議院内閣制の本質と衆議院の解散

甲斐素直

問題

 200X年、連立与党であるA党及びB党は、衆議院では安定多数を有していたが、最近行われた通常選挙の結果、参議院では、野党側が多数を制しているため、内閣の重要法案が参議院で葬り去られる危険が高い事態となっていた。そこで、内閣総理大臣Xは、内閣改造により政権に対する支持率が上向いたチャンスに、衆議院の解散に打って出ることを決意し、連立与党であるB党に打診した。これに対し、B党党首のYは、つぎの疑問を呈して反対した。

@ 憲法上69条のみが解散権行使の根拠であり、衆議院の不信任決議が存在しない状態下での解散は違憲ではないのか。

A 憲法7条のみに基づく解散権の行使が認められるとして、この時点でそれを行使する根拠は何か。総選挙で勝てたとしても、それにより参議院で野党が多数を占めるという状況に変化がないのに、解散権を行使する意味はないのではないか。

 Xとして、Yを説得したい。憲法学上の論点に限定して、その根拠を論じなさい。

類題

 わが国における三権分立制の特徴について述べよ。あわせて、衆議院の解散権は、「立法権」(41条)にも、「司法権」(76条)にも含まれないので、「行政権」(65条)に含まれるという主張があるが、この主張について論評せよ。

(平成6年度国家公務員法律職試験問題)

[問題の所在]

 統治機構論における学説の対立の多くは、ある制度を自由主義=権力分立論的に捉えるか、民主主義的に捉えるか、という基本的な認識の差異に由来している。内閣制度の本質に関し、責任本質説と均衡本質説の対立があるが、これもまた基本的には、民主主義的な理解=責任本質説、自由主義的な理解=権力分立制=均衡本質説という対応として理解することができる。ただ、米国大統領制のような徹底した権力分立制を採用している場合と異なり、わが国では基本的に民主主義理念に基づく議院内閣制を採用している為、この整理は必ずしも、ここに述べたような単純な対応関係にならないところに、問題の難しさがある。

 本講では、まず、第一節で学説史的な紹介を行い、それを受けて、第二節以降で今日におけるとらえ方を踏まえつつ、論ずるという方法をとってみる。

 

一 議院内閣制の諸類型と議会解散権

 議院内閣制は、大別して、二元型と一元型に分かれる。本問では、別に二元型に触れる必要はないのだが、一元型の意味を正確に理解してもらうための方法として、二元型の説明から入ってみたい。

(一) 二元型議院内閣制

 二元型とは、典型的には王制の下において、王権と議会の二つの権力の、両者の信任を得ていることを内閣の存続要件としている議院内閣制のことである。もっとも、西欧では王が消滅した後においては、それと同様の地位・権力を持つ大統領を選任するようになった国がほとんどである。その場合には、王を大統領と読み替えれば、全く同じことである。

 二元型議院内閣制の下では、内閣は、王か議会のいずれか一方の信任を失えば、崩壊することになる。かつてのイギリスにはこの型の議院内閣制が存在した。現在の代表的存在としてはフランスやロシアをあげることができる。

 この型においては、王(大統領)は議会の解散権を有するのが通例であり、その解散権の行使には制限がない。内閣の補弼の下に、王は解散権を行使するのが通例であるから、実質的に内閣が議会解散権を有しているといえる。イギリスにおいては、一元型に移行した今日においても、理念的には王権が残存している結果、内閣が実質的に有している議会解散権は極めて強力である。

 同様に、フランス第5共和制憲法の下では、共和国大統領は、首相及び両院議長への諮問が要件になっているとはいえ、やはり自由に解散権を行使できる(同憲法12条参照)。

  1 一元型議院内閣制

 王権が完全に、もしくは事実上消滅し、象徴的機能を果たすだけになった結果、内閣の存続が議会の信任のみにかかる状態になったのが、一元型議院内閣制である。

 この制度の下において、議院内閣制の本質をめぐり、大きく二つの説の対立がある。制度の本質を、内閣が議会に対して連帯して責任を負う点に求めるのを責任本質説という。これに対して、権力分立制の下において、議会と内閣が相互に均衡を保って牽制しあい、抑制する点に本質があるとするのが均衡本質説である。すなわち、均衡本質説では、議会側の持つ内閣不信任権の対抗手段として議会の解散権を内閣に認めるとする。

 わが国憲法の場合には、条文が不明確である上に、その後の憲法運用の影響があって、そのいずれに属するかが必ずしも自明ではない点に、争点となる理由がある。

  (1) 責任本質説

 責任本質説とは、民主主義を制度の中心と考える説である。憲法が、狭義の国民主権制度を採用すると考える場合、そこにいう国民とは、正当性の契機としての国民であって、それ自体は機関性を持たない。国民の意思を具現しているのは、全国民の直接の代表者たる議会である。したがって、内閣は、その議会の信任のもとにあることが、内閣としての正当性の根拠である。換言すれば、内閣は、議会に対して連帯して責任を負っている(憲法663項)ことこそが、議院内閣制の本質と考えることになる。

 国民主権原理を前提にして、責任本質説を厳格に理解すると、内閣の議会解散権は否定される。なぜなら、内閣による議会の解散は、第一に自分の存在基盤の否定である。議会が信任を与えたからこそ、内閣が存在しているのに、その議会を解散するのは、植木屋が自分の跨っている枝を切るような馬鹿げた行為というほかはない。第二に、それは、議会と内閣の間に発生した問題の解決を、上位の国家機関である国民に求めることに他ならない。それは実質的に国民投票と同じ効果を持つこととなり、それは人民主権原理の導入、すなわち議会主権の否定に他ならないからである。この結果、この、解散権を伴わない議院内閣制は、議会が何時でも何らの制限なく内閣の責任を追及しうる、という点にその特徴がある。したがって、厳格な責任本質説に立つ場合には、解散権は議院内閣制の要素とは考えないことになる。

 これに対し、人民主権説を前提にする場合には、内閣と議会の間に紛争が生じ、あるいは国民からの委任を受けていない新たな重大問題が発生した場合に、衆議院を解散して、主権者たる国民の意思を問うことは当然のことといえる。

  (2) 均衡本質説

 フランス第3共和制期に確立した国民主権説を前提とする厳格な責任本質説に基づく、責任無限追求型の議院内閣制は、第3共和制末期にかなりの病理的現象をしめすようになった。なぜなら、議会が内閣不信任案を可決すれば内閣は崩壊するが、議会側がいかに内閣不信任権を濫用しても、議会そのものには何ら被害が生じない。そこで、例えば自らが大臣になりたいという欲求があるだけで、内閣不信任案が可決されるなど、不信任権の濫用が目立つようになったのである。しかし、現内閣を総辞職させることは容易でも、それに換わる新内閣を組閣することは困難である。そのため、後任の内閣総理大臣がなかなか決まらない結果、政治の空白が発生し、国政が国の内外に渡って長期に停滞し、国民等に現実の被害が生ずるようになった。

 そこで、議会によるこのような内閣不信任権の濫用を抑止するために、内閣側に議会解散権という対抗手段が承認されるべきである、ということが主張されるようになった。仮に、不信任権を行使するに当たり、それを濫用すれば、議会も解散されて、議員自らもその議席を失うという危険を冒すことになれば、自分の地位を賭する覚悟がある場合にしか、不信任権を行使できないことになる。したがって、解散権の存在が、不信任権の濫用を抑止する機能を有するわけである。

 この場合、同じように議会解散権といっても、二元型の下で国王が行使したそれとは本質に差があることに注意しよう。すなわち、二元型の下においては、文字通りの解散権で、解散理由は問われない。したがって、比較的頻繁に行使され、解散権の濫用が問題になった。これに対して、責任抑制追求型においては、解散権は不信任案の濫用に対する抑止目的としてのみ承認される。それはいわば伝家の宝刀であって、実際に行使されることは予定されていない。行使されると、有権者集団が最高機関として登場してしまうからである。

 今現在、もっともこの説の典型に近い議院内閣制は、ドイツで見ることができる。ドイツでは、国家元首としての大統領がおり、これが議会解散権を有しているという意味において、形式的には二元型であるが、実際には名目的な存在で、実質は一元型となっている(フランス第3共和制憲法と同じである。)。そして、ドイツ基本法67条は、議会に対して「建設的不信任案」のみを許容する。すなわち、連邦議会は、後任の総理大臣を選出しない限り、不信任案を可決できない。したがって、内閣総理大臣の存在しない、政治の空白を生じさせるような不信任案の可決は無効なのである。また68条は、内閣側から信任を求める権利を認めている。その場合、信任決議が否決された場合には内閣側は21日以内に議会を解散できる(正確には、大統領に解散させることができる)。ただし、議会は、後任の内閣総理大臣を選出することで、その解散を阻止できる。

 すなわち、内閣に議会解散権を承認するが、その行使にはきわめて厳しい法的規制を課しているのである。国民主権原理の下において、議会主権を承認しつつ、内閣と議会の抑制と均衡を要請するなら、この程度で十分といえる。

 

(二) 議会統治制(国民公会制)

 民主主義制度の下で、議会と政府に強い関係を認めつつ、それと一線を画した制度が議会統治制(国民公会制)である。これは、議会が政府を介して実質的に行政活動を行う型であり、今日では、スイスが代表的存在である。7人の閣僚全員が、連邦議会によって選出される。連邦大統領及び副大統領は、この閣僚中から任期1年で選出される。

 このように、この制度の下では、中心となる内閣総理大臣のような存在を持たない。当然、内閣に議会解散権はない。

 

二 日本国憲法の特殊性

 わが国の場合、戦前において二元型の議院内閣制が採用され、その時代においては、天皇の名の下に、実質的に内閣に、自由な議会解散権が存在していた。現行憲法下においても、この憲法慣行はそのまま存続し、いわゆる7条解散の名の下に、内閣が法的な制約なく、自由に解散権を行使しうる状態が発生している。

 それを一元型の議院内閣制の下で、どのように理論化するかは難しい問題である。その点について、以下、検討してみよう。

 以上に述べた典型的な議院内閣制における説の対立は、議会主権を採用している憲法制度、すなわち法的に見ても「国会は国権の最高機関」(憲法41条)といえる法制度の下ではそのまま妥当する。

 しかし、諸君も知るとおり、わが憲法の下においては、国会は国権の最高機関と、文字通りの意味において理解することはできない。憲法96条の憲法改正に現れる「権力性の契機としての国民」が、国権の最高機関だからである。

 そこで、衆議院の解散により、この権力性の契機としての国民に対して、国政の重要問題について問うという方法が考えられることになる。

 それと、上述の二つの内閣本質論をどう整合させることができるかが問題となる。

 

(一) 解散権の実質的根拠について

 先に説明したとおり、人民主権説にたつ場合には、国政上の重要問題が発生した場合に、民意を問う手段として議会の解散が認められることは、理論上明確である。

 これに対し、国民主権説にたつ場合には、話が複雑になる。冒頭に述べたとおり、議会解散権については、自由主義的な観点からの意義と、民主主義的な観点からの意義の二重の意義を考えることができる。

  1 解散の民主主義的意義

 国会が国権の最高機関と規定されている理由は、それが選挙を通じて国民の意思を反映している点にある。したがって何らかの理由で国会の意思が国民の意思と一致していないと考えられる事態が発生した場合、若しくは国政上の重要な問題であって新たに国民の意思を確認する必要が発生した場合には、速やかに直接国民の意思を問うことが妥当である。

 現行憲法においては、そのための手段としては、憲法改正の際の国民投票が存在している。いま仮に、憲法改正の必要はないが、それと同等の重要な政治的問題が発生したとしよう。これに対しては、憲法改正の際と同様に、国民投票を行うという方法が考えられる。しかし、安倍内閣の下で成立した憲法改正手続・国民投票法においても、それについては定めていない。そこで、通常発生する同種の必要に対応する制度として考えられるのが、ここにいう民意を問う手段としての解散である。小泉内閣の下で行われた郵政解散、すなわち郵政事業の民営化の是非というただ1点を論点として行われた解散は、この民意を問う手段としての解散の典型例ということができる。

 ここで第1に問題となるのが、Yのいうとおり、条文上、69条解散に限定されると解する必要はないか、という点である。

 これに対する理論的な答えとしては、均衡本質説を採用した場合においてのみ、それが問題になりうるのであって、責任本質説の場合には、理論的には69条に限定する必要はない、ということである。

 その上で、実質的な根拠をあげれば、第一に、一般的な国民投票制度の存在していないわが国憲法の下において、解散の民主的機能を否定するときは、衆議院の場合、4年という比較的長期の任期と相まって、国会意思が有権者のそれと大幅に乖離するおそれがあること。第二に、超然内閣制ないし大統領制において認められる解散権のように、行政府側が解散権を乱用して立法府を麻痺状態に陥れ、内閣が合法的にその地位に居座ることを許さないから、この観点から考えても、解散権の行使を69条の場合に限る必要は存在していないと認められることがあげられる。すなわち、現行憲法は、国会の解散権が行使された場合には、総選挙を40日以内に行うこと、及びその後40日以内に国会を召集する事、そして、その新国会の冒頭で、内閣が総辞職をすることを要求しているから、居座りは不可能なのである。

 そこで、民主主義的要求に基づく解散権が認められるとして、第2の問題として、論理的には、衆議院自身による自律的解散の方法が考えられる。何といっても、国会は、直接民意を反映する存在だからである。しかし、自律的解散は適切とは認められない。

  (1) 自律解散権が否定される実質的理由は、現時点での議会の構成が国民の意思を反映していないことが予想されることが、民主主義に基づく解散権を承認する理由である点にある。自律的解散は、議会の多数派が議会の決定権を握ることを意味する点で、制度趣旨に背馳し、適切とは認められない。

  (2) 形式的理由としては、わが国旧憲法にも、そして現行憲法の母法と認められる欧米のいずれの憲法においても、自律解散の制度はないことである。したがって、現行憲法がそうした新しい制度の導入を目指していた場合には、当然その旨が明定されているべきである。しかし、憲法は、第7条、第45条、第54条及び第69条で解散について言及しているが、そのいずれにおいても自律的解散を予定していない。そればかりか、衆議院はむしろ受け身の形で使用されていることから、他律的解散のみを予定していると解することが適切である。

 わが憲法は、国家権力を、三つに区分する制度を採用していると認められる。衆議院の自律解散権が否定された以上、政治的に中立であるべき司法府が解散権の主体となると考えることは不可能であるから、議会解散権は、残る権力である内閣が保有していると解するほかはない。このことは、同時に内閣が広く解散権を有していた、という歴史的沿革とも合致し、妥当と認められる。

1:自律解散権説をとる学者は今日においてはいない。それにも関わらず、論及する必要があるのは、このように、内閣の解散権は消去法から導かれるためである。単に論及するだけでは点にならないことに注意する必要がある。

27条が実質的文言を定めている、と解する説に立つ場合にも、それは単に条文上の根拠にすぎないから、実質的根拠としては、ここに述べたような点をやはり論ずる必要があることを忘れてはならない。

 以上のように、解散権を説明した場合、これが責任本質説と整合させやすいことはあきらかだろう。なぜなら、責任本質説は、その根拠を、間接民主制の下における民主主義の実現に求めているからである。内閣が、単に国会に対してのみならず、権力性の契機としての国民にもまた連帯して責任を負っていると考えれば、国民の意思を問う必要がある、と内閣が認めた場合には、法的な制限なく、解散権を承認することができるのである。

  2 解散の自由主義的意義

 これに対し、均衡本質説を採用する場合には、話が異なる。この説は、権力分立制に依拠しており、権力分立制は、国民の自由を国家が侵害することを可及的に抑制する事を要求することから生まれた制度なので、自由主義に基づいているということができる。

 権力分立制は、その本質から、立法部と行政部の権力の均衡を保つことを要求している。したがって、立法部が余りに強大になり、専断又は行き過ぎに陥る等により、その権力が濫用された場合に、行政部の権力により、国民の自由を実質的に保障するための制度が必要であり、それが解散であると理解することができる。すなわち、わが国では、内閣の存立の基礎を国会の信任に置く議院内閣制を採用しているため、解散制度がない場合には、内閣は一方的に国会の不信任決議により揺さぶられることになるからである。それに対応する手段として、内閣側に、議会解散権の存在が必要なのである。すなわち69条の解散権の理論的根拠はこれである。

 このような制度意義に照らして考えれば、自由主義的要求に基づく解散権については、これが内閣に所属することは明らかである。しかし、同時に、議会と内閣の均衡の要求から出てくる以上、その解散権が法的抑制を免れると考えるのは困難である。すなわち、69条の解釈上許容される範囲内においてのみ、行使しうると考えるべきである。

 

(二) 解散権の限界

  1 自由主義的意義の解散は、不信任権限の濫用の抑止手段として認められる。衆議院が内閣不信任案を可決し、あるいは内閣信任案を否決した場合以外であっても、予算ないし内閣の政策の根幹となる重要法案を否決したような場合には、やはり、衆議院による内閣不信任権限の行使と認めることができ、69条の要件に合致すると考えられる。しかし、それらの場合でも、解散権は議会権限の濫用防止のために例外的に認められたのであるから、内閣は原則として総辞職をすべきであって、安易に解散の手段に訴えるべきではない。69条も、明白に総辞職を原則と定めている。さらに、解散に訴えた場合であっても、総選挙後の特別国会での総辞職を義務づけているから、内閣は、時期の前後はあっても、不信任案が可決された場合には、必ず総辞職しなければならないのである。

  2 民主主義的意義における解散は、民意を問う客観的必要性が生じた場合には、実施するべきこととなる。そこで、問題は、「民意を問う客観的必要性」は、どのような場合に認定できるかである。その答は国民主権原理をどの程度に強く理解するかにより、換言すれば、人民主権原理をどの程度に抑制する方向で考えるのかにより、異なる。

 基本として国民主権原理があることを強調すれば、解散権の行使は、有権者の投票行動に影響のあるような重大な変更が国会ないし内閣に生じた場合に限られると解すべきであろう。例えば、@政界再編成により国会の勢力分野が大幅に変わった場合、A前の総選挙の争点にならなかった新しい重大な政治的課題が生じた場合、B政府・与党が基本政策を根本的に変更する場合、等である。なお、責任本質説を採る場合には、この民主的意義の枠内で、69条該当の諸場合までも含めて説明すべきことになる。

 しかも、これらに該当する場合ですら、有権者は決して国民そのものではないから、政府は、「解散できる」というに止まり、解散して民意を問う義務があるわけではない。

 これに対して、人民主権的見解を強調し、衆議院の解散制度は国民投票の代用品である、と考える場合には、政府が必要と判断した場合には、随時ことの大小を問わず、解散に訴えることが許される。仮に、その解散権が濫用された場合には、主権者たる国民が、審判の内容としてそのことを表明するはずであるから、問題は起こらない、と考えるのである。また、上記のような重大な局面の場合には、政府は衆議院を放置することは許されず、解散する義務を負う、と考えるべきであろう

 いずれをとるかは、基本的には価値観の分かれるところであるが、通説は圧倒的に前者である。これを採る場合、その前の段階で、あまり民主的契機を強調しないよう、書き方を工夫しないと、論理的に破綻することに注意しよう。

[まとめ]

 以上のことから、XとしてYの説得としては、国民主権あるいは人民主権の本旨から説き起こし、民意を問う手段としての7条解散を説明することになる。特に、小問2に対し、民主主義的正当性の獲得という点を説くことが重要である。