財産権制限と損失補償
甲斐素直
次の各問の持つ憲法上の問題点について論ぜよ。
Xは、平成6年にホテルを建設し、今日まで一貫して経営に当たっている。これは比較的小さなホテルであったため、平成5年に建設計画を立てた時は、エレベータは、成人4人が乗るのが限度とされる小型のもので、身体障害者は泊めない計画だったので、身体障害者が介護者に車椅子を押してもらって乗ることは不可能なものであった。しかし、平成6年にハートビル法(正式には「高齢者、障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」)が制定され、ホテルに代表される特定建築物を管理・運営している者には、身障者用の駐車場を設けたり、エレベータを車椅子で利用できるものにするなどの義務が課せられた。このため、Xは、建物の設計それ自体を見直し、エレベータを車椅子で利用可能な大型のものに変更して、着工せざるを得なくなった。このため、設計変更費用がかかった上に、工事費用も当初計画に比べて数千万円も余計にかかることとなった。(一)
そこで、
Xとしては、ハートビル法のおかげで余計にかかった費用について、国に損失補償請求したい。なお、ハートビル法に補償規定はない。(二)
Yは、平成3年にホテルを建設し、今日まで一貫して経営に当たっている。これは比較的小さなホテルであったため、当初設置されたエレベータは、成人4人が乗るのが限度とされる小型のもので、身体障害者が介護者に車椅子を押してもらって乗ることは不可能であった。しかし、Yは、身体障害者は泊めないこととしていたので、エレベータが小型であることは、当時は特に問題ではなかった。その後、平成
6年にハートビル法が成立したが、同法では、既にできあがっているホテルに関しては、努力義務に過ぎなかったので、Yは特段の措置を講じなかった。平成
18年にいたり、バリアフリー法(正式には「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」)が制定された。これは、ハートビル法及びそれとは別に制定された交通バリアフリー法(正式には「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」)を一本化したもので、この成立と同時に、二つの旧法は廃止された。バリアフリー法では、身体障害者のための設備を設けることは単なる努力義務ではなく、「建築主等は、その所有し、管理し、又は占有する新築特別特定建築物を建築物移動等円滑化基準に適合するように維持しなければならない。」(
14条2項)として、明確に義務化された。さらに「所管行政庁は、前条第一項から第三項までの規定に違反している事実があると認めるときは、建築主等に対し、当該違反を是正するために必要な措置をとるべきことを命ずることができる。」(15条1項)、「第十五条第一項の規定による命令に違反した者は、三百万円以下の罰金に処する。」(59条)として、その義務の履行確保手段までが用意されている。Yは、同法施行と同時に、所轄行政庁Zから、エレベータを車椅子でも利用可能な大きさに改造するよう行政指導を受けた。しかし、試算したところ、数千万円の支出が必要という計算になったので、指導に応じなかった。そこで、Zはバリアフリー法15条1項に基づき、正式に命令を発したため、Yは工事を余儀なくされた。Yとしては、このように大きな支出を余儀なくされたのであるから、損失補償を求めたい。なお、バリアフリー法には損失補償規定はない。
[はじめに]
このように小問形式の問題では、どこまでが共通要素として総論を書けるか、という観点からまずアプローチすることが大切である。なぜなら、共通する部分について総論として書いておかないと、同じことを二つの問題でそれぞれ書く羽目になり、論文が冗長な割には少しも議論が深まっていないという問題が生ずるからである。
もっとも、本問の場合には、問題に仕掛けがあって、小問1の議論が終わったそこから、小問2の議論が始まるようになっているから、論点さえきちんととらえていれば、あまり重複は起こらないようになってはいるのだが…。
X及びYは、ハートビル法及びバリアフリー法という法律によって、エレベータ工事を余儀なくされたのであるから、これは、適法な財産権の侵害と構成することができる。この場合には、憲法29条の損失補償としてとらえることになる。昔は、損失補償の問題は、29条3項さえ論じれば十分だった。なぜなら、1項・2項と3項は別の問題と考えられていたからである。
しかし、今日の学説・判例は、
29条の損失補償の問題を、1項・2項と3項との関連の中で理解している。その結果、これが論点となる問題では、答案構成は、いつでも、次のようにならねばならない。29条1項の財産権の意義を述べ、(ア)
(イ)
29条2項が制度的保障であり、その制度の中核として生活権を述べる、(ウ) これを前提に、
29条3項の補償の範囲を論ずる。損失補償というと
3項の問題のはずなのに、なぜ1項の議論から始める必要があるのか、と疑問を感じる人もあるかと思う。それは、問題によっては2項で議論が終わって、3項まで届かないこともあるし、3項に届く場合にも、2項に関する理解で、補償範囲が大幅に変わるからである。この点を理解してもらうために、次のような例を考えてみよう。東京のような大都市の近郊で、はじめて市街化調整区域の線引きを行ったとしよう。その結果、市街化区域においては、
1坪あたりの市場価格が100万円であったのに対して、それに隣接する市街化調整区域では1万円であったとする。この場合、運悪く市街化調整区域に入った土地を持っていたAは、資産価値の99%という莫大な損失を被る事になる。では、このような立法あるいは行政に対して損失補償を請求できるだろうか。29条3項だけからすれば、Aは、適法侵害により、明らかに財産的価値を失っているのだから、損失補償が受けられそうである。しかし、そのような損失補償を認めては、市街化調整区域という制度を導入する意味は失われるから、社会常識的にいえば、請求は認められない。この社会常識は、憲法学的にはどのように理論づけられるのだろうか。この問題については、
3項をいくら睨んでいても答えは出てこない。簡単な答えは、29条2項により、財産権の内容は自由に法律で定めることができるからだ、ということなのである。つまり、市街化調整区域の土地所有権は、都市計画法の定めている限度でしか、財産的価値を有していないのだ、という訳である。しかし、そのように財産権の内容として自由な立法裁量権を(しかも事後的に)無条件に承認した場合には、今度は
1項の財産権保障の意味が失われる。そこで、両者を調和する解釈を求める必要がある。このような問題意識は、29条に関するどんな問題でも持つべきであり、その下に、本問の答案構成は行われるべきである。これについては、幾通りかのアプローチがあるが、ここでは通説的な制度的保障説に沿って説明する。
一
29条1項と2項の関連について通説は、
29条1項に二通りの意義を認める。第1は、個人が現に有する財産権を保障することであり、第2は、私有財産制という制度の保障と考えるのである。これは一つの矛盾である。個別具体的な人権を承認できる場面で、それよりも保障力の低い制度的保障概念を導入する必要はないはずだからである。その疑問への答えは第
2項の存在である。財産権の内容を法律で定めるということは、財産権は法律の存在する限りにおいてのみ存在することが出来るという意味である。現に存在している財産権そのものを、法律によって廃止するということも、この規定の下では当然あり得る。例えば永小作権は、その歴史的使命を既に終えていると考えれば、廃止されても良いかもしれない。したがって、個人の現有財産に対する保障というのは、第一義的には行政や司法に対する保障の意味であって、立法に対する保障とは考えられない。その結果、立法に対する保障は、制度的保障概念に頼らなければならない、と考えるのである。そう考えた場合、その侵すべからざる中核概念が、財産権の個人所有、すなわち私有財産制を内容としているという点では異論はない。では、私有財産制とはどのような概念なのだろうか。
それは資本主義だとする説がある(例えば、佐藤幸治は営業の自由を根拠に、資本主義を採用していると主張する=佐藤『憲法』第
3版566頁参照)。そう考えた場合には、本問に引きつけて見れば、ホテル事業における重要な資産であるエレベータの維持管理という財産権の自主的な行使が法律により侵害された以上、補償の対象となるはずである。しかし、現在のわが国は社会国家(福祉国家)であり、文字通りの資本主義は採用していない。共産主義と資本主義の根本的な相違は、資本主義では生産財の国有化の禁止にあると考えるのが普通である。その場合、議会によって一定の産業について民間で行うことが禁じられていたり(例えば郵便やアルコール)、企業の国有化が行われたりするわが国は明らかに典型的な資本主義ではないから、このような説による場合には、わが国は恒常的な違憲状態にあることになってしまい、常識的にはおかしな結論となる。
ここでのキーワードは「財産権の社会性」である。この語については、別途説明しているので、ここでは説明しない。この語を使用すると、次のように説明できる。
社会国家であるわが国としては、生産手段の私有を絶対的に保障していると解するべきなんらの法的根拠も存在しないこと、財産権の社会性から見た場合、個人の生存に直結する財産権の保障までで、制度としては必要にして十分であること、という二つの根拠から、人間が、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有までが保障の対象となると考える。換言すれば、個人の能力によって獲得し、その生活利益の用に供せられるべき財産を、使用、収益、処分する権利が中核と考えれば十分である。
現実の法制は、このような考えに則って定められている。例えば、相続税を例にとってみよう。日常レベルにとどまる財産の相続の場合には、大幅な控除が認められて、事実上非課税なのに対し、相続税率は累進制で、額が
3億円を超える場合には50%の税が課せられる。どんな大金持ちでも、三代目には只の人になる、といわれる由縁である。それは、そのような巨額の資産は、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有を超えていて、財産権として保護する必要がないために、相続税という法律により侵害可能であると判断されたことを示している。以上の説明は、基本的な理解を確保するために、多分に直感的な表現を使用しているので、諸君の論文にこのまま引用してはいけない。学説は、もう少しきめ細かな表現を行うのが普通である。代表的な説を紹介する。その上で、諸君自身の基本書とも相談してどれを君たちとしては採用するかを決めた上で、それぞれの論文にもっとも適切な表現を見つけるようにしてほしい。
1 大きな財産・小さな財産説
少しややこしい説なので、文字通り引用する。
「社会国家の使命が、なによりも先に、社会の下積みになった多くを占める国民に、人たるに価する生活を保障することだとしたならば、そこにおいて制限されるべき財産権とは、国民がその生活を営むための日常必需財産を支配する財産権を直接の対象とするのではなくーそういう『小さな財産』の財産権を意味するのではなく、もっと『大きな財産』の財産権ー貧乏や失業の原因を作った資本主義経済発展の原動力となった財産を支配する財産権をその主要な対象とすべきはずである。なぜならば、この『小さな財産』のもつ社会性は比較的弱いのに対して、『大きな財産』のもつ社会性は極めて強いからである。」
高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』
7巻249頁佐藤幸治もこれを妥当とする(佐藤『憲法』第
3版、566頁)。この考え方をとる場合には、
Xの事業用財産は、日常必需財産ではないので、大きな財産に属することになり、それに対する規制は、制度の中核には属さないことになる。2 生存財産・独占財産説
たとえば、長谷部恭男は次のようにいう。
「個人の固有のものとしての財産は、社会公共の利益を理由としても侵害しえない、最低限の生活保障のため、あるいは個人の自由な私的生活領域を保護するために不可欠な財産と考えることができる。このような財産は憲法
これに対して、現在の高度に複雑化した経済社会を規制する財産法制の大部分は、当該社会のメンバーがそれに従うことに共通の利益を見いだすからこそ存在するものであろう。このような財産法制は、
29条2項の定めるように、社会全体の利益つまり公共の福祉という観点から立法府よってその内容を定められ、変更されうる。」長谷部『憲法〔第
3版〕』新世社243頁より引用基本的には上記大きな財産・小さな財産と同様の考え方であるが、表現の明確性から最近はこちらをとる者が増えている。たとえば、野中他『憲法T〔第
4版〕』444頁(高見勝利執筆部分)、辻村みよ子『憲法〔第2版〕』284頁、小林孝輔他『基本法コンメンタール憲法〔第5版〕』212頁(中島茂樹執筆部分)も同様の見解を示す。生存財産は、「人間に値する生活財」(今村成和『損失補償制度の研究』676頁)と呼ばれることもある。私自身は、この最後の論文に従い、「生存財産」ではなく、「生活財」ということを好むが、単に用語法の問題に過ぎない。 この議論の意味が判るだろうか。29条は、1項の財産権の限りでは経済的自由権の保障規定である。しかし、29条2項で、侵す事のできない制度の中核は、個人の生活財である(あるいは生存財産ないし小さな財産である)と考える場合には、それに属しない事業用財産権は、憲法29条の侵すべからざる中核に属する権利ではない。だから、法律の定めるところにより自由にその権利の内容を決定することができる。本問に即して言えば、
Xの有するホテル営業という財産権の内容は、29条2項の文言に従い、法律によって内容を決めることが可能なのである。そして、国は事前にハートビル法という法律を制定しているので、憲法29条2項の定めるところにより、そもそもホテル営業権という財産権は、それらの法律に従った内容のものでしかない。したがって、
Xとして、法律の定めるところにより、そうした規制がなければかかったであろう費用との差額を、29条3項により請求する余地はない、というべきである。* * *
このように説明すると、往々にして諸君は、この考えが絶対に正しいという誤解を持ち、こう考える理由をきちんと論文に書き込まない傾向がある。そこで、上記に示した通説的な考え方に対しては、様々な批判も存在していることを強調しておきたい。すなわち、無得造作に前提として置いた制度的保障という把握は妥当ではない、とする者は決して少なくない。例えば浦部法穂『憲法学教室〔全訂第
2版〕』212頁は次のように批難する。「これはすなわち、社会権の実現が財産権保障という観点から限界づけられるということを意味する。これでは、社会権を保障し、そのためには経済的自由権が制限されることを当然の前提とした憲法の趣旨が完全に没却されることになってしまう。要するに、
こうした学説の対立については、諸君の基本書は必ずしも詳しくない。いつも言うとおり、他説に対する批判は書かなくてよい。だから、こうした異説の内容を詳しく知る必要はない(だからここでも浦部法穂説の内容は説明しない)。しかし、それは異説の存在自体を知らなくて良いという事ではない。自説に批判があるということを承知していれば、その分だけしっかりと自説の理由付けが必要であることが判るからである。
学説の広がりを簡単に早く知る方法としては、何らかの憲法コンメンタールや演習書を参照する事である。論文練習の手段として、普段からそうした本の利用を心がけて欲しい。また、その様に考えた場合には、本問では、どのような理論展開をすべきかについても、これらの本に当たって、一度じっくり考えておいてほしい。
二
29条3項の要件(一) 問題の考え方
小問(
2)が、今説明した小問(1)と異なるのは、後発的な規制という点である。後からできた法律によって、それまで有していた権利の内容が変わった場合に、それによって発生した損失についても、事前に規制がかかっていた場合と同じように補償を求めることはできないのか、という問題である。29条3項の解釈として、天から声があったかのように、何の理由も付けずに「特別犠牲」と書く人がよくいる。しかし、論文は理由が生命である。このように重要な論点について、理由を付けない事は許されない。もちろん、29条3項の文言に、特別犠牲という言葉が入っていれば、話は別である。しかし、同項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と言っているにすぎない。条文の限りでは、私有財産を公共のために用いれば、常に補償がいるように読める。だから、特別犠牲という要件が必要だという説は、憲法の文言にない制限を理論で課しているものなのである。それがどのような理論なのか、という事を明確に書かない限り、論文として評価の対象にならない。
まず、適法侵害の場合に、常に補償が必要だというのはナンセンスだ、というところから理解しよう。例えば、所得税を課するということは、課される人の財産権に対する適法侵害である。しかし、これに対して一々損失補償を認めていたのでは、課税の意味はない。このように、全ての人が(財産的能力に応じて)平等に負担している場合には、
29条3項の適用を考える余地はないということが判るであろう。しかも、この場合、後から税法が新規に制定され、あるいは法改正になった結果、従前は非課税であった活動が課税対象になった場合でも、補償問題は起こらない、というのは社会常識的に理解できるであろう。問題は、それをどう説明するのか、ということである。すなわち、ここで問題となっているのは、等しく適法侵害でありながら、補償のいる場合と、要らない場合とを、どのような理論で区別するか、という問題である。
(二)
3項の規範的性格3項全体としての規範的性格については、大別すれば、立法指針説、請求権発生説及び違憲無効説が存する。
かつての学説や判例は、補償のための特別法がない限り、国は補償できないとしていた(例えば奈良県ため池条例最高裁判決参照)。これが立法指針説である。換言すれば、これはプログラム規定ということであるから、こういう考え方をとる限り、法律の現に定めている補償規定がすべてであり、補償規定が存在していない以上、補償問題は生じない。
しかし、少なくとも
29条3項に関する限り、河川附近地制限令に関する43年最高裁判決により、直接憲法に基づいて補償請求がなしうることが認められた。これが請求権発生説である。これは諸君も知るとおり、立法の不作為に対する通常訴訟における解決手段である。これにより基本的人権の保障という観点から、補償規定が法定されている場合にも、その内容の違憲審査の道が開かれた。違憲無効説は、わが国では見あたらないが、ドイツにおける通説である。これは条文構造の違いに由来するものであるが、問題が多いため、ドイツ憲法裁判所は請求権発生説に結論を近づけるため、様々な努力をしている。学生諸君は、ややもすると、法律が
29条3項違反と考える場合には、普通の違憲問題と同様に、違憲である以上無効という結論に飛びついてしまう。しかし、司法審査がわが国のように付随的事件訴訟という形態をとる場合、違憲無効説を採用すると、すべての行政手続きが適法に完了した後になって、補償規定の不備から全面的に否定されるという結果がもたらされるので、実際上の弊害が大きく妥当性を欠く。だから、実務的にはとうてい耐えられる説ではないことを理解しておいて欲しい。そこに、請求権発生説の意義がある。すなわち、補償規定が存在しておらず、あるいは不適切な場合にも、
29条3項に直接基づいて補償請求を行えるが故に、補償問題と不可分の関係に立つ法律の規定が無効にならないのである。この点に、河川附近地制限令判決の重要性がある。
(三) 「公共のために用いる」の意義
かつては
2項と3項は全然別のもので、2項による制限の場合には補償がいらない、と考える説が有力だった。そのことから逆に、2項による制限は、補償が必要なほどの強度の制約を加えることは許されない、とする説が強く主張された。しかし、今日においては、法令による制限であっても補償の要がある場合があると解することに関しては、ほとんど異説はない。これも、河川附近地最高裁判決の持つ重要性の一つである。このことを、例えば浦部法穂は次のように説明する。
「
(四) 損失補償要否の基準
先に述べたとおり、特別の犠牲がある場合に補償の要があるのだが、何をもって一般・特別を区別するかは、実は非常に難しい問題である。
1 財産権が剥奪される場合
これは、普通は特別犠牲に入る。ただし、受忍するべき理由のある場合、例えば国家刑罰権の行使による没収や違反建築物の除却の場合に、相手が受忍するべきなのは当然である。しかし、例えば消火のため、まだ燃えていない家を破壊する場合に、どの限度までは受忍するべきであり(消防法
29条2項)、どこからは補償の対象となる(同第3項)かは、非常に微妙である(最高裁昭和47年5月30日判決、行政判例百選<第4版>344頁参照)。さらにややこしいのは、受忍限度内にとどまる損失といえる場合にでも、特別規定により補償される場合もあることである。家畜伝染病予防法や人間に関する伝染病予防法におかれている損失補償規定は、その典型である。つまり、伝染病予防のもつ社会公共の重要性を考慮した場合には、侵害は受忍限度にとどまるというべきであるから、補償はなくとも良い。しかし、補償をまったくしないと、例えば病気を隠すおそれがあり、それにより被害が拡大することを恐れるという立法政策上の理由から、補償規定が置かれたりするのである。
2 財産権の制限にとどまる場合
本問で問題になっているのは、こちらである。すなわち、ホテルそのものを没収したり、営業を禁止したりした訳ではなく、単にエレベータの改修を義務づけただけだからである。
(1) 消極規制説
かつての通説は、公共の安全秩序という消極的な目的のために課される財産権の制限(警察制限)に対しては補償は不要であり、他方、公共の福祉の増進のためという積極的な目的のための財産権の制限(公用制限)に対しては補償が必要というものであった。例えば、奈良県ため池条例判決は、「その財産権の行使を殆ど全面的に禁止」する場合でも堤防の決壊防止のためであれば無補償でよいとしていた。この基準に従えば、本問のエレベータ改修は、バリアフリー化という積極目的のための規制であるから、補償が必要であることになる。
しかし、河川附近地制限令判決は、堤防の決壊を防止するという明らかに警察規制の事案であるにもかかわらず、「その財産上の犠牲は、公共のために必要な制限によるものとはいえ、単に一般的に当然に受けるべきものとされる制限の範囲を超え、特別の犠牲を課したものと見る余地が全くない訳ではな」く、特別犠牲といえる場合には、憲法
29条3項を直接適用することで救済するべきであるとした。また、現実の立法を見ても、公用制限であっても、美観地区や風致地区、あるいは先に例に挙げた市街化調整地区のための利用制限には補償は要しないとされる。こうしたことから、今日では、消極規制・積極規制で区分する説は、一般に採られない。
(2) 内在的制約(社会的制約)説
内在的制約に属する場合には、補償は無用であるという説は従来から有力に主張されてきている。元々は上記警察規制と同趣旨であったのだが、近時は積極目的の場合でもこの語に含ませるのが普通である。その結果、受忍限度内にとどまる限り、補償を要しないと述べているに過ぎなくなった。そのため、具体的な基準としての機能はほとんど無くなっているのが、この説の欠点である。しかし、今でも次に述べる説の一部として依然主張される。
(3) 受忍限度論+偶発的損失説
基本的には先に、国家補償法の根拠として紹介した平等負担説が根拠である。通説は、この平等負担説を、先に説明した
29条2項の法的性格を加味することで、財産権に関する生活権保障説として展開する。これに対し、先に紹介した東京地裁59年判決のように、損失補償は25条を根拠とすることもできると考える場合には、財産権に限るとすることを強く考える必要はなく、一般に生活権侵害があれば、補償を要すると説明することになる。いずれにせよ、こうした説を根拠にして、この全国民が平等に負担するべき損失を、特定人だけが負担する状態の事を、「特別犠牲」というとすることができる。しかし、正確にいうと、特別犠牲と言うだけでは十分ではない。例えば、山奥にダムが建設され、村が水没する場合を考えてみよう。元からの村人の場合には、市場価格を度外視した生活再建補償が必要であるとされたのに対して、ダム建設を聞きつけて補償金目当てで村に移り住んできたものに対しては、補償は、住宅購入費の程度で、以前からの住人ほどの手厚い補償は要らないと考えるのが妥当だろう。どちらも等しく財産権に対する特別犠牲を受けているのに、なぜ違いが生ずるのだろうか。この点を、学説は、これは「偶発的損害」ではないから、と説明する。たまたま運悪く自分の住む村にダムが造られて被害を受けた元々の住民と違って、ダムが造られる事を知って移り住んだ者は、その予期される被害は受忍するのが当然と考えるのである。
こうした事から、正確に言うと、補償が必要とされるのは、普通は、単に特別犠牲といってしまうが、正確には特別かつ偶発的損失を被ったという事である(特別犠牲+偶発的損失説)。結局、今の所、ある程度実用性のある一般基準としては次のようになる。
イ 財産権の剥奪または当該財産権の本来の効用の発揮を妨げることとなるような侵害については、権利者の側にこれを受忍すべき理由がある場合でない限り、当然に補償を要する。
ロ この程度に至らない財産権行使の制限については、
a
当該財産権の存在が、社会的共同生活との調和を保っていくために必要とされるものである場合には、財産権に内在する社会的拘束の表れとして補償を要しないものと言うべく(例えば建築基準法)、b
他の特定の公益目的のために、当該財産権の本来の社会的効用とは無関係に、偶然に課せられた制限であるときは補償を要する(例えば文化財保護)(今村成和「財産権の補償」有斐閣『憲法講座』第
2巻199頁より紹介)bはちょっと判りにくいかと思うので、例を示す。例えば、古い宿場町が、時代の流れとともに次々と増改築され、町当局が気がついた時には、昔ながらのたたずまいを見せている家はホンの数軒になっていたとする。そこで、そうした家屋を保存する条例を定めて、その家の増改築を制限したとする。この場合、早い段階でさっさと改築していれば、負担しないで済んだ多額の費用負担を、たまたま最後まで残っていたという理由で負担させるのは不合理である。そこで、保障対象になると考えることになる。
本問で問題になるのは、
aの方である。バリアフリー(Barrier free)という言葉は、昭和49(1974)年に国連障害者生活環境専門家会議が「バリアフリーデザイン」という報告書を出したことがきっかけとなって広く使われるようになった。少子高齢化社会が現実的なものとなりつつ今日、何の不自由もない人だけを対象としたまちづくりはもう許されない。年を重ねれば身体的な機能が低下することは、すべての人にとって避けられない、身近な問題だからである。そうした障害のある人々が自立して生活できるまちづくりが、今まさに求められていることを考えると、バリアフリー法に基づく規制は「社会的共同生活との調和を保っていくために必要とされる」ものであるから「財産権に内在する社会的拘束の表れ」と評価することが可能である。したがって、一般論としては、補償を要しないと結論することができる。三 損失保障の内容
29条3項に基づく正当補償とは、具体的にはどの額かという問題は、以上の議論で終われば、本問とは直接には関係のない議論である。しかし、上記結論と異なり、諸君の中には、Yの負担は社会的受忍限度を超えていると判断した者もいるであろう。その場合には、正当補償とは、何を意味するかという問題が発生する。
3項にいう「正当な補償」が、具体的にどのような補償なのかを巡っては完全補償説と相当補償説の2説の対立がある。相当補償説は農地改革という歴史的特殊性のあるケースに絡んで出てきた説であり、それを除外して見るならば、完全補償が必要なことについては、従来はあまり異論は無かった。しかし、制度の中核を生活財と把握する場合には、中核に該当しない事業用財産権については、必ずしも完全保障が必要とは考えられないことになる。順次説明したい。
(一) 完全補償説の内容
1 完全補償の内容
往々にして、諸君は完全補償というと、市場価格の補償と直結させているが、この二つの概念は本来は別のものだ、ということを理解して欲しい。基本的には、財産権に関する完全補償とは、再取得価格の補償のことである。例えば、山奥の過疎の村を考えてみよう。そのような立地条件の悪いところでは、土地や家屋の取引は現実問題として皆無に近い。すなわち、市場価格は零である。しかし、そうした村をダム建設により水没させる場合、無償で土地収用できるということではない。立ち退く人が、近隣の水没しない地域で、新たに従来と同じ生活をするために、土地や家屋を再取得する為に要する価格を補償することが必要である。だから、例えば家屋については、従来あった建物を引き屋して移動させる費用、ないしはばらして近隣の土地まで運び、再度組み立てるのに要する費用などを計算して、それを補償額とすることが多い。ただし、都市部における問題の場合、土地の再取得価格は、その土地の市場価格を考えれば十分ということであることから、普通の場合には市場価格に置き換えて考えるに過ぎない。
また、例えば家畜伝染病予防法には、伝染病に罹患している可能性があるにとどまる家畜(疑似患畜という)でも、行政庁は処分を命ずることができる。その場合、市場価格の
5分の4が補償される。この場合、仮に疑似患畜であることをきちんと表示した場合には、売却しようとしても、普通であれば買い手はなく、したがってその家畜に関して市場価格が形成されることはないであろう。しかし、まったくそれを隠して売るという事態を防ぐために、補償制度が設けられていると考えることができる。すなわち、現実に保有する家畜の事情価格ではなく、健康な家畜の再取得価格を市場価格と呼んでいるのである。2 正当補償の限界
本問とはあまり関係のない議論だが、今日における議論の中心は、どこまでの被害を完全補償すればよいかという点に存在しているので、ついでに説明する。諸君は書かなくて良い。
保障の内容に関しては、大別して、財産権補償、生活権補償及び精神的損害補償の3者が考えられる。それぞれ次のような概念である。
@ 財産権補償
これは、基本的に財産権の客観的価値、すなわち一般取引価格(市場価格ないし再取得価格)を補償することである。算定の基準時点としては事業認定の告示の時とされている(土地収用法
A 生活権補償
これとは、個人の生活基盤が侵害されたことに対して行われる補償のことである。例えば、ダムの水没などで、ほとんどの住人が居なくなると、村落共同体が破壊されるため、立ち退いた住人に頼っていた部分、例えば営農の支援、就職先、生活必需品等の購買先が失われる結果による被害が発生する。また、事業期間中に騒音や振動等による被害も発生する。
B 精神的損失補償
これは、上記の問題から被る精神上の損失に対する補償である。
漠然と財産権に関する補償と考えていたかつての通説の場合には、補償対象となるのは@の財産権補償のみである。本問のような事業用財産については、今日においても、それに尽きることは問題がない。
これに対して、制度の侵すべからざる中核を生活財に求める場合には、例えばダムによる水没による移転先で生活再建ができなければ補償されたことにならないから、Aの生活権補償までが対象となると考えるべきであろう。
しかし、墳墓の移設その他、Bの範疇に属する損失については、この説でも
29条の限りでは補償対象とはならない。しかし、現実問題としてはそこまで補償しないと、被害者の理解を得ることは難しい。このため、実務的にはBを無視することが出来ないため、内閣の制定した損失補償基準要項など、内部規則の形で対応している。問題の出題内容によるが、完全補償には、こうした論点も含めて考える必要がある。
(二) 相当補償説
先に述べたとおり、受忍限度を超えた特別犠牲と考えた場合に、しかし事業用財産に対し、それは後発的とはいえ、本来備えているべき性質を備えるよう命ずる場合に、完全補償の必要があるのか、という問題が生じてくる。すなわち、相当補償にとどめれば十分ではないか、という事も検討しなければならない。その根拠としては、次の学説がある。
1 社会評価変化説
問題となっている立法が、農地改革に比すべき既存の財産権に対する社会評価の根本的な変化を反映していると解することができる場合には、相当補償で足りると解する説がある(今村成和『損失補償制度の研究』有斐閣
1968年刊74頁参照。古い説だが、今日でも賛同者がいる=戸波江二・新版・298頁参照)。この説は、通常の収用の場合には完全な補償を必要とし、例外的に農地改革のような社会変革としてなされた財産権の侵害の場合には相当補償を必要とすると説くので、区分の基準はかなり明確である。本問に適用すれば、農地法の制定に匹敵するほどの社会評価の変化があったとは、言えないであろうから、完全補償が肯定されることになる。
2 大きな財産・小さな財産説
先に制度的保障との関係で紹介した大きな財産と小さな財産に分類する説による場合にも、本問で問題となっている事業用財産は一般に大きな財産に属するから、やはり相当補償で十分という答えを引き出すことができる。ただ、どの程度の場合が大きな財産といえるかは
Yの事業規模などにより、かなり相対的な部分があり、限界が難しい。3 生存財産・独占財産説
先に、これも紹介した説である。これにしたがった場合に、完全補償と相当補償をどう使い分けることになるかについて、例えば浦部法穂は次のように説く。
「直接公共の用に供する公共事業などのための財産権の収用・使用の場合には、いわゆる完全な補償を要すると解すべきである。たとえば、道路等の用地としてたまたま特定の者の土地が収用されたとき、その土地の客観的価値よりも低い補償でよいとする合理的根拠は、なにもないはずだからである。この点、最高裁の判例も、土地収用法における補償につき『完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもって補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要する』としている(最判
つぎに、政策的制約(積極目的の制限)で特定の者の財産権を奪うような強度の制限が加えられる場合には、必ずしも完全な補償を要すると考える要はなく、いわゆる相当な補償で足りるものと解される。憲法が、社会権の実現のための政策を積極的に行うべきものとし、そのために財産権が制限されるのは当然であるとの立場に立つものである以上、この場合に完全な補償を要するとしたのでは、その政策目的の実現(社会権の実現)が困難になることも考えられ、憲法の趣旨に反する結果となるからである。つまり、この場合には、社会権の実現ないし経済的・社会的弱者の保護という政策の実現を妨げることのない程度の相当な補償で足りる、ということである。なお、内在的制約(消極目的の制限)の場合には、前に述べたように、基本的に補償を要しないものと解される」(『憲法学教室』全訂第
2版218頁より引用)浦部法穂は、
29条に関して制度的保障説ではなく、社会権説を採るから、表現に若干のずれがある。しかし、事業用財産に対して、財産権の剥奪に等しいほどの強度の制約を加えた場合にも、相当補償で十分とすることは判るであろう。