外国人の再入国の自由

甲斐素直

問題

アメリカ合衆国国籍を有するXは、英語教師として就業するために日本に入国しそれ以降10年に渡り沖縄で生活してきた。在日期間中にXは普天間飛行場移設反対などのデモや集会に参加した。

 その後Xは外国への観光旅行を計画し、入国管理法261項の再入国許可を申請した。ところが、法務大臣Yは右のXの政治活動を理由に申請を不許可とした。

 本件に含まれる憲法上の問題点を論ぜよ。

<参考条文 出入国管理及び難民認定法>

261

法務大臣は、本邦に在留する外国人がその在留期間の満了の日以前に本邦に再び入国する意図をもって出入国しようとするときは、法務省令で定める手続きにより、その者の申請に基づき、再入国の許可を与えることができる。

この場合において、法務大臣は、その申請に基づき、相当と認めるときは、当該許可を数次再入国の許可とする事ができる。

 

[答案構成のポイント]

(一) 問題の分析

 昔は単に「外国人の人権」というタイトルで出題が行われた。しかし、近年では外国人の人権に対する研究が進んだ結果、そのように大きなタイトルでは、限られた時間と紙幅でまとめることは到底不可能になってきて、何らかの形で問題の絞り込みが行われるようになってきた。解答に当たっては、その絞り込みがどのような点に向けられているかを把握して、その絞り込みに正確に対応して解答するようにしなければならない。

 本問の場合、二つの点で絞り込みが行われている。第一に外国人一般ではなく、わが国に現に在留している外国人に限定している、という点である。第二に、論ずるべき人権は表現の自由と再入国の自由に限定されている、という点である。

(二) 背景となる事実

 国という理念は、近代市民革命の嫡出子である。近代以前においては、ルイ14世の「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、国家とは同一人に忠誠を誓う人の集団であり、その人が存在をやめ、あるいは忠誠の誓いを放棄した瞬間に崩壊するような脆弱で一時的な存在でしかなかった。したがって、逆に、どこの土地に生まれ、また住もうとも、王に忠誠を誓えば、国家の一員と考えられた。アーサー王物語で、その騎士の1人にフランス人のランスロットがいて活躍するのがよい例である。

 しかし、市民革命によって国民理念が成立すると共に、この国民という集団に属さないものを、外国人として差別的に扱うことが始まったのである。権利も、近代国家出現以前においては、神の法として、すべての人に平等に適用されることを当然としていたが、近代国家は権利の主体を国民とし、それ以外の者の権利を原則的に否定するにいたった。万民の自由を叫ぶ市民革命が、外国人差別の生みの親というのは、ある意味で歴史の皮肉ということができる。

 主権国家概念が確立すると、国内において、誰をどのような基準で国民と扱い、また、国民の中での差別ないし外国人に対する差別をどのような形で行うかは、各国の主権に属する問題と考えられるようになった。したがって、他国の価値観から見た場合には著しい差別ないしは弾圧が行われたとしても、それに対して国際社会がクレームを付けることは内政干渉であって許されないとされていたのである。

 しかし、ナチスによるユダヤ人の弾圧や虐殺に代表される全体主義の暴虐を各国の内政問題として黙視したことが第2次世界大戦に発展した苦い経験から、国際社会は、平和と人権は不可分の関係にあること、したがって人権を各国が国内的に保障するだけでは不十分であることを認識した。このことは、国連憲章13項が平和維持と並んで、人権と基本的自由の尊重の達成を国際連合の目的として掲げている点に端的に現れている。このため、国連では早い時点から国際的人権章典の制定を目指して活動を開始し、それがまず政治的宣言としての世界人権宣言に、ついで法的効力を持つ国際人権規約という形で結実したということができる。わが国は、国際人権規約を1979年(昭和54年)に批准し、それは同年9月に発効している。

 国際人権規約は、少数民族又は難民のような特定の集団ないし個人ではなく、すべての個人の人権を包括的に保障することを目的とする。すなわち、内外人平等を含む人間平等を基本理念としている。社会権を対象とするA規約と自由権を保障とするB規約とに分かれている(ちなみに、社会権概念が国際的に確立するのは、このA規約が端緒となる。)。

 両者はその実施義務に差異が存する。すなわち、実施義務についてはB規約が即時の実施を義務づけているのに対してA規約は漸進的な実現が国家の義務となっている。もっとも、それは途上国に対する配慮であって、日本にとっては両者間に差異はない(日本はA規約に関してかなりの留保を行っており、問題とされる。)。

 したがって、条約について国内法的効力及び法律に対する優位を承認する限り、同規約の国内発効の瞬間に、それに抵触する法律等はすべてその効力を失い、判例は先例としての価値を失っている。外国人の人権に関するもっとも有名な判例であるマクリーン事件は最高裁昭和53年の判決であり、今日においては人権規約に抵触する限りで、その先例としての意義は失われている、と考えている。学説に関しても、外国人に関して人権を全面的に否定する説や、否定した上で準用を主張する説などは、規約と矛盾するので、やはりその存在の根拠を意味を失ったものと評価することができるであろう。しかし、その後においても森川キャスリーン判決など、問題のある判決が続いており、わが国判例における保守色は必ずしも完全に払拭されたとは言えない。

 

一 総論

(一) 外国人の権利の法源

 今日、国際化時代を迎えて、外国人の権利には様々な法源が存在している。大きく分けるならば、国内法と国際法とに分類することができる。

 国内法は、憲法を最高法規として、それの下に出入国管理法や外国人登録法等の諸法制が存在している。わが憲法の解釈に当たっては、その基本原理たる個人主義、すなわち個人の尊厳の尊重という原理に照らし、すべての人が人権の享有主体であると考えられる。したがって外国人にも日本国憲法の人権保障は及ぶと解される。判例も、非常に早い時点から「いやしくも人足ることにより当然享有する人権は不法入国者といえどもこれを有する」(最判昭和251228日)としてこの理を確認している。形式的根拠としては、日本国憲法の英文をあげることができる。日本国憲法では、その英文は日本語の翻訳ではなく、正文とされているが、第3章の人権に関するすべての規定は広くpeopleを主語としており、主体を日本人に限定したものとはなっていないのである。

 しかし、フランスやドイツの憲法と異なり、わが国現行憲法は外国人の人権については直接論及していない。このため、外国人に関わりのある法律の解釈に当たって、今日においては、そのよりどころとなるのは、憲法よりは、むしろ、次に述べる国際法の方が重要なものとなっている。

 国際法は、確立された国際法規、すなわち国際慣習法と、わが国が締結した条約とに分類することができる(憲法982項参照)。しかし、国際慣習法は、主権国家の絶対性が強く意識されていた時代に成立したものが多く、その後、国際連合の成立を経て、大なり小なりその修正は避けられない。こうしたことから、今日、法源として特に重要なのは、国連が中心となって制定した一連の国際法規たる条約、すなわち国際人権規約、児童の権利に関する条約、難民条約などである。これらの条約においては、いずれも基本的に、外国人を含むすべての個人に対して平等に人権を保障すべき義務を締約国に課している。

(二) 権利の性質とその分類

 上述のとおり、憲法が基本的に内外人無差別の原則を取り、さらに国際条約がその原則の徹底をはかり、例外をきわめて限定していることは、今日疑問の余地はない。

 受験予備校の模範答案などでは「憲法の人権規定は可能な限り外国人にも及ぶべきである」とか「どの限度で外国人に人権主体性が認められるかが問題となる」という式の立論をする例があるが、これは誤りである。これは上記内外人無差別原則とは原則と例外を逆転させた、差別することを前提として、例外的に人権を許容できる場合がある、との発想に基づいており、今日の憲法学においては致命的な誤りと評価される。

 したがって、ここで問題となるのは、個々の人権について、例外的に外国人にその保障が及ばない場合があるか、あるとすれば、その範囲及び根拠は何か、という点である。すなわち外国人に人権保障が及ばないと結論する場合に、個別に根拠を要求するのである。今日、それは、個々の人権ごとの権利の性質そのものに基づいて考える必要があるとされている(いわゆる権利性質説)。

 人権の性質は、外国人との関係では次のような分類をすることが可能であろう。

 第1は、人権そのものの本質が、日本国民であることを、その享受の要件としている場合である。いわゆる参政権がこれに該当するとされる。

 第2は、公共の福祉の要求から制限することが許される場合である。これについては権利の性質に応じて、内在的性質にとどまる場合と、政策的制約も可能な場合が存在するであろう。なお、国際人権規約4条が「民主社会における一般的福祉を増進することを目的として」権利を制限することは認めるが、それは「法律で定める」場合にのみ可能とされている。

 第3は、我が憲法の適用範囲の問題である。すなわち、日本国民には属人主義に従い、その居所が国の内外であるを問わず人権保障が及ぶのは当然であるが、外国人については、属地主義に従い、原則として国内にある者にしか保障が及ばない。この点は、出入国管理との関係で問題となる。

 第4に、主権国家としてのわが国が、国内にある外国人を管理するという観点から許される最低限度の規制が考えられることになる。

(三) 外国人の意義

 かつては、単純に外国人という統一的な概念を使用して、これに人権が保障されるか、という非常にラフな形での議論が一般的であった。しかし、上述のように原則的には内外人無差別であって、ただ、例外的に権利の性質によっては外国人に保障されない人権があると考える場合、すべての外国人が、それらの権利において等しく問題になることはあり得ない。したがって、ある程度外国人を類型に分け、それに応じて、保障され、あるいは保障されない権利を考える必要がある。

 通常、外国人とは、日本国籍を有しないものの総称であって、大きく外国籍保有者と無国籍者に分けることができる。しかし、権利の性質から見る場合には、このような分類は意味を持たない。

 代わって、考えられているのが、@定住外国人、A難民、B一般外国人と大きく三者に分けるというものである。

 @の定住外国人は、さらに出入国管理法上の一般永住権者と、日韓条約等に基づく特別永住権者などに分類することができる。一般論として述べるならば、定住外国人については、その生活実態を重視し、可及的に日本国民と同様の人権保障がなされるべきである。

 Aの難民とは、国際難民条約において難民と認められるもののことで、いわゆる政治難民のみを意味し、経済難民は含まないとされる。難民については、条約はかなり徹底した内外人無差別を要求している。これを受けて、同条約の批准に当たり、わが国では、社会権関連の様々な立法においてもすべて外国人を差別する条文を削除した。

 Bの一般外国人は、さらに正規の滞在者と不法入国者ないし不法残留者に分けることができる。社会権のうちでも、例えば労災保険などは、不法就労者にも認められる一方、生活保護は正規の滞在者にも認められないなど、実務上、複雑な際がこの領域で発生する。

(四) 本問における「在留」の解釈

 本問では、「わが国に在留する外国人」だけを問題としている。したがって、人権の性質のうち、第3の国外にいる外国人は考慮する必要がない。

 外国人の分類としては、在留という言葉を定住と同視して考えることもできる。しかし、本問の論点が自由権と社会権とを対比して論ずる、という点にあることを考えると、両者の相違点が端的に現れるように、ここでは単に内国にあるすべての外国人という程度に広く解した方が、論文が書きやすくなると考える。

 

 二 表現の自由と外国人

(一) 総論

 自由権とは、国家からの自由を意味するから、それを保障するには、単に国家が干渉を控えれば足り、それ以上の費用を要しない。その結果、先の分類に属するあらゆる外国人に等しく保障されると考えて良い。もちろん、わが国憲法は、外国人に対しては属地主義的にしか及ばないが、本問では、わが国に在留する外国人だけに論点を限っているから、内外人無差別原則は、非常に強い形で現れると解することができる。

(二) 表現の自由と外国人

 表現の自由に代表される精神的自由権は、より高次の権利として保障される。このことは、国際人権B規約192項が「国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定める点に端的に現れている。したがって不法残留者も含めて、国内にいるあらゆる外国人は、自国にいるときと全く同様の表現の自由を有すると解するのが妥当である。

 この点につき、外国人は「@わが国の政治体制の変更を主張する活動、A国民の参政権の行使に直接影響を与える活動、Bわが国の特定の政治政策に影響を与え、その実施の妨害を目的とする活動、Cわが国と友好関係にある外国を誹謗するなど外交関係に悪影響を及ぼす活動」などを行う自由はない、とする見解がある(マクリーン事件における法務省の主張より)。

 しかし、マクリーン事件最高裁判所判決も、この様な見解は認めていない。即ち、

「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。」

 この判決中、中間の「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、」という部分が問題になるが、これと法務省の主張がイコールであると考える必要はない。問題は、むしろ、その審査基準にある。精神的自由権として認められる以上、その審査基準は外国人についても、厳格な審査基準であるべきである。ところが、マクリーン事件判決は、

「事実の評価が明白に合理性を欠き、その判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らか」

として、狭義の合理性基準で処理しているのである。

 これはわが国が国際人権規約を批准する以前(昭和53年判決)の議論であって、今日、そのまま妥当すると解するのは妥当ではない。むしろ、今日においては、他国の国内問題に対する発言が、自動的に内政干渉として主権国家に対する非礼を意味した時代とは異なり、今日の国際社会においては、例えば湾岸戦争、開発途上国援助や、中国やビルマ国内における人権弾圧に対する国際的非難などの動きにに端的に示されるとおり、国が他国に対して国家意思としてそのような活動にでる場合においてさえも、むしろ国際社会における当然の責務を果たしていると評価されるように変化している。まして、個人のレベルにおけるそうした表現活動が、通常の手段を執っている場合に、外国人に限って内在的制約に抵触し、制限されると考えることには無理がある。

 なお、マクリーン事件に付言すると、問題となったデモ行進に対しては、何ら国内法違反の行為がない(この点にキャスリーン事件との異質性がある)として問題とされていなかったのに、在留期間の更新が問題になったときに、にわかにデモ行進が問題となって更新拒絶=実質的な国外追放が行われたのである。このように、表現行為それ自体に国内法上問題がない場合に、単に外国人の管理目的で存在する法制(警察規制)を利用して、その法制が本来の目的としないわが国の政策的利益の実現のため、在留許可の更新拒否という挙に出ることは、警察消極の原則に照らし、国際人権規約を批准していなかった53年当時においてすら、明らかに憲法違反であったと考えている。

三 居住移転の自由と外国人

 居住移転の自由は、伝統的に政策的制約の認められる自由である。外国人について特に問題になるものとしては、入国、再入国及び在留の自由がある。この権利を考える場合には、再び、外国人の分類が大きな問題となる。

(一) 入国の自由

 入国の自由が問題となる外国人は、一般外国人のみである。定住外国人は、国内にある者のことであるから、入国の自由は考える必要がない。難民には、難民条約上、入国の自由が認められているから、これを入管当局が制限することは考えられない。

 外国人が初めてわが国に入国する自由については、基本的に人権保障が及ばないと考えられる。すなわち、冒頭にも述べたとおり、外国人に対する憲法保障の効力は基本的に属地主義によるとみられる(難民のように、わが国の批准した条約により例外的に国際主義を採用しているものを除く)。したがって、未だ入国していない外国人に対しては、この入国の自由を憲法上全面的に認める必要はない。

 ただし、国際協調主義を採用するわが国としては、かっての国際慣習法のように、入国許可の判断は完全に入管当局の裁量に属するというがごとき、鎖国ないしそれに準ずるような入国管理政策を採ることは違憲である。原則的に外国人の入国の自由を認めた上で、国家の独立と安全を侵すとか、公序良俗に違反するとかの行為にでる恐れがある場合に、例外的に入国を拒否できるに止まると解する。

 なお、この分野で今日、権利性が承認される特殊な場合として、「離散家族の結集権」の問題がある。すなわち、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する」(B規約231項)から、それが国境によって隔てられている場合には、結集する国際法上の権利を有するということができる。特に、児童については、児童の権利に関する条約93項において「締約国は、児童の最善の利益に反する場合を除くほか、父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重」されることとなっている。したがって、そうした者は基本的に入国の権利を有することとなる。ただし、わが国は、この条約の批准に当たり、これが国の裁量権を否定するものではないとの解釈宣言を行っているが、それにしたがう場合でも、裁量権が大幅な制約を受けることとなることまでは否定できない。

(二) 出国の自由

 国際人権B規約122項は、「すべての者は、いずれの国(自国を含む。)からも自由に離れることができる」と定めて、出国の自由の存在を確認している。したがって、わが国国内においては、すべての日本人がこの自由を有し、また、すべての外国人がこの自由を享受できることは明らかである。

 これに関して、出入国管理法が出国に当たって一定の手続を要求し、この手続を遵守しない者を密出国として処罰することが問題となる。これについて、最高裁は日本人であると外国人であるとを問わず、「本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであって、合憲性を有する」としている(昭和321225日大法廷判決=百選〈第5版〉4頁参照)。思うに、出入国管理は、主権国家としての当然の権能であり、管理に必要な限りで制限が発生することもまた当然の帰結である。したがって、国の出入国管理という目的達成に必要な限度における出国の制限は、決して出国の自由そのものを否定するものとは言えない。

(三) 再入国の自由

 本問で中心問題となっているのがこれである。

 森川キャスリーン事件に先行して、判例上問題となった事例としては、在日朝鮮人が、1968年の北朝鮮創建20周年の祝賀式典に出席しようとしたが、わが国入管当局が再入国の許可を出さなかったので争われた事件がある。この事件の場合には争っているうちに、祝賀式典の期日が過ぎてしまったために、そのことを理由に訴訟は打ち切られた(最高裁昭和451016日判決)。しかし、それに先行する東京高裁の判決は、入管当局の審査の不当性を厳しく指摘している。これを受けて、入管当局は、1972年の金日成首相誕生60周年記念行事に参加するため再入国申請を行った祝賀団13人に対しては、そのうち6人について親族訪問の名目で再入国を許可し、又北朝鮮建国記念日の祝賀団についても1973年以降は原則的に再入国を認めるようになっている、という(宮崎繁樹「外国人の人権」ジュリスト586号参照)。

 ところが、その後に発生した森川キャスリーン事件において、判例は再び大きく保守的に旋回した。この事件に於ける最高裁判所判決は極めて短く、事実上内容がない。即ち、出国の自由に関して引用した昭和32年大法廷判決及びマクリーン事件判決を上げて、次のように述べただけである。

「我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されているものでないことは、当裁判所大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違憲はない。論旨は採用することができない。」

 しかし、この二つの判決で問題になった事件と、森川キャスリーン事件は全く異質であり、この立論が正しいとは言えない。即ち、32年判決の場合には、密輸の目的で出国しようとした者が出国の自由を主張したものであり、また、マクリーン事件の場合には、わが国に在留を希望した者に対し、在留許可の更新を拒絶したので、結果としてみれば、強制的に国外に退去させようとした事件である。

 その問題点を以下、順次説明したい。

 これが問題となるのは、専ら定住外国人である。すなわち一般の外国人が、一旦出国した後、再入国する場合の問題は、上記の通常の入国の自由の場合と全く変わりがない。

 これに対して、わが国国内に生活の基盤を築いている定住外国人について、いったん出国した場合における再入国の拒否は、そうした生活基盤の破壊を意味する。それは単なる経済的利益の剥奪にとどまらない全人格的な侵害となる場合があり得る。その場合には、政策的制約の可能な自由権と解するべきではなく、高次の自由権に属すると解すべきである。

 また、再入国の許可権が、事実上出国の自由の制限として機能していることを看過してはならない。すなわち、わが国が再入国に当たり、制限的な運用をしていることは広く知られていることから、それらの外国人はむしろ事前に法務当局の見解をたずねるのが普通である。その結果、再入国が許可できないとされた場合は、結局、出国そのものを断念しなければならなくなるからである。そして、出国の自由は、日本人であると外国人であるとを問わず、すべての人に認められるものであることは、国際人権規約の明定するところである。

 したがって、一般外国人の再入国者と異なり、再入国の自由は定住外国人の基本的な権利として尊重されなければならない。個々の場合に関して述べるならば、入国を拒否することにより得られる日本国の利益と侵害する個人的利益との厳密な利益考量の下に、その当否を決定しなければならない。簡単にいってしまえば、再入国の拒否は、当該外国人がわが国に居住を続けている場合には、強制国外退去処分を受ける場合でない限り、許されないと考えるべきである。そして、マクリーン事件の場合には、その判断の当否における審査基準に問題があるにせよ、まさに好ましからざる人物として国外退去させた事件である。

 ところが、森川キャスリーン事件の場合には、再入国を拒否した結果として、その人物がそのままわが国国内に止まり続けるという事態が発生する。再入国を拒否しなければならないほどに、好ましからざる人物であれば、速やかに退去させるのが筋であり、退去させる必要がない人物であれば、再入国を認めても、何ら問題はないのである。即ち、再入国の拒否は、基本的に論理矛盾といわざるを得ない。

(四) 在留の自由

 わが国に生活の本拠を有する外国人や日本人と婚姻している外国人に対しても、その在留許可の期間は比較的短く設定されているのが普通である。その理由について、法務省では「本邦への上陸審査において、上陸許可要件のうちにはその性質上十分な審査が困難なものもあることにかんがみて、許された在留期間内における外国人の在留状況からみて、更に在留を認めるか否かについて再審査する機会を確保する必要があるからである」としている(マクリーン事件における法務省の主張より)。このように、在留期間は決して在留が許された期間を意味するものではなく、国として外国人管理の目的から設定している次回出頭までの期間と解するのが妥当である。

 最高裁も「外国人といえども、第22条第1項の居住の自由の保障の結果、合理的な理由の存しない限り、ひきつづき在留を求める権利がある」としている。 「なぜなら、第一に在留期間更新時には入国許可申請時とちがつて、外国人はわが国の統治権に服し、憲法で定める基本的人権を享受している。第二に、新規入国の場合には、入国しようとする外国人の人柄もわからず、日本に生活の本拠をもたず、入国後の行動にも不安があるが、期間更新の時点では、人柄もわかつており、日本に生活の本拠を有し、また退去強制事由に触れるようなこともなく、長期にわたつて日本の社会に平穏に居住している者は日本国の安全を脅やかしたり、福祉を妨害したりしない者であることが実証されている。第三に現実の在留期間が在留目的に比し、著しく短く一律に決められ、従つて期間更新が数度にわたり認められることが原則となつている実情のもとでは、外国人は数度の期間更新を期待して在留を開始し、それなりの生活基盤を日本国内で築くのが普通である以上の点に鑑みれば、在日外国人としては、憲法第22条1項により、公共の福祉に反しない限り、在留目的に照らして合理的な期間内は在留期間の更新を受けることが保障されているというべきであ」るからである(最判昭和32619日大法廷判決)。