父とわたしと講談と
若林 千寿子 


      

 なんでもいいと言われたので、まずは、自己紹介でも…。

 私は、父と母、弟二人のごく平凡な5人家族。長女は父親に似るとはよく言ったもので、私の趣味や思考は、父とよく似ている。和菓子系の甘いもの(あんこや黒蜜

等)が大好きで、本が好きで、歴史や国語の文系が得意。特に、父の講談の一番の理解者は私だという自負がある。(弟達は無関心だし、母は、時に父の講談にうんざり

なのだ。)

 父は、知る人ぞ知る講釈師田辺一鶴師の素人弟子で、「講談親睦会」という素人の集まりの幹事も勤めている。手前味噌で失礼するが、私は身びいきを抜いても、父の

講談はかなり上手いと思っている。素人の講談大会なら、優勝できる実力の持ち主である。父の講談を聞くのは大好きだ。

 講談といっても、「一体、何?」と聞かれることが多い。落語や漫才ならよく知られているが、講談というものは、今の世の中、馴染みがないらしい。(かく言う私

も、父が始めたことによって、知ったぐらいなのだ。)そこで今回は、それを説明させてもらおうと思う。

 講談とは、釈台(しゃくだい)と張扇(はりおおぎ)を使って、軍記や軍談の類を語っていく、なにやら堅苦しい感じさえする、日本古来の話芸のひとつだ。落語のよ

うに、座布団に座ってはいるが、目の前に釈台という小さな台があって、話しの区切りや、佳境の盛り上がりには、その台を張扇でパンパンと叩きながらさらに話を盛り

上げていく。

 ルーツは、「古事記」「日本書紀」の時代にまで溯る。日本の記録を語り伝えた、語り部の元祖といわれるのが稗田阿礼で、彼の語ったものを書き記したものが、「古

事記」「日本書紀」となる。講談もまた、歴史伝承の手段のひとつであり、その元祖、つまり日本初の講釈師は稗田阿礼ということになるのである。

 元々は、がまの油売りのようにして、日本全国をまわり歴史的事実を語っていく、今でいう新聞やテレビのかわりを果たしていた。その一方で、「講談師 見てきたよ

うに うそをいい」などとも言われている。しかしこれは別に、講談師が嘘つきというのではなく、例えば、軍談における兵のそろえ、大将の様子、その言動から着てい

る鎧の色・形の様まで、事細かに語っていく臨場感溢れる物言いに、まるで、その場にいて体験してきたような口振りだと、誰かがやじったものだと思う。それこそ、大

将が本当にそう言ったのか、あとから講談師がつくったのか分からない、司馬遼太郎の「司馬史実」のようなものだったのだろう。

 その後、平安朝から鎌倉時代に至ると、「太平記」「源平盛衰記」などが好んで語られた。江戸時代には、元禄十三年に公儀お許しの講釈場(講談を語って聞かせる専

用の場所)ができる。翌、元禄十四年の『事件』は、銘々伝など作られ、その後長い間、講談の花形として語り継がれていくことになる。それこそが、平成十一年の

NHK大河ドラマにもなった「元禄繚乱」、つまり赤穂浪士の物語である。

 皆さんは、講談は知らなくても、講談社なら知っているだろう。この社名は、元々、講談の本を主に出版していたことから付けた名前なのだ。このようにして、有

名であった講談がなぜ廃れてしまったのか。

 元々の原因は、第二次大戦敗戦である。戦後日本を統治下においたGHQが、曾我兄弟や、赤穂浪士の仇討ちにみる、「仕返し」の思考を嫌い、それらの芝居の上映など

を全面的に禁止してしまう。講談もまた、軍記、軍談で、日本人の戦闘意識を鼓舞し、赤穂義士の物語を語り聞かせてあるくなどもってのほかと、禁止されてしまうの

だ。これによって講談の発展は突如として凍結し、その後長い間、姿を消してしまう。

 赤穂義士は、禁止が解かれた翌年には、芝居だ映画だともてはやされたが、講談の方は、落語に取って代わられ、大々的に表舞台を踏むこともなく、大衆から、次第に

忘れ去られていった。ただでさえ、落語が聞かれなくなったと言われているこのご時世。講談を知っている人が少ないのも頷ける話だ。

 これだけ語ってはみたものの、実際、私が芸を披露できないことに気付く。聞くこと専門のため、習わぬ経をよむ程度のことしかできないのだ。女性の声では、あまり

向かない気もするが、こんなにすばらしいものが廃れ、消えていく様をただ見ていくというのも忍びない。ここはひとつ時間を見つけて、話しのひとつも覚えてみるかな

と思う、今日このごろである。