことだ。

例え、時間が経つのをその時、その時間では早く、短く感じたとしても、充実した時間が過ごせたならば、後で振り返る時には、とても長く感じるものなのだ。毎日を充実させて、中身の詰まった人生にしたいものである。

  最後になるが一言―――甲斐ゼミナール、バンザーイ!

 

p.s. このゼミ誌原稿の文章を考えている時間、書いている時間がもったいない。なんて冷たいツッコミはご勘弁を・・・。

きっといつか、振り返ってみたらこんなつまらない話や、くだらない事書いたなぁなんて、笑い話や、いい思い出になると思いますよ。

実は15期 ゼミ誌担当より

 

 

《コメント》

  20歳がマラソンの折り返し点? そりゃあないよ。私など、50歳までは青年と称していたものです。50を過ぎたから、しぶしぶ中年であることは認めるようになったのですが…。20歳が折り返し点だかったら、私など、2巡目に突入していることになるじゃないですか。

 

本年度甲斐ゼミを振り返って(15期限定)

 

  自分がこの甲斐ゼミに入ったのは15期で最も遅い3月でした。初めてお会いした時の威圧感はよく覚えています。実際ゼミが始まり甲斐先生の講義をうけると、憲法の問題を解くのに、こんなに多くの憲法以外の法規範が関係して、それをすべて把握している先生の博識さに驚きました。一方ゼミ活動では副ゼミ長の千葉君をはじめ、他のゼミ生にホントに助けられました。ゼミ長として至らない事ばかりでしたが、この甲斐ゼミで活動できている事を幸せに思います。

=斉藤 千士=

 

  この1年間は15期生中塚充をいじめられキャラに仕立てるという目標が達成できたことに成功して大変満足しています(笑)。問題作成や答案の締め切りに追われ大変忙しかったのですが、その分ゼミ合宿が楽しかったです。ゼミ長が二日酔いで講義に出られなかったり、軽井沢のアウトレットで買い物できたりしてゼミ合宿は楽しかったです。

=千葉 雅康=

 

  ゼミの一年間の思い出を書くといっても、それはあまりにも辛い作業で私にはどうも耐えられそうにない。楽しいことがたくさんあったのは事実である。ことゼミの仲間との普段のなにげない交流について、私は楽しいことしか思い出せない。が、しかし、一年間をふりかえることは「もう一年たってしまった」という事実をつきつけられることであり、時があまりにもはやく過ぎてしまったことへの焦りや悲しみが私を襲う。時はあっという間にすぎる。それでも、短いように感じた一年も初心を忘れるには十分な時だったらしい。時を戻すことは出来ないが、せめて気持ちだけでもリセットしたいものである。

=岡田 明子=

 

  ああ、もう今年もこんな季節。大学三年の課程もほぼ終わりというわけで、つまり甲斐ゼミに入ゼミしてから一年たつというわけで。そんな郷愁の念に駆られつつも今年やってきたことを思い返しますと「問題を作成する→先生に送る→アドバイスを受けて作り直す→またアドバイスを受ける→結局間に合わなくて先生のお手を煩わせる」。う~ん、だめだったんじゃ?………いやそんな事は無いハズ、だって力は着いたと思うし(最後まで問題の作成を間に合わせられなかったけれど)、論文だって書けるようになったし(赤ペンの量が減らなかったけど)・・・・・。そんな僕を見放さず今年の課程を教え続けてくださった先生には感謝の念が絶えません、本当にありがとうございました。ですので、どうか今後とも見放さず温かい目でお付き合いください。

=中塚 充=

  

  甲斐ゼミに入って、もう一年が経とうとしている。思えば、去年のこの時期は甲斐ゼミがどれだけ厳しいのかと思い、入るのを躊躇していたように思う。それが今は自分が新しいゼミ生の勧誘を行っている。早いものだ。一次募集で自分を含めて3名だった頃はどうなるものかと思ったが、今は総勢10名。良くも悪くも、個性的なメンバーが揃ったと思う。ま、何はともあれ、皆さん、一年間おつです&これからもよろしく!

=船水 友貴=

 

  甲斐ゼミに入って早いもので「もう1年が過ぎてしまうのか」と思います。最初入ったときは楽しいゼミ生活が送れればいいと考えていました。そして現実は私が想像していた以上のことがゼミ生活で送れたことに感謝半分、後悔1/3、これからは今以上に楽しいゼミを送りたい2/3といったところです。

  甲斐ゼミに入って辛かったこととして、各セルが問題を自分たちで作り、問題の解説などを含めたサブゼミが辛かったと感じます。問題に関しては、最初の方は判例百選から選択していけば簡単にできるだろうなどと浅はかな考え臨んだところ、サブゼミを行った際に論点の多さに自分で爆死したりしましたが、今では法律(憲法)の問題となる本質の考え方が少しは身についたのではないかと感じています。

  また、甲斐ゼミとして15期が始めて活動し始めた冬合宿は吹雪に逢い、とてもたいへんだったことがとても印象的でした。夏合宿に至っては合宿に参加した全員が二日酔いになり、多々大変な出来事がおき、忘れられない思い出ができました。二度とあのときのような体調にはなりたくないものですが(笑)。

  このような、体験ができた甲斐ゼミというゼミに入れて、本当によかったと思います。さらに、これかも楽しいゼミであり続けることができるゼミであり、また、先生が提出した答案に対して満足できる答案が書けるよう日々精進していきたいとおもいます。

  短い文章ですが、ここで終わらせて頂きます。以上

=阿部 真吾=

 

  やっぱり問題作りが難しかった。ふたりで散々煮詰めて「よしっ!これなら」と送った問題がまったくの見当違いと返信されてきた時はマジでへこんだけれど、でもがんばってよかった。

=深澤 恭兵=

 

   「甲斐ゼミに入って」を書くということは…、もう一年も経ってしまったのか。さて、甲斐ゼミのおかげで格段に上達したことが一つ。冬合宿に行った八海山で、スキーのレベルが23段吹っ飛ばしてピロリロリンと上がった事。わき目も振らず延々と上級コースを滑り続け、一回滑るごとに上達が実感できたあの二日間が楽しかったのなんのって…。えっ、勉強はって?聞かないで下さい。

=藤野 裕基=

 

《コメント》

  毎年のことですが、問題作りには手を焼いているようですね。しかし、そうやって作った問題に正解を書くことが難しいことには、さらに驚いたことと思います。まして、他人が作った問題で正解するのはどれほどの努力が必要なことか。それを理解してくれれば、私としては本望です。隠れスキーサークルとしての甲斐ゼミが、14期生の諸君にはあまりチャンスを提供できなかったことが、私として心残りになっています。

 

 

編集後記

15期ゼミ誌係 

今、私は猛烈に泣きたい。

  本当に忙しい中、原稿を出してくださった14期の先輩方お疲れ様でした、そして何よりもありがとうございました。

 また三年のこの時期、誰もが忙しい時期であるにもかかわらず内容丁寧な文章を提出いただいた15期の皆さん本当にありがとうございます。

  今回のゼミ誌はあなたたち無くば完成しなかったでしょう(当然ですが)。

 

 表紙のロゴは私の作品 ゼミ誌担当Nより

 

  このゼミ誌原稿の文章を考えている時間、書いている時間がもったいない。なんて冷たいツッコミはご勘弁を・・・。

  きっといつか、振り返ってみたらこんなつまらない話や、くだらない事書いたなぁなんて、笑い話や、いい思い出になると思いますよ。

実は…僕も15期ゼミ誌担当Hより

 

ロゴについて

  上にも書きましたが、今回のゼミ誌のロゴはオリジナルで15期のゼミ誌係が作成したものです。

 一見なんとなく文字が書かれているようですが一応意味をこめてあります(しかも、本誌には載っけてないのでこれを見た人のみが知れるという特典つきです)。

 

  パット見でわかると思いますが「N」は日本大学のNです。

 

  日大カラーで文字色をつけてあり、尚且つ「NIHON UNI‘S」なんて書いてあるので簡単にわかってもらえたかとは思います。「そんなもん簡単すぎて意味をこめたうちにはいんない」なんて批判が聞こえてきそうですがご勘弁を・・・。

  ここからがちょっと頓知が利いてます。

   「S」をごらんいただくと外の物とかなりデザインが変わってます、そう!ありえないくらいに伸びた線をしています。さぁ、これから何が連想されるかというと

 

放物線の線で描かれているSは「流れ星(Star)」なのです。

 

  この広い宇宙を燦然と輝きながら駆けていく流れ星、しかも日大の上(ロゴの意味的に)を、放物線を描きながら歪むことなく一線を描いています。

 

「流れ星→星→輝く」

 

  つまり、これは甲斐先生が日大の中で一際輝きながら存在していることの様ないし甲斐ゼミがこれからも輝いていってほしいという願いを表したものなのであります。

  とこんな感じで作ったというのを一応誰かに知って欲しくてここに書いていますが、ページの都合上と小っ恥ずかしさから本誌には載っけないのであしからず