生存権と併給調整の合憲性

甲斐素直

問題

 Xは、国民年金法施行令別表の11号(両眼の視力の和が0.04以下のもの)に該当する視力障害者で、同法に基づく障害基礎年金を受給している。Xは内縁の夫Aとの間に男子Bがある。XAと離別後独力でBを養育してきた。しかし、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当制度を知ったことから、居住するC県知事Yに、その受給資格について認定の請求をしたところ、Yは、請求を却下する旨の処分をした。さらに、XYに異議申し立てをしたのに対し、Yは右異議申立てを棄却する旨の決定をした。その決定の理由は、Xが障害基礎年金を受給しているので、児童扶養手当法43項二号に該当し受給資格を欠くというものであつた。

 そこで、Xは処分の取り消しを求めて、Yを相手に訴えを提起した。

 この訴訟における憲法上の論点を指摘し、論ぜよ。

参照条文

児童扶養手当法

4  都道府県知事、市長(特別区の区長を含む。以下同じ。)及び福祉事務所(社会福祉法 (昭和二十六年法律第四十五号)に定める福祉に関する事務所をいう。以下同じ。)を管理する町村長(以下「都道府県知事等」という。)は、次の各号のいずれかに該当する児童の母がその児童を監護するとき、又は母がないか若しくは母が監護をしない場合において、当該児童の母以外の者がその児童を養育する(その児童と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その母又はその養育者に対し、児童扶養手当(以下「手当」という。)を支給する。

 父母が婚姻を解消した児童

 父が死亡した児童

 父が政令で定める程度の障害の状態にある児童

 父の生死が明らかでない児童

 その他前各号に準ずる状態にある児童で政令で定めるもの

2 略

3 第1項の規定にかかわらず、手当は、母に対する手当にあつては当該母が、養育者に対する手当にあつては当該養育者が、次の各号のいずれかに該当するときは、支給しない。

 日本国内に住所を有しないとき。

 国民年金法等の一部を改正する法律(昭和六十年法律第三十四号)附則第32条第1項の規定によりなお従前の例によるものとされた同法第1 による改正前の国民年金法に基づく老齢福祉年金以外の公的年金給付を受けることができるとき。ただし、その全額につきその支給が停止されているときを除く。

[はじめに]

 本問は、堀木訴訟(最大昭和5777日=百選第5版参照)を問題化したものである。ただし、現時点における法制度に修正してある。その結果、参照条文は、事件当時は433号であったが、本問では432号になっている。同号は非常に複雑な規定の仕方をしているが、それは、当初の規定が、堀木訴訟第1審で、原告側が勝訴したのに伴い、昭和48年の通常国会で本問の併給禁止規定がいったん削除された後、最終的に最高裁判所で立法裁量権が認められたことに伴い、元に戻された、という経緯を反映している。

[問題の所在]

 本問の基礎となっている併給調整とは、支給事由が異なる二つ以上の年金の受給権を有する場合、一人一年金支給の原則により、本人が選択する一年金を支給し、他の年金は支給停止することをいう。たまたま複数の年金の受給権を得たからといって、同等の立場にある他の者よりも優遇されるのは不合理という発想からの制度である。例えば、夫婦共稼ぎで働いていた場合、受給年齢に達すると、それぞれの加入していた年金の支給が受けられる。夫が年金を受け取らずに死亡すると、妻は遺族年金が受けられるという制度がある。すると、共稼ぎだった場合、妻は、自らの年金に加えて遺族年金が受けられることになる。これは不公平ということで、併給調整の対象となる。即ち、遺族年金の方が、自らの年金より多ければ、そちらを選択しても良い。

 本問の場合、児童扶養手当は年金ではないから、そもそも併給調整の対象にはならないのではないか、という疑問が生ずると思う。

 実は問題はもう少し複雑である。普通、国民年金というと、加入者が長期にわたって保険料を支払うと、その反対給付として保険金が受け取れる制度をいう。これを拠出性国民年金という(あるいは略して拠出年金)。しかし、心身に障害のある人は、そもそも保険料の支払い自体が困難である。そこで、一定の条件を満たす人を対象として、保険料の支払いを行っていない人に対する年金給付を行うという制度が作られる。これを無拠出性国民年金という。本問Xが受領しているのもそれである。

 社会福祉制度は、大きく社会保険と公的扶助に分けられる。無拠出性年金は、形式としては社会保険に属するが、その原資が本人の支払った保険料ではなく、税金であるという点で、その性格はむしろ公的扶助に近い。ただ、公的扶助の代表というべき生活保護の場合には、健康で文化的な最低限度の生活を送るためには、どれだけの補助が必要かについて、その受給者の個別状況を調査し(これをミーンズテスト〈means test〉という)、それに従って支給する。これに対し、無拠出性年金は、法律の定める要件を満たしていれば、それだけで、実際の収入等を調査することなく定額の保険金を支給する、という点が違っている。

 そして、この点に関しては、児童扶養手当も、無拠出性年金と同じ性格を有している。その結果、併給調整の対象とするという法律が作られたのである。

[論文のポイント]

 本問の場合、第一の論点は、社会権(生存権的基本権)とは、そもそもどのような権利なのか、という点である。実はこの社会権という概念については学者ごとに相当の喰い違いが存在している。この基本概念を確定せずにいきなり「生存権の法的性格」などという議論を始めても、それは砂上の楼閣にすぎない。

 また、この点と少々異質の論点として、13条と25条の関係も考えておかなければならない。社会権という概念の存在を認める場合、25条がその総則というべき性格をもっていることはほぼ異論がない。その場合、教育権や労働基本権以外の社会権、すなわち無名社会権を25条で基礎づけることができるのか、それは13条なのか、という問題である。これについても学説は相当の乖離を示す。

 25条と14条の関係についても同様である。19世紀までの自由国家時代の憲法原理としての平等原則は、機会の平等(形式的平等)のみを問題にしていた。福祉主義の出現とともに、初めて社会国家的平等(実質的平等)の問題が発生したのである。この場合にも、学説には、上記の論点と連動する形での差異がある。すなわち14条で社会国家的平等まで読み込む立場と、14条はあくまでも自由国家的平等を問題としており、社会国家的平等については25条で読むという立場とがあり得るのである。

 これは、具体的には、諸君の多くが近時好む14条後段特別意味説(つまり列挙事項については厳格度を上げた審査基準を用いるとする説)が、社会国家的平等の解釈根拠として使えるか、という問題と結びついている。特別意味説の根拠は、歴史的に列挙事項に特別の意味がある、とする理解である。そして、歴史的な理解とは、当然のことながら自由国家的平等を意味する。したがって、それぞれの特別意味説により議論の流れは違ってくるが、どの説でも結論としては、使えない、というのが答えにならなければいけない。

 社会国家的平等を14条で読めるとする場合には、こうした議論を展開する必要がある。それに対して、25条で読むとする場合には、25条一般の総論の中にそれを融合させることが出来る。すなわち、社会国家的平等権もまた、社会権の1種類なのであるから、相対的に議論の量を減らすことが出来る。簡単に言ってしまうと、25条に具体的権利性がなければ、社会国家的平等問題も起こらないのである。また、25条について、立法裁量の幅が広ければ、これまた、平等を考えるにあたっても、同様の幅が認められることになる。

 ところで、そもそも、なぜ本問で平等が問題になるのだろう、と首を捻っている人もいると思う。実は、それを理解してもらう目的で、参照条文がつけてある。児童手当法413号によると、父親が障害者である(したがって障害基礎年金を受給している)場合には、児童手当の受給資格が発生する。ところが、本問のように、父親がおらず、母親が障害者である場合には、併給調整で受給資格が失われる。不平等ではないのか、というのが、ここでの論点である。ここで問題になっているのは、国に対する積極的作為請求権の有無という意味で、社会国家的平等の問題であることが判ると思う。

 なお、堀木訴訟控訴審判決は、25条に関して独特の解釈を示している。そこで、それの提起している問題点に論及すべきか、迷う人もいると思う。答えは簡単で、無視して良い。理由は、最高裁判所が無視しており、学説の支持もないからである。学者になろうというのならともかく、実務家法曹になろうとする諸君としては、こうした説にまで配意する必要はない。

 本問における解答の基本方針としては、立法の不作為の問題として捉え、その要件を展開する、という形を

 

一 社会権(生存権的基本権)の法的性格に関する学説の状況

 ここでは、社会権の概念内容をめぐるかなりややこしい議論を紹介している。諸君の論文にこれを書く必要はない。それなのにあえて紹介するのは、このように錯綜しているから、自分が社会権という言葉で、どのような概念を考えているのか、ということを明確に論文に書く必要がある、ということをきちんと理解してもらうためである。それは判っている、という人は、この節はとばしてくれて構わない。

(一) 言葉の意味

 これから行う説明で、プログラム規定説、抽象的権利説及び具体的権利説という言葉を使用して、学説や判例を説明する。しかし、これらの言葉は、正確にはどのような意味なのだろうか。ここではその点を簡単に説明する。

 最初期の成文憲法、例えばアメリカ独立宣言とか、フランス人権宣言というものは、単なる理念の表明ないし政治的なプロパガンダであった。したがってその起草者には、憲法自体から裁判規範となるような具体的な法的権利を引き出すという発想は存在しなかったことは確かである。憲法は法規範であり、したがってその文言は、原則として法的権利の源泉になり、したがって裁判規範足り得るのだ、という考えをはじめて明確に打ち出したのは、ドイツワイマール憲法時代のドイツ国家裁判所である。しかし、ワイマール憲法は、その制定された経緯から、その中には単なる理念表明に過ぎず、どう解釈しても裁判規範足り得ないというものも多数含んでいたから、裁判所は、両者の識別を必要とした。そこで、裁判上の規範として現実に効力のある規定を「直接適用される規定」といい、理念の表明して立法府に対して政策の指針、目標を設定したに止まる規定のことを「プログラム規定」と呼び、これについては法的効力を認めないという解釈技術を採用した。したがって、プログラム規定という用語を使用可能な場合には、その規定をいつまでも国会が現実化しなくとも違憲の問題は起こらないし、現実化するための法律が国会に依って作られた後においても、それは裁判規範性を持たないから、その文言が司法審査にあたって問題になるることもあり得ない。

 これに対し、単なる政策指針等にとどまらず、法的性格を有する権利とする考えがある。このうち、立法府及び行政府を拘束するが、裁判規範性はない、という場合に、それを抽象的権利と呼ぶ。これに対し、裁判規範性を肯定する場合に、それを具体的権利という。

 抽象的権利説は、現実の立法が行われるまでは、プログラム規定説と変わりはない。しかし、現実に立法が行われた後においては、その法律により具体的権利が生まれているから、裁判所としては、その具体的権利の憲法適合性を審査することが可能になる点で、プログラム規定説と異なることになる。それに対し、具体的権利説は、そうした立法が存在しない時点で、既に裁判所でそれを争いうる点が違っている。

(二) 生存権的基本権としての把握

 1 我妻栄の見解

 憲法25条から28条までの人権条項を、生存権的基本権という概念で統一的に理解すべきことを、わが国で最初に主張したのは、民法学者の我妻栄であった。昭和23年に発表された「新憲法と基本的人権」という論文が、それである(我妻栄著『民法研究[ー憲法と民法』有斐閣、昭和45年刊89頁以下参照)。その中で、我妻は「19世紀の憲法の基本的人権の内容は『自由』という色彩にいろどられている」のに対して「労働の能力と意欲を有するものはすべてのそれによって幸福な生存を保つことができるように、国家が特別の配慮をするということであるから、生命・自由・幸福追求物質的手段として『労働の権利』を保障する20世紀の憲法の基本的人権の内容は『生存』という色彩に彩られている」という質的差異がある。そこで「19世紀の憲法の特色をなすものを『自由権的基本権』と呼び、20世紀の憲法の特色をなすものを『生存権的基本権』と呼ぼう」と主張した。すなわち25条から28条までを一括して「生存権的基本権」と呼ぶこととし、また25条をその総論的規定と位置づけたのも、我妻をもって嚆矢とする。

 我妻の論文出現以前においては、たとえば美濃部達吉が受益権と分類していたことに代表されるように、当時の憲法学界は、これらの人権条項の真の意味を理解できないでいた。その中で、我妻栄は生存権的基本権という概念を明確に確立することにより、その説は一気に通説的地位を獲ち得たのである。

 その法的性格について、我妻は、次のように述べる。

「生存権的基本権は、自由権的基本権のように、個人をもって国家と対立するものとは考えない。個人と国家とが有機的に結合した個と全との関係に立つものと考える。また、自由権的基本権のように、個人がそれ自らのための自由を有し、国家はただ外部からこれに対して最小限度の制限を加えることを任務とするものとは考えない。個人の自由は、国家全体とともに文化の向上に尽くすべき責任を伴うものであり、国家は個人の自由の発展のために積極的関与をなすべき義務を負うものと考える。」

 また、生存権的基本権の法的性格としては、次のとおりプログラム規定とした。

その実現は常に「政府が、財政その他とにらみ合わせて、攻究立案しなければならないものである。そして、そこに、政府の政策の特色がありまたその責任がある。もし、これを裁判所が決定して政府に強制してやらせることになれば、行政は司法の手に移ることになり、責任内閣制は破れることになる。のみならず、『生存権的基本権』の実現のためには、法律を作ることを必要とする場合が非常に多い。その場合に、国会が必要な法律を作らないからといって、裁判所が代わって法律を作ったり、国会に命じて法律を作らせたりすることができるものとなす事は、到底許されないことである。なぜなら、立法と司法の分立が破れるだけでなく、国会が国権の最高機関であることも否定されることになるからである。」

 この、我妻が発見した生存権的基本権という概念の特徴は、一つの権利が、国務請求権的側面と自由権的側面という二つの側面を持つと考える点にある。

 すなわち、第一の国務請求権的側面では、「これらの権利は、いずれも国権の積極的な関与によって保障されている。」。しかし、「国家が右の責務を等閑に付し、必要な立法や適当な施策をしないときには、国民はこれを要求する方法はない」とされるのである。換言すれば、この側面はプログラム規定にとどまり、法的権利性を持たないと考えるわけである。

 これに対して、第二の自由権的側面では、次のように主張する。

「国家はこれらの権利の実現に努力すべき責務に違反する行動をなすときは、その立法は無効となり、その処分は違法となる」

したがって、その限度で法的権利性を有し、しかもそれは具体的権利性であると考えるわけである。このように国家による生存権的基本権の侵害行動は違憲とされる結果、労働基本権の行使に対する刑事制裁に対しては、裁判所は違憲、無効とすることができる。同様に、個人による生存権的基本権の侵害も違憲となるから、雇い主と労働者の契約又は労働協約が労働者の団結権を妨げたり、その行使を困難ならしめるような内容の時にも、裁判所はそれを無効とすることができる。すなわち、生存権的基本権の自由権的側面は私人間効力の否定される典型的な自由権と異なり、私人間に直接適用のあることが承認される。

 2 我妻説の学界における受け入れ

 上記我妻の主張を、憲法学界で直接的に継承して論じたのは法学協会編の『註解日本国憲法』であり、その後においても、佐藤功などに継承されている。また、労働法学界においては、石井照久、石川吉右衛門等がこれを継受した形で労働権を論じており、同学界においては今日においても通説的理解ということができるであろう。

(三) 社会権という理解について

 これに対して、憲法学の分野では、我妻の認識の画期的な意義は認めつつも、それとは一線を画した社会権という概念に属すると認識する者が現れるようになってきた。このように、生存権的基本権という理解に代えて、社会権という理解が現れた大きな原因は、戦前よりのドイツ法継受の伝統の中で社会権(Sozialrechte)というドイツで言われていた概念が受け入れやすかったという点が大きいと思われる。例えば、現行ドイツ憲法201項は「ドイツは民主主義的、社会国家(sozialer Bundesstaat)である」と宣言している。

 他方において、ドイツでは、社会権は抽象的権利という認識に立っているが、日本では、その受け入れ状況は極めて多岐にわたっている。

 1 生存権的基本権の言い換え説

 もっとも単純な形態としては、我妻栄の創称になる生存権的基本権の概念内容をそのままに、単に名称だけ社会権とする者である。このような見解を示す者は、初期の時代から今日に至るまで一貫して、若干ではあるが、存在している。しかし、このような言葉の使い方は、創唱者である我妻に失礼である、と私は考えている。

 2 抽象的権利説

 生存権的基本権説とは一線を画した概念として、社会権という用語を使用する場合に、その法的権利性を承認する場合にも、抽象的権利と考え、国家に対して立法を請求する権利とは考えても、裁判において争い得る権利とは考えない立場が主流を占めた。ただし、その内容においては、時期により、また人により、大きな差異を示している。

 たとえば、宮沢俊義は次のように述べた。

「憲法上、国民の利益にまで、ある種の国法の定立(処分を含む)が要請される場合がある。たとえば、勤労の意欲のある者には適当な職を与えるような国法を定立することが、憲法上、立法者の義務とされる場合は、これである。ここでは、国民は、国法に対して、積極的な受益関係に立つことができる。ここでも、国民は、国法の利益を受ける地位にあるが、(消極的な受益関係とは違い)、それは、積極的に国法を定立することが義務づけられている結果である。国民のこのような地位を社会権と呼ぶことにする。」(宮沢俊義『憲法U』有斐閣昭和34年刊90頁以下参照)

 宮沢俊義は、この記述に引き続いて、次のように、美濃部説を批判する形で、社会権の具体的権利性を否定すると明確に述べている

「社会権は、ときにイエリネックのいう積極的な関係における権利ー受益権とか積極的公権と呼ばれることがあるーと同じ性質を有すると説かれることがあるが、それは正しくない。イエリネックのいう積極的な地位における国民は、国家の具体的な行動に対する請求権を有するのであるが、ここにいう社会権は、そういう具体的な請求権を含むものではない。」

 したがって、ここにいう社会権の法的効果は、結局、生存権的基本権の国務請求権的側面と変わらないことになる。換言すれば、自由権的側面を認めない。

 佐藤幸治は、基本的分類として宮沢の社会権概念を使用しつつ、社会権の本質的属性は国民が「国家権力の存在を前提として、そうした権力を自らの手におさめ支配しあるいはそれを利用しようとするところ」(佐藤幸治『憲法』第三版410頁参照)にあると理解する結果、社会権を基本的には抽象的権利として把握しつつ、我妻の自由権的側面を認めることになる(同書620頁参照)。労働基本権についても、社会権としての性格から当然に刑事免責などの効果が導かれる(同書632頁参照)。

 芦部信喜は、個人的請求権としての面があることは承認する。ただ、自由権を不作為請求権(権利の行使を妨げる国の行為の排除を請求できる権利)、社会権を作為請求権(国に対して積極的な作為を請求する権利)と、単純な構造で理解する。この結果、我妻説の場合には、生存権的基本権の典型と理解される「労働基本権に至っては、歴史的に見ても、自由権(結社の自由、言論表現の自由など)がその基礎に存する点で、社会権の中でももっとも自由権的性格が強い」(芦部『憲法学U』有斐閣83頁)というように、完全に原則と例外とが逆転した形での理解が行われることになる。戸波江二の場合にも芦部信喜と同じように、自由権を不作為請求権、社会権を作為請求権として理解する(戸波『憲法』ぎょうせい254頁)。その結果、労働基本権などについても同様の見解を示す。

 この用語法には批判も強い(例えば、内野正幸『社会権の歴史的展開―労働権を中心にして』信山社1992年刊) 。しかし、今日もっとも支持を集めている用語法ということができるであろう。その簡明さは非常に魅力的である。

 3 具体的権利説

 このように、通説が抽象的権利という限度で法的権利性を承認しているのに対して、これを具体的権利として構成しようとする試みが生ずるのは、学説の発展という観点から見れば当然の結果である。その代表を大須賀明に見ることができる(大須賀明『生存権論』日本評論社1984年刊参照)。

 抽象的権利説と大須賀における「具体的権利説」との相違はただ一点に過ぎない。それは、本条を具体化する立法が存在しない場合においても、国の不作為の違憲性を確認する訴訟を提起できるか否かである。大須賀明は、第一に、形式的根拠として13条の幸福追求権に対する立法の尊重義務の存在を指摘する。特定の歴史的社会的条件の下においては本条の健康で文化的な最低生活という概念は絶対的確定が可能であると主張し、そこから立法の不作為の場合に国会の作為義務を認める。第二に、プログラム規定説及び抽象的権利説が問題としていた予算の裁量性については予算の法規範性から、通常の法律と同視し得るものと主張し、司法審査の対象となり得ると結論する。

 これを徹底していくと「言葉通りの意味における具体的権利性を承認する立場が現れてくる。棟居快行はその代表である(棟居快行「生存権の具体的権利性」長谷部恭男編『リーディングズ現代の憲法』日本評論社1995年刊、160頁以下参照)。抽象的権利にとどめるべきだとする論拠を一つ一つ検証することにより、「『健康で文化的な最低限度』を下回る特定の水準については、金銭給付を裁判上求めることが可能である」との結論を導いている。長谷部恭男もこれに賛同して、「抽象的権利説に基づいて司法の介入を求める手がかりとなる具体的な制度が存在しない場合には、この『ことばどおりの意味』における具体的権利説がその役割を発揮する余地がある」(長谷部恭男『憲法』第3版新世社2004年刊、280頁参照)と主張する。

(四) 人権であることの否定説

 一般的行為自由説を採用する阪本昌成は、自由、すなわち国家の不作為を通じて保障される消極的な自由によって支えられるものだけを人権と称すべきことを主張する。このようなスタンスに立てば、25条以下の権利が人権であることを否定するのは必然の結論ということになろう(阪本著『憲法理論V』成文堂刊315頁以下参照)。

「この立場からすれば『生存権』を中心とする『社会権』は、一定の資格・身分を前提としてはじめて保障される権利である以上、人権ではなく、憲法典上の権利または制度化された権利である、と位置づけられることになる」

 この考え方の場合にも、類型的にはプログラム規定説的理解となるのではないかと思われる。ただし、阪本昌成自身は、プログラム規定か否かという論争を詳細に紹介しつつ、それよりも25条がどの程度立法裁量を拘束する法力を持つか、という視点を問うことの方が有益であるとする。

(五) 私見

 私は、以上の何れとも違う独自の見解を有している。良い機会であるので、簡単に私見を述べておきたい。

 私のこの問題に対する考えは、「行政庁が、行政活動を行うことが許されるのはなぜ」かという疑問から出発する。そして、その答えは、行政は主権者の意思の実現だというものである。そして、その主権者たる国民の意思は、国民主権原理の下においては、憲法の保障する人権という形で現れる。したがって、人権の具体的な実現を目指す活動を行政と呼ぶことになる。

 ドイツのフォルストホフという学者は、現実に社会国家で展開されている行政を研究し、そこに従来の、自由国家における侵害行政とまったく異なる理念に支配された行政類型を発見し、これを給付行政(Leistungsverwaltung)と名付けた。そして、この給付行政を支配する理念として生活配慮(Daseinsvorsorge)を主張した。

 このことを憲法的に見るならば、国民には、国家に対して生活配慮を要求する権利があり、この国民の要求を満たすために行われるのが給付行政である、ということができる。そして、この国家に対する生活配慮請求権を、我々憲法学者は社会権と呼んでいると理解することができる

 以上に述べたように、社会権の要求に基づく行政活動を給付行政と考える時、そこでもっとも重視するべきは、それに基づき、国に課される義務の広汎性である。給付行政は一般に供給行政、資金助成行政、社会福祉行政の三つに区分される広大な活動であり、その割合は現実のわが国行政活動のおそらく99%以上に達する。

 ここでもう一つ考えておかねばならないことが、社会権全体の中に占める憲法25条の意義である。それは、総論規定であり、社会権における無名基本権規定であると一般に解されている。すなわち、自由権において憲法13条が占めるのと同じ地位を25条は占めているのである。

 憲法13条の幸福追求権については、伊藤正己のように、13条のみからは客観的な基準を読み取ることはできないから、抽象的権利性しか認められず、その具体的実現は法律に待たなければならない、とする説もある。しかし、通説的には、むしろ13条から具体的権利性を引き出しうる場合があるとする。引き出す手段を巡って、人格的自律説と一般的行為自由説が対立していることは、諸君も知るとおりである。

 このような13条における議論と比較してみると、25条の解釈に当たり、佐藤幸治や芦部信喜などが、かたくなに具体的権利性が認められる場合を一切否定するのはおかしいと言える。近時の学説が棟居快行や長谷部恭男に代表されるように、具体的権利性を承認する方向に動いているのは、その意味で当然である。

 同時に、13条の議論でも、例えば情報公開請求権については、一般に抽象的権利性が認められるにとどまり、その具体的実現は情報公開法の制定に待たなければならなかったことにしめされるとおり、一律に具体的権利性が承認されるわけではない。まして、先に述べたとおり、給付行政に属する活動はきわめて広汎であるから、その全体について一律に、その性格を決定することはできないと考える。供給行政の多くは、例えば道路や港湾の整備に向けた行政活動のように、人権の側から評価する場合には、プログラム規定、すなわちその実現の方向に向けて国家として努力する政治的責務があるにとどまり、法的権利性があるとはとうていいうことはできない。資金助成行政の多くは、例えば住宅建設資金や中小企業の事業資金の貸し付けのように、法的権利性を認めることはできるが、抽象的権利にとどまり、それを具体化する法律が存在しない限り、裁判所の救済を求めることはできない。それに対して、社会福祉行政の多くは、例えば本件の生活保護のように、仮に法律が存在しないとしても、国家として健康で文化的な最低限度の生活を送るのに必要な援助を行うべきであろう。

 

二 社会権に関する判例の発展

(一) 食糧管理法違反事件

 25条に関する最初の最高裁判決は、食糧管理法違反という刑事事件に関する(昭和23929日)。被告側は、食糧の没収は生存権の否認であると主張したのに対して、最高裁はそれを退けたのであるが、理由は次の二つである。

 第1に「国家は、国民一般に対して概括的にかかる責務を負担しこれを国政上の任務としたのであるけれども、個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するものではない。言い換えれば、この規定により直接に個々の国民は、国家に対して具体的、現実的にかかる権利を有するものではない。」

 第2に「国家経済が、いかなる原因によるを問わず著しく主要食糧の不足を告げる事情にある場合において、もし何等の統制を行わずその獲得を自由取引と自由競争に放任するとすれば、買漁り、買占め、売惜しみ等に依って漸次主食の遍在、雲隠れを来たし、従ってその価格の著しい高騰を招き、ついに大多数の国民は甚だしい主要食糧の窮乏に陥るべきことは、識者を待たずして明らかであろう。」

 この判決は、一面で上記我妻説を受け入れ、生存権という新しい概念を認めたという点で画期的であった。が、同時に、その自由権的側面での問題であるにも関わらず、生存権に具体的権利性を否定した点で我妻説に反するものであり、問題あるものであった。

 なお、この判決は、よくプログラム規定説を採ったものと紹介されることが多い。しかし、上記第2の点は明確に立法の義務を述べており、その意味で法的権利⇒抽象的権利性を認めたと見る方が妥当な判決といえる。

(二) 朝日訴訟

 学説に衝撃を与えたのは朝日訴訟である。原告朝日茂は、その十数年前から国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所し、現物による全部給付の給食付医療扶助と生活扶助基準で定められた最高金額月600円の日用品費の生活扶助とを受けていたが、600円の基準金額が生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりない違憲のものであると主張して訴訟を提起した。高裁判決は、マーケットバスケット方式により健康で文化的な生活を営むための最低限度の金額は670円と認定し、1割程度のずれは行政裁量の範囲内であるとして、不当であるが合法として請求を退けた。

 最高裁総和42524日判決は、朝日茂が上告前に死亡したため請求を退けたが、「ねんのため」と称して憲法判断を示した。すなわち、上述した食糧管理法最高裁判決を先例として宣言した後、次のように述べた。

「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。したがつて、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。

 憲法判例百選第5300頁は、上記引用の後半部分(下線部分)を紹介していない。しかし、この箇所は、我妻のいう自由権的側面の具体的権利性を述べた部分であり、食糧管理法違反事件と一線を画した極めて重要な判例と考える。

 なお、この事件は、行政裁量が問題となっているため、生存権が抽象的権利なのかプログラム規定説を採ったものかは不明である。

(三) 堀木訴訟

 堀木訴訟は、本問が、そのベースとした問題である。

 第1審は14条違反で請求を認めた。これに対して第2審判決は、憲法251項が救貧施策を、2項が防貧施策を要求しているという独特の理論を採用した上で、これは2項の問題であるので、国の立法裁量権に著しい濫用がない以上、認められない、として退けた。

 最高裁判所大法廷昭和5777日判決は、前記昭和23年判決を再確認した後、次のように議論を展開した。

「憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう『健康で文化的な最低限度の生活』なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である」

 この判決を、プログラム規定説を採用していると読んだり、抽象的権利説と読むのは誤りである。なぜなら、ここでは立法裁量が濫用と見られる場合には司法審査の対象となるということを明言したからである。すなわち、この下線部は、小売市場事件と同じ狭義の合理規制基準を採用しているのである。朝日訴訟との落差は大きく、これが大法廷判決とされた理由もここにあると考えられる。

 そもそも立法裁量とは、「裁判所が法律の合憲性の審査を求められたとき、立法府の政策判断に敬意を払い、法律の目的や目的達成のための手段に詮索を加えたり裁判所独自の判断を控えること」(戸松秀典『立法裁量論』有斐閣1993年刊、3頁より引用)をいう。要するに、本来は司法審査可能な問題についての裁判所の自制が、この理論の根拠なのである。したがって、立法裁量が問題になった段階で、すでに司法審査の対象となっているということができる。そして、この判決では、その立法裁量が著しく合理性を欠く(下線部)場合に、司法審査が可能であることを宣言しているのである。すなわち、そのような場合には具体的権利性を承認したものと読むのが正しい、と考えている。

(四) こうした最高裁のスタンスはその後も貫かれている。給与所得に係る課税制度が本条に違反するとする訴訟に対する最高裁第三小法廷平成元年27日判決(百選第5302頁参照)では、上記堀木訴訟最高裁判決を引用した後、次のように述べる。

「そうだとすると、上告人らは、前記所得税法中の給与所得に係る課税関係規定が著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないゆえんを具体的に主張しなければならない」

 しかし、それが不十分であったとして請求を退けている。証明に成功すれば、司法審査を行うという積極的な姿勢をみることができる。この場合にも、具体的権利性を肯定していると見ることができる。

 

三 立法の不作為

 本問のように、立法の内容が、憲法の要求する内容になっていないとして争うことを、立法の不作為という。直感的な説明で良ければ、憲法上、立法府として当然に行うべき立法を行わないことである、といえる。あるべき法が存在しないこと、といった方が判りやすいかもしれない。

 ただ、これは憲法学としては、十分な説明ではない。憲法が制定を要求している法が存在しないということは、決して直ちに憲法上の問題となるということではないからである。例えば、憲法96条は、憲法改正の要件として国民投票を要求しているが、平成19年まで、半世紀以上もの間、その法律は制定されなかった。これも間違いなく立法の不作為であり、そのような法律が存在していなかったことは、違憲といいうる。しかし、これまで、現実に憲法改正の手続に取りかかりながら、そうした法律が不存在であるがために断念した、というような事態が起こらなかったためにそれは問題にならず、したがって、司法審査の問題にもならなかった。すなわち、本問は、単に立法の不作為が存在しているだけでなく、その不存在に基づいて、人権侵害が発生し、司法審査の段階に到達している、という事態を考えて、始めて問題足りうる。

 そして、こうした立法の不作為は、自由国家理念の下においては、司法審査の対象となる可能性自体を持ち得ない。なぜなら、自由とは国家からの干渉のない状態であり、したがって法律が存在していなければ完全な自由状態を享受できるから、法律の不存在により人権の侵害が発生すると言うことはあり得ないからである。もちろん、これは自由権についての問題であって、国務請求権や参政権については、自由国家理念の下でも、法律の不存在により人権侵害の問題は発生してくるのである。しかし、自由国家においては、その自由を確保するためのメカニズムとしての権力分立制には絶対的なウェイトが置かれる。現に存在する法律に対する違憲審査でさえも、それが消極的な立法であるが故に問題視される状況下においては、立法の不作為を司法府が論ずることは、まさに司法による積極的な立法行為を意味するだけに、当然に違憲と判断されることになる。

 実を言えば、これは立法の不作為の場合だけの問題ではない。行政の不作為についても同じことが言われていたのである。すなわち、存在する行政についての違憲審査はともかく、まだ何らの行政行為が行われていない段階で、特定の行政行為を行うように司法府が命ずることは、権力分立制に違反し、許されない、とかっては説かれていた。いわゆる「行政権の第一次判断権」と言われる問題である。すなわち、行政事件訴訟法が、行政活動に対する後行的司法審査を原則としているので、その限度で行政権の第一次判断権が承認されるのであって、行政行為の不存在の場合にも司法審査そのものは可能であると説かれる。その結果、今日においては、無名抗告訴訟の形で、行政行為の義務づけ訴訟、あるいは差し止め訴訟が肯定され、多数の訴訟が行われている状況にある。

 この行政権の第一次判断権という理論は、権力分立制という理念と、司法審査の拡充による国民の権利保護という対立する概念の調和点として存在していたのであるが、同様の問題を立法に関して考えたとき、登場してくるのが、本問の「立法の不作為」概念なのである。したがって、立法の不作為という概念を、司法審査と切り離して考えることは適当ではない。

 在宅投票制度復活訴訟において、東京高裁は次のように述べた。

「一定の立法をなすべきことが憲法上明文をもって規定されているか、もしくはそれが憲法解釈上明白な場合には、国会は憲法によって義務づけられた立法をしなければならないものというべきであり、もし国会が憲法によって義務づけられた立法をしないときは、その不作為は違憲であり、違法」である。

 この定義は、まさに司法審査というものを前提とした定義であることに注目すべきである。我々国民が、国会に対してあるべき立法がない、と主張して立法を要求する場合(新聞やテレビを通じて、あるいはデモ行進により、あるいは請願権を行使する場合など)においては、この要件は問題にならないからである。すなわち憲法解釈上、明白でなくとも、自分自身の憲法解釈でそう結論が導ければ、我々は、その違憲性を主張して要求できるのであり、国会がその主張を正しいと考えて立法行為を行えば、それはまさに違憲状態の解消と評価できるはずである。要するに、この東京高裁の判決は、司法府が違憲審査権の一環として立法の不作為を要求する場合に特有の特別の要件ということになる。

 今日、立法の不作為を裁判の場において争うには、@通常訴訟の枠内で争点となったときに争う方法、A不作為により損害を受けたとして国家賠償法により争う方法、B作為義務存在確認の訴えを起こす方法の3つを考えることができる。本問のベースになった堀木訴訟や衆議院議員定数違憲訴訟などが、第1の方法の典型である。

四 通常訴訟における立法の不作為の成立要件

 わが憲法は、社会国家理念を基本的に採用しているが、それは権力分立制などに代表される自由国家理念を否定したことを意味するのではない。したがって、この二つの基本的な国家理念の折衷点をどこに求めるかにより、立法の不作為にどのような要件が存在する場合に、司法審査を可能ならしめるか、を論ずる必要がある。

(一) 憲法上の立法義務の存在

 立法の不作為に違憲性が認められるための第一の要件は、先に引用した東京高裁判決の中にも明示されていたが、憲法上の立法義務の存在である。それは憲法の条文に明示されている場合に限らず、黙示であっても、解釈上明白に認められる場合であっても良い。例えば河川附近地制限令事件にいう国家による損失補償義務は、293項の条文上明白に読みとれるから前者の例と言える。これに対して、1票の価値の平等が要求されるかどうか、すなわち議員定数に関して憲法14条が適用されるか否かは条文上は明白とは言えず、解釈論から導かれているから、衆院議員定数違憲判決は、後者の例と言える。

 この点から生じてくる問題として、具体的権利性がある。例えば293項は、河川附近地制限令判決が出るまで、学説判例は一致して、同条は抽象的権利を定めたものであって、国会の立法を待たずして国民に具体的権利を認めたものではない、としてきた。

 本問のベースである堀木訴訟においては、これまで詳しく説明してきたとおり、25条の具体的権利性が最大の問題となる。具体的権利性が否定される場合には、通常訴訟で争うことはできない。

 先に論じたように、堀木訴訟では具体的権利性を肯定したと読むことが可能である。そして上述のとおり、違憲性が明白に認められば、違憲判決が可能である。しかし、本問の事実関係で、明白な平等原則違反があると認定可能だろうか。

 堀木訴訟の場合、原告弁護団の努力により、原告に関しては、併給しないと、25条の水準を下回ることはかなりの程度証明されたと言える。しかし、そのことから、障害基礎年金と児童扶養手当の併給調整を命じる制度が、一般的に違憲であることが明白に証明されたとは言えない。なぜなら、冒頭に述べたとおり、生活保護などと異なり、無拠出年金でも、児童扶養手当でも、ミーンズテストを行わない点に制度の特徴があるからである。その結果、必ず受給資格者が貧窮状態にある、とまでは言えないのである。したがって、一般論としていえば、確かに冒頭に紹介したとおり、不平等があることは確かであるが、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合とまでは言えない。

 本問の議論としては、この段階で終わる。なお念のため、以下にそれ以外の要件を説明する。

(二) 相当の猶予期間

 第二の要件は、国会が憲法に即した立法を行うための相当の猶予期間の存在である。最大衆議院議員定数違憲訴訟に関する最高裁大法廷昭和60717日判決(百選第5338頁)は、そのことを明言した。

 相当の猶予期間が必要なのは、立法は、機械的な作業ではなく、あるべき状態を作り出すために必要な一定の範囲内に存在する選択肢から、何が最善かを検討、審議するために一定の時間が必要であるためである。特に、例えば先に挙げた情報公開請求権のように、その問題について各方面の意見が分かれている場合には、それにかなりの長期間を要するのにも無理のないところがあるからである。これに対して、立法の不作為により侵害されている国民の利益が一義的に決定できる場合には、立法の猶予期間は必要ではない。例えば河川附近地制限令事件の場合には、損失補償内容は、その国の活動によって個人が被った財産的全損害であって、そこに立法裁量の余地はないから、猶予期間を論ずることはないのである。

 相当の猶予期間があった、というためには、それに先行して国会が、違憲状態の発生を認識していなければならない。上記衆議院議員定数の場合には、それに先行して51年の違憲判決などがあったので、国会が違憲状態の発生を認識することが容易であった。少なくともどのような要件に該当すれば違憲となるかは、明らかだったのである。

 これに対して、参議院議員定数不均衡の場合には、むしろ最高裁は衆議院において違憲と認定した状態をはるかに上回っていた場合にも合憲という判決を出し続けた。この結果、平成4年の選挙において、1票の価値に16.5の格差が生じていたことをもって最高裁は違憲状態の発生を初めて認定した時、国会にそのことを認識する契機が存在していなかったことを理由に、立法裁量権の限界を超えるという認定をすることができなかった(最大平成8911日=百選第5340頁参照)。それが最大どの程度の期間となりうるかについては、51年最高裁判決から、一般に最大5年間といわれている。

 本問の場合には、これについては確定できない。

(三) 救済法

 立法の不作為における最大の問題は、以上の論理の中で不作為に違憲性が認められたとして、その被害をどのように救済するか、という点にある。すなわち、単なる自由権の制約であれば、その法律を無効とすることで完全な自由状態に戻すことができるから、事件を最終的に解決することができる。これに対して、立法の不作為によって出現している場合には、法律そのものが存在していないのであるから、自由権侵害のような単純な方法による違憲状態の解消ができないのが普通である(逆から言うと、自由権に関して立法の不作為を考える余地はおそらくない。)。そこで、どうしたら、法律が存在しているのと同じ結果を導けるかが問題となる。

 河川附近地制限令事件の場合には、293項の直接適用という論理を通じて、実質的に法律を創造する事が可能であることを宣言する、という手法により、附近地令の違憲性を否定した。このように、憲法の直接実施という手法は、立法の不作為の違憲状態除去のためにはもっとも直截で有効な方法であるが、裁判所が、本来立法府が行う活動を行うことは疑う余地のない事実なので、これが可能であるためには、具体的権利性を確保するだけの理論や実務の集積が存在する場合に限られる。憲法訴訟の用語を使用するなら、立法裁量の幅がゼロに収束している結果、裁判所に国会の裁量権について、判断を自制する必要がない場合であることが必要になる、といっても良い。

 本問の場合には、しかし、救済法については問題が非常に少ない。なぜなら、43項を違憲・無効と宣言すれば、41項だけが残り、原告の救済は可能になるからである。しかし、これは立法形式から発生した偶然の結果で、一般的にはこれが最大の問題なのである。

 

補論 相対的平等について

 冒頭に説明したとおり、本問は14条の問題とは考えない方が解決が容易である。そのこととは別に、諸君の論文では、14条の平等を、相対的平等と何故考えるか、という点に関する理由が、かなり狂っていたので、その点だけを補説しておく。

 その答えは、簡単に言えば、14条が保障しているのが平等“権”ではなく、平等“原則”と考えるからである。もちろん、この通説・判例に対して、平等権と理解する節が対立しているからこそ、これが論点なのである。

 平等原則と考える根拠としては、14条が、何故単に「平等」といわないで、わざわざ「法の下の平等」というのか、という点を考えてみるのが、一番平明な解決になろう。すなわち、14条の「法の下の平等」にいう法とは、法律(act)の意味ではない。法の支配(rule of law)とか、法定手続保障(due process of law)と言うときの法(law)と同じく、法的正義を意味する。アリストテレスによると、憲法のような公法領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるものである。これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざる様に扱え」という法諺により有名である。すなわち、14条は端的に配分的正義を宣言したものである。