自制論とブランダイスルール
甲斐素直
Xは、自衛隊が実弾演習をするため、その砲声に驚いて飼育する乳牛が乳を十分に出さなくなったのに腹を立て、昭和XX年12月11日午後3時20分頃、北海道千歳郡恵庭町桜森陸上自衛隊島松演習場内の東南部附近に侵入し、実弾射撃演習の目的で設けられてあつた陸上自衛隊北部方面隊第1特科団第1特科群102大隊第2中隊の加農砲計2門の射撃陣地において同中隊が射撃命令伝達等のため、同中隊射撃指揮所と戦砲隊本部に1台宛設置した野外電話機に接続して両電話機間に敷設した長さ約42m60cmの通信線をペンチを使用して数箇所で切断し、砲と射撃指揮所間の連絡を不可能に陥らせた。問題
野戦砲の場合、射撃指揮所が着弾地点を直接目視により観測し、電話で野戦砲に射撃方法の修正を指示することで、はじめて訓練としての意味が生ずる。その意味で、野戦砲と射撃指揮所を繋ぐ野戦電話線は、野戦砲の不可欠の一部ということができるとして、検察側は、
Xを、自衛隊法121条「自衛隊の所有し、又は使用する武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物を損壊し、又は傷害した者は、五年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。」に該当するとして起訴し、刑法上の器物損壊罪については、これが自衛隊法121条と観念的競合にあたることから、起訴しなかった。Xは、これに対して、自衛隊法121条を含む自衛隊法全般ないし自衛隊等が憲法9条に違反し、したがって自衛隊法違反の点については無罪である旨を主張した。
それに対し、裁判所は、次のように述べた。
Xの行為について、自衛隊法121条の構成要件に該当しないとの結論に達した以上、もはや、X指摘の憲法問題に関し、なんらの判断をおこなう必要がないのみならず、これをおこなうべきでもないのである。」「一般に、刑罰法規は、その構成要件の定め方において、できるかぎり、抽象的・多義的な表現を避け、その解釈、運用にあたつて、判断者の主観に左右されるおそれ(とくに、濫用のおそれ)のすくない明確な表現で規定されなければならないのが罪刑法定主義にもとづく強い要請である。その意味からすると、本件罰条にいわゆる『その他の防衛の用に供する物』という文言の意義・範囲を具体的に確定するにあたつては、同条に例示的に列挙されている『武器、弾薬、航空機』が解釈上重要な指標たる意味と法的機能をもつと解するのが相当である。すなわち、およそ、防衛の用に供する物と評価しうる可能性なり余地のあるすべての物件を、損傷行為の客体にとりあげていると考えるのは、とうてい妥当を欠くというべきである。
そして、およそ、裁判所が一定の立法なりその他の国家行為について違憲審査権を行使しうるのは、具体的な法律上の争訟の裁判においてのみであるとともに、具体的争訟の裁判に必要な限度にかぎられることはいうまでもない。このことを、本件のごとき刑事事件にそくしていうならば、当該事件の裁判の主文の判断に直接かつ絶対必要なばあいにだけ、立法その他の国家行為の憲法適否に関する審査決定をなすべきことを意味する。
したがつて、すでに説示したように、
この裁判所の見解の憲法上の当否について論ぜよ。
[はじめに]
被告人数を
1人にするなど、事例を簡略化してあるが、その他の点では、恵庭事件札幌地裁判決(昭和42年3月29日=百選第5版374頁LEXDB27681462)の判決をそのまま紹介してある。事件と判決の内容について若干補足すると、電話線切断という明白な器物損壊にもかかわらず、検察側では、刑法の器物損壊罪では起訴せず、自衛隊法
121条の防衛器物損壊罪のみで起訴した。両者は観念的競合になるから、防衛器物損壊罪が成立する限り、刑法の器物損壊罪で起訴する実益はない。防衛器物損壊罪が否定された場合にのみ、器物損壊罪でも起訴する実益が生ずることになる。野戦砲の場合、射撃指揮所が着弾地点を直接目視により観測し、電話で野戦砲に射撃方法の修正を指示することで、はじめて訓練としての意味が生ずる。その意味で、野戦砲と射撃指揮所を繋ぐ野戦電話線は、野戦砲の不可欠の一部ということができる。少なくとも検察側はその様に解釈した。しかし、裁判所は、例示されている『武器、弾薬、航空機』のいずれに類するものでもない、という理由から、電話線切断行為の防衛器物損壊罪の構成要件該当性を否定したのである。このように、法律の解釈段階で無罪という判断が下った場合に、その法律が合憲か違憲かを判断する必要があるか。これが本判決の最大の問題点である。
一 自制論
違憲審査権に関しては、基本的に二つの見解が存在しうる。司法積極説と司法消極説である。裁判所として、違憲立法審査権を行使するにあたっては、積極的に当事者の主張を待たずして違憲審査をするのが妥当なのか、それとも当事者が違憲主張をした場合でさえも、消極的に違憲審査をする場面を限定するのが妥当なのか、hという問題である。
米国の連邦最高裁における違憲審査は、司法積極主義で出発したといって良い。当事者のいずれもが、そもそも裁判所が違憲審査を行うことを予定していなかったマーベリ対マディソン事件、南北戦争を結果として引き起こしてしまったドレッド・スコット事件は、いずれも司法積極主義に立っていた。
特にそれが顕著に表れたのが、ルーズベルト大統領のニューディール政策に対する一連の判決である。
1935年1月から翌年の5月までのわずか1年半の間に、12の法律に対して、相次いで違憲無効を宣言し、ニューディール政策を壊滅に追い込んだ。これに対して国民から強い批判の声が挙がり、1936年11月に行われた大統領選挙では、連邦最高裁の改革を叫んだルーズベルトは地滑り的大勝利をあげた。この勝利を前にして、連邦最高裁はルーズベルトの前に膝を屈し、以後、いわゆるルーズベルト・コートが誕生することになる。この事件をアメリカでは憲法革命と呼んでいる。これ以前の連邦最高裁はオールド・コート、これ以後、今日までの連邦最高裁はニュー・コートと呼ばれる。今日の米国連邦最高裁の判例を作り出したニュー・コートは、そうした過去の判例に対する批判に立脚する形で、司法消極主義を是とするスタンスを示すに至った。すなわち、形式的には違憲審査が可能な場合にも、裁判所としては、一旦はその行使を自制すべきだとするスンタンスである。何故そういう考え方を示すのであろうか。以下、芦部信喜が『憲法訴訟の理論』(有斐閣昭和
48年刊)で説くところにしたがって、簡単に説明したい(以下の文中「」内は、いずれも同書30頁以下からの引用)。(一) 裁判所の非民主性
芦部信喜が指摘する第一の点は、裁判所の非民主性である。
「裁判所は本来非民主的な機関であるから、国民の代表者(多数者)の意思を最大限に尊重し、法律の『賢明さ又は弊害』ではなく『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を探求すべきである、という理論的理由である」
ここで指摘されている点は重要である。諸君は、違憲審査基準というと合理性基準を思い出すであろう。何故合理性が審査基準になるのか、ということに対する答えがこれである。すなわち、文字通りの司法消極主義を貫いている狭義の合理性基準はもとより、司法積極主義として説明される厳格な審査基準も、それが合理性基準である限りにおいて、基本的に自制説に立つ基準であるということを、ここで理解してほしい。
また、この合理性の探求という事は、審査にあたり、可能な限り合憲と解釈する道を探るべきである、ということを意味する。例えば都教組事件(最大昭和
44年4月2日=百選第5版442頁参照)に代表される合憲解釈は、この点を根拠としているのである。(二) 国民の信頼確保の必要性
この見出しは、私が考えたもので、芦部信喜の用語ではない。しかし、以下に述べていることを要約すれば、こう表現できるであろう。
「最高裁の憲法裁判の権威は、国民が最高裁は『いかなる欠点を持とうとも、…抽象的な憲法上の命令を具体的なそれに変えうるもっとも客観的な、公平な、また信頼するに足る管理者であると考え』るところに究極の根拠があるのだから、最高裁がもし多数者の意思に余りにも反対するなど、『みずからの慎重さによってのみ拘束される…おそろしい権力(司法審査権)』を積極的に行使すべきだとすると、最高裁の客観性と公平さに対する国民の信頼は傷つけられ、司法部の積極的な発言も、結局『混沌たる状態の中ではほとんど尊重されない』から、最高裁の権威は低下し、その実効的な活動は阻害される。このような他権力との衝突を避けるためには、自己制限の技術に訴えることが必要である、という理由である。」
このうちで、『』の部分の最初のものは、米国連邦最高裁判所における自制論の旗頭というべきジャクソン判事の、第
2の箇所は同じく著名な自制論者であるフランクファータ判事の、そして第3の部分は再びジャクソン判事の言葉の引用である。ここで述べられていることは、ある意味では逃げの姿勢で、学生諸君は汚いと感じるかもしれない。しかし、オールド・コートが強硬な司法積極主義路線を貫いた結果、連邦最高裁判所改組論を唱えたルーズベルトの大統領再選に米国民が圧倒的な支持を与え、その世論の力の前に、主要な司法積極主義者達が連邦最高裁判事の辞職に追い込まれ、オールド・コートに終止符が打たれた、という米国憲法史を想起するならば、これもまた、もっとも弱い統治機構である裁判所が、その権威と権力を守るための大事な法技術であることを否定することはできない。
(三) 他の国家機関活動に対する信頼性
このように表題をつけたが、これは次に引用した芦部信喜の文章のもっぱら後半部分に焦点を置いたものである。
「自制論が以上の論拠に付け加えて、重大な憲法事件での合憲性は事件をめぐる事実(
この引用文は、諸君が学ぶ憲法訴訟論の多くの部分に関する根拠を示している。
第
1〜2行目で言われていることは、立法事実論の根拠である。第一の根拠で、『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』がポイントであると述べた。その合理性の有無は、当然、その判断を支える具体的事実が存在するか否かできまるということが、この文章の述べていることである。そして、そのような立法を支える具体的な事実のことを、立法事実(Legistative Facts)というのである。その次に来る『』で示されるフランクファータ判事の見解は、付随的憲法訴訟が何故妥当かという点に関する根拠の一つでもある。付随的憲法訴訟となぜ考えるのか、という点について、学生諸君は、米国法の継受とか、司法の章に規定されていること、など形式的根拠を主として上げる傾向があるが、このカギ括弧内の実質的根拠も覚えて、記述するようにすれば、いっそうの加点が期待できる。
そして、フランクファータ判事の
2番目の言葉が、表題に上げた点である。この機会に、小売市場最高裁判所昭和47年11月22日判決(判例百選第5版204頁参照)を改めて読み返してほしい。そこで言われているのが、まさにこのことであることが理解されよう。芦部信喜が、その著作で述べているのは以上
3点である。だから、諸君が論文で自制論を展開する場合に指摘するのも、以上の3点で十分である。しかし、上記の点と若干重複するが、何人かの学者がそれ以外の点も指摘しており、それを知っておくことも、諸君の知識の整理に役立つと思われるので、以下、紹介する。(四) 裁判所の情報収集力及びその判断力の弱さ
裁判所が、活動を自制すべき根拠の重要な一つに、司法権の作用と機能には、その特有の手続的な制約があることがある。つまり、例えば民事訴訟における当事者主義、刑事訴訟における「起訴状一本主義」(刑事訴訟法
256条6項)などの原則の下に、主張、立証は原則としては当事者の訴訟活動に委ねられ、裁判所が職権をもつて証拠などの取調をする場合も補充的なものにすぎず、かつ、その裁判の執行方法も限定されていることである。この結果、裁判所はその組織の特質として、憲法判断に必要な広範囲の社会的利害に関係した資料を入手するのに適していないのである。ブランダイスルールは、その第一ルールにおいて、次のように述べる。
「最高裁は、友宜的・非対決的な訴訟手続においては、立法の合憲性の判断を下さないであろう。この拒絶は以下の理由による。そのような問題を決めることは、『万策尽きた場合に限って、そして、個人間の真剣で熱心で活力に満ちた争訟の決定に当たり不可欠とされるときに正当性をもつ。立法部において破れた者が、友誼的訴訟を用いて当該立法行為の合憲性に関する吟味を持ち込めるということは決して予期されていなかった。』」(『』は米連邦最高裁判所判決の引用)
そこで述べられていることの特に前半は、まさに司法府における事実調査能力の限界と密接な関連があるといえる。
(五) 憲法判断内容の社会的妥当性
法律、命令規則等に対する違憲審査権の行使の結果に伴なう政治的、社会的あるいは経済的影響力のもつ意味は予測しにくい、微妙なものがある。従って、憲法上の争点についての公権的な解決は、社会のなかで様々な観点から議論が尽くされ、論点が煮詰まり、明確化するのを待ってするのが妥当なことである。
ここで述べていることは、芦部信喜が指摘した第
2の点の別の表現である。しかし、ここまで掘り下げて表現して、はじめて意味が通じるところもあると考え、紹介した。例えば、平成
5年9月21日に、最高裁第3小法廷(園部逸夫裁判長)が、死刑合憲判決を下した(判例集未搭載)。その判決の中で、大野正夫判事が補足意見を書いている。それを簡単に要約すると、「死刑を合憲とした昭和23年の最高裁大法廷判決からの45年間に、死刑廃止国の増加や再審無罪など重大な変化が生じ、死刑が違憲と評価される余地は著しく増大した。」として、死刑廃止に向かう国際動向と、世論調査では存続論が多数を占める国民意識が大きく隔たっている事を「好ましくない」として漸進的な死刑廃止方法を提案しつつ、そうした世論の存在に加え、死刑判決に慎重な裁判所の姿勢を上げ、「今日の時点において死刑を違憲と断ずるにはいたらない。制度の存廃や改善は立法府にゆだね、裁判所としては厳格な基準の下に、限定的に死刑を適用するのが適当」としたのである。すなわち、大野判事は、裁判官個人の主観的良心としては、死刑廃止を正義としつつ、世論の支持の欠如という事を理由として、死刑合憲という意見を示したのである。ここに、国民の間で意見の分かれている問題については、裁判所はその意見の表明を自制するという姿勢が端的に見て取ることができる。最高裁判所は、民法の非嫡出子相続分差別規定について合憲という判断を下した(平成
7年7月5日=百選第5版64頁参照)が、そこでも、同条項の改正に消極的な国民世論の動向が影響を与えていたと言えるであろう。もちろん、このようなスタンスが、常に妥当性を有するわけではない。世論に抗しても、社会正義を明確に示し、世論をその方向に誘導しようと務めることもまた、最高裁判所の重要な使命なのである。ただ、原則的には自制するのが妥当というのが、ここで述べている話のポイントである。
二 憲法判断回避の準則
裁判所による違憲立法審査権の行使に関し、上述のとおり、裁判所の非民主性等を根拠に、自制説=司法消極説が妥当すると考えた場合、ここから司法判断回避の準則が導かれる。例えば、百里基地訴訟において、東京高裁昭和
56年7月7日判決(民集43巻6号590頁=LEXDB27431916。この事件の最高裁判決については百選第5版380頁参照)は、次のように述べた。「我が国憲法のもとでそれ(注=違憲立法審査権)が司法裁判所に与えられているのは、具体的訴訟事件の解決という司法の使命を達成するためであつて、憲法の有権解釈それ自体のためではない。したがつて、裁判所は、具体的訴訟事件の解決を離れて法令等の合憲性を審査する一般抽象的な権限を有するものではない。しかも、この権限は、極めて重大で、かつ、微妙な判断作用を伴うものであるから、他に特段の事情がない以上、その行使は、具体的訴訟事件の解決に必要・不可避な場合に限り、しかも、その限度においてのみ、正当化されるのであつて、たとえ憲法問題が記録上適法に提起され、この点の審理が行われた場合であつても、単なる当事者の希望や憲法判断の理論的先行性の故をもつて右の権限を行使することは、許されないものというべきである。」
もちろん、これは絶対的な準則ではない。違憲立法審査権は、確かに一方において具体的事件において私権の保障の為に存在している。しかし、憲法訴訟の今ひとつの重要な意義に憲法保障機能があることもまた疑う余地がない。裁判所が、この権限の行使をあまりに自制しすぎれば、それが裁判所に与えられた憲法保障機能という意義を失わせる恐れもあるのである。戸波江二は次のように主張する。
「司法積極主義にも相応の理由があるので、憲法判断回避のルールはいちがいに否定されるべきではないが、憲法判断を回避するかどうかは最終的には裁判官の判断に委ねられていると解される。そして、違憲審査制が個人の権利保障を超えて、憲法秩序の保障にも資することをも考慮すれば、憲法判断を示すことに十分な理由がある場合には、事件の解決にとって不必要な憲法判断を行うことも許されよう。」
(戸波『憲法』新版
しかし、学生諸君としては、単に裁判官に任されているといわれては、論文にどう書くべきか悩むであろう。少なくとも、憲法判断回避が準則だ、といわれる以上は、こちらが原則であり、司法積極主義を採用するのが例外となるはずである。何故そうなのかという理由を論文に書かないと、点にはならない。これについては、高橋和之が判り易く説明している文章があるので、紹介する。
「日本国憲法
だから、原則として司法判断を回避しつつも、個々の場合においては、裁判官は勇気をふるって司法積極主義に依るべき場合もあるのである。芦部信喜は、自制論の旗頭であるフランクファータ判事が、法の下の平等や手続的デュープロセスに関する事件では、司法積極論者に同調している事を紹介している。長沼事件札幌地裁昭和
48年9月7日判決(民集36巻9号1791頁=百選第5版376頁参照)は、わが国で、司法積極主義を採用した数少ない判例である。同判決は、その根拠を次のように述べている。「(憲法判断回避)の原則は、いつ、いかなる場合にも、裁判所が当事者の主張のうち憲法違反の主張については最後に判断すべきであるとまでいうものではない。むしろ、わが国は、憲法を中心とする法治国家であるから、立法、司法、行政の三権はいずれも憲法体制、あるいは憲法秩序のなかでその権限を行使しなければならないのであつて、それら三権のなかでも司法権だけが法令等の憲法適合性を最終的に判断する権限と義務をもつているのであるから、裁判所は具体的争訟事件の審理の過程で、国家権力が憲法秩序の枠を越えて行使され、それゆえに、憲法の基本原理に対する黙過することが許されないような重大な違反の状態が発生している疑いが生じ、かつその結果、当該争訟事件の当事者をも含めた国民の権利が侵害され、または侵害される危険があると考えられる場合において裁判所が憲法問題以外の当事者の主張について判断することによつてその訴訟を終局させたのでは、当該事件の紛争を根本的に解決できないと認められる場合には、前記のような憲法判断を回避するといつた消極的な立場はとらず、その国家行為の憲法適合性を審理判断する義務があるといわなければならない。〈中略〉なぜならば、もしこのような場合においても、裁判所がなお訴訟の他の法律問題だけによつて事件を処理するならば、かりに当面は当該事件の当事者の権利を救済できるようにみえても、それはただ形式的、表面的な救済にとどまり(同一の紛争がまた形を変えて再燃しうる)、真の紛争の解決ないしは本質的な権利救済にならないばかりか、他面現実に憲法秩序の枠を越えた国家権力の行使があつた場合には、裁判所みずからがそれを黙過、放置したことになり、ひいては、そのような違憲状態が時とともに拡大、深化するに至ることをもこれを是認したのと同様の結果を招くことになるからである。そして、このことは、さらに本来裁判所が憲法秩序、法治主義(法の支配)を擁護するために与えられている違憲審査権を行使することさえも次第に困難にしてしまうとともに、結果的には、憲法第
これもまた、疑う余地の無い真実である。恵庭事件のように判断を回避するのが妥当なのか、それとも、この福島判決のように積極的に踏み込むべきか、法曹は常にこの二つの命題の間にあって真剣に悩むべきである。
三 ブランダイスルールと恵庭事件
(一) ブランダイスルール
ある事件に際して、憲法判断回避準則を適用するのが妥当であると判断された場合において、具体的に、どのような場合には、どのような基準で判断すべきであろうか。この点に関する米国連邦最高裁の判例を集大成したものとして有名なのが、米国連邦最高裁のブランダイス(
L. Brandeis)判事が、アシュワンダー対テネシー渓谷開発公社事件判決(297 U.S.288(1936))の中で、補足意見として述べたブランダイスルールである(これについて、詳しくは渋谷秀樹『憲法訴訟要件論』信山社1995年刊、255頁以下参照)。ブランダイスルールは、全部で
7つの項目から成り立っているが、本問で問題となるのは、第4ルールと第7ルールである。上記渋谷の翻訳文を紹介すると次のとおりである。第
第
7ルール:『連邦議会の制定法の有効性が問題とされたときは、合憲性について重大な疑念が提起されている場合でも、当最高裁は、その問題が回避できる当該法律の解釈が十分可能か否かをまず確認することが基本的な原則である。』(二) 恵庭事件判決とブランダイスルール
この二つのルールは、内容において類似性が高く、どう違うのか、紛らわしいところがある。これは決して諸君だけが悩む問題ではなく、一流の学者の間でさえも、判断に迷うところがあるのである。すなわち、恵庭事件で、裁判所が述べたのはいったいどちらのルールなのか、ということを巡って、芦部信喜、高橋和之、佐藤幸治のそれぞれ示している見解にずれがあるのである。
芦部信喜は、第
7ルールだという。「この判決は、違憲か合憲かの判断を一切しておらず、その意味では法律を厳格解釈して『法律の合憲性に対する疑い』を回避した判決である。」
(芦部信喜『憲法』
これに対し、高橋和之は第
4ルールだという。「恵庭型では、憲法判断は全く行われない。ここでは、法文が合憲的部分と違憲的部分(あるいは違憲の疑いのある部分)を含んでいるわけではない。つまり、規制自体は許されるとしても規制の及ぶ範囲が広すぎるのではないか、ということが問題になっている型ではないのである。ゆえに、構成要件に限定解釈をほどこしたとしても、それにより自衛隊法
そして、佐藤幸治は、両者の中間的な、折衷説ともいうべき見解を示す。
「これは、上述したブランダイス裁判官の明示した『憲法判断回避の準則』のうちのCの準則にかかわるが、Fの準則も、イ『法律の違憲判断の回避』(純粋の合憲解釈)とロ『法律の合憲性の対する疑いの回避』という二種類のものを含んでいるといわれており、そうするとこのロとも関係している。ただ、ロは『疑いの回避』の程度で憲法判断をしているのに対し、Cの準則は、当該法律の違憲ないし違憲の疑いの除去を直接の目的とするのではなく、文字通りの憲法判断の回避であり、これを狭義の憲法判断の回避と呼ぶことにする。〈中略〉この判決(注=恵庭事件判決)は、狭義の憲法判断回避によったものといえる。ただ、裁判所が審理の過程で自衛隊の実態に関心を示したところがあり、かつ自衛隊法
なぜ、このような見解の対立が生ずるかというと、上記佐藤幸治の説明にあるとおり、第
7ルールに関しては、表現が複雑で、内容的に複数のものが含まれているからである。芦部信喜も、それは「法律の違憲判断の回避」と「法律の合憲性に対する疑いの回避」の二つから成り立っているという(芦部信喜前掲『憲法訴訟の理論』300頁)。芦部信喜は、そこでは第7ルールの典型といわれるNLRB v. Jones & Laughlin Steel Corp.事件を紹介しつつ、次のように述べる。「ここでは、違憲性から『法律を救済する』ことと『重大な疑いを回避する』こととは、観念的には区別されている。前者は文字通りの『合憲解釈のアプローチ』であり、そこでは原則として合憲判断を行うことが前提とされている。ところが後者は、ある法令の条項について甲という解釈をとればその合憲性について重大な疑いが生ずるので、少なくともその解釈だけはとらない、というような場合を指すと考えられるので、そこでは右法条にたいする明確な合憲判断は原則として前提になっていない。甲という違憲になる可能性の強い解釈は排除されたが、そのほか、たとえば乙という解釈をとっても『重大な疑い』が生ずるのか、合憲解釈としては丙という解釈を採用しなければならないのか、しかし丙という解釈が合理的に成立する可能性がはたしてあるのか、というような点は原則として未解決の状態におかれ、したがって当該法令そのものの合憲・違憲については何ら触れられていないからである。」
このように、一流の学者の間でさえ、判断が異なる問題なのであるから、諸君の論文のレベルにおいて、第
4と第7のいずれが正解である、ということはありえない。ただ、論文を書くにあたっては、明確に、理由を添えて答えるべきである。特に、芦部説による場合には、教科書の記述はあまりに単純で理由が不足しているので、ここに紹介したところを参考に、自分なりの説明方法を工夫しておいてほしい。
(三) 恵庭判決の問題性
恵庭事件判決には、もう一つ大きな憲法学上の問題がある。付随審査制ということから直ちに違憲審査は「当該事件の裁判の主文の判断に直接かつ絶対必要なばあい」にだけしかできない、という結論を導いている、という点である。先に述べたとおり、憲法訴訟の意義は、決して私権の保障に尽きるのではなく、憲法秩序の保障もまた重要な使命である。そう考えると、この判決のこの点は明確な誤りであるというべきであろう。早い話、このような考え方からは、文面審査、文面違憲というような憲法判断は決して導かれないのである。恵庭事件判決に機械的に賛同すると、このような落とし穴が待っていることに注意してほしい。今ひとつ紹介した百里基地訴訟東京高裁判決の場合には、類似した言い回しではあるが、その前に「他に特段の事情がない以上」という留保を付している点で、辛うじてこのような批判を免れる構造になっている。