内心の静穏の権利

甲斐素直

問題

 Y市交通局は、市営地下鉄車内放送の自動化費用を捻出し、あわせて赤字経営の改善を図るために、車内で業務放送(案内放送)に加えて、商業宣伝放送を行った。

 なお、Y市交通局は、商業宣伝放送に対する批判を考慮して、その内容を広域的なシェアを持つ広告主による「生活情報」ではなく、広告主を駅周辺企業とする「企業案内」としていた。

 この地下鉄で通勤していたXは、乗客に商業宣伝放送の聴取を事実上強制することは、

@ 思考・感覚等の精神活動領域の自立性を阻害する人格権侵害行為にあたり、

A 旅客運送契約に含まれる快適輸送義務に反する

として、Y市を相手取り、当該商業宣伝放送の差止と慰謝料の支払を求めて出訴した。

 上記の事実における憲法上の問題点について論ぜよ。

[はじめに]

 本問で問題となっている権利をなんというかについては、定説がない。たとえば松井茂記は「聞きたくない表現を聞かされない自由」という名称を使っている(法律のひろば42638頁以下参照=以下「松井論文」という)。しかし、お世辞にも言い易い表現とは思えないし、理論的には同一範疇として理解されると思われる「聞かれたくないときに聞かれない自由」(盗聴問題)、「見たく表現を見ない自由」(例えば迷惑メイル問題)、「見られたくない時に見られない自由」(監視カメラ問題)を含む概念となっていない点で、不便である。そこで、私はそれら一連の権利の総称として「内心の静穏の権利」と呼ぶことにしている。

 本問中におけるXの主張として、人格権侵害とあるが、この言葉に引きずられて、いきなり包括基本権の議論を始めてはいけない。包括的基本権としての人格権を広義にとらえるとき、精神的自由権はいずれもその一環を構成する。そして、有名基本権として説明することができれば、包括基本権の議論は不要だからである。

 本問の第一の論点は、ここで主張されている権利をどのようなものと把握するか、ということである。おおざっぱに分けて、プライバシー権説、21条説、19条説などがある。このうち、21条や19条で説明する場合には、包括基本権の議論は不要である。それに対し、プライバシー権ととらえる場合には、もちろん13条からの一連の説明が必要である。

 聞きたくない表現を聞かされない自由が問題になった事件は、判例の数はきわめて限られており、判例集に掲載されている判例としては、本問のベースとなった大阪市市営地下鉄車内放送事件(最判昭和631220日)及びそれに先行する小田急電鉄宣伝放送事件(東京高裁昭和571221日=この事件も最高裁判決があるが判例集未登載)及び下級審判例としての勝田市(現在のひたちなか市)放送塔使用禁止請求事件(水戸地裁昭和601227日)が目につく程度である。しかもこれらの事件では、もっぱら民事上の権利性が、論点として争われていて、憲法上の権利として判例上論じられているわけではない。大阪市営地下鉄事件で、伊藤正巳判事が補足意見で静穏のプライバシーに論及している点で、辛うじて憲法判例といえる程度にとどまるのである。

 学説的にも、教科書には深く掘り下げた議論はほとんどかかれていない。諸君が容易に参照できる文献に参照範囲を広げても、先に言及した松井論文の他には、渋谷秀樹がジュリスト93840頁(以下「渋谷判例評釈」という)で、赤坂正浩が平成元年度重要判例解説16頁(以下「赤坂判例評釈」という)で、また、高井裕之が憲法判例百選第5版50頁(以下「高井判例評釈」という)で判例評釈を書いているものなどが目につく程度で、広く一般に論じられているとはとうてい言い得ない。

 これらの論文で、力点を置かれているのは、上述したどのような権利か、ということよりも、「囚われの聴衆」という状態が発生している場合に、これを憲法上どのように評価するか、という点である。すなわちこれが、本問の第2の、そして中心的な論点となる。

 しかし、それらわずかに存在している論文でも、検討は不十分で、その権利の存在はともかく、意義、要件、効果などの検討は将来の課題としていたりして、権利の内容が今ひとつはっきりしていない。そういうわけで、本問は、学説・判例が手がかりを提供しない問題で、何をどう論じたらよいか、ということが問われるわけである。

 

一 問題の考え方

 以上のような特徴があるので、本問では、普段と違って、こういう問題に取り組む時には、どういうところから食いついていけばいいか、という方向から問題解説をしてみたい。そもそも、聞きたくない表現を聞かされない自由というのは、具体的権利たり得るのであろうか。

 

(一) そのような権利が実定法上認められるか?

 新聞やテレビに広告が入ってくる。この場合、我々は、それを見る・見ない、聞く・聞かないの選択の自由があることは間違いない。テレビドラマの間に入るCMの時間のことをトイレ休憩と呼んだりするのは、そのことをよく示している。要するに、その場合に、広告が我々の内心の静穏の権利を侵害するという問題が発生しないのは、受ける我々の側に、その情報を受け入れるか否かの選択権があるからである。その選択権が失われると、これを権利として考える必要が発生してくる。

 たとえば、E-mailなどでかまわず広告を送りつけられると、携帯の場合にはそれに対する受信料を支払わなければならないし、パソコンの場合でも膨大なE-mailの中に大事な連絡が埋もれてしまうというようなことになって負担となる。だから、こういうこちらが希望してもいない広告は拒絶する自由があって良い。すなわち、見たくない表現を見ない自由である。具体的に表現すると“迷惑メイル”を受けることを拒絶する権利が存在していると主張する必要がある。

 この権利を具体化したのが、「特定商取引に関する法律」の20024月における改正である。この改正を受けて、経済産業省は200271日から同法律の施行規則を改正し、新たにユーザーが送信者に対して広告メールの受け取りを拒否した場合に、広告メールの再送信を禁止した。また広告メールの受け取りを拒否するための連絡方法の記載を義務づけた。これにともない、ユーザーが受け取りを許可していない広告メールを発信する場合、メール件名欄に「未承諾広告※」の表示が義務づけられた。従来の「!広告!」から「未承諾広告※」に変更したことで、受信許可を得ていないことを明確にした。また事業者は、メール本文の最初に「<事業者>」と表示し、氏名・名称/電子メールアドレスを表示する必要がある。従来は連絡方法を設定しない場合、件名欄に「!連絡方法無!」と表示すればよかったが、今はこの表記は認められない。表示義務に違反した場合、業者は行政処分(指示、業務停止命令)の対象となる。さらに行政処分に違反した事業者は、指示違反の場合には100万円以下の罰金、業務停止命令違反の場合には300万円以下の罰金または2年以下の懲役が科せられる。既に実際に処罰された業者がでている。

 この例に見られるように、内心の静穏の権利が、現行法制度の下で、権利として承認されていることは疑う余地がない。問題は、このような特別の法律が存在しない場合に、憲法のみに基づいてこれを具体的権利として、すなわち裁判で争いうる権利として成立している、と主張するにはどのような要件が必要か、ということである。

 

(二) 人権論上の位置づけ

 このように見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由という概念は、従来の人権体系の中で、憲法解釈額的にはどこに位置づけることが可能なのだろうか。

 学説的には、はじめに述べたとおり、三つの見解がある。

 第一は、上述したような論理を展開して、プライバシーの仲間と考えて、憲法13条に基づいて説明する立場である。

 第二は、消極的な情報受領権(憲法21条)と把握する立場である。これは表現の自由という概念を、国際人権B規約192項の「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け、及び伝える自由」と把握することが前提となる。同条の下では、表現の自由は情報受領権、情報請求権及び情報発信権としてとらえられることになる。自由権は、すべて積極・消極二つの形態をとりうる。情報受領権及び情報請求権を積極的形態は「知る権利」として知られている。それに対して、内心の静穏の権利とここで呼んでいる権利は、消極的な情報受領権ととらえられると考えるわけである。先に触れたとおり、私自身はこの説を採る。

 第三は、内心の平穏ということから、内心の自由(憲法19条)で説明する立場である。最初に引用した松井茂記論文はこの立場である。ただし、これは表面的な語義から感じるほど単純な説ではない。後に詳述する。

 どれが通説というわけではないから、諸君としてはどれを採用しても構わない。その説としてのしっかりした論理体系さえ書ければ、合格答案と評価されるはずである。どの説を採るかで、論文の答案構成は全く変わってきてしまう。以下、各説を採ると、それぞれどんなところがポイントとなるか、簡単に解説したい。

 なお、このように説明すると、上記三つの説を単に並べて、それを紹介あるいは批判する、というスタイルの論文を書く人がよくある。いつも強調することだが、論文の評価は自説をしっかり理由付けしているかで決まるのである。そして他説の批判が自説の根拠となることは滅多にない。要するに、他説の批判は誤りなく書いていても、点にはならないのである。そして、他説の本質を理解しないままにとんちんかんな批判をした場合には減点の対象にはなる。このように、きわめて危険な行為なので絶対に止めよう。

 

二 権利の成立要件

(一) 静穏のプライバシー説

 本問のベースになっているのは、大阪市営地下鉄車内放送事件であることは明確と思う。本事件は、伊藤正巳判事が、その補足意見で「静穏のプライバシー」と呼んだことで有名である。しかし、これを普通のプライバシー権と混同してはならない。なぜなら、静穏のプライバシーというのは、これがプライバシーの一種であると考えたとしても、一般的によく知られている私法上のプライバシー(すなわち「一人でいさせて貰いたい権利 right to be let alone)」ないし「私生活をみだりに公開されない権利」)とも、公法上のプライバシー(情報プライバシー権)とも違う類型の概念だからである。したがって、そういう類型が別個独立に存在しているのかということ自体が、プライバシー権説を採る場合には、議論の対象になる。

 教科書に普通に書かれている私法上ないし公法上のプライバシー(情報プライバシー)とは、どこがどう違うのかを、もう少し詳しく考えてみよう。

 私法上のプライバシーの場合、そこで保護の対象となるのは、個人の「私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあ」る事実である。また、公法上のプライバシーの場合にも、そこで問題となっているのは、自己情報に関するコントロールである。つまり、従来君たちが学んできた二種類のプライバシー権の保護対象は、いずれも自分自身に関する情報という点で共通点がある。

 それに対して、本問で問題になっているのは、広告宣伝放送だから、諸君が現在持っていない公的な情報を問題にしているのである。普通のプライバシーに比べると、その対極にある情報ということができるだろう。こういうところから、これをプライバシーの一環として論ずるのは妥当ではないという批判が生じてくる。

 しかし、たとえば私法上のプライバシーを「個人がある確実な私的領域を持っていること、その領域には他人が進入できないことを指す」(阪本昌成『憲法理論U』成文堂250頁)というように把握する場合には、心の静穏というのはまさにそうした私的領域と理解することもできるわけで、その意味で、確かにプライバシーの広い意味には合致しているといえる。あるいは公法上のプライバシーを「物理的にまたはより巧妙な方法で自己の生活の場および自己の選ぶ活動領域に進入されうる程度を決定できる、法的に承認された自由または力」と定義する(佐藤幸治「プライバシーの権利(その公法的側面)の憲法論的考察」『法学論叢』8651頁参照)場合にも、やはりこの概念中には静穏のプライバシーが含まれると結論できそうである。そういう点をとらえれば、静穏のプライバシーが、広い意味のプライバシーであるというのも理解できよう。

 誤解しないでほしいが、ここに定義を引用した論者が、静穏のプライバシーが私法上あるいは公法上のプライバシーに含まれると主張していると言うことではない。たとえば佐藤幸治は、プライバシー概念の拡張にはっきり否定的である。私も、プライバシーという言葉をむやみに関連ある事象に使うことは、この概念の混乱を招き、好ましくないと考えている。しかし、そのことによって、この概念が広くプライバシーという言葉を把握するときに、そこに含まれてくる、という事実そのものを否定することはできないのである。

 そこから、端的に、いわば第三のプライバシー概念とする説が登場することになるわけである。先に言及した伊藤正巳判事は、この広い意味のプライバシー説の代表的論者といえよう。上記最高裁判所判決の補足意見で、次のように述べる。

「人は、法律の規定をまつまでもなく、日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を本来有しているとされる。私は、個人が他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を乱されない利益を有しており、これを広い意味でのプライバシーと呼ぶことができると考えており、聞きたくない音を聞かされることは、このような心の静穏を侵害することになると考えている。」

 しかし、広い意味でのプライバシーの一種と考えたからといって、普通のプライバシーと同じような要件や効果が認められるというわけではない。少なくとも伊藤説に従う限り、これは従来知られていたプライバシー権に比べると、かなり弱い権利だからである。というよりも、従来のプライバシーがきわめて強力な権利だというのが正しいだろう。以下のことは、君たちの論文に書く必要はないが、弱いということを確実に理解してもらう目的で説明しておきたい。

 私法上のプライバシーの場合、プライバシー権が存在していることが認められれば、ただちに表現の自由は抑制され、比較考量の余地は存在しなかった。わずかに刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合(月刊ペン事件最高裁判決参照)、もしくは 「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合」(ノンフィクション逆転事件最高裁判決参照)が例外として表現が認められるにすぎなかった。高度の芸術性がある表現でさえも比較検討の対象にはならない。たとえば「石に泳ぐ魚」事件最高裁平成14924日判決は次のようにいう。

「被上告人は,大学院生にすぎず公的立場にある者ではなく,また,本件小説において問題とされている表現内容は,公共の利害に関する事項でもない。さらに,本件小説の出版等がされれば,被上告人の精神的苦痛が倍加され,被上告人が平穏な日常生活や社会生活を送ることが困難となるおそれがある。そして,本件小説を読む者が新たに加わるごとに,被上告人の精神的苦痛が増加し,被上告人の平穏な日常生活が害される可能性も増大するもので,出版等による公表を差し止める必要性は極めて大きい。」

 これらの判決に明らかなように、私法上のプライバシーの場合には、原則として精神的自由権の代表とも言うべき知る権利や表現の自由に優越すると理解することができる(詳しくは『憲法ゼミナール』202頁以下参照)。

 公法上のプライバシーの場合には、プライバシー権の強さは、それがプライバシー固有情報に属するか、プライバシー外延情報に属するかにより、異なる。しかし、いずれにせよ、プライバシー権による保護の対象となると認められる情報に関しては、知る権利に対して原則的に優越的な効力が認められている。その結果、「個人情報の保護に関する法律」の当初案では、マスメディアの報道の自由に対して厳しい制限が課せられることになって大きな社会問題となったことは記憶にあると思う。

 それに対して、ここで静穏のプライバシーと呼ばれている権利は、伊藤説の理解に立つ限り、明らかに上述の二つのプライバシー権よりも弱い効力しか持たない、と結論を下すことができる。

 普通、プライバシーは精神的自由権と位置づけられる。そして、広告放送は、当然経済的自由権であるから、この二つが衝突した場合、精神的自由権である知る権利が原則として優越すると、常識的には結論が下されるはずである。

 実際、大阪市営地下鉄車内放送事件で、原告側の上告理由はこの常識を忠実に展開して次のように述べている。

「上告人の主張する人格権の内容は、思考または感覚等の精神的活動領域の自律性を中核とする精神的自由権に属する基本的人権(憲法13条)であり、『諸権利のなかでも最も包括的で、かつ文明人が最も価値あるとする権利』(ブランダイス)あるいは『すべての自由の端初』(ダグラス)と評価さるべき権利であって、被上告人の有する商業宣伝を行う自由との関係で制約されるとするなら、双方の権利の性格に相応した厳格な基準が示されなければならないものである。〈中略〉原判決は、上告人の保持する人格権が経済的自由権である被上告人の商業宣伝の自由に優越する精神的自由権であることを看過し、これを制約するには憲法の解釈上判例に示された厳格な基準に適合することが必要であるにもかかわらず、これを顧慮しなかったことは、憲法の解釈を誤ったものであり、かつ判断の理由に齟齬があるか、理由不備の違法があるものとして破棄さるべきものである。」

 これは、上述した常識からすれば、きわめて自然な論理ということができる。しかし、下級審はもとより、最高裁もこの常識的な論理を、特段の理由を示すことなくあっさりと否定している。その点について伊藤判事は補足していう。

「私見によれば、他者から自己の欲しない刺激によって心の静穏を害されない利益は、人格的利益として現代社会において重要なものであり、これを包括的な人権としての幸福追求権(憲法13条)に含まれると解することもできないものではないけれども、これを精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではないと考える。それは、社会に存在する他の利益との調整が図られなければならず、個人の人格にかかわる被侵害利益としての重要性を勘案しつつも、侵害行為の態様との相関関係において違法な侵害であるかどうかを判断しなければならず、プライバシーの利益の側からみるときには、対立する利益(そこには経済的自由権も当然含まれる。)との較量にたって、その侵害を受忍しなければならないこともありうるからである。この相関関係を判断するためには、侵害行為の具体的な態様について検討を行うことが必要となる。」

 要するに、否定する理由は、この心の平穏が「精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではない」からだ、というわけである。その理由については、伊藤判事は次のように説明している。

「聞きたくない音によって心の静穏を害されることは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。」

 すなわち、プライバシーは本来私的空間において優越性を持つのであって、駅構内というような公共の空間では、その優越的地位は失われ、他の精神的自由権はもとより、経済的自由権とでも、比較考量の対象となる程度の弱さに転落する、という論理を展開することになる。プライバシーという前提から見れば、わかりやすい論理と思う。

 

(二) 19条説及び21条説   19条の内心の自由で説明するのと、21条の表現の自由で説明するのとでは、基本的な考え方に違いはない。どちらも精神的自由権の消極的行使として把握するからである。どちらの条文に依拠して説明するのが妥当と考えるのかは、基本的にそれぞれの条文の射程距離を、諸君がどのように把握するかに依存している。両者の関係について簡単に説明しよう。

 

 1 通説的理解

 普通は、19条は基本的に消極的自由だけを保障していると理解する。なぜなら、思想や良心を外部に対して積極的に表明する自由については、信教の自由について憲法20条、学問的表現の自由について23条、そして、そのいずれにも属さない一般的な表現の自由について、21条がいずれも保障しているところである。したがって、19条で積極的に内心の思想や良心を外部に表明する自由を考えても、20条以下の条文に現れない特別の意義を発見できず、実益がない。その結果、19条で読むことができるのは、消極的な沈黙の自由である。

 このように消極的に表現しない自由だけを読む場合、思想と良心を厳密に区別しても、同一条文に同格に上げられているので実益がない。特にわが国の場合、良心という言葉の中心的な意味として一般に認められている信教が、20条という形で独立に保障されている結果、それを除外した良心という概念を考える余地に乏しい。したがって、この二つの概念を併記することによって表現されるところの統一概念を保護の客体と考えるのが妥当と考える。これを普通、内心の自由と称する。

 しかしながら、このように、消極的権利に限定して考えた場合にも、なお問題が存在する。すなわち、上述した20条以下の各条は、いずれも積極的な表明の自由だけでなく、消極的な沈黙の自由も保障していると考えられるからである。特に問題となるのが、21条の一般的な表現の自由の保障から導かれる一般的な沈黙の自由である。19条の沈黙の自由は、完全に21条によって保障されている一般的な沈黙の自由に含まれているはずである。したがって、両者の間に何らかの質的差違がない限り、内心の自由は、沈黙についてさえ、特に考える必要が無くなってしまうことになる。

 この点については、一般的に、19条の沈黙の自由は絶対的な保障であり、21条の沈黙の自由は相対的な保障として理解する(検閲と事前抑制禁止の法理の関係のように理解することになる)。すなわち、19条の沈黙の自由は公共の福祉の必要があっても侵害できないが、21条の沈黙の自由は公共の福祉の制約に服するので、公共の必要があれば、沈黙権を侵害して、国家が表現を強制することも可能である。現実に憲法38条は、自己に不利益な供述を強要されない、として、自己の利益に直接関わりのない供述の強要を予定している。これを受けての訴訟法では、単なる事実に関しての供述を強制する制度を設けている。裁判における証人の出頭義務(民訴192条〜193条、刑訴150条〜153条の2)及び証人の宣誓・証言義務(民訴201条、刑訴160条〜161条)がそれである。

 このような理解に立つ場合には、内心の静穏の権利に関してプライバシーに属することを否定する論者は、必然的に21条説をとらざるを得ない。19条説に立った場合には保障の度合いが強すぎてどうにもならないからである。解釈技術的には、思想及び良心という概念は、単なる心の静穏を含むものではない、と説明すればよい。世界観説に立てばもちろん、一般的観念説に立つ場合でも、観念とは積極的な思考形態であって消極的な平穏を含む概念とはいえないから、問題なく19条説を否定できるはずである。

 

 2 松井茂記説の立場

 では、松井茂記はなぜ19条説を唱えるのだろうか。それは、19条の理解自体が通説と違っているからである。すなわち、19条を「政府が個人の内心に踏み込む」ことの禁止であると理解する。そして、次のように説く。

「最近の心理学・精神医学の発達によって、政府が文字通り個人の内心に踏み込む可能性は現実のものとなってきている。それゆえ、今日では思想・良心の自由は文字通りの内心の保護をも内包する形で理解されねばなるまい。また、政府が特定の思想・良心を促進し、援助する場合にも、思想・良心の問題が生じるものと考えるべきであろう。」(松井茂記『日本国憲法』第2版、有斐閣、411頁より引用)

 独裁国家における洗脳などの状況を見ると、誠に説得力ある論理ということができる。とにかく、そういうことから、松井茂記は単なる消極的沈黙の自由を超えた広い概念として19条を把握しているのである。そこから、内心の静穏も、保護法益として把握する、という見解が導かれることになる。すなわち、松井茂記の見解は、従来の一般的観念説と一見しただけでは似ているが、実際は一線を画した独自のものと理解するべきである。諸君の中で、19条説に魅力を感じた人は、こうした松井茂記の全体系をきちんと理解した論述を展開しなければならない。

 

 3 私人間効力

 21条で理解するにせよ、19条で理解するにせよ、内心の静穏の権利に経済的自由に対して優越的地位を否定するような論理を導くにはどうしたらよいだろうか。

 小田急電鉄のような私鉄の場合には、きわめて単純である。人権の私人間効力の問題として把握すればよい。そして、通説というべき間接適用説に立つならば、宣伝放送が公序良俗違反といえる程度に達しない限り、90条違反という結論は導かれないから、このプロセスを通じて、二つの人権の衝突をかなり効果的に調整することが可能になる。

 問題は、本問のように(具体的には大阪市営地下鉄事件に見られるように)、当事者の一方が地方公共団体である場合である。その点を強調していくと、直接適用が可能になり、その結果、精神的自由権として厳格な審査が要求されることになってしまうからである。しかし、営利活動であるという経営の実態に注目する限り、たまたま法形式的に公法人か私法人かという点にこだわるのは適切とはいえないであろう。

 念のため、注記して置くが、諸君の論文では、私人間効力について手抜きした説明をしてはいけない。論文としてのバランスを崩さない範囲に圧縮して、きちんと理由を書き込まねばならない(詳しくは第5回レジュメの補論を参照)。

 もう一つついでに注記しておくと、プライバシー説を採った場合には私人間効力について言及する必要はない、と考える。大阪市営地下鉄車内放送事件の下級審判決が、もっぱら民法上の債務不履行や不法行為の問題として本問をとらえている点に端的に見られるとおり、プライバシー権は本来私人間に効力があるものであり、それが国家との関係でも主張される結果、人権として把握されるようになったにすぎないからである。

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 以上に紹介したプライバシー説と21条・19条説は、本問に関する限りでは特に結論に差異が生じない。しかし、情報の発信者が国家そのものである場合には、決定的な差異を示す。プライバシー説では、公共空間であるという理由で、基本的に放送する権利の方がプライバシーに対して優越性を示すのであって、その放送者が国か民間かという点では違いが生じない。それに対して、21条・19条説では、放送者が国の場合には、私人間の場合と違って、情報受領拒否権が対国家的権利としてストレートな形で現れてくる結果、原則的に禁圧されるという結論が導かれるからである。私自身は、21条説を妥当と考えるが、その主たる理由はここにある。

 冒頭に下級審判例として勝田市放送塔使用禁止請求事件をあげた。この判決そのものは、市が放送塔を通じて、市民に対して市民憲章をはじめとする様々な情報を一日中垂れ流しにすることに対する問題意識がかけらもないひどい代物であった。21条説に立つ場合には、このような放送は当然許されない。ありがたいことに、これが裁判になったことをきっかけに、少なくとも茨城県内の市町村では放送塔の乱用に対する反省が生まれたようである。私の住む牛久市でも、昔はやたらと放送が多かったが、近時は、緊急事態をのぞくと、夕方5時の時報放送だけになってほっとしている。

 

三 囚われの聴衆

 本問の場合、今ひとつの大きな問題が、囚われの聴衆という点にある。先に、聞く・聞かないの自由は、その自由が侵害された状態で、人権として問題になると述べたが、その制限状態がきわめて大きい場合をこう呼ぶのである。

 本件商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、電車の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという問題である。先に、本件に関する判例評釈は、権利の内容等についてあまり論じていないと述べたが、その理由は、渋谷、赤坂、高井いずれの判例評釈もタイトルにこの言葉をあげていることに見られるように、関心の中心が囚われの聴衆という点にあるからである。

 伊藤判事は言う。

「人が公共の交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって目的地に到達することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには目的を達成することができない。比喩的表現であるが、その者は『とらわれ』た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客の耳に達するのであり、それがある乗客にとって聞きたくない音量や内容のものであってもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとってできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがって、実際上このような『とらわれの聞き手』にとってその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手の多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(『思想表現の自由市場』といわれるのがそれである。)。したがって、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。」

 このように、問題の指摘を行っているのであるが、その持つ法的効果に関する検討についてはお世辞にも充実したものとはいえない。単に次のように述べるだけである。

「本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといって、『とらわれの聞き手』への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような『とらわれの聞き手』に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。

 以上のような観点にたって本件をみてみると、試験放送として実施された第一審判決添付別紙(一)のような内容であるとすると違法と評価されるおそれがないとはいえないが、その後被上告人はその内容を控え目なものとし、駅周辺の企業を広告主とし、同別紙(四)の示す基準にのっとり同別紙(五)のような内容で実施するに至っているというのであり、この程度の内容の商業宣伝放送であれば、上告人が右に述べた『とらわれの聞き手』であること、さらに、本件地下鉄が地方公営企業であることを考慮にいれるとしても、なお上告人にとって受忍の範囲をこえたプライバシーの侵害であるということはできず、その論旨は採用することはできないというべきである。」

 このように放送内容等に踏み込んだ上で、その程度では権利侵害にはならない、という判断を示したのである。このように、内容を考慮した判断を下す人のために、本問では「その内容を広域的なシェアを持つ広告主による『生活情報』ではなく、広告主を駅周辺企業とする『企業案内』としていた」という点が問題文中に明記されている。したがって、このような見解をとる人は、この文章に対する判断を論文中に書き込まねばならない。

 これに対して、囚われの聴衆という問題が発生する場合には、もはや表現内容を評価する必要はない、という見解も存在する。渋谷判例評釈は、その代表的なものである。そこでは、アメリカにおける同種事件の判例(Public Utilities Committee v. Pollak=343 U.S.451(1952))におけるダグラス判事の反対意見をまず紹介する。ここでは、それ自体の紹介は割愛するが、それは要するに、現在行われている放送の内容ではなく、システムの持つ危険性を問題として、囚われの聴衆に対する放送を許すべきか否かを決定するべきだとしている。これを受けて、渋谷秀樹は次のように述べる。

「『とらわれの聴衆』というコンテクストにおける聞かない自由の保障は、先にみたダグラス裁判官の反対意見が述べるように、最大限に保障するのが正当である。なぜなら、公共輸送機関の車内の乗客は、公共の場所にいるとはいえ、そこから逃れるには、他の輸送機関の使用等の大きな負担を強いられ、また視覚への刺戟と異なり、聴覚への刺戟に対しては、有効な防禦手段をとりえないからである。ただ、公共輸送機関に必要不可欠な放送までも一律に禁止されるとするのは行き過ぎであり、放送の内容・頻度・音量・音質が考慮の対象となる。問題は、放送内容である。放送内容は、情報提供的放送(行き先案内、次の駅名、乗換え案内、降車口の方向案内等)、乗車マナー啓発放送、音楽放送、政治宣伝的放送、商業宣伝放送に分類されよう。このうち、政治宣伝的放送、商業宣伝放送は許されないと解する。表現の自由も絶対的ではない。乗車マナー啓発放送、音楽放送は、許容されるのではないかとの見解もでてこようが、乗車マナー啓発放送は、その効果自体が疑問であり、『お節介放送』である観は否めない。音楽放送も個人的な嗜好があるのでやはり許されないと解する。結局、情報提供的放送のみが許されることになるが、問題は、本件のような商業宣伝放送を兼ねた情報提供が許容さるべきか否かである。商業宣伝放送は、公共輸送機関の財源の一助とするためのものであるが、そういった考慮を比較衡量の秤にかけるのは誤りであり、あくまで乗客(聴衆)の利益からそれは判定さるべきである。このような放送について第二審判決はその有用性を指摘するが、放送時間の制約があるので、精々三件の案内が限度であり、この程度の放送は、案内放送の外観は備えているとはいえ、その実質は特定業者の宣伝放送にほかならず、結局このような放送も許されるべきではないと解する。」

 要するに、悪用される可能性のある全ての放送を禁止するべきだ、としているのである。結論の当否はともかく、囚われの聴衆という論点を提起する場合には、少なくともここに取り上げられているような論点を論ずる必要があるのは明らかである。

 なお、ここまでで止めておくと、この結論そのものに私が賛同していると思われるおそれがあるので、若干付言する。正直に言って、この結論まで踏み込んで制限する必要があるか、というためらいを私は感ずる。営業活動として行われている放送の場合、乗客の多くに嫌悪感を与えるような放送は当然経営という観点から見てマイナスであるから、そこに自ずと歯止めが働くはずであり、ダグラス判事のように最悪の場合を考える必要は通常はない、と思われるからである。上述したアメリカの事件の場合、乗客の93%は放送に反対しておらず、積極的に反対していたのは3%程度であったことなどから、法廷意見は権利侵害にはなっていないと結論を下したのであるが、その方が社会的妥当性を有すると言うべきであろう。

しかし、繰り返して強調するが、国家等による場合は話が別である。受け手側の好感度の大小というような歯止めが働かないからである。その意味で、先に述べたとおり、公的放送と私的放送を峻別して論じうる21条説の方が、プライバシー説より妥当と考えるのである。