政党の内部自律と司法審査

甲斐素直

 政党A199X年の参議院議員選挙において、比例代表選出(拘束名簿式)のための候補者名簿を選挙長に提出した。Xはその名簿に第5位の候補者として記載された。選挙の結果、上位4人が当選し、名簿順位5位であるXは、次点となった。

 翌年6月に衆議院が解散されたことにともない、同年7月に衆議院議員の総選挙が行なわれることになった。A党では、同総選挙に、名簿第1位に記載されて当選していたA党首Bが、参議院議員を辞職して立候補することになった。その場合には、公職選挙法1122項に基づき、本件届出名簿における第5順位のXが繰り上げ当選することになる。

 ところが、Bは、622日、Xを同党本部に呼び出し、信頼関係がなくなったからとのみ述べて、名簿登載者たる地位の辞退を求めたが、Xはこれを拒絶した。しかし、A党は、翌23日、本件選挙の選挙長に対し、XA党から除名した旨の届出をし、本件除名届出は同月24日受理された。

 B74日公示の衆議院議員の総選挙に立候補したことに伴い、参議院議長は、75日、内閣総理大臣に対して、Bが同日公示の衆議院議員の総選挙に立候補する旨の届出をし、これにより同日参議院議員たることを辞したものとみなされ、欠員が生じたとの通知をした(国会法110条)。そこで、同日、内閣は中央選挙管理委員会(以下「Y」という。)に対してこの旨を通知し(公選法11112号)、Yは、本件選挙の選挙長に対し、右通知がなされた旨を通知した(同条2項)。

 これを受けて、選挙長は、公選法1122項に従い選挙会を開き、選挙会は、A党届出名簿の登載者のうちから、第6順位のCを当選人と定め、Yは同月16日、Cの住所及び氏名を告示した。

 そこで、Xは、次のように主張して、除名は無効であり、その有効であることを前提として行われた本件当選人の決定もまた無効であるとして、Yを相手取って、選挙無効の訴えを提起した。

 すなわち、除名は、政党の党員に対する極刑処分にあたるものであるのに、本件党則にはいわゆる告知・聴聞及び不服申立ての適正手続を定めた規定が存在しない。党則に除名手続についての告知・聴聞等の適正手続の規定が明文の規定として存在しなくとも、除名手続については条理上適正手続(告知・聴聞等)は当然に要求されるべきものであるが、Xに対し、除名に関し事前に何ら告知がなく、弁明の機会も全く与えられなかったばかりでなく、不服申立ての機会も与えられなかった。また、そもそもXの除名問題を協議したとされる党紀委員会決議には重大な瑕疵があり、さらに、臨時常任幹事会も有効に成立していないうえ、右常任幹事会における決議は投票によることが必要なところ、本件除名の決議は投票による表決が行われていないのであるから、本件除名決議は不存在であるか無効というべきである。

 憲法の要請する民主制の原則から、「拘束名簿式比例代表制」のもとにおいていったん届出名簿に基づいて投票がされた後に名簿登載者の順位を変更することは認められず、除名を濫用することによって国民の政治意思が排除されることは許されない。本件除名はまさに選挙によって国民が選出した公職者を変更するためになされたものであり、公党たる政党の一部権力者による恣意的で違法な除名により、国民の審判を経た拘束式名簿の順位変更がなされるということは許されない。そのため、除名届出の受理及び当選人決定にあたっては、「当該除名の手続を記載した文書及び当該除名が適正に行われたことを代表者が誓う旨の宣誓書」を審査することが法律上義務づけられており、その審査にあたっては、選挙に際し届け出られた名簿、党則等との照合は不可欠であり、選挙長及び選挙会は、これらを照合して審査する義務を負うところ、本件選挙長及び選挙会は、本件除名届出の受理及び当選人の決定にあたって、右の審査をしておらず、本件選挙会の本件当選人決定には、右審査義務を尽くさなかった違法がある。したがって、本件除名及び本件除名届出が有効であることを前提としてされた本件当選人決定も瑕疵を帯びるものというべきである。

 したがってA党首Bが参議院議員を辞したことにともなう繰上補充としては、第5順位たるXが当選人として定められなければならないので、第6順位のCを当選人とする本件選挙会の決定は、当選人となるべき順位にない者を当選人としたものであり、無効というべきである。

 これに対し、Yは次のように主張した。

 議会制民主主義のもとにおける現代の国政において重要な役割をもつ政党の内部秩序への国家権力としての法の介入は十分慎重でなければならない。したがって、拘束名簿式比例代表制において、特にその根幹をなす名簿の作成については、各政党が全責任を持って行うべきものであり、国家権力がそれに介入することは、厳に慎むべきものである。同様に、政党が行う除名の届出についても、どの名簿登載者を除名するかは、国民に対して責任を有する政党が自己の責任においてのみ判断しうることであることは当然であり、また、除名の手続についても、具体的にどのような手続を定め、それを実践するかについては、当該手続があくまで政党の内部事項であるという点からも、その政党の内部秩序の基本としてその政党自身がその責任において決定すべきであることは明らかである。したがって、選挙長は形式的審査権のみを有し、実質的審査権を有しないのである。除名については、たとえそれが政党内部すなわち政党と当該被除名者との間においてその有効性について争いがあるとしても、また仮に、結果としてそれが無効であったとしても、国民に対して責任を有する公党である政党が自己の責任においていったん行った除名の届出が、選挙長の形式的審査の結果有効に受理されれば、その届出行為は対選挙長との関係においては適法有効なものとなるのは当然である。したがって、その後の比例代表の繰上補充のための選挙会の当選人の決定も当然適法なものとなる。

 上記XYの主張に含まれる憲法上の論点について指摘し、論ぜよ。

[はじめに]

 長文の問題文となったが、日本新党繰り上げ当選事件(最判平成7525日=百選第5348頁参照)を、事実関係を簡易化した(実際は2名の繰り上げ当選)上で、その裁判における争点における原告及び被告の主張を、判決からそのまま転記したものである。

 この原告及び被告の主張は、要するに、政党の内部自律を尊重し、司法権を含む国家権力の介入を控えるのが正しいのか、それとも政党の公的性格を重視し、司法権を含む国民の監視の目を光らせるのが正しいのか、という問題である。これを換言すると、日本国憲法における政党の法的性格は何かと言うことが争点となる。

 政党を憲法学上で論ずる際のポイントは、政治資金規正法等における用語を使うならば、「政党」と「政治団体」の異質性をきちんと押さえているかどうかである。正確には政治団体の一種が政党なのだが、本講では、政党を除外した狭義の政治団体に限定して「政治団体」と呼ぶことにする。この政治団体と政党とはかなり憲法上の位置づけや機能が異なる。したがって、同一の団体が、「政党」としての性格と「政治団体」としての性格を同時に持っているように書いてしまうと、論文としては破綻してしまうのである。

 この問題の難しいところは、名簿搭載者が議員となった後に政党から除名された場合については、除名により議席を失わないことである。この点については、国家公務員T種法律職で、平成15年度に次のような問題が出ている。

 最近の改正で付加された公職選挙法第99条の2は,衆議院及び参議院の比例代表選出議員が当選後に当該選挙で争った他の政党等に所属を変更したときは当選を失うものとした。また、国会法第109条の2も,同様に所属を変更した比例代表選出議員について退職者となることとした。

 これらの改正規定の趣旨を説明し,これに含まれる憲法上の論点について論述せよ。

(参考)憲法第43

@ 両議院は,全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

A 両議院の議員の定数は,法律でこれを定める。

 この問題と本講の問題は見た目はずいぶん違う。しかし、基本的な答案構成は同じものとなるということが判れば、本問はもう合格答案は書けたようなものである。要するに、政党論をしっかりと書ければよいのである。

 国T問題について、若干補足する。

 比例代表議員が、当選後に党籍を変更するという問題がわが国で最初に議論されたのは、1982年に公職選挙法が改正され、参議院でそれまでの全国区から比例代表制が導入されたときである。当初は、それは理論的な問題であるにすぎなかったが、やがて現実の問題となって現れた。

 それは、八代英太(本名:前島英三郎)というコメディアン出身の車椅子の政治家の行動を通じてであった。彼はかつて人気のあるコメディアンであったが、1973年愛知県刈谷市で公演中に舞台から転落して脊髄損傷で車いすの生活となった。彼は、自らが障害者となったことからわが国福祉行政に存する問題点を正すべく、1977年に参院選全国区に立候補し、見事当選した。

 その後、上述の通り、1982年に参議院の全国区が廃止されたことから、福祉党という政党を組織し、その党首として名簿第一位に登載され、自民党の福祉行政に対する批判を叫んで比例代表区で当選し、以後参院比例区で三選を果たした。しかし、国民の声を国会へ反映させるためには所属議員が一人しかいないミニ政党では駄目だとして、党首自らが福祉党から自民党に鞍替えした。このため、このような政党間移動が許されるかが当時国会で問題となった。しかし、委任命令の禁止(憲法43条、51条)との関連で、少なくとも当時の立法下では禁ずることはできないという内閣法制局見解が示されて、移籍は認められた。

 同じ時期に、本講に取り上げた日本新党繰り上げ当選事件が起きた。こちらは最高裁まで争われたことは諸君も知るとおりである。この最高裁判所判決の結果、当選後なら党籍を離れ、あるいは失っても議員たる地位を失うことはないが、当選前なら名簿からの抹消となり、繰り上げ当選が阻まれるという矛盾が強く意識されることになった。

 こうした問題を当選後の議員に関して解決するため、平成12年に議員立法の形で制定されたのが、国T問題でテーマとなっている国会法109条の2及び公職選挙法99条の2である。これは、かなり複雑な規定であるが、内容を要約すると、衆議院比例代表選出議員又は参議院比例代表選出議員が、自らが選出された選挙における他の名簿届出政党等に所属する者となったときは、退職者となることとされた。また、公職選挙法99条の2により、当選人についても、同様の場合には当選を失うものとされた。これに対して、元の所属政党を離れて無所属になった場合や、選挙時になかった新たな政党等に所属した場合は、退職者とならない。また、元の所属政党等が他の名簿届出政党等と合併した場合なども退職者とならない。要するに、国会議員が当選後に政党間異動をした場合において、選挙区選出議員と比例代表選出議員とを区別し、比例代表選出議員については、議席を失うとしたのである。

 この改正後においても、除名された場合には、議員になる前と後とで運命が逆転するという事態が依然として残っている。これを矛盾と考えるか、当然の結果と考えるか、という価値観が本問の答えを決めるということもできる。

 

一 政党の定義

 本問で、政党の定義について書かねばならないということではないが、少なくとも政党概念を明確に把握する必要がある。そこで、まず政党をどう定義するか、という問題の意義について考えてみよう。何時も強調するとおり、定義は、常にその目的と結びついて下されなければならない。

 憲法学としては、わが国の場合、憲法21条の結社の自由が政党の唯一の根拠なのであるから、凡そ政治的に影響を与える意図のあるすべての結社(政治結社)を念頭に置いて、その中で不当な差別とならないか否かを基準に論ずるべきである、と普通は言われる。例えば戸波江二は、政党について次のように定義する。

「政党とは共通の政治的意見を持つ人々が、その意見を実現するために組織する政治団体である」(『憲法』新版、ぎょうせい刊、355頁より引用)

 これは21条の政治結社を意味すると解され、その意味で穏当であろう。しかし、実は憲法学上、この21条の意味における政党は、わざわざ「政党」として取り上げ、論ずる実益をほとんど持たない。なぜなら、憲法学で、他の結社と区別して政党を論ずるべき必要性は、政党が議会制民主主義を前提として、議会を基盤として活動する点にあるからである。したがって、21条の政治結社一般と、この議会制民主主義を支える政治結社とは、どこが共通してどこが違うのかを考える必要がある。以下では、両者の区別を明確にするために、政治資金規正法等の一連の立法に用語を使用して、議会制民主義を支える点に意義を有する政治結社を「政党」と呼び、21条に該当する政治結社から政党を除外したものを「政治団体」、と呼んで区別する。本稿が取り上げる政党は、この狭義の政党についてである。

 政治資金規制法3条は、政治団体を定義して次のようにいう。

@ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

A 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体

B 前二号に掲げるものの他、次に掲げる活動をその主たる目的として組織的かつ継続的に行う団体

 イ 政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対すること。

 ロ 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対すること。

 この定義が、ほぼ戸波江二の政党の定義と整合していることは判ると思う。ただ、この法律は外形から規制することを目的としているから、「共通の政治的意見を持つ人々」というような主観的要件が欠落し、「その意見を実現するため」というような漠然とした表現の代わりに個別具体的な表現に置き換えているに過ぎない。

 政党は、この政治団体の一種であるには違いないのだが、議会制民主主義を基盤とするために、諸君がいうところの公的性格を有している点で、まったく異質の団体である、というところが、大事なところである。

 政治資金規正法4条は政党を定義して、上記政治団体のうち、次に該当するものをいうとして、絞り込みをかける。

@ 当該政治団体に属する衆議院議員または参議院議員を5人以上有するもの

A 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙または直近において行われた参議院議員の通常選挙若しくは当該参議院議員の通常選挙の直近において行われた参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の100分の2以上であるもの

 政党助成法2条は、政党の定義として、若干表現は変わるが、この規定を基本的に承継している。要するに、現に国会である程度の勢力を持っているか、少なくとも国政選挙で、選挙区や投票の方法で恵まれれば国会に勢力を持ちうる可能性を持っているものだけを、これらの立法では政党と呼んでいるということが判る。

 政党という概念を、21条の政治結社と広く解さずに、このように絞り込んでいるのはなぜであろうか。この点に関する代表的な判例の見解として、八幡製鉄政治献金事件における東京高裁昭和41131日判決(昭和38年(ネ)第791号)を見てみよう(この事件の最高裁判決については百選第5348350頁参照)。

「憲法の定める代議制民主制の下における議会主義政党(以下政党という。)は、代議制民主制の担い手として不可避的かつ不可欠の存在であつて、国民主権の理念の下に(一)公共的利益を目的とする政策、綱領を策定して、国民与論を指導、形成する(二)政治教育によつて国民の政治意識を高揚し、国民個人を政治社会たる国家の自覚ある構成員たらしめる(三)全体の奉仕者たる公職の候補者を推薦する(四)選挙により表明された民意に基いて政府を組織し、公約を実行する等の諸機能を営むことを本来の任務とし、まさに公共の利益に奉仕するものである。代議制民主政治の成否は、政党の右の任務達成如何にかかるといつても過言ではない。」

 引用部分冒頭の政党の定義は、本講で強調している政党に関するもので政治団体を含まないということが判るであろう。すなわち、議会制民主主義の下で、議会を基盤として活動する政党には、そこにあげた4つの重要な公的機能を果たしている。それに対して、政党を除外した概念であるところの政治団体は、基本的には、個々人が有している政治的表現の自由を、集団的に行使する自由を意味する。すなわち、政党が、その活動において公的性格を有しているのに対して、政治団体は私的性格を有しているという点で、根本的な性格の差違が存在するのである。

 政党は、その公的性格の故に、政治団体に比べて遙かに広範な規制を受ける反面、政治団体には認められない公的な様々な特権を与えられることになる。これこそが、本講が問題にしようとしている政党の憲法上の機能である。ここから発生する問題は、大きく二つに分けることができる。第一に、どの範囲でそうした規制や特権が許容されるか、という問題である。第二に、上述した政党と政治団体の差違は、あくまでも典型的な存在を念頭に置いているが、両者の限界をどのようにして設定するのが妥当か、という問題である。以下、検討しよう。

 

二 政党の概念

 古典的な国民主権原理に基づく議会観によれば、議会とは国民の一般意思を表す組織体であった。しかし、制限選挙が廃止され、普通選挙が実施されるようになることにより、議員は「全体の奉仕者であって、一部党派の代表者ではない(ワイマール憲法1301項)という理念に反して、その選挙区の特殊利益の代表者としての地位を占めるようになる。その結果、議会には、その選挙の時点における国民の間の利害対立の図式がそのまま持ち込まれるようになってくる。それに伴い、議会は、国民全体の利益を図る場というよりも、社会における利害対立を、国民全体の利益の実現という観点から調整する場であると観念されるようになる。

 議会が利害調整の場ということになると、それに先行して、国民個々の持つ利害を明確、かつ集中的に議会に反映させることが必然となる。それには様々な方法があるが、その機能をもっともよく果たしうるのが政党であった。

 トリーペル(H.Triepel)は、議会と政党の関係を整理して、政党に対して国法は、@ 敵視(Bekampfung)、A 無視(Ignorierung)、B 承認及び合法化(Anerkennung und Legalisierung)、という諸段階を経て、最終的にはC 憲法編入(verfassungsmassige Inkorporation)という段階にいたるという説を唱えた。ここで言われていることは一つの理念型であり、すべての国家がこのような段階を通るということではないが、それが憲法と政党の関係のすぐれた分類であることは確かである。このトリーペルの4段階説の詳細な内容については諸君自身の基本書を参照してほしい。この説を、諸君がこの論文の中に詳細に書く必要はない。しかし、そこで4段階に分けて問題にされている基本的な認識こそが、現代日本で政党規制をめぐって論じられる中心論点を端的に示したものである、と言う意味で、何らかの形で4段階説の内容への言及を避けるわけには行かないのである。そして、トリーペルが問題にした政党とは、まさに本講で政党と呼んでいるもののことであって、政治団体は含まれていない、という点も理解しておいて欲しい。政治団体は、議会との関係を考える余地はないから当然のことである。

 ドイツ憲法などでは、明確に政党を憲法編入しているが、その場合、憲法的規制の対象になるのは、したがって本講で言う政党であって、政治団体ではない。この政党が、政治団体と異なるどのような性格を有するかについて、ドイツにおける学説の対立を利用して、以下、考え方を整理してみよう。

  1 社会的団体説

 この学説は、政党を、本講でいうところの政党と政治団体とを一体的に理解しようとし、その意味で政党の公的性格を否定する見解である。

 すなわち、政党の持つ本来的な地位は、結社の自由に基づく団体としての政党であって、ここでは個人の自由権の延長線上で理解されることになる。この立場では、政党がその根を社会においていること、利益集約的機能や提起機能を果たすこと等が重視され、一つの任意的非営利集団であるとされる(社会団体説)。この面を強調する場合には、政党に対する国家からの干渉は可及的に制限されねばならないから、政党に保障されるべき設立の自由、活動の自由、内部統制の自由、解散の自由等が強調されることになる。

 社会団体説による限り、国家として政党に干渉することは許されないから、例えばその政治資金を規正することはもちろん許されないが、それと同時に「公の支配に属しない団体」に公金を支出する事は許されない(憲法89条)から、政党に対する国家補助もまた論外ということになる。

  2 公的性質説

 これに対して、政党と政治団体との異質性を強調し、政党について、憲法上の特権的地位とそれに伴う特殊な制約を肯定しようと考える場合には、その政治団体との異質性の表れとして政党の公的性格が強調されることになる。公的性格の強度をどのように理解するかにより、次の二つの学説に分類することができる。

(一) 国家機関説

 ドイツで憲法編入を要請するに至った政党の新しい地位は、政権担当能力という面に端的に現れてくるところの国家機関としての側面と考える説である。この側面を重視する場合には、憲法典上の公的機関としての政党は、その根拠たる憲法秩序に適合されることが要請される。現行のドイツ基本法が、自由と民主主義の名の下で、自由=民主主義を否定する政党は存在してはならない、として、共産党や国家社会主義党(ネオナチ)を違憲=非合法化したのは、この国家機関としての性質に鑑みてのことである。あるいは、イギリスでは、野党の組織する影の内閣(Shadow Cabinet)の閣僚に対しても、国庫から報酬が支払われるが、これも政党の持つ国家機関としての機能を肯定すればこそ認められることといえよう。

 しかし、わが国のように、政党が憲法編入されておらず、また二大政党制が確立しているわけでもない段階で、憲法上の政党の地位として、このような説を唱えうるか否かは疑問のあるところといえよう。

(二) 媒介機関説

 政党を媒介機関とする説は、上述の政党=国家機関説の持つ硬直性を排除しようとして工夫されたもので、この範疇に属するいくつかの学説があるが、いずれも、公と私のいずれかという画一的分類を排除し、その中間の独特の法領域にある団体として理解する。程度の差こそあれ、わが国での理解はこの範疇に属する理解といって良いであろう。先に紹介した八幡製鉄政治献金事件における東京高裁判決は、その典型例ということができる。

 

三 わが国現状における政党に対する規制

(一) わが国現行憲法と政党

 わが国現行憲法は21条で明確に結社の自由を保障しているが、同条において積極的に政党に論及することは、していない。これは、わが国が戦前において真の意味で政党国家であった経験がないため自らの意思で政党規定を欲しなかったことに加え、現行憲法の制定に大きな影響を与えた米国も、政党に対する憲法規制を持たなかったことが反映しているものと考えられる。

 このことだけから考えれば、わが国は、トリーペルの段階説でいうところの第二段階である無視段階と理解することができる。そのことは、議員に関して、全体の奉仕者性(15条・431項)及び討論及び表決における無答責が強調される(51条)点に端的に現れる。この理解を徹底すれば、政党が議員の表決を党議で拘束し、党の決定と異なる投票をした場合に、党内で責任を追及することは、憲法の趣旨に反するということができる。

 他方、憲法が明確に採用している議院内閣制は、黙示的に政党制度を前提としているということができる。その意味では、現行憲法は、トリーペルの4段階説でいうところの第3段階である承認及び合法化という段階にあると評価することもできる。この側面を重視する場合には、党議に拘束力を認めるのも当然ということになる。さもなければ、多数党の信任の下に存在する内閣は、安定的な施策を展開することは不可能だからである。すなわち、党議拘束性の肯定論は、議院内閣制から導くことができる。この点、結社の自由保障規定を明文で持たず、議院内閣制の代わりに大統領制を採るアメリカ憲法の下で、連邦裁判所が政党の民主主義的媒介機能を明確に認めているにもかかわらず、党議拘束性が肯定されていないことは、非常に示唆的である。

 このように同時に相矛盾する規定を有するため、そもそもわが国憲法が、政党を予定していたといえるか否かが一つの問題とならざるを得ない。

 従来、学説・判例は政党を21条の政治結社の一類型として把握する傾向を示してきた。

 例えば、議員の全国民代表性に関する15条、431項、及び議員における討論・表決における議員の無答責を定めた51条に関して佐藤幸治は次のように述べる。

「(これらの規定が)政党に対して防御的含みをもっていることは否定できない。議員は、選挙に際し所属政党の公約を支持することによって全国民を代表することを表明するのであるから、当選後その党の政策・方針と相容れない行動に出たときには、当該政党による除名という形で政治責任を追及される可能性は否定されない。が、所属政党の除名即議員としての資格喪失という法的帰結は、431項や51条からいって、憲法上許されないと解される(比例代表選出議員についても同様である)。これが近代議会制と政党国家現象との調和に関する日本国憲法の処方箋であるとみられる。」(佐藤幸治〔第三版〕128頁)

 このように、内部自律を認めることと、それを公的関係において、尊重することはイコールではない。先に紹介した国T問題が言及していた法改正が、除名と議員資格をつなげていなかった理由もここにある。

 つまり、政党の純然たる内部規律に属する問題である限り、その政党の自律権は尊重されなければならない。最高裁判所は共産党vs袴田事件において、政党の内部自律を尊重した判決を下したが、その中で政党について次のように述べた。

「政党は、政治上の信条、意見等を共通にする者が任意に結成する政治結社であって、内部的には、通常、自律的規範を有し、その成員である党員に対して政治的忠誠を要求したり、一定の統制を施すなどの自治権能を有するものであり、国民がその政治的意思を国政に反映させ実現させるための最も有効な媒体であって、議会制民主主義を支える上においてきわめて重要な存在であるということができる。」

(最高裁判所第3小法廷昭和631220日判決=百選第5418頁参照)。

 この判決が採用している論理は、先に紹介した社会的団体説と、媒介機関説の奇妙な混合である。すなわち、前半はあきらかに社会的団体説に立ってその自律性を強調し、後半は一転して明確に媒介機関説を採用している。先に述べたとおり、この二つの学説は、政党の本質の把握において対立しているのであるから、このように一つの文章の中で無造作につなげて書くことは不当なものといわなければならない。判決そのものは、結論として共産党の内部自律を尊重し、司法権の行使を自制するとの結論を導いているから、結局、媒介機関説に対する言及はリップサービスにとどまり、全体としては社会的団体説を採用している、と結論を下すことができる。

 この問題と、本講では、Xが既に名簿の第5順位に登載され、有権者は、そのことを前提にA党に投票した、という事実が存在している点である。日本新党繰り上げ当選事件の東京高裁平成61129日判決は、次のとおり、名簿登載順は、単なる内部事項ではないと述べた。

「この名簿登載者の選定は、公的ないしは国家的性質の強いものというべきであるのみでなく、当選人は、実質的には、政党の名簿登載者の選定と当該選挙において当該名簿届出政党の得票数によって定まるものであるから(95条の2)、政党の名簿登載者の選定は、拘束名簿式比例代表制による参議院議員の選挙においては、その選挙機構の必要不可欠かつ最も重要な一部を構成しているものであって、当選人決定の実質的な要件をなしているものというべきである。〈中略〉政党の名簿登載者についてする除名は、名簿登載者を変更することにほかならないものであり、名簿登載者の選定が公正に行われたとしても、名簿登載者の除名が存在しないか又はそれが当該政党の規則、綱領等の自治規範に従ったものでない等のため無効と認めるべきときにおいても、当該選挙の選挙長に対し、法定の事項が記載されている除名届出書並びに除名手続書及び宣誓書が提出されたことのゆえのみをもって、被除名者を当選人と定めることができないとすることは、実質的な公正さを損なう結果を招来することは明らかである。のみならず、拘束名簿式比例代表制のもとにおいては、選挙人は政党に対して投票するものであるが(462項)、憲法431項の規定上議員個人を選ぶ選挙であるとの基本的枠組みを維持するため、選挙人の右政党の選択は名簿登載者及びその順位をも考慮してされるものであり、法的にもこれが保障されているものであるところ(1672項、1751項等)、いったん届け出られた名簿に基づいて投票が行われた後においてされる政党の除名は、各簿登載者及びその順位をも考慮してされた選挙人の右投票についての意思(ちなみに、本件選挙における日本新党の得票数は前示のとおり361万余にも及ぶ。)をも無視することとなるものであるから、名簿登載者の選定についての法的性質及び拘束名簿式比例代表制のもとにおける参議院議員の選挙機構において占めるその重要性、右選定が当選人決定のための実質的要件をなしていると解すべきである。〈中略〉したがって、政党の名簿登載者についてした除名が存在しないか又は無効である場合には、選挙会が、除名手続書及び宣誓書に基づいて、右除名が存在し、かつ、有効であることを前提としてされた繰上補充による当選人の決定は、その存立の基礎を失い、無効に帰するものと解すべきである。」

 このような公的性格に基づき、告知聴聞があるべきであるとし、

「政党が民主的かつ公正な適正手続を実質的に保障しない手続のもとにおいてしたその所属員に対する除名を無効と解すべきかどうか、換言すれば、政党に対し、その自治規範が定めていない民主的かつ公正な適正手続を遵守すべきものとし、これに従わないでされた除名を無効と解すべきかどうかは、前記のように政党には憲法211項により最大限の自治ないしは自律が保障されていることとの関係上、慎重に検討することを要するものというべきであるが、拘束名簿式比例代表制による参議院議員の選挙において、いったん届け出られた名簿に基づいて投票が行われた後における名簿登載者に対してする当該政党の除名については、民主的かつ公正な適正手続を遵守すべきものとし、これに従わないでされた除名は、これを無効と解するのが相当というべきである。」

 これに対し、最高裁判所は、名簿に登載されていようとも、依然として内部自律を尊重すべきであるとし、上記袴田事件判決を引用して次のように述べた。

「法が名簿届出政党等による名簿登載者の除名について選挙長ないし選挙会の審査の対象を形式的な事項にとどめているのは、政党等の政治結社の内部的自律権をできるだけ尊重すべきものとしたことによるものであると解される。

 すなわち、参議院(比例代表選出)議員の選挙について政党本位の選挙制度である拘束名簿式比例代表制を採用したのは、議会制民主主義の下における政党の役割を重視したことによるものである。そして、政党等の政治結社は、政治上の信条、意見等を共通にする者が任意に結成するものであって、その成員である党員等に対して政治的忠誠を要求したり、一定の統制を施すなどの自治機能を有するものであるから、各人に対して、政党等を結成し、又は政党等に加入し、若しくはそれから脱退する自由を保障するとともに、政党等に対しては、高度の自主性と自律性を与えて自主的に組織運営をすることのできる自由を保障しなければならないのであって、このような政党等の結社としての自主性にかんがみると、政党等が組織内の自律的運営として党員等に対してした除名その他の処分の当否については、原則として政党等による自律的な解決にゆだねられているものと解される。」

 どちらで書いても、論理さえきちんと貫かれていれば、合格答案になる。

 私自身の個人的な意見としては、袴田事件と異なり、名簿に登載されている以上、それはもはや単なる内部自律の問題ではなく、公的問題である。いまだ議員になっていない時点において、除名することで、議員になる可能性を抹消することは許されるが、そのためには、憲法31条にしたがった告知・弔問を必要とするというべきではないだろうか。議会制民主主義を標榜する団体内部において、非民主的な手続で議員候補者が決定され、あるいは変更されることは、許されないと考えるべきである。

 なお、上記判決は、名簿の公的性格に着目しての議論であったが、政党そのものの公的性格を重視する議論の仕方も当然にあり得る。米国法は、そのような考え方をとる。

 わが国現行憲法は、アメリカ法の強い影響下に制定されたものであることが知られているが、そのアメリカ憲法には、政党に対する規定は現在も全くない。そして、結社の自由に関しても明確な文言的保障は存在していなかった。

 しかし、19世紀末期以来、政党に対して強い法的規制が行われるようになっている。当時、政党幹部の政治腐敗や不当なボス支配が進行したことを受けて、旧弊な体制打破のため、全国的に革新主義と呼ばれる運動が起こり、政党内部の意思決定に直接民主制的手法を導入すること、すなわち、各種公職の候補者の指名方法として党大会による指名に代わって、公職候補者を直接党員が選挙で決めるという直接予備選挙(direct primary)制度を普及させていった。そして、それに対するボスの抵抗を排除するため、法律によって予備選挙を導入するというやり方が採られるようになった。当時それが可能であったのは、結社の自由が憲法上の権利として確立していなかったということが決定的であった、といわれている。

 こうした政党レベルにおける予備選挙の公的統制の結果、黒人が州における予備選挙から排除された事件において、連邦最高裁は修正15条(黒人の選挙権制限の禁止)違反とした。すなわち、予備選挙における勝者が党の候補者として一般選挙の投票用紙に印刷されるというシステムにより、予備選挙が候補者間の選択手続き(選挙)の「不可欠の部分」になっているという点が根拠となった。この判決において、政党は単なる自発的結社=私的団体ではもはやなく、予備選挙は公的選挙の一部であるという見解が打ち出されたのであった。

 このアメリカの場合を見る限り、政党に対する政党内民主主義の要請は、憲法編入の有無を問わず、政党政治が一定の発達を見せると、そこに肯定されるようになってくることが判る。

 本問に対し、このようなスタンスの解答も当然にあり得るのである。