マスメディアへの反論文掲載請求権

甲斐素直

問題

 政党甲は、国会において多数の議席を有する与党である。甲は、近づいてきた選挙戦に向けて、議席をさらに伸ばすために、野党第一党である政党Xを批判する次のような意見広告を多数の新聞社に掲載するよう求めた。

 その内容は、「X政党は、議席さえ取れればそれでいいのか。選挙戦が近づいても甲政党に対する批判ばかりをしていて、具体的に対立案・方針を出してこない。唱えている政策は甲との相違を強調するためであって、現実的には実現不可能な主張ばかりではないか。このような政党に政権を任せていいのか。」といったものであった。

 これを載せることは、加入している日本新聞協会の新聞倫理綱領に反するとして、ほとんどの新聞社がこれを拒否した。

 しかし、Y新聞社だけは、これを事実に基づいた主張であり、公益性の高い正確・公正で責任ある言論と認め、意見広告の掲載を認めた。

 これに対して、Xは本来公平・中立を旨とするYのような報道機関が、より力の強い一方に肩入れすることはあってはならないとして、この広告を載せたYに責任を求め、問題となった広告と同じスペースの反論文を新聞紙上に載せるよう求めた。

 しかし、Yは反論文の掲載を強制されることは、紙面のスペースの面で負担を強いられることになり、また、今後の批判的記事の掲載を躊躇することにつながり、その結果間接的に表現の自由が侵害されるとして、これを拒否した。

 そこで、Xは、反論文掲載請求を求めて、Yに対して訴えを提起した。

Xの主張する反論文掲載請求権が認められるか否かについて論ぜよ。

 

[はじめに]

 放送法は、携帯用の小型六法には掲記されていない法律であるにもかかわらず、マスメディアへのアクセス権の関連においては、必須の法律で、過去にも司法試験で放送法の知識をズバリ問う問題が出題されている。すなわち、司法試験平成7年度の次の問題がある。

 放送法は、放送番組の編集にあたって「政治的に公平であること」「意見の対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を要求している。新聞と対比しつつ、視聴者及び放送事業者のそれぞれの視点から、その憲法上の問題点を論ぜよ。

 本問は、そこで問題になった政治的意見などにおける公平性を印刷メディアにおいてテーマとしている点が特徴であるが、基本的には上記司法試験問題と同様のアプローチで差し支えない。つまり、本問には電波メディアと対比して論ぜよ、というような指定はないが、本問でもやはり対比の中から問題点が見えてくることになる。

 すなわち、本問の論点は次のようになる。

 第一に、アクセス権を認める根拠は何か、である。知る権利というのが答えになるが、どの程度詳細に論じるかが答案構成上、もっとも神経を要するところとなる。ここが手薄であれば、その段階で落第答案となり、ここで詳しすぎると、第二以下の、本問におけるメインの論点をきちんと論じきれずに、やはり落第答案となるからである。

 第二に、なぜ放送法は、電波メディアにおける表現の自由の制限が肯定されるのかが問題となる。電波は希少な資源であるから、電波メディアは高い公共性が肯定される、と一般にいわれる。なお、上記司法試験の場合には、これに対して、印刷物自体は希少なメディアとはいえないから、公共性を直ちに云々されることはあり得ないことから問題が発展することになるが、本問では論及する必要はない。

 第三に、仮にアクセス権が認められるとして、それは具体的権利性があるのか、という問題である。同じ知る権利から発展した権利としての情報公開請求権は、それ自体としては抽象的権利に留まり、情報公開条例あるいは情報公開法という実定法の制定を待ってはじめて具体的権利性が承認された。

 電波メディアの場合には、放送法4条という実定法があることが、少なくとも訂正請求権という形のアクセス権を承認する上で議論を容易にしている。それに対して、印刷メディアではどうなるのだろうか。

 そして、本問で最大の論点となるのが、問題文中にずばり書かれているとおり、反論権という形のアクセス権が認められるか、である。最高裁判所は、サンケイ新聞事件で、名誉毀損の要件を充たした場合に、これを肯定する口吻をしめしているが、諸君はそれをどう評価するか、という問題である。

 

一 知る権利

 知る権利もプライバシーと同じく、憲法の明文の根拠というよりは、学説や判例の生み出したものである。そこで、それを論ずるに当たっては、明確に二つの異なる型の知る権利が存在していることに注意する必要がある。それは何れも20世紀における「思想の自由市場」の崩壊現象を踏まえて説かれるようになったものである。が、その内容は相当違うので、両者をきちんと区別して理解しておかないと混乱するのは必至である。

 第一の型は、コミュニケーションの前提としての知る権利である。それを具体的権利とする必要性は、20世紀においては社会全体の情報量が膨大となったために、発信に先行する情報収集自体が非常に多くのエネルギーを必要とするようになってきた点にある。特に問題は、現代福祉国家が、私人に関する情報を膨大に収集、蓄積、利用しているにも拘らず、そのほとんどに守秘義務をかぶせて国民に公開していない点にある。この状態を放置したのでは、国民は国の情報操作の客体にされるだけで、国政の主体とはなり得ない。こうした状況の下で、国民の主権者たる地位を確立するためには、国の独占する情報へのアクセス権を確立する必要がある。この権利は通常は報道機関によって行使され、これを普通は取材の自由と呼ぶ。したがって、この型の知る権利は、この段階では、一般国民にとっては抽象的な権利にすぎなかった。

 しかし、後には、個々人の具体的権利としても考えられる段階に発展していく。最初は、例えば拘置所収容者の新聞を読む権利など、情報収集を国が妨げないことを要求する権利であった。が、やがてさらに積極的に国が保有する情報の公開を請求権する権利として認識されるようになってくる。

 第二の型は、報道機関のマス・メディア化、すなわち20世紀になって、巨大な情報産業が出現し、情報の発信を独占する傾向が非常に強くなったことを前提として考えられるようになった知る権利である。本来、表現の自由は、あらゆる人間が情報の発信源となりうる状況を前提に、その自由を保障することによって、国民の知る権利が実質的に保障されることを予想していた。ところが、今日においては巨大情報産業が発達したために、情報の発信源としての地位を事実上それら情報産業が独占するようになり、送り手と受け手の分離が大幅に進んだ結果、表現の自由概念を大きく再構成する必要が発生した。すなわち、これらマスメディアは、その収集した情報を、その編集権に基づいて自由に選択し、あるいは加工することによって、国民が実質的に入手する情報を大幅に操作可能である。そうした情報操作を否定し、個々の国民の知る権利を確保するには、マスメディアの編集権及び思想良心を発信する自由を否定し、中立・公正な情報を提供するべき義務を観念する必要が生じた。それが知る権利として主張されるのである。ここにアクセス権を考える必要が生じてくる。

 

二 マスメディアへのアクセス権

(一) 権利の根拠

 知る権利は、本来はマスメディアが自分の取材の自由を確保するための理論的支柱として開発したものであるが、理論は常に一人歩きする。そして、第二の型の知る権利はその生みの親のマスメディアを制約する理論として登場してくる。

 簡単に要約すると、次のようになる。

 情報の送り手と受け手が分離した結果、我々国民の知る権利の充足は、マスメディアの報道に全面的に依存するようになる。そのため、一面においてマスメディアは我々一般国民が有する情報を求める権利よりも強力な取材の自由が保障される。例えば、公務員にその秘密を明かすように求める行為は、我々一般国民が行えば犯罪であるが、マスメディアが行えば正当業務行為とされる(外務省秘密電文漏洩事件参照)。また、一般国民の表現の自由よりも強力に報道の自由が保障される。例えば人の名誉を傷つける表現は、一般国民が行えば犯罪になるが、マスメディアが行った場合には、「専ら公益を図ることにあった」という推定が働く結果、構成要件該当性が一般に否定されることになる(月刊ペン事件、有閑和歌山時事事件等参照)。

 このように強力な取材の自由、報道の自由を保障される代償として、しかし、マスメディアの表現の自由、特に編集権には大きな制約が生まれてくる。我々一般国民としては、マスメディアの提供する情報に依存して、判断を下すのであるから、マスメディアの情報が一党一派に偏ったものであってはならないからである。簡単にいってしまえば、マスメディアは我々一般国民の有するような表現の自由、すなわち自分の思想・心情を表現する自由に関しては否定されるということになる。

 問題は、マスメディアにおける報道の不偏不当性をどのようにして保障するか、である。

 第一に、国家機関そのものがマスメディアに介入して、変更した情報を発信した場合に、それを抑圧する、という方法がある。例えば、テレビ朝日報道部長が政治的に偏向した報道を行ったと公言したため、同人を国会が喚問して究明しようとした、という事件がある。

注:平成57月の第40回衆議院議員選挙において、自民党は223議席に止まったのに対して、共産党を除く野党の合計議席数は243議席に達し、自民党は政権の座から滑り落ちた。この選挙では、テレビが重要な役割を果たしたといわれた。そこで、民放連の作っている放送番組調査委員会は、921日、「政治とテレビ」をテーマとして取り上げ、テレビが演じた役割とともに、今後の政治報道のあり方について検討を行った。その場の報告者であった椿貞良・テレビ朝日報道局長が、例えば「なにがなんでもやっぱりその五五年体制を突き崩すようなそういう形の報道に視点を置いていこう」など、偏向した編集姿勢を貫いた旨の発言を行ったことが、問題となった。

 しかし、このような方法をとる場合には、報道の自由そのものが国家権力により歪む可能性があり、一般論としては妥当ではない。

 第二に、政府や国会から独立した独立行政委員会によって規制する、という方法がある。アメリカでは現在は連邦通信委員会(Federal Communications Commission)がその任に当たっている。例えば、アメリカであるテレビ局が社説放送を行ったのに対して、テレビ局に思想・信条等の表明の自由はない、として連邦通信委員会がそのテレビ局の免許を取り消した事件がある。この決定は連邦最高裁によっても支持された。

 わが国でもかつては電波監理委員会が存在していたが、現在は廃止されたから、この方法は、現行実定法的には不可能である。

 第三の方法が、本問のメインテーマであるマスメディアに対するアクセス権である。報道が偏向しており、誤った情報がその受け手に供給された場合には、国民としてマスメディアにアクセスし、正しい情報を誤った情報と同一の手段、規模で報道し直すように要求する権利を肯定するのである。そのような再度の報道は、マスメディアにとって非常に大きな負担となるから、当然、情報の変更を避けるために大きな努力を払うことになる。すなわち、マスメディアへのアクセス権を承認することは、報道の不偏不党の重要な手段と考えることができる。この場合、報道が偏向した誤ったものであったか否かは、最終的には裁判所による判定を待つことになる。

 つまり、マスメディアとの関係における知る権利の性格は、対国家の関係の知る権利とはかなり違う。基本的に、マスメディアに対して、その思想や良心に関する表現の自由を否定しようと言うのだから、これを21条から直接引き出すことは絶対に不可能である。この権利の内容は、国(司法権も含めて)に対して、マスメディアが情報を自由に操作しないように、中立、公平な報道を行うように監視することを要求しているから、典型的な社会権である。したがって、根拠条文は25条ないし13条ということになる(どちらになるかは基本書に相談しよう)。

 マスメディアに関して、現行実定法は大きく異なる二つのスタンスをとっている。電波メディアに関しては、実定法そのものが詳細な規定をおいているのにたいして、印刷メディアに関しては、何の規定もない。

 

(二) 電波メディアにおける訂正請求権

 報道内容の不偏不党という要求は、電波を媒体としたメディアには、全面的に向けられている。なぜなら、電波というのは極めて限られた周波数しか使用可能ではない、という意味で、貴重な公共の財産であり、その本質から電波媒体を利用したメディアは必然的にマスメディアになるからである。このような貴重な公共材の私物化は到底許容できない、という事情から、これに対する中立性の要求は容易である。どこの国でも似たりよったりだが、わが国放送法第1条は次のように規定する。

「この法律は、左に掲げる原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達をはかることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによって、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」

 さらに、314号は、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と定めて、聴視者の、知る権利を確保することを要求している。これはさらに443項以下の規定によって詳細化されている。この結果、電波媒体によるメディアでは「社説放送」をすることは事実上不可能になっている。

 このような条文を見た後ならば、テレビ朝日報道部長の、情報操作により自民党を敗北に導くことができた、という趣旨の不用意な発言をした場合、それがなぜ国会喚問という事態を招いたのか、容易に理解できるであろう。あれは実定法上、明確に違法な行為だったからである。喚問が表現の自由に対する国家権力の介入というとらえ方をされなかったことは、この第2の型の知る権利が、十分に確立していることを端的に示している。

 このように、電波メディアにおける表現の自由は厳しく制約される結果、誤った報道、あるいは偏った報道が行われた場合には、それによって被害を受けた者は、電波メディアへのアクセス権が認められている。すなわち放送法4条は次のように定める。

1項 放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあった日から二週間以内に請求があったときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が事実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消の放送をしなければならない。

2項 放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも前項と同様とする

 そして同法56条では、これに違反した場合には20万円以下の罰金に処することになっている。実定法が、このように明確にアクセス権を認めているのである。

 本問の場合、離婚という両当事者間において一般に大きく意見が対立する問題について、一方当事者の意見のみを報道したのであるから、明らかに放送法314号に抵触している。したがって、放送内容が名誉毀損・プライバシーの侵害になっているか否かを問うことなく、4条に基づいて訂正請求権を行使しうるということが出来る。

 

(三) 反論権

 現実問題として、単なる訂正、謝罪ではとうてい問題となった「その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で」するのは困難であろう。そこで、さらに進んで、同じだけの時間枠をXに与えて、反論する権利を肯定するという方法が考えられることになる。反論権について、サンケイ新聞事件において、最高裁判所は次のように述べた。

 第一に、名誉毀損が成立するような場合には、反論権もまた肯定される。

「人格権としての名誉権に基づいて、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため侵害行為の差止を請求することができる場合のあることは、当裁判所の判例(北方ジャーナル事件判決参照)とするところであるが、右の名誉回復処分又は差止の請求権も、単に表現行為が名誉侵害を来しているというだけでは足りず、人格権としての名誉の毀損による不法行為の成立を前提としてはじめて認められるものであつて、この前提なくして条理又は人格権に基づき所論のような反論文掲載請求権を認めることは到底できないものというべきである。」

 第二に、反論権というものが、マス・メディアによる誤った報道を抑止する上で有益な手段であることは認める。

「新聞の記事に取り上げられた者が、その記事の掲載によつて名誉毀損の不法行為が成立するかどうかとは無関係に、自己が記事に取り上げられたというだけの理由によつて、新聞を発行・販売する者に対し、当該記事に対する自己の反論文を無修正で、しかも無料で掲載することを求めることができるものとするいわゆる反論権の制度は、記事により自己の名誉を傷つけられあるいはそのプライバシーに属する事項等について誤つた報道をされたとする者にとつては、機を失せず、同じ新聞紙上に自己の反論文の掲載を受けることができ、これによつて原記事に対する自己の主張を読者に訴える途が開かれることになるのであつて、かかる制度により名誉あるいはプライバシーの保護に資するものがあることも否定し難いところである。」

 しかし、この方法には弊害も大きいと指摘する。

「この制度が認められるときは、新聞を発行・販売する者にとつては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであつても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであつて、これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゆうちよさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存するのである。このように、反論権の制度は、民主主義社会において極めて重要な意味をもつ新聞等の表現の自由に対し重大な影響を及ぼすものであつて、たとえ被上告人の発行するサンケイ新聞などの日刊全国紙による情報の提供が一般国民に対し強い影響力をもち、その記事が特定の者の名誉ないしプライバシーに重大な影響を及ぼすことがあるとしても、不法行為が成立する場合にその者の保護を図ることは別論として、反論権の制度について具体的な成文法がないのに、反論権を認めるに等しい上告人主張のような反論文掲載請求権をたやすく認めることはできないものといわなければならない。」

 要するに、反論権という権利をマス・メディアに対するアクセス権から直ちに導くことは許されず、国に対する情報公開請求権の場合と同じように、立法を必要とする、としている。そこで、前記放送法4条が、そうした授権立法といえるか、という問題が生ずるので、この問題に言及し、同条も反論権までも肯定するものではない、とする。

「放送法4条は訂正放送の制度を設けているが、放送事業者は、限られた電波の使用の免許を受けた者であつて、公的な性格を有するものであり(同法443項ないし5項、51条等参照)、その訂正放送は、放送により権利の侵害があつたこと及び放送された事項が真実でないことが判明した場合に限られるのであり、また、放送事業者が同等の放送設備により相当の方法で訂正又は取消の放送をすべきものとしているにすぎないなど、その要件、内容等において、いわゆる反論権の制度ないし上告人主張の反論文掲載請求権とは著しく異なるものであつて、同法4条の規定も、所論のような反論文掲載請求権が認められる根拠とすることはできない。」

 以上のことから、本問に対する回答としては、Xは訂正請求権までは問題なく認められるが、さらに進んで反論権を主張するには、名誉毀損の成立が必須のものということができる。

 同様に、謝罪放送は、民法723条の定めるところにより名誉毀損が成立することを前提として認められるのであるから、これも名誉毀損の成立が要件となる。なお、前述のとおり、マス・メディアに思想・信条を表明する自由がない、ということは、謝罪広告事件における19条の問題もまた発生しないと言うことを意味しているから、謝罪放送を求めることについてはなんら問題はない。

 

三 印刷メディアにおけるアクセス権

 印刷メディアにおいても中心論点となる反論権については、上記にサンケイ新聞事件判決を引用しているから説明の要はないであろうが、その前提となるアクセス権がそもそも成立するのか、という点について以下説明する。

 

  1 印刷メディアにおける表現の自由

 電波が極めて希少な資源であるのに対して、印刷物そのものはだれもが利用できる媒体である。したがって、印刷物における表現の自由は広く認められている。それがメディアであっても事情は変わらない。

 仮に問題としている印刷メディアが自由民主党の機関誌「自由新報」や共産党の機関誌「赤旗」であった場合、それぞれの政党が自らの政権という偏った情報をそこに提供し、対立する政党の情報をきちんと報道しなかったからといって、それは各メディアの表現の自由の問題にすぎない。したがって、自民党が赤旗紙上において非難されたからといって、それを名誉毀損として損害賠償の訴えを提起したりすることは考えられるとしても、赤旗の紙面を割いて自民党に反論記事を載せろという要求はそもそも考える余地がない。

 あるいは月刊誌文芸春秋が田中角栄の金権疑惑を追及するという編集方針を立て、毎月それを指弾する記事ばかりを掲載するのも、同誌の表現の自由の問題に過ぎない。田中角栄側として反論したいといい、月刊誌側がその編集権の行使の一環として、その原稿を受け入れることはありえても、角栄側が、その固有の権利のとして反論権の掲載を要求できるとは一般的には考えられない。

 しかし、すべての印刷メディアについて同様にいいうるかは疑問である。特に日本の場合、読売、朝日、日経、毎日、サンケイのような全国紙、あるいは特定の地域において極めて独占性の高いマスメディア、例えば秋田における魁(さきがけ)とか、名古屋における中日新聞などについては、表現の自由の抑制を十分に肯定する余地があるであろう。

 なぜなら、これらの新聞は、第一に不偏不党性をそのセールスポイントとしており、したがって我々一般国民としては、その報道が電波メディアの場合と同じく、不偏不党なものであると期待する権利があるといって良い。第二に、これらのマスメディアは極めて情報の独占性が高い。先に例示した月刊誌の場合であれば、それだけをニュースの情報源として生活するという人はまず考えることができないが、日刊紙の場合には、日々の情報の大半をそれに依存するのがむしろ普通といえる。

 こうした点から、印刷メディアの場合にも、高度の情報独占性を有する巨大メディアの場合には、電波メディアに準じて、放送法の要求するのと同様の表現の自由の制約が認められるべきであろう。

 

 2 アクセス権の具体的権利性

 問題は不偏不党性の確保の具体的な手段である。国家権力の介入による不偏不当性の確保というのは、形を変えた検閲という事態にすぎないということになっては、角を矯めて牛を殺すものである。国民自身の手により実質的に不偏不党性を確保する、情報管理の手法が何か考えられる必要がある。

 その手段として工夫されたのが、前に述べたとおり、マスメディアへのアクセス権である。マスメディアが公平、中立から逸脱した報道をした場合には、それに対する反論を同様の基準により印刷し掲載する義務が、マスメディア側にあるとすれば、効果的な偏向の抑止手段になる。問題は、放送法4条のような規定が存在しない印刷メディアについて、アクセス権の具体的権利性を肯定できるか、という点にある。

 これがわが国で最初に問題になったのは、自由民主党が産経新聞に、共産党を狙い打った意見広告を掲載したのに対して、共産党が産経新聞に、同じ位置に同じ大きさの広告を無料で乗せるように請求した事件である。

 最高裁は、「所論のような判論文掲載請求権は、これを認める法の明文の規定は存在しない。」と述べて、この請求を退けた(最判昭和62424日=百選第5170頁)。換言すれば、法の明文がなければ具体的権利性がないということを述べたものである。

 確かに、それを認めたのではメディア側の編集権というものが抜本的に否定されることになりかねないし、やたらと無料記事を義務づけたのでは、広告収入で成り立っている民間メディアの存立の基礎を揺るがすことにもなりかねない。何より次ぎに上げる請求権を否定することになるという問題がある。

 それは、意見広告を乗せる権利というものを、アクセス権として保障できるか、という問題である。これは基本的に肯定すべきだろう。それこそが、商業主義に基づくメディアと表現の自由の接点だと思うからである。その場合に、サンケイ新聞事件における共産党の主張するような反論権を認めると、広告主は通常の何倍か(反論者の数だけ)の広告料を払う立場に追いこまれ、結局意見広告権を否定する結果になる。したがって、反論も自腹でするべきだという理屈になる。しかし、これに対しては、金持ちの意見掲載権だけを認めることになる、という厄介な問題もあり、さらに各社の内部的な倫理綱領をどの限度で認めるか(上記共産党事件の場合、大手他社はすべて掲載を拒んでいるが、それは自民党の権利を侵害したことにはならないか?)という問題も絡んで、まだ解決がついたといえる状況ではない。

 しかし、少なくとも、アクセス権のような積極的な権利について、その具体的要件を法が明確に定めることなく、広く認める場合には、最高裁の指摘するとおり、社会の木鐸として、書くべき批判記事等の掲載に当たって躊躇させるなどの萎縮効果を発生させ、報道の自由を阻害する危険性が存在することは否定できない。したがって、印刷メディアに対する一般的なアクセス権は、抽象的権利に留まるというのが妥当である(この点について「雑誌「諸君!」反論文掲載請求事件」がある=最判平成10717日。第1審判決=東京地方裁判所平成4225日=について戸松秀典・平成4年度重要判例解説(ジュリスト臨時増刊1024号)2425頁参照)。