司法権の概念と違憲審査の根拠規定

甲斐素直

問題

 A県知事Yは、県知事の資格において靖国神社の春の例大祭に出席し、玉串料5000円を県知事交際費から支払った。

 これに対し、A県住民であるXは、これは憲法203項並びに89条に違反するとして、地方自治法242条に従い監査請求をしたが、請求後60日が過ぎても監査委員が監査を行わなかったため、地方自治法242条の2に従い、Y知事の行為の違憲性を根拠に住民訴訟を提起した。

 これに対し、Yは次のように主張した。

「警察予備隊訴訟最高裁判決(最大1952108日民集69783頁=百選第5428頁参照)は次のように述べている。

『わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予期して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異なるところはないのである。』

 これによれば、違憲審査権は憲法76条の保障する司法権の効力として考えられるのであって、憲法81条によって、司法権とは関係なく与えられたものと考えるべきではない。そして、司法権とは

『具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用』(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

のことである。

 有効な司法権の行使が行われるためには具体的争訟性が必要であることも、上記警察予備隊訴訟の判決に明らかである。そして、具体的争訟とは、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」のことであり、これは、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう。

 しかるに、住民訴訟においてXについては何ら具体的な権利義務関係の問題はない。したがって、住民訴訟は、裁判所法3条前段にいう『法律上の争訟』ではなく、後段にいう『その他法律において特に定める権限』であるに過ぎない。

 すなわち、住民訴訟は憲法76条にいう司法権の行使には該当しないから、裁判所は住民訴訟においては、そもそも違憲審査を行うことはできない。」

 これに対し、Xとしては、住民訴訟においても、裁判所は違憲審査ができると主張したい。そのために必要な自らの見解を述べ、その理由を挙げなさい。

[はじめに]

【出題の意味】

 どうも諸君は、判例変更という概念になじめないらしく、判例百選に載っている判例は、全て今現在も先例としては完全に有効なものと信じているとしか思えない論文をよく書いてくる。しかし、そんなことはない。多くの最高裁判所判例は、その後の最高裁判例によって、常に大なり小なり修正を受けている。後の判例に抵触する限りにおいて、先の判例は先例性を失うのである。わかりやすい例を挙げると、例えば奈良県ため池条例事件判決(判例百選第5216頁)は、色々なことを言っているが、そのほとんどはその後の判例により覆されており、今日において先例としての意味を残しているのは、条例で財産権の制限が可能というただ一点である。津市地鎮祭判決(判例百選第596頁)は目的効果基準を示したことで有名だが、その点も、本問が作問のベースとした愛媛玉串判決により修正され、今日ではレモンテスト及びエンドースメントテストが、わが国における政教分離原則の審査基準とされている。

 さて、今回の場合、出題者は、本来、警察予備隊判決(判例百選第5428頁)をベースに出題したがった。そこで、この判決は既に先例としての意味を失っていることを説明したのだが、どうしても理解できないようであった。出題者に、その点が理解できないなら、他の諸君も同様であろうと考えて、論点が浮き彫りになるように工夫したのが本問である。

 平成9年度司法試験で、次の問題が出ている。

 住民訴訟(地方自治法第242条の2)の規定は、憲法第76条第1項および裁判所法第3条第1項とどのような関係にあるかについて論ぜよ。

 また、条例が法律に違反することを理由として、住民は当該条例の無効確認の訴えを裁判所に提起できる旨の規定を法律で定めた場合についても論ぜよ。

 これもまた、警察予備隊判決が、今日において、先例性を失っているということを前提として作問されたものである。しかし、出題者がそのことを全く理解してくれなかったことから、この問題で論点となるところを、すべて文章で書き下したのが本問である。平成9年度問題の論点を全て問題文中に書き込んだものと思ってくれればよい。なお、このテーマは、司法試験では重視されており、その後、さらに、次の問題も出題されている。

  • 平成13年度司法試験問題

  • 下級裁判所の裁判権の行使に関し,「下級裁判所は,訴訟において,当該事件に適用される法令が憲法に違反すると認めるときは,その事件を最高裁判所に移送して, 当該法令の憲法適合性について最高裁判所の判断を求めなければならない。」という 趣旨の法律が制定された場合に生ずる憲法上の問題点について論ぜよ。

  • 平成14年度司法試験問題

  • 以下の各訴えについて、裁判所は司法権を行使することができるか。

    1 国会で今制定されようとしているA法律は明らかに違憲であるとして、成立前に無効の宣言をするよう求める訴え。

    2 B宗教の教義は明らかに憲法第13条の個人の尊重に反しているとして、その違憲確認を求めてC宗教の信徒らが提起した訴え。

    3 自衛隊は憲法第9条に違反する無効な存在であるとして、国に対して、自己の納税分中自衛隊に支出した額の返還を請求する訴え。

     いずれも、本問と同一の論点の問題である。

    【論点について】

     今回の問題を読んでもらえれば、Yの反論は実に論理にかなっており、普通であればそれで決まり、と思ったことであろう。しかし、同時にYの反論が現時点においても有効に成り立つなら、そもそも津市地鎮祭判決や愛媛玉串判決が出る訳がない。あるいは選挙訴訟という訴訟類型を利用して下された昭和51年の衆議院議員定数違憲判決も、同じ論理で最高裁判所は憲法判断ができないという結論が出なければおかしい。さらに、司法領域に目を転じれば、例えば八幡製鉄政治献金事件訴訟なども、やはり住民訴訟や選挙訴訟と同じ客観訴訟だから、そもそも最高裁判所が合憲・違憲の判断をしたこと自体がおかしい、といわねばならないことになる。

     すなわち、これらの判決が出た段階で、Yが反論の基礎とした警察予備隊判決の先例性は、これら判決に抵触する範囲で失われているといわねばならない。問題は、その「範囲」なるものが、具体的にはどの範囲か、という点である。それについては、学説が激しく対立しており、それこそが、諸君が基本書と相談して書かねばならない点である。

     住民訴訟は、具体的争訟という概念をかつての通説・判例的定義にしたがって下した場合、それに該当しないということが問題になる。つまり、抽象的争訟が、実定法において既に定められている状況下で、司法権概念をどのように定めるのが妥当か、という問題なのである。警察予備隊判決で確定された従来の司法権概念の下で、住民訴訟という制度を合憲というためには、裁判所法3条にいうところの、その他法律で定める事項と考える以外にない。しかし、そう考えた場合、警察予備隊判決にしたがって、違憲審査権の根拠が76条にあるという説を採る限り、Yのいうとおり、住民訴訟で違憲審査権を裁判所が行使するのは間違いという答え以外にはあり得ない。これを合憲というには、何をどう主張したらよいのか。本問の論点はそこにある。

     なお、参考問題として示した平成13年度司法試験問題の場合、もっと論点は明白で、違憲審査権の根拠は76条か、81条かということである。問題文中で引用したとおり、警察予備隊判決は76条説を採っている。その場合には、司法権の行使という点で、最高裁判所と下級裁判所とで権限に差はないからこの法律は違憲になる。81条が根拠であれば、解釈次第でこうした法律を肯定する余地ができる。ここで注意するべきは、この法律では、事件そのものは有効に下級裁判所に係属しているということである。だから、具体的な事件に付随して憲法解釈をやるという点に関しては、現行法制度と違いがない。ただ、直接的な違憲審査権を下級審から奪っているにすぎない(下級審が違憲と判断しない限り最高裁判所に係属しないのだから、違憲審査権自体は一応下級審に留保されている)。だから、この法律を、ズバリ抽象的事件審査を認めるものかどうか、と論ずるのは正しくない、ということである。

     抽象的事件審査という言葉の使い方としては、二通りの言い回しがある、と戸波江二はいう。即ち、「法律の合憲性を争って国会議員が提訴するという抽象的審査のほかに、通常の訴訟過程で生じた憲法問題を最高裁判所に移送する制度などもある」という(戸波『憲法』新版440頁)。だから、そこでいう後者のニュアンスで抽象的違憲審査という用語を使用しても構わない。しかし、前者が付随的事件性とは切断されているのに対して、後者は付随的事件性の枠内の問題である、という大きな違いがあることは、抑えておかねばならない。その結果、仮に、わが憲法が明文で付随的事件性を定めている場合にも、違憲審査権は76条ではなく、81条から導かれると考える限り、本問の法律を合憲と考えることが可能なのである。

     平成14年の問題の場合には、小問形式なので、様々な問題が含まれる。したがって、オーソドックスな展開を総論でするのが妥当ということになる。

    注 納税者訴訟:平成14年の小問3に、納税者訴訟が登場する。これは、わが国では受け入れがたいとして、住民訴訟という形に変形して導入された米国判例法上の訴訟累計である。私は、納税者訴訟に、伝統的な判例の採る司法権概念に従う限り具体的事件性がないことは、諸君にとっても自明と思っていた。しかし、驚いたことには14年問題に対する辰巳の模範解答までが具体的事件性があると書いていた。そこで、少し詳しく注記しておきたい。納税者訴訟は、米国法では認められることで判例が確立し、上述した北野説を代表に、わが国でも肯定する説があることから、既に数十の訴訟が提起されている。本問で問題となっている自衛隊がらみのものが多いのは当然といえよう。もっとも最近の最高裁判所判決としては平成51022日判決の事件があるが、これは単に原審判決を確認しただけで実質的に中味がないので、その事件の、第1審東京地方裁判所昭和63613日判決から引用して、どういう論理から具体的事件性が否定されるのか、紹介しよう。

    「原告は、自衛隊関係費の支出が憲法9条に違反する旨を主張し、これを前提として、同支出の財源となる所得税の賦課、徴収も同支出相当分の賦課、徴収の限度で憲法9条に違反し、また、右賦課、徴収により、同原告らの平和的生存権が侵害された旨を主張する。

     しかし、憲法は、83条、85条及び86条において、国費は、毎年度の予算の国会における審議等の手続を経て、国会の議決に基づいて支出すべきものと定め、他方、30条及び84条において、租税の課税要件及び賦課徴収手続は法律によって規定するものと定めて、国費の支出と租税の賦課、徴収についてその法的根拠及び手続を区別して規定しているから、仮に前者が違憲、違法であったとしても、その違憲性、違法性は当然には後者に及ばないものと解すべきである。

     また、憲法30条及び84条を承けて制定された所得税法は、所得税を、一般的な経費の支出に充てる目的で課税し、その概念要素として税収の具体的な使途を含まない普通税として規定しているが、このように使途と無関係なこれから独立した普通税を設け、その使途については、予算の議決等国会の適正な審理に委ねるとする徴税制度は、むしろ憲法の予定しているところであって、何ら憲法に違反するものではないというべきである。

     そうすると、所得税が右のように税収の使途と無関係なこれから独立した普通税として規定されている以上、その賦課、徴収段階において、税収の使途の違憲、違法を問題にする余地はないというべきであるから、仮に憲法に違反する国費の支出が予算により決定されたとしても、所得税の賦課、徴収が違憲又は違法となることはないものというべきである。また、右のとおり、所得税は、税収の使途と無関係なこれから独立した普通税であるから、たとえ仮に予算の議決によりその税収の一部が憲法に違反する使途に支出されることが決定されたとしても、右議決の結果、所得税の賦課、徴収に税収の個別具体的使途の性格が付加されるものではなく、したがって、所得税の賦課、徴収自体によって原告らの自由、権利ないし法的利益が侵害されることはないというべきである。」

    これを要約すれば、租税はその使途を定めずに徴収されるのであるから、その使途の一部に違憲・違法があっても、それによって租税徴収そのものが違憲・違法になることはあり得ない、ということである。

     

    一 司法権の概念

     日本国憲法761項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定して、司法権が裁判所に属することを明らかにしているが、その司法権がどのような権力なのかについては全く定義を与えていない。戦前の大日本国憲法でも、その点は同様であった。

    (一) 戦前の通説

     戦前においては、司法権観念の歴史的流動性を強調して、司法と行政の区分は不可能とし、明確な定義を与えないとする説が通説であった(歴史的概念説)。後に述べるように、この説は、今日においても学説の底流として存在しているので、重要である。その代表的な主張を美濃部達吉の論ずるところにしたがって、見てみよう(『憲法撮要』有斐閣昭和2年刊、478頁以下より引用。ただし旧漢字を新漢字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおし、難読の漢字をひらがなにしてある。)。

    「司法と行政との間には性質上の区別を認めることを得ず。あるいは曰く、司法行為の特色は実在の事件につき、何が法なるかを確認することを唯一の目的とすることにあり、その行為よりいかなる結果を生ずるかは問うところにあらず、ただ『法律の生きたる声』として、ある法律事実の存在を認定し、その事実に対し、適用せらるべき法の何なるかを決定宣告することがその唯一の目的なり、行政の作用は之に反して常にある実際上の結果を得ることを目的とすると。しかれども、司法中にも刑事裁判は単に法の宣告を唯一の目的とするものにあらずして、実際の結果を目的となし、行政作用にありても、いわゆる確認行為は法の確認を目的とする行為なり、之を持って両者の区別の標準となす事を得ず。あるいは曰く、司法の特色は論理的に特定の事実に対して、法規を適用し、全然自由裁量を許さざることにあり。行政作用に於いてもあるいは自由裁量の余地なきことあれど、之偶然の制限にして観念上の必要にあらず。司法にありては覊束がその本来の性質なり、行政にありては決定の自由がその本来の性質なれりと。しかれども、司法に於いても刑事裁判にありては、自由裁量権を認むるの範囲すこぶる広きのみならず、行政に於いても租税法徴兵法等の区域にありては単に法規を執行するにとどまり、全く自由裁量の余地なきもの多し。」

     このように両者の間の実質的な差異を否定した結果、両者の差異は形式面に求めるほかはないという結論を導き、「司法とは刑事、民事の裁判を意味す」と定義することになる。

    (二) 戦後の通説

     現行憲法下においては、戦前と異なり、次のような積極的な定義を下すのが通説・判例であった、ということができるであろう。

    「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

     なぜこのように、積極的な定義を下せるのであろうか。この説を採った場合には、この点が第一の論点にならなければならない。清宮は、次のように説明する。

    「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスや米国の制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

     この定義の中核は、冒頭にある『具体的争訟』という言葉にある。この言葉は米国合衆国憲法32節の司法権の権限が「事件又は争訟case or controversy」によって決せられることを明文で保障しているところに由来している。

     これを逆から言うと、この具体的争訟に限定される、ということをいうために、米国法系の司法制度に変わった、という必要があるのである。わが憲法76条は、このような定義文言は存在していないからである。そして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」という言葉が、この事件性の要件を定めたものと一般に理解されている。

     

    二 具体的事件性について

     具体的事件性という要件を司法に要求するのは、上記のとおり、米国法の影響であるから、その要件の構成要素として何があるか、と考えるのもまた、米国法の影響が強く表れることになる。しかし、実は米国においても、この概念は確固不動のものではなく、時代によりかなりの変遷を示している。その変遷状況を、阪本昌成は次のように説明している(『憲法理論T』補訂第3版、成文堂2000年刊393頁より引用)。

    1910年代の米国最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。

     もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。

     司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」

     ここにでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理の名前で諸君が、憲法訴訟論の中で学ぶことになる要件のことである。つまり、今日の憲法訴訟論は、そもそも古典的な司法権概念が成り立たないことを前提に、理論体系が作られているのである。

    (一) 通説・判例の考え方と問題点

     通説の代表的主張というべき清宮の教科書の初版が刊行されたのが昭和32年(1957年)であるから、当然のこととして通説・判例による米国法の継受による司法概念には、70年代以降における米国法の変化というものは反映されていない。

     すなわち、当時の通説・判例は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」は、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう、とする(例えば警察予備隊訴訟最高裁判決参照)。

     しかし、この定義には問題が多い。すなわち、これはもっぱら典型的な民事訴訟を念頭に置いて構築されたものであるために、刑事訴訟等はうまく説明できないことは、前に美濃部説の指摘したところである。これら、この定義でうまく説明できない司法作用については、すべて裁判所法31項で認められている法律によって裁判所に与えられている権限と解するべきことになる。つまり、戦前の歴史的概念説は、そのような意味でこの説の底流に存在していることになる。

     しかし、ここで米国法の変化による影響がわが国法制度に及んでくる、という現象が生ずる。例えば、平成14年度問題の小問3に示されている納税者訴訟である。わが国では、この訴訟形式そのものの継受は行われなかったが、それに代わるものとして導入されたのが、地方自治法242条の2に定められた住民訴訟である。

     当然のことながら、この住民訴訟に代表される客観訴訟については、従来からの司法権概念をそのまま維持する限り、司法の本質とはかかわりないために、法律で付与された権限ということになってしまう点である。

     米国法には81条に相当する規定がなく、司法権という概念そのものが合憲性の司法審査を許容しているという考え方が、マーベリー対マディソン事件判決以来、確立している。そして、わが国最高裁判所は、この司法審査の権限を明文の規定で確認したものと理解してきた。

    「現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第81条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第98条の最高法規の規定又は第76条もしくは第99条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分抽出されうるのである。米国憲法においては、前記第81条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第81条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである」

    (最大194878日刑集28801頁=百選第5版432頁参照)

     そしてその趣旨は、警察予備隊違憲訴訟判決でも確認されていることは、問題文中に引用したとおりである。

     この解釈に従えば、違憲審査権は、司法権に内在する権限であり、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随してその権限を行使することができるが、逆に司法権行使の要件を満たす事件・争訟がなければこの権限を行使することはできないことになる。それゆえ、この権限は、一般に「付随的違憲審査権」と呼ばれている。

     したがって、従来の通説・判例にしたがう場合、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。

     しかし、現実の憲法訴訟において、客観訴訟が占めている重要性を考えると、これは戦後憲法訴訟の中核を否定するに等しい大変な問題である。

     だからといって、司法権概念を修正せずに、法律によって与えられた権限についても一般的に違憲審査権の存在を肯定するならば、違憲審査権は憲法76条にいう司法権に含まれる権限ではなく、特に憲法81条によって与えられた権限であるといわなければならない。その結果、第二に、国会が立法によって定めさえすれば、抽象的規範統制権を裁判所に与えることも可能になるはずである。しかし、それでは説の前提たる米国法の継受は、完全にどこかに吹き飛んでしまう。つまり、かつての通説判例は、その前提との破綻を起こしているのである。

     こうして、この点から、今日では、様々な学説の対立が生じてくることになる。議論の方法としては、大きく三つの方法を考えることができる。

     第1は、上記に示唆した方法、すなわち司法権は従来のまま維持しつつ、違憲審査権は81条により与えられた権限であるので、法律により裁判所に付与された権限についても違憲審査を可能である、とする論理である。

     第2は、司法概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を含むようにする一方で、違憲審査権は76条の司法権に含まれる、という点は修正せずに維持することである。

     ここでは、さらに大きく二つの方法を考えることができる。その1は、具体的事件性という言葉を維持しつつ、「具体的」という概念について、主観訴訟よりも拡張して、客観訴訟を含みうるようにすることである。その2は、具体的事件性という概念それ自体を放棄して、新たな概念を中核に私法概念そのものを構築し直すという方法である。

     第3は、司法権概念を見直すということに加えて、さらに、違憲審査権の根拠としても、76条ではなく、81条とする、というように、司法権、違憲審査権の二つ共を、かつての通説・判例から修正していく方法である。

     現実に、学界を見れば、そのいずれの学説も存在している。したがって、諸君としては、これらの方法のうち、どれがもっとも諸君の感性に合致するかを考えて、この点に関する自説を確立しておくことが大切である。特に、例えば芦部説のように、この点について沈黙している基本書を採用している場合には、これは重要な作業となる。

    注: 以上の説明は、諸君に論点を理解してもらうためにしているのであって、諸君の論文にこのまま書き込んではいけない。諸君の論文では、どれか一つの説を採用した上で、司法権概念の段階からその説にしたがって体系的に演繹的に書かねばならないのである。

     

    三 近時の学説の対応

    (一) 法原理機関説

     佐藤幸治の説は第1の立場の代表ともいうべきものである。従来の司法権概念を維持する場合にも、清宮のいうように、米国法を継受したから、という理由はもはや使用できない。なぜなら、先に説明したように、今日では、米国判例法自体が変化してしまっているからである。したがって、この第1の立場を維持するためには、米国法とは無関係な独自の理由から、結果として従来の通説と同じ定義を導かねばならない。佐藤が、その独自の理由として案出したのが「法原理機関」という概念である。次のように説く

    「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。)

     このように具体的事件性を把握する場合には、従来の通説・判例と同じく、主観的当事者訴訟だけが司法権の行使として許容されることになる。では問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

    「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

     つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、@付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、Aその決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。しかし、ここで使われている「法原理的決定の形態になじみやすい」という表現は抽象的で、本問の場合にどういう形で答えがでるかがわかりにくい。そこで、この佐藤説を、阪本昌成師が言い換えて定式化しているところを紹介してみよう。

    客観訴訟が「憲法上許容されるためには、@具体的な国家の行為があり、Aそれをめぐって国家と原告の間に鋭利な見解の対立が存在し、B裁判所が終局的な解決を図りうることといった『争訟性』を擬製するだけの実質を持たねばならない(佐藤幸治『現代国家と司法権』250頁〜2頁参照)。」

    阪本前掲書443頁より引用

     すなわち、認められないという結論はすべて共通しているが、理由がそれぞれ違うので注意する必要がある。

     ここまでの議論で、客観訴訟は『その他法律において特に定める権限』として認められるのであって、決して、76条の司法権に含まれる訳ではないことがはっきりしたといえよう。したがって、違憲審査権は76条の司法権の内容ではなく、81条という特別規定に基づく権限と解する立場をとっていると理解すべきである。ここから、佐藤説は、さらに違憲判決の効力に関し、81条の解釈としての法律委任説というものに展開していくことになる。

    (二) 公権的裁定説

     浦部法穂は、第二の、司法権概念そのものの拡大を行う立場のうち、その1とした説の一つの典型である。浦部は、司法権概念については、かつての米国判例ではなく、納税者訴訟等を承認した以降の米国判例が採用する概念を基本的に採用していると見ることができる。しかし、佐藤がもはや米国継受法を根拠として使用できない以上に、浦部として継受法であるという主張はできない。そこで、佐藤と同様に、司法権とは本質的に何か、という議論を展開することで、その点を説明しようとする。ただ、佐藤が、およそ司法というものの本質から説き起こしたのに対し、浦部は、次の通り、国家権力の一翼として存在する司法の概念を考えるために、結論の差異が生ずる(『憲法学教室』全訂第2版、日本評論社2006年刊323頁以下より引用。なお参照『注釈憲法』761項=浦部法穂執筆部分)。

    「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」

     このように、公権的裁定の必要の有無が事件性を決定することになれば、その裁定の必要がある種類の事件か否かは、立法裁量の対象となる、と考えることが可能である。しかし、そこで、個別的事件性という点が歯止めとなると考えることになる。浦部法穂に依れば、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。

    「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」

     この立場に依る場合には、客観訴訟は現実に法的に解決しうる紛争が存在している、という点において具体的事件性を充足しており、合憲と解される。そして、警察予備隊判決の採用した76条から違憲審査権を導く立場は、そのまま維持しうることになる。

    (三) 法の支配説

     高橋和之は、第二の司法権概念を修正する説のうち、その2の、具体性という部分を捨てる、という立場のひとつの典型である(「司法権の観念」樋口陽一編『講座憲法学』第6巻、日本評論社1995年刊13頁以降参照)。

     高橋によれば、司法とは、『適法な提訴を待って、法律の解釈・適用に関する争いを、適切な手続の下に、終局的に裁定する作用』をいうものとする。なぜこのような定義を導けるのかについては、かなり話が複雑なので、原典を参照してほしい。この定義は、かつての通説とよく似ているが、具体的事件性という言葉が欠けている点で決定的に異なっていることは判るであろう。この欠落を、高橋は、米国法の部分的継受という形で、次のように説明する。

    「従来、司法の定義には事件性の要件が不可欠のものと考えられてきた。その理由として指摘されてきたものには二つがある。一つは、日本国憲法の司法概念が米国合衆国憲法の影響を受けているという理由である。この説明は、米国の司法概念が事件性を不可欠の要素としていることを当然の前提にしている。しかし、この前提はそれほど自明ではない。米国合衆国憲法は、31項で『合衆国の司法権は、一つの最高裁判所、および議会が随時制定・設立する下級裁判所に属する』と規定し、2項で『司法権は、…事件(Cases)、及び、…争訟(Controversies)に及ぶ(extent to)』と定めている。これを日本国憲法と比べてみると、1項は日本国憲法761項とほとんど同じ規定であることがわかる。ところが、日本国憲法には、2項に該当する規定がない。このために、日本国憲法の司法権が米国合衆国のそれと同じだと主張する論者は、2項の内容を日本国憲法761頃の司法権概念の中に読み込んできたのである。しかし、米国合衆国憲法では31項と2項は別個の規定として存在しており、ゆえに、2項の内容は1項の司法権概念の内容とはなっていない。かりに司法概念が、日本の論者の言うように、事件性の要件を含んでいるとすれば、2項はまったく無意味な規定ということになろう。むしろ、2項を素直に読めば、事件・争訟の要件は司法権の及ぶ対象を定めるものと解すべきではなかろうか。そうだとすると、米国合衆国憲法31項および日本国憲法761項の司法権は、その概念内容としては事件性の要件を含んではおらず、したがって、司法権がいかなる対象に及ぶかは、合衆国憲法32項に対応する規定を欠く日本国憲法においては、別途検討する必要があるということになろう。」

     しかし、このことは事件性という要件を不要と考えていることではない。

    「付随審査制においては『事件』の存在が前提となるということになる。しかし、ここにいう『事件』とは具体的事件に限定されない。司法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象的』事件でもかまわない。たとえば、行政法学上民衆訴訟、客観訴訟と呼ばれている訴訟も含まれる。それらの『事件』の解決に付随して必要な限度で違憲審査をするのが付随審査制である。実際、日本の違憲審査制はこのような理解で運用されてきている。ゆえに、日本の違憲審査制が司法審査型であることは、司法の概念が事件性の要件を含まねばならない根拠とはならないのである。」

     この定義においては、司法権が受動的な権力であることが重視される。そこでは、活動の前提として提訴権を考えねばならない。では、その提訴権はどこから生ずるのか。すなわち、訴訟はいかなる場合に提起することが認められるのか。その点については、憲法32条の裁判を受ける権利であると主張する。すると、ここからさらに提訴権が認められるのは、裁判を受ける権利が認められる場合に限定されるかどうか、という問題が導かれる。この点についても、議論が複雑なので、原典を参照してほしい。とにかく、こうして、32条をベースにして、独自の司法権概念を構築している点に、高橋の大きな特徴があることが理解できるであろう。

    (四) ドイツ憲法説

     先に、戦前のわが国学説が大陸法を継受していたのに対して、戦後現行憲法が米国法を継受したところから、戦後の学説が出発した、と述べた。しかし、現在のドイツボン基本法では、憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会の各裁判権をすべて司法として一元的にとらえ、それぞれについて最高裁判所を設置するという形式を採用している。その意味で、裁判所に司法権(Rechtsprechung)が一元的に帰属する観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。そして、ドイツの憲法裁判所は、抽象的な違憲審査権を持っているのであるから、ドイツにおける司法権概念が、具体的事件性というような言葉を含んでいるわけはない。

     実際に、ドイツ憲法学を見ると、司法権は一般に「法に関する紛争又はその侵害があった場合に、特別の手続きによって、有権的な、したがって拘束力ある判断を下す職務」と理解されている。

     日本国憲法76条は、司法権の定義をいかなる形でも有していないのであるから、その解釈としてドイツ憲法的な司法権概念を採用することも、日本国憲法における根拠をきちんと説明でき、かつ、発生する問題のすべてを破綻なく説明できる限り、立派に学説として成り立つはずである。

     私の知る限り、わが国でこの立場を明確に宣言している学者はいない。しかし、戸波江二の説は、非常にこれに近いものと思われる。

     なぜなら、第一に、司法権の概念を紹介するにあたり、米国法への言及をすることなく、「一般に、具体的な紛争について法を適用して裁定する作用をいうと解されている」と述べているにとどまる(『憲法』新版、ぎょうせい、平成12年刊、427頁より引用。以下の引用もこれに続く部分である)。この”一般に・・解されている”という述べ方は、学者が自説ではない説が通説である場合によく使う言い回しである。第二に、次に述べるように、明確に事件性の要件を否定しているのである。

     すなわち、客観訴訟に関しては、次のように述べている。

    「なぜ事件性が司法権の本質的要素とされるのかという問題について、理論的な根拠を提示する学説もある。それによれば、紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって主張を行い、公平な裁判所が法に従って判断を下すという構造こそが司法権にふさわしいものであると説かれる。たしかに、近代の裁判はそのような訴訟構造を前提として発展してきており、歴史的にみて司法権は事件性を前提にしているということができる。しかし、問題はそのような訴訟構造の枠を超えた事件を裁判所が審理判断することができないかどうかである。そして、客観訴訟が法律で定められ、『念のため』判決のように訴訟要件を欠く訴訟で実体判断がなされていることなどを考慮すれば、事件性の要件、は、例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。すなわち、事件性の要件は、事件性の要件をみたさない訴えを裁判所が拒否するための正当化理由となるが、逆に、裁判所が事件性を欠く訴えについて個別的に審理・判断したり、法律が事件性の要件を欠く訴訟を定めたりしたとしても、それらの事件を裁判所が審理・担当すべき十分な理由がある場合には、『司法』権を裁判所に属せしめた憲法76条に反することにはならないと解される。事件性の要件を欠く訴訟のうちで、どのようなものを裁判所の審理の対象とすることができるかは、法を適用して紛争を解決するという司法にふさわしいかどうかによって判断されよう。」

     冒頭で批判されているのは法原理機関説であるから、それを採らないということははっきりしている。その理由として説かれているのは、理論的根拠というより、現実に採用されている客観訴訟の存在それ自体である。そして、それが事件性の要件を満たしていない、と考えているのであるから、浦部法穂説や高橋説のような意味での事件性拡張説を採用していないこともはっきりしている。したがって、事件性を司法権の要件とはしていないのである。その結果、最初の定義の後半である「法を適用して紛争を解決する」という部分だけが、司法の本質に関する定義と考えていることになる。結局これは、ドイツ流の、法に関する紛争に対して終局的拘束力ある判断を下すのが司法だ、とする捉え方と同一のものと考えられるからである。

     要するに、戸波説の特徴は、裁判所としては、事件性を楯にして拒絶することもできるが、裁判所として審理するべき十分な理由さえあれば、特別法がない場合にも、そうした事件について「個別的に審理・判断」できるという点にある。だから、かつての通説・判例が言っていた事件性を欠いている事例でも、裁判所の判断次第というのが答えになる。

     このように司法権概念を修正して客観訴訟を含みうるようにした以上、違憲審査権の根拠は76条だとする、従来の判例・通説を支持しても、理論的には破綻せずに、議論展開が可能である。この段階において、戸波は、81条説を採用する。その理由は、76条説による限り、違憲判決についても、通常の判決と同一の個別的効力説を採用するという結論が導かれてしまうからである。しかし、違憲判決の効力に、一定の限度で対社会的効力を認めるべきは、理論の必然である。そこで、戸波は、一般的効力か個別的効力かという議論とは別に違憲判決の効果論という形で論ずるべきだとする。結論的には、法律委任説を採り、そうした法律がない現状としては、違憲判決に法律を法令集から除去する効力はないが、他の国家機関は最高裁の判決に対しては、それに従って対処すべき法的義務を負い、特に国会がそれを改廃しないことは、立法の不作為になるとする(戸波・前掲書395頁参照)。

     

    [おわりに]

     ここに紹介したどの説によっても、津市地鎮祭判決や、愛媛玉串判決が、警察予備隊判決を修正した、と無矛盾的に説明できる。だから、諸君は、どれかを採用してくれればよい。間違っても、本講のように、各学説を総花的に紹介するような論文だけは書かないように、注意してほしい。