裁判の公開

甲斐素直

  問題

 次の各事例における裁判所の措置について、「裁判公開の原則」との関係で生ずる憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。

(1)映画の上映がわいせつ図画陳列罪に当たるとして、映画製作者が起訴され、当該映画の芸術性・わいせつ性を巡って争われた刑事訴訟において、裁判所が、わいせつ物の疑いのあるものを一般傍聴人の目にさらすのは適当ではない、という理由で、公判手続きの傍聴を禁止した場合

(2)ある企業が、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとする者に対し、右不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、裁判所が、審理を公開すると営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、口頭弁論の傍聴を禁止した場合

(3)右の(2)の訴訟において、裁判所が、口頭弁論の傍聴は禁止しなかったものの、傍聴人がメモを取ることを禁止した場合

(平成5年 司法試験 第2問)

[はじめに]

 世の中、何がいけないといって、小問形式の出題に対し、その個別の問いに逐一答える形式の解答くらい最悪のものはない。複数の小問形式で出題されていても、出題者側は常にその共通の総論に対する答えを期待しているのである。本問であれば、誰に聞いたって、「ああ、これは裁判の公開の問題だな」と答えるはずである。そうであれば、なぜ、その自分が見つけたポイントに対して答えないのだろうか。

 すなわち、本問は、いろいろと長く書かれているが、次の問題と、答案構成・内容において異なるところはない。

裁判の公開の意義と根拠について論ぜよ。

 違うのは、この極めて単純な1行問題であれば、裁判の公開に関するあらゆる問題点を取り上げなければ合格答案ではないのに対して、ここでは、個別具体的な論点としてはたった3点を挙げればよい、となっている点で、この1行問題よりも易しい問題だ、というにつきる。

[問題の所在]

 裁判の公開は、司法権の中心概念をどこに求めるにせよ、その本質的要求として重要視されてきた。そのことから、わが国憲法は、ほとんど例外を認めない形で裁判の公開を保障している。しかし、そのためにかえって様々な場合に、国民として裁判を受ける権利を実質的に侵害されている、という事態が生じている。司法試験問題で具体的にテーマとされている猥褻物陳列罪や公私の領域における秘密漏洩行為などでは、従来から問題とされてきた。また、近時においては、情報公開法において、委員会段階ではイン・カメラ審理(in camera review)が許容されているのに、裁判段階になると認められないという点が問題となっており、仮に1行問題で出題されていれば、絶対に避けて通れない論点である。おそらく、将来、国家試験で裁判の公開が出題されるときは、これが中心論点になるであろう。

 すなわち、今日的要求としては、裁判の本質に反しない限度で、可能な限り、公開原則に対する例外を許容しなければならない。他方、無造作に例外を許容しすぎることも問題で、その限界をどこに求めるか、ということが問題となる。全く同様の事件を取り上げていながら、少年事件や家事審判事件となると公開原則が無造作に排除されるのが正しいのか、という問題意識も存在している。本問に対するレジュメという枠からはみ出すので、この非訟事件関連の問題は、ここでは取り上げないが、諸君自身として研究しておいてほしいところである。

 このように近時、強い問題意識が持たれている領域であるにもかかわらず、あまり教科書レベルには記述がなく、難問である。『憲法の争点』等、幅広く演習書を読んで勉強しておく他はない。

一 裁判の公開の限界構築の方法

 裁判の公開はなぜ必要とされるのだろうか。それについて、小問3の母体ともいうべきレペタ事件最高裁判決は「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある」と述べる(最大平成元年38日=百選第5160頁)。すなわち、制度的保障である。したがって、この国民の裁判に対する信頼という制度の中核を侵害しない限り、公開原則を制限することは一般論として可能である。

 このように制度的保障として理解した場合には、当然に制度の侵すことのできない中核は何か、ということが問題となる。この点についてきちんと論じている判例はないが、レペタ事件最高裁判決が述べていることから、ある程度判断できる。すなわち、

「傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であって、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである。傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であって、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがって、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある」

 要するに、公開原則が要求しているのは、文字通り、一般公衆に対して傍聴を許すことに尽きるのであって、それ以上のものではない。公正かつ円滑な審理がまず要求されるのであって、それと抵触しない限りで傍聴を許す必要があるのに留まるということである。換言すれば、国民の知る権利の保障ではない、というのが判例の見解である。

 ここで問題は、822項がその例外を非常に厳しく制限する姿勢をとっていることである。すなわち、非公開が許されるのは、文言に依存する限り、「公の秩序又は善良な風俗を害する虞」がある場合に限定される。

 そこで、問題となるのは、この公序良俗という言葉が何を意味しているか、ということになる。かつての通説は次のように説いていた。

「公序良俗違反という観念は、違法性の実質的、社会学的側面を表現するために用いられることもあるが、ここではそのような一般的意味ではなく、より具体的に、人身を刺激して公共の治安を破り、あるいは猥褻等人心に不良の影響を及ぼして風教を傷つけるようなことをいうものと解される。旧憲法『安寧秩序又は風俗を害する』というのと同義である。」

(『註解日本国憲法』有斐閣1241頁より引用)

 このように公序良俗概念を狭く解する場合には、猥褻物陳列罪や婦女暴行罪は何とかなるとしても、秘密漏洩罪や現時点で最大の問題となると考えられる情報公開におけるインカメラ審理の導入などを公序良俗で説明することは不可能という答えが導かれることになる。このような解釈の背景には、公開原則を非常に大事なものとする考えが存在していることはいうまでもない。

 これに対して、近時は次のように述べて、例外を幅広く認めるべきである、という見解が一般的になりつつある。

「憲法82条の定める公開の保障の重要性を承認するとしても、それだけが問題なのではなく、それを包み込むところの、公正な手続き的配慮の要請というものがその基底にあり、今やむしろそこにこそ着眼して裁判の運営を考えるべき時期に来ているのだ、ということも、はっきり自覚すべきところなのであろう。」

(三日月章『民事訴訟法研究(7)』有斐閣、昭和5311頁)

 こうして、基本的な方向としての裁判の非公開という目的を、憲法822項の極めて限定的な文言にも関わらず達成するために、様々な手法が検討されることになる。以下、そのために、どんな学説が存在しているのかを、簡単に紹介しよう。これはあくまでも簡単な紹介であるから、諸君が、以下の学説のどれかが気に入って、それをベースに論文を書こうと決心した場合には、必ず原典に当たって、そこから説を構築するようにしてほしい。

(一)例示説

 822項の公序良俗以外にも、同条の基礎となっている裁判の公正という要求により合致する場合には、公開の制限が可能である、と説く。例えば佐藤幸治は次のようにいう。

「フランス革命前のアンシャン・レジームの下での秘密裁判を克服することを課題とした近代の公開・対審・判決という訴訟原理(公開即公正という発想)は、その当時に比べれば、裁判、特に民事の裁判に期待される役割は大きく拡がってきている現代において、多少修正し、実質的に公正を確保するような裁判原理を模索考究すればよいのだという認識がある」

(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣昭和63年刊434頁より引用)

 文言解釈として少し弱いところに問題があるが、前に述べたとおり、制度的保障と解する限り、裁判の公正がまず要求される、という原点にたつ限り、十分説得力はある。

(二) 国際人権B規約14条説

 同条1項は原則として公開裁判を保障しつつ、例外として822項に比べると幅広い規定をおいている。

「報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序もしくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において、裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」

 わが国は昭和54年に国際人権規約を批准し、この条約は自力執行可能な条約に属するから、この規定もまた国内法としての効力を有する。

 これを根拠とすれば、先に問題となるとして挙げた領域のほぼすべてについて裁判の非公開を根拠づけることが可能となる。

 問題は、どのようにして憲法82条と国際人権規約の整合性をとるかである。考え方としては次のようなものがあり得る。

 第一は単純に国際人権規約が憲法に優位する、と説明することである。国際人権規約は、条約という形でわが国が批准したものであるが、それを制定した国連の意図は、それを確立された国際法規にすることにあり、我が憲法982項の解釈として確立された国際法規は憲法に優位するから、これは十分に説得力ある説明方法である。

 第二は、憲法優位としつつも、憲法が822項以外の場合にも、非公開の場合を認めていると解する立場である。これは憲法解釈としては上記例示説を採用し、例示以外の制限の根拠を国際人権規約に求めることになる。

 第三は、憲法優位としつつ、憲法21条の表現の自由に、国際人権B規約192項の要求する知る権利を読み込むように、公序良俗という言葉の理解としてこの14条を読み込んでいく、という方法である。この場合、結局、学説的には次の公序良俗説となる(浦部法穂『全訂憲法学教室』310頁はこの立場をとることを明言する)。

(三) 公序良俗概念拡張説

 憲法の文言解釈という観点から見れば、公序良俗という言葉の意味を戦前の安寧秩序よりも拡大することができれば、それがもっとも簡明な説明であることは疑う余地がない。

「従来の憲法学説が『公の秩序』の内容を公共の安全と狭く解釈してきたこととの関係では問題が残るもののそれを社会的に認められた権利と解し、かつ、非公開にすることに十分な理由が認められる場合に限定したうえで、『公の秩序』を広げることがもっとも異論の少ない解釈であるように思われる。」

(戸波江二「裁判を受ける権利」ジュリスト1089281頁より引用)

 しかし、公序良俗という言葉は様々な場面で使われるだけに、ここでの意味をなぜ社会的に認められた権利と決定できるのかははっきりしない。また、社会的権利というのは具体的に何かもはっきりしない。

 そこで、この立場にある他の説を見てみよう。

「(公開原則を排除するための)公序概念の内容は、他の場合よりも厳格に考えられなくてはならないことは、疑いを入れない。単なる産業界の秩序や、営業秘密保有者の個別的利益では、この場合の公序を満たさないのはもちろん、営業秘密保護が社会的妥当性を持つというだけでも、公序を基礎づけるには不十分であろう。〈中略〉それにも関わらず、本論文においては、公序が害されることを理由として営業秘密についての審理を非公開とすることができる、という結論を採る。確かに、営業秘密の保護、具体的には、営業秘密に基づく差し止め請求権を認めること自体は、法律上の秩序である。しかし、営業秘密について、一定範囲の第三者に対しする関係で差し止め請求が認められるに至った背後には、損害賠償による事後的救済のみでは秘密の保護に十分ではなく、非公知性、秘密性を失うと保有者に回復しがたい損害が生ずることなどに鑑みて、その保護を強化したという判断が存在する。このことは、営業秘密が、物権のような絶対権ではないが、一定範囲の第三者に対してその権利自体の承認を求めうる財産権として承認されたことを意味する。いいかえれば、営業秘密は、差し止め請求権をも内包する権利として憲法292項にいう公序の内容となる。」

(伊藤真「営業の秘密と審理の公開原則」ジュリスト103183頁より引用)

 この場合、論文のタイトルにあるとおり、本問の小問2で取り上げられている営業秘密だけをテーマとしているので、財産権だけしか論及していないが、それを一般的に述べるならば、公序良俗とは人権侵害のことだ、と述べていると考えて良いであろう。戸波江二説でいう社会的権利というのも人権と読み替えて良いと思う。

 この引用部分で「回復しがたい損害」という表現を、非公開のメルクマールとしているのも、注目するべきであろう。すなわち、裁判の非公開は、その審理内容が一般に公表されることを事前に抑制する行為であるという点において、表現の自由の事前抑制と同質の行為である。事前抑制禁止の法理に対する例外としては、その表現行為によって害悪の発生することが異例なほど明白であるか、あるいは回復不可能な損害が発生することが明白であることが要求される。戸波江二のいう「非公開にすることに十分な理由が認められる場合」というのも、この程度の十分さと考えないと、国際人権規約の要求する「裁判所が真に必要と認める限度」という要件にかみ合わないであろう。

(四) 非公開審理を求める権利

 上記伊藤説は、結局、財産権によって公序概念を拡張しようという試みということができる。そうであれば、別に議論は財産権に限定される必要はない。およそ一般的に人権が審理の公開によって侵害されるような事態が発生すれば、32条の裁判を受ける権利から一般的に、非公開審理を求める権利というものを構成するのはそう突飛な発想とは言えない。すなわち

「本項は、憲法32条を、裁判所へのアクセスを保障しただけでなく、非刑事裁判手続きにおけるデュー・プロセスを保障したものと理解し、その一要素として実効的な救済を求める権利を内包するものと理解する立場に立ち、裁判を公開にすることが実効的な救済を不可能にする場合、原告は非公開審理を求める権利を主張しうるものと考える。従って、政府が国民の秘密を侵害し、その秘密に対して有する基本的人権を侵害している場合には、国民は憲法32条の下でその秘密について有する基本的人権の侵害に対して実効的な救済を求める権利を有しており、そこから非公開審理を求める権利が導かれると考えるべきである。」

(松井茂記「裁判の公開と『秘密』の保護」民商法雑誌106581頁より引用)

 ここだけを見ると、この説は極めて魅力的であるが、諸君としてこの説に依拠しようとするときには注意するべき点が一つある。それは、非公開要求が国民の権利である、ということは、裁判所の裁量権を否定してしまう、という点である。したがって、当事者の非公開要求にも関わらず、裁判所が公開とした場合には、違憲問題が発生する。このことは、制度的保障という理解そのものの限界などと絡んで、論文における理論体系全体に影響を及ぼす、ということである。

(五) イン・カメラ審理と公開原則

 傍聴人の排除という点に絡む主要学説は以上の通りであるが、冒頭にも述べたとおり、今後、こうした問題が出題されるとすれば、むしろ情報公開法との関連で出題される可能性が高い。その場合における重要な学説を紹介しておきたい。

 この説では、公開審理とは、まさに本問で問題になっているような、傍聴人を排除して訴訟当事者と裁判官だけで行う審理のことをいう、ととらえる。その結果、次のように述べる。

「これまで構築されてきた憲法秩序の下では、企業秘密、財産権よりも、知る権利を具体化するための権利である情報公開請求権の方が高い価値を持っているとされているのであるから、いくつかの裁判例で説かれているように、この権利の制限に対しては、裁判所は厳格な司法審査を行わなければならない。すなわち、情報公開請求権の保護のために厳格な司法審査を行う過程で、裁判所は、当該情報・文書を非公開で審理することができるのである。<改行>ところで、この非公開審理は、傍聴人を法廷から排除して証拠調べを訴訟当事者と裁判官の間で行うという方式ではないことに注意しなければならない。非開示処分の対象となった、あるいは、開示の執行停止の対象となった情報・文書を裁判官のみが直接閲覧するという形の証拠調べである。この方式は、裁判官に与えられた裁量権の範囲内のものであり、その権限行使が公正な裁判を維持し、裁判への信頼を得るためであることは前述したとおりであり、憲法82条が認めるところと解される。」

(戸松秀典「裁判の公開と非公開文書の裁判」ジュリスト増刊『情報公開と著作権法』49頁より引用)

 すなわち、インカメラ審理は、裁判官の証拠調べの方法にすぎず、公開原則と直接的には抵触することはない、と把握するわけである。確かに現場検証その他の証拠調べは一般に対審とされていないから、これは非常に説得力がある。

 この論理を本問に適用することは、当然に可能である。例えば小問1であれば、非公開にするのは問題の映画内容の検証であろうが、これが証拠調べの一環であることは疑う余地がない。同様に、企業の営業秘密も証拠調べの一環として行われるであろう。

(六) まとめ

 いつも強調するとおり、諸君としては自分のとらない学説を非難する必要はない。自分のとる学説を、なぜそれを採るのか、という根拠とともに説明すれば十分である。だから、ここに紹介した学説の中のどれかを、その論拠とともに理解すれば十分である。

 上記の学説について、それが相互排斥的なものと理解する必要はない。例えば、非公開審理を求める権利説は、当然82条の条文解釈としては、例示説を前提にしていると考える必要がある。それ自体は公序良俗としているわけではないからである。

 また、国際人権規約について国内法上の効力を否定する、というような極端な学説を採らない限り、国際人権規約は、どの説を採る場合にも、その根拠として把握するべきであろう。

 

二 司法試験問題における各小問の検討

 諸君が、上記総論をしっかりと書いてくれれば、各小問に対する解答はせいぜい2〜3行で十分である。しかし、ここでは、諸君の理解の確実を期するために、以下、少々詳しく問題点を検討してみよう。

(一) 小問(1)について

「映画の上映がわいせつ図画陳列罪に当たるとして、映画製作者が起訴され、当該映画の芸術性・わいせつ性を巡って争われた刑事訴訟において、裁判所が、わいせつ物の疑いのあるものを一般傍聴人の目にさらすのは適当ではない、という理由で、公判手続きの傍聴を禁止した場合」

わいせつ物陳列罪が公序良俗に抵触する虞のある行為であることは、かっての通説も疑わないところであり、したがって、公序良俗原則との関連で、この場合に、非公開決定ができる点、特に問題はない。

 問題は、刑事事件については憲法37条が明確に公開裁判を要求していることである。したがって、仮に37条が刑事事件において絶対的公開原則を要求していると読む場合には、それ以上論ずるまでもなく、本小問については非公開は許されない、と結論されることになる。

 しかし、一般的には82条の原則を確認しているに過ぎないと解する。なぜなら、82条が絶対的公開事由としてあげているのは、「出版に関する犯罪」「政治犯罪」と明らかに刑事事件を限定的にあげているからである。すなわち、82条は刑事事件についてさえ、公開しなければならないものと非公開にできるものの区別があることを予定している、と読めるのである。そこで、問題は本小問で取り上げているケースが絶対的公開事由に該当するか否かである。

 私自身は、出版に関する犯罪にいう出版とは文字通りの出版、すなわち印刷という形態による表現行為に限定する理由はなく、本問で問題となっている映画なども含めて一般公衆に向けられた表現形態のすべてを意味するものと理解するのが妥当と考えている。なぜなら、出版に関する犯罪にせよ、政治犯罪にせよ、それは第3章で定める権利が問題となっている事件の一類型に過ぎず、それをわざわざ特記したのは、それが国家による侵害の危険性が高いからである。その観点から見れば、映画は印刷と並んで、国家による検閲等の対象となってきたメディアであり、公開裁判の要求は同様に強いものといわねばならないからである。ただし、この点をめぐって議論するのは実益のあることではない。上述のとおり、映画による表現の自由を、出版で読もうと、第3章の権利で読もうと、結論に変わりはないからである。

 第3章の権利という言葉をどう読むかは、もう少し実益のある話である。仮に第3章の権利の中で、31条の適正手続条項を読めば、刑事事件は自動的にすべて含まれることになる。また、13条で一般的行為自由を読んでも、刑事法というのは行為自由の制限法であるから、すべて含まれることになる。前に述べたように、刑事裁判でも非公開が許容されるという前提からいう限り、このような解釈は間違いというべきであろう。結局、第3章で人権カタログに具体的に継起されている権利、具体的には15条から29条までをいうと見るのが妥当と考えている。

 ここで最後の問題となるのが、そのような権利を規制する法律に抵触して刑事裁判になった場合には、常に絶対的公開事由に該当することになるのか、という点である。

 おそらく肯定するのが通説であろう。しかし、私は訴訟法の基本原理たる当事者主義の原則に照らし、そのように拡大するのは不当と考える。法規の違憲性を当事者が主張した場合にのみ、絶対的公開事由に該当すると考える。

 本件事件は芸術性、猥褻性をめぐって争われているとあり、要するに構成要件該当性があるかどうかが問題になっているのであって、猥褻性ある表現の自由が認められるべきである、というような憲法上の概念が争点になっている事件ではない。したがって、第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件ではない。要するに、訴訟で問題になっている法令が人権制限の内容を持っているからといって直ちに第3章に関する事件になるのではなく、当事者間で憲法上の概念が争点とされている場合にのみ、それに該当する。

(二) 小問(2)について

「ある企業が、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとする者に対し、右不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、裁判所が、審理を公開すると営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、口頭弁論の傍聴を禁止した場合」

情報公開法が問題になるまで間は、これこそが公序良俗概念の内容となるかならないかをめぐって、もっとも議論が戦わされた問題である。総論部分でしっかりと論じていれば、ここでは「先に論じたところに従い、非公開とすることは許される」と一行書いておけば十分な答えとなることは自明であろう。

(三) 小問(3)について

「右の(2)の訴訟において、裁判所が、口頭弁論の傍聴は禁止しなかったものの、傍聴人がメモを取ることを禁止した場合」

レペタ事件について表面的な理解をしていると、傍聴人のメモの禁止は当然に許されない、という結論を導いてしまいそうである。しかし、問題はそれほど単純ではない。要するに、裁判の公開が、先に述べたように、中世封建時代における密室の裁判のような不明朗さを排除することを目的とするものという理解に立つ限り、裁判の信仰が国民の監視下にある、ということだけが公開原則の要求である。したがって、傍聴人のメモを取る権利それ自体は公開原則そのものの内容ではない。その結果、最高裁判所は先に制度的保障の中核に関連して紹介したように、傍聴メモは裁判所の完全な裁量に服すると述べているからである。

 その上で、最高裁判所は次のように述べてメモを取る権利を承認したにすぎない。 

「しかしながら、それにもかかわらず、傍聴人のメモを取る行為が公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるに至ることは、通常はあり得ないのであって、特段の事情のない限り、これを傍聴人の自由に任せるべきであり、それが憲法二一条一項の規定の精神に合致するものということができる。」

 そこで、問題となるのは、メモを取る行為が、小問(2)で問題になっているような営業秘密に絡む事件の場合に、公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる可能性が全くない、と断言できるかどうかが小問(3)に対する答えを決めることになる。

 一般論としていえば、そう断言することは不可能であろう。なぜなら、審理の非公開はあくまでも例外で、「裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」にとどまる。したがって、例えば営業秘密の情報内容がきわめて複雑で、通常の傍聴人ではとうてい記憶にとどめることはできないと思われるような場合には、むしろ公開法定で審理を行うのが正しい態度というべきだからである。しかし、そうしたときに傍聴人にメモを取る行為を認めては、情報の漏洩に対する訴訟当事者からの不安から、非公開が要求されることになって、審理が円滑に進まないおそれというものは当然に考えられるからである。

 すなわち、公開原則を、レペタ事件の前提となっている制度的保障という把握をする限り、そこに裁判所の広範な裁量権の存在を肯定せざるを得ない。

 反対に、傍聴権及びメモを取る権利を、国民の知る権利というような角度から構成していく場合には、先に述べた非公開審理そのものがこの知る権利の侵害と構成される結果、非公開の例外を許容できる範囲は極端に狭くなると解さざるを得ない。すなわち、前の方で制度的保障であると述べておいて、ここで知る権利というようなことを言い出すと、論文としての体系が一瞬にして破綻してしまうことになる。小問(3)はその点を狙った引っかけと思われる。