昭和女子大事件といわゆる部分社会の法理

甲斐素直

 

補論1 「いわゆる部分社会の法理」の射程距離

補論2 人権の私人間効力について

 

問題

 Yは、「穏健中正な思想」を教育の指導精神とし、保守的教育で知られる私立大学である。Yでは、その指導精神に基づき「生活要録」という名称の学生心得を定めており、その中で、学内における政治活動を禁止すると共に、外部の政治団体への加盟を禁止していた。ところが、同大学学生であるXは、生活要録の規定に反して、左翼系の過激な活動を行うことで知られる政治団体Zに加入し、また、大学構内で学友に対し、Zへの加入を求めるビラを配布した。

 そこで、YはXに対し停学1ヶ月の処分に付すると共に、Zからの脱退を求めた。これに対し、Xはマスコミに、Yの処分を憲法21条に違反するとして批判する談話を発表した。Yは、このような一連の行動は、生活要録に違反し、Y学生たるにふさわしくないとして、Xを改めて退学処分に付した。

 Xは退学処分無効及び学生身分確認の訴えを提起した。これに対し、Yは、そもそもこのような学内の処分は、司法判断になじまないと反論した。

 Yの反論における憲法上の問題点を指摘し、論ぜよ。

[はじめに]

 本問は、出題者にも警告したのだが、ちょっと難しい問題である。本問そのものは、比較的忠実に昭和女子大事件を事案化している。昭和女子大事件といえば、憲法判例百選には人権の私人間効力の問題に関する判例として掲記されている。だから、諸君としては、私人間効力の問題としてまとめたいと思うであろう。

 ところが、少なくとも判例にしたがう限り、そうはいかない。なぜなら、富山大学事件と呼ばれる最高裁判例が存在しているからである。そして、後述するとおり、最高裁は、そこで説かれたいわゆる部分社会の法理は私立大学にも適用になると明言しているからである。したがって、現時点で、この事件が起きたならば、大学側は当然にいわゆる部分社会の法理にしたがって争うことが予想される。実際、本問におけるYの主張は、そのことに他ならない。だから、本問の回答は、私人間効力論などは無視して、いわゆる部分社会の法理について議論を展開するのが正しい、ということになる。私人間効力論は書かなくてよい。

 憲法訴訟論的な説明を加えると、こうなる。いわゆる部分社会論は、司法審査の対象となるか否かを論ずる。それに対して、私人間効力論は、司法審査の対象となることを肯定し、かつ民法90条を適用した上で、Yの処分が、公序良俗違反といえるレベルか否かを判断している。したがって、論理的には常にいわゆる部分社会論が先行する。そこで、後に説明する有害説を採用してこの説の適用を排除し、司法審査の対象になると確定して、はじめて私人間効力論を論じる余地が生ずるのである。いわゆる部分社会論において、無益説(これが通説か?)ないし原則肯定説を採用する場合には、Yの主張通り、学園内紛争であって司法審査の対象にはならないという結論が導かれるから、私人間効力論に議論が届くことはないのである。

 

一 問題の所在

(一) いわゆる部分社会論の本質について

 裁判所というものの持つ様々な性格上の限界から、裁判所が、司法判断を下すことを回避するという結論を下す場合が良くある。例えば、私が諸君に対し、不可という評価を与えたとする。それに対し、いや自分は絶対に優のはずだ、と訴えても裁判所は取り合ってくれない。成績評価は、学問的な問題であって、法的判断になじまないという理由からである。富山大学事件は、それによく似ている。

 しかし、教員による成績評価の当否自体が争われているのではなく、学内における行政処分で、特定教員に成績評価権を認めないとしていることが争われている。その結果、法的判断にはなじみうることになる。しかし、学内における処分それ自体が、司法判断を下すのに適当な問題なのか、という基本的な疑問が存在する。つまり、大学の内部に、国家権力の一環である司法権が介入して良いのか、という問題である。

 この判決以前においては、このような場合に、司法介入を回避するという結論を説明する手段として、判例は二通りの論理を持っていた。私立大学の場合には、私人間効力論である。本問が事例化している昭和女子大事件が、そのリーディングケースである。この場合には、一応司法審査の対象とした上で、実質的には判断を回避する。

 それに対し、国公立大学の場合には、特別権力関係論を採用していた。富山大学事件の第1審、第2審は、いずれもその立場である。しかし、拘置所における在監者の人権に関して、判例は特別権力関係論を否定しているのに、国公立大学で認めては理論的な一貫性に乏しい。そこで、本判決で、それに代わって登場したのが、いわゆる部分社会論である。

 そして、判例はこの理論は、次の通り、単に国公立校だけではなく、私立校にも適用になると明言している。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものである」

 したがって、この判例に先例性を認める限り、昭和女子大事件も、この判決理論のうちに含めて考えていかねばならない。そこで、問題は、この事件の射程距離がどこまであるか、である。

 上記昭和女子大事件の場合、学生は退学になっている。あるいは、後で説明する日本共産党・袴田事件では、袴田里見は共産党から除名になっている。つまり、富山大学事件の論理的を当てはめれば、どちらも一般社会との交わりがある処分ということになりそうである。それでも裁判所は、いずれについても司法判断を拒否している。特に、袴田事件の場合には、富山大学判決と同じ、いわゆる部分社会論を使用しているだけに、統一的な説明の必要に迫られることになる。

 つまり、富山大学事件の場合にも、経済学部事件だけではなく、大学院専攻科事件においても、司法判断の回避という結論を下す余地はあったのである。あるいは、私立大学と国公立大学では、司法介入を許す余地に違いがあると立論して、富山大学事件と昭和女子大事件の落差を説明する方策を採用することもできる。とにかく、この判例だけを見るのではなく、一連の最高裁判決の流れの中で、この判決の射程距離を見極める必要がある。

(二) 施設利用権について 

 富山大学事件判決には、奇妙な表現が現れる。大学を卒業する権利のことを、「学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利」だといっているのである。公の施設を利用する権利とは、例えば、地方自治法244条が明言している権利である。すなわち、

「普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。

 普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。

 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」

 すなわち、公の施設とは、図書館とか公民館というように、誰でも利用できる施設のことで、だからこそ、施設側の一方的判断で使用を拒めば、例えば泉佐野市民会館事件のように、その合憲性が問題になるのである。

 しかし、大学というものは、本当に一般市民の誰もが利用できるのだろうか。本当に大学側の一方的判断で使用を拒まれることはないのだろうか。例えば、諸君が富山大学を受験して落ちた場合に、入学許可処分を求めて訴訟を起こしたら、本当に裁判所は、諸君を入学させることにより明白かつ現在の危険が発生するとは認められないから、入学拒否は違憲であるといって救済してくれるのだろうか。

 明らかにそうではない。つまりこの論理は、難しい法律論を展開するまでもなく、明らかにおかしい。

 何でこんなおかしなことを最高裁判所が言うのかというと、それは東大ポポロ事件(百選第5188頁)のためである。この事件で、学生側は、警察の活動が大学の自治を侵害していると主張した。それに対し、最高裁判所は、学生に学問の自由の主体性を否定し、したがって大学の自治の主体性も否定した。そして、学生の権利は、単なる公の施設の利用権であると論じたのである。

 後で説明するとおり、本問では、いわゆる部分社会論をどのようにとらえようと、最終的に大学の自治を避けて論じることはできない。だから、間違っても、こういうおかしな所をそのまま論文上に再現してはいけない。

(三) 記述上の問題点

 諸君の論文を見て、その他、記述上、問題と認められた点をまず説明しておく。

  1 「いわゆる」

 この問題は、神経質に「いわゆる」の語を付して論じなければならない。「いわゆる部分社会」という概念は、普通の「部分社会」という概念とは全く別のものだからである。普通の部分社会は、典型的には本の売買契約などをメルクマールとして発生する。永続的なものであれば、民法上の組合や商法上の会社がそれで、それらについて、いわゆる部分社会論を適用した議論をすることはない。したがって、この二つを混同して論ずると、大変な間違いと評価される危険があるからである。

  2 自主法の存在と司法審査の限界

 いわゆる部分社会論について書かせると、かなりの人が、いわゆる部分社会に、自主的、自律的な法が存在している、ということを認定し、そこから、いきなり司法審査の限界になることを肯定する、という書き方をする。これも、普通の部分社会というものを理解していないことから来た誤りである。

 部分社会というものは、どれでも、それ固有の自主的・自律的な法を有している。それが部分社会というものの基本的な定義だからである。すなわち、そうした自主的・自律的な法の存在をメルクマールとして、社会の他の部分と識別できる部分集合のことを部分社会と呼ぶのである。

 普通、部分社会において紛争が生じた場合には、裁判所は、その部分社会の自主的、自律的な法を把握し、それを基準に紛争を解決する。たとえば、売買契約をメルクマールとする部分社会であれば、その当事者が合意した契約内容を把握した上で、それを基準に紛争を解決する。株式会社内部の紛争であれば、取締役会や株主総会決議の内容を把握して紛争を解決する。ただし、たとえば契約内容が公序良俗に違反していたり、少数株主権を侵害していたりすれば、裁判所は、その部分社会の法を排除して、全体社会の法である民法や商法の規定を直接適用して、紛争を解決することがある。

 したがって、自主的・自律的な法の存在だけを根拠として、いわゆる部分社会の法理が述べるところの、司法審査権の限界を導くことは、絶対に不可能なのである。司法審査権の限界を導くには、単なる部分社会と異なる、「いわゆる部分社会」にだけ存在する特殊性を指摘する必要がある。

 

二 判例の見解

いわゆる部分社会の法理が、判例の発展の中から現れてきたことについては疑問の余地がない。したがって、本問を論ずるに当たっては、どのような判例で、どのような議論を行ってきたかを理解しておくことが必要である。

 関係する重要な判例はたくさんあるが、紙幅の都合もあるので、理論的に重要な、次の三つの判例に限定して説明する。すなわち、@村議会議員懲罰事件、A富山大学単位認定事件およびB日本共産党袴田里見事件である。

(一) 村議懲罰事件(昭和351019日大法廷判決)

 いわゆる部分社会論に関する嚆矢といえるのは、米内山事件(最大昭和28116日=行政判例百選に載っているので参照のこと)における田中耕太郎判事の少数意見である。それが発展してきて、この判決に至って、最高裁判所多数意見が初めて部分社会の法理を使用することを述べた、という点で、この事件は重要である。ここでは、最高裁は次のように述べた。

「司法裁判権が、憲法又は他の法律によつてその権限に属するものとされているものの外、一切の法律上の争訟に及ぶことは、裁判所法三条の明定するところであるが、ここに一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない。一口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあるのである。けだし、自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあるからである。本件における出席停止の如き懲罰はまさにそれに該当するものと解するを相当とする。」

 要するに、ここではすべての部分社会ではなく、「自律的な法規範をもつ社会」においては、その内部自律に関する紛争は「必ずしも、裁判にまつを適当としないものがある」と述べるにとどまり、裁判で解決するのがふさわしくない問題とは何かについては、一般的な形では全く論及しなかった。

 この判決では、それに先行する米内山事件や板橋区議事件(最大昭和3539日)との差異を明確にする目的から、傍論としてであるが、次のように述べた点にもう一つの特徴がある。すなわち、

前述した二件の事件では、「議員の除名処分を司法裁判の権限内の事項としているが、右は議員の除名処分の如きは、議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らないからであつて、本件における議員の出席停止の如く議員の権利行使の一時的制限に過ぎないものとは自ら趣を異にしているのである。従つて、前者を司法裁判権に服させても、後者については別途に考慮し、これを司法裁判権の対象から除き、当該自治団体の自治的措置に委ねるを適当とするのである」。

 要するに、懲罰だから司法権は及ばないのであって、除名では及ぶのである。しかし、どのような点で重大性があれば、司法権が及ぶことになるのかは、この判決でははっきりしない。

(二) 富山大学単位認定事件(昭和52315日大法廷判決)

 この判決は、いわゆる部分社会の法理の内容を明確にした最高裁判決という意味で重要である。そして、内容的には、同じ単位の認定事件でありながら、卒業資格に直結する大学院専攻科の学生と、直結しない学部の学生とで区別して論じた、という点で重要である。学部の学生に関しては、最高裁は次のように述べた。

「裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが(裁判所法31項)、ここにいう一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争を意味するものではない。すなわち、ひと口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするものもあるのであつて、例えば、一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならないものと解するのが、相当である。」

この後に、先に紹介した、大学は国公立であると私立であるとを問わず、このような特殊な部分社会だ、という記述が行われることになる。

 この判決でも、主体となる部分社会そのものは、単に「自律的な法規範を有する特殊な部分社会」と呼ばれているだけで、その範囲に関しては、はっきりしない。しかし、司法権の及ぶ限界については明確化した。すなわち、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」というのである。

 この点から、この判決では大学院専攻科の学生については、一般市民法秩序の問題と位置づけて部分社会論を排除した。

「思うに、国公立の大学は公の教育研究施設として一般市民の利用に供されたものであり、学生は一般市民としてかかる公の施設である国公立大学を利用する権利を有するから、学生に対して国公立大学の利用を拒否することは、学生が一般市民として有する右公の施設を利用する権利を侵害するものとして司法審査の対象になるものというべきである。そして、右の見地に立つて本件をみるのに、大学の専攻科は、大学を卒業した者又はこれと同等以上の学力があると認められる者に対して、精深な程度において、特別の事項を教授しその研究を指導することを目的として設置されるものであり(学校教育法57条)、大学の専攻科への入学は、大学の学部入学などと同じく、大学利用の一形態であるということができる。そして、専攻科に入学した学生は、大学所定の教育課程に従いこれを履修し、専攻科を修了することによつて、専攻科入学の目的を達することができるのであつて、学生が専攻科修了の要件を充足したにもかかわらず大学が専攻科修了の認定をしないときは、学生は専攻科を修了することができず、専攻科入学の目的を達することができないのであるから、国公立の大学において右のように大学が専攻科修了の認定をしないことは、実質的にみて、一般市民としての学生の国公立大学の利用を拒否することにほかならないものというべく、その意味において、学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利を侵害するものであると解するのが、相当である。」

 これは、第一の事件で、除名と懲罰とを区別して論じていた点とも対応する議論となる。つまり、この判決までであれば、判例の論理は一貫していると一応言いうる。

(三) 日本共産党袴田里見事件(昭和631220日第3小法廷判決)

 この判決は、除名が明確に部分社会の問題になる、と判決した点で重要である。最高裁は次のように述べた。

「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当とし、したがって、政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」

 この判決では、一見すると、第一及び第二の判決と同じ論旨を展開しているように見える。しかし、決定的な一点で異なっている。それは、袴田氏が日本共産党から除名されているにも関わらず、それを「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」という理由の下に救済を拒否している点である。先に強調したとおり、第一及び第二の判決では、裁判所は懲罰と除名あるいは単に認定と卒業認定を区別して、後者については司法権が及ぶという姿勢を示した。第二の判決では実際にその旨の本案判決を行っている。ところが、本判決では、除名に対して司法権が及ばない、と明言したのである。

しかもこれは判例変更ではない。すなわち、先の二つの判決がいずれも大法廷判決であるのに対して、これは第3小法廷判決なのである。したがって、市民法秩序との関わりという点において、部分社会の種類によって異なる判断を許容する、という姿勢が裁判所には存在している、と見ることができる。この事件の場合には、いわゆる部分社会論ではなく、私人間効力論で処理することも可能であろう。しかし、日本新党繰り上げ当選事件のように、政党の公的性格が問題となる場面では、それが使えないことは明らかである。

 

三 自説の展開

この問題をどのように解決するにせよ、いわゆる部分社会論というものに対する見解は、明確に示さなければならない。

 この問題に対する学説の対応は、大きく二つに分けることができる。すなわち原則的肯定説と、否定説である。否定説はさらに大きく二つに分けられるから、学説的には3つに分類できることになる。

(一) 有害説

 第一は有害説である。例えば戸波江二は、いわゆる部分社会論は、過度の司法消極主義の原因となり、あるいは裁判を受ける権利の侵害になるので有害であり、速やかに放棄すべきである、とする。有害説を採る場合には、判例の問題点を指摘していけば、判例の見解に対しては、自ずと答案ができあがる。例えば、

  1 部分社会とされる団体には、地方自治体の議会、国立大学の一学部、政党というような異質のものが混在しており、論理的一貫性がない。すなわち政党はともかく、前2者は通常の場合には、通常は団体の一部であって、団体とは認められていないのである。

  2 司法権が及ばないとする根拠が大雑把にすぎ、説得力がない。内部自律には及ばない、というが、それがどのような場合なのかは、日本共産党事件と他の事件とで矛盾を示しているように、統一ある理論を構築できていない。

  3 大学や労働組合の処分で、司法審査を行っている事例もあり、どのような場合に部分社会論が妥当するか、はっきりとしない。

というようなことを書いていけばよいわけである。

 問題は、それに代わって、どのような理論でこの問題を解決すればよいのかがはっきりしないことである。この説は、いわゆる部分社会論を採用した場合には「団体によって不利益処分を受けた構成員の救済が図られない(戸波江二[新版]436頁)」と主張しているから、学部・大学院専攻科の別なく、実体判断を求めているように思える。しかし、それが本当に大学の自治に対する裁判所のよる干渉とならないのか、という問題がある。その点には基本書は回答を与えてくれていないから、そうした問題点については自力で理論を構築しなければならない。そして、本問の場合、冒頭にも述べたとおり、ここからは私人間効力論の議論につなげていくことになる。

(二) 無益説

 第二は、無益説である。地方議会の自律については地方自治の本旨(92条)から、大学の自律については大学の自治(23条)からそれぞれ部分社会論を使用した場合と同様に処理しうるので、このような統一理論は不要とする立場である(芦部信喜、佐藤幸治、樋口陽一等)。

 無益説を採る場合には、上記のようなばらつきを指摘した上で、判決がとろうとしている結論は、要するに、地方自治(92条)、大学の自治(23条)、結社の自由(21条)、宗教的結社の自由(20条)等の理論をきちんと構築していけば自ずと解決できるものであって、部分社会の法理というような特別の理論を必要とするものではない、と論じていけばよい。 その上で、大学の自治の理論から、司法介入を禁じると説けば、同じ結論が導けるはずである。ただ、この立場では、おそらく学部と大学院専攻科の別なく、否定するのが妥当であって、判決のように区別した議論にはならないのではないかと思う。もちろん、その辺は諸君の大学に自治に対する理解次第である。

 本問の場合、私立大学であるから、大学の自治に対する国家権力の介入はより厳しく制約されると考えることができる。したがって、やはりYの主張が肯定されることになる。

(三) 原則肯定説

 原則的肯定説は、この無益説に非常に近い立場である。例えば伊藤正己は

「部分社会と司法権の関係については共通の問題があることを意識しつつも、これを一律に考えるのではなく、当該団体の目的、性格、社会的役割などを考慮して判断することになろう」(第3268頁)

と説く。すなわち、部分社会という認定の下に機械的に同一に扱おうとするのではなく、個々の問題についてそれぞれの特徴に応じて個別に処理することを肯定しつつ、そこに特定の性格の部分社会としての共通性を認めているに過ぎない。したがって、共通性の承認という点を除くと、この説と無益説とはかなり近い考え方を示すことになる。現実の判例は、前述のとおり、この説で理解しやすい。すなわち、部分社会という概念で画一的に一定の範囲について司法審査を排除するのではなく、部分社会の性質に応じて、その範囲が変化するからである。

私自身はこの説を採る。そこで、この説について、もう少しきめ細かく説明してみたい。

 いわゆる部分社会論の難点の一つは、「自律的な法規範を持つ社会」と述べるだけで、その概念を明確化していない点にある。

 しかし、それをいきなり判例に期待するのはそもそも無理と考える。これは、具体的事案を離れた過度の一般化を禁ずるブランダイスルール3の要求するところだからである。そもそも憲法訴訟における様々の理論、すなわちブランダイスルール、二重の基準、合理性基準などは、いずれも、単一の判決によって一挙に成立したものではなく、数多くの判例の積み重ねの中から、徐々に構築されてきたものである。いわゆる部分社会論も、同様に、そうした判決の積み重ねの中からその含意するところを把握し、構築していくべきものであって、いきなり完成品を望むのは妥当な姿勢とは言えない。

 司法権が及ばない、とする根拠が大雑把である点も、同様に、判例の積み重ねの中で解決されるべき問題であろう。実際に、判例はきめ細かな対応を示している。国や地方公共団体の機関における除名や退学には司法審査が及ぶとする一方で、日本共産党のようなきわめて政治色の強い団体については、除名までも内部自律の問題とする。同様に、昭和女子大事件では、私立大学からの退学は人権の私人間効力の否定から、実質的には司法審査が及ばない、とした。

 このような問題について、果たして個別の法理でどこまで対応できるのかは疑問である。例えば、同じく地方自治の尊重といっても、県議会内部における懲罰と、知事部局における懲罰とでは異質のものがあり、92条だけからそのことを説明しきれるとは思えない。むしろ、いわゆるいわゆる部分社会という共通性からアプローチをとる余地が十分にあり得るのではないか、と私は考えるのである。その上で、個々の団体の性質に応じて、きめ細かく適用限界を定めていくべきであり、そこに学説の使命があると考える。

 しかし、このように説明したからと言って、本問について、判例に則して論理を展開すればよいことにはならない。やはり憲法23条の学問の自由=大学の自治から、この場合における部分社会論の限界を探っていくという構成になる。だから、いわゆる部分社会論を肯定するか否定するか、という点を除くと、答案構成においては、無益説と原則肯定説は同じものだと言うことになる。

 以上の説明から判るとおり、芦部説などを採る人の場合には、本問は事実上憲法23条の論文になる。しかし、23条の説明は別の機会に譲る。

補論1 「いわゆる部分社会の法理」の射程距離

 戸波江二説の第3点で指摘された問題に対する回答を書いておく。もちろん、諸君の論文のレベルで書く必要のある問題ではない。あくまでも参考のためである。

 確かに判例は、分類上、「いわゆる部分社会」に属すると認められるような団体であっても、常に「いわゆる部分社会の法理」を適用して、司法審査の対象外としているわけではない。

 たとえば、南九州税理士会事件がその一つの典型である。また、労働組合内部の紛争の場合にも、三井美唄事件や国労広島地本事件に代表されるように、積極的に団体内部の紛争原因を把握した上、個々具体的に紛争解決に当たるのが普通なのである。その意味では、「いわゆる部分社会の法理」の射程距離というのは、意外に短いものと言うことができる。本論とずれるから、ここでは簡単に私の見解の結論のみを述べる。これは要するに、中間団体というものを憲法的にどう取り扱うか、という問題なのである。

 近代市民社会が成立した当初、中間団体というものを憲法は否定していた。裸の個人というものが、直接国家と相対していたのである。しかし、現代国家において、国家と個人の中間に位置する団体の存在を無視し得ない。多くの場合、そうした中間団体は、裸の個人を強大な国家権力から庇護する存在として登場する。そこでそうした中間団体自体が人権を保障されているかどうかが議論の対象となる。それが肯定されれば、一々裸の個人に換言することなく、国家と団体の関係だけを調整すれば、人権救済は実現するからである。いわゆる法人の人権享有主体性という議論である。

 それに対して、いわゆる部分社会論で問題となっているのは、その人権保護の役割を担っているはずの団体とその構成員である個人との間のトラブルである。この場合、裁判所が安易にそのトラブルの解決に乗り出すことは、国家が団体自治に干渉することを意味し、上記団体の人権侵害という面を有することになる。それを避けるべきであるとする議論こそが、いわゆる部分社会論の本質である。その意味で、すべての領域に共通する理論としての部分社会論の意義があると考える。

 他方、中間団体を過度に尊重し、個人の権利の、団体による侵害を放置するときは、個人の自由の実質的侵害を許容する事態を生じかねない。これは、かつて契約の自由を尊重するあまり、資本家による労働者の搾取、大企業による中小企業の搾取を認めた悪しき前例に明らかなとおり、非常に問題である。

 ここに、部分社会論の限界を見いださなければならない。南九州税理士会事件に示されるような、きめ細かな対応がここには必要とされるのである。

 この場合、物差しになっているのは、団体の目的という概念である。目的に正確に合致する活動の場合には、裁判所は「いわゆる部分社会の法理」を適用して、団体自治にゆだねる。それに対して、定款等に書かれた目的には明らかにあたらないが、それに反しない、という程度の意味で、団体の目的に含まれる活動について、団体と構成員との間に紛争が生じた場合には、裁判所は、団体内部に介入して、団体と個人の利害調整を行うのである。

 

補論2 人権の私人間効力について

 冒頭に述べたとおり、有害説を採った場合には、この問題に言及すれば点になろう。

 私人間効力論は、諸君は簡単に書いてしまうが、実は人権論の根幹、それどころか公法という考え方の根幹に触れるかなり難しい問題である。答案構成上、可能であれば、触らない方が無難な問題といえる。簡単に説明しよう。

 近代憲法における基本的人権規定の「名宛人」は、本来国家であり、したがってそれが適用されるのは、公権力と国民との関係において捉えられてきた。つまり私人間に人権の効力は及ばない、というのが近代市民国家における憲法の常識といえる。

 しかし、米国においては、南北戦争後に制定された憲法第14修正が、各州(State)の活動(Action)に対して、「人の生命、自由、財産を奪ってはならない」と定めたところから、本来は州が行うべき活動を州が行わない結果、私人にゆだねる結果となった場合に、人権侵害等の結果が生じた場合には、州の活動に準じて14修正違反になるという理論(State Actionの法理)が判例上出現したことから注目されるようになった。

 また、ドイツでは、第2次大戦後において、基本権に主観的な権利(subjektives Recht)としての側面と、客観的法(objektives Recht)としての側面の存在を考え、主観的権利としての基本権は国家にしか効力を持たないが、客観的法としての側面は、全法秩序に対して効力を持つという考え方が発展した(日本語や英語の場合と異なり、ドイツ語では、法と権利という概念が、いずれもRechtと表現される事から発生した議論である)。その場合、その客観的側面が私人間に直接に効力を持つのか(直接効力説)、間接的な効力にとどまるのか(間接効力説)が論じられるに至った。

 日本では、米国法とは憲法構造が違うこともあり、スティト・アクションの法理はあまり受け入れられず、戦前からの親和性の強いドイツ学説の影響を強く受けた。そして、特にドイツ連邦憲法裁判所が間接適用説を採用した(リュート判決Lueth-Urteil,BVferGE 7,198)ことが、わが国でも、間接適用説を通説的なものとした大きな原因と考えられる。この考え方によれば、規定の趣旨・目的ないし法文から直接的に私人間に効力を有する(私法的な効力を有する)人権規定を除き、自由権や平等権につき、民法第90条などの一般条項を、憲法の趣旨を取り込みつつ解釈・適用することにより、間接的に私人間の行為を規律する、ということになる。そして、三菱樹脂事件判決(最大昭和481212日=百選第526頁参照)も、通説は、間接適用説を判例が採用したものと読む。

 これに対し、近時、高橋和之は、無効力説の立場から、鋭い批判を展開している(「『憲法上の人権』の効力は私人間に及ばない−人権の第三者効力論における『無効力説』の再評価」ジュリスト1245号=200361日号137頁以下)。そこでは、間接効力説に対し、客観的法は何故直接適用されないのか、と次のような疑問を提示している。

「おそらく、それはこの法的価値が未だ抽象的な段階のものであり、現実の適用を見るためには『具体化』されなければならないからであろう。その具体化は、一方で、『主観的な基本権』規定として憲法の中で争われるが、他方で、私人間については、私法の一般条項への価値充填という操作を通じて行われるという構想なのであろう。この結果、憲法は全方位的な基本権(客観的な法的価値)と対国家的な具体的基本権の両者を自己の内部に持つことになり、憲法あるいは基本権規定の性格を曖昧化させることになった。憲法は、前憲法的な『倫理的価値』を保護するために国家権力を組織する規範であり、基本権規定は国家がその任務を遂行するにあって侵してはならない国民の権利を掲げたもの、というのではなく、あるいは、その様なものに尽きるものではなく、全社会の基礎として社会内のあらゆる関係において妥当すべき法的価値をも宣言したものという性格を帯びることになる。後者の憲法観・人権観は、徹底すれば、近代的な立憲主義の観念を逆転し、憲法・人権が権力ではなく、国民を拘束するものへと転化するモメントを秘めており、看過することのできない重大な意味を持つものといわざるを得ない。」

 ドイツでもこうした問題点は意識されており、それに対する答えは国家の基本権保護義務論という形に展開されている。日本では、この説は小山剛(慶応大学教授)によって展開されているが、諸君に余計な知識を与えて混乱させることを恐れるので、ここでは紹介を避ける。ただ、芦部信喜が、これについては「そのまま日本の解釈論に挿入することには問題がある」(「憲法50年を回想して」公法研究59号=1997年)としていることを付け加えるにとどめる。上記論文で、高橋も同様に同説に対して鋭い批判を展開している。

 高橋は、こうしたことから、フランス革命時に成立した、人権を自然権としてとらえる視点からの無効力説を提唱している。そして、従来通説が間接適用説と評価してきた三菱樹脂判決についても、「直接適用はおろか間接適用も否定した典型的な無適用説といってよい」と評価している(高橋和之「人権の私人間効力論」高見勝利・岡田信弘・常本照樹編『日本国憲法解釈の再検討』有斐閣2004年刊14頁)。そして、学説が判決の立場を間接適用説と理解するに至った理由については、原審判決である東京高判昭和43年6月12日(判時52319頁)が「企業が労働者を雇用する場合等、一方が他方より優越した地位にある場合」に企業が労働者の思想の自由をみだりに侵害してはならないと述べたことへの反論を述べているからである、と指摘する。そして、最高裁判決の論旨について「私人間における調整は立法で対処するということをポイントとしており、民法90条等に言及してはいるが、それは法律による調整の仕方の例示であって、その規定を媒介にして人権規定の効力を及ぼしていくという発想をとっているわけではない」と評価している(同書15頁)。

 このように、学説が近時激しく対立している分野なので、諸君としても、どの程度まで書き込むかはかなり難しい領域となっている。以下、簡単に私見を述べる。

 私は、高橋型の無効力説は支持しない。この説は、提唱者自身が認めているように、法実証主義にたつ場合、自然権を前提にする点に第1の弱点がある。そして、かなり厳格な公法・私法2元説に立つという点でも、こうした2元説を否定し、公法を私法の特別法と考える私の基本的立場と相容れない。そして第3に、このような厳格な公法・私法2元説にたつ結果として、これまでわが国憲法学が積み上げてきた社会権をはじめとする一連の直接適用効力を持つ人権を、「必ずしも直接適用を予定したものではなく、むしろ立法者にその規定を実施するための法律制定を義務づけたもの」とトーンダウンさせる点で、裁判所の人権保障機能を決定的に縮減させるものとすることなどからである。

では、直接適用・間接適用のいずれが妥当なのか、という疑問が生じると思う。この点について、浦部法穂は次のように述べる。

「私人の行為が直接憲法によって違法とされるのか、それとも関係の私法規定を媒介として人権規定の効力が及び直接にはその私法規定によって違法とされるのか、ということは、それほど本質的な問題ではなく、法的な理論構成としてどちらが美しいかという程度の問題でしかないと思われる。〈中略〉要するに、どういう場合に私人の行為に対し憲法の人権規定の効力が及ぶのか、ということさえはっきりすれば、その効力の及び方が直接か間接かということは、はっきりいってどちらでもよい、ということである」(『憲法学教室全訂第2版、日本評論社71頁)

 私はどちらかが理論的に美しいと結論できるなら、そちらが理論的には正しいと考える。しかし、浦部法穂が言わんとしていることのポイントは、それが本質的な問題ではない、と考えるという点にあるのであろう。その場合、私も基本的に同様に考える。つまり、ドイツの直接・間接論争は、公法・私法2元説を論理の前提とした上で、基本権そのものではなく、客観的法という部分だけが、私法領域でも適用可能性を持つ、というものである。これに対し、私は、憲法は、国の根本規範であり、私法も含めた全法体系がその授権の下に存在していると考えるからである。したがって、公法・私法2元説を前提とする限りにおいて、直接適用、間接適用、無効力説のいずれもが、本質的に誤っていると言わざるを得ないのである。

 そもそも、今日において、間接適用説といったところで、その適用範囲は極端に狭いことを忘れてはならない。

 近代市民革命は、国家の権力から人民を解放することを目的として行われた。そうした自由主義の理念を根本原理とする夜警国家にあっては、国家の機能は国防と治安の維持に限定される。憲法は、国家から個人の権利を守るために存在しているのであるから、互いに対等な地位に立つ私人間にそれが適用にならないのは当然のことということができる。

 しかし、19世紀末から今世紀にかけての資本主義経済の発達は、国家と人民との中間に位置するいわゆる中間大規模組織の発生をもたらした。これらの組織は、一定の範囲で私人の自由を制限する機能を有するため、単に国家が私人に介入しないという政策(レッセ・フェール)を維持しているだけでは必ずしも私人の自由を確保することを意味しないということが明らかになってきた。他方、同時に起きた民主主義の発達は、国家が人民の権利を抑圧するものではなく、それどころかその権利を擁護する味方として機能することを、人民として信用できる状態をもたらした。こうして、国家が人権の擁護者として積極的に私人間に介入する積極国家現象が誕生するに至った。

 積極国家の下においては、憲法そのものにより、国家に積極的に私人間に介入することが命じられている人権(すなわち社会権)について、私人間での効力が肯定されることは当然のことであって、改めて議論する必要すら存在しない(先に紹介したとおり、高橋はその点もまた、捻子を巻き戻そうとしているようであるが…。)。

 また、わが国憲法の根本原理である個人主義に照らし、個人の尊厳そのものを踏みにじるような形態の私的自治が憲法のレベルにおいても許されないことも当然である。私法上、生命権や貞操権に代表される人格権と呼ばれる権利の使用、収益、処分を内容とするものがこれに当たる。人格権は、それが尊重されることは憲法上あまりにも当然であるため、ほとんど憲法に規定はなく、明文があるのはわずかに奴隷的拘束の禁止(18条)程度に止まる。しかし、生命権、貞操権その他の権利についても同様に考えるべきである。

 さらに、積極国家の基礎を形成している健全な民主主義を揺らがすような行為が私人間で行われることが、憲法レベルにおいて禁止されるのも当然である。これもあまりに当然のことであるために、憲法に明文があるのは選挙権の行使に私的にも責任は問われることはない(154項)程度に過ぎない。しかし、公職選挙法がおいている様々な選挙活動の制限が、自由に対する国家の干渉として否定されないのは、このためである。例えば、選挙において立候補する自由は、人権として直接私人間にも適用がある。労働基本権は、社会権であるから、前述のとおり私人間に直接適用があるが、これと立候補の自由の衝突が問題となった事件で、最高裁判所は次のように述べた。

「選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法151項には、被選挙権者、特にその立候補の自由について、直接には規定していないが、これもまた、同条同項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである。」

最大昭和43124日(三井美唄事件=百選第5326頁参照)

 そしてこの立候補の自由を侵害しない限度でしか、労働基本権を認めなかったのである。

 結局、人権の私人間における効力において問題となる最大の点は、こうした積極国家の下において、従来厳密に国家が私人間に介入することを禁じられていた一連の基本権−そのほとんどは論理の必然から自由権及び自由主義的平等権に属することになる−に関しても、積極国家理念からして、私人間への直接適用を肯定すべきではないかという疑問が生ずる、という点にある。

 今一つ、積極国家であることから、私人間に国家が介入するという立法を国会が行うこと自体は当然に合憲であるという前提が存在しているということに注意するべきである。高橋の無効力説も、立法者の立法義務の問題と捉えてこれを肯定する。

 例えば、家は個人の城であるから、家庭内の問題に国家権力が介入するのは許されない。しかし、夫婦喧嘩でも、女性が一方的に被害者になる自体が多発しているのを放置できないとして、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(いわゆるDV法)を制定することができる。ちなみに同法前文は次のように述べている。

「我が国においては、日本国憲法 に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、人権の擁護と男女平等の実現に向けた取組が行われている。

 ところが、配偶者からの暴力は、犯罪となる行為であるにもかかわらず、被害者の救済が必ずしも十分に行われてこなかった。また、配偶者からの暴力の被害者は、多くの場合女性であり、経済的自立が困難である女性に対して配偶者が暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動を行うことは、個人の尊厳を害し、男女平等の実現の妨げとなっている。

 このような状況を改善し、人権の擁護と男女平等の実現を図るためには、配偶者からの暴力を防止し、被害者を保護するための施策を講ずることが必要である。このことは、女性に対する暴力を根絶しようと努めている国際社会における取組にも沿うものである。

 ここに、配偶者からの暴力に係る通報、相談、保護、自立支援等の体制を整備することにより、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図るため、この法律を制定する。」

 このような立法が、どの限度で許容されるかについては、私自身は問題意識を持っており、この詳細な前文の存在は、立法者自身にも同様の問題意識があることを示しているが、このような立法の限界論はかなり高次の議論となるので、さしあたり君たちの論文でそこまで踏み込んで論ずる必要はない。ただ、将来諸君が公務員になり、直接立法に関与するようになった時のために、問題があるのだ、ということは記憶にとどめておいてほしい。

 したがって、いわゆる人権の私人間効力と呼ばれる問題を厳密に表現し直すならば、

「歴史的には国家と国民の関係だけを規律するとされている基本権が、国会の立法を待たずして、私人間に適用になることはあるか。あるとすれば、それはどのような形を採用して行われるべきか。」

ということになる。私人間効力論とは、今日の積極国家においては、その程度の小さな問題なのであり、決して人権一般の問題ではない。そして、憲法が全法秩序の基本法であると把握する限り、人権もまた、私人間に直接に適用があるのは当然である。この点を、もう少し掘り下げて考えてみよう。

 浦部法穂は、次のような具体例を挙げている。

「個人で八百屋を営んでいるAさんは、ある宗教の熱心な信者であった。そのAさんが、自分の店の店員を雇うことにしたが、どうせなら、自分と同じ宗教の人に店を手伝ってもらいたいと思った。そこで、Aさんは、雇ってもらえないかと訪ねてきたBさんにどの宗教を信仰しているかと聞いたところ、Bさんは、宗教なんてものはいっさい信じない、と答えた。そのため、Aさんは、Bさんを不採用にした。」

 浦部法穂は、この事例について「Aさんの側の誰を雇うかの自由とBさんの側の信教の自由の、どちらを重視すべきかということである」と回答する。すなわち、私人間といっても、このような純粋の個人ベースの場合には、各人の人権と人権の比較衡量で問題は解決されると言うことである。これについて、間接適用というようなややこしい議論を考える必要はない。

 もう少し大規模な企業となると、採用者側にとっては、個人の人権の問題ではなくなる。そして、勤労の権利は私人間に直接適用ある人権であることは争いがない。その結果、事業が特定のイデオロギーと本質的に不可分であり、その承認、支持を存立の条件とし、しかも労働者に対してそのイデオロギーの承認、支持を求めることが事業の本質からみて客観的に妥当である場合以外には、勤労の権利の侵害として、雇用を拒むことはできないと論じられることになる(例えば「日中旅行社解雇事件」大阪地裁昭和441226日=判例時報59990頁)。逆に、その様な事業である場合には、「傾向企業」と呼ばれ、思想や信条に基づく差別的取扱いが許されることになる。たとえば、自由民主党が、共産主義者が党員として加入していることを発見して除名しても、政治信条に基づく差別として許されない、という必要はないということである。

 もっとも、宮沢俊義は、三菱樹脂事件における鑑定書で、「会社としては資本主義体制を存続させるという前提の下で事業をやっている。その自由が憲法上保障されていると見るべきであって、したがってそうだとすれば、それに反する、あるいはそれを承認しようとしない意見というものを排除することは私人間の関係では当然許されて良いのではないか。だからそういう意見の人の採用をさしひかえることや、採用にあたってそういう趣旨の留保をつける−ことは許されると解すべきだ」(ジュリスト48021頁より引用)と論じた。要するに、わが国企業は、すべて自由主義という傾向企業だと強弁していることになり、これは行き過ぎというものである。

 昭和女子大事件の場合、先に述べたように、今日では、いわゆる部分社会論により、そもそも司法審査の対象にならないとされる。しかし、有害説を採用して、司法審査を行う場合に、どのように考えるべきであろうか。

 確かに、教育を受ける権利は、勤労の権利と並ぶ社会権である。しかし、同校は、良妻賢母教育という、今日では特異な教育理念を掲げ、それを厳密に実践していることが、いわば大学としてのセールスポイントなのであるから、その意味で、傾向企業類似の存在と考えることができる。そして、そこに入学した学生が、その理念を知らなかったとは考えにくい。知っていて、あえて内部に入った上で、その基本理念を揺るがす行動をとった場合に、大学が、その内部の異分子を最終的に排除する権利を有することは、疑う余地がないと思われる。その意味で、判決の結論そのものには、おそらく異論はないと思われる。