条例による財産権の制限

甲斐素直

問題

 Y県では、昭和○年に「ため池の保全に関する条例」を制定した。同県は、他県と異なり、これという河川がないため、農業用水はもっぱらため池に頼っている。このため県下には合計13,000に上るため池があるが、これらため池は、田畑に灌漑用水を流下させる目的から、一般に高所に設けられているため、その提塘が破損、決壊した場合には、その災害が単に所有者にとどまらず、一般住民および滞在者の生命、財産にまで多大の損傷を及ぼすものであることにかんがみ、その破損・決壊を防止する目的で制定されたものである。

 Y県A村のため池B池は、A村在住の農民の総有に属しており、その提塘も代々耕作の対象となっていたが、同条例の施行により、B池提塘での耕作が禁じられることになった。しかし、A村の農民であるX等は、条例施行後も引き続き農作物をB池の提塘に植えていたため、同条例4条二号違反で起訴された。

 これに対し、X等は、憲法292項により、財産権の制限は法律で行う必要があるところ、本件条例は財産権の使用を制限するものであるから違憲・無効である。また、憲法292項が財産権の法定を規定したのは地方によって財産権の内容が異なってしまうような事態を防ぐものであって、その趣旨からも条例によって財産権が制限されるのは違憲である。したがって無罪であると主張した。

 X等の主張の憲法上の当否について論ぜよ。

資料

ため池の保全に関する条例

昭和○年○月○日

Y県条例第38号

第一条(目的) この条例は、ため池の破損、決壊等による災害を未然に防止するため、ため池の管理に関し必要な事項を定めることを目的とする。

第二条(用語の意義) この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

一 ため池 灌漑の用に供する貯水池であつて、堰堤の高さが3m以上のもの又は受益農地面積が1ヘクタール以上のものをいう。

二 管理者 ため池の管理について権原を有する者をいう。ただし、ため池の管理について権原を有する者が二人以上あるときは、その代表者をいう。

第三条(適用除外) この条例中第五条から第八条までの規定は、国又は地方公共団体が管理するため池については、適用しない。

第四条(禁止行為等) 何人も、次の各号に掲げる行為をしてはならない。ただし、第二号に掲げる行為のうち、知事がため池の保全上支障を及ぼすおそれがなく、かつ、環境の保全その他公共の福祉の増進に資すると認めて許可したものは、この限りでない。

一 ため池の余水吐の溢流水の流去に障害となる行為

二 ため池の提塘に竹木若しくは農作物を植え、又は建物その他の工作物(ため池の保全上必要な工作物を除く。)を設置する行為

三 前二号に掲げるもののほか、ため池の破損又は決壊の原因となる行為

第五条〜第八条 略

第九条(罰則) 第四条の規定に違反した者は、20万円以下の罰金に処する。

[問題の所在]

(一) 問題の性質から、論点は大きく二つに分かれる。一つは、憲法92条と94条の関係に関する解釈論である。今一つは29条の制度的保障の意義である。

(二) 地方自治に関し、かつての通説・判例は、今日「狭義の伝来説」と呼ばれる説を採用していたが、今日では制度的保障説が通説となっていることは、諸君の知るとおりである。面白いことに、29条でも通説的には制度的保障という概念が問題となる。だから、この二つの制度的保障について、それぞれ、その侵すべからざる中核は何か、という議論に関する論点を要領よくまとめていけば、本問の論文ができあがることになる。

 地方自治に関する議論の流れをごく簡単に説明すると、次のようになる。地方自治の憲法学上の理解に関しては、大きく狭義の伝来説と制度的保障説の対立がある。今日では、狭義の伝来説を採る学者がいるとは思えないので、“あった”というべきかもしれない。

 本問における最大の論点は、条例制定権を、憲法92条で読むか、あるいは94条で読むか、である。換言すれば、地方自治制度を狭義の伝来説で読むか、制度的保障説で読むか、である。すなわち、狭義の伝来説をとる場合には、地方公共団体の条例制定権は94条に基づいて生ずると考える。これに対して、制度的保障説をとる場合には、92条の「地方自治の本旨」という言葉の解釈で、既に生じており、94条は単にそれを確認し制限しているだけだと考えることになる。この結果、92条が最大の論点となる。

 この対立を、ごく簡単に図式化すると、狭義の伝来説は、中央政府と地方政府の関係を図1のように理解していると言える。

 図1 狭義の伝来説における国と地方の関係

中央政府立法権―――――→地方自治体立法権

 国家主権 中央政府行政権―――――→地方自治体行政権

中央政府財政権―――――→地方自治体財政権

 すなわち、自治権は、法律によって成立するものであり、地方自治体の持つ権限は、いずれも中央政府のもつ権限の延長線上に理解される。例えば、自治体の立法権は憲法41条の枠内で理解される。だから、それは基本的に委任立法であり、その意味で内閣の命令制定権と同視される。ただ、自治体には、それ独自の民主的基盤があるところから、命令では委任の範囲の逸脱とされるような場合にでも、許容される場合があると論じられる(どの範囲まで許容されるかについては、説の対立がある)。

 しかし、平成11年の地方自治法大改正により、委任の根拠として活用されていた地方自治法23項が全面改正され、多数の権限例示がすべて削除された結果、今日では、狭義の伝来説を採ることは不可能になった(正確にいえば、採るためには地方自治法が違憲という必要が生じた)。

 それに代わって、今日の通説・実務となった制度的保障説は、同様に簡単に図式化すると、国と地方の関係を図2のように理解していると言える。

 図2 制度的保障説における国と地方の関係

   立法権

中央政府 行政権

   財政権

 国家主権

自主立法権

地方政府  自主行政権

自主財政権

 すなわち、現行憲法は、国と地方を分け、国による地方自治体に対する干渉を禁止していると考える(団体自治)。そして、団体の自主権限として、その固有の権限として自主的な立法、行政、財政の各権限が、憲法92条によって地方団体に与えられると考える。言葉を換えていれば、憲法92条にいう中央政府の立法権は、こうした自治権を侵害しないように制定されなければならないと考える。

(三) 憲法29条は、財産権に関する制度的保障の原則を定め、2項はその限界を法律により定めることを予定している。ここに言う法律に条令が含まれるか、という問題が本問の前半の論点である。かつて奈良県ため池条例判決(最判昭和38626日大法廷=百選第5216頁)によって有名になった論点である。本問は、その事件に基づいて作問したものである。資料にあげた条例は、奈良県のため池条例そのものである。

 本問後半に関しては、二つの論点をあげるべきであろう。第1は、法定事項に対する条例の制定権というものであり、第214条との関係における論点である。

 

一 国民主権と地方自治の関係

 地方自治に関するもっとも根本的な問題点は、近代市民社会憲法がその基本原理とする国民主権と地方分権という発想とは、基本的に敵対関係にある、という点である。したがって、憲法において地方自治を論ずる場合、国民主権と矛盾しない形で、いかにして地方自治を導くかが、第一の論点となる。

(一) 地方自治の今日的重要性

 封建国家というものは、どこの国においても徹底した地方分権制度を採用していた。それを否定して誕生したのが、近代市民国家であるから、近代国家は、基本的に地方自治を否定しようとする傾向が強い。その段階から、今日の地方自治理念に至る道は、同じように国民主権原理から初期において敵視されていた政党に関するトリーペルの主張と同じく、次の4つの段階に分けて理解するのが妥当と考える。

  1 地方自治の敵視段階

 近代国家の理論的支柱である国家主権概念は、主権をもって単一、不可分であることを強調する。換言すれば国民主権は、分有主権を否定するから、中央集権を基本的に要請する。例えば、日本の場合、廃藩置県が、明治における近代化の一つの里程標とされるのはそのためである。政治学的にいうならば、法学における主権論は、地方自治を否定するために構築されたということができる。

 この結果、近代国家の初期においては、地方自治は国民主権と両立しないものと考えられていた。例えば近代市民国家の祖であるフランスでは、ミッテラン大統領時代に積極的に地方分権化構想が推進されたにも拘わらず、相当徹底した中央集権制度が今日においても採用されている。

  2 地方自治の黙認段階

 通信手段の未発達な近代において、しかし、徹底した中央集権は不可能であったため、事実上、地方に権限を授与し、地域団体における統治を承認せざるを得ない状態が生まれてきた。

  3 地方自治の法制化段階

 当初は、単なる慣習法的に認められるに至った地方自治は、さらに議会の立法上も明確に承認されるようになってくる。しかしたとえ法制化されたところで、この段階までの地方自治は、中央集権の例外現象であるにすぎなかった。例えばイギリスの場合、地方自治体の設立や廃止も含めて、個々の地方自治体の自治権の内容は、すべて中央政府の議会が法律により自由に決定できる。法律によって与えられていない権限を地方公共団体は行使できない。これを英国では権限逸脱(Ultravires)の法理と呼ぶ。

  4 地方自治の憲法編入段階

 決定的な変革は、第2次大戦を通じて現れる。人類に戦争の惨禍をもたらした全体主義の経験は、中央集権体制が全体主義に対して本質的に脆弱であることを人々に認識させた。そして、地方自治が、権力の均衡と抑制のシステムの中で、それを補完する機能を有することが認識されるようになった。そして、ドイツにおける不幸な経験は、法律レベルで地方自治を保障している限り、中央政府が、自治権を侵害する法律を制定することで、容易に蹂躙し得ること、その結果、全体主義への抑止力とはなり得ないことを教えた。すなわち、全体主義を効果的に抑止するためには、単に地方自治が保障されているだけでは足りないのであって、これを憲法レベルで保障する必要があることが明らかになったのである。

 こうして、第2次大戦後の各国憲法は、地方自治を憲法レベルで保障するのが普通となってくる。特に重要なのが、EC(現EU)が欧州地方自治憲章を1985年に制定して加盟国に地方自治尊重を義務づけ、また、地方自治体の世界的組織である国際地方自治体連合(IULA)がトロントで1993年に開催された世界大会で世界地方自治宣言を採択したことである。これらの結果、近時において制定される憲法では、いずれも憲法レベルで地方自治が保障されるにいたっている。わが国現行憲法は、こうした地方自治の憲法編入という大きな流れの、もっとも初期における立法例として、世界に誇るにたる存在である。

(二) 地方自治権の根拠理論

 ここからが諸君の論文に書かねばならないポイントである。

 自治権については、それが地方自治体が本来保有しているところの固有の権利である、という考え方(固有権説)と、国から与えられたものである、という考え方(伝来説。受託説ともいう。)の二つの基本的な考え方がありうる。封建体制における地方自治では、個々の大名がその領国を自由に支配する権限を有しており、それがその固有の権利であることは明らかである(固有権)。それに対して、その封建体制を打破して生まれた近代市民国家が誕生した以降においては、国家が単一にして不可分な権力の源泉であるという基本的な考え方自体は疑う者はないから、今日の地方自治は伝来説によって理解するほかはない。固有権説は連邦国家における各州の権限を説明する理論としてのみ該当する。

 しかし、伝来説を基本として採用する場合にも、中央政府の地方自治に対する影響力の行使をどの程度に考えるかについては、説の対立が存在する。分説すれば次の通りである。

  1 狭義の伝来説

 憲法92条は、地方自治について「法律で定める」ことを予定している。この結果、戦前までの、基本的に地方自治を敵視する思想を有する憲法学であれば、当然に地方自治の範囲は、法律で自由に決定しうると結論づけられることとなる。戦後において、最初期の通説はそうであり、判例及び実務もこれにしたがっていた。学説においては、例えば柳瀬良幹のようにかなり後までこの説を唱える学者がいた。

 しかし、平成11年の地方自治法大改正により、この説と実務のつじつまを合わせる上で重要な役割を果たしていた地方自治法23項の列挙事項が全面的に削除されてしまったために、今日においてはこの説を実務上採用することは不可能になった(採用するには、地方自治法が違憲であるという主張を行う必要があるが、それは学者ならばともかく、実務家法曹をめざす諸君には不可能という意味である。)。

  2 制度的保障説

 狭義の伝来説を採る場合には、地方自治を単に法律で保障するに止めず、わざわざ憲法に編入した意義は大幅に削減される。そこで、その点を直視して、制度的保障説が登場した(成田頼明「地方自治の保障」『日本国憲法体系』第5巻、有斐閣昭和39年刊参照)。つまり、昭和39年より前の判例は、本質的に制度的保障説を知らないのである。したがって、これより前の判例(判例百選に掲記されているものとしては、大阪売春取締条例判決=最判昭和331015日=百選第572頁、奈良県ため池条例判決=最判昭和38626日=百選第5216頁、それに本問のベースとなった東京都特別区の地方自治体性に関する判決等)をこの説から理解することは、本質的に不可能である。それらの判例は、いわばその歴史的意義等から掲記されているものであるから、諸君が、判例に盲従しさえすれば無難という事なかれ主義的発想から、不用意にこれら古い判例の論理を記述すると、総論部分で書いている制度的保障論と、論理矛盾を起こし、大幅減点の原因になる危険が高いので注意しよう。

 これは現在の通説であり、実務なので、その内容については後で詳しく説明する。

  3 新固有権説

 制度的保障説は、基本的に伝来説であるため、例えば、法律と条例とが同一問題について規定をおいた場合には、自動的に法律が優越するといういわゆる法律先占論などが解釈上導かれるなど、保障の範囲がはっきりしないという弱点を有している。

 そこで、さらに地方自治の強化を図り、国からの干渉を理論的に排除するための説が工夫されることになる。これらの説は、本来の固有権説とは異なり、自治権が国から伝来してくること自体は承認するのであるが、全く別個の理論により、地方自治権を固有権的に説明しようと努力するという共通点を有する。そこで「新固有権説」と総称されることになる。ただし、これは、互いに相矛盾する要素を持った様々の学説の総称であって、統一的な理論ではない点に注意する必要がある。学生諸君の場合には、これらの説のどれかを採っている人はあまりいないと思われるので、本講では、個々の説の詳細についての説明は割愛する。代表的な見解を次に示すので、その中のどれかに特に関心を持った人は、紹介した学者の著述を読んでほしい。 

  (1) 人民主権説(例えば杉原泰雄)

 我が憲法は、国民主権説に換えて、社会契約説を根拠とする人民主権説を採用していると説き、そこから地方自治を説明する。すなわち、人民主権説を採る場合には、地方自治体は、その地域住民の社会契約によって成立しているという意味で、国家と同一の構造を持ちうるから、国からの伝来ではなく、自治体固有の権限として自治権を是認しうる。

  (2) 納税者基本権説(例えば北野弘久)

 憲法は地方公共団体を一種の統治団体として承認していると理解し、それを根拠として地方公共団体に一定の固有の財政権を付与しているものとする。すなわち、伝来説に従って地方自治を理解する場合にも、地方自治制の具体的・実体的なあり方について、国は、憲法的拘束を受ける。

  (3) 基本的人権説(例えば手島孝)

 国民は、基本的人権の内容として、適切な統治を国家に請求する権利を有する。それが適切かつ効率的なものであるためには、身近な行政ニーズに応える活動は身近な統治団体、すなわち地方自治体が行う必要がある。すなわちその固有の権限となる。

 なお、この第3説の主張は、要するに後述する補完性原理であって、今日では制度的保障説を採る場合にも、第3の中核概念の根拠として述べられることが多い。 

 

二 制度的保障の概念

 諸君が使用している基本書は、おそらくほとんどが制度的保障説と思われるので、以下では制度的保障説に限定して詳しい説明を行う。論文を書く場合、今日という時点におけるわが国憲法学という枠内で地方自治の本旨を論ずる場合には、固有権説には論及する必要はもはやない。しかし、制度的保障説の説明は、狭義の伝来説及び新固有権説からの批判点を十分に念頭において行う必要がある。

 以下では、制度的保障の概念をよく理解していない人を対象に、(一)では基礎概念から説明しているが、論文を書く場合に、このような段階の説明が不要なのは当然である。

(一) 制度的保障の基本概念

 旧憲法の人権規定を見ると、そのほとんどに「法律の定めるところに従い」とか「法律の範囲内において」という限定文句がついていた。そこでこれを文字どおりに理解すると、人権の内容は、法律によっていかようにも制限できると考えられるし、事実そうした解釈が行われていた。

 しかしそれでは、その人権は、事実上法律によって保障されているのと変わらないことになってしまい、憲法によってそれが原則的に保障された意味が失われてしまう。こうしたことから考え出されたのが「制度的保障」の概念である。この理論によれば、議会は憲法の定める制度を創設、維持すべき義務を課され、その制度の本質的な内容については法律によって侵害することも許されない、とされる。

 したがって、制度的保障の対象になっているのは制度自体であって、個人の人権そのものではない。現行憲法の下においてにおいては、そのほとんどは法律の留保が付されていないから、もはやこの概念を維持する必要は失われているが、それでも憲法上、個々人の人権そのものではなく、特定の制度が保障の対象となっていると考えられる場合、例えば学問の自由の制度的側面としての「大学の自治」とか、経済権的自由権の制度的側面としての「私有財産制度」等に関しては、今日においてもなお制度的保障の概念を維持して考える必要がある。

(二) 制度的保障論の地方自治への適用

 人権の場合と同様に、地方自治においても「法律の範囲内」という限定が付されているので、その法律内容を、国会が完全に自由に定められるとした場合には、やはり地方自治を憲法で保障した意味が失われてしまうという問題が発生する。

 そこで、人権の場合について考えられた「制度的保障」の概念をこれにも妥当させることにより、伝来説からは当然の結論となる、地方自治の形式や実質を法律で自由に制定しうるという考えを排除し、より強力な憲法上の保障を与えることが可能となる。この考え方は、【はじめに】に述べたとおり、憲法構造の根本的な転換を意味することになることを理解しておいてほしい。

 この考えを採用する場合には、憲法第8章におかれている4つの条文はいずれも、法律を以てしても変改することのできない制度の中核を表明したものと理解されることになる。ただしこれは憲法施行当時の地方行政制度をそのまま保障したのではなく、あくまでもその中核となる部分のみである。この、法律を以てしても侵害することのできない制度的保障の中核部分を、第92条の文言を借りて「地方自治の本旨」と呼ぶ。換言すれば、昭和39年に制度的保障論が登場するまでは、この言葉に、以下に説明するような特定の意味はなかったのである。学生諸君の論文では、ややもすると、何の根拠もあげないままに、地方自治の本旨という言葉に、以下の概念が当然に読める、といわんばかりの記述がなされる。しかし、これはあくまでも制度的保障論の下において、学説として展開されるものであり、したがって当然に根拠が必要だ、ということを理解しておいてほしい。

 

三 「地方自治の本旨」の概念内容

 狭義の伝来説の持つ最大の欠陥は、条文には素直かも知れないが、地方自治を法律レベルの保障にとどめず、憲法編入した理由が説明できない点である。特に憲法編入した以上、実質的に憲法編入した意義を失わせるような内容の法律の改正は、禁ずる効果が憲法にあると考えるべきである。すなわち、地方自治を実効性あらしめるような制度を作る義務を立法府に課した上で、法律でそれを制定する権限を国会に授与したと考えないと、憲法編入した意義が失われてしまうことになる。ここから、制度的保障論が導かれる。

 このように理解する場合、法律によっても不可侵な制度の中核=地方自治の本旨は、憲法編入した意義から導けるはずである。

 以下、各概念について、少し詳しく説明したい。

(一) 団体自治ー地方分権の現れ

 憲法編入した中心的な理由は、前述のとおり、中央集権体制が本質的に有している全体主義に対する脆弱性である。したがって、地方分権に対する中央政府からの干渉の禁止あるいは制限が、この中核概念を構成するはずである。今述べたことを、地方の側から表現すると、地域団体は、中央政府の干渉を受けることなく、自らの意思を決定し、活動できることを意味する。これを「団体自治」という。

 およそ国権に基づいて処理されるべき事務のうちには、その内容が一国の全部の地域にわたって営まれ、その処理の結果の影響するところが全国民の社会経済上の利害に直接及ぶものと、その内容が一部の地域のみにおいて営まれ、その処理の結果の影響するところも、その地域の住民の社会経済上の利害にのみ及ぶものとがある。前者のような全国的な事務は、その性質上、国に、その処理権能を集中させ、統一的に処理するのが好ましい(中央集権)。これに対して、後者の地方的な事務については、その性質上、そのような処理を任せるに相応しい地域的な団体が存在するならば、国はその権能をその団体に分与し、その団体の処理に任せる(地方分権)ことも一向差し支えないし、むしろそのような事務処理方法を採用することの方が、迅速かつ効率的な処理を期待できるという点で、より好ましいということができる。

 地方分権は積極的に押し進められる傾向が見られる。わが国戦前にあっても、こうした地方分権の発想に基づき、相当強力な地方自治制度が存在していた。現行憲法にあっては、この地方分権思想は、当然のことながら、地方自治と結びついて、その侵すことのできない中核を構成すると考えられる。

 古来、一定の地域の住民は、その区域を中心に地縁的な社会生活を営むものであり、そうした社会生活の結果として共同体意識を有するようになり、その共同体意識に基づいて地域的な社会共同体を形作るのが常である。地方的な事務を任せるに相応しい団体としては、このような社会的実体の存在する地域を基礎たる区域とし、その区域に在住する人を構成員としているような団体であることは言うまでもない。

 伝統的に生じてきたそうした地域団体は、その地域地域の慣習により、意思決定権者は様々であった。その指導者の独裁制のものもあったであろうし、貴族制的な共同運営もあったであろうし、地域住民全員の寄り合いによって決するという民主主義的な運営もあったであろう。しかし、基本的共通性として、その地域の問題は、そうした団体が担い手になるべきであると考えられてきたのである。

 地方分権が、こうした地域団体を担い手とするとき、地方の事務処理は、法律上国家から一応独立したものと認められる団体を通じて、その団体自身の機関により、その団体の名と責任の下に行われることを意味する。これを「団体自治」という。

(二) 住民自治ー民主主義の現れ

 団体内部の意思決定にあたっては、わが国憲法の採用する民主主義原理に従い、団体構成員(これを憲法は「住民」と呼んでいる)の意思によって決せられるべきである。この点について平成7228日最高裁判所第三小法廷判決は次のように述べた(百選第512頁参照)。

「国民主権の原理及びこれに基づく憲法151項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法932項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であ」る

 ここではきちんとした表現がされていないが、地方自治の淵源として伝来説をとるからこそ、このような表現が出てくる。仮に固有権説をとれば、住民概念について、15条の国民概念と違う把握が可能になるのである。

 現代民主主義国家にあっては、国民主権、すなわち自己統治をその基本原理とするので、地方自治における意思決定の場合にも、そのことは貫かれなければならない。憲法932項が地方公共団体の長及び議員に対する住民の直接選挙権を保障しているのは、このことを確認したものに他ならない。このように民主主義と結びついた形での地方自治は、上記地方団体が、その分担する地域の住民の自治により統治されることを意味する。これを「住民自治」という。

(三) 補完性原理−自治体権限の限界

 従来の憲法学では、地方自治制度の中核は、上記団体自治と住民自治という二つの要素を結合させたものと理解されてきた。すなわち、地方住民が、その属する団体を通じて、その地方の事務を処理させることを要請しているものと解していた。

 しかし、近時、第3の中核概念が必要なのではないか、と考えられるようになっている。それは補完性原理(Subsidiaritatsprinzip=補充性と訳すこともある)という概念である。

 なぜなら、団体自治と住民自治の二つでは、実は、各地方自治体が、どのような権限を有しているべきかが、憲法論のレベルでははっきりしないのである。団体自治は、地方分権の理念から、国が地方自治体の内部自律に干渉してはいけないことだけを要請しているだけだし、住民自治はその内部決定は最終的には住民によってなされるべき事を要請しているだけである。だから、国と地方自治他がそれぞれどのような事務を行うべきか、ということまでは、団体自治と住民自治だけからでは決まらないのである。さらに大事なことは、多層制地方自治をこの二つの自治原理だけでは説明できないのである。この二つだけが基本原理と考える限り、現行の都道府県=市町村という二層制地方自治は、単に明治憲法下でその様な制度が地方にとられていたことから来る偶発的な結果であるに過ぎないと考える外はないことになる。これを、憲法編入の求めている地方自治の本旨として、理論として説明するための武器が、この補完性原理なのである。

 先に、平成11年の地方自治法大改正について論及したが、同改正では、明確に補完性原理が取り入れられたことから、憲法レベルにおいても、改めて注目されるに至ったのである。

 話の順序は逆転するが、まず地方自治法の規定から説明してみよう。

 現行地方自治法を見ると、現行地方自治法では、普通地方公共団体を、市町村と都道府県の二層構造を持つものとしてしている。両者の関係については次のように定めている。

 市町村は、「基礎的な地方公共団体」なので、自ら処理するのが適当なものは、原則として、何でも行うことができる(地方自治法23項)。これに対して、都道府県は「市町村を包括する広域的な地方公共団体」なので、その権限は、「広域にわたるもの」とか、「市町村の連絡調整にあたるもの」に代表される、規模や性質から市町村が処理するのに適当ではないものだけが権限内容となる。このように、都道府県の活動は、市町村を補う性格を持っている。このようなやり方で重層的な地方制度を作る考え方を、補完性原理という。補完性原理を採用している限り、都道府県が条例で定めた事項は、同じ都道府県の中で、統一的に取り扱う方が妥当な事項、換言すれば各市町村がバラバラに条例で定めるのには適さない事項に限られる。したがって、都道府県の条例と、市町村の条例が抵触すれば、都道府県の条例の方が優越し、その限度で市町村の条例は無効になる(地方自治法216項なお書き参照)。

 国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、同じことが言えるはずである。国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。

 こうして補完性原理を地方自治の本旨に含めることにより、徳島市公安条例事件判決(最判昭和50910日=百選第5484頁)の基準に対して、憲法学的な根拠を示すことが、はじめて可能になったのである。

《メモ》 諸君が使っている基本書では、まだ以上に説明した補完性原理を第3の中核概念として取り上げているものは少ないであろう。これは、元々、EUにおいて、EU、国、州、県、郡、市町村の相互間において、どのように権限配分を行うべきか、ということを決定するための原理としていわれるものである。わが国のたいていの憲法学者は、同時に各国憲法の比較法的研究を行っているから、EUで補完性原理がいわれるということは、ほとんどの人が承知していたと言える。しかし、制度的保障説の完成度が高かったために、EUに倣ってここに第3の中核概念を導入するべきだ、ということを考えついた人は(私の知る限り)いなかった。上述の地方自治法への補完性原理の導入は、行政法学者の主導で行われたのである。地方自治法改正後においてもなお、上述した諸規定が憲法レベルにおける補完性原理の導入だ、ということに気づいた憲法学者は少なかった。正直に白状すれば、私自身、ある学会において、行政法学者から、この改正は憲法レベルにおける第3の中核概念の導入を目指したものだ、と明言されて、はじめて制度的保障論見直しの必要性に気付いた次第である。しかし、すでに地方自治法が補完性原理を取り入れる形で規定されていること、上述したとおり、団体自治と住民自治だけでは地方自治保障として明らかに不十分であること等を考慮すれば、今後は、この第3の中核概念を承認するのが一般化するものと予想される。そこで、ここで諸君にこの重要な概念の存在を紹介した次第である。

 

四 条例による財産権の制限

(一) 問題の所在

 憲法が法律で定めることを要求している事項について条例で定めうるか、という問題について、諸君に論文を書かせると、制度的保障説が出現する以前の判例である大阪売春取締条例判決が条例による罰則を合憲とした根拠としてあげた理由のうち、その半分だけを使って、民主的基盤があるから許される、と書く人が極めて多い。しかし、そのような議論はきわめてラフで、高い評価を与える訳にはいかない。

 そもそも、地方自治体が、条例制定権を有するのは、制度的保障説の下では、団体自治から導かれる自主立法権が、その根拠である。民主的基盤云々という上述の表現は、住民自治の概念を意味しているに過ぎないから、上記の論法では、そもそも肝心の団体自治が欠落してしまうのである。

 確かに、大阪売春取締条例事件のように、条例による罰則を論じる際には、団体自治にクロスオーバーして、住民自治を使う説が有力に主張される。すなわち、現行地方自治法は、広義の条例、すなわち地方自治の自主立法として、@狭義の条例(地方議会が制定し、長が拒否権を行使しなかったもの)に加え、A長の制定する規則、及びB各種委員会の制定する規則、の3者が存在している。そして、現行地方自治法は、@及びAについてだけ、罰則を設けることを予定している(143項及び152項)。条例を団体自治に基づく自主立法と考える場合、罰則を科する権限は、当然にそれに含まれる。このように考えた場合には、現行地方自治法における@Aへの罰則規定は、憲法94条にいう「法律の範囲内」として、それら自主立法における罰則制定権の上限を定めた枠立法と理解されることになる。しかし、このように考えた場合、そうした上限規定のない委員会の規則では、地方自治体は自由に、限度で狭義の条例などには認められないような厳罰を設けることも可能になる。この逆転を嫌う場合には、Bについてはそもそも罰則を設けることは許されないと論じる。その根拠としては、現在の地方公共団体の委員会は、民主的基盤を有しないのに対し、長と議会は民主的基盤を有している点に着眼して、住民自治的基盤を有していない委員会の規則の異質性をいうことになる。

 しかし、上述したところは、基本的に罰則に関する議論である。その場合に民主的基盤が云々される根拠は、罰則の有効性が代表者の同意に依存するという点にある。

 だから、財産権について法律ではなく、条例で制限できるということを肯定するためには、それと同様に、財産権の特質が、代表者の同意に基づく必要がある、ということを論証する必要があることになる。それをせずに、いきなり民主的基盤があれば十分だと論じるのは、団体自治に関する議論の欠落を度外視して住民自治だけに限定しても、理由不足と評価されることになる。

 しかも、財産権と罰則とは明らかに異質な概念である。例えば、委任立法に関する憲法736号は、罰則については法律の委任がない限り化せられないと定めている。これを反対解釈すれば、財産権の制限は、法律の委任無くしてやれることになる。そういう解釈が成り立つのか、それともやはり財産権の場合にも、委任なくしてはやれないのか、という疑問点が存在していることが判ると思う。

(二) 財産権と法律

 憲法292項が、財産権を法律によって制限することを要求していることの意義が、したがってここでは問題となる。

 ここで考えなければならないのは、なぜわが国現行憲法は「財産権」を保障しているのか、ということである。

 近代自由主義社会は、個人の尊厳と所有権の絶対、という二つの概念の上に築かれた。これはそれに先行する封建制のアンチテーゼと理解できる。すなわち、封建所有権は、領主のもつ抽象的な支配権から始まって、現実に土地を耕作する人間の持つ具体的支配権に至るまで、幾重にも重層構造を形成していたために、どのような個人もその財産の自由な使用、収益、処分が許されなかった。このために、そうした制約を否定することが、近代社会の確立に欠くべからざる要求であったのである。

 フランス人権宣言17条は次のように宣言する。

「 所有権は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当な事前の補償の下においてでなければ、これを奪われることはない。」

 これはまさに、こうした近代市民社会イデオロギーの端的な表明である。わが明治憲法が、次のように規定していたのも、同様の趣旨と読むことが出来よう。

「日本臣民はその所有権を侵さるることなし。公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る」

 しかし、資本主義経済の発達とともに二つの変化が発生してくる。

 第1は、資本主義の矛盾が拡大し始めたために、財産権に対する公権的な規制が増加し、常態化したという点である。特に、所有権の中核とも言うべき土地所有権は、近代資本主義の原理に反して、どれほど需要が増大しても、それに対応して供給の増大が不可能という特質を有している。その結果、所有権そのものに関してさえも、神聖不可侵であるどころか、大きな制約が認められるようになる。例えば、ワイマール憲法153条は次のように宣言している。

  • 「第1項 所有権は、憲法がこれを保障される。その内容及び限界は、法律によって明らかにされる。

  • 2項 公用収用は、公共の福祉のために、かつ、法律上の根拠に基づいてのみ、これを行うことができる。公用収用は、連邦法に別段の定めのない限り、正当な補償の下にこれを行う。補償の額について争いがあるときは、連邦法に特段の定めのない限り、通常裁判所で争う途が開かれているものとする。連邦、市町村及び公益団体が行う公用収用は、補償する場合にのみ行うことができる。

  • 3項 所有権は義務を伴う。その行使は同時に公共の利益に役立つべきである。」

  •  この特に第1項と第3項の規定は、権利の性格そのものに対する根本的な認識の変化を端的に示している。

     第2に、所有権の、経済全体に占める重要性が相対的に低下し、代わって債権がその主要な担い手になってきたことである。物権は強力な権利であるだけに、第三者の権利を害しないように物権法定主義が要求される。その硬直性のために、社会の変化に対応して、新しい内容の権利を保障する必要性が現れてきても、そのニーズに柔軟に対応するのは困難である。それに対して、債権は当事者が納得すればどのような内容の権利でも、保障することが可能である。こうした柔軟性から、現代社会では、債権が物権よりも重要な権利となってくる。これを「債権の優越」と呼ぶ。これに伴い、物権でも、所有権以外の権利、特に債権の確保に奉仕することを目的とする担保物権の重要性が増加してくる。

     新しい内容の債権が社会的基盤を確立してくると、法が追随し、そうした新種の権利に物権と同様の強力な保障を与えることが行われる。そうした新しい権利は、従来の物権と異なり、物に関係しない権利なので、一般に「無体財産権」と総称される。特許権や著作権が、その代表的なものである。

     このような二つの方向への同時進行的な大きな変化の結果、所有権だけの保障では、今日、ほとんど無意味になったので、現行憲法29条は、広く「財産権」一般を保障するようになってきたのである。

     以上に述べたことから、条例で定めることの可否を念頭に置きながら、なぜ法律で定めているかを検討すると、次のようにいえる。

    「日本国憲法においては、財産権の普遍化的近代化が行われる(291項)とともに、財産権の現代化が292項においてなされたのである。したがってここでは、いわゆる財産権法定主義については、次の二つの場合を分けて考えなければならないといえよう。

     まず第1は、普遍化的近代原理に関するものであって、財産権法定主義は、財産権の規制が法治主義に基づいて、法律によってなされねばならないことを意味する。したがってこれは、財産権に特有の問題ではなく、基本権一般の問題である。とすれば、ここにおける財産権法定主義は、国の命令及び個別行為との関係の場におけるものであって、条例との関係におけるものではない。前述の、日本国憲法下の法治主義行政原理における条例の地位からすれば、条例による基本権規制、したがって財産権規制は認められるのである。

     第2は、現代化に関するものであって、憲法292項がその趣旨の規定であるという点である(右の第1の法治主義であれば、財産権についての見定められるべきではない。財産権についての法治主義の定めはむしろ291項であると解される。)。すなわち、291項において定められた財産権の不可侵は、同上2項において、近代(狭義)的な不可侵性を意味するものではなく、現代的に変質すべきものとされたのである。したがって、292項で『法律でこれを定める』という場合、それは、財産権の現代的性質の表現であって、決して条例による定めを排する趣旨ではない。」

    高田敏「条例論」有斐閣『現代行政法大系』8 地方自治、昭和59年刊189

     大変簡略な説明なので、ぜひ記憶しておいてほしい。ただ、これでは一方において若干上長であり、他方において説明不足の点もあるので、基本書と相談しながら、自分流の記述方法を確立しておいてほしい。

    (三) 財産権制限の条例による制限の限界とその根拠

     財産権の、条例による規制を認めるとして、どの限度で承認できるかが問題となる。これについては、財産権の内容規制と行使の規制とに区分し、前者は条例では制限できないが、後者は可能とする説が有名である(高辻正巳「財産権についての一考察」自治研究384号)。この説は、今日においても主張している者があり、無視できない。

     しかし、内容規制と行使規制を厳密に区別しうるかは疑問である。また、上述のとおり、292項は法治主義的法律の留保を定めたものであることを考えると、条例を一般的に排除することはできない。そして、自由権について条例の制限が認められるのであるとすれば、それよりも社会権的性格が強く、したがって制約が広く認めうる財産権について条例が除外されるのは不合理である。これらの理由から、これが通説である。

    (四) 平等原則と条例制定権

     憲法141項は、法の下の平等を定める。ここでの「法」について、法律と解する古い説があるが、これは今日では気にする必要はない。しかし、地方自治体の条例により人権の制約を認めるときは、各地方ごとに人権の享有範囲が区々となる結果、平等原則が破綻してしまった場合には、当然平等原則違反といわさるを得ない。すなわち、どのような場合には法律で定めるべきであり、どのような場合には条例で定めることも許容されるのかが論点になるのである。これについて、最高裁判所は先に紹介した大阪売春取締条例事件において、次のように述べた。

    「社会生活の法的規律は通常、全国にわたり画一的な効力をもつ法律によってなされているけれども、中には各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なものもあり、またときにはいずれの方法によって規律しても差し支えないものもある。これすなわち憲法第94条が地方公共団体は『法律の範囲内で条例を制定できる』と定めている所以である。」

     すなわち「各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なものもあり、またときにはいずれの方法によって規律しても差し支えないもの」は、条例で定められるが、これに該当しない場合には法律による他はなく、それが条例制定権の限界となると考えて良い。もっとも、この判決は、古い時代のものなので、国の側を中心に見ている。今日のような地方の時代においては、同じことを説明する場合にも、視点を地方自治体の方において、すなわち前述した地方自治の第三の中核概念である補完性原理から、次のように説明するのが妥当であろう。

     国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、そうした事項に関して、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。

     これに対し、本問の場合には、問題文中に詳述されているとおり、これという大河がなく、農業用水がもっぱらため池に依存しなければならないという、この県の特殊性が、こうした条例の制定理由である。その場合、当然地方公共団体の自主立法権が国の立法権に踰越すると考えることができよう。