在外邦人の参政権
問題
平成
8年10月20日の衆議院議員総選挙当時において、原告Xは国外に居住しており、国内の市町村の区域内に住所を有していなかった。当時の公職選挙法の規定により、選挙権が与えられていなかった結果、当該選挙で、投票することが認められなかった。在外邦人に選挙権を与える必要があることは、政府としては既に認識しており、昭和
59年には、衆議院議員選挙及び参議院議員選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を国会に提出していた。しかし、同法律案の実質的な審議は行われず、昭和61年に衆議院が解散されたことにより廃案となった。その後も本件選挙が実施された平成8年10月20日までに、在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかった。国会は、ようやく平成
10年に在外邦人に選挙権を認める方向に公職選挙法を改正したが、当該改正では、投票日前に選挙公報を在外国民に届けるのは実際上困難であり、在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達するのが困難である等の諸々の理由により、衆議院比例代表選出議員選挙及び参議院比例代表選出議員選挙の選挙権を認めるにとどまった。そこで
Xらは、「当該選挙時に、在外国民に対して選挙権を全く与えていなかったこと及び改正後においても情報手段の著しい発達がみられたにも関わらず、10年以上の長きに渡り両議院の比例代表選出議員選挙の選挙権しか与えず、これといった措置をとらずに放置したことは、国家賠償法上違法な立法の不作為がある」として、国に対し損害の賠償を請求して出訴した。この場合、裁判所としてはどのような判断をなすべきかについて論ぜよ。
[はじめに]
(一) 作問の内容について
これは、平成
17年9月14日最高裁判所大法廷判決を、比較的忠実に問題化したものである。したがって、回答もまた、その判決を忠実になぞれば能く、その意味で平易な問題である。ただし、1点だけ大きく変えた点がある。本来の請求は、国会賠償事件ではなく、立法の不作為の違法確認の訴えなのである。すなわち、主位的に、〔
1〕本件改正前の公職選挙法が、衆・参両院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において、違法(憲法の規定及び国際人権規約違反)であることの確認、並びに〔2〕本件改正後の公職選挙法は、衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において、違法(同上)であることの確認を求めるとともに、予備的に、〔3〕同上告人らが衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙において選挙権を行使する権利を有することの確認を請求していたのである。これに対して、原審はこれらの各確認請求に係る訴えはいずれも法律上の争訟に当たらず不適法であるとして却下すべきものとして退けた。これは非常に大きな論点であるが、本問でこれを切り落とし、国家賠償請求に限定したのは、問題の単純化という観点から行ったものである。ただし、切り落とした部分もまた重要な問題なので、諸君自身としては、これについても答える準備をしておくことは大切である。これについては、本講の最後に簡単に説明をしている。
(二) 問題の所在について
公職選挙法は、選挙権自体については、第
9条で「日本国民で年齢満20年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する。」と定めるだけなので、一見、居住地が国の内外を問わず、選挙権を有するように見える。しかし、その実、従前の公職選挙法では、その42条で、選挙人名簿に登録されていない者及び選挙人名簿に登録されることができない者は投票をすることができないものと定めていた。そして、選挙人名簿への登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の日本国民で、その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされているところ(同法21条1項、住民基本台帳法15条1項)、在外国民は、我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため、選挙人名簿には登録されなかった。その結果、在外国民は、衆議院議員の選挙又は参議院議員の選挙において投票をすることができなかった。すなわち、参政権そのものは在外居住者といえどもこれを否定していないが、選挙人名簿の作成という技術的な要素を理由に、実際上、参政権行使が不可能とされていたのである。本問は、これを争ったものである。以下、順次問題点を検討しよう。
一 参政権
【始めに】
参政権の本質をどう考えるかは、国民主権か人民主権の対立と結びついた難しい問題である。この主権概念については、入室試験のテーマとして諸君には既に説明してあるところなので、時間の関係もあり、今日は割愛する。参政権の本質は、国家試験でも出題される問題である。最近時のものとしては次のものがある。
公職選挙法第10条は,被選挙権を有する者を,衆議院議員については年齢満25年以上の者,参議院議員については年齢満30年以上の者と定めている。この規定の憲法上の問題点を論ぜよ。
また,同条を改正して,衆議院議員及び参議院議員のいずれも年齢満35年以上の者とした場合は,憲法上どのような問題が生じるか,論ぜよ。
司法試験平成
本問の最初の論点は主権論と参政権の法的性格である。すなわち、国民主権論を採れば参政権に関する二元説が導かれ、人民主権説を採れば権利説が導かれる。
問題は、これらの論点をどの程度まで論ずるかである。国家試験本番における論文は、ゼロサムゲームである。限られた時間の中では、あらゆる論点に等しくきちんと論じていくことはできない。そこで、何を書いて、何を切るかの選択に迫られることになる。当然のことであるが、大きく配点されているものを書き、配点の低いものを切るのである。一般に、原点に近いものほど配点が低く、中心論点に近いほど配点が大きい。
したがって、本節で取り上げた論点については、単にその結論だけを述べ、理由を省略する、という戦略があり得る。つまり、単に「国民主権説を支持しているので、二元説を妥当と考える」とだけ書いて、理由を省いてしまうのである。いうまでもないが、このように理由を省けば、その分だけ減点される。だから、それ以上の点数をメインの論点で稼げる自信がなければ、やってはいけない。
ついで、できるだけ簡略に理由を述べるという無難な戦略がある。その場合、第一に主権論について、なぜそれを採用するかの理由が必要であり、第二に参政権論での理由が必要である。
人民主権論を採用した場合に、権利説を導くのは比較的問題が少ない。それに対して、国民主権から二元説に至る記述の場合には失敗する例が多い。往々にして、諸君は、主権論について理由を書きながら、二元説についての理由を省いている傾向を示すのである。しかし、上記のゼロサムゲームの理屈からすれば、どうしても、どちらかの理由を省かないと紙幅が足りなくなるというのなら、主権論の方を省いて、二元説ではきちんと書く、というのが正しい戦略である。
以下では紙幅を節約するために、参政権論についての説明だけを行う。
(一) 参政権=公務説
憲法は、国民が公務員を選定・罷免する権利を有する(
15条1項)と定めているが、狭義の国民主権原理に立脚する限り、ここにいう国民とは集合体としての国民であって、個々の国民ではないと考えられる。現実にも、国政レベルでは公務員の選定権は、国会議員をのぞいては認められておらず、また、罷免権は最高裁判所裁判官(79条2項)に関する例外的権限をのぞいてはいっさい認められていない(最高裁昭和24年4月20日判決)。この見地から見る限り、参政権は、実は権利ではない。選挙は本来国家という団体の行為であり、個人が有する参政権とは、個人が国家の雨に必要な公的職務を遂行するに過ぎない。したがって、それは議会という国家機関の構成手続に関する憲法規定の反射であるに過ぎないと結論づけられる。だから、この説に立つ場合には、在外邦人に選挙権を与えるか否かは、純然たる国会の立法裁量の問題になり、合憲・違憲の問題たり得ない。
(二) 参政権=権限説
しかし、第一に参政権を保障する
15条が人権の章に定められており、人権はすべて個人として保障されること(13条)、15条3項及び44条但書の採用する普通選挙制度が憲法上明確に導入されたことに伴い、参政権の主体を決定する国会の裁量権が大幅に制約され、普遍化されたこと、15条4項が保障する秘密選挙は、個人の自由な選択の保障を意味することは明らかであること、などから見て、現行憲法下では、参政権を権利として考えることが要求されると考えられる。そこからまず登場したのが、この権限説である。かつては、人権は自然権として理解されていた(天賦人権)。しかし、参政権は国家という概念を抜きにして考えることはできないから、自然権としての参政権はあり得ない。そこで最初に登場したのが権限説と呼ばれるものである。参政権そのものは法の反射的効果に過ぎないとしても、法が選挙の管理執行や投票などについて個人の利益に保護を与える限りにおいて、この法的に保護された個人の利益は単なる反射的利益ではなく、個人が選挙人として請求しうる権限である、と考えるのである。
この権限説では、単に個人が選挙に参画することが許されるというにとどまり、権利と呼ぶにはほど遠く、憲法
15条等の文言と整合性があるとは言い難い。(三) 参政権=二元説
そこで登場したのが、現在の通説である二元説である。これは、「選挙人は一面において、選挙を通じて、国政についての自己の意思を主張する機会が与えられると同時に、他面において、選挙人団という機関を構成して、公務員の選定という公務に参加するものであり、前者の意味では参政の権利をもち、後者の意味では公務執行の義務を持つ」という二重の性格を有すると説くものである(清宮四郎『全訂憲法要論』法文社
152頁) 。この二元説の考え方は、一面で権利性を強調して国会の裁量権を制限する。例えば国会議員の議員定数不均衡を違憲と判断しうるのは、それが国民の権利の不当な制約となるからである。しかし、他面において、公務性を強調して、参政権の制約を肯定する。議員定数についての国会の裁量権の存在を肯定する結果、衆議院については
3対1、参議院については6対1を越えなければ違憲とはならないという最高裁の判断は、そこに由来する。また、例えば公職選挙法が定める選挙犯罪者等に対する公民権停止処分が許されるのも、選挙権の公務性に基づく最小限度の制限として許容されるからである。(四) 参政権=権利説
国民主権説を採る限り無理だが、人民主権説を採用する場合には、参政権を文字通り権利と捉える立場が可能となる(一元説)。
狭義の国民主権説を採りながら、何の理由も書くことなく、一元説を採る者があるが、これは国民主権説が本質的には公務説を要求することを無視しており、その点について何らかの独自の説明を用意していない限り、完全に論理矛盾である。
この立場は、権利主体を、人民主権説にいう主権者である人民を構成する者として把握する(決して、すべての国民に権利主体性を承認する者ではない点に注意)。ここから、例えば、選挙権は原則として
1対1でなければならず、したがって最大でも2対1を越えてはならない、と説く。また、公民権停止処分については、選挙権の内在的制約を超える不当な制限であって違憲とすることになる(もっとも選挙の公正確保のため、必要最小限にとどまる限り許されるというような論理で、実際には許容する)。そのほか、小選挙区制を採用することは、死票率が不当に高まるが故に、これもまた違憲と評価されることになる等、様々な場面でかなりの相違を示すことになる。
二 平等権
参政権に何らかの意味での権利性があることを受けて、さらに平等権論が展開される。ここでは、
44条但書と14条の関係をどのように読むかが大きな論点となる。各条文を見れば判るとおり、
44条但書は、14条の列挙事項と基本的に同一のものを列挙しているため、常識的に読めば、参政権に関しては44条但書の定める限度においてのみ平等原則が適用され、それを超える領域に関しては、国会の立法裁量権に服すると解される。例えば、年齢は、この列挙事項に上がっていない。そこで、平成16年司法試験問題に出てきたとおり、国会は、選挙権について20歳以上とし、また被選挙権について25歳以上(例えば衆議院)、30歳以上(例えば参議院)など、年齢に基づく差別的取り扱いを行っているのが違憲視されないのは、このためである。しかし、判例は、衆議院議員定数違憲判決(最高裁判所昭和
51年4月14日判決=LEX-DB27000326)以来、年齢以外の要素による差別的取り扱いについては、これを許されないものとしている。すなわち、年齢を除く点については、14条から生まれた当然の要請を確認的に定めたものと解する。なぜ年齢を除外できるのかについては、判例は特に説明していないが、憲法が公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障している(15条3項)点に求めることが可能である。本件判決も、この点について、従来の判例を踏襲する。
「憲法
このように、
14条1項が参政権についても適用になるとした結果、次のように結論を下す。「憲法は、国民主権の原理に基づき、両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障しており、その趣旨を確たるものとするため、国民に対して投票をする機会を平等に保障しているものと解するのが相当である」
ただし、ここから直ちに、裁判所が国会の立法裁量権を尊重する必要がないという結論が導かれるわけではない。上記衆議院議員定数違憲判決において、最高裁判所は、次のとおり、いわゆる狭い立法裁量を適用した。
「具体的に決定された選挙区割と議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかはないというべきである。」
本判決でも、基本的にはその法理を継承している。すなわち、
「憲法の以上の趣旨にかんがみれば、〈中略〉国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず、国民の選挙権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして、そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り、上記のやむを得ない事由があるとはいえず、このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは、憲法
昭和
51年判決と読み比べると、こちらの方が若干厳しいスタンスを採用しているが、基本的には同一であることが判って貰えると思う。そこで問題となるのは、従来、そのような「選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難」という状況が、在外法人について存在していたか否かである。この点については、本件判例は、「在外国民が実際に投票をすることを可能にするためには、我が国の在外公館の人的、物的態勢を整えるなどの所要の措置を執る必要があったが、その実現には克服しなければならない障害が少なくなかったためであると考えられる。」と簡単に承認している。諸君も同様の記述で足りると考えてよい。
しかし、問題文にあるとおり、内閣は、昭和
59年4月27日、「我が国の国際関係の緊密化に伴い、国外に居住する国民が増加しつつあることにかんがみ、これらの者について選挙権行使の機会を保障する必要がある」として、衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を第101回国会に提出した。私は、この内容を確認することができていないが、最高裁判決の表現からみて、おそらく平成10年の改正法よりも広範な内容であったと思われる。しかし、同法律案は、その後第
105回国会まで継続審査とされていたものの実質的な審議は行われず、同61年6月2日に衆議院が解散されたことにより廃案となった。その後、本件選挙が実施された平成8年10月20日までに、在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかった。このことから、最高裁判所は次のように述べる。
「世界各地に散在する多数の在外国民に選挙権の行使を認めるに当たり、公正な選挙の実施や候補者に関する情報の適正な伝達等に関して解決されるべき問題があったとしても、既に昭和
三 国家賠償請求について
国会議員の立法行為又は立法不作為が国家賠償法
1条1項の適用上違法となるかどうかについては、従来、在宅投票事件において、最高裁判所は次のように判決していた。「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法
したがって、本問で次に問題になるのは、これをどの限度で変更するべきだと論じるか、或いはこの厳しい条件をクリアして、同判決にいう「容易に想定し難いような例外的な場合」に該当していると考えられるか、という点である。いずれかが言えない限り、国家賠償請求を肯定することはできない。
本件判決は、先に述べた法改正に必要な期間を
10年以上も徒過していたことを根拠に、在宅投票判例を基本的に維持しつつ、次のように述べる。「在外国民であった上告人らも国政選挙において投票をする機会を与えられることを憲法上保障されていたのであり、この権利行使の機会を確保するためには、在外選挙制度を設けるなどの立法措置を執ることが必要不可欠であったにもかかわらず、前記事実関係によれば、昭和
この判決は、少々言葉足らずで、判例変更をしたのか、あるいは「容易に想定し難いような例外的な場合に該当する、といったのか、よく判らないものになっている。この点については、地方裁判所判決ではあるが、熊本ハンセン病事件熊本地裁平成
13年5月11日判決の影響を見ることができる。同判決は、在宅投票事件判決を基本的に維持しつつ、その容易に想定し難いような例外的な場合がどのようなメカニズムから肯定されるかについて、きちんとした説明をした。それが次の文章である。「ある法律が違憲であっても、直ちに、これを制定した国会議員の立法行為ないしこれを改廃しなかった国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法となるものではない。〈中略〉しかしながら、右の最高裁昭和
すなわち、ここでは、国会に立法裁量権が認められており、憲法学的にみて、裁判所としてその裁量権を尊重する必要があるか否かが、原則となるか、例外となるかの分岐点にあたると述べているのである。憲法学的に説明すれば、立法裁量には、広い立法裁量、狭い立法裁量、そして立法裁量がゼロに収束している場合の
3通りの場合がある。このうち、広狭はともかく、裁判所として裁量権を尊重しなければならない場合には、裁判所として確定的な違憲判決を出すことはできない。そこで、事情判決という手法が採られることになる。仮に、そのような類型の訴訟が、通常訴訟の形態ではなく、国家賠償請求という形で提起された場合には、賠償判決をする訳にはいかない。それに対し、裁量権がゼロに収束している場合には、確定判決を下すことができる。それが国家賠償請求という形態で行われていれば、賠償を命ずる判決が可能となる。これがおそらく、ハンセン病事件判決の論理である。それを本問について当てはめるならば、在外邦人の場合には、選挙権を全面的に奪われているのであって、決して単なる投票方法に関する裁量の問題ではない、という点において、容易に想定し難いような例外的な場合に該当すると理解することができる。
しかし、違憲として確定的に認容するのが妥当であるという議論から、直ちに精神的慰謝料の支給を行うべきであるという議論は直ちにはつながらない。本件判決の少数意見で、泉徳治判事は次のように指摘する。
「一般論としては、憲法で保障された基本的権利の行使が立法作用によって妨げられている場合に、国家賠償請求訴訟によって、間接的に立法作用の適憲的な是正を図るという途も、より適切な権利回復のための方法が他にない場合に備えて残しておくべきであると考える。また、当該権利の性質及び当該権利侵害の態様により、特定の範囲の国民に特別の損害が生じているというような場合には、国家賠償請求訴訟が権利回復の方法としてより適切であるといえよう。
しかしながら、本件で問題とされている選挙権の行使に関していえば、選挙権が基本的人権の一つである参政権の行使という意味において個人的権利であることは疑いないものの、両議院の議員という国家の機関を選定する公務に集団的に参加するという公務的性格も有しており、純粋な個人的権利とは異なった側面を持っている。しかも、立法の不備により本件選挙で投票をすることができなかった上告人らの精神的苦痛は、数十万人に及ぶ在外国民に共通のものであり、個別性の薄いものである。したがって、上告人らの精神的苦痛は、金銭で評価することが困難であり、金銭賠償になじまないものといわざるを得ない。英米には、憲法で保障された権利が侵害された場合に、実際の損害がなくても名目的損害(
そして、上告人らの上記精神的苦痛に対し金銭賠償をすべきものとすれば、議員定数の配分の不均衡により投票価値において差別を受けている過小代表区の選挙人にもなにがしかの金銭賠償をすべきことになるが、その精神的苦痛を金銭で評価するのが困難である上に、賠償の対象となる選挙人が膨大な数に上り、賠償の対象となる選挙人と、賠償の財源である税の負担者とが、かなりの部分で重なり合うことに照らすと、上記のような精神的苦痛はそもそも金銭賠償になじまず、国家賠償法が賠償の対象として想定するところではないといわざるを得ない。金銭賠償による救済は、国民に違和感を与え、その支持を得ることができないであろう。
当裁判所は、投票価値の不平等是正については、つとに、公職選挙法
204条の選挙の効力に関する訴訟で救済するという途を開き、本件で求められている在外国民に対する選挙権行使の保障についても、今回、上告人らの提起した予備的確認請求訴訟で取り上げることになった。このような裁判による救済の途が開かれている限り、あえて金銭賠償を認容する必要もない。」これに対しては、福田博判事が補足意見で次のように反論している。
「第
第
2は、−この点は第1の点と等しく、又はより重要であるが−国会又は国会議員が作為又は不作為により国民の選挙権の行使を妨げたことについて支払われる賠償金は、結局のところ、国民の税金から支払われるという事実である。代表民主制の根幹を成す選挙権の行使が国会又は国会議員の行為によって妨げられると、その償いに国民の税金が使われるということを国民に広く知らしめる点で、賠償金の支払は、額の多寡にかかわらず、大きな意味を持つというべきである。」泉判事の指摘を妥当と評価するか、それとも福田判事の反論を適切と評価するかは、諸君の価値観で決まることで、理論的に決定できることではないと思われる。好きな方を採用してくれて構わない。
とにかく、最高裁判所判事の多数は、福田判事の議論を是としたことから、本判決で最高裁判所は、損害賠償として各人に対し慰謝料
5000円の支払を命ずるのが相当であるとしたのである。
四 違法確認の訴えについて
本問で、あえて設問から切り落とした違法確認の訴えについて出題された場合に備えて、以下、簡単に説明しておく。
立法の不作為に関して争う方法は、先にも簡単に述べたが、大きく分けて三つ存在する。
第一は、通常訴訟の一環としてそれを争う方法で、例えば選挙訴訟の一環として、立法の不作為を争った衆議院議員定数違憲訴訟は、その典型である。
第二は、本問に現れた国家賠償訴訟の形でそれを争うことで、ハンセン病事件熊本地裁判決は、その典型であり、本件訴訟もまたその一つとなった。
第三は、直接にその不作為の違憲・無効の確認を求める事である。これは結局、抽象的に立法の違憲の確認を裁判所に求めることを意味するので、一般に、訴訟の要件として具体的事件性を求める限り不可能とされてきた。
本事件で、本問から切り落とした部分は、まさにこの第
3の類型にチャレンジしたものである。そして、本件判決においても、そのような訴訟は不可能という判断は基本的に維持された。第一に問題になったのが、過去の違法確認の訴えである。
「本件改正前の公職選挙法が上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えは、過去の法律関係の確認を求めるものであり、この確認を求めることが現に存する法律上の紛争の直接かつ抜本的な解決のために適切かつ必要な場合であるとはいえないから、確認の利益が認められず、不適法である。」
第二に、しかし、本件の予備的確認請求に係る訴えについては、異なる判断を下した点に、本件判決の非常に大きな特徴がある。従来の考え方を踏襲する限り、これについても結論は代わらないはずなのである。実際、第
1審判決は次のように述べて退けている。「原告らが主張する違法状態を解消するには立法措置によるほかないと考えられるところ、仮に、本件訴えを認容する判決がされたとしても、行政事件訴訟法
しかし、この点に関して、最高裁判所は全く新しい判断を示した。すなわち、
「選挙権は、これを行使することができなければ意味がないものといわざるを得ず、侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない性質のものであるから、その権利の重要性にかんがみると、具体的な選挙につき選挙権を行使する権利の有無につき争いがある場合にこれを有することの確認を求める訴えについては、それが有効適切な手段であると認められる限り、確認の利益を肯定すべきものである。そして、本件の予備的確認請求に係る訴えは、公法上の法律関係に関する確認の訴えとして、上記の内容に照らし、確認の利益を肯定することができるものに当たるというべきである。なお、この訴えが法律上の争訟に当たることは論をまたない。
そうすると、本件の予備的確認請求に係る訴えについては、引き続き在外国民である同上告人らが、次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において、在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることの確認を請求する趣旨のものとして適法な訴えということができる。
そこで、本件の予備的確認請求の当否について検討するに、前記のとおり、公職選挙法附則
これは、新しい一つの方向付けであり、今後、慎重にその射程を検討する必要があると考えられる。これは、一種の絶対的将来効判決でもある。