非嫡出子の相続分
甲斐素直
問題
Aが死亡すると、50年以上も前からAとは事実上縁を断ち、遠隔の地でB(Aより先に死亡)とのみ生活をしてきたXが、遺産分割に当たり、Yの二倍の相続分を有すると主張して、訴訟となった。これに対し、Yは民法900条4号は憲法14条の平等原則に反し違憲であって、それを根拠としたXの主張は認められないと主張した。
以上の事案における憲法上の問題を論ぜよ。
[問題の所在]
民法
900条4号但書(以下「本条」という。)については、昭和21年の民法改正当時、すでに、「嫡出でない子の差別待遇こそが個人の尊厳と法の下の平等を規定する憲法の基調にも反する」と主張されており、改正案が成立するに際しては、その審議の経緯にかんがみ、衆議院において、「本法は、可及的速やかに、将来において更に改正する必要があることを認める。」旨の附帯決議がなされた。さらにその後、わが国は1974年に、国連人権規約を批准したが、そのB規約24条は児童の出生による差別を禁じており、本条は、それに直接抵触しないまでも、趣旨に反することは明白であるため、問題となった。そこで、法務省民事局では
1979年に、本条は憲法14条の定める法の下の平等に反するとして、相続分差別を撤廃する民法改正要綱試案を発表した。しかし、世論調査では本条でよいとするもの47.8%に対して、改正案を是とするもの15.6%に止まり、それを受けた自民党を中心とする反対から、いまだ国会に対する政府提案は行われていない。これに対して、学説的には圧倒的に本条の妥当性を疑うものが多く、法務省民事局が設置した「家族法ホットライン」に寄せられた法律家の意見384通中371通までが改正案を支持しているという状況にある(法務省民事局参事室「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案に対する意見の概要」ジュリスト1075号85頁参照)。その結果、本条を「最後の野蛮」(山川一陽「新しい家族」15号、1989年7月)と罵倒する者まで現れるに至った。こうした状況の中で、東京高裁で、平成
3年以降にこの問題を取りあげた判決が3件も下されたとから、にわかに社会的関心が高まった。すなわち、平成3年3月29日判決(最高裁判所民事判例集49巻7号1822頁)は本条を合憲としたのに対して、平成5年6月23日判決(判例時報1465号55頁)、同6年11月30日(判例時報1512号3頁)では、いずれも違憲とする判決を下した。その結果、最高裁判所では平成3年の事件について大法廷に掛けることになった。平成7年7月5日に下された最高裁判決(裁判所時報1150号1頁)では、10対5で合憲判決になったが、10名の判事が補足意見(5名)及び反対意見(5名)に名を連ねている点に端的に示しているとおり、最高裁でも激しい論争を呼んだ。この問題は、民法と憲法のそれぞれに対する力点の置き方で、結論が逆転しうるという面白い問題である。すなわち、結論を合憲に導きたい場合には民法に、違憲に導きたい場合には憲法に、それぞれ力点を置いた答案構成を行うのが妥当であろう。諸君は、ややもすると最高裁判決を支持するのが合格答案の早道にように思う傾向があるが、本問は、憲法の問題として出題されているから、普通に書けば違憲論になる方が自然である。前半は憲法の理論にしたがって展開しながら、後半、突如として最高裁判決を写して、合憲論を展開したり、そこまで行かなくとも最高裁判所の認定した立法理由を丸写しにするような論文を書いたりするのは、論文としての自殺行為以外の何者でもない。理論的一貫性こそが、論文の命であることを忘れないようにしよう。
一 民法の観点から
諸君も知るとおり、わが憲法の基本原則は個人主義である。これを私法分野で表現すれば私的自治の原則となり、意思主義となる。民法典の財産法部分は、旧憲法時代から意思主義に基づいて制定されていたから、妻の無能力のような一部規定を除き、現行憲法下でもそのまま有効とされた。これに対して、家族法部分は、旧憲法時代には「家」という概念を中心に構成されていたため、現行憲法制定と同時に、意思主義に基づいて全面改正されることになった。現行相続法の場合にもこの意思主義の原則が貫かれる結果、わが民法は遺言をもって原則とし、遺言がない場合に補充的に法定相続分という制度を定めた。これが本問で問題となっている
900条の基本的な立法趣旨である。審査基準論の表現でいえば、立法目的は補充性、ということである。すなわち、法定相続制度は、遺言が存在しなかった場合における補充規定であるから、その相続割合の決定に合理性があるか否かは、社会一般の平均的な死者が、遺言を書いていればどのようなものとなるのが普通か、という意思の推定に求められる。先に述べたとおり、本条に関しては、東京高裁レベルで合憲
1、違憲2と判断が分かれたが、実はそれらの事件においては、被相続人の意思の推定、という点において、まさに相対立するものであったことを軽視してはならない。判例に現れた事件は、いずれもかなり複雑な事案であるが、法定相続分に影響する限りに簡略化して説明すれば、次のとおりとなる。
最高裁が合憲判決を下した事件は、静岡地裁熱海支部、東京高裁と下級審も一致して合憲判決を下したものである。この事件では、被相続人は一人娘で、家にふさわしい婿を得るべく、足入れ婚(判決では「試婚」と呼んでいる。)を
4回も繰り返し、4回目の婿でようやく合格と認められて、正式に婚姻するに至った。わが国古来の風習に依れば、足入れ婚で産まれた子は、たとえその両親が後に正式に婚姻するに至った場合にも、正式の相続人とは認められない。まして、両親が正式婚姻にいたらずに別れた場合には、日陰の子として扱われるのが通例である。本件事件の場合、原告=上告人は、この足入れ婚で産まれた子であるから、このように足入れ婚を激しく繰り返し、生前において原告=上告人を常に差別して扱っていた被相続人の意思を推定すれば、相続にあたっても、正式婚の子と差別して扱うという意思であったと考えるのが合理的な事件であった。これに対して、平成
5年東京高裁判決の事件では、被相続人である女性(母)は、当初法律婚をして一女(姉)を出産したが離婚し、その後、別の男性と事実婚をしてやはり一女(妹)を出産したが、その後やはり離婚している。そして長いこと母と姉妹が共に暮らしていた。その母が死んだ場合の相続で、妹が姉の相続分の半分とされたのが問題となったものである。この場合、母に、姉と妹を積極的に差別しようとする意思があったとは考えにくく、その場合に本条を機械的に適用することは、不合理なものといわざるを得ない。そこで、同判決は、900条4号但書を違憲としたのである。本問を作問するに当たりベースとしたのは、平成
6年東京高裁判決の事件であるが、この事件では、支社の意思の推定という観点から見た場合、本条の不合理性はきわめて明白であった。被相続人である男性(父)は、ある女性と法律婚をして子供もできたが、その後別居し、別の女性と内縁関係をもつに至った。そして、その内縁の妻及び非嫡出子と50年以上にわたり家族として暮らし、その所有する会社の経営も非嫡出子と共同であたってきた。したがって、遺産もその共同生活体の営みの中で形成されてきたものである。そして非嫡出子及びその妻は被相続人が死ぬまで共に暮らしてこれ孝養を尽くし、扶養義務を全うした。それにもかかわらず、被相続人が死亡すると、50年以上も前から被相続人と事実上縁を断ち、遠隔の地で被相続人の法律上の妻(被相続人より先に死亡)とのみ生活をしてきた嫡出子が、非嫡出子の二倍の相続分を有すると主張して争った事件である。要するに、東京高裁が合憲判決を出した事例は、非相続人の意思を推定すれば、非嫡出子を差別することが合理的な事件であり、東京高裁が違憲判決を出した判決は、差別が不合理な事件だったのである。そして、最高裁大法廷に係属したのは、最初の差別が合理的な事例であった。すなわち、上記のうち試婚による非嫡出子の事例であったから、補充性を重視する限り、合憲という判断を下す方が妥当なものであったといえるのである。
最高裁判所は、基本的に、立法裁量論からアプローチした。すなわち、
「相続制度は、被相続人の財産を誰に、どのように承継させるかを定めるものであるがその形態には歴史的、社会的にみて種々のものがあり、また、相続制度を定めるに当たっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならず、各国の相続制度は、多かれ少なかれ、これらの事情、要素を反映している。さらに、現在の相続制度は、家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって、その国における婚姻ないし親子関係に対する規律等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で、相続制度をどのように定めるかは、立法府の合理的な裁量判断にゆだねられているものというほかない。」
このように、家族制に関する専門技術的要素を根拠として、広い立法裁量という結論を導いていることがわかると思う。広い立法裁量ということになれば、普通は狭義の合理性基準につながることになる。
最高裁判所は、さらに民法規定の補充性を強調することにより、この広い立法裁量から、狭義の合理性基準への展開を補強している。
「本件規定を含む法定相続分の定めは、右相続分に従って相続が行われるべきことを定めたものではなく、遺言による相続分の指定等がない場合などにおいて補充的に機能する規定であることをも考慮すれば、本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法
5行目に出てくる「著しく不合理」なものではない、という認定に、狭義の合理性基準を採用していることが現れていることがわかると思う。厳密に言うと、最高裁判所は、狭義の合理性基準を少し改訂して、
@
立法理由に合理的な根拠があること、A その区別が立法理由との関連で著しく不合理なものでないこと、
の二つの要件が必要と論じている。これは、単純な狭義の合理性基準に比べると@の要件が加わっている分だけ、少し厳しいが、基本的には狭義の合理性基準そのものと考えて良い。これは、別に本事件で新たに登場したものではなく、従来から平等権に関して最高裁判所の採用している基本的なスタンスである。尊属殺判決でも、まず尊属殺を通常殺に比べて加重する事が、立法理由には合理性があることを論じた後、次のように述べている。
「加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法
付論:最高裁判決の論理について
以下に述べるのは、主として民法に関する議論であり、憲法の説明ではないので、付論として述べるにとどめた。
上には、最高裁判所が判決に述べる審査基準に絞って紹介した。ところで、@の立法目的の合理性に関しては、
24条との関係では、最高裁判所は次のように述べている。「本件規定の立法理由は、法律上の配偶者との間に出生した嫡出子の立場を尊重するとともに、他方、被相続人の子である非嫡出子の立場にも配慮して、非嫡出子に嫡出子の二分の一の法定相続分を認めることにより、非嫡出子を保護しようとしたものであり、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったものと解される。これを言い換えれば、民法が法律婚主義を採用している以上、法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが、他方、非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものであると解される。」
そこで、諸君の論文でも、これをそのまま受けて記述している例が目立つ。しかし、これは、民法
900条が補充性をもつという主張と同時に展開する立法理由としては、とうてい正しいものとは認められない。補充性からする限り、900条の立法趣旨は非相続人の意思の推定に尽きるからである。ただ、法定相続分の中には、補充性とは別の、国の政策的要素が含まれていることは確かである。その部分だけが具体的に現れてくるのが、遺言の限界として存在する遺留分制度である(民法
1028条以下)。こうした政策的配慮として、どのようなものがあるかについて、民法学の泰斗、中川善之助は、相続の意義という形で、次の三点を指摘する。「第一は、遺産の中に含まれているが、元々相続人に属していた潜在的持ち分ともいうべき財産部分の払い戻しであり、第二は、有限家族的共同生活が、その構成員に与えるべき生活保障の実践であり、そして第三は、一般取引社会の要請する権利安定の確保である。」(中川『相続法』法律学全集
第一点は、通常相続人と被相続人とは、非相続人の生前において共同生活を営んでいることから、両者の財産が非相続人名義のもとに存在している可能性が高く、それを相続の名の下で財産分離をする、という性格を有するということである(同様の性格の問題は、相続人にはならない者が非相続人と共同生活を営んでいた場合にも起こり、それを解決するためにあるのが寄与分(民法
904条の2)である)。第二点は、遺族の生活保障である。非相続人が死亡することにより、その財産に依存して生活していた遺族がそのすべての財産を失うときは、生活の安定が害され、甚だしい場合には生活保護の対象となってしまうことも考えられる。そのような事態を生じさせることは、国家としての観点から見て不都合である。
第三点は、一般取引社会は、非相続人の死亡により、すべての取引関係が消滅することを予期していることは通常はなく、むしろその場合には、相続人が非相続人の権利・義務を無限に承継して、引き続き取引を継続することを期待しているはずである。この期待という形の動的安全の保護も、相続法の重要な使命である。債務の承継という点に関して言えば、被相続人と相続人の間に、事前の一体的生活関係を要請しないと言える。しかし、例えば本問で問題となった会社経営というような業務の継続性ということになると、やはり一体的生活関係の存在が要件となって来るであろう。
しかし、こうした議論のどこからも、最高裁判所が言う、法律婚主義の尊重とか、非嫡出子の保護と法律婚主義の調整などは現れてこない。むしろ、上述した相続の意義は、法律婚の場合だけでなく、事実婚の場合にも現れてくることは明らかである。すなわち、そこで問題となるのは、非相続人と相続人との間に、一体的な生活関係が存在していたか否かであって、嫡出子か否かは問題とはならないはずである。
これに対して、遺留分制度の場合には、意思主義を排除したローマ法的な家族主義が濃厚に現れており、そこでは、最高裁判所の言う法律婚主義の尊重も一定の妥当性を有する。しかし、繰り返すが、ここで問題になっているのは、法定相続分制度であって、遺留分制度ではない。
冒頭にも述べたとおり、現行相続法の立法段階において既に非嫡出子の差別は問題視されていた。そこから見れば、最高裁判所判決の議論が、民法レベルで見ても、どこから導かれたのか、きわめて疑問のあるところである。それにも拘わらず、最高裁判所は、立法趣旨がこのようなものだ、と断定した根拠を書いていない。したがって、諸君として最高裁のこの立法根拠が正しいものだと考える場合には、その理由を書くことは諸君の責務である。何時も強調するとおり、論文は理由が命である。理由を書かない限り、減点は必至となることは覚悟していなければならない。
二 憲法からのアプローチ
ここまで説明をすると、憲法論のレベルで違憲論を正しく導くためには、上記民法の補充性と合理性基準論の二つの部分で、きちんと最高裁判所の論理を覆しておく必要がある事が判るであろう。
(一) このうち、前者は容易である。現実問題として、わが国における遺言制度の普及はきわめて低い状態にあり、法定相続が原則であるから、これを補充規定と断ずるのは観念論といわざるを得ない。相続のほとんどが法定相続に依っているという社会の現実を重視すれば、補充性を根拠として、広い立法裁量を肯定する余地はない。法定相続がわが国の相続における原則であることを考えると、その根拠を、非相続人の意思の推定に代えて、あるべき憲法秩序の実現と考えねばならない。相続というものを社会国家という観点から見た場合に、どのように位置づけるべきか、という問題である。
立法目的について言えば、非相続人の遺志の補充性ということは問題にはならないから、それをさらに補完する立法目的としたものが中心的位置づけと考えなければならないはずである。これらのいずれについても、そうした事実関係の有無は、被相続人が嫡出子か非嫡出子かで決まるのではなく、そうした生活実態の有無がポイントとなるはずである。
(二) 後者については、議論は少し複雑になる。本問に関する憲法論からのアプローチは、幾通りかあるからである。
第一に、最高裁判所判例に見られるように、立法裁量論からするアプローチがある。それを受けて、最高裁判所のいう法律婚主義の尊重という議論を始めれば、再び、広い立法裁量を許容する余地も現れる。但し、憲法レベルにおいて、法律婚主義の尊重が要請されているか、といえば、疑問である。
最高裁判所の議論は、
24条が法律婚主義だけを許容していると読んで、初めて成り立つ。しかし、同条をそう読むことは困難である。同条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると述べており、両性の合意に加えて、市町村役場における届出までが存在して、初めて成立するとは述べていないからである。「婚姻」は法律婚を意味する、というのは、民法という下位法の用語法により憲法の文言を制限的に読むことで、妥当ではない。したがって、むしろ事実婚を明確に保護の対象としていると読むことができる。法律婚主義は、24条2項の定める制度的保障によって国会に与えられる立法裁量権を尊重して、初めて現れてくるのである。現実にもわが国法制は、様々な場合に、内縁関係に対して様々な法律上の保護を与えている。例えば、健康保険法は、「被扶養者」の一環として「配偶者」という言葉を「届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む」と定義している。仮に、法律婚だけが憲法24条の保障対象と読む場合には、これらの法制はすべて違憲になる、という意識を持っていて欲しい。これに対して、先に述べた相続制度が実質的に原則であり、それが憲法秩序の実現を定めたものでなければならないという意義を重視すれば、狭い立法裁量を導くことになり、それに対応する厳格な合理性基準を展開することになるはずである。
第二に、
13条の自己決定権から導く議論があり得る。これは少し複雑なので、以下に改めて説明する。第三に、立法裁量論を経由することなく、直接
14条から議論を展開する方法があり得る。これが標準的な方法と考えられるので、最後に詳しく説明したい。
三
13条からのアプローチ自己決定権からアプローチする場合には、次のような論理をたどる。すなわち、人格的利益説に立つことを前提として、自己決定権を「一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく、自ら決定することができる権利」と定義する(注釈憲法
302頁=佐藤幸治執筆部分)。人格的自律権説を採る場合、定義の狙いは、基本的にそれに該当する場合を絞り込むことにある。したがって、定義を構成する各語の中でも、最も重要なのは、「私的事柄」という言葉である。私人の行為であって、他人に危害を及ぼさないものをいう、と一応は定義しうるであろう。しかし、人間が社会的動物である限り、内心の自由といえども、社会との関わりが発生しうるから、所詮これは相対概念とならざるを得ない。例えば、結婚とか離婚というものは、憲法は、「両性の合意のみに基づいて成立」するとしているが、実際には、家と家との結びつきという面が今日においても強いからである。
このうちで、さらに、「人格的生存にとって不可欠のもので、個別的規定によってカバーされ得ないもの」に該当するものが、最終的に「一定の重要な私的事柄」に該当することになる(注釈憲法
304頁)。定義の段階で「一定」という言葉を使用した以上、必ず、その意味するもの、すなわちどのような事項に限定されるか、また、何故そうなるのかについての議論を避けることはできない。すなわち、具体的にこれに該当するものを列挙することによって、重要な指摘事柄という曖昧な概念の明確化を図ることになる。この概念に基づいて具体的に妥当すると考えられるものとしては、@自己の生命、身体の処分に関わる事柄、A家族の形成・維持に関わる事柄、Bリプロダクションに関わる事柄の三つに限定されると、佐藤幸治はいう。
本問に結びつく家族の形成・維持に関わる事柄とは、直接には婚姻をも意味するが、補充原則から、これは
24条の問題となるので、人格的自律権には属さない。結局、問題は、離婚の自由や非嫡出子問題ということになるのである。このアプローチの場合、結論は民法からのアプローチと似てくる。自己決定権を承認するということは、結局非相続人の意思による、ということで、補充性の議論に戻るからである。ただ、民法の場合には、建前としては補充性が原則で、国家による規制が例外であった。それに対して、自己決定権からのアプローチの場合には、自己決定権が承認されるのは、あくまでも例外にとどまることになるから、原則と例外が逆転することになる。
そこからの議論の仕方は幾通りかあり得る。一つの例を示す。民法は、単に補充既定ではなく、社会の中に健全な憲法秩序を樹立することをも使命としているのであり(例えば民法
90条にその点が端的に読める)、遺言もまた、民法の示す基本的な秩序にしたがって行う必要がある。そのことは、遺留分制度が存在して、遺言の自由を大幅に制限している点に端的に見ることができる。そして、健全な憲法秩序は、非嫡出子であることによる社会的差別を排除することにある…というように展開するというものである。
四
14条からのアプローチ(一) 平等の意義
14条に関する出題があった場合、常に、最初の論点は、それを平等権と読むか、平等原則と読むか、ということである。ここで、先ず諸君は例外なく、原則説に立つはずであるので、その前提で以下説明する。なぜなら、この原則という理解から、初めて相対的平等という重要な概念が導かれるからである。それに対して、平等権と理解した場合には、権利である以上、当然に他者との比較を抜きにした絶対的な平等が導かれる。そのような説も、少数説であるが、わが国に厳然として存在している。ここでその説の内容を紹介すると、すぐに論文に生かじりの知識を書いたりする人がいるので控えるが、関心のある人は、川添利幸「平等原則と平等権」(公法研究45号1頁=1983年)を見て欲しい。あるいは、注釈憲法の14条の説明を見ると、ある程度詳しい説明がある。
平等原則説に立つ多くの教科書では、原則説を採る根拠についてはっきりした説明がない。例えば、芦部信喜の教科書では、
14条に関する説明の冒頭に「人権の総則的な意味を持つ重要な原則が『法の下の平等』である」と書かれていて、平等が原則であることは、自明のことのように述べられている(『憲法』第4版123頁参照)。だから、諸君として、特に議論せず、それに倣った書き方をする、というのは一つの選択肢ではある。実際、判例もまた、特段の理由を挙げることなく、次のように述べる。
「国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。」(最高裁判所大法廷昭和
本問だと、特に理由を挙げなくとも問題は少ない。しかし、例えばアファーマティブ・アクション(
affirmative action=不平等を解消する手段として、従来差別されていた者を優遇する措置)が論点になっている問題では、平等が原則と考える理由を書いていないと、その様な不平等な取扱いがなぜ平等解消手段として肯定されるのか、説明に窮する。何故、単に「平等」といわないで、わざわざ「法の下の平等」というのか、という点を考えてみるのが、一番平明な解決になろう。すなわち、
14条の「法の下の平等」にいう法とは、法律(act)の意味ではない。法の支配(rule of law)とか、法定手続保障(due process of law)と言うときの法(law)と同じく、法的正義を意味する。アリストテレスによると、憲法のような公法領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるものである。これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざる様に扱え」という法諺により有名である。すなわち、14条は端的に配分的正義を宣言したものである。
(二) 合理的差別の概念
原則と考えた場合には、相対的区別の概念が導かれる。すなわち、平等とは、単に「等しきものは等しく」扱うことを要求しているだけでなく、「等しからざるものは等しからざる様に扱」うこともまた要求するものだからである。
実際、法律は、すべて、人を何らかの基準により様々な類型に分けた上で、同一の類型に該当する人(ないし生活関係)に対して、類型的に同一の取り扱いをするものである(二重の一般性)。憲法も、例えば教育を受ける権利において「能力に応じて等しく」と定めて、そのことを明示している。民法も、未成年者や被後見人について制限的取扱いを行っている。類型化し、それに応じた取扱いをすることこそが、法的正義なのである。
したがって、平等の要求とは、近代国家においては、上記類型分けが正義にかなったものであることを要求することを意味する。正義にかなっている状態を、普通「合理的な差別」と呼んでいる(合理的区別)。
〈以下、この段の最後までの説明は、本問とは関係がない。ただ、この機会に知識を整理しておいてほしいので、ついでに書いているだけである。〉
何が合理的な区別といえるか、換言すれば上記配分的正義を支えるところの実質的な正義としては何があるか、ということが、今日における最大の問題である。現行憲法の基本理念である個人主義及びその派生原則として平等と並ぶ存在である自由、民主、福祉、平和がそれである、というのが一応の答えになる。特に自由主義と福祉主義が重要である。自由主義に基づく平等概念は「形式的平等」「機会の平等」または「機械的平等」とも呼ばれ、各人に平等の機会を与えることを要求するが、それ以上の国の介入を禁じる。福祉主義に基づく平等概念は「実質的平等」「条件の平等」または「結果の平等」と呼ばれ、各人の知的、経済的、社会的能力等を考慮し、それらの点でハンディのある人を国が支えることにより、すべての人が実質的に等しく扱われるように配慮する義務を国に課する。
14条の平等概念が、両者を含むものであるか否かについては争いがある。形式的平等に限ると解釈した場合には、実質的平等は25条で読む(すなわちそれは社会権を通じて実現される)から、どちらに考えても実質的な効果の差異はない。19世紀までの古典的な平等概念は形式的平等に限るものであったこと、14条の「法の下の平等」という文言は、その系譜を受け継ぐものであること、等を考え合わせると、14条は形式的意味の平等だけを意味するものだ、と考えるのが妥当という考え方もある。しかし、14条は実質的平等思想を知る現行憲法を前提として作られていること、自由権と社会権とが相対化していること等から、積極的に読む方が正しいと思われ、事実、多数説であろう。
但し、本問の場合、問題になっているのは民法相続法という一般性の高い法規範の解釈論であるから、間違いなく形式的平等であって、実質的平等ではないから、実質的平等を
14条で読むか、25条で読むか、ということは、本問では論点にならない。
(三)
14条1項後段列挙事項の意義14条1項後段に列挙される人種、信条、性別などの記述には、審査基準論上の特別の意味があるか否かが、近時、大きな問題となっており、諸君として必ず言及しなければならない点である。
通説・判例の理解に従えば、
14条1項後段列挙事項は、この平等原則違反となる典型的な場合を単に例示したに過ぎず、それに該当しない場合でも、平等原則違反に該当する場合にはやはり違憲と解される。先に、平等概念に関する先例として引用した最高裁判決における事件の内容は、地方公務員に定年制度がなかった時代に、高齢者に待命を命じるという手法で事実上の定年制を導入していた事例に関するものである。その中で、高齢は
14条1項列挙事項にないという主張に対して、最高裁判所は次のように述べた。「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」
これについて、近時、例示であることは確かだが、単なる例示ではなく、裁判規範として特別の意味がある、という主張が有力になされるようになっている。国家試験受験者が使用する教科書のレベルで見ると、それの方が通説であるかのような観を呈するほどに強力に主張されている状況にある。
この説を主張することが難しいのは、なぜ特別の意味を持つと考えるか、という根拠が、学者ごとに異なっているためである。
その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。
「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また違憲を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第
この場合、この主張は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。これに「個人主義」という言葉を加えた上で、賛同する説もある(芦部信喜『憲法』第4版、
127頁)。確かに思想や信条に関しては民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、自由や民主と並ぶ基本原則であって、民主制的な当否が平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。そうしたこともあってか、芦部信喜も、次のように補足する。「民主主義的合理性という言葉は抽象的であるから、具体的な事件で違憲か合憲かを判断するには、十分であるとは言えない。」
そこで、この説に基本的に賛同する者は、より平等権に密着した理由を求めようとする。例えば、浦部法穂は次のように主張する。
「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」
(浦部法穂『憲法学教室』全訂第2版
この説について、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判し、松井茂記自身は次のような理由を挙げる。
「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」(松井『日本国憲法』第
この問題に関する学説を、これ以上紹介しても煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。諸君としては、こうした中から、基本書と相談して適当と思われる理由を確立し、平等権に関する論文であれば、いつでも確実に書けるようにしておいて欲しい。
ここで大事なことは、その理由と、本問の論点である中心論点とが結びついていないと、わざわざ特別意味説を展開する必要が失われる、ということである。
例えば戸波江二は、本文には単に「不合理な差別の典型を列挙した」(戸波『憲法』新版、
195頁)という程度に述べて、なぜこれが不合理なのかについての基準を挙げていない。その場合でも、そのあとで、「収入」という概念を例に挙げて、それに基づく納税における差別は合理的な差別で、デモ行進における差別は不合理な差別だ、と説明している。だから、戸波説をとる場合には、「不合理な差別の典型を列挙した」とだけ書いたのでは合格ラインには届かないのである。それぞれの事例問題においては、列挙事項のどれに抵触するのかを述べるとともに、なぜそれが不合理の典型なのか、という理由を事案に沿って挙げる必要があるのである。さらに、問題に沿った説明を考えねばならない。例えば、基本書として伊藤説や芦部説をとっているからと言って、本問の場合に、単に民主制的合理性という理由を書くだけでは高い評価は得られない。なぜなら、
900条と民主制がつながっているとは、常識的には考えられないからである。その場合には、例えば非嫡出子は、社会的少数者であり、民主主義の正常な過程に委ねていたのでは、国会における権利の保障は期待しにくい、と追加説明して、はじめて論理的整合性が得られることになる。具体的な数値を挙げれば、わが国の場合、社会の中における法律婚の比率が非常に高く、したがって、非嫡出子は全人口のせいぜい1%程度に過ぎない、といわれる。そのため、世論調査では、非嫡出子の相続分を改めるべきではないとする意見が多数を占めているが、このような消極姿勢は、非嫡出子が、その様に社会的少数者に過ぎないことに起因しているといわれる(例えば久貴忠彦「非嫡出子の相続分に関する大法廷決定をめぐって」ジュリスト1079号51頁参照)。このように、論文で理由を書くにあたっては、単に機械的に基本書を受け売りするだけでなく、問題特有の論点との結びつきにも意識を配って欲しい。
(四) 平等権における審査基準
14条後段列挙事由が単なる例示と考えた場合の審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。本問と密接な関係のある非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。
「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法
これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の三分説を採用している。
@ 精神的自由権に関連した差別には、厳格な審査基準を適用する。
A その他一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。
B 一般的な差別の中でも、経済的自由の分野における差別については、狭義の合理性基準を適用する。
例えば、非嫡出子相続分の、本問のベースとなった事件に関する東京高裁判決は次のように述べている。
「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法
非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。このように、下級審の判事が常に最高裁判決に盲従しているわけではないことは、留意しておいてほしい。
これに対し、
14条1項後段特別意味説の場合には、学説の多様性に対応して、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195〜196頁参照)。@ 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準
A 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準
B 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準
これに対し、芦部信喜は次のような基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学V 人権各論(
1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。@ 人種や門地による差別=厳格な審査基準(
A 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(
30頁)B 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(
29頁)これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この
2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。多くの諸君は、列挙事項に該当する、よって…という式に全く理由を示すことなく、審査基準を導いていたが、それでは評価できないことは理解してもらえたであろうか。特に面食らうのが、列挙事項に該当する、よって中間審査基準、としている人がやたらと多いことである。上述したとおり、芦部説の場合、社会的身分については中間審査基準としているので、その影響かとも思う。だが、その場合でも、やはり理由だけはしっかりと書いてくれねば困るのである。
(五) 非嫡出子の相続分差別と
14条14条後段列挙事項特別意味説に立つ場合には、個々の列挙事項の意味がきわめて重大になる。嫡出子は生まれによる差別である。例えば、芦部説の場合、この生まれによる差別を、門地という言葉で理解する場合には厳格な審査基準の対象となる。それに対して、社会的身分という言葉で理解する場合には厳格な合理性基準の対象となる。
なお、判例は、社会的身分について「人が社会において占めている継続的な地位」と理解する(昭和
39年5月27日大法廷判決)。東京高裁平成6年判決は、これに基づいて「嫡出子か嫡出子でないかは、本人の父母が法律上の婚姻関係にあるかどうか、すなわち、本人を懐胎した母が妻たる身分を取得した後に出生したか否かによって決定される事柄であるから、子の立場からみれば、正に出生によって決定される一種の地位又は身分」という。14条の列挙を例示と解する立場からは、その程度の理解で十分といえるだろう。これに対して、
14条後段列挙事項特別意味説を採り、かつ例えば戸波江二説のように社会的身分に該当する場合には厳格な審査基準を採用する、という場合には、何が社会的身分か、という点について、厳格な審査基準が妥当するという説得力を持つだけの、もう少し厳密な解釈を施す必要が生じてくるであろう。また、先に述べたとおり、非嫡出子は社会的少数者である。この点を重視すれば、芦部説でも、非嫡出子差別は、社会的少数者に対する差別となって、やはり厳格な審査基準が妥当することになる。あるいは、門地という言葉を、生まれによる差別と読む場合には、厳格な審査基準という答えが出てくる。先に述べた、列挙事項の各概念をどのように定義するかの重要性はここに出てくるのである。
厳格な審査基準を採る場合には、目的の正当性と、目的と手段の関係における「やむにやまれぬ利益」に関する議論を諸君は展開しなければならない。それは、具体的には後述の厳格な合理性基準の場合の議論と、本件では共通するところが多いと思われるので、それを参照してもらうことにして、ここではその詳細については省略する。
これに対して、通説的理解に依れば、これは精神的自由権の問題ではないから、その他の一般的差別と理解され、厳格な合理性基準が妥当することになる。
(六) 厳格な合理性基準における事実認定
以下においては、この厳格な合理性基準を明確に採用した東京高裁平成
5年違憲判決に沿って、事実認定の仕方について説明する。上述の14条後段列挙事項特別意味説の適用の結果、厳格な合理性基準を採用するという結論になった場合には、以下の説明に単純にしたがって考えてくれればよい。厳格な審査基準をとるという結論になった場合には、以下の説明に、「やむにやまれぬ公共的利益」という要素を加えて考えてくれればよい。東京高裁は、まず厳格な合理性基準を採用することを、次のような表現で述べる。
「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法
ここでは、明確に、先に紹介した厳格な合理性基準の内容がそのまま述べられていることで、何が審査基準として採用されているかを明確にしている。
1 立法目的の重要性について
先に述べたとおり、本条の立法目的は、基本的には意思主義の補充に過ぎない。これに対して、最高裁は、原則的に法律婚主義を採ることから、非嫡出子が差別されることも正当化されると説いた。この点に関しては東京高裁は折衷的な見解を述べた。「適法な婚姻に基づく家族関係を保護するという立法の目的それ自体は、憲法
から、これは理由にならないとする。法律婚主義は、配偶者の保護を目指したものである以上、それを理由にする非嫡出子の差別は合理性がないというべきであり、最高裁判所の論理は破綻していると言える。
2 目的と規制手段との間の実質的関連性について
本条の存在により、法律婚の子の利益を事実婚の子のそれよりも重視することになるので、結果的に法律婚家族の利益が一定限度で保護されていること自体は、否定しがたい。その意味では、右の規制と立法目的との間には、一応の相関関係があるといえる。これに対して、東京高裁は次の点を指摘する。第一に、
「右の規制があるからといつて、婚外子の出現を抑止することはほとんど期待できない上、非嫡出子から見れば、父母が適法な婚姻関係にあるかどうかはまつたく偶然のことに過ぎず、自己の意思や努力によつてはいかんともしがたい事由により不利益な取扱いを受ける結果となることが留意されるべきである。これは、たとえていえば、正に『親の因果が子に報い』式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによつて罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反していることが見逃されてはならない。」
第二に、本条の規制は、一律に非嫡出子と嫡出子を差別しているから
「たとえば、母が法律婚により嫡出子を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、再婚が事実上の婚姻にすぎなかったときは、母の相続に関しても嫡出子と非嫡出子とが差別される結果となり、同号但書前段が本来意図している法律婚家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子を保護することにあることは前叙のとおりである)を越えてしまう結果を招来すること、このような場合には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に対して広きにすぎることが指摘されなければならない。」
ここで例示されているのが、本件の具体的事案そのものであることは先に紹介した。
この結果、本条の規制は
「目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠けるだけではなく、婚外子の出現を抑止することに関しほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という立法目的を達成するうえで事実上の実質的関連性を有するといえるかどうかも、はなはだ疑わしいといわざるを得ないのである。」
このように、厳格な合理性基準の要求する要件のいずれについても、国が挙証することが不可能である以上、本来の違憲推定が生きてきて、違憲判決が下されるのは、当然過ぎるほど当然といえるであろう。この東京高裁の認定にも若干の問題があることは、上述したとおりである。しかし、それなりに明確なものなので、これを参考に、自分なりの理由を工夫して欲しい。
[おわりに]
このように、具体的な差別を行っているか否かという以前の問題として、非嫡出子という概念を、わが国法制が維持していること自体が、国際的な非難の対象となっていることを、諸君は承知している必要がある。児童の権利条約
2条1項は、次のように定める。「 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。」
この条約の、批准各国の履行状況を監視する権限を有する、国連児童の権利委員会より、わが国は、
2004年2月26日に、本条約に関して、次のような勧告を受けている。「委員会は、締約国が、婚外子に対するあらゆる差別、特に相続や市民権、出生登録における差別や『非嫡出』なる差別用語を法律及び規制から撤廃するために法律を改正するよう勧告する。」(児童の権利委員会最終見解
文中、締約国というのは、日本のことである。現在のグローバル化した世界において、このような国辱的な非難を浴びる条項は速やかに解消しなければならない。