憲法改正権の限界

甲斐素直

問題

 Y等合計100名の衆議院議員は、国会法68条の2に従い、憲法改正案を国会に提出した。改正案は、下記の通りである。

 その提案理由として、Y等は次のように述べた。

「日本国憲法は憲法制定から60年以上の長きにわたり、まったく改正されることなく今日まできた。そのため、昨今の技術革新、ライフスタイルの変化に伴い、既存の明文規定以外の新たな人権救済や、国際情勢の変化による国としての基本方針の転換の必要性が現在、生じている。

このように、異常な長期にわたって、憲法改正の必要が認識されながら改正が行われなかったのは、日本国憲法の硬性憲法である事を示す96条が、他国と比べ、著しく厳しいことが原因と考えられる。

将来さらに憲法の規定と現実社会の乖離が予想される事を踏まえれば、現行憲法の硬性度を低下させることが好ましい。」

 これに対し、同じく衆議院議員であるXとしては、この改正案は違憲であるとの観点から、反対討論を行いたい。Xの提起するべき憲法学上の論点を指摘し、それに対する自らの見解を理由を挙げて論じなさい。

             記

 憲法第96

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」

 を、次の通り改正する。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成をもって成立する。

2 憲法改正について前項の賛成が得られたときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」

類題

 日本国憲法第9条を、下記のように改正する案が国会に提出された。同条のこのような内容の改正が、憲法第96条に基づいて実施することが可能か否かについて論じなさい。なお、本問の解答に当たっては、改正権には限界があり、その限界の一つとして平和主義という理念が存在しているという前提の下で、答えなさい。

「第1項は、現行通りとする。

2項の文言を次のとおり修正する。

『第2項 我が国領土を武力による侵略及び災害から守り、また、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、我が国が名誉ある地位を確保する目的を達成するに必要な限度において、陸海空軍その他の戦力を、自衛軍として保持する。』

 本条の後に、第9条の2を次のとおり、追加する。

『第1項 我が国領土が武力によって侵略され、またはその様な侵略が迫っていること(以下、「侵略事態」という)の確定は、内閣の申し立てに基づき、国会がこれを行う。その確定は、それぞれの議院において、出席議員の3分の2以上の多数による賛成を必要とする。衆議院が存在しない場合においては、参議院の緊急集会による確定を以て国会の確定に換えることができる。

 第2項 内閣は、状況からして即時に行動することが要請され、克服し得ない障害があって国会が適時に集会することができない場合、もしくは国会議員が定足数以上の出席ができないため、前項の確定をする事ができない場合においては、その障害が消滅するまでの間、侵略事態の存在を暫定的に確定することができる。この内閣による暫定的確定は、障害が消滅した後、可及的速やかに開催された国会において、侵略事態の確定に必要な賛成が得られず、もしくは否定された場合には、その時から将来に向かってその効力を失う。

 第3項 第1項若しくは前項による侵略事態の確定があった場合には、内閣総理大臣は、侵略事態の存在について国際法上の宣言をするとともに、宣言文を官報で公布する。』 

[はじめに]

 憲法改正手続・国民投票法が成立し、憲法改正も現実の問題として浮上してきた。実を言えば、この問題は同法成立以前から、すでに幾つかの国家試験で出題されている。例えば、平成12年度国税専門官試験で、次の問題が出題された。

憲法改正について、その意義及び改正の手続、憲法改正行為の性質と限界の点から論ぜよ。

 見た目にはずいぶん違うが、本問や類題と、この問題は、答案構成のレベルで言えば、同じだという事が判らねば、問題に正解することは難しい。

 国税専門官試験は、基本的に国U格の試験なので、かなりやさしい。どうやさしいかというと、問題文の中に、論点が個別に明確に指定されている、という点である。すなわち、問題文を、最初と最後をつなげれば、「憲法改正について論ぜよ」という出題だということが誰にでも判る。その中間の挿入句の最後が「の点から」となっているのだから、その挿入句に書かれているのがそこで論ずるべき論点だ、ということも、普通に日本語の読める人なら誰にでも判る。

 すなわち専門官試験の場合、問題が指定しているとおりの順に、@意義、A改正手続、B性質、C限界と書いていけば、自動的に合格答案になる、という実に親切な問題なのである。逆にいうと、この指定からはずれて書けば、当然、自動的に不合格答案になる。

 本問は具体的事例に即した問題なので、必ずしもこのようなステップを踏んでいく必要はないが、基本的にはやはり同じ構成が妥当する。そこで、以下、諸君の知識を整理するという狙いから、不要な論点も含めて、総論部分については、この国税専門官試験の問題に沿って説明したい。

 ついでにいうと、本問を、直ちに憲法96条に関する出題、と考えるのは間違いである。一般に、憲法改正とは、結局のところ、憲法制定権力と憲法改正権力の関係が問題になるのだから、憲法総論に属する問題であり、本問もまた、そう考えるのが正しい。仮に、問題がもっと簡略で、単に「96条について論ぜよ」というものであったとしても、その総論部分は、憲法総論に関する議論であって、各論部分に至って、96条の解釈論になると考えるべきである。

 本問は、したがって、本来からいえば、国民主権論を中心に説明を展開するべきである。しかし、国民主権論については、憲法41条の国権の最高機関性のところで詳しく説明しているので、ここではその知識は諸君の頭の中にある、という前提の下に、なぜ国民主権論が求められるか、という点の説明を中心に行うことにした。

一 総論 

(一) 憲法改正の意義

 佐藤幸治は、憲法改正に次のような定義を与えている。

「憲法改正とは、憲法所定の手続きに従い、憲法典中の個別条項につき、削除・修正・追加を行うことにより、または新たな条項を加えて憲法典を増補することにより、意識的・形式的に憲法の変改を加えるこという。」(佐藤・第三版・34頁) 

 諸君がこのような定義をとるかとらないかはそれぞれの基本書と相談して貰うとして、憲法改正の概念に関する一つの学説としてみれば、立派に成り立つ定義である。問題は、これを無造作に書きとばして、これで、論文の第一段の意義に関する議論が終わった、と考えてはいけないということである。

 諸君の肝に銘じておいて欲しい。定義というものは、絶対に真空から勝手に湧いて来たり、天からの神の声として聞こえてくるものではない。定義は、それを構成している一言、一言が、すべて他の類似概念との区別、あるいはその概念の本質として、その主張者の把握しているところを表現しているのである。だから、定義を書いたら、どんな場合でも、絶対に、なぜその定義を下したかを書かなければ、論文とはならない。理屈抜きの丸暗記は、短答式までである。論文式では、何を書いても、それに対する理由がいる、と考えなければならない(論文がゼロサムゲームであるが故に、減点覚悟で理由を各手間を省く、という場合はあるが…)。

 この定義の場合、それを整理すると、第一に、ここで憲法改正と呼んでいる行為は、成文法としての憲法典の修正行為をいい、実質的憲法の意味ではない、ということである。第二に、その成文法としての憲法典が硬性憲法という性格を有している、ということである。第三に、憲法の変遷は憲法改正とはいわない、ということである。

 ここで取り上げた諸点が、憲法改正の意義として論ずるべき点であることはたしかである。以下、順次検討してみよう。

 1 実質的憲法と形式的憲法

 憲法とは、実質的には一国の最高法規を意味する。この意味の憲法は、邪馬台国のように、国家としては極めて素朴なものであろうと、あるいは徳川幕府のようにかなり安定した基盤を持っているとの別なく、何らかの意味で国家が存在していれば常に存在する。徳川幕府であれば、鎖国や士農工商の身分制度などがそれであった。この最高法規を放棄せざるを得ない状況に追い込まれた段階で徳川幕府は滅びることになった。

 それに対して、近代にいたって、近代国家が成立するとともに、新しいタイプの憲法が出現した。すなわち、権力保持者の権力濫用を意識的に阻止する目的で定められた憲法である。そうした目的がある場合には、不文法よりも成文法の方が便利なので、それが憲法典と呼ばれるか否かは別として、成文法化されていくことになる。イギリス名誉革命の際の権利章典は、その一つの典型である。

 やがて、そのような最高法規が、一つのまとまった成文法にまとめられるようになる。それが形式的意味の憲法である。形式的意味の憲法が成立して始めて、憲法改正という概念が意味を持つ。統一的な法典の形式を持っていない場合には、従来の成文法と抵触する内容の新法を制定しさえすれば、新法は旧法を改廃する、という法学の一般原理に従い、自動的に憲法改正が起きるから、特に憲法改正という行為を必要としない。例えば、イギリスは長いこと議会主権を実質的意味の憲法とし、基本的人権という概念を認めてこなかった。しかし、1999年にいたって、EUの圧力で、人権法(HumanRights Act)を制定するに至った。その瞬間に、同法に抵触する限度で、議会主権という憲法原理は修正されたことになる。

 2 軟性憲法と硬性憲法

 形式的意味の憲法、すなわち憲法典が制定された場合に、その改正に通常の法規範よりも厳重な手続を要求するのを硬性憲法という。これを硬性憲法という。それに対して、憲法典が存在していても、特に他の法規範と異なる手続を定めていないものを軟性憲法という。わざわざ形式的憲法を制定しておいて、通常の法律で容易に改廃しうるのでは意味がないので、普通は、硬性憲法である。

 3 憲法の変遷

 形式的憲法が存在する場合に、憲法改正手続きがとられていない場合にもかかわらず、実質的憲法の内容が、時間の経過とともに変化し、それが一般に承認されるに至った状態を、憲法の変遷という。例えば憲法13条の幸福追求権が、憲法制定初期には単なる倫理規範などと考えられていたのに、今日では無名基本権条項と考えられるに至っているのは、その典型である。上記定義は、この点を明確にさせようとしている。阿部内閣で、平成19年5月に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置し、これまで内閣法制局が堅持してきた「集団的自衛権を9条で読むことは不可能」とする見解を覆そうとしたが、これは、いわば意図的に憲法の変遷を起こそうとする行動と評することができる。

(二) 憲法改正の性質と限界

 ここで、改めて、憲法改正の限界という概念があり得るかという、今ひとつの中心論点に入る。限界があるとかないとかいうためには、その理論的前提として憲法改正権の性質が問題とならざるを得ない。

 その意味で、性質と限界は、まとめて論ずることとしたい。

 1 無限界説

 改正権は無限界であるという結論を導く学説は、大きく分けると二つある。

(1) 法実証主義的無限界説

 法学の時間に法実証法思想というものを習ったはずである。簡単にいってしまえば、今日の通説的理解である(「法規範」という用語は、法実証主義の下でしか意味を持たない)。この思想は、それに対立する自然法思想、すなわち自然科学で探求する真実の法則のような形での自然法というものの存在を否定し、少なくとも法学の対象としては、実際に存在することが証明された法のみを取り上げる。この立場から見た場合、憲法が国家の最高法規である以上、これより高次の法の存在を認めない。したがって、憲法改正権は確かに法として存在する権利であるが、国家または憲法以前に存在し、改正権と区別される制憲権は、単なる社会的実力に過ぎないと考える他はない。通常、改正権の限界は、制憲権の授権による限界として説明されるが、制憲権が法的存在でない以上、法的な意味で改正権の限界を生ずるはずがない、と説く。

 わが国で、この見解をとる代表は、佐々木惣一である。すなわち、

「法規はその規律する社会の社会的事情を基礎として存在するものであるのに、社会的事情は変更するものであるから、その社会的事情を基礎として存在する法規が、社会的事情の変更によって変更することのあり得るのは当然である。このことにはその法規がいかなる種類のものであっても変わりはない。即ち根本法たる憲法の法規についても同様である。〈中略〉そこで、国家が、或る法規について、永久に改正しない、ということを定めて見ても、それは実際上無意味である。法制上一見そう定めたと思わせるような文句を用いるものがあっても、その意義は、ただ、容易に改正することをしないことを定めたものに過ぎぬ、と解するべきである。」(佐々木『憲法学論文選』有斐閣平成2年復刊、第1巻「憲法を改正する国家作用の法理」187頁より引用)

 また、佐々木は、憲法の価値と意味内容の探求は、自然法的なものとして排除する(同第1199頁参照)。

(2) 主権全能論的無限界説

 主権は、唯一、絶対、不可分の存在と定義される。そして、憲法改正もまた主権者によってなされる。主権が絶対的なものである以上、主権に基づく改正権は、実質上は制憲権と同質の権力であると考えることができる。しかし、形式上は憲法によって作られた権力である。したがって、改正手続きを改正することはできないが、それを遵守する限り対象については無限界であると考える。

 先に紹介した佐々木惣一は、この考え方も合わせ説く。

「憲法改正作用の限界があるであろうか。それがあるとすれば、それは、憲法をつくる者、即ち国権の源泉者たる国民の力に内在する限界であるの外はない〈中略〉もしそうでないならば、国民が主権者であり、国権の源泉者であるのではない、いわざるを得なくなる。〈中略〉故に、わが国の憲法一般についていうと、国民が国家の作用を通じて、現在の憲法を改正し、或る事項を規定する場合に、恒久的に憲法の内容とし得ない、というようなものは存在しない。一時的に憲法の内容としない、というものはあり得る。しかも、そう定めた憲法の規定そのものも、憲法所定の手続きによるときは改正できる。」(同第3巻「憲法改正のこと」269頁より引用)

 このほか、結城光太郎(当時山形大学助教授。その後夭折)が説いているのが目立つ。

「憲法改正の究極的主体は、憲法制定権力の主体つまり主権者に他ならない。主権は憲法をつくる力であるから、憲法の外において、その上に存在し、法的には説明のつかぬもので、現にあるということの中にその妥当根源を持つ。憲法改正権は部分的にせよ全面的にせよ憲法を作りかえる力であるから、本質的には憲法制定権力でなければならぬ。したがって、憲法改正権も憲法の外において、その上にあるものであって、単なる『権限』ではあり得ない。憲法制定権力と本質において一体である憲法改正権が、憲法の中に条定され『権限』の形をとっているのは、法的安定性、予測可能性の要請に応じ、憲法制定権力がその発動形式を一定の形に自制したことによる。」(山形大学紀要33281頁)

(3) 事実行為としての無限界説

 わが国では説く者がいないが、ドイツでは、例えばW.ブルクハルト等が説く。

「そもそも憲法改正は国の最高法規に変更を加える作用であるから、もはやそれは法の下の作用ではなく事実の作用にすぎない。事実の作用であってみれば、そこに法的限界があるという考え方はナンセンスである。」

 2 限界説

これに対して、限界がある、という考え方をとる場合には、議論が少々難しくなる。議論の前提として、自然法思想を採用する場合には、自然法というものは、いかなる社会や文化の下においても共通のものであるはずであるから、憲法典中、自然法的内容の箇所は改正できない、という結論が容易に導くことができる。

 しかし、わが国のたいていの学者は、法実証法思想を採用し、あるいは主権概念については、少なくとも現行憲法下においては否定することはできないと考えている。そこで、その前提に抵触することなく、限界があるという議論を展開する必要があるからである。

(1) 制憲権否定の禁止としての限界説

 憲法改正権は、制憲権によって与えられた権限であるから、自己の存立の基盤というべき制憲権を破壊するような改正は自殺行為である、とする。すなわち、上述の主権全能論を承認した上で、しかし、天皇主権から国民主権への変換のような、制憲権そのものを破壊するような場合を改正として説明することはできない、と考えるわけである。例えば、法学協会の次の見解は、その代表である。

「憲法の同一性を失わせるような改正をすることは、その憲法の自殺であり、それは法論理的に不可能である。」(『註解日本国憲法』1425頁)

近時においては、芦部信喜の次のような表現がそれに当たる。

「憲法改正権とは、憲法以前の始源的な憲法制定権力(「制憲権」)が、近代法治国家の合法性の原理に基づいて、『最初の制憲行為自体に自らを憲法の中に組織化し、自然状態から法的形式に準拠する権力へと転化し』たものであり、いわゆる『制度化された制憲権』として特徴づけうるものである」(芦部「憲法制定権力」東京大学出版会1983年刊45頁)

 確かにこの論理は、先に紹介した佐々木の議論の中にも部分的に顕れている。

 なお、近時、長谷部恭男は憲法の外に憲法制定権力という概念を考えること自体を否定して、注目されている(長谷部「憲法制定権力の消去可能性について」岩波講座憲法第6巻『憲法と時間』2007年刊参照)。そのような論理を採る場合には、憲法制定権力を根拠として展開するここでの限界論は不可能になる。

(2) 現行憲法の基本原理限界説

 類題で、「平和主義」をもって、改正権の限界と考えよ、という要求がなされている。確かに現行憲法の基本原理といわれる、国民主権、基本的人権、平和主義の三つが憲法改正権の限界になるとするのは通説だと、多くの書に書かれている。しかし、それを自説として述べている書は案外少ない。芦部信喜や戸波江二がその代表といえようか。

「憲法改正には法的限界があると解すべきであり、憲法制定権力の所在を示す主権原理や、憲法制定権力の下した基本的政治決定は、憲法改正手続によっても改正することができないと解される。日本国憲法の場合には、先ず、国民の憲法制定権力に基づく以上、憲法制定権力の所在を示す国民主権原理は変更できない。また、国民主権原理のよって立つ人権尊重原理もまた、近代立憲主義に基礎を置く日本国憲法の基本的政治決定に含まれ、憲法改正の範囲外にある。さらに、平和主義原理もまた、国民主権および基本的人権尊重原理を支える前提であり、憲法改正の対象とならないと考えるべきである。」(戸波『憲法』新版、502頁)

 しかし、憲法制定権力の所在を示す国民主権原理はともかく、それが下した政治決定までもが直ちに限界を形成するという説は、管見の限りでは余り支持者がいない。樋口陽一は次のように批判している。

「憲法の基本原理、すなわち、ひとつの憲法のアイデンティティをかたちづくる基本決定とひとくちにいっても、決定をする主体を指定する原理(日本国憲法でいえば国民主権」と、決定された内容(基本的人権と平和主義)とでは、その法論理的身分が違うからである。」(樋口『憲法T』青林書院1998年刊380頁)

 しかし、このように述べたからといって、平和主義を改正の限界と考えないというわけではない。ただ、それら否定説の場合には、以下に述べるような論理展開を通していくことになる。

(3)  憲法改正規定限界説

 本問で取り上げている中心問題がこれである。根拠を、形式面と、実質面に分けてみていこう。

  ア 形式的根拠

 次のような論拠から、原則的に不可能とするのが通説といえよう。清宮四郎の見解が代表的なものである。

「原則として不可能であると答えなければならない。なぜなら、第一に、改正規定は、憲法制定権にもとづくものであって、憲法改正権にもとづくものではなく、改正権者が自身の行為の根拠となる改正規定を同じ改正規定にもとづいて改正することは、法論理的に不可能であるばかりでなく、改正権者による改正規定の自由な改正を認めることは、憲法制定権と憲法改正権の混同となり、憲法制定権の意義を失わしめる結果となるからである。硬性憲法の軟性憲法への変更を、憲法改正規定によって根拠づけることは、法的に不可能といわねばなるまい。」

(清宮『憲法T』有斐閣法律学全集3、昭和32年刊325頁)

イ 実質的根拠

 清宮は、硬性憲法の軟性憲法への変更を云々しているが、本問に出てきた改正案は、決して軟性憲法に変えようとしているのではなく、単に硬性度を下げようとしているだけである。だから、上記の論理だけだと、憲法制定権を侵害しない限度の憲法改正規定の修正は可能という答えが導けそうである。そこで、国民投票という部分を完全に切り捨てる形の改正が、制定権力への侵害になるかどうかを検討してみなければならない。

 今日では、形式的憲法が硬性憲法であることは当然とされており、むしろどの程度の硬性度を持たせるのが妥当かが問題となる。硬性度が高ければ、その分だけ法制度の静的安定性の確保が容易になる。他方、その分だけ社会状況の変化に追随した柔軟な対応が難しくなるからである。どの程度の硬性度を持たせるか、という議論こそが、本問の中心論点である。

 わが国現行憲法は、極めて硬性度の高い憲法典であり、かつ、問題文のYの提案趣意にあるように、戦後60年以上に渡って一度の改正もなされていない。1949年とわが国よりわずかに遅れて戦後憲法を制定したドイツが、ほとんど毎年のように憲法改正を繰り返してきたこと、あるいはアメリカ憲法が戦後6回の憲法改正を行っていること等を考えると、確かにわが国の憲法改正が異常に少ないことは否定できない。

 その原因を現行わが国憲法典の硬性度の高さに求め、96条自体を96条で改正して、より改正しやすい硬度に下げるべきだ、という議論が読売新聞社の憲法改正案をはじめとして積極的に論じられている。ここから、改正条項の改正が可能か、という議論が登場することになる。

 しかし、憲法改正がなされない原因を硬性度に求めるのは、次の理由から誤りである。すなわち、例えば、旧憲法は、現行憲法に比べるとはるかに硬性度の低い憲法であった。それにも拘わらず、1889年の制定から1946年の全面改正(廃止?)まで、57年間に渡って一度の改正も行われていない。それに対して、わが国憲法と同様の硬性度を持つ憲法は、欧州を始めとして、各国に例が多いが、いずれも何度かの改正を経験している。わが国では、民法や刑法は普通の法律であるのに、憲法同様、きわめて長期にわたり改正しないままに運用してきたことを考えると、憲法に限らず、基本的な国法を改正したがらないのはわが国の国民性と考えるべきであって、硬性度と直接には関係しないというべきであろう。

 では、憲法改正における硬性度はどのように決定されるべきであろうか。本問における実質面の議論である。

 その答えを一言にしていえば、憲法改正における硬性度は、その憲法の存在する国家体制に応じて決定するのが、正しいと考えるべきである。

 例えば、戦前のわが国は、主権者は天皇であったから、憲法改正の発議権は天皇が独占していた。臣民の側から憲法改正の発議は不可能だったのである。天皇による発議を帝国議会が特別多数で議決することで、改正は行われた(旧憲法73条参照)。

 これに対し、連邦国家の場合には、アメリカやドイツに典型的に見られるように、憲法改正は、いずれも連邦議会が発議し、各州がこれに同意することにより行われる(アメリカ憲法5条、ドイツ憲法79条参照)。

 これらとの比較でいえば、わが国のように、中央集権制を採用し、半直接代表制を採用する国家の場合には、原則として両議院の議決と国民投票による承認という二つの手続を必要とするというべきであろう。ただ、その場合に、わが国現行制度が唯一の答えではない。

 同様の体制の国家の中にも、硬性度という点からすれば、わが国現行憲法よりも高い国がある。例えば、議会が憲法改正案を可決した場合、議会は一旦解散され、総選挙後の新たな議会において同改正案が可決されたとき、6ヶ月以内に国民投票に付されるとするデンマーク憲法は、その例である。

 あるいは韓国の場合には、議会の総議員の3分の2以上の多数の賛成を得たうえで、国民投票に付すという点ではわが国と一緒だが、その際、議会選挙有権者の過半数の投票と、投票者の過半数の賛成を得なければならないとする(大韓民国憲法130条)。

 逆に、ある程度は緩和することも可能である。要は、民意を把握する方法を導入していればよいのである。例えば、元首・政府もしくは一定数の議員から要求があった場合にのみ国民投票に付するという方法で、要求がなければ、議会の議決のみで改正案が成立するという制度である。スウェーデンやスペインに見られる。一定数の国民が要求した場合にも国民投票を認めるという制度を組み込むことで、議会の議決だけで憲法改正を認めるという方法もある。「50万の有権者から要求があるとき、国民投票に付される」とするイタリア憲法1382項がその例である。これらの場合には、要求がなかったことにより、いわば国民の黙示の承認があったと構成することが可能になる。

このように考える限り、わが国のように国家の基本原理として国民主権を採用する中央集権国家であって、半直接代表制を採用する場合には、国会の議決と、何らかの形による国民の同意という二段の承認手続きは必須の要求と考えるべきある。本問に示されたような、議会の議決のみで行う憲法改正は、憲法改正権の限界に触れるというべきである。

 なお、ここでは「半直接代表制」ということを論理の前提として議論している。これがどのような論理から導かれるのか、ということは、既に別講で取り上げているので、ここでは説明しない。しかし、諸君はもちろん、本番の試験会場でそう書くわけにはいかないのだから、簡潔な論述の仕方を工夫しておかなければならない。

(4) 明示的禁止規定限界説

 ここからは、類題に関する議論となる。

 憲法が明示的に改正を禁じている規定については、制憲権を侵害することになるから、改正規定に基づく改正もできないというべきである。この代表的な見解を、同じく清宮四郎にみることができる。

「わが日本国憲法は、その前文で、民主制の原理は、『人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』といっている。民主制の原理を、根本規範、憲法の憲法とみて、明治憲法を排除して日本国憲法をつくったのもこの立場からであり、将来の行為についても、民主制の原理に矛盾する内容のものは、いっさいその成立を排除し、憲法改正の方法によるものであってもこれを許さないというのである。〈中略〉改正の限界について、憲法に特別の規定のない場合はどう考えたらよいか。この場合、憲法の基礎をなし、その究極にある原理を定める根本規範に触れることは許されないと解すべきである。」(前掲書324頁)

 この立場の場合、憲法第9条も、次の文言から限界とされる規定に属する。

9  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 これ以外の代表的なものを紹介していくと、次の規定がある。

 まず、前文が人権と国民主権を「人類普遍の一般原理」と言い、「これに反する一切の憲法を・・排除する」と定めているのは、改正権の限界を明示的に規定したものである、と考える。また、以下の条文の次の文言も、同様に、改正権の限界を明示したものと考えることになる。

11  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

97  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 3 限界を超えた改正の意義

 本問の場合にも、類題の場合にも、この点について論ずる必要はない。しかし、このように限界説を採用した場合には、限界を超えた改正の意義については当然に考える必要があり、場合によっては論ずることを求められることが予想されるので、簡単に説明する。

 我々の目の前には、天皇主権から国民主権へと、まさに憲法論の限界を超えた憲法改正の実例が存在しているからである。これに対しては、革命として説明する他はない。宮沢俊義の「815日革命説」がその代表的な存在である。これに対しては、ポツダム宣言の受諾だけで革命と呼ぶのは間違いだ、とする実証的な研究がある。しかし、フランス革命が178974日にすべてが完結したわけではなく、その後、長い時間を掛けて進捗していったのにも関わらず、革命の時点を1789年と呼ぶのと同様な意味で、1945815日を革命の時点と考えるのが妥当であろう。

 以上のどの説を採用するかは諸君の自由である。基本書と相談して決めて欲しい。

 

二  類題について

(一) 平和主義について

 類題では、平和主義が限界を形成していることを前提とせよ、とある。これを導く論理は、上述のとおり、憲法制定権力の下した基本的政治決定というアプローチと、明示的な憲法改正禁止規定の存在というアプローチの二とおりのアプローチがある。もし、総論段階で無限界説を採った場合には、このどちらのアプローチをとるかを先ず決定する必要がある。

 なお、明示的禁止規定は、先に述べた憲法91項の他に、憲法前文の次の文言も、改正権の限界を明示的に定めているという解釈の根拠となる。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 すなわち、ここで「恒久の平和」あるいは「永遠に除去」という箇所に、平和主義を憲法典から削除することが禁止されていることを読むことができるのである。

(二) 9条の解釈について

 ここで、憲法9条の解釈を検討する。

 1 戦争全面放棄説

 第1項で、すでに戦争を全面的に放棄したと考えれば、1項を修正せず、2項以下の修正にとどめようとする本問改正は、基本的に無意味なものといえる。この見解は、古くは宮沢俊義(宮沢著・芦部補訂『全訂日本国憲法』161頁以下)、清宮四郎(『憲法T』112頁)があり、現在においては浦部法穂(『憲法学教室』全訂第2408頁以下)がいる。代表例として、宮沢の見解を紹介する。

「(a)『国際紛争を解決する手段として』の戦争とそれ以外の戦争との区別は、きわめて不明確である。満州事変も、太平洋戦争(大東亜戦争)も、自衛権の発動だと主張されたことは、人の知るところである。そういう経験の後に作られた日本国憲法が、従来からの国際法上の原則どおり、それ以上一歩も出ずに、ただ侵略戦争を放棄しただけだと解するのでは、わざわざ全文で徹底した平和主義をうたい、ことに『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とまでいっていることが無意味になってしまいはしないか。

(b) 日本国憲法の他のどの規定をみても、戦争というものが全然予想されていない。もし自衛戦争や制裁戦争が許されるとするならば、すくなくとも、戦争宣言の手続ー法律で行うか、国会の承認によって内閣が行うか、それとも国民投票で決めるか、などーくらいは、規定されていてしかるべきである。また、戦争が是認されれば、当然に軍隊も是認されようから、義勇兵制とか、徴兵制とかに関する規定もあってしかるべきである。そういった戦争に関する規定がいっさい欠けていることは、たまたま憲法がー単に侵略のための戦争だけでなくーどのような戦争をも予想していないことを推測させるといえよう。」

 議論はまだまだ続いているが、ここまでみれば、説の大要は判ると思う。このような見解を採用し、かつ、平和主義が憲法改正の限界になるという説をとる場合には、本問改正案は、改正権の限界を超しており、許されない、と論ずるべき事になる。

 2 1項侵略戦争放棄説

 通説は、しかし、1項は侵略戦争のみを放棄したものと考える。古くから支持者のいる説であるが、今日における代表例を戸波江二にみてみよう。

「従来、不戦条約や国際連合規約などの国際法規によれば、『国際紛争を解決する手段としての戦争』とは侵略戦争を意味し、自衛戦争や国連による制裁措置を含まないと解されていた。憲法9条の戦争の放棄の規定が、本来、国際関係に関するものであることを考えると、91項が侵略戦争のみを放棄した渡海するのが基本的に妥当であろう。」(戸波・前掲書94頁)

 この戸波江二の見解は、少し簡略に過ぎるので、立法経過を簡単に説明する。憲法9条が、GHQ民政局がいわゆるマッカーサー草案の作成作業に着手するにあたって、指針としてマッカーサーから交付されたマッカーサー・ノート第二項に由来している。 マッカーサーは、そこで次のように述べた。

「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。

 日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」

 ここでは、第1項で自衛戦争までも放棄していることはきわめて明白である。しかし、マッカーサーの指令を受けて、実際にマッカーサー草案のとりまとめを行ったケーディス大佐は若干異なる行動をとった。『自己の安全を保持するための手段としての戦争をも』という部分と『日本は、その防衛と安全を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる』という部分をカットし、代わりに国連憲章を受けて、『武力による威嚇、又は武力の行使は』という文言を前段に挿入したである。その理由について、ケーディスはインタビューで次のように説明している。

「自衛権の放棄を謳った部分をカットした理由は、それが現実離れしていると思ったからです。どんな国でも、自分を守る権利があるからです。だって個人にも人権があるでしょ? それと同じです。自分の国が攻撃されているのに防衛できないというのは、非現実的だと考えたからですよ。

 そして、少なくとも、これで一つ抜け道を造っておくことができる、可能性を残すことができる、と思ったわけです。」

(鈴木昭典『日本国憲法を作った密室の九日間』創元社刊、125頁)

 マッカーサーはこれを認めて、マッカーサー憲法草案の該当部分は最終的には次のような文章となって日本国政府に手交された。

「第8条 国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇又は武力の行使は、永久に放棄する。

 陸軍、海軍、空軍その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。」

 このような制定経過を見ると、少なくとも立法過程において、自衛戦争を許容すること、および文言を国際法規に一致させるという操作が行われたことがはっきりする。そういう点からも、この文言を侵略戦争に限定するという解釈が通説化する理由がある。

 戸波江二は、こうした議論を受けて、9条に関する改正権の限界については、次のように述べている。

「憲法9条についても、戦争の法規を定める1項は改正できないが、自衛軍を保持できるように2項を改正することは、異論はあるが、論理的には可能であると思われる。」(戸波・前掲書502頁)

 すなわち、本問で示された1項をそのまま存置し、2項以下を修正するという見解は、通説的には妥当ということになる。

 なお、参考までに、従来の政府の公式見解を紹介する。

「 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。

 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。

 なお、我が国は、自衛権の行使に当たつては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。」

(衆議院議員稲葉誠一君提出「憲法、国際法と集団的自衛権」に関する質問に対する答弁書(昭和56529日提出)=2009年度防衛白書・資料8参照)

(三) 9条の2について

 なぜ9条の2が必要なのかについて簡単に説明する。先に紹介した宮沢俊義見解の(b)に指摘されているように、現行憲法には、自衛戦争に限定しようとも、わが国が戦争を行うことを予定した規定はない。しかし軍隊を持つということは、どのような形であれ、戦争を行うことを予定しているからであり、戦争を行うということは、国家として最高度に重要な事項であるから、それに関する規定を憲法に設けなければならないのは、当然である。

 例えば、我が国旧憲法は、この点について、次のように定めていた。

13條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

 誠に簡単な規定であるが、天皇主権国家である以上、これで必要にして十分といえる。

 これに対して、民主主義国家の場合には、問題が複雑になる。権力分立制の下において、基本的には国民の直接の代表者で構成される議会が、その決定権者と考えざるを得ないからである。

 アメリカ憲法の場合には、次のように議会の権限としてそれが定められている。

1条第8節 連邦議会は、次の権限を有する。

11)戦争を宣言し、拿捕及び報復の特許状を発し、陸上及び海上の捕獲に関する規則を定めること。

12)陸軍を募り維持すること。ただし、そのための歳出は、2年を超える期間であってはならない。

13)海軍を設け維持すること。

14)陸海軍の統制及び規律のための規則を定めること。

15)連邦の法律を執行し、反乱を鎮圧し、侵入を鎮圧するため民兵の招請について定めること。

16)民兵の編制、装備及び規律について定め、その一部が合衆国の兵として用いられた場合にその部分の統制について定めること。ただし、将校の任命と連邦議会によって規定された規律に従って民兵を訓練する権限は、各州に留保される。

17)特定の州の割譲と連邦議会の受領により合衆国政府の所在地となる(10平方マイルを超えない)地区について、すべての事項について排他的に立法権を行使すること。及び要塞、弾薬庫、兵器庫、造船所その他の必要な建造物のために、その州の議会の同意によって購入されたすべての場所に対して、同様の権限を行使すること。

 しかし、ここで問題は、議会というのものは、常設の機関ではないために、機動的な対応が不可能という点である。そこで、米国合衆国憲法221文は次のように定める。

「大統領は、合衆国の陸軍及び海軍及び合衆国の兵役のため現に招請された各州の民兵の最高司令官である。《後略》」

 このように、民主主義国において戦争を予定する場合には、憲法レベルにおいて軍隊を置く規定を設け、また、戦争を誰の権限でどのようにして開始し、その後の運用はどうするかについての規定が必要なのである。

 しかも、わが国の場合には、米国にない特殊な問題がある。それは基本的に平和主義を採用し、専守防衛という点である。したがって、わが国で戦争が始まる時には、不意に敵国が侵略してくるという事態がもっとも考えられる。その場合には、そうした事態をそもそも想定していない米国憲法はあまり参考にはならない。

 基本的にわが国と同様に平和主義を採用し、専守防衛を念頭に置き、一方的侵略の事態を想定しているドイツがもっとも参考になる。そこで、類題に紹介した規定は、ドイツ憲法115a条の規定をわが国の用語に置き換えて作成した。但し、実際のドイツ憲法の規定は、これよりはるかに詳細なものである。不意の侵略という問題から発生するあらゆる場合について、民主的・合憲的な方法で軍隊を動員しうる方法を残さなければならないからである。

 これまで、わが国で展開された議論は、92項を削除すれば再軍備が可能であるかのごとき論調が多い。例えば、読売新聞が2004年に公表した憲法改正草案における戦争法規関連の規定は次のようになっている。

◆第三章 安全保障◆

 第11条(戦争の否認、大量破壊兵器の禁止)〈1〉日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない。

〈2〉日本国民は、非人道的な無差別大量破壊兵器が世界から廃絶されることを希求し、自らはこのような兵器を製造及び保有せず、また、使用しない。

 第12条(自衛のための軍隊、文民統制、参加強制の否定)〈1〉日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための軍隊を持つことができる。

〈2〉前項の軍隊の最高の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。

〈3〉国民は、第一項の軍隊に、参加を強制されない。

 ◆第四章 国際協力◆

 第13条(理念)日本国は、地球上から、軍事的紛争、国際テロリズム、自然災害、環境破壊、特定地域での経済的欠乏及び地域的な無秩序によって生じる人類の災禍が除去されることを希求する。

 第14条(国際活動への参加)前条の理念に基づき、日本国は、確立された国際的機構の活動、その他の国際の平和と安全の維持及び回復並びに人道的支援のための国際的な共同活動に、積極的に協力する。必要な場合には、公務員を派遣し、軍隊の一部を国会の承認を得て協力させることができる。

 第15条(国際法規の遵守)日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守する。

 ここでは、ここに例示した9条の2のような規定の必要性は完全に忘れられている。しかし、戦争の開始を、憲法で明記せず、法律以下の規定に任せるというのは、きわめて危険な発想で、立憲主義に立つ限り、絶対に許されないといわなければならない。