プライバシーと芸術

甲斐素直

 作家Yは、有名人とは言えない友人Xの毅然とした生き方に感銘を受け、XYの交流を、Xについては実名を避けながら、私小説の形式で描き、Z出版社の発行する月刊の文芸誌に発表した。その小説は、質の高い文芸作品として高く評価された。

しかし、Xは、実名を使っていなくとも、自分を知る人が読めばその主人公がXであることが容易にわかること、小説は虚実ないまぜに自らの生活や遺伝的特質について言及しており、全体として真実らしく思わせるものになっているとして、プライバシーの侵害を主張して、Y及びZを相手どり損害賠償を求める訴えを提起した。さらにXは、Zがその小説を単行本として出版しようと計画していることを知り、その差止めを求める訴えも提起した。

これに対し、Yは、仮に自らの小説がXのプライバシーを侵害するとしても、その持つ高度の芸術性から、その出版を抑制することは、表現の自由の侵害として許されないと主張し、小説刊行の自由の確認を求めて反訴を提起した。

以上の事例について、憲法上どのような問題があるかについて論ぜよ

[はじめに]

 本問は『石に泳ぐ魚』事件(第1審=東京地裁平成11622日判決、第2審=東京高裁平成13215日判決、最高裁判所平成14924日)をベースに作問されたものである。判決そのものは、名誉毀損とプライバシーの両方を議論しているが、両方を論じることは、諸君にとり荷が重いと思われたので、名誉毀損という論点は外してある。しかし、一般的には両者が併存される形で論じられることが多いので、以下においては名誉権も含めて検討してみたい。

 本問の場合、プライバシーの限界として芸術が存在しうるか、という論点と、すでに月刊誌に掲載されている小説を単行本化するのを差し止める、という場合に、事前抑制禁止の法理で対抗しうるか、という論点があることは、問題文の上からきわめて明確だと思う。これは、論文にまとめる場合、それぞれかなりのボリュームがある。

 諸君は、プライバシーの権利というと、機械的に幸福追求権から書き始めてしまうが、このように、個別の論点が大きなボリュームがある場合に、まともに幸福追求権の議論を書いてしまうと、本当の論点の書き込みが不足し、落第答案に自動的になってしまう。こういうときには、13条の議論を書かないことで減点されるのを覚悟の上で、13条の議論は切り落として、プライバシー権が憲法上認められることは自明のこととして、その成立要件のレベルからスタートする、という答案構成を採用する他はない。

 諸君の参考のため、13条に関してもここでは詳しく説明しておく。しかし、強調するが、本番でこのような出題があった場合に、13条から詳しく書き始めてしまうのは自殺行為であることは記憶に止めておいて欲しい。要するに、メインの論点にどのくらいの記述が必要かを計算し、それに応じて総論部分の記述量をコントロールするという手法が必要なのである。

一 幸福追求権の性質

(一) 法的権利性について

 憲法13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、ということは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。

 わが憲法13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、その第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的制度の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。

 ただ、こうした由来に過度に依存するあまり、今日における幸福追求権を、そうした伝統の延長線上に理解して、後に述べるように自由権に限定するような解釈を行うのが妥当かどうかは疑問がある。先に述べたとおり、無名基本権の総括規定と考える場合には、本条は、個人主義に根ざすところのあらゆる人権の総則規定としての意義を有するものとするべきであろう。

(二) 具体的権利性について

 本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとして、では、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、抽象的権利にとどまるとは、裁判で権利主張を憲法自身に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。

 これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』第3版、229頁)」という批判がある。しかし、これは論理が逆転している、というべきであろう。すなわち、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった人権について、13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から、本条の具体的権利性は考えるべきなのである。

 その場合

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。

 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容を以下に限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学U』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、次項に述べる「人格的利益」が考えられる。

(三) 人格的利益説について

 佐藤幸司及び芦部信喜に代表されるわが国通説は、幸福追求権とは人格的な利益であるとしてきた。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それからは征する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。

 この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。

 第一点については、前節に述べた可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記348頁より)、と説明できる。

 なお、佐藤幸治は一般的行為自由説に対する批判として、新しい視角を導入している。すなわち、かっては人はすべての行為を行う自由をもち、それは公共の福祉によってのみ制約されるものと理解するのが普通であった。しかし、近時は、例えば強盗する権利とか、殺人を犯す権利というものは、他の人の人権と衝突するから、その限度で、ということではなく、そもそも本質的に権利性をもたないと考えるべきではないか、との見方が有力になってきている。その場合、一般的行為自由の外延を憲法上画そうとすれば、「結局『公共の福祉に反しない限り』とか『他者を害しない限り』での一般的行為ということにならざるを得ないのではないか、そうした『権利』の捉え方はそもそも『基本的人権』という観念と両立するであろうか」(佐藤第三版447頁)と批判するのである。

 第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良い。

二 プライバシー権と名誉権

 私人の表現の自由と、私人のプライバシーという対立の中で問題とされるプライバシーは、今日においても依然として「一人でいさせて貰いたい権利 right to be let alone」(ウォーレン・ブランダイスによる1890年の論文)ないし「私生活をみだりに公開されない権利」(宴のあと事件判決)という私法上の権利である。国家と国民の間で論じられる公法上のプライバシー、すなわち自己情報コントロール権と混同してはいけない。

 この私法上のプライバシーを憲法問題として把握するのは、次の二つの理由からである。第一に、人権を制約できるのは人権だから、表現の自由を制約しているプライバシーは、人権と理解しなければならない。第二に、この私人間の紛争に、国家機関たる裁判所が事前抑制という形で介入するとき、国家による事前抑制禁止の法理の適用、という憲法問題が起こる。

(一) プライバシー権及び名誉権の成立要件

 私人が私人のプライバシーを侵害する場合の、最も重要なリーディングケースは、いうまでもなく『宴のあと』事件東京地裁判決(昭和39928日=百選〈第5版〉136頁)である。この判決では、プライバシー侵害が成立するための要件として次の三つを挙げた。

1) 私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがあり、

2) 一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められ、

3) 一般の人には未だ知られていない事柄である。

 この三要件は重要なので、私法上のプライバシーを論ずる場合、必ず言及してほしい。実際、一連の私法上のプライバシー事件は全てこの三要件で説明することができる。例えば、映画『エロス+虐殺』事件(東京高裁昭和45413日=百選〈第4版〉140頁)で、事前抑制が拒絶された理由はBの要件、すなわち一般人にひろく知られている、ということが決め手になったし、ノンフィクション『逆転』事件(最高裁平成628日=百選〈第5版〉138頁)ではA及びBが決め手となって、プライバシー侵害が肯定され、出版が差し止められているのである。本問で問題となっている私小説『石に泳ぐ魚』事件でも、この三要件が問題となっていることは判ると思う。

 問題は何故これが妥当な基準か、という点である。これら3要件は、理論的必然性から導かれたのではなく、判例の開発した基準であるので、その根拠として、宴のあと判決の開発したものであること、その後の判例において妥当性が確認されているものであること、などを上げることになる。

 名誉権の成立要件としては、刑法230条の要件に従い、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損したという点に求めていけばよく、それは、名誉感情の侵害という点に求められる。

(二) プライバシー権の限界

 人格的利益説に依って立つ場合、人権の基礎は道徳に求められるから、社会道徳に背馳する自由を考えることはできない。例えば、人を殺す自由、人の物を盗る自由は、それが非侵害者の人権を侵す限度で否定されるのではなく、そもそもその様な人権を考えることはできない。これは今日における通説的理解である。一般的行為自由説に立つ場合、このことをどのように説明するか(おそらくパターナリズムによると思われるが、はっきりしない)はともかく、結論的にはやはり同旨と見てよい。このことを、表現の自由に投影する場合には、そもそも人の名誉を傷つけたり、プライバシーを侵害するような表現の自由は、存在しないということができる。その意味で、私人間では、プライバシー権は、表現の自由に優越する権利である。

 同じことは、別の方向から説明することもできる。即ち、およそ自由権とは、国家からの自由であって、私人からの自由を意味するものではない。したがって、同等の地位に立つ私人間において、表現の自由に、国家に対する関係でのような優越的地位を考える余地はない。したがって、他者の名誉やプライバシーを侵害する表現の自由を評価するに当たって、より厳格度を増した審査基準を使用する余地はない。

 しかし、名誉侵害やプライバシーが成立する場合にも、人によっては、それを侵害するような表現行為を忍受しなければならない。第一に、公的地位を有する者であれば、その公的地位の程度に応じて、名誉やプライバシーの侵害が認められても、それに対する侵害を忍受すべき場合が生ずる。

 例えば、名誉毀損罪に関する事件であるが、最高裁は、次のように述べた。

「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合があると解すべきである。」

雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和56416日=百選〈第5版〉144頁)

 すなわち、名誉毀損でさえも許容されるのであるから、それよりも権利侵害の程度が低い、と一般的に考えることのできるプライバシーに属する場合に、その主体の公的地位によっては、その公的活動に対する批判ないし評価の一資料として表現行為が許容される場合が考えられることになる。この場合、それは単なる私人間の問題ではなくなっているために、先の論理が適用にならないのである。しかし、表現それ自体の価値を重視しているというよりも、むしろそれが奉仕する対象である国民の知る権利が対立する利益として登場してきている、と考えるべきであろう。

 第二に、ノンフィクション『逆転』事件において、最高裁は、先に言及した公的地位にあるものに対する社会的評価の一資料として公表されたとき以外に、「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合」についても、関係者はプライバシーの侵害を忍受すべきであるという見解を示している。

 本問で問題となるのが、この上記2基準の外に、第3の基準として、芸術作品である場合に、その芸術性の故にプライバシー侵害が許容される場合があり得るか、ということである。

 この点について、『宴のあと』事件判決は次のように述べて、これを否定する。

「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおりプライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけであり、また小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。」

 これに対して、映画『エロス+虐殺』判決は、次のように述べて、利益衡量の必要性を認めているように見える。

「人格的利益の侵害が、小説、演劇、映画等によつてなされたとされる場合には、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、いかなる場合に右請求権を認むべきかについて慎重な考慮を要するところである。そうして、一般的には、右請求権の存否は、具体的事案について、被害者が排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて蒙る不利益の態様、程度と、侵害者が右の措置によつてその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。」

 しかし、実際の事実認定の中では、この比較衡量はあまり大きなウェイトを占めておらず、決め手となっているのは前にも述べたとおり、世上公知の事実という点であった。

 さらに踏み込んで、小説表現に有利な比較衡量を行い、被告である作家及び出版社に対して全面勝訴の判決を下したのが『名もなき道を』事件である(東京地裁平成7519日判決=判例タイムズ883103頁)。

「実在の人物を素材としており、登場人物が誰を素材として描かれたかが一応特定できるような小説ではあるが、実在人物の行動や性格が作者の内面における芸術的創造過程においてデフォルムされ」ているか、「実在人物の行動や性格が小説の主題に沿って取捨選択ないしは変容されて、事実とは意味や価値を異にするものとして作品中に表現され、あるいは実在しない想像上の人物が設定されてその人物との絡みの中で主題が展開されているため、一般読者をして小説全体が作者の芸術的創造力の生み出した創作であって虚構であると受け取らせるに至って」いる場合には、プライバシー侵害や名誉毀損は成立しない。

 すなわち、『宴のあと』事件では、前に述べたとおり、表現内容の芸術性はプライバシーの成立を否定するものではないのに対して、この判決では、芸術作品としての成功度が十分に高いが故に、作品が虚構であると読者に受け取らせるレベルに達していれば、プライバシーの成立が否定されると説くのである。

 これに対しては、学説的には賛同する見解もある(奥平康弘『ジャーナリズムと法』新世社1997年刊229頁)が、否定説に立つ説も強い。棟居快行は次のように説く。

「このような判断基準に立てば、芸術的成功度の主張立証が当事者によってなされ、裁判所がそれについて一定の判断を下すことにならざるをえない。このような判断が裁判になじむとはとうてい考えられない。」原告の「周辺の人々は、例え作品が高度に芸術的に昇華され、実話が作品中の芸術的必然性のあるエピソードだと一般人にはとられるに至っているとしても、素直にそのように鑑賞せず、むしろ事実若しくは事実らしい作品中の情報だけを、自分のモデル本人に対する補強材料として摂取しがちである。あるいはさらに、作品が虚実織り交ぜて芸術的に成功していればそれだけ、作者が加えた創作の部分(例えばモデルに対応する作中人物の内面の描写)までもが実在のモデルの内面であるかのように受け取られてしまうのである。このように『名もなき道を』判決が前提とした、事実が芸術によって虚構となる、という命題は誤りであって、逆に、虚構までもが優れた芸術作品の中では、事実らしさを帯びるに至る、と考えるべきである。」

(「出版・表現の自由とプライバシー」ジュリスト116617頁)

 すなわち、裁判上、法律上の争訟の一環として宗教の教義や成績の評価が問題になっても、それが裁判になじむ問題ではないが故に、裁判所が判断を行わないのと同様に、作品の芸術性が問題となっても、裁判官選任の基準は決して芸術性に対する感受性の高さではないのだから、判断を控えるのが妥当であろう。

 私は、この棟居快行見解に賛成であるが、本事件では、『名もなき道を』基準をそのまま適用しても、やはり判決は逆転せざるをえないと考えている。なぜなら、被告側は、これが私小説、すなわち、事実をそのまま赤裸々に描く手法の作品であると主張しているのであるから、私小説としての芸術的成功度が高まれば高まるほど、一般読者はその内容を純然たる虚構と受け止めることはあり得ないからである。

 本問で問題となっている『石に泳ぐ魚』事件では、判決は基本的には『名もなき道を』判決に近い判断を行っている。それにも関わらず、判決が逆転して原告勝訴となった理由は、『名もなき道を』判決が、基準を一般読者に求めたのに対して、本判決では一審も二審も、原告の周囲にいる人に求めたためである。

「不特定多数の者が講読する雑誌に掲載された小説上の特定の表現が、ある人にとって侮辱的なものか、又は、その者の名誉を毀損するか否かについては、『一般の読者の普通の注意と読み方』を基準とすべきであるとしても、その前提条件ともいうべき『表現の公然性』、すなわち、特定の表現がどの範囲の者に対して公表されることを要するかは、事柄の性質を異にする問題である。後者の問題は、特定の表現が『不特定多数の者』が知り得る状態に置かれることを要し、かつ、これをもって足りると解すべきであり、この要件は、本件においては、本件小説が不特定多数の者が講読する雑誌「新潮」に掲載されたこと自体によって、既に充足されているものというべきである。そして、原告と面識があり、又は、前に摘示した原告の属性の幾つかを知る読者が不特定多数存在することは推認するに難くないところ、これらの読者にとっては、『朴里花』と原告とを容易に同定し得ることは前判示のとおりである。被告新潮社及び被告坂本の右主張は、表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するものであって、採用することができない。〈中略〉原告と面識があり又は前摘示に係る原告の属性の幾つかを知る者が本件小説を読んだ場合に、これらの読者が『朴里花』が原告をモデルとする人物であると認識するかどうかは、本件小説の小説としての価値評価とは必ずしも関連性がないというべきであるから、仮に、本件小説が被告ら主張のような純文学小説ないしは文芸作品に当たるとしても、そのことによって直ちに、『朴里花』と原告とが同定されないということはできない。」

 なお、本事件の大きな特徴としては、修正版の存在がある。これは、上記した同定可能性が失われる程度に大きく事実関係を換え、あるいは顔面における障害を伏せて書かれているためである。上記のように、同定可能性を重視した場合には、この結論は必然といえるであろう。

三 表現の自由の事前抑制と事後抑制の異同

 ここで注意するべきは、ここまでの議論では、私法上のプライバシーは、人権の制約原理という点を除くと憲法問題ではなく、あくまでも私法上の紛争というレベルに止まっている、ということである。

 私法上のプライバシーの問題で、私人間効力を書く必要がないのは、そもそもこれが私人間に考えられる権利であって、国家と国民の感に考えられる権利ではないからである。

 私法上のプライバシーに関して、具体的に憲法問題が発生するためには、公法上のプライバシーと同じく、これを国家が侵害する活動に出る必要がある。人権は国家と国民の関係において考えられるものだからである。私法上のプライバシーに対する国家権力による個別具体的な侵害の主体としては行政権と司法権が考えられる。すなわち、本問の場合、憲法上の論点はもっぱら単行本化の差し止めを裁判所という国家機関に求めている、という点に現れる。

 なお、石に泳ぐ魚事件の場合、差し止めの根拠自体が当事者間の合意に求められている。したがって、その意味では、憲法問題たり得ない。本問では、その様な合意が存在しなかった場合における差し止め請求という形に作問した。

(一) 単行本出版差し止めと事前抑制の関係

 本問の場合、Bの求めている単行本化の差し止めが、事前抑制に属するか、事後抑制に属するかにより、論文の構成が大きく異なることになる。

 小説そのものはすでに文芸誌に発表されており、Bは、それを単行本化することを差し止めているに過ぎない。この点で、情報は言論の自由市場に到達しているから、したがって、これは事後抑制ではないか、と思われるのである。実際、判例は、このような場合は事前抑制には該当しないと考えているものと思われる。例えば、税関検査事件最高裁判所判決(大法廷昭和50910 百選〈第5版〉152頁)は、次のように述べている。

「税関検査が表現の事前規制たる側面を有することを否定することはできない。

 しかし、これにより輸入が禁止される表現物は、一般に、国外においては既に発表済みのものであつて、その輸入を禁止したからといつて、それは、当該表現物につき、事前に発表そのものを一切禁止するというものではない。また、当該表現物は、輸入が禁止されるだけであつて、税関により没収、廃棄されるわけではないから、発表の機会が全面的に奪われてしまうというわけのものでもない。その意味において、税関検査は、事前規制そのものということはできない。」

 国外において発表されていれば、すでに事後抑制という考え方をとるのであれば、国内文芸誌に掲載されている場合には、当然に事後抑制という考えが導かれるであろう。

 しかし、私自身は、これは事前抑制に属する、と考えている。なぜなら、表現の自由とは、「自ら選択する・・方法により」(国際人権B規約192項)伝える自由であり、単行本化する事もまた、一つの独立した表現方法である。そして、情報は、その伝達に使用する方法により、言論の自由市場に与える影響に差があるものなのであるから、単に、別個の伝達方法により、すでに一度言論の自由市場に到達している、という事実は、新たな媒体を利用した表現を抑制するにあたっての事前性を否定するものではない、と考えるからである。

 実際問題として、事後抑制と考えた場合には、論文上はあまり論点がないので、以下においては、事前抑制の場合に限定して論じる。

(二) 事前抑制禁止の根拠

 表現の自由は、精神権的自由権の代表として、それを国家が抑制する場合、いわゆる2重の基準に基づき、その合憲性の審査については厳格な審査基準が適用されるなど、経済的自由権に比べて、非常に制限的に取り扱うべきである(なぜなのかについては、ここでは省略するが、諸君の論文では簡略にではあるが、述べる必要がある。)。しかも、それが事後的に行われるか事前に行われるかにより、制限の度合いが違う。すなわち、事前抑制(prior restraint, or previous restraint)の場合には原則的に禁止され、例外的に認められる場合にも非常に厳しい制約の下でかろうじて認められるに止まるとする理論が、米国の憲法訴訟に関する判例法の上で発達している。

 同じように、表現の自由の不当な行使が行われた場合であるにも拘わらず、なぜ事後抑制に比べて、事前抑制を国が実施する場合については、より厳しい制約が課せられるのであろうか。これが事前抑制禁止の法理における第一の論点である。

 北方ジャーナル事件(最大昭和61611日、百選〈第5版〉150頁)において、最高裁はこの点を次のように説明する。

「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。」

 まことに簡にして要を得た説明であるから、諸君はこれを覚えて、自分の論文中にこのダイジェスト版を必ず書くようにしよう。

(三) 検閲と事前抑制禁止の異同

 わが憲法は、欧州の憲法の流れ受けて、検閲の禁止を当然に認めている。この結果、事前抑制と検閲の異同が第二の論点となる(ただし、本問では本質的な論点ではないので、原則として落として良い。書く場合にも、できるだけ簡潔にまとめること。)。

 これについては単純に、事前抑制と検閲を同義と考えることもできる。しかし、歴史的背景の全く異なる言葉を同義と考えるのは、基本的に無理があるといわなければならない。その結果、わが国では、広義の事前抑制を、検閲と狭義の事前抑制に分けて考えるのが一般である。その場合、同じく厳しい事前抑制の下にあって、さらに検閲という概念を立てるのであるから、これに対しては絶対的な禁止と解し、それを除く事前抑制については原則的な禁止にとどまるのであって、場合によっては抑制も可能と解することになる。税関検査事件において、最高裁は次のように説明する。

「諸外国においても、表現を事前に規制する検閲の制度により思想表現の自由が著しく制限されたという歴史的経験があり、また、わが国においても、旧憲法下における出版法(明治26年法律第15号)、新聞紙法(明治42年法律第41号)により、文書、図画ないし新聞、雑誌等を出版直前ないし発行時に提出させた上、その発売、頒布を禁止する権限が内務大臣に与えられ、その運用を通じて実質的な検閲が行われたほか、映画法(昭和14年法律第66号)により映画フイルムにつき内務大臣による典型的な検閲が行われる等、思想の自由な発表、交流が妨げられるに至つた経験を有するのであつて、憲法212項前段の規定は、これらの経験に基づいて、検閲の絶対的禁止を宣言した趣旨と解されるのである。」

 そして、こうした沿革から、検閲を次のように定義した。

「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき、網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すものと解すべきである。」

 この最高裁の採用する検閲の定義は、かなり狭いもので、その妥当性については学説からの批判の強いところである。しかし、いずれにせよ、司法権による抑制に検閲概念の適用がある、という説は存在しないから、ここでその点についてくどくど議論するのは完全に間違いである。

(四) 事前抑制禁止の法理の要件

 この二分説の下においては、検閲の概念は、程度の差こそあれ、狭く設定されることになる。が、検閲に該当しないとされても、それにより国家による抑制が完全に自由になるわけではない。検閲の外側には事前抑制の厳しい制約が存在しているからである。

 アメリカにおいて、事前抑制は一般に「あるコミュニケーションが生ずる時点に先立って発せられる、そうしたコミュニケーションを禁止する司法的・行政的命令」と定義されている。コミュニケーションとは情報の伝達行為の意味であるから、情報がその発信者の意図する受領者に到達する以前にそれを妨げる行為はすべて事前抑制に該当する。

 事前抑制を具体的な訴訟の場において実体的に肯定する判断をするための基準としては、@必要最小限度の法則 A規制規定の明確性 B手続き的保障の三つが特に重要と言われている。

 1 必要最小限度の規制

 必要最小限度規制として事前抑制方法が採られていることを合理的に証明する手段として、規制手段相互の比較に代えて、定型的な要件を設定しようとするのが一般的である。

 アメリカにおける判例の発展を踏まえて、例外的に表現の事前抑制を司法権が認めうる条件として、@事前抑制をしなければ害悪が生ずることが異例なほど明白(unusual clarity)である場合、あるいは、A事前抑制によって阻止しようとする損害が回復不可能(irreparable)なものである場合、といわれている。

 2 規制規定の明確性

 行政権が表現の自由を事前抑制する場合にあっては「立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要」といわれている。例えば税関検査事件における最高裁多数意見に対する伊藤正己ほかの反対意見は次のように述べる。

「表現の自由を規制する法律の規定は、それ自体明確な基準を示すものでなければならない。殊に、表現の自由の規制が事前のものである場合には、その規定は、立法上可能な限り明確な基準を示すものであることが必要である。それ故、表現の自由を規制する法律の規定が、国民に対し何が規制の対象となるのかについて適正な告知をする機能を果たし得ず、また、規制機関の恣意的な適用を許す余地がある程に不明確な場合には、その規定は、憲法211項に違反し、無効であると判断されなければならない。」

 しかし、これは、参考までに紹介したのであって、本問は、立法的規制の問題ではないから、これは論点ではない。

 3 手続き的保障

 事前抑制が有する基本的な危険の一つは、適正な手続き的保障を欠いたまま、恣意的な行政裁量の下に表現の自由の保護範囲が決定されるという点にある。そこで、そうした恣意的な取り扱いがなされないような保障が存在していることが必要である。最高裁は、北方ジャーナル事件において、次のように述べている。

表現行為に対し、「その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのであるから、事実差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。」

 この手続き的保障の要求については、必ず論及すべきである。もっとも、実際には、北方ジャーナル事件では裁判所は、このような方法を採っていない。この点について、最高裁は次のように述べて救済している。

「差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解されるから、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。」

 この点については本問では論及する必要はないが、具体的設問によっては、これが問題になることもあり得るから、議論としては覚えておいてほしい。

北方ジャーナル事件で問題になったのは名誉毀損であるが、前にも述べたとおり、名誉権とプライバシーは非常に似通った権利であるから、そこで問題になっていることが、プライバシーにもほぼそのまま妥当すると考えてよい。

 北方ジャーナル事件では、対象となった人物が、選挙に出馬しようとしている者であったから、そのプライバシー侵害は、前にも述べたとおり、一定の要件で許容される可能性がある。その場合に、その表現行為をプライバシー侵害で事前に抑制しようとするときは、前に紹介した事前抑制禁止の法理にしたがい、厳しい判断基準の下に許容される可能性があることになる。

 ただ、本問の場合、プライバシー権の侵害が認められるから、その段階ですでに事前抑制が認められる要件が確定しており、したがって差し止めは許される、という理屈になる。